2006-07-12 19:49:44

しなくていいことをする。 品の大事さ。

テーマ:公案

しなくていい苦労はしなくていい、といわれる。


苦労は苦労である。


しなければいけない苦労はもちろん、

しなければいけないが、


苦労は望んでもしろ、といわれるもの。


しなくていい苦労のほうが、尊いのではないか、と思い続けてきた。


****************************


ここ数年、絶えず心に留めているのは、


「品って大事」


ということ。


下品・上品、その区別のよしあしは置いておいて、


「品がある」「品がない」、このことの存在に留意しながら、


できるだけ、

「品」なのか、さわやかさなのか、優雅さなのか、

貴重さなのか、学びなのか、


まあ、そんな、まわりの時間や生活に対して、

良い刺激と心地よさを提供するのは大事と思うのだ。


*************************


この2つは、実はとても密接に結びついていると思う。


品とは、意識して身につくものではない。


経験と、それを解釈するこころ、それを体験したからだ、

それらが混ざり合って、

「ここはこうだ」「こうしよう」「こう思われる」

そんな意識も含みながら、切り開かれた、身のこなしと、しつらいだからだ。


建物に、品のありなしがあるように、

やはり、なにものか語ること、学んだからだ、を持たなければ、

ないものを形にはできない。


「品」がどこかにあるものであれば、見せてほしいもんだー。


********************************


さて、つまり、修養があっての「品」ということになる。


修養とはなんだ?


それは、普通しなくていいもの、だと思う。


水に打たれる、長いこと座ったままでしかも何も考えない、

あるいは、誰も行かない高いところに登る、

あるいは、体を自分の思いから切り離して動かす、

あるいは、悪といわれることを受け止める、

あるいは、自分の生活を省みず他人に尽くす。


「しなくていい」の線引きは、

「”日常的”・常識的な、普通の生活を送ることに寄与しないもの」

とふつうは定義されるだろう。


それはもっぱら安定自己保存にしか、効果はないものである。


今と同じを保つためのものだから。


つまり、学ぶ、という、

発展あるいは減退、いずれか変化を生み出す準備、とは相容れない。


しなくていいことはしなくていい!、

というのは、

数学が人生に何の意味がある?、

というのと同じことなのだ。


**********************************


しなくていい苦労こそ、その人となりをつくるのだと思う。


どんな、しなくていい苦労を選ぶのか。

どんな、しなくていい苦労を味あわざるを得なくなったのか。


そして、そこから学んだり、気をつけようと思ったり、

あるいは、ぶっちゃけこう思うんだよ、と思うようになったり、

そんな、自分の中の変化に気を配りながら、

そこから、あたらしい自分を再生産しようとする態度こそが、


品の源泉ではなかろうか。



人は、自分の意志とはまったく関係なく、

関係する人々の意識の中で構成されていく。


大事なのは、そんな自分のありようをあきらめず、

得た経験や学びや反省を取り入れて、

新しい自分を常に生産しつづけよう、とすることであり、


自分を再生産する、という経験そのものは、

おそらく、しなくていい苦労をする、ことを通じて、

とても明瞭に感じられ、深く捉えられるようになる、


そう思うのであります。





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2006-06-09 18:57:23

判断停止 本質直観

テーマ:公案

自己中心主観からの脱却を考えつつ、特に何を書こうとも決めずに、

このURLを打ち込んでいて、驚いた。


epoche


エポヘーである。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


現象学用語であるが、「判断停止」という思考態度のことで、

先入見のような、ものを見て考えるうえで素直さ率直さを損なわせる、

すべての滓や垢や偏向から自分自身の思考を解放する、

というようなものです。


何か目の前に出されて、

「あー、知ってるよー」とか

「こんなの見たことあるなぁ」とか

「なんか○○っぽいよね」とか

「うーん、あんまりわかんないなぁ」とか、


そういう、その出されたもの自体を見ない、

ほかとの関係とか自分の気分とかを、

ものを見るにあたってのノイズとして捨象するのです。


まるで立体視のように、強い意志が必要ですが、

大学時代は、フッサールの著作に導かれて、

このような絶対ゼロ地点からものを見る態度をがんばって身につけようとしていたのでした。


考えようによっては、もっと純粋に自己中心的な態度になる、とも考えられますが、

しかし、世界と素直に向き合うということですから、

もはや、自己中でもなんでもないようにも思います。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


さて、私は目下、エポヘー中です。


その次にくるのは、本質直観。


「ドーーーーーん」な、喪黒な感じのことではなく、

じっくりつぶさに純粋に、ものや事態を記述していくこと、

それを通して世界を再構成すること、その作業すべてのことです。


どんな読み解きをしていくのだろう。


絶対的ゼロ地点に戻るから、何も約束されないのが怖いですが、

それもそれ、あらたな旅路に純な気持ちに、


エポヘー


して向かいましょう。


ううう、それにしても、響きが間抜けだ。


最後にも一度、


エポヘー。

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2006-03-05 00:23:56

寒い男だらけの夜 月も見えず 耽読しつつ 酒は減る

テーマ:公案
知らない間に、人生の岐路に立っていると感じた。

あと一年しない間に、本当は、自分の環境は様変わりする。
実は、私は、来年1月より、渡欧しみずからの足下を改めて固めようと思っているのだ。

悩みは、果たして今の環境をどれだけ持ち込みうるかである。
変化のための渡欧であり、そのために、自身にも変化が必要だから。

はたして、いったいこの一年無いあいだに、どれほど手のひらから零れ落ちていってしまうのでしょう?

