2005-08-22 02:13:01

どうでもいいことだが:政治談話

テーマ:変と素敵を見極める
最近、政治動向が気になっている。

神の右手とはよく言ったもので、案外選挙というものは、正しさを示すものである。
論理的な正しさ、民俗的な正しさ、時流的/歴史的な正しさ、小説的な正しさ、
それらいろんなものをまとめて、「はい、こんなん出ましたけど」と、はっきりモノを言う。

そのプロセスに参加することは、結果の正しさをより確からしくするわけで、
一票の重みも、単にN数的なもの以上に、参加という体験の中にあると考えられる。

で、政治が気になる理由は、どうもマスコミがつくりたい文脈の中で、
「世論調査」という、多分に恣意的な調査であっても、
その文脈に反抗しており、マスコミは対応に?マークを常に提示してしまい、
そこに彼らの目する文脈そのものののつまらなさを露呈しているからだ。

>>

さて、なんにせよ、政治的論点の中心となる、
現今政権のあるパーソナリティに規定されがちな指導者の思考/志向/嗜好について。

わたくし、お仕事で、かれのプレゼンテーションを目の当たりにしたことがある。

そこでの第一印象は、
「なんて、同じプレゼンで同じことを何度も言い、そしてとりとめもないのだろう」
という、意外なことであった。
マスコミ情報からでは、彼はパシッと言い、それで済ます風であったのに。

何事も自身の第一印象に左右されるため、
それ以後、かれの評価は拙僧的には低かったのだが、
ここにきて、慎重に吟味したところ、わかったことがある。

この業務、都心に新しい街ができた、勝ち組文化の中心となった、
など世相的なトピックとなり、結構報道されたのだが、
そこでのこの政治首班のコメントは、
そのプレゼンテーションの不味さに対して、
語られた言葉達の中の主要な部分を適度に抜き出し、
とてもわかりやすく紹介されていた。

つまり、報道にあたっての編集過程で、
いろいろ語られた言の葉は、シンプルなメッセージに昇華され、
広く皆さんに伝えられたのである。

これこそ、実は彼の首班殿の狙いではないかと思うようになった。

>>

案外、編集者というのは、より重要に考えられて然るべきと思う。

彼らは、どんなに仕様のないタレントの駄弁ですら、
一冊の本に、それなりの読み応え、読みやすさとともにまとめあげるチカラを持っている。

そもそも、発話や発声が、オピニオンとして社会化するためには、
これらのプロの思考や志向や嗜好が重要であるとすら言える。

さて、彼の首班に関し、彼の政治家としての特筆すべき資質は、
その政治家らしい、「ここが俺の肝」意識について、
自分の論点を明瞭化し、
それを際立たせるにあたり「編集者」の作用を非常に自然に活用できる、
ということではないかと思う。

実は、私が立ち会った彼のプレゼンテーションに関しても、
おそらく彼の言いたい論点はひとつに集約されていて、
それをいかに編集者がよく引き出しうるかを任せるために、
同じことを何度も言い、引用点を絞らせたのではないかと思うようになった。

なかなかやりよる。

この彼の、論点明瞭化力と、彼自身たぐいまれな編集者としての資質に依って、
今の政治はあると思う。

その象徴としての、郵政民営化を思う。

>>

この問題は、なるほど国民の一般意識にとっては、たいしたことではない。

が、今回の選挙、彼(および彼のブレーン)の編集力によって、
これが論点化されているが、これは、実際、大変象徴的なメッセージであると思う。

対競合、つまり民主党に対しては、
・彼らが主要な論点にしたい、二大政党化を一部陳腐化する。(なかなか応じにくい論点だから)
・実は寄り合い所帯である彼らを明確化する。
  ー郵便局の労働団体すら支持母体とする民主党が真っ当に論点化できないポイントであり、
     他方で、この郵政民営化を強烈に支持する母体も彼らが持つため、党内紛争となりやすい。

