日常語では「けんかい」、仏教語では「けんげ」と読みます。

日常語では文字通り「物事を見て、解釈した意見、考え方」を示します。
震災以降、さまざまな専門家が見解を示しています。
それを見ながら、視聴者や読者である私たちはさまざまな判断を下すわけですね。判断材料としての見解は、大切です。

しかし、仏教でいう「見解(けんげ)」は、特定の見解という意味であり、良い意味に用いられることはあまりありません。
「偏見」「我見」「私見」というときの「見」は、ある条件での一側面から判断したものととらえられるからです。私たちがいるこの世界での事象は、さまざまな原因や条件、つまり縁起によって成り立っていることから、結果もまた変化するはずのもの。
しかし、「見解」というものは聞く人に永遠の真理であるかのような誤解を生みやすいのです。

しきりに「私の見解は」とそれだけが真実であるような呼びかけを耳にしたとき、一度自分自身のなかに落とし込めるものかどうか、その判断を大切にしたいですね。

他人の見解を鵜呑みにせず、網羅的に判断すること。
自分の見解も軽く述べず、熟慮し、影響を考えてから提示すること。
そのように受け止めたいと、自分にも言い聞かせているところです。