以前の思ひ付きに過ぎませんし
何だか的外れのやうにも思ひますし
予言に固執する愚は分かってゐるつもりですが
書きかけを見つけたので一応記事にまとめておきます



日月の巻 第十帖
今は型であるぞ。
改心すれば型小さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。

猫に気付けよ、犬来るぞ。

臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。


以前…この犬は戌年を指すのでないかと書いたが
猫についてはよくわからず…深い意味はないのではないかと書いてしまったが
どうなのだらうか

どなたかも指摘されてゐたやうにこの猫は…寅年を指すのかもしれない

しかし…

2015年 乙未
2016年 丙申
2017年 丁酉
2018年 戊
2019年 己亥
2020年 庚子
2021年 辛丑
2022年 壬
2023年 癸卯
2024年 甲辰
2025年 乙巳


犬が来るから猫に気付けよと云ふならば 
猫(寅年)→犬(戌年)の順にならねばなるまい

(尤も犬が来たら猫に気付けよとも読めなくもないが)

2010年 庚→2010年に何かあったらうか…?
2011年 辛卯
2012年 壬辰
2013年 癸巳
2014年 甲午
2015年 乙未
2016年 丙申
2017年 丁酉
2018年 戊
2019年 己亥
2020年 庚子
2021年 辛丑
2022年 壬
2023年 癸卯
2024年 甲辰
2025年 乙巳


八年も間があったら時節の速い昨今何が何やらわかるまい

ゆゑにこの猫は別の何かなのかもしれないが
(何処かの国を指すと云ふ話もあったと思ふが)
以下のやうに解するならばどうだらう


      大本神諭                        日月神示→現代                日月神示→未来

〇  (1912年 壬子 大正元年)  2015年 乙未 大正104年 (2039年 己未 大正128年)
一  (1913年 癸丑 大正02年)  2016年 丙申 大正105年 (2040年 庚申 大正129年)
二  (1914年 甲  大正03年)  2017年 丁酉  大正106年  (2041年 辛酉 大正130年)
三  (1915年 乙卯  大正04年)  2018年 大正107年  (2042年 壬戌 大正131年)
四  (1916年 丙辰 大正05年)  2019年 己亥 大正108年 (2043年 癸亥 大正132年)

五  (1917年 丁巳 大正06年)  2020年 庚子 大正109年 (2044年 甲子 大正133年)

六  (1918年 戊午 大正08年)  2021年 辛丑 大正110年 (2045年 乙丑 大正134年)
七  (1919年 己未 大正09年)  2022年 大正111年  (2046年 丙寅 大正135年)
八  (1920年 庚申 大正10年)  2023年 癸卯 大正112年 (2047年 丁卯 大正136年)
九  (1921年 辛酉 大正11年)  2024年 甲辰 大正113年 (2048年 戊辰 大正137年)
十  (1922年 壬 大正12年)  2025年 乙巳 大正114年 (2049年 己巳 大正138年)


もしも寅年(猫)を大本神諭の干支と考へるならば
猫は2017年の今年
犬は2018年の来年になる

「2017年に気を付けなさい…2018年には始まるから」

このやうに読めないことも無い

しかも今年は未来の時世においては辛酉である
来年以降の予兆が年内に見出せるのかもしれない



では「犬が来たら猫に気を付けよ」と解釈した場合はどうなるだらう

2018年の戌年(犬)が来たら2022年の寅年(猫)に気を付けよ
つまり2018年に2022年の型が示されるのかもしれない

それは戦争かもしれないし地殻や気象の変動かもしれないが

何があらうと2018年は型である
本番は2022年である…


今は型であるぞ
改心できれば(2018年の)型(は)小さくて済むなれど
(改心できなければ)(2022年のアメツチの)掃除大きくなるぞ
猫に気付けよ 犬来るぞ
臣民の掃除(改心)遅れると(アメツチの掃除)段々大きくなるのざぞ

