『心豊かに働くという事をもう一度考えたい!!』 Emileのコラム153 | 地球村研究室

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厳しい地球環境制約の中で心豊かに暮らすには?沖永良部島で実践しながら考えたいと思っています!!

少し気の早いクリスマスカード!!かな??

今年もあっという間の1年でした。何故年を取ると時間を早く感じるのか…誰の説か忘れてしまったけれど、時間の速度は過去の経験の繰り返しに相当するとか…60歳を超えた僕は1年を60年間の経験で割った速度で暮らす・・・30歳代に比べたら、生まれてからの30年間の経験よりはるかに多くの経験をその後の30年間でしているはずだから、倍以上の速度で時間を感じることになる。ではさらに年を取るとどうなるのか、ここからは僕の勝手な仮説。さらに年を取ると過去の経験をどんどん忘れる、だからある時点から時間はゆっくりと流れることになる・・・ 如何でしょうか?

先週まで25℃を超えていた島も、今朝はなんと19℃!! 冬です。今年も沢山の方にお世話になり、沢山のことを教えて頂きました。有難うございました!!

素敵なクリスマスを、そして、新しい年がまた素敵な年になりますように・・・・

 

 少し前の話にはなるが、電通に勤務していた若い女性の過労が生んだ自殺の話が頭から離れない。働くということは一体どういう意味を持つのか、何故働くのか、無論それは自分や家族を養うということ、しかし最も重要なことは自己実現だろう。それは、働くという行為を通して、自分の心にたっぷりの栄養を与えることでもある。栄養とは知的な成長であり、スキルの向上であり、人との繋がりであり、それらを通して達成感、充実感を得ることである。

 ポジティブ心理学では、幸せの構造は5割の遺伝、1割の地位・名声・財産、そして他者からの刺激や自分の意志で行動を変えることが出来る4割の行動変容から成り立つそうであるが、この4割をどのように変えて行くかということに『働く』という意味が大きな価値を占める。無論、栄養を取るためには、個人が努力をすることが前提ではあるが、努力が報いられる場があるかどうかで自己実現に向かう労働と心が病む労働(やらされ仕事、いやな仕事)が生まれることも事実だろう。資本主義の行き詰まりが取りざたされる今、右肩上がりの経済成長は望めず、企業も将来が見えず閉塞感が蔓延しつつある。そんな中で自己実現を目指すのは、高度経済成長期、企業の中で一生懸命仕事をしていれば地位も財産もそれなりについてきた僕らが経験した30代の時代とは全く異なる。

 今の時代、働くことを通して自己実現を目指すために考えなくてはならない事は何だろうか?それは間違いなく「ワーク」(働く)と「ライフ」(生活)という視点での理解だ。学ぶべきは『島人』の労働だと思う。島人は休日なく働いているのに、なぜ心を病まないのか、それは、ワークとライフがオーバーラップしているからだと思う。日本では、2007年にワーク・ライフ・バランス憲章が策定され、2010年には政労使トップによる合意が結ばれたが、それは欧米型・大企業型の施策であり、うまく社会に浸透していないのは自明である。島ではどうだろう、農業を例に取れば、稼ぐことを目的とする農業(ワーク)と自家消費(自足)分の農業(ライフ)が同じ土俵の上にある。そして多くの場合、その担い手はワーク、ライフとも共通した家族である。自家消費分が過剰になれば、集落の野菜市に出して経済的な価値を生み出すこともできる。ご近所にお裾分けすれば、それが、また巡り巡って新しい価値を生み出すこともしばしばである。要するに、ワークとライフの境界が曖昧なのである。言い換えれば、ワークとライフが同じ土俵の上にあるということは、ワークの延長にライフがあり、ライフの延長にワークがあることになり、それは、ワークの技や知識がライフで活かされ、逆にライフの知識や技がワークに活かされることを意味し、土俵はまさにワークとライフの切磋琢磨の場である。それは自己実現の理想的なステップでもあり、すこぶる精神的に良い価値を生み出す。こんな暮らしをしていれば、心が病むことも無くなるのだろう。

さらに視点を拡大してみよう、農業で言えば、ワークとライフがオーバーラップしているということは、例えばジャガイモを作るということだけでなく、その作り方を人に教えるという新しい仕事も見えてくるだろうし、ライフが充実してくれば、作物の特徴を活かした料理教室を開催などと言うこともできるだろう。いくつもの仕事が生まれるのである。政府は、GDP600兆円を目指して一億総活躍社会プランを策定し、名刺を2枚持つ(兼業を認める)政策を展開しようとしているが、島人の暮らしはとっくにその先を行っているのである。

 そう考えると、1,2,3次産業という区分は、ワークとライフのオーバーラップを阻害する壁であるように思えてならなくなる。それは、単に1,2,3次産業を繋ぐための6次産業化というような既存のものの組み合わせではなく、一つの土俵の上に色々なワークとライフがちりばめられているような構造である。例えば、ワークには農業があり、大工業があり、物売りもある。それらがライフに近づけば、自家野菜を上手く料理し、皆で家を建て、土俵そのものがコミュニティーをつくるという事かもしれない。定年はなく、皆働けるだけ働く笑顔あふれる小さなコミュニティーが次々と雇用を生みだすことももちろん起こるだろう。ローカルが豊かになるということはこんな世界を創ることなのだと思う。

 今、日本の大企業は、ワークとライフを明確に区分してそのバランスを考えることが第1歩となるのであろうが、ローカルははるかにその先を行き、新しいワーク・ライフ・バランスの具体的な実践のかたちの手本を創る義務があるのではなかろうか。