顕在化した競合、つまり自民党内部抵抗勢力に対しては、
・中庸かつ最大公約数的な、地元利益だけを追求するオールドスクール議員連に対して、
 地域利益誘導型から国益/歴史益思考型への踏み絵となる。
・正しいことである、国家公務員の総数減(つまり国家コスト減)に対し、きちんと向き合わせる

現在の世界を動かす、米国、そして、米国経済界に対しては、
・年次要望書の筆頭課題に答える
・世界規模での市場(特に金融市場)成長の原資を提供する

マスコミに対しては
・劇場化している、と批判しながら、自らそれを再生産しつづけるマスコミの浅さを利用する
・志向を隠蔽しながら、首班の思考と嗜好のみを論点化させ、わかりやすくさせる、

などなど、すべて、彼と彼らにとってプラスな効果しか生まないのだ。

>>

これは単に推論ではなく、おそらく、彼らはここまで計算している。

そして、最も重要な彼らのある種健全な志向は、
政治を今の単なる利益再分配構造から改変し、
世界に対する国家として、国家の為の運営組織体に進化させる、ということであろう。

つまり、「地元利益誘導」という本来は地方政治の役割である部分を、真に地方化し、
国家レベルで討議し検討すべきことを、国家レベルの政治に正当に負わせる道筋づくりである。

ここにおいて初めて、
マスコミでは「刺客」と言われる、中央から派遣された候補たちの意義がある。

だいたい、国家レベルの代表者選出にあたり、単に地元利益誘導だけを志向した、
地元出身者しかない、ということのほうが、よっぽど変なのだ。
だって、地方のことを考える選挙は別にあり、
国家のことを考える選挙こそ本来あってしかるべきなのだから。

怖いのは、彼らは、この正当な志向を達成しながら、
マスコミ論点を、「刺客」という彼らの狙いとは別のところで操っているというところである。

心有るものには響かせながら、わかんない人々も踊らせる、
この手法こそ、本来政治の持つべきことなのかもしれない。

>>

我々は、今、何が語られているか、より注意深く観察すべきである。

語るだけ、批評するだけなら、簡単だ。

だが、その語りは何を志向しているのか。

批判/批評は、少し考えさえすれば誰にでもできるので、容易であるため、
実は、現在、マスコミにせよ、評者にせよ、大部分の政治家にせよ、候補にせよ、
本当の政治的オピニオンなしに、単に批評者になっているだけである。

この人は、何を言いたいんだ。

それを絶えず考えれば、
本当になにかしたい人と、
単に比較や讒言をして、自己や自己の一派だけを利したい人なのかどうか、
すぐにわかりそうなものである。
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2005-08-12 23:13:45

公案2-1 かみなりとつながり

テーマ:公案
すっかりひとあしはやいお盆休みを取り、また、旅にでていた。
旅先は四国、高知。
いまや全国区の祭りとなったよさこい祭りもあり、飛行機チケットが高かったため、
香川/高松空港in-outで、レンタカーで、うどんなどをいただきながら、
高知に入り、適度に隔絶した、しかし開けたところで、ひさびさの「夏休み」感を満喫した。
ただ、もはや市中に転がるワイヤレスインターネット回線依存型になっているため、
ネットにはまったくつなげず、結果、本公案も、しばしのお休みをいただいておりました。

この旅については、追々書きます。

>>

さて、今宵の東京は、雷&大粒の雨である。

生来、おとなしめの生活ではあるが、
こと普段と違う天候に対して、異常に興奮し、それを味わうことを楽しんでしまうたちである。

台風がくれば、同じ趣味趣向の父親とともに、風速40Mとかの中で追い風を受け走ったり飛んだりしたり、
地震がくれば、昔の地学学習の糧を生かし、P波とS波の到来時間差を計り、震源地を想像したり、
増水した川で、水の際に立ちすくんだり、
雨が降れば、傘嫌いも手伝い、ずぶぬれになりながら闊歩したり、
と、仕様もないことに、ライブな悦びを得ております。

さあ、今日の雷雨、そのさなかで、我が家では奥様に怒られるまで、
窓を開け風を味わい、怒られた後は、ベランダに出て、ワインを空けつつ、雷と風と大粒の雨を、
鑑賞/体験/披瀝しておったわけです。