すべては、未来のみぞ知る。嘆いても、予測しても、何の役にも立たない。
変化の準備のためには、今の自分を、未来のために、おもうまま変えていくしかないのだ。

そうこうして、身近なところではオリンピックが終わった。

***********************************************************************

オリンピックについて多くを語らないが、今回のそれで私が深く感じたのは、

オリンピックは人類の資産であり、
栄光はひとえに、人類の努力と挑戦の果てにある、
たったのひと時を、いかに美しく過ごすか、それにかかっている、
ということである。

貨幣価値には変換しえない、ただ感性にのみ訴えかける、
一瞬の輝きに、評価が与えられていた。

それは、ほんとうに、切なくも正しい、人類の人類に対するエールであると感じた。

だから、今後一切、特にスポーツについて、我々は私利私欲、国威高揚の意識を破棄すべきである。

美は、理性や悟性と同列であり、かつ、それらに刺激や緊張を与える存在であるべきだ。

きわめて近代的感性であるが、しかし、五輪の思想も近代の所産であり、
現代に生きる我々は、近代の所産を畑として、自らを養い明日へ新しく日々生まれていくべきである。

そこには、商業も、産業も、見栄も、入り込む隙間はない。

自身そして彼をサポートするすべての者達への祈りが、
そこにひとひらの時とともに変化する花として結実する。

そこに、スポーツという、二度と繰り返すことのできない関数のひらめきがあるのであり、
そこにこそ、我々はすべての意志・感動を懸けるべきである。

それが、一体どこの国の人、どこの誰、であろうと、関係あるであろうか。

*************************************************************************

そして、我々は、意志や努力や、祈りの果てとしての美を知るのである。

果たして、私は来る自分に対して、どれほどの意志や努力や、そしてその祈りの所作の果てを
生み出すだけの運動を致しているのだろうか。

**************************************************************************

ところで、最近、身近な友垣と、大正~昭和初期について関心を深めている。

明治は、幕末という万人の関心を集める融合炉の第一生産品であるから、
意外にあらましを理解している。

しかし、今に生き、昭和の後期に育った我々は、特に、大正後期~オイルショックまでの時期を、
「忌まわしい時期」「泥濘のうちに現代を模索した時期」として、
曖昧な者としてとらえているにすぎない。

どうして、これほどに、私たちの多様な多種な祖先が、それこそ、それぞれの前進のために、
身命を費やした時期の知見が薄いのだろうか。

この時期を適切に評価しないうちに、私たちの生も、私たちの礎も、無い気がしているのだ。

教育的歴史への反省を確認することのみでは足らない、
この時期の原罪も汚泥も輝きもすべて、受け止める態度と度量が、私たちには求められているはずだ。

それは、時間の流れを受け継ぐ者としての、当然の意識である。
そう、思うようになった。

日々、各国のフロントランナーと交わるうちに。

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のぞむべき、私の未来は、かようなそれぞれのバックグラウンドと真摯に突き合う各国の今後を担う
人々とのふれあいである。

さあれば、いかでか、私がそれをせざるや。

そこには気概や誇りが重要とはされていない。
むしろ、そこで何らか育まれ、打ち捨てられた、意識/歴史の樹をどう受け継ぐか、の意志である。

意志こそ、明日を拝み向き合うのに必要な態度だ。

そう、身近な祖先の生き様から学びつつある。

昔の私が、見えないようにし、さけてきた、過去の人々の意志に向き合うこと。

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最近、志ん朝の死後、志ん生の口伝本やらの、熟成された口語のテクストや、
宮本常一をはじめとする、生の史学者の所産をあらためて学び思った。

あいまいであるが、しかし、一本気な今日の偈はかくのとおり。

目をそらすことは簡単だ。しかし、それは、その目をそらした時間に対して、浪費と言える。
目をそらさず、果たして、何を感じるのか。
涙や感情の推移といった、陳腐な結果を超えて、今の自分に活かす、
そういう、たいそう叙情的な態度とまなざしから、
接ぎ木し遺し発展させる、われらが歴史が生まれる。

体を歴史に対し賭することから、時間は豊かに育ちだす。

そう言いたいし、今は是非そうであって欲しいものだと思う。

はたして、私は、どれだけ、このたいそう豊かな文脈を活かし、
人生を太くすすめるのであろうか。

楽しみである。
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2006-02-03 03:31:04

公表と責任

テーマ:公案
最近、新聞をとろうかな、と思い直した。

かなりの情報はY!Newsから昼夜問わず取れるし、
むしろ、知りたい情報もネット経由で恐ろしく大量のアーカイブを参照できるし、
と、5年以上思っていたが、ここにきて最近新聞っていいよなと思う。

一つは、テレビもネットも、
スピード勝負の無吟味/無責任/享楽性高い情報の乱発が、
ことこの文化爛熟期である日本において、たいそう顕著となり、
ゆっくりと、印刷物を総覧するという、
「固形化した情報との交わい」への渇望が照かになってきているということだろう。

