神示の道は真理である
予言が当たらうが当たるまいが
さう云ふ事は表層の末節の上面だけの話でどうでもいい

神示の道が真理であることは変らない

ただ
もしも
岩戸開きがないならば
「〇」(今世)の人々には関係がない

と云ふよりも必要が無い

皆々様今まで通りに思ひ思ひの世界観を生きればよい
お金が全てだと云ふならば全てをお金に懸ければよい
それで非難される謂れは全くない


さうして神示の道が本当に必要となり甘露の水となる者はごく少数に留まるだらう


つまり真理は今世の世俗において必ずしも必要ではない

なるほど万象は真理に基づきはするが
万象が真理を意識しなければならない理由はないし
真理が万象に認識されることを求めることもない


しかし…

もしも予言通りに岩戸開きがあるならば
日月神示は万人に関係がある…どころか
万人必読の書となる…のだが

つまり岩戸開きとは真理の万象への介入である
介入と云ふよりは万象の真理への還元と云ふべきか



私は勝手に解してゐるが
神示は現状どの程度広まってゐるのだらう

私見によるならば残り数年しかないのだが…
私の解釈が正しい保証は皆無だし
万が一正しいとしても神仕組自体に必要な人数は少数でいいらしいから
神/真理の側からすればどうしても広めなければならないわけでもないのかもしれない









ユリカモメたち

寒い朝に日向ぼっこしてゐました


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信仰

テーマ:
何億人もの人々がイエス・キリストを信じた
何億人もの人々が神を信じた

ムハンマドを
アッラーを
釈迦を信じた

また
何億人もの人々が自国の政府を信じた
属する党を信じた
結社を信じた
依拠するイデオロギーを信じた

その結果が今世である

戦争は無くならず
悲劇は酸鼻を極め

私らは
何かを決定的に間違へてゐることに気づくべきなのではないか


己の外に何を信じようとも何も変らないのだと気付くべきなのではないか

己の外に支持する対象や依拠する対象を見出すのではなく
人は己の中心に回帰すればいいだけなのではないか

己の中心に依拠すればよいだけなのではないか




しかしかう書くと

「自己の中心」と「自己中心」を取り違へて
「われよし」のままに好き放題に振る舞ひかねない者もゐると思はれるが…

自己省察も探求心もない者らに説明するのはどうやら全くの無駄らしいし
いい加減に面倒臭くなってきたので
さう云ふ者らは「縁がない」の一言でおしまひにしたい









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土星と水星

テーマ:
一月十五日
今朝夜明けの地平線上に
水星と土星と月が集まるので見に行かうと思はなくもなかったが
地平線上に雲があるやうでたぶん見るのは無理だらうと
会社もあることだしと云ふわけで結局行かなかった


でもまあ日曜日の朝に水星と土星は撮って来た



これは月と蠍座と火星と木星

北斗七星と北極星とコカブ

北斗七星は判りますね?
右下の木に隠れさうなのが北極星
その上にあるのがこぐま座のコカブ




地球照

などと喜んで撮ってをりましたら

あらやだもうこんなにと云ふくらゐ
いつの間にやら明るくなり始めてをりまして

水星も土星ももう昇ってゐる筈でして

慌てて探しますと
薄明の中に漸く見つけました




星がタテに二つ
上が土星
下が水星


場所の選択間違へたし
見つけるの遅すぎだし


この後すぐに薄明の中に紛れて見えなくなりました

地球照に気を取られまして
目的の水星と土星を見逃すところでした



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日月神示において「仏」/「仏教」は如何に位置づけされてゐるのか

イハの巻 第五帖
『近くは仏魔渡り来て、わからんことにされてゐるであらうがな。』


仏魔の渡来…五度の岩戸閉めの一つである
と云ふからには神示は仏教を全否定してゐるやうに見えるがさうではない



アホバの巻 第七帖
『この神示 神と仏のふで(筆)。』

天つ巻 第四帖
『神も仏もキリストも元は一つぞよ。』

松の巻 第十七帖
『釈迦祀れ。キリスト祀れ。マホメット祀れ。

今の人民よいと思ってゐる事、間違ひだらけざぞ。
此処までよくも曇りなされたな。


まだまだ祀る神様あるぞ。』


冒頭の引用とは異なり
此処からすると如何なる神でも仏も何でもいいやうにすら見える

全否定なのか全肯定なのか
一体全体どう云ふ事なのか


イハの巻 第一帖
『釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、
今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。