>>

そのさなか、雷について、そして、それが言葉も含め背景に持つ、水恋いとの関連性について、
思いを馳せました。

>>

雷は、よく知られている通り 神ー鳴り でもあり、
その破壊的力と音響もあって畏怖されている対象でもあります。
そして、その姿形からも、「龍」との関連づけも多くされます。

そして、雷は空雷ということもあまりなくて、一緒に雨もやってくることもあり、
水という、生命維持伸張にとって巨大な関心事と、雷と龍と雨は、
強い結びつきを、すくなくとも、倭文化にあっては、持っておりました。

龍について、さらに掘り下げれば、蛇行し時として氾濫しながら水をたたえる、
河川も、形からか龍の発現とされ、結果、土地の水回りに関しては、
水神=龍 と考えられ、おおきな宗教役割と畏怖をもってきました。

人間とは、多く功利に意識づけられるもので、生命に関わる水に関し、
視覚化や物語化するために、これほどの文脈を、民族総出で構築し、崇め祀ってきました。

>>

なるほど静的に紐解くとこんな民俗学的なことになりますが、
これほどの文脈が残り、時に強められながら、今日まで残っていることの理由について、
やはり、自然のパワーを感じるときの、私の中で明確に悦ばれる「ハイ」な感じにこそ、
多く真実が含まれるような気もしています。

>>

「普段」とは愛おしまれるべきこと、守られるべきことだと、社会生活の中で感じます。
と同時に、自然の中に一人放り込まれたとき、「普段」は消え去ってしまいます。

山は勝手に崩れたりし、地震は何の気無しに起こり、
そんな大きなことだけでなくても、
川の水の流れ、風の流れ、それについても、一時だって全く同じ流れはありません。

自然に包まれ、放り込まれたとき、人の間に居るときと全く違って、
自分がそのへんの石や草の葉と同じような、全体を構成する一要素になり、
意識も自然の中に埋没してしまいます。
しかしそれは別に不快ではなく、案外楽しく、気持ちのよいものです。

「普段」という観念は、やはり観念である以上、人が発明したもので、
人の間で意味をもつものです。
それに対して、自然の中にあると思うとき、
観念の拘束がほどけ、より原始的な感覚がわき起こってきます。

雷を見、聴き、震動を感じて、モリモリと芯に流れる、
「ウンババー」とでも叫びたい衝動は、
つまり、自然の中にあるのだな、というマインドに一気にスイッチした証拠なのでしょう。

雷がきわめて象徴的にそれを沸き起こすのは、
地面と天の間を一瞬でつなぐ紐のようにある、その形が、
光と音のスペクタクルの中で、バシッと現れるからかと思いました。

突然で、粗暴で、予測不能なれど、
一気に天と地をつなぐ力。
人の間では生み出すことのできないものです。

>>

こんな事態に観念はもろくも崩れますが、
しかし、長い間に我々の文化文明は、こんな一瞬の事態にも、
図柄である龍と、その物語を生み出し、
つまり、人と人の間で交換可能な、イメージとコンテクストをつくり、
文化に取り入れてきました。

その中にあっては、さすがの神鳴りも、ゴロピカドンのようになり、
「普段」の中で、案外生き生きと楽しげにしています。

自然は畏怖すべきもの、快をもたらすもの。
人間の、特に想像力は、巧緻で、楽しまれるもの。

この両者の間を自由に行き来する雷は、
自然と人間をつなぐ、紐のようなものであるとも言えます。

>>

このエッセー公案はかように結びます。

どれ一つとして全く同じモノがなくとも、
それが、同じ一つのことを感じ思わせる限りは、
同じである。
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2005-08-02 00:52:03

公案1-3 心配とテキトウさ

テーマ:公案
ヒトはヒトと関わりを持つ。

金八先生により再確認された、この、人の成り立ちについて、
あまりにわれわれは安易ではなかろうか、というのが今回の公案である。



日々、なにがしかの専門者として食い扶持を得続け、
はたとふりかえっておもうのは、
自分自身、たいそう職の中で喜びや充実をおぼえるのは、
なんらか命をかけた思いがあった場合であるということだ。