そして、一昨日のコメントでも書いたが、「覚悟」というまなざし/姿勢への重視感が、
私の中で高まったからだと思う。
すくなくとも、書いた物がリアルに印刷される者と、単に垂れ流しなにも残らない者との、
覚悟や含蓄の差はあると思う。

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Blogを書いていて何ではあるが、公表には責任がつきまとう。

学校時代を思い出そう。
手を挙げ、意見を言うことは、特に中高時代、さらには、大学時代は、しんどかった。

それに比して、小学時代は容易かった。
思ったことを言えばよかったから。

思う>手を挙げる>指名される>云う>反応がある>終わる

このモデルは、実は現今、あるいは伝来の、テレビのモデルである。
番組が作られ/番組の中で取り上げられ、発声され、終わり。

たとえば、「思いっきりテレビ」を取り上げよう。

毎日毎日、健康健康と云い、さらに多様な「健康にいいもの」をかれこれ幾歳月語り続けている。
しかし、その都度登場する、教授や研究者や体験者、相互は決して相容れないことが多かろう。
それでもなお、「健康」という「切り口」で、新しい「切り口」から出る液を、分析/拡大して伝え続けている。

要は、自らの一貫性ではなく、その都度の「確からしさ風」が重要であり、
なにしろ「健康」は「お金」「将来」にいや増して、生において重要ファクターと思われやすく、
結果、最大多数を充足できる情報として、日々、矛盾や個別間議論は捨象し語られ続ける。

だが、ものごとの「最大多数」とは「最小希釈」の言い換えであると断定してもよろしいと思う。

つまり、みなが納得/安心/受容できるものは、往々にして、みなが「まあこれくらい」と、
主体的関心を持たず、周りを見渡しながら思うものであり、
そもそも”主体的関心なく””まわりを見渡す”ものだからこそ、うすーい、やわーい、ことに
すぐに陥る。

それが日常的に反復されれば、それだけ、希釈さの蓋然性は高まってしまう。

そう、テレビは、印象を残し、その記憶を物体として残さない故に、
即時性や目新しさを優位性として持つが、
同時に、反復や、瞬間最大多数化や、流動的であることから、責任性はたいそう薄い。

新聞は、印象を残し、実態を同時に残し、一日単位の区切りと、印刷面の豊富さを優位性として持ち、
その結果、残り、瞬間印象+継続記憶への配慮や、一貫性から、自責の念は強かろう。

まあ、実際、なんらか責任を回避する言い訳も自らで紙面を割いてできるメディアでもあり、
それを背景として、偏向主張も可能ではあるのだが、
主張に対しては、読者の態度で取捨ができるので、
あとは数有る新聞の中から、
信頼できる/主張に耳を傾けたい/その主張の取り入れ・確認が重要、と思われるものを選べばよい。

確かに新聞配達員の勧誘/集金/俺の顧客意識は副次的な面倒臭さではあるが、
それも、新聞を読み・選ぶ上での、読み手の選択意識の鏡として消化できなくないから、
よほど、望もうが望むまいが、情報をひたすら垂れ流すテレビとは、
選び手として自身が問われるので、よりよい時の過ごし方のようにも思われる。

新聞を読むということは、それが、主張拝聴と自己選択の意識と責任の上に成り立つ以上、
本当は、日々、他者の主張を体験し、それを鵜呑みにしない、
人の意志/意見への造詣を深めることになると思い至った。

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残念なのは、テレビはみずから時流という主張の総体の体現者と自負していることであり、
それを、我々はよいことにしているということである。

まったく、衆愚制そのもの、デマゴギー社会の有り様そのものである。

しかし、文化も時流も時代も時間も、実際は語られるよりも実質はもっと豊かで、
だからこそ、テレビをはじめとした、自己保存メディアの狡知を放って置いている。

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さあ、もうメディアのことはおいておこう。

ブログもしかりであるが、何事か、自分の意見を披瀝することは、まったくもって恥ずかしいことである。

営業活動や提案活動が、実際とても敬遠されうるのは、その恥ずかしいことをする、ということや、
恥ずかしいことを受けることが、正直しんどいからではなかろうか。

大事なのは、その中で、いかに今生きる自分を賭し、その瞬間の説得力や輝きに時間を費やすか、
ということである。だから、上記の発信する側の仕事が、価値や対価あるものとして依然あるわけだ。

少なくとも、自ら発することのない人であっても、
他者の云うことの、何が主張で、なにがそうでなくて、その人が何を伝えたいか、を、
きちんと聞く耳をもつべきでないだろうか。

いまや、発信者の代表者、メディアが、
自身の理想をかなえられずしかし勢いずいて、結果として何ら「信頼に足る情報」を流さない
このご時世で。

もはや、意見を疑う必要はない。
むしろ、いかなる意見であろうと、その語りを自身の尺度で評価すべきである。

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自分を他者、それも複数の他者に対して、ぶつける/申すことはつらくしんどいことである。
相手のことを考えると、何も言わない方がよく、あるいは、
あまり影響力のないことを言うのがよいかもしれぬ。

しかし、そこで伝えたい、という思いは成就するのだろうか。
しかし、そこで「私」の意志や意見はきちんと残せるのだろうか。次へ、行けるのであろうか。

人に伝えようとする以上、確かに自分が伝えるべきことを考え、自ら意見し、それに責任をもつべきである。
それは、その瞬間の自身の生そのものの純粋スケッチであり、
ヒトの生きた歴史を構成する大事な言葉になるものである。
その志ではじめて、風説でも伝説でもない、リアルな歴史が生まれるのである。