同じ神二つあると申してあらうがな。
 ・ なくなってゐるのざぞ

・ なきもの悪ざぞ、・ は霊ぞ、火ぞ、一(はじめ)ざぞ。
くらがりの世となってゐるのも、 ・ ないからざぞ。
この道理わかるであらうがな。』



つまり宗教と一言で云っても「真」と「偽」があるのだな

真の宗教は「・」や「☉」に基づく
偽の宗教は「〇」に基づく

神様の名とか
何を祀る神なのかとか
礼拝の仕方とか
祈祷の言葉とか
一神なのか多神なのか汎神なのかとか
それらすべては表面的で枝葉末節な話で
つまり「〇」(外見/形式/仮象)であって

宗教の真偽の境界は
「・」(中心/本質/神/ム)があるのかないのかと云ふ事であり
「・」(中心)さへあれば何をどう祀らはうとそれは真の宗教である

従って例へどれほど荘厳な寺院/教会/神殿があらうと
どれほど信者が多からうと
祀る者らに「・」(中心)がなければ「〇」(偽)の宗教である
仮に全人類が信仰したとしても「・」がなければ偽の宗教である


現状から察するに偽の宗教は戦争をもたらす事が多いやうだが
必ずしもさうではなく社会的に役に立つ場合も多いだらう
しかしだとしてもそれでは宗教としては偽なのだな
と云ふのも
社会的に役に立つだけならば何も宗教でなくともよからうに
互助会でも福祉協会でも何でもいいだらうに

であるからして
世界の全宗教者らの急務の課題は「・」(中心/神/ム)の探求であるのだが…

あるのですが…

…まあそれはともかく

では神も仏も本質が同じならば区別する必要はないのかと云へば
必ずしもさうではない

本質は同じだがその顕れが異なる

黄金の巻 第六十二帖
『仏の力と神の力と同じでないぞ。
同じ所までは同じであるが、もう此処まで来たら、この先は神の道(ミチ)でなくては動きとれん。
神の大理(オオミチ)は上の上であるぞ。』

私見によるならば仏の道は「・」だけである
其処には確かに中心/ムがあるのだが涅槃寂静で終ってしまふ
其処では「〇」(三千世界)が必要とされない
仮象だ無常だと否定的に捉へられておしまひである
無論それで悪いと云ふことではないのだが全体性においては不完全である

神の道は「☉」である
「・」(涅槃寂静)であると同時に「〇」(三千世界)を弥栄する
それは全体性の極致と云へる


マツリの巻 第一帖
『今迄は☉(神)も仏も同じぞと申してゐたが
☉(神)と仏とは違ふのざぞ、
十(かみ)の動くが卍(ほとけ)ぞ、卍の動くが ᘎ(カミ)ぞ、 ᘎの澄みきりが☉(おおかみ)ぞ、☉(神)と仏と臣民とは違ふのぢゃぞ。』


この帖は「ひふみ神示」よりも「完訳日月」の方が解しやすいかもしれない

十…タテとヨコ:火と水:霊と物…即ちさう云ふ神の理(即ち「・」の「・」)
卍…神の理の現はれ…具現化が仏(即ち「・」)

ᘎ(ウズ)…これは(カミ)と云ふよりも地上界即ち「〇」と見た方がよい

さうして
ᘎ(ウズ=地上界)の澄み切りが「☉」
この「☉」は大神…ではあるのだが
寧ろ「ミロクの世」と云ってしまった方がいいのではないか



これを富士鳴門の仕組と重ね合はせるならば…

富士(不二)は卍であり「・」
鳴門(成十)は
であり「〇」
つまり不二の地上界への展開

さうして展開しきった世界が
富士鳴門(不二成十)で「☉」


私見と重ね合はせるならば

神/ミロクの世=「☉」
仏=「・」
(今世の)臣民=「〇」




地つ巻 第十九帖
『世成り、神国の太陽足り満ちて、皆みち足り、
神国の月神、世をひらき足り、弥栄にひらき、
月光、総てはみち、結び出づ、道は極みに極む、
一二三(ひふみ)、三四五(みよいづ)、五六七(みろく)、弥栄々々ぞ、