命の賭け方に大小あるにせよ、
少なくとも、今ここで生きる自分が、この先で生きる自分を賭して物事にあたった場合、
とても自分に、学習や成果をもたらすと実感している。
そしてさらに、関わる人、さらにその先の人々に対して、
己の意志がどうにか伝わり、己の振動が伝わった思いをする。

うまく行ったか、そうでないかは別として。



さて、心配という事象に関して。

人々との関わりの軽重を問う側面で、
いかに自分はその人を思い、心配できるか、という秤は用いられる。

しかし、心配とは、その深刻な見え面と異なり、たいそう容易く生まれうるもの。
2週間先の天気を思うのとおなじように、よそ様に対する心配は生まれうる。

本当に大切な人への心配と、どうでもいい人へのそれの差は、
そこに、テキトウさがあったかどうかと思うようになった。



バスでたまたますれ違った人がこける、
自分の身近でとてもいろんなものを共有する人がこける、
己の飼い犬がこける、
取引先の人が、ふとした段差にこける、
いずれのケースでも、
多く我々が発する言葉は、「大丈夫?」という言葉だ。

客観的には、おなじような心配の発露に見えうるが、しかし同時に、
これほど、客観的な者に、
その人がいかにその相手を思い気遣うかが現れる局面もないであろう。



私個人の経験でいうと、実は、
バスでたまたますれちがった人への心配こそが、
もっとも切実なものである気がするのである。

人は人に慣れると、慣性が働き、流れが生まれ、
とても曖昧な「ノリ」なるものが間に生まれるものである。

利害関係が如実な取引先との関係は、自ずからとてもドライな関係を生むのだが、
それに次いで、きわめて身近な間柄こそが、
劇場の俳優張りに、決められた心配風の台詞を語ろうとさせてしまう。

そこで生まれる、「大丈夫?」のなんと薄いことか。

あげくに、「心配だ。」などと言ってしまい、薄さは際立ってしまう。

こんな浅はかな表現すら飲み込み、密な関係を持続させることに、
身近さのチカラはあるのだが、
他方で、この身近さによっかかり、相手方に負荷すらかけてしまう「あやうさ」こそが、
より意識されてしかるべき物事であろう。



心配事の度合い、そこにおけるテキトウな話し振りと、表現が向かう相手との距離は、
どうも、二次関数のY軸に対する放物線のような関係にあるのではなかろうか。

相手との距離や近しさ、親しさが、
自分自身でコントロールできる範囲を超えてしまったとき、
心配事は身につまされる、リアルな感情となる。

相手との親しさが、赤の他人レベルになっているとき、
心配事は素直さをもちうる。



相手を心配するとき、
心配する自分自身と、心配される相手のことを、
自分のなかで、一度反芻してみた方がよい。

そこで、何かを演じ、何かを確かめようとする、
心配する気持ちの根っことは相反するものが有る場合、
それはもはや心配ではなく、ただのテキトウな、浪費される、想いにすぎない。

そんなものは、実は、心配される側には、ゴミである。

このエコロジー隆盛のおり、人間に置ける最大の浪費にして気づかれないもの、
感性の無駄遣いに、もっと気遣いがあってもよかろうに。



この箴言めいた公案は、以下でしめくくろう。

テキトウな心配は、心配ごとすらも心配におもわせ、
あくまででたらめな、ないののと同じ、迷惑な波風である。

毒にも害にもならないものは、捨て去ってしかるべきである。

合掌
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2005-08-01 00:13:07

公案1-2 おしろいの本質

テーマ:公案
仕事の関わりで、年に数回、京都に行く。

仕事の関わりであれば、普通、先方の事務所やら打ち合わせ場所やらに行く、
というのが普通だが、目下関わっている仕事は、
なかなか訪ねられない、寺社や庵、料亭やお座敷などに、お邪魔することが主である。
ひどいことも多い仕事であるが、こういうところは役得である。