公表しない、ということは英断ではなく、公表すべきことを正しいと信じ、
伝わることを切に祈りながら伝えることこそ、英断であり、責任のある態度である。
それ以外の情報は、実は、そもそも聞くに値しないことだ。

公表には、このような責任が伴うべきだ。
責任を伴うつもりのない発信は、ただのノイズである。

ここで、今日は締めくくろう。
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2005-09-15 01:10:15

公案1-5 シンメトリーと快 アシンメトリーと楽

テーマ:公案
ここで皆さんに残念なお知らせが有る。

私、また海外出張となる。
ので、もはや禅味ある旅ブログは卒業、と思っていたのに、また旅レポートだ。

またすこし出張が国内外たてつづきそうなので、
どうも、旅ブログ化はさけられないようだ。 嗚呼。

さて、公案1世代の積み残しもあと2つ。

標記の、シンメトリーとアシンメトリーについての公案へいざ。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

シンメトリー=左右対称
アシンメトリー=左右非対称

という分類であるが、この世の具象すべてが半々にこの分類で分かれるのならばよいのだが、
そもそもそんなはずはない。

この宇宙の大部分を占める自然物は、ほぼアシンメトリーだからだ。

つまり、「シンメトリー」という、近代の感性ではわりに理想視されるものは、
創作された概念であり、その恣意性を表すかのごとく、
自然にあるものは、だいたいシンメトリーでない。

*****************************************************************

しかし、シンメトリーの価値神話が生まれるのは、それは「見た目」の話だからである。

均整がとれ、全体に平等で、「完全」さすら感じさせる、左右対称なものたち。
近代の典型的美感覚からいえば、これほど重んじられるうるものはない。

しかしながら、私はあまのじゃくなので、とてもつまらなく思う。

そこには、こちらを受け入れる懐の広さはなく、
ただおすましして、自らの完璧さを誇るばかりである。

完璧はなるほど理想かもしれないが、
何事も満たされ果たされ仕上がってしまえば、あとは衰退あるのみである。

出来上がった瞬間から、衰退が始まる存在など、
そもそも出来上がらねばよいのではないかと思う。

シンメトリーなものたちも、またそうである。

完全球を掘り出したとしても、あとはひたすら
自らの完全さを損なう、風化のプロセスが待ち受けるだけだ。

*****************************************************************

しかしながら、シンメトリーに対して、価値が認められているのも事実である。

思うにそれは、とても純粋な観念として意味が有るのだと思う。

中高とつまらなく聴いていた、幾何学の授業のように、
あくまで理念・抽象のものごととして、真円だの真球だの、正三角形だのは頭の中に存在する。

理念は当然風化はしないのだから、そこにはある種永遠めいた絶対感がある。

つまりは、我々は人工のシンメトリーなアイテムを目にしたとき、
そこで、幾何学的な抽象図像の具体化を見、
そして、理念よ永遠なれと、快を覚えるのである。

あくまで、具象物そのものの価値ではなく、それが描き出すアウトラインの純粋な抽象性の価値である。

*****************************************************************

ここまでシンメトリーに関し、乱暴な雑感を書き連ねてきたが、
とても、肩が凝る話である。

ワーグナーの楽曲のように、そこには思弁の純粋性からくる高揚があるのであろうが、
そもそも論理とはあくまで人工的なものであり、
我々はシンメトリー文脈を続けるために、風化に負けないスピードで、
次々にシンメトリーな具象物を創り続けなければいけないのだ。

ただの抽象像にしかすぎないこれら。

途中で述べた通り、私はこのよの造形物の大半はアシンメトリーとおもい、
シンメトリーを疎ましく思う。

アシンメトリーには、ウィットや懐の深さや、息づかいが有る。
そうして、抽象像たるシンメトリーを嘲け嗤うかのごとく、
たいそうリアルに自らの存在を自然にさらけ出している。

そこには勢いがあり、脈動があり、風化をものともしない生命力がある。

そして、私が佳いと、楽しいと、感じるものも多々ある。

*****************************************************************

アシンメトリーな大部分のものにとってみれば、
「シンメトリー? しゃらくせえ。奴らは生きていない。ひたすら死への坂を転げ落ちているんだ」
とでもシンメトリーに言ってやりたいのだろう。

生は確かに死への坂を転げ落ちることでもある。
しかし、生きようという意思や努力がそこにはあり、結果として迎える死に対しても、
あくまで生ける存在としてむきあうものである。

ただのお面にすぎないシンメトリーにはそれはない。
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2005-09-07 02:39:28

公案1-4:妄想学習

テーマ:公案
すっかり、また、blog離れしてしまいました。

わずかながらの読者の方々、すみません。

もはや、blogというよりも、エッセー集化している事実に、なかなか素直に向き合えず、
心根からのパワーを必要とする、仕事の日々の業に萎え、
そういえば日課にしていた、就寝前の読書もかれこれ途絶え、
食生活も乱れ、
湿度の多さに眠れず、寝たとしても寝疲れし、
それにつられて、我が飼い犬殿も発狂し、