神、仏、耶ことごと和し、和して足り、
太道ひらく永遠(とわ)
富士は晴れたり、太神は光り出づ、神国のはじめ。








富士は晴れたり…


この色調調整はちとやり過ぎ感がある


鳥が入ってくれると何となく得した気分


 
下つ巻 第三十五帖
『金(きん)では世は治まらんと申してあるのに
まだ金追うてゐる見苦しい臣民ばかり、
金は世をつぶす本ぞ


金が全てだと金を追ひ駆けてゐるのは確かにおかしな話なのだが

とは云へ
金を無視すべきだと云ふのでは無い
金は悪で不要で蔑視すべきものだと云ふのでは無い


水の巻 第九帖
『金に難渋して負けぬ様にして下されよ。
金馬鹿にしてはならんぞ。


否定する事によってそれに囚はれてもならない
固執せずに
拒絶せずに…

日の出の巻 第六帖
『学も無くてはならぬが囚はれると悪となるのざぞ』

学であれ金であれ何であれ
囚はれるのが
束縛されるのが
固執してしまふのが問題になる


つまり主と従を取り違へるからおかしなことになるのだ
学も金も主にはなり得ない
中心にはなり得ない

固執するのではなく
拒絶するのでもなく
「従」として受け入れればよいだけの話なのだらう



ただ実際のところ
お金が役に立つのは今世においての話である
最後の最後では何の役にも立たない


ウミの巻 第十四帖
『見て見よれ、真只中になりたら学でも智でも
金でもどうにもならん見当取れん事になるのぢゃ』

ではどうしろと云ふのかと云へば

水の巻 第四帖
『お宮も土足にされる時が来る、おかげ落さん様に気付けよ。
勲章も何んにもならん時が来る、まこと一つに頼れ人々。』



実際…
「大峠」や「岩戸開き」を持ち出すまでも無く
自身の「死」の直前において何が役に立つのか

財産…知識…思考力…記憶力…いづれも役に立たないのではなからうか

伴侶?
…或いはさうなのかもしれないが
しかし「死」に直面するのは自分一人である
群衆に見守られやうが自身の「死」には自分一人で対峙せざるを得ない

精神の死であれ
肉体の死であれ
「死」に直面した時に何が役に立つのか

と云へばそれはやはり「マコト」…私見によるならば「不二」…と云ふ事になると思ふのだがどうだらう





月と火星と木星

本当は水星と土星を撮りに行ったのですが
夜明け時に東の地平線の少し上ですでに明るく撮りづらい上に
丁度地平線には雲が出てをりまして
見つけられませんでした




地球照
もっと月が細くなってから撮った方がいいのですけれども
とりあへず撮ってみた


【地球照(ちきゅうしょう)とは、
月の欠けて暗くなっている部分が、地球に照らされて、
うっすらと見える現象である。

この現象は、地球で反射した太陽光が月にまで達し、
その光がさらに月面で反射され、
再度地球にまで戻って来た所を観察する事によって認識される。
 





以下超私的追記

まだ見てますかー?

ごめん
年賀状超遅れた
本当に申し訳ない
すぐに出します



火星と木星が接近すると云ふので

撮ってみた

左上がアークトゥルス
右中がスピカ
左下の明るいのが木星
その右上が火星

木星のすぐ右側にある小さい星は
てんびん座のα星でズベン・エル・ゲヌビと云ふらしい
地球との距離77.18光年…
木星の動きは遅いのでこの小さな星と木星の位置関係は数日では変はりません
火星の動きは早いので
このてんびん座のα星と木星の目視距離を基準にして
火星の動きを見ると火星の動きが判りやすいです


ところで…
最近の写真機は設定で色味を変へられまして
青味を強めると綺麗に見えはしますが
火星の赤味は消えてしまふな…


これはどう撮ったのでしたっけ
全自動とか
シャッター速度優先とか
お月さんモードとか
自動焦点とか
手動焦点とか
いろいろ試してはゐるのですが
どれがどれやら

写真機に記録はあるのですが確認するの面倒臭いし
パソコンにはデータ移行しないし…

尤も確認して今後の参考になるのかどうかと云へば
なりさうもないからとりあへず使ひこなせればいいのかなと




以上が二〇一七年一二月三〇日


以下は新年になりまして…



二〇一八年一月一日
アークトゥルス
スピカ
さうして火星と木星が近づいたのがお判りいただけただらうか…



次は一月六日


だいぶ近づきましたね…


左から木星 火星 てんびん座のα星…のハズだ
右上の三つの星が
順に木星火星てんびん座α星

何故木星を中央にしなかったのかと云へば
さそり座と水星を入れたかったから

一番明るいのが木星
其の左下…写真のほぼ中央にさそり座の頭
その下がさそり座の心臓
α星のアンタレス
さうしてさらにその斜め左下
街明かりとの境に見えるのが水星



以下は一月七日
火星と木星の最接近は此の日の九時三十九分
日が昇ってからになりますね


木星のすぐ右下が火星
少し離れて右上がてんびん座のα星


これは殆ど一つに見えるな…
右端の明るい星はスピカかと
アンタレスも辛うじて見えますね


焦点合ってないけど
木星の白味と火星の赤味がよく判る


右端の小さな星がてんびん座のα星

かうして見ると火星はよく動きますね…

尤も内惑星…地球よりも太陽の側にある水星と金星の方が
動きは早いやうですけれども


シラサギ氏

テーマ:


コサギ氏


まだ早朝で
写真を撮るには少し暗くてね
どうしても手振れしてしまふ
三脚出すのも面倒臭かったので
シャッター速度を上げてみた

上げ過ぎると暗くなり過ぎるのですが
此の時は結構上手く撮れたやうに思ふ


ところで…おまへ
シラサギ氏見るたびに全部コサギ氏にしてね?
見分け出来てる?
面倒臭いから全部コサギ氏にしてね?