意味を通すために少し補足してみたが私見に過ぎない



まぁね只の解釈ですし小難になってゐるかもしれませんし
其れが何であれ2023年には止む…ハズですし

何がどうなるにせよ或いは此の日常が続くにせよ

大切なのはお金ではなく
地位や名誉でもなく
他人への影響力ではなく
他人に優越することでもなく
他人に認められる事ですらなく

大切なのは
一人ひとりが自分自身の中心にゐる事であり
その中心が渦の中心となり其処からその者の全てが生まれてくると云ふ事ですから


其処の処を見誤らないやうに…
見失はないやうにさへしてゐれば予言とやらがどうであれ関係ないのでせう


私はね
さう思ってゐるけれど

人にはまた人の考へがあるのでせう


あゝ…別にお金やら地位やら否定してゐるわけではないですよ
それはどうでもいいです
敢へて否定する意味すら無いです

いや…今世においてはお金は多少有った方がいいのかな…
全くないとね
少し考へ込んでしまふかもしれない


いやいや…金の有る無しとかその辺りの事はやはり神示を読む者である以上は「神の御心のままに」と云ふ事で済ませておきたい


いやいやいや…神示を読む以上「神の御心のままに」は金の有る無しの話だけで済むわけないだらう

随神 惟神 かんながら…

私はまだまだ改心が足りないやうである







此の花ね…



気に入った写真が撮れさうだったから
いろいろ撮ってみたのだけれど



今一つすきりとしないのだね…


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蝶と蜻蛉

テーマ:




タテハチョウ科 イチモンジチョウ



ポケット昆虫図鑑 有能である

しかし…



この大型の蜻蛉
オニヤンマかと思いきや
どうも違ふ



模様の相違は個体差かとも思ったがさう云ふ事はないやうだ

コヤマトンボ(エゾトンボ科)
サラサヤンマ(ヤンマ科)
トラフトンボ(エゾトンボ科)

どうも違ふ

どうやら図鑑には載ってゐない

で…ネットで調べてゐたら

これは
サナエトンボ科に属するコオニヤンマのやうだ

オニヤンマはオニヤンマ科

ギンヤンマはヤンマ科

一般的に大型の蜻蛉は
ヤンマと呼ばれるてゐるやうだが
生物学上のヤンマ科とは厳密には一致してゐないのですね

蜻蛉学はなかなかに奥が深いやうである


しかしこのコオニヤンマは何をしてゐるのでせうかね
紫陽花の花にゐた小虫でも食べてゐるのでせうか

紫陽花を貪り食べてゐるやうにも見えるのですが
蜻蛉は肉食ですからそれはないですね

画像検索すると先日載せたショウジョウトンボをコオニヤンマが食べてゐる写真が出て来たりします

蜻蛉界と云ふか自然界では日常なのでせうし
何をどうとも云へないけれど…


 
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「〇」と「・」
定義はいろいろと出来るのですが
相対的に見た時と絶対的に見た時では全くと云っていいほど異なる



相対的に見るならば
外(水/肉体/物質)が「〇」で
内(火/霊性/精神)が「・」である
しかし中心のムから見れば内(火/霊性/精神)もまた「〇」になり
その場合は中心の言葉になり得ないムが更なる「・」となる

「〇」の中に「・」があり
その「・」を「〇」として更なる中心の「・」がある
「・」の中に「・」があるとも云へる

内(火/霊性/精神)を幽界霊界神界などと分けた場合には更に細かく「・」の中に「・」があり更にその中に「・」があり…と云ふやうになるだらう

日月神示では以下のやうに記されてゐる


秋の巻 第十八帖
人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。
へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。
「・」と「・」とつながって更に大き「・」につながってゐるからこそ動きあり、それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。
同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。

早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。
心の中の中の中の心の中には「・」が植付けてあるなれど、外がまっくらぢゃ。
今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。
いらんものは早うすてて了へよ。』