と、そんな御託だらけで、すっかりかけませんでしたー。

ふぅ。

さあ、いざ、堂宇の中で、公案を。

どうでもいいが、blogなりmyHPなり、というオンラインドメインを持つということは、
つまり、自分のお堂を持つということなのだろう。

手入れを怠れば、雑草がはえ、尋ね人も減り、うらぶれてしまう。

>>

妄想学習、公案1シリーズの積み残しから、手をつけようぞ。

そもそも酔っぱらいながらこのblogは書いているので、
文意も酩酊しておれば、列記された言霊も、どうも見当が悪く、
別の酔い方を常にするこの時間帯だと、遡行してなんで挙げたか分からない。

だが、挑もうぞ。

>>

私は、中学と高校の多くの部分、男子校で過ごした。
絆と体と情報と欲求が千鳥格子のように組みあい、
ただその模様の中で、染まり続けた日々。

その中の友垣をつくるのは、
同じ妄想に同意できるか、ということであった。

なぜ、男子校を語るのか、というと、
どうも、男子は女子には語れないほど、どうしようもない妄想に、
暇があれば浸ってしまうということが、正しそうだからである。

ここでいう「妄想」がいかなるものか、については、
男子となんらかつながりのある女子であれば、
すぐに想像し、雰囲気をつかめるものだとおもうので、
多くは語らない。

その妄想は、ロマンであり、また、
競争環境の中で、子孫長栄を思う存在としては当然かもしれぬ。

だが、愛すべきほどに、どうしようもない。

>>

私は、それらから、どうもいろいろ学んだように思う。

例えば地震がくる。
その時、私はあまり動揺しない。

例えば突然警察から呼び出しがくる。
その時、私はそれほどに先を案じない。

例えばとんでもない失敗をしたとする。
その時、私は自殺を考えはしない。

そして、私は、
戦地に無邪気に赴いたりせず、
ひざまずいてプライドを保とうとはせず、
単なるイライラを転嫁して人を責めることは貧しいことだと思う。

これらは、言ってみれば、過去の妄想ロールプレイング経験の賜物である。

過去の妄想の中で、いったいどれほど
自分は恋をし、勇者になり、国を動かし、
自分は格好よく振られ、塗炭をなめ、死に、
そして、妄想の後、そんな妄想をし、浸っていた自分に、
ドン引きになったことだろう。

妄想の中には、自己愛と絶対化、
そして妄想後の自己へのお寒い評価と相対化が、
かならずついてまわるものだ。

>>

だが、妄想は、極めて反社会的なものと断ぜられることがある。

「あなたの妄想でしょ」と言われ、
”妄想癖”は、ほぼ、あちら側への片道切符のように扱われる。

だが、学習とはロールプレイングである。

そして、そこに居るだけで簡単にでき、そして経験を積むほどに内容が高度化する、
妄想は、自己学習の主要なリソースと言ってしかるべきである。

>>

公案は、妄想と冷静のあいだを行き来する。
情熱と冷静の間、と言った方が聞こえがよければそれでもよい。

黒い衣装をまとい、世俗から逸脱した人々が巡らせる妄想、
そして、それが積み重なって今に続く法灯。

私は、かようなものを受け入れ続ける日本の文化と歴史が、
最近とても興味があってしょうがない。

さて、
妄想は、確かに、浸りっぱなしで帰って来れなくなれば、
まさに、あちら側への切符となるが、だがしかし、
妄想することは、自由を個人自身で感じられる根源的契機ではないだろうか。

もっと妄想せよ、とは言わない。

だが、妄想は、少なくとも、自分自身一人一人の中では、
昔と今の自分との比較をしたときに、思い出されてもよい功労者だと思う。

妄想はしなくてもご飯は食べられる。
だが、妄想はためになる。

>>

夢は有るか、と問われ曖昧になる若者がおおいらしい。

だが、夢などどうでもよい。

妄想した?、と問われ、どれほどにおもしろおかしく恥ずかしい妄想を語れるか、
そこに文化の底力と、文芸の将来があるのではないか。

そして、妄想しない、妄想を語れない、妄想のスキルが低い、
そんな世の中はごめんだと思う。

だって、喋っていて楽しくないもの。

妄想、はファンタジーと言えば、なぜかよく聞こえる。
また、ROMANと書けば、歴史を感じ、小説文芸そのものの名前でもある。

西欧文化のあけっぴろげ感、も、じつはこのあたりの市民権度合いかもしれぬ。

>>

この公案は結ぼうとすればするほどに、言葉が生まれてくる。

だが、締めよう。

体を動かす力は、食物の化学作用により生まれる。
心を動かす力は、気分の化学作用により生まれるのではないだろうか。
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2005-08-12 23:13:45

公案2-1 かみなりとつながり

テーマ:公案
すっかりひとあしはやいお盆休みを取り、また、旅にでていた。
旅先は四国、高知。
いまや全国区の祭りとなったよさこい祭りもあり、飛行機チケットが高かったため、
香川/高松空港in-outで、レンタカーで、うどんなどをいただきながら、
高知に入り、適度に隔絶した、しかし開けたところで、ひさびさの「夏休み」感を満喫した。
ただ、もはや市中に転がるワイヤレスインターネット回線依存型になっているため、
ネットにはまったくつなげず、結果、本公案も、しばしのお休みをいただいておりました。