なワケないでせうが

先日はダイサギ氏に会ってきましたよ

手前のセグロカモメが何気に自己主張してゐるやうで


ダイサギ氏だけにしてみると足元が切れるな…


まだゐる…


かなり距離がありましてね
なかなか思ひ通りに撮れない


しかし…
シラサギ氏の三氏

ダイサギ氏
チュウサギ氏
コサギ氏

大中小と云ふ意味なのでせう?
何と云ふ安直な命名なのだらう
もう少し何とかならなかったのだらうか


と云っても別に良い名を思ひ付きもしませんが…






超月

テーマ:


西暦二〇一八年
二日目の月の出


私が写真を撮ってゐると
後ろを子らが通り過ぎて

「ねぇあれ何?」
「月?」
「月ぢゃねーよ」
「えゝゝ?」

と云ふやうな会話をしてをりました


二日目の月の出は赤い塊のやうで
月なのかどうか判らないくらゐでありました

「ぢゃあ何だよ?」
と云はれればやはり
「…月?」
としか答へやうはありませんけれど


月の餅つきウサギ…
判りますかね


飛行機と月が重なってゐるところは撮り損ねました

空港が近いと飛行機を入れる機会は増えるのですが
飛行機自体が結構大きく写るので
月の大きさをあまり強調できないかもしれないなとふと思ひました


やはり微妙に月の出の位置の選択を間違へたやうな


全体の風景はかう云ふ感じ


大気が揺らいでゐるやうでした





初…(其の弐)

テーマ:
元旦の月の出

ポールシフトのせいで

いや…さうぢゃない
さうぢゃなくて
私の事前調査不足のせいで
月の出の位置を若干勘違ひしてをりまして

気付いた時にはすでに出てをりまして…

まあ雲があったし
まだ日の入り前で明るかったから仕方ないと云へば仕方ないのですが






飛行機は偶然…


鳥も偶然…


どうもな…
今一つ納得いかぬ


月は出るとあらあらどうしませうと云ふくらゐに早く昇っていくので…


月の出の場所が要点なのだな…

あと時間と天気も

とすると結構条件があるのだな…





しかし…

日月神示についてまだ書く必要はあるのだらうか

これだけ書いておけば
後は一人ひとりが直接神示を読んで
(「完訳 日月神示」でも「ひふみ神示」でもどちらでもよいが)
各々が受け取るべきコトを受け取ればよいだけなのではないか

「不二」だ「ム」だと幾ら書いたところで
読者諸氏に探求心がなければ全く何の意味もない

暖簾に腕押し
豆腐に鎹
屁の突っ張りにもならない…




初…

テーマ:
平成三十年
西暦2018年
皇紀二千六百七十八年

戊戌(つちのえいぬ)の第二日目

正月の内に初日の出の写真でも載せておきませうか

と云ふほど私は素直な人間ではないので

初月の出の写真を…

と云ふほど正直な人間でもないので

初月の入りの写真を…載せておきませう

初月の入りは初日の出の前だからな
たぶん何か意味があるのだらう


あるのだらう…






これでもね…いろいろ考へて撮ってゐる
月の模様を優先するか
地上の風景を優先するか


露出補正するか
シャッタースピードを変へるか


しかしこの時間帯では
どうあがいても好みの写真は無理さうである
私としては月の模様を写し込みつつ
手前の風景も入れたいのだが


光を抑へて月の模様を入れると手前の風景が暗くなり過ぎて
殆ど見えなくなる

手前の風景が判別できる程度に光を入れると
月の模様が光で消えてしまふ

↓かう云ふ感じ↓

明るい時間帯で
露出補正するのが正解らしい


うー…ん


しかし…

かう云ふ写真を撮りながら思ふのだけど
高層マンションとかさ
見晴らしのよい屋上のある家とかさ


…いいよね


でもあれか
街中だと光害があるから単純な話でもないのか





月の出の写真はいづれまた近い内に載せたいと思ひます