しかし絶対的に見るならば「・」があり「〇」があるだけだ
内も外も無い
精神も物質も幽界も霊界も神界も無い

認識者があり確定できない世界があるだけだ
それを渾沌と云へなくもない

その先にはどうやら見る者も見られる物もない完全な「不二」があるやうなのだが私は知らない

それは「・」だけとなり「〇」が消え失せるのか
「・」も「〇」も共に消え失せるのかはわからないが
取り合へず記号としては日月神示で立立体を示す「●」としておかう
「・」の拡大と解してもいいのかもしれない

「大悟」と云ふのはその辺りの事だらうと思ふが定かではない

さうして
「同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。」とあるから其処(=完全な不二/大悟)までは要求されてゐないやうにも見える

無論求めたい者は求めればいいのでせうけれども地上を弥栄するためには或る種の相対性や二元性と云ふモノがどうしても必要になるやうだ









私が何を書いてゐるのかわけの判らない方もまだ多いかもしれないが
2021年の秋までには一人ひとりが「〇」と「・」の見当が付くやうになってゐなければならない…らしい












・・・


神様はなかなか奇跡を起こしてはくださらないらしい

それは少なくとも私らにすぐわかるカタチではと云ふ事なのかもしれないが


人知の外の理であるからこそ神は神なのだらう…






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非常にどうでもいい話ではあるのだが

ちと思ったのですがね
私はどのやうな人間に見えてゐるのだらうな

断っておくが私は聖人君子ではない
富豪でもない

いろいろ書いてはゐるが
私は単に
私なりに「・」(中心)の見当が付いてゐるに過ぎない

知ってゐる人は知ってゐるのだが
「〇」(社会)を前提にした場合「おまへもっと真面目に社会人やれよ!」と云はれても実はおかしくないのだが
云はれたところでとりあへず食うには困ってゐない以上肩を竦(すく)める他ないやうな人間である
 
悪人では無いつもりだが善人とも云ひ難い 
「そもそも善悪なんぞ他人の評価であるから私の善悪なんぞ私が知るわけ無いだらう!」と開き直るやうな人間である
 
社会人として真っ当かと云へば疑問に思はなくもないから真っ当になるために資格を取ったりして多少の努力はしてみたものの面倒臭くなったので取った資格を活用せずに全て放置する人間である



日月神示に神示を読み解く者の特徴が記されてゐるのだが… 
いや…詳細を書くのは止めておかう 
尤も私が神示を正確に読み解けてゐるのか否かは何とも云へない



社会の中で一角の人間…多くの人間に認められるやうな者でなければ
このやうなことは書くべきではないと云ふならばその者の「・」と「〇」についての見解は私とは全く異なるから私とは無縁のやうに思ふ

 
美醜善悪老若男女貧富貴賤上下優劣
それが事実であれ価値観であれ問題となり重要性を持つのは全て「〇」(社会)においてである
 
完全に無色透明な「・」(中心)には関係が無い

「・」(中心)
を前提にした場合
極貧無職も超絶大富豪も
一切関係なく
美醜善悪老若男女貧富貴賤上下優劣は雲散霧消して

「世界」は「一列一平になる」

 






極彩色式



極彩色式
この鮮やかさは癖になるな…

邪道だ




これ
普通の
 
 
結局何であれ人それぞれだからね

御自身の意見があるならば云ふのもいいでせうけれども
誰であれ何であれ批判したり否定したりするのは違ふかもしれない

と云って批判したり否定したりする人を批判したり否定したりするつもりもない

何だかわからないなぁと思ひつつ私はぼんやり世相を眺めてゐるだけである




それで…

日月神示を超簡潔に数行でまとめてみようかとふと思った

無論私見であるから正当性の保証は皆無である



●日月神示によるならば遠からず「〇」(世界)が大掃除されて建て替へられる

●私らが「〇」(認識された世界)に埋もれてゐるならば(同一化してゐるならば)「〇」(世界)と共に掃除されてしまふゆゑに認識者であり無であり大神である「・」(不二)に気づけと神示は云ふ

