2006-02-09 02:34:49

今晩は満ち足りた

テーマ:生臭見解
徐々に日記、あるいは、「こころにうつりゆくよしなしものをそこはかとなくつづる」ものとなった、
この寺の記録である。

いまはちょうど、修業の休みであるので、日常と戯れている。

さて、今日、夜半頃に同居者より電話があり、「今日は風呂が入っているので早く帰りたまえ」とのこと。

すべての波乱を終え、もはやなんら逆らうものをもたない、うつろう私なので、終電ごろ帰宅した。

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わざわざ電話したのは、風呂は佳いから入れ、というのと、
温めた風呂が冷める前に入らねば燃費が悪い、という刹那功利の入れ子感情なので、
帰宅した私は、生活費を共有する中での、その温情と冷酷に、もちろん逆らえず、すぐさま風呂へ。

脱衣所には、誰かこれまた、どこかからせしめた「防水ラヂオ」が置いてあったので、
ああこれは長湯がよろしかろう、と、モノの素性に改めて想いを馳せつつ、読むべき本を探した。

ちょうど、しばらく放っておいた鞄の中に、読みかけであった「日本の経済格差」という新書本が。

ということで、音楽だらけの局に針を合わせ、温かい風呂へと。

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事実をできるだけ客観&批判的に淡々と解析/読み解く文脈は、新書の醍醐味である。
そして、読むことが学びと直接つながる。

昨今、政局化、つまりは、駄弁化している「格差」のお話であるが、
冷たく見ると、別に日本で最近格差がひろがり始めたのではないということを知る。

こういうことらしい。

戦前大きかった格差が、戦後の日本の経済力の極端な低下に際して、
戦後処理や復興過程で、格差=貧困層の発生となるから押さえられ、
そして、そもそも日本円の価値が国際的に低かったから、
ちょっとやそっとの額の差では、個人の経済活動上の差も生まれず、
あくまで「結果として」そして「非常事態処理」として、経済力の平均化が起きた。

しかし、実体経済の回復、そしてそれに伴う、
所得が資産化しやすい、所得の比較的大きい層の保有資産価値向上、
さらには、資産運用益の拡大や、
生活補助サービス業の拡大に伴う、高所得層の共働き化などが、
成長期以降継続的にあり、
どんどん経済力格差は拡大していた。

もともと、社会制度がこの変化に追いついていなかったため、
変化を実態に合わせて行おうとしていろいろ最近やりはじめたら、
「あ、格差ってあったのね」という、一億総中流幻想からの脱却が起きたのである。

つまり、格差批判はつまるところ、経済力の高い日本経済批判であり、
乱暴に言うと、格差なんてヤ、とすると、それはじゃあ日本円の価値下げましょう、という話である。

むしろ問題なのは、大企業と中小企業の勤労者の所得格差のあまりの大きさ、
そして、さらに、男女間の所得格差の大きさだと思われる。

ということを、1時間半の温浴で、少しわかった気がしたのである。

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風呂上がりには、ビールである。

誰かがそう云っていたし、実際風呂の有無は置いておいて、ビールは一日の終わりにも佳い。

なので、リビングでテレビをつけて、ビールを。

テレビでは、NHKの世界遺産探訪シリーズの「ドブロブニク」編をやっていた。

思わず見入ってしまった。

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ユーゴ時代にこの街を訪れた父親が、美しさに打たれてか、
帰宅後、「ドブロブニク、ドブロブニク」と謎の言葉をうわごとのように云い、
そして、謎の自作ソングを歌い、
見たくもないのに、撮影した写真のスライドショーを自宅をわざわざ暗転してやり、参加させられた。
さらに、遅れて届いた、父発父宛のドブロブニク絵はがきを眺め、嘆息していたのを思い出した。

そして、なにかと又行きたいと云っていたのも思い出された。

そして、チトーが死に、内戦がはじまり、「ドブロブニク大丈夫かな」と心配し、
セルビア軍による集中砲撃がはじまったニュースを、真顔でじっと見つめつづけていたのを思い出した。