この旅については、追々書きます。

>>

さて、今宵の東京は、雷&大粒の雨である。

生来、おとなしめの生活ではあるが、
こと普段と違う天候に対して、異常に興奮し、それを味わうことを楽しんでしまうたちである。

台風がくれば、同じ趣味趣向の父親とともに、風速40Mとかの中で追い風を受け走ったり飛んだりしたり、
地震がくれば、昔の地学学習の糧を生かし、P波とS波の到来時間差を計り、震源地を想像したり、
増水した川で、水の際に立ちすくんだり、
雨が降れば、傘嫌いも手伝い、ずぶぬれになりながら闊歩したり、
と、仕様もないことに、ライブな悦びを得ております。

さあ、今日の雷雨、そのさなかで、我が家では奥様に怒られるまで、
窓を開け風を味わい、怒られた後は、ベランダに出て、ワインを空けつつ、雷と風と大粒の雨を、
鑑賞/体験/披瀝しておったわけです。

>>

そのさなか、雷について、そして、それが言葉も含め背景に持つ、水恋いとの関連性について、
思いを馳せました。

>>

雷は、よく知られている通り 神ー鳴り でもあり、
その破壊的力と音響もあって畏怖されている対象でもあります。
そして、その姿形からも、「龍」との関連づけも多くされます。

そして、雷は空雷ということもあまりなくて、一緒に雨もやってくることもあり、
水という、生命維持伸張にとって巨大な関心事と、雷と龍と雨は、
強い結びつきを、すくなくとも、倭文化にあっては、持っておりました。

龍について、さらに掘り下げれば、蛇行し時として氾濫しながら水をたたえる、
河川も、形からか龍の発現とされ、結果、土地の水回りに関しては、
水神=龍 と考えられ、おおきな宗教役割と畏怖をもってきました。

人間とは、多く功利に意識づけられるもので、生命に関わる水に関し、
視覚化や物語化するために、これほどの文脈を、民族総出で構築し、崇め祀ってきました。

>>

なるほど静的に紐解くとこんな民俗学的なことになりますが、
これほどの文脈が残り、時に強められながら、今日まで残っていることの理由について、
やはり、自然のパワーを感じるときの、私の中で明確に悦ばれる「ハイ」な感じにこそ、
多く真実が含まれるような気もしています。

>>

「普段」とは愛おしまれるべきこと、守られるべきことだと、社会生活の中で感じます。
と同時に、自然の中に一人放り込まれたとき、「普段」は消え去ってしまいます。

山は勝手に崩れたりし、地震は何の気無しに起こり、
そんな大きなことだけでなくても、
川の水の流れ、風の流れ、それについても、一時だって全く同じ流れはありません。

自然に包まれ、放り込まれたとき、人の間に居るときと全く違って、
自分がそのへんの石や草の葉と同じような、全体を構成する一要素になり、
意識も自然の中に埋没してしまいます。
しかしそれは別に不快ではなく、案外楽しく、気持ちのよいものです。

「普段」という観念は、やはり観念である以上、人が発明したもので、
人の間で意味をもつものです。
それに対して、自然の中にあると思うとき、
観念の拘束がほどけ、より原始的な感覚がわき起こってきます。

雷を見、聴き、震動を感じて、モリモリと芯に流れる、
「ウンババー」とでも叫びたい衝動は、
つまり、自然の中にあるのだな、というマインドに一気にスイッチした証拠なのでしょう。

雷がきわめて象徴的にそれを沸き起こすのは、
地面と天の間を一瞬でつなぐ紐のようにある、その形が、
光と音のスペクタクルの中で、バシッと現れるからかと思いました。

突然で、粗暴で、予測不能なれど、
一気に天と地をつなぐ力。
人の間では生み出すことのできないものです。

>>

こんな事態に観念はもろくも崩れますが、
しかし、長い間に我々の文化文明は、こんな一瞬の事態にも、
図柄である龍と、その物語を生み出し、
つまり、人と人の間で交換可能な、イメージとコンテクストをつくり、
文化に取り入れてきました。

その中にあっては、さすがの神鳴りも、ゴロピカドンのようになり、
「普段」の中で、案外生き生きと楽しげにしています。

自然は畏怖すべきもの、快をもたらすもの。
人間の、特に想像力は、巧緻で、楽しまれるもの。

この両者の間を自由に行き来する雷は、
自然と人間をつなぐ、紐のようなものであるとも言えます。

>>

このエッセー公案はかように結びます。

どれ一つとして全く同じモノがなくとも、
それが、同じ一つのことを感じ思わせる限りは、
同じである。
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2005-08-02 00:52:03

公案1-3 心配とテキトウさ

テーマ:公案
ヒトはヒトと関わりを持つ。

金八先生により再確認された、この、人の成り立ちについて、
あまりにわれわれは安易ではなかろうか、というのが今回の公案である。



日々、なにがしかの専門者として食い扶持を得続け、
はたとふりかえっておもうのは、
自分自身、たいそう職の中で喜びや充実をおぼえるのは、
なんらか命をかけた思いがあった場合であるということだ。

命の賭け方に大小あるにせよ、
少なくとも、今ここで生きる自分が、この先で生きる自分を賭して物事にあたった場合、
とても自分に、学習や成果をもたらすと実感している。
そしてさらに、関わる人、さらにその先の人々に対して、
己の意志がどうにか伝わり、己の振動が伝わった思いをする。