●神であり自己の中心である
「・」(不二)に気づくならば「〇」(世界)が掃除される間私らは「・」(神)に避難できる

●さうして建て替へられた「〇」(新世界)に私らである処の「・」(魂)が戻り「ⵙ」(ミロクの世)となる

かう云ふ感じか


補足事項としては
「○」(世界)も「・」(中心)も今此処にある
神界や霊界や異次元なんぞを持ち出すと常人たる私らにはわけがわからなくなるから
「○」→「・」→「ⵙ」と云ふ遷移は純粋に個人における意識上のもの…形而上のものと考へた方がいいやうに思ふ

要するに個人の意識の焦点の遷移である


それから「○」(世界)自体が悪なのではないし
「・」(中心)が善なのでもない
事は明記しておかなくてはならない

現状の何が問題なのかと云へば
「○」(世界)において「・」(中心)が失はれた(忘れられた)事だらう





以下は観点/解釈/仮説の一つに過ぎない


例へば宇宙の構造上の問題で神様が人々に「・」(中心のム)を気づかせなくてはならなくなったとしたらどうするだらう

已むを得ず「○」(世界)を壊して人々を「○」(世界)から引き剥がして「・」(中心)に追い込まうとするのではないか

「○」(世界)に固執し「○」(認識された対象世界)が全てだと思ってゐればゐるほど
或いは「○」(世界)の中の何かに自己同一化してゐればゐるほど
厳しい状況にならざるを得ない
崩壊する「○」(世界)に引き摺られて個性も崩壊しかねないやうに思はなくもない

尤もうまくいけば反動で容易く「・」(中心)へと至る者も出てくるのかもしれないが少数に留まるだらう



かう云ふやうに説明できなくもないがこれは一つの例へだからあまり突かないでほしい


以上よくわからなかったかもしれないけれど
「・」と「○」はどうも重要だと思はれるのでいづれまた記事にしようと思ふ









雨宮第慈(ダンテス・ダイジ)講和録4 「素直になる」

「うん。人はいろんなこと言ってくれるよ。
『うん、君にはこれがふさわしい』
さっきなんか俺が言ったじゃん。
『君には雨宮式冥想がふさわしい』なんて(大笑)。
うーん、いろんなこと言うよ。
君の前に現れるイエス・キリストも『うーん、他のことは忘れろ。俺について来い』なんて言うかも知れない(笑)。

でもね、いい?
一番大切なことは君が感じとるってことだ。」


「…君がさ、何かを選ぶっていうことはさ、何かを本当に感じるってことなんだけどさ、その時初めてさ、君はそれに関わるさ、大切さっていうのを感じるんだ。

そして君が感じることっていうのはさ、誰も君の代りに代用品にはなってくれない。

例えば君の周りで百人の人間がさ『うーん、あれがいい、あれがいい、あれがいい』とみんな言おうとするよ。
そしたら君は一時的に乗せられて『うーん、あれがいい、あれがいい』ってそのあれっていうの、やってみるかも知れない。

でも君の本当に心の底から出たものじゃなけりゃあ、きっとそれははげちまう。
そしてもっと君らしく本当に感じられるものの方へ向かって進んで行く。」







日月神示にしても興味が無ければ無理をして読んでも意味がない
ただ興味が無くても読んでみたら何か感じる処があるかもしれないと思はなくもないが人それぞれだらう

自身の内側から本当に呼応するものがなければ何処であれ何であれ其処に長居する必要はないのだらう










何気なく撮った一枚が結構気に入ってゐたりする

この地点からもう少しいろいろ撮ってみればよかったのではないですかーと
後で思ふのだが後の祭り…と云ふほどでもないだらう

まあそれはそれでね
人生無常ですから


とある風刺画

テーマ:





読んだ書物の量だけ見える世界が違ってくる



➤何も読まなければご機嫌なお花畑の景色を誰かさんが作った模造品だとも知らずに現実だと信じ込んで生きて死んで往く

➤様々な書物を多く読めば人間界の現実が見えて来る

➤更に多くを読めば…これは何だらう
人間界に囚はれなくなる?
自然への回帰?
悟りを開く?神へ近づく?
人界の悪もまた神仕組の一端で在る事を知る?
具体的な言葉にはならなくても何となく意味は伝はると思ふ