確かに、地中海に面した岸壁のうねりの中に飛び出た、ゆるやかな岬と砂浜と砦からなる、
碧い海に紅屋根の映えるこの街は、美しいかもと思っていた。

そして世界遺産の街は、父の深い祈りのさなかに、瓦礫と帰した。

このテレビ番組は、その後、「危機遺産」認定された街の、
戦後の歩みを中心に編まれていた。

生き残った人々の手と伝承の技により復元されつづけ、
「危機遺産」認定が解除される。
しかし元通りにする意欲と平行して、瓦礫になる過程、なった後の写真を誠実に遺そうとする人も居る。

さらに、まだまだ街を見下ろす丘、元々風光明媚な観光スポットであった場所、しかし、
セルビア軍が見下ろす街へと砲弾の雨を降らせた、その丘は、
侵略から守ろうとした人々の命の痕跡を残す瓦礫の廃墟として残り、
復元を静かに待っている。

そんな、
時間、人の想い、人の技が幾重にも積み重なる、ドブロブニクという街を伝えていた。

また、別のことも。

この街自体、民族的にはクロアチア人が多かったが、しかしセルビア人も居て、
でも、中世以来、自治と自由を尊んだこの街のすべての人々は自ら「ドブロブニク人」と呼び、
その気持ちは、たとえ街を灰塵に帰す民族主義者の砲撃の中でも生きていた。

生き残ったセルビア/ドブロブニク人は「街を愛すれば、その人はドブロブニク人」という、
途方もなく、深く、愛しく、辛い、言葉をこころをこめて伝えようと、カメラの前で輝いていた。

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なるほど自治/自由という、文化や思想を最も豊かに生んで育む、この街に流れる魂は、
決して、ただ白黒つけたい、ただ否定と肯定しかしない、民族主義を遥かに超えていると、
ほんとうに思った。

だからこそ、私の父親は感応し、愛おしみ、そして、祈り涙をながしたのだろう。

でもまた、思ったのは、この確かさや豊かさ は、戦火にさらされて改めて明確になったものである。

私たちは、暴力・失敗・喪失を疎み/拒み、太平楽を佳しとするがしかし、
その良さは、頭だけでは決してほんとうの理解はできず、その体験をし、祈りを深めて初めて、
価値がわかり、生活の奥行きを深めることができるのだろう。

この経験は、悲しい、しかし、強いものだ。

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私はこの夜、身内の格差や差分を考え、社会の外的/内的差異との葛藤と克服、
そして、自治自由自律から生まれる豊穣さと、それを確かに感じる為の喪失や失敗の意味を感じた。

なんと豊かな夜なのだろう。

メディアは、享楽をあたえるものではなく、頭とこころをかように滋養できるものである。

なんだか運が良い。
風呂が沸かされたから生まれた、冷酷な温情に感謝を憶える。
ノーサイドのゆるやかな緊張感も、時に乙な夜を結ぶ。

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そして、今は、こんなことを書いている間、家の猫とずっと遊んでいる。
彼女もまた、愉しい時間を過ごしている。

今日は昨日よりも暖かかった。
明日はどうだろうか。

私は、冬が好きだ。
寒ければ、動いたり、考えたり、着込んだりして、暖まればよいのだから。

自分を冷ますよりも、温めるほうが、なんだか、ほっとするのである。
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2006-02-03 03:31:04

公表と責任

テーマ:公案
最近、新聞をとろうかな、と思い直した。

かなりの情報はY!Newsから昼夜問わず取れるし、
むしろ、知りたい情報もネット経由で恐ろしく大量のアーカイブを参照できるし、
と、5年以上思っていたが、ここにきて最近新聞っていいよなと思う。