うまく行ったか、そうでないかは別として。



さて、心配という事象に関して。

人々との関わりの軽重を問う側面で、
いかに自分はその人を思い、心配できるか、という秤は用いられる。

しかし、心配とは、その深刻な見え面と異なり、たいそう容易く生まれうるもの。
2週間先の天気を思うのとおなじように、よそ様に対する心配は生まれうる。

本当に大切な人への心配と、どうでもいい人へのそれの差は、
そこに、テキトウさがあったかどうかと思うようになった。



バスでたまたますれ違った人がこける、
自分の身近でとてもいろんなものを共有する人がこける、
己の飼い犬がこける、
取引先の人が、ふとした段差にこける、
いずれのケースでも、
多く我々が発する言葉は、「大丈夫?」という言葉だ。

客観的には、おなじような心配の発露に見えうるが、しかし同時に、
これほど、客観的な者に、
その人がいかにその相手を思い気遣うかが現れる局面もないであろう。



私個人の経験でいうと、実は、
バスでたまたますれちがった人への心配こそが、
もっとも切実なものである気がするのである。

人は人に慣れると、慣性が働き、流れが生まれ、
とても曖昧な「ノリ」なるものが間に生まれるものである。

利害関係が如実な取引先との関係は、自ずからとてもドライな関係を生むのだが、
それに次いで、きわめて身近な間柄こそが、
劇場の俳優張りに、決められた心配風の台詞を語ろうとさせてしまう。

そこで生まれる、「大丈夫?」のなんと薄いことか。

あげくに、「心配だ。」などと言ってしまい、薄さは際立ってしまう。

こんな浅はかな表現すら飲み込み、密な関係を持続させることに、
身近さのチカラはあるのだが、
他方で、この身近さによっかかり、相手方に負荷すらかけてしまう「あやうさ」こそが、
より意識されてしかるべき物事であろう。



心配事の度合い、そこにおけるテキトウな話し振りと、表現が向かう相手との距離は、
どうも、二次関数のY軸に対する放物線のような関係にあるのではなかろうか。

相手との距離や近しさ、親しさが、
自分自身でコントロールできる範囲を超えてしまったとき、
心配事は身につまされる、リアルな感情となる。

相手との親しさが、赤の他人レベルになっているとき、
心配事は素直さをもちうる。



相手を心配するとき、
心配する自分自身と、心配される相手のことを、
自分のなかで、一度反芻してみた方がよい。

そこで、何かを演じ、何かを確かめようとする、
心配する気持ちの根っことは相反するものが有る場合、
それはもはや心配ではなく、ただのテキトウな、浪費される、想いにすぎない。

そんなものは、実は、心配される側には、ゴミである。

このエコロジー隆盛のおり、人間に置ける最大の浪費にして気づかれないもの、
感性の無駄遣いに、もっと気遣いがあってもよかろうに。



この箴言めいた公案は、以下でしめくくろう。

テキトウな心配は、心配ごとすらも心配におもわせ、
あくまででたらめな、ないののと同じ、迷惑な波風である。

毒にも害にもならないものは、捨て去ってしかるべきである。

合掌
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2005-08-01 00:13:07

公案1-2 おしろいの本質

テーマ:公案
仕事の関わりで、年に数回、京都に行く。

仕事の関わりであれば、普通、先方の事務所やら打ち合わせ場所やらに行く、
というのが普通だが、目下関わっている仕事は、
なかなか訪ねられない、寺社や庵、料亭やお座敷などに、お邪魔することが主である。
ひどいことも多い仕事であるが、こういうところは役得である。

公案のくせに生臭な話であるが、今回は、
この過程でおしろいについて思ったことを取り上げる。



小さな頃、「これ舞妓さんゆぅて、和の文化に身をやつしきった人や。」と、
写真やら遠目に実物など見させられながら言われて、
こんなおしろいのお化けが、和の文化ならば、なくなってしまえ、
と内心思ったものである。

おしろいを白ボケするほどに振りまき、
するならとことん白虎社のようになってしまえばいいのに、うなじの下は地肌が見える。
このごてごてし、なまなましくもある舞妓なるものは、
お日様の下で生きる子供にとり、とても気色の悪いものであった。

お茶屋の文化も読み知ったりと、歳をとりあたまでっかちになり、
子供のころの違和を記憶に残しながらも、興味本位でお座敷にあがった。
が、やはり、明るいお座敷の中で見る彼女たちは、
違和感のあるのみならず、いっそうの距離感を覚えさせた。

それほどまでに、我々の感性は、
ほんの五十年前の人々と変わってしまったのであろうか。
そうならば、和の文化はもはや、儚くなり、
無味乾燥なことになってしまったということである。

どうにも自分の乾いた感性がやるせなく思えた。



また別の機会に京都に行き、高台寺のそばへお料理をいただきに参った。
ちょうど、花灯籠という名前だったか、
石畳の道すがら、家々の前には橙色のやわらかい光を放つ灯籠が並べられていた。

そこで、向うの角から、舞妓さんが2人、お座敷を指してだろう、歩いてきた。


その姿は、息をのむものであった。


着物の金襴、かんざし、それらが、灯籠の弱い光をきらきらと反射する。
闇に覆われた町並みを切り取る、
張りのある着物の線と、やわらかい髪や顔や手の線が、
目をゆるがせにしない、引力ある輪郭をつくる。