以上のやうな意味合いの風刺画なのだらうけど
幾つかの注意点があると思はれる

…しかしながら結局「例へ」だからね
細かく説明したり反論したり「注意点があると思はれる」とか非常に無粋ではあるのだが

とりあへず此処は無粋で押し通してしまひませう


で…上記の風刺画について


●入手する情報(読む書籍/見る番組やサイト)によって状況は全く異なって来る


多くを読んで聞いたとしても書かれてゐる事や云はれてゐる事をそのまま信じるだけならお花畑の壁画が他の壁画に変っただけで壁の向う側を見てゐることにはならない

自分で考へなければならない
何であれ批判的に…論争するつもりで読んだ方がいいのかもしれない
それはテレビ番組でもネットの情報サイトでも同じだらう
別に投稿する必要はないが自分の中で論理的整合性くらゐは確認した方がいいだらう


正確な知識をどれだけ増やしても人は変れない
例へば好戦的な者がどれほど多くの正確な情報を得たとしても好戦的な性格が変る事はないだらう

知識を増やすこと
情報を得ること
それらが正確なものであれば世界認識を変へてくれるかもしれない
「あゝ人間の世界とはかう云ふ処だったのか」と

しかしその情報が私ら自身を変へてくれることはない
「我」の強い者は「我」の強いままだらう

例へば戦争の情報を得る事が怒りや憎悪や嫌悪や諦めをもたらすことはあるかもしれないし闘争に立ちあがる者すら出てくるのかもしれないが
それは情報に対する反応に過ぎない
現状の私らの延長線上に生まれるモノに過ぎない

では例へば霊的な知識…輪廻転生の知識を手に入れたとしよう
確かにそれで世界認識は変るかもしれない
しかし知っただけでは私ら自身の性根は変らない

情報は何処までも「〇」であって「・」とは無縁のままだ

極論を出すならば…
どれほど正確な情報と知識があっても悟りには至れないのだと云ふ
全知全能と悟りは因果関係にないのださうだ




結局私らは現実からしか学べない

実地で直接 実身(みみ)で聴く他はない

日月神示も含めて如何なる書籍であっても文字や言葉は補助的なものだ
参考書だ
と云ってバカにしたものでもない
と云ふのは(書籍の種類に大きく左右はされるが)実身で聴く下準備が出来るからだ