一つは、テレビもネットも、
スピード勝負の無吟味/無責任/享楽性高い情報の乱発が、
ことこの文化爛熟期である日本において、たいそう顕著となり、
ゆっくりと、印刷物を総覧するという、
「固形化した情報との交わい」への渇望が照かになってきているということだろう。

そして、一昨日のコメントでも書いたが、「覚悟」というまなざし/姿勢への重視感が、
私の中で高まったからだと思う。
すくなくとも、書いた物がリアルに印刷される者と、単に垂れ流しなにも残らない者との、
覚悟や含蓄の差はあると思う。

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Blogを書いていて何ではあるが、公表には責任がつきまとう。

学校時代を思い出そう。
手を挙げ、意見を言うことは、特に中高時代、さらには、大学時代は、しんどかった。

それに比して、小学時代は容易かった。
思ったことを言えばよかったから。

思う>手を挙げる>指名される>云う>反応がある>終わる

このモデルは、実は現今、あるいは伝来の、テレビのモデルである。
番組が作られ/番組の中で取り上げられ、発声され、終わり。

たとえば、「思いっきりテレビ」を取り上げよう。

毎日毎日、健康健康と云い、さらに多様な「健康にいいもの」をかれこれ幾歳月語り続けている。
しかし、その都度登場する、教授や研究者や体験者、相互は決して相容れないことが多かろう。
それでもなお、「健康」という「切り口」で、新しい「切り口」から出る液を、分析/拡大して伝え続けている。

要は、自らの一貫性ではなく、その都度の「確からしさ風」が重要であり、
なにしろ「健康」は「お金」「将来」にいや増して、生において重要ファクターと思われやすく、
結果、最大多数を充足できる情報として、日々、矛盾や個別間議論は捨象し語られ続ける。

だが、ものごとの「最大多数」とは「最小希釈」の言い換えであると断定してもよろしいと思う。

つまり、みなが納得/安心/受容できるものは、往々にして、みなが「まあこれくらい」と、
主体的関心を持たず、周りを見渡しながら思うものであり、
そもそも”主体的関心なく””まわりを見渡す”ものだからこそ、うすーい、やわーい、ことに
すぐに陥る。

それが日常的に反復されれば、それだけ、希釈さの蓋然性は高まってしまう。

そう、テレビは、印象を残し、その記憶を物体として残さない故に、
即時性や目新しさを優位性として持つが、
同時に、反復や、瞬間最大多数化や、流動的であることから、責任性はたいそう薄い。

新聞は、印象を残し、実態を同時に残し、一日単位の区切りと、印刷面の豊富さを優位性として持ち、
その結果、残り、瞬間印象+継続記憶への配慮や、一貫性から、自責の念は強かろう。

まあ、実際、なんらか責任を回避する言い訳も自らで紙面を割いてできるメディアでもあり、
それを背景として、偏向主張も可能ではあるのだが、
主張に対しては、読者の態度で取捨ができるので、
あとは数有る新聞の中から、
信頼できる/主張に耳を傾けたい/その主張の取り入れ・確認が重要、と思われるものを選べばよい。

確かに新聞配達員の勧誘/集金/俺の顧客意識は副次的な面倒臭さではあるが、
それも、新聞を読み・選ぶ上での、読み手の選択意識の鏡として消化できなくないから、
よほど、望もうが望むまいが、情報をひたすら垂れ流すテレビとは、
選び手として自身が問われるので、よりよい時の過ごし方のようにも思われる。

新聞を読むということは、それが、主張拝聴と自己選択の意識と責任の上に成り立つ以上、
本当は、日々、他者の主張を体験し、それを鵜呑みにしない、
人の意志/意見への造詣を深めることになると思い至った。

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残念なのは、テレビはみずから時流という主張の総体の体現者と自負していることであり、
それを、我々はよいことにしているということである。

