えん
テーマ:ブログ榎町を開所して少し慣れた頃、事故のため高次脳機能障害をうけた婆ちゃんというにはまだ若すぎる内田さんの依頼をうけた。
60歳で長年務めたパートの仕事を辞める予定だったころ、自転車にのった内田さんは車にはねられて頭を打った。一命を取り留め家族がホッとしたのもつかのま、お母さんは事故前のお母さんとは違う人生を強いられることがわかった。
ご主人は当時仕事を定年退職され、お前も仕事やめて一緒にゆっくりしようと言われていた矢先の出来事だったそうだ。
以来8年間、夫婦2人暮らしでお父さんがお母さんを介護されていた。どんなふうに過ごしているのか、榎町までお母さんの様子を見に来てくれたこともある。日々をかさね、私たちはお父さんを、お父さんも私たちを信頼してくれるようになり、お母さんは、毎日利用してくれていた。
事故後のお母さんは、単純な言葉の意味は理解できるが、相手の気持ちや状況を理解することが難しい。どんな状況でも、よくわからなくなると、しっこ、とトイレに行きたがる。独りになるとか、その場から逃げたい時の唯一の言葉が「しっこ」なのだ。また、目の前にある食器など、時々わずらわしくなるのか、片付けようとして力の加減がわからずふっとばす。独りで家に居ると、お父さんをさがすのか、ふらっとどこかに歩いていく。浴槽の中にいたこともあったそうだ。歩行はふらつくので危ない。あと、両手に機能障害があるので、転んだら手で身体をかばえない。事故後、言葉が出るようになったと思いきや、汚い言葉が出たので、利用開始するときに、お父さんがとても心配していた。
そんなこんなで、過ごしていた。今日はウォーキングに行って来たんだよ、とか、お父さん自身が生活をつくっている様子も話してくれていたある日、ガンがみつかった。
治療をきいたとき、それはそうとう進んでしまったガンであることがわかり、これから、お父さんお母さんをどうしていけばいいのか嵐のような日々に息子さんと娘さんが立たされた。
お父さんの入院で、緊急に結婚のため遠くに住んでいる娘さんが実家に帰省され、お母さんを迎えられた日、お父さんへの心配を一緒にできるはずのお母さんはいつもと変わらず、たった独りで耐えておられたときのことが忘れられない。その時に私は何もできなかったこともあわせて。
1年間あまり、家族全員が嵐のような日々を過ごされた。お母さんは、紆余曲折したが、皆が納得いく施設におられ、榎町に来てくれている。
そして昨日、お父さんのお葬式があった。お母さんは、葬儀場に来て、安らかなあの優しいお父さんが横たわっておられる姿を見て、「おとうさん、おとうさん」と呼びかけていた。あとは、お母さんの実姉に促されるままに、「ありがとね」と言われていた。
式のあいだ、お母さんはいつものお母さんだった。少しだけもしかしたら、と思っていた。現実はあたりまえに無情に流れて行く。
沢山の人がお葬式で泣いていた。中年の男性も泣いていた。お父さんのお人柄が偲ばれるお葬式だった。
喪主の息子さんの言葉が、どこかに書いてあったようなことばじゃなくて、ひとりの男性が父親の前でこれからの生き方と感謝を述べられていた。お父さん、聞いていてくれているかなと期待する。
お母さんと今住んでいる施設に戻り、服を着替えてもらう。ふと、車内で前を走る霊柩車に向かって、「おとうさん、ねとるね」と言われたことを思い出す。お母さんは亡くなったことを寝ていると思っているのだろうか。
私はこの頃お葬式であまり泣かなくなった。20代の頃は号泣していた覚えがある。それが今は、じんとしたり、涙がにじむ事はあるが、泣かなくなった。
それよりも出会いやその人と過ごした日々や教えてもらったことに感謝することが多い。
今回も、お母さんの利用を榎町に決めてくださったことや今までのこと、これからも頼むよ、と言われているだろうと、責任の重さを一層しかと受け止めていた。
反面、久しぶりに涙がボロボロでた。その意味がぜんぜんわからない。
ただ、ぜったいに、このおもいは忘れずに生きて行こうと思う。