でもまあ見てゐる世界がどれほど確からしくて自分にとっては当たり前であったとしてもそれが全てではない…と云ふ事を如実に示す風刺画であるとは思ふ







写真機の画面で確認すると色が薄いやうに見えたのだけど
それなりに色出てますね

でも写真撮った時は何だか色が違ふなあと思ったので色彩を…






色彩を強調して撮ってみた

極彩色モード

モードて日本語で何て云へばいいのか
様式/流儀/方法/動作体系…どうも馴染まないね




これは…邪道だ

邪道だ…けれども



日月神示を解する上で重要な例へが幾つかあると思はれる


一つは「火」「水」「土」である

もう一つは「○」「・」である


この二つの例へが判れば日月神示の示す処は大方見当が付くやうな気がしなくもない

「火」と「水」と「土」は先日書いた気がするので今日は「○」と「・」を考へよう
過去記事と重複する点は気にしない事にする

書くべきか否かと云ふ点も無視する事にする


で…

世界がある

物質界でも地上界でも人界でも地球でも宇宙でもいい
私らの現にゐる世界である

これを私らの「外の世界」と云ってもいいが私らに「認識された世界」と云った方が正確である

世界とは「認識された一切の事象」であると云った方がより適切である

地球も宇宙も私らの認識とは別に(私らの認識とは無関係に)存在してゐると云ふのが一般的な認識なのだらうしそれはそれで構はないのだが

此処では
地球や宇宙を「現に今此処で認識されてゐる事象」として把握する


宇宙や地球と云ふ世界は私らの認識から独立して存在してゐるやうに見えるのは確かなのだが其の見方はちと置いておく事にして

世界が今此処で貴方や私に認識されてゐると云ふ事に焦点を当ててみる

当然その世界の形や内容や意味は一人ひとり異なるわけだが「認識された世界」と云ふ点では同じである


此の「認識された一切の事象」として世界を把握した場合
その世界は物質界のみならず私らの内なる精神界をも含んでゐる事に注意すべきかもしれない

私らの喜怒哀楽その他諸々の心理的動向…一般的には内なるものとされる諸々の事象も認識対象である以上は此処で云ふ世界に含まれる

つまり内であれ外であれ「認識される事物事象一切」が世界である
従って内外の区別は此処においては意味がない




この認識された一切(=世界)を「○」と例へる

「○」の円周上に(自己の内外に関らず)認識された一切の事象(=世界)を並べると考へてみよう

ではこの「○」(世界)において貴方や私は何処にゐるのか
「○」の中か外か円周上か
認識された事物事象と共に円周上を彷徨ってゐるのか

さうなのかもしれない



本来の私らは「認識する者」であって「認識される対象」ではない
つまり認識された事象である「○」の円周上にはゐない

繰り返すが円周は
認識された対象」である
その一切の認識された対象から等距離の地点に「認識する者」としての私らはゐる

それは何処なのかと云へば当然「○」の中央である

しかし「認識する者」は認識され得ない
認識者の位置は明確なのだが認識者自体は認識され得ない

何故ならば認識されたらそれは「認識された者(対象)」であって「認識する者」ではなくなる
目が目自身を見れないのと同じ事である

ゆゑに認識者は位置を示すが面積のない「点」として示される


【点(てん)とは、空間における正確な位置を定義するために使われる概念である。
一切の体積、面積、長さをもたない。】



即ち「・」である

私らの本性は「・」であって「○」(世界)の真中から「○」(世界)を見てゐる

「○」は世界であり「認識された一切の事象」である


この私らの本性「・」世界「○」を合わせて「ⵙ」として示すのが日月神示である

何故
「ⵙ」が神をも意味するのかと云へば「ⵙ」が全てであり完全性を意味するから
全てで完全であるモノとはつまり神であるから「ⵙ」をもって神とするのである



ついでに書いておくが私見によるならば

「○」の中心の「・」「﹅」としてゐる書籍が多いがあれは間違ひである

恐らくは岡本天明が筆で「・」を書いたので「﹅」となってしまっただけの話で岡本天明自身は「・」と書いたつもりの筈である
確かに「﹅」も点ではあるのだが長さと形がある
それでは例へにならないのだ
「﹅」などと書くからわけがわからなくなるのだ



さて今世の大抵の私らは「・」を忘れ「○」しかないと思ってゐる
自分を「○」の円周上の一部だと信じて疑は無い

私らは「○」(世界)の真中にゐない

これは老若男女貧富貴賤を問はない
『人種、信条、性別、社会的身分又は門地』に関はらず自分を「○」だと思ってゐる者が九分九厘だらう

さう云ふ在り方を神示では「ウム在り方」と云ふ

「○」の円周上に自分を生み出し「・」を忘れる在り方である

一方の「ナル在り方」とは「・」から始まり中心である「・」を維持したままに「○」を生きて
「ⵙ」へと至る在り方である



実を云へば今世における問題の一切は
元の元の元を糺せば人が「・」(自己の本性/中心)を忘れ「○」(認識された世界)にのめり込んでしまった事に起因するのではないかと私は疑ってゐる

では「○」など要らん
「・」だけでいいのではないかと云ふ者もゐるかもしれないが
それだとそもそも世界が成立しない
さう云ふ在り方もあるやうなのだがそれはまた別の話になる