まったく、衆愚制そのもの、デマゴギー社会の有り様そのものである。

しかし、文化も時流も時代も時間も、実際は語られるよりも実質はもっと豊かで、
だからこそ、テレビをはじめとした、自己保存メディアの狡知を放って置いている。

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さあ、もうメディアのことはおいておこう。

ブログもしかりであるが、何事か、自分の意見を披瀝することは、まったくもって恥ずかしいことである。

営業活動や提案活動が、実際とても敬遠されうるのは、その恥ずかしいことをする、ということや、
恥ずかしいことを受けることが、正直しんどいからではなかろうか。

大事なのは、その中で、いかに今生きる自分を賭し、その瞬間の説得力や輝きに時間を費やすか、
ということである。だから、上記の発信する側の仕事が、価値や対価あるものとして依然あるわけだ。

少なくとも、自ら発することのない人であっても、
他者の云うことの、何が主張で、なにがそうでなくて、その人が何を伝えたいか、を、
きちんと聞く耳をもつべきでないだろうか。

いまや、発信者の代表者、メディアが、
自身の理想をかなえられずしかし勢いずいて、結果として何ら「信頼に足る情報」を流さない
このご時世で。

もはや、意見を疑う必要はない。
むしろ、いかなる意見であろうと、その語りを自身の尺度で評価すべきである。

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自分を他者、それも複数の他者に対して、ぶつける/申すことはつらくしんどいことである。
相手のことを考えると、何も言わない方がよく、あるいは、
あまり影響力のないことを言うのがよいかもしれぬ。

しかし、そこで伝えたい、という思いは成就するのだろうか。
しかし、そこで「私」の意志や意見はきちんと残せるのだろうか。次へ、行けるのであろうか。

人に伝えようとする以上、確かに自分が伝えるべきことを考え、自ら意見し、それに責任をもつべきである。
それは、その瞬間の自身の生そのものの純粋スケッチであり、
ヒトの生きた歴史を構成する大事な言葉になるものである。
その志ではじめて、風説でも伝説でもない、リアルな歴史が生まれるのである。

公表しない、ということは英断ではなく、公表すべきことを正しいと信じ、
伝わることを切に祈りながら伝えることこそ、英断であり、責任のある態度である。
それ以外の情報は、実は、そもそも聞くに値しないことだ。

公表には、このような責任が伴うべきだ。
責任を伴うつもりのない発信は、ただのノイズである。

ここで、今日は締めくくろう。
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2006-02-01 02:43:42

うつろう私に、地方裁判所から手紙がきた

テーマ:生臭見解
私、名前に「哲」が入っている。

それも、この路にたどり着いた一つの理由なのだろうが、
かなり小さいときから、我が家では、付き合いの有る本屋にて「月1冊好きな本をツケで買える権」が
与えられていて、その結果として、本をよく読んだ。

子供だから、かなり漫画の単行本なども買ったのだが、
そうそう毎月買うべき漫画もなく、
ポプラ社ものの「少年探偵団」「ホームズ」系やら、
ケイブン社の大百科シリーズやら、
学研のひみつシリーズやら、
といった、児童書をはじめとして、
単にタイトルが気になった実業書とかも含めて、
本は結構漁歩したようにおもう。

日本はとても出版文化が盛んだから、そうしてニッチな本の面白さなども感じ、
なにしろ「月1冊」だから、値段あたりの「書かれていることの重さ」も重要で、
思想書なども、国語力が一回りした高校手前あたりから、
むやみに手にした。わかんなかったけれど。

その中で出逢った一冊の書が、古東哲明氏の「在ることの不思議」という本であった。

やはり、ゴツさもある哲学系書籍なので、なかなかに書かれた意図は高校身分には読み取りづらく、
未だにすべて咀嚼できている自信はないが、この本の中で、日本語感性における「在る」ことの意識に
ついて、源氏物語をテキストに語られていた部分で、すくなからず、「日本語意識」の含蓄に触れた気がした。

