高校同窓会
高校の同窓会にいってきた。
同窓会といっても、10人弱のこじんまりとした会であったが。
最初知っている子に連絡をとり、急きょ昨日の金曜日に八王子でやることに決まったので、さすがに平日の夜でしかも八王子ということで来られるひとが少なかったようだ。
でも、全員と話す分には、かえってちょうどいい人数だったかもしれない。高校卒業以来ぶりというひとがいてドキドキだったわりには、そんな時間ギャップを感じることもなく、笑いどおしでとても楽しかった。
ほかのひとたちは、ずっとつながっていて最近でも半年に一度は会っていたようだが、わたしは卒業してからは一人を除いて連絡してなく、その子でさえデンマークに移住してからは途切れてしまっており、7~8年誰ともコンタクトをとっていなかった。
でもフェイスブックをはじめてから1年くらいたったころ、今まで親しくしたこともない子が友達申請をしてきて、彼女の現在の生活ぶりに(4児のワーキングママなのに、バンドでドラムも叩くというバイタリティの持ち主)興味をもち、去年久しぶりに女子だけで集まり、結構楽しかったので、今回男子も含めて集まることになったのである。
今も自尊心が低いが、高校時代はその何倍もひどく、当時は、自分は不器量で無趣味で何の価値もないひとと思いこみ、それを勉強することで補おうとしていたため、当然男子との交流にも乏しく、それだけに男子と再会することはある意味チャレンジだったのである。
でもそれは杞憂であった。みんなあっけらかんとして明るく、とても楽しそうに過去を振り返るのだった。
わたしたちはとても厳しい高校で、授業時間は長いし、夏休みは短いし、規則はいろいろあるしで窮屈だと思っていたけれど、みんなはその厳しさでさえ楽しんでいたという。
それに、勉強だけで忙しかったはずなのに、みんなそれをかいくぐっていろいろ遊んでいたようで、その武勇伝を聞くのも面白かった。知らなかったが、わたしたちの学年は開校28年、もっとも出来の悪い学年だったそうだ。
それに対してわたしは、みんないわく、勉強面で優秀で、落ち着いているようにみえたという。
大学で天然ちゃんと言われていたのと正反対である。たぶん、高校のときは勉強に没頭することで自ら殻に閉じこもっていたのだろう。大学生になって、自転車と研究という好きなものをみつけて、やっと地を出すようになったのかもしれない。
しかし今になってわかるのは、人生充実するかどうかは、環境が決めるのではなく、自分がいかにオープンかどうかなんだな、ということである。
わたしは高校時代が暗黒だったけれど、それはあの厳しい高校のせいではなく、自分の価値を見出せず、ひとと触れることを恐れ、自分の世界に閉じこもっていたせいだったと、今改めて気がつかされた。
退屈な高校時代だったのは、自分のせいである。自信がなくて、周りに心をひらけなくて、退屈な単調の日々を繰り返していたのだ。
そういう意味では、高校時代の同級生に再会できてよかった。かつての同級生なのに、初めて会ったように会話が新鮮に感じることができたのも、今のわたしは昔よりもずっとオープンになれたからかもしれない。
でも、わたしにとっては必要なプロセスだったと思う。
あの時代に苦しく悲しい自我の確立の過程を経て、今はデンマークで四苦八苦しながらも意外とのほほんとできているのもそのおかげと思っている。
いずれにしても、過去のしこりのようだった高校時代の同級生に再会できて本当によかった。