人が世界を弥栄するためには
「ⵙ」しかあり得ない



ただしこの観点は「○」に馴染み過ぎ融け込み過ぎた者らからすると
全く意味がなくつまらなく退屈に見えるかもしれない
或るいは非常に不気味なものに見える可能性もある

無論福音になる者もゐるだらうとは思ふが








陽が当たらないと色が冴えない

ので




色彩を強調して撮ってみたのだが

これはこれで何やら不自然ではある



さて…延々と日月神示を中心として考へ続け書き続けてゐるわけですが
神の話である以上信仰と云ふ物も考へてみなければなるまい


信仰とは何だらう

【信仰(しんこう、英語 faith)とは、

・神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。
・人やものごとを信用・信頼すること。
・証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因。

信仰のことを仏教においては「信心(しんじん)」と呼ぶことが一般的である。
また比喩的な用法として、何らかの対象を絶対のものと信じて、疑わないこと指すこともある。】


…しかし
神仏(認識世界を超越した何か)を信じ拠り所とし信用信頼し確信を持つとして

何故信仰するのか
その根にあるものが何であるかによって一言で信仰と云っても千差万別になるだらう
思ひ付きで書いてみると以下のやうになるが他にもあるかもしれない


●物質的利益を求めての御利益信仰/身欲信心としての信仰

●精神的利益/他者に対する優越感/選民思想としての信仰

●生きて死ぬ上での個人的な精神的支柱としての信仰

●求道の結果それしか無くなってしまった信仰
(これはもうその者においてはただの事実だから信仰とは云へないのかも)



是非善悪上下優劣の問題ではないからどれがどうとか云はないけれども
もしも神(神々)なり仏なりを信じる(信じてゐる)と云ふならば

何故信じるのか
信じなければどうなるのか
自身にとって信仰は本当に必要なのかどうか考へてみてもいいかもしれない

そもそも自分はどのやうな世界を見てゐるのか
唯物論なのか唯心論なのか
それほどきちりと分けられるものでは無いと云ふならば…

物質と精神のどちらを主と見てゐるのか
生や死をどのやうに考へてゐるのか

例へば恐らくは私たちの大半のやうに物質主義的な世界を見てゐるならば
その世界において神仏の存在は整合性を持つのか否か
自己矛盾を抱へ込んではゐないか

人間とは矛盾に満ちた存在であるなどと割り切るのは勝手だが
自己矛盾は容易く自己欺瞞へと変異し自己を分裂へと導くから可能な限り避けた方がよいと私は思ふのだがね


以上のやうな事を考へた上で違和感が無いならば信仰すればよいし
何か違ふと思ふならば止めればよいのだらうと私としては思ふのだが

神様は拝まんよりは拝んだ方が良いと云ふ


まぁ神様がさう云ふならばさうなのだらうけれども
結局は人それぞれの状況次第だらう
人それぞれの「心ある道」次第だらう



春の巻 第五十六帖
『行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。
それ見る目ないからわからんのぢゃ。掃除すれば判る。掃除結構。

拝むは拝まんよりはましであるぞ。

しかし拝んでばかりでは病気は治らん。金はもうからん。
拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。

理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。

喜びあるから病気も治るのぢゃ。
金も出てくるのぢゃ。おかげあるのぢゃ。
喜び神ぢゃ。
タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。』




大局から見るならばさう云ふ事なのだらうけれども
なかなかね
私らには目の前しか見えないから…

と云ふよりも理(ミチ)か
理(ミチ)と云ふのがどうにもかうにも掴み難いのだ…




天つ巻 第八帖
『あらしの中の捨小船と申してあるが、今その通りとなりて居ろうがな、何(ど)うすることも出来まいがな、

船頭どの、苦しい時の神頼みでもよいぞ、神まつりて呉れよ、
神にまつはりて呉れよ、神はそれを待ってゐるのざぞ、
それでもせぬよりはましぞ、そこに光あらはれるぞ。
光現はれると道はハッキリと判りて来るのぞ、