そうして、橙にゆらぐ光の中で、面には冷たさと暖かさが交錯する。

野暮ったい灯籠の光の色味の中に、さっと現れた、
とても垢抜けた美の複合体でありました。

そして、その後のお食事の後には、無理を言って、
紙燭の灯りのみで、お酒を飲んでみた。

お酒をついでくださる、女将さんの弱いおしろいに映える光をみながら、
なるほど、これが舞妓さんであれば、目くるめくなぁと思った。

襟のところ、舞妓さんがおしろいを塗らないのは、
地肌を見せたいのではなく、陰をつくりたいからなのでしょう。



思うに、少なくとも都会に住むものは、あまりに煌煌とした光に慣れすぎている。

野外で食事のあと、語りながら眺める薪の火。
暗い河原で、いつまでも友達と遊ぶ我らを薄く照らす月の光。
夜の波打ち際、ときどき遠くに見える、灯台の火。
冬の夜、自転車をこいでいると気づく、オリオン座の星明かり。

たとえばこういうとき感じる、なんともいえない落ち着きを、忘れ始めている。

明るい、は、絶対善のように響く言葉に今やなっている。
だが、はっきりと見えることは、実は、何も見ていないことにもつながっていた。
たとえば、料理で、食材に熱を加えることが正しくても、
高温に長時間さらすとは、うまみを出すどころか、食べられたものではない。



おしろいは、照り映えすると同時に、陰影を映し出す。
青ざめた顔と、暖かい顔、を同時に描く。
顔という、人間の体で最も複雑な部位に、必然的に生まれる陰影を巧みにあしらう。

舞妓さんを白ボケしたお化けと思っていたのは、
私の目と頭が光ボケしていたためであった。

このものの見方は、なにもおしろいにかぎらずとも、
昔の日本芸術や、はたまた、西洋古典芸術を見る際にも通底するだろう。



最後にこの公案は、敬愛すべき大先輩、九鬼周造の文章から結語を引く。

ニーチェは「愛しないものを直ちに呪うべきであろうか」と問うて、
「それは悪い趣味と思う」と答えた。
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2005-07-29 02:45:36

公案1-1 死に至らない病

テーマ:公案

先日、朋友の一人が入院した。



実は私も、昨年風邪かな、と思っていたら妙ちきりんなウイルスに罹患していて、

そいつは腎臓に悪さをするらしく、病院に行ったら、そのまま1週間ほど入院させられた。




朋友も似たようなことで入院と相成った由。



「病気」ではあり、必要と判断された結果の入院に違いないが、

娑婆で生活しているときの「入院せにゃならん状態イメージ」と、

実際にそのシチュエーションが訪れたときの自分の状態は、結構異なるものである。



入院せにゃならん状態イメージとは、

「死に近づいている」という感覚をどこかに抱かせるが、

少なくとも、私や朋友の入院状態は、もっと死への道筋の手前のほうである。



「死に至らない病」とでも言えます。



>>

これは、現代に息づく、一種の呪いのようなものでもあり、

本人にとっては、具合が悪いこと以外は、

「医者にそう言われたから」という、他人気質な病気である。



このような病で入院すること、そのすべては、

「こいつほっとくともっと悪いことになりそうだから、

自律状態から拉致して、他律が支配する病室に突っ込んどこう」

という、医者の判断によってなされる。



よって、入院そのものは、「他律」の引導を渡される経験。

そして、医者は、「もっと悪いことになりそう」と思うのみで、

その”悪いこと”は、必ずしも死を意味せず、

めんどくさいことになる、だったりする。だから、保険的な入院とも言える。



>>



また、死に至らない病は厄介である。



なにせ本人が、なかなか病人ロマンに浸れない。

健康は大事であるし、重病の方々には大変失礼なことだが、

我々、どこかしらに「病弱な深窓の人」へのあこがれがあるものである。



入院するとなれば、この役割を演じることができるお墨付きをもらうようにも思うのだが、

肝心の病気にあまり深刻さがないのである。ダイレクトに死に至らないから。

せっかく入院したのに、食い足らない。



>>



さらに、内科系のこういった病は治療が「安静」「点滴」だったりと、とても地味である。


外科であれば、ギブスとかそういう演出装置があるのに。



そして、内科病棟の他の方々は、けっこう重篤だったり、病が深刻だったりして、

相対的に自分の病が軽微な感じがする。



いわば、刑法と軽犯罪法の差のようなもので、

死に至らない病での入院は、感覚的には、立ち小便で刑務所に行くようなものである。



>>



死に至らない病は、呪いのようなものであり、めんどくさく、

それによる入院は、更生施設に保険的に立ち小便で入れられるような、

バツの悪い、食い足らない、なかなかシュールなことである。



だが、入院であることには違いなく、周囲の人々には、

「死に至る病」と同じように、心配や動揺や気遣いをさせるのである。



まったくたちが悪い。



しかもよくよく考えれば、生きることは死ぬことなので、

マクロで見ると、「死に至らない病」は病ですらないのではと思えたりもする。



まあ、呪いってなんかヤなものですし、

医者は時として自由を拘束できる権力者なので、

ぜひ健康には気をつけてください。



この公案は、

「よく生きることこそが、病を無力化する」

とでも結んでおきたい。

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