公案のくせに生臭な話であるが、今回は、
この過程でおしろいについて思ったことを取り上げる。



小さな頃、「これ舞妓さんゆぅて、和の文化に身をやつしきった人や。」と、
写真やら遠目に実物など見させられながら言われて、
こんなおしろいのお化けが、和の文化ならば、なくなってしまえ、
と内心思ったものである。

おしろいを白ボケするほどに振りまき、
するならとことん白虎社のようになってしまえばいいのに、うなじの下は地肌が見える。
このごてごてし、なまなましくもある舞妓なるものは、
お日様の下で生きる子供にとり、とても気色の悪いものであった。

お茶屋の文化も読み知ったりと、歳をとりあたまでっかちになり、
子供のころの違和を記憶に残しながらも、興味本位でお座敷にあがった。
が、やはり、明るいお座敷の中で見る彼女たちは、
違和感のあるのみならず、いっそうの距離感を覚えさせた。

それほどまでに、我々の感性は、
ほんの五十年前の人々と変わってしまったのであろうか。
そうならば、和の文化はもはや、儚くなり、
無味乾燥なことになってしまったということである。

どうにも自分の乾いた感性がやるせなく思えた。



また別の機会に京都に行き、高台寺のそばへお料理をいただきに参った。
ちょうど、花灯籠という名前だったか、
石畳の道すがら、家々の前には橙色のやわらかい光を放つ灯籠が並べられていた。

そこで、向うの角から、舞妓さんが2人、お座敷を指してだろう、歩いてきた。


その姿は、息をのむものであった。


着物の金襴、かんざし、それらが、灯籠の弱い光をきらきらと反射する。
闇に覆われた町並みを切り取る、
張りのある着物の線と、やわらかい髪や顔や手の線が、
目をゆるがせにしない、引力ある輪郭をつくる。

そうして、橙にゆらぐ光の中で、面には冷たさと暖かさが交錯する。

野暮ったい灯籠の光の色味の中に、さっと現れた、
とても垢抜けた美の複合体でありました。

そして、その後のお食事の後には、無理を言って、
紙燭の灯りのみで、お酒を飲んでみた。

お酒をついでくださる、女将さんの弱いおしろいに映える光をみながら、
なるほど、これが舞妓さんであれば、目くるめくなぁと思った。

襟のところ、舞妓さんがおしろいを塗らないのは、
地肌を見せたいのではなく、陰をつくりたいからなのでしょう。



思うに、少なくとも都会に住むものは、あまりに煌煌とした光に慣れすぎている。

野外で食事のあと、語りながら眺める薪の火。
暗い河原で、いつまでも友達と遊ぶ我らを薄く照らす月の光。
夜の波打ち際、ときどき遠くに見える、灯台の火。
冬の夜、自転車をこいでいると気づく、オリオン座の星明かり。

たとえばこういうとき感じる、なんともいえない落ち着きを、忘れ始めている。

明るい、は、絶対善のように響く言葉に今やなっている。
だが、はっきりと見えることは、実は、何も見ていないことにもつながっていた。
たとえば、料理で、食材に熱を加えることが正しくても、
高温に長時間さらすとは、うまみを出すどころか、食べられたものではない。



おしろいは、照り映えすると同時に、陰影を映し出す。
青ざめた顔と、暖かい顔、を同時に描く。
顔という、人間の体で最も複雑な部位に、必然的に生まれる陰影を巧みにあしらう。

舞妓さんを白ボケしたお化けと思っていたのは、
私の目と頭が光ボケしていたためであった。

このものの見方は、なにもおしろいにかぎらずとも、
昔の日本芸術や、はたまた、西洋古典芸術を見る際にも通底するだろう。



最後にこの公案は、敬愛すべき大先輩、九鬼周造の文章から結語を引く。

ニーチェは「愛しないものを直ちに呪うべきであろうか」と問うて、
「それは悪い趣味と思う」と答えた。
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