この方にだまされたと思うて、言ふ通りにして見なされ、自分でもビックリする様に結構が出来てるのにビックリするぞ。

富士の御山に腰かけて、この方 世界中まもるぞ。
かのととり、結構な日と申してあるが、結構な日は恐い日であるぞ。
天から人が降る、人が天に昇ること、昇り降りでいそがしくなるぞ。
てんし様 御遷(うつ)り願ふ時近づいて来たぞよ。
奥山に紅葉(もみじ)ある内にと思へども、いつまで紅葉ないぞ。』


因みにこの天津巻第八帖は2022年から23年の世界について記してゐる…ハズである
「船頭どの」と云ふのはその時の日本の指導者の誰かの事だらう





 


此の深い紫が何とも云へない…



陽の光の中で其の花だけが光ってゐるやうに見えたのです



どの花も陽が当たればそれなりに輝くものなのでせう



いやなに何となく書いてみただけで意味は無い…



モンシロチョウ

これで偶然希少種とか撮れると面白いのだがね
なかなかさううまくはいかぬだらう

前記事に載せた猩々蜻蛉はどうなのだらう
東京都区部では珍し…かったりするのだらうか





赤蜻蛉…?
てか赤過ぎぢゃね?



赤と云ふよりも赫
と云ふよりも緋と云ふべきか

忘れてゐるだけかもしれないがこれほど赤い蜻蛉は記憶にないね

調べてみるとこれはショウジョウトンボ(猩々蜻蛉)と云ふらしい

関係の有無は知らぬが猩々緋と云ふ色もあるのだね…

いはゆるアカトンボとはアキアカネの事であるから別種である







ところで…神示関連で書いておかうと思った事はまだ幾つかあるにはあるのだが少し考へてゐる



真のヒトになるための生き方
『このフミや今までの神示を解説しても意味ないぞ。

Ф(魔釣り)の者が解説すればФ(魔釣り)の解釈を伝えることになる。

一人一人が原文を読んで自らの解釈を応用せよ。
実行せよ。



さうなのだよな…それが一番いいのだよな…

日月神示が難しいならば
或いは神の言葉とか霊言とか真偽不明で怪しすぎると云ふならば
ダンテス・ダイジの講和録とかね

或いはOSHOでもクリシュナムルティでも
古典に属するものならば臨済録でも老子でも
他にもいろいろあるだらうから
みなさんじっくりとお読みになればいいのにと思はぬでもない

必要十分以上に記されてゐると思ふのだが

人により向き不向きや好みはあるからどれか一つを絶対的に推奨することはできないが要するに

人類に必要な書物はすでに出揃ってゐる

宗教=詐欺と云ふ目で見る者もゐるだらうが
さう云ふ事も実際多いのだらうが
しかしそれで真性の宗教を見落としてしまふならそれはその者自身の責任である


尤も幾ら読んでも自身の身において考へなければ

自身を省みて感じる処が無いならば何を幾ら読んだところで全く何の意味も無い

読むだけ時間の無駄で
取り違ひと慢心を生むだけである
最悪はカルトへと至り有害でしかない

神示に示されてゐる「薬が毒になる」場合だ

なので自身を省みる事がない者は読まない方が良いとしか思へないが
さうでなければ読んでおいた方がいいのではないのかなあと思はなくもない
まあ興味が無ければ無理して読んでも意味ないのでせうけれども



と云ふわけで興味があるならば誰もが神示等
直接見当してみればよいわけですから
私が
これ以上書く意味も必要も無いのは確かなわけでもう書くのは止めるべきなのかもしれないと思ふのですが

しかしそれは理屈上の話だからな…

意味がなくても誰に何と云はれようと誰も読まなくても書きたければ書くだらうし
いや…幾ら書きたくとも書かない方がいい場合と云ふのも有りさうだが…
まあ確かに書くことに迷ひが出て来てゐるのは確かなのですけれども…


さうですね…
書くべきか否かと云ふよりは
やはり書きたいのか否かが最大の基準なのだらうなとは思ひます