”空蝉”についての論考だったと思うが、
「うつつ」という言葉のひもときがはじまり、「うつつを抜かす」この”うつつ”とはすなわち、
現在確かに自分が生きる/在る、という意識であって、
さらに古い言葉も漁ると、どうも「ウ」あるいは「ウッ」というのが日本語的な存在の表象と言える。
「ウ」は有にも通じていることも、その証左。
また、「うつつ」は、浮くや倦くや鬱や憂く、にも通じるように、よどんだ様の意識もあり、
つまるところ、流転する生のなかで、今に留まる「私」の自意識が、日本語的な「有」「現」のココロである、
というお話だったと記憶する。

確かもっと、上手くエレガントに書かれていたとおもうが。

まあ、時の流れの中で、日本語が脳内主言語でもある私は、うつろい、浮き世をいきています。

さて、今日夜半、まだ仕事中に、同居人より入電。

「あんた、地方裁判所からなにやら手紙がきてるよ」

由々しきことである。

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その電話後も仕事が続き、先ほど帰宅したが、
仕事中も、帰りながらも、この手紙の封を開けたときのショックを和らげるために、
「地裁からいきなりの手紙だから、刑事ではなくて民事だろうな」
「民事だとすると、とどのつまり、債務/債権間の問題だから、
 生活上いったい俺と紛争まで発展してそうなことってなんだろうな」
「主に、金銭的なことだから、そういえば、払うのだいぶ忘れてた、
 奨学金返還金とかかなぁ」
などなどと、脳内シュミレーションを行い、いざ、帰宅しドアを開けた。

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食卓の上には分厚い封筒。
なるほど、東京地裁から。

くやしいのでじっくり封筒を眺める。

すると、「執行取消係」からの発信であることを示す○がついている。

「あれ、俺、誰かに執行されたっけか?」
「そもそも、この係の人、彼女とかに自分の仕事をいったい何て言うのだろう?」

と、シュミレーションの甲斐あって、余計なことまで気がまわる。

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開けてみた。

8枚ものが、丁寧にホチキス止め&三つ折りされていた。

「通知書」
「進行番号 平成18年(進行)第00000号」
「債務者殿」
「別紙取下書記載の平成○年(ヨ)00000号仮処分命令申し立て事件は、
 同取下書が受理され、終了しました。」
「以上」

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いったい、この取消係殿は、何を取り消したんだ?
そもそも、俺、何?

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と、続く紙達を読むと、
どうやら、私が学生時代に入っていた寮が、最後に廃寮したい大学との闘争にまで発展していた
ことに関係していたらしい。

なんて、懐かしい。そして、何年取消に時間がかかっているのか。ほぼ10年もだし。

確かに我々入寮者は、その寮の利便性とマジカルな魅力と、自治によるバブーフもびっくりな
自由&アナーキーさが素敵で、面白いから、説得しにくる教授とかと雪合戦はした。

で、大学側は財源のこともあって躍起になり、裁判沙汰にして、最後はむりくり取り壊したりしていた。

ここまでは、わかる。

そうして、10年近く時は経ち、私は6回以上引越をし、全く違う時間の過ごし方をしています。

そして、ご丁寧に現住所をどうにか誰か裁判所の人が調べ上げて、届いた手紙は、
「昔出してた明け渡し断行仮処分申し立てについて、関係ないところも明け渡しエリアに
 入れちゃってたから、その分をスンマセン取り下げてください、と申し立てられたんで、
 10年越しに取下を決めたから、お知らせするね」
という、取消係からのお知らせでした。

えーーーーーーー。

心配したのに。

「断行」とかいいながら、ツメが甘かった人たちが、出るとこ出ちゃったから、修正もキッチリせにゃ、
という、おおざっぱな律儀さと、
法の番人として、受け付けた物事は、結果が出たら、地の果てまで追いかけて、お知らせするぞ、
という、やみくもな正義感が、
確かにひととき当事者ではあったが、そもそもその「関係ないエリア」は、関係なかったですから、
という、実は当事者ではない私を追いかけていたのでした。

もっと、みんな、地球にやさしくなったほうがいいと思う。
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