2006-01-27 19:23:31

認めなきゃいけないのか?

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる

だんなが、しつこくしつこく、インターネットでBBCのラジオニュースが聞けるようにしてくれ、と言ってくる。


「そんなん、BBCのHPにはいって、指示に従ったらええやん!」

「だって、リアルプレーヤーが必要って言うんだもん!」

「それをダウンロードしたらええやん!」

「どこから?」

「リンクがそこにあるやろ(怒)」

「あ・・・」


ばかめ。


「聞けるようになった。ふーんだ、ふーんだ、eiが助けてくれなくっても自分でできるもーん」


け。


まあ、そんな一件があったあと、だんなはネットでラジオニュースを聞いていたけど、突然、怒り出した。


イギリスの民主党があたらしい党首を決めるらしいんだけど、その候補者の一人(サイモン・ヒューズ)が、ここ数日、ゲイじゃないのか?といわれていたらしい。それを、一応遠まわしに否定していたらしいんだけど。


この日のヘッドラインの



を聞いて、だんなは怒り出した。

「なんで、ゲイって認めなきゃいけないんだ? 犯罪じゃないんだし、そんなのほっとけばいいじゃん!」

わたしも、そう思う。

このニュースについて、ピーター・テチェットというゲイの活動家がインタビューを受けていたけれど、わたしの考えは彼とほぼ同じ。

テチェットはこんな風に言っていた。

ゲイであることは犯罪ではないのだから、それを人に言う義務は誰にもない。

確かに、政治家にはゲイでありながらも、それを隠して、ホモセクシュアルに対して差別的な言動をとったりする人がいる。そういう行為はHomophobia(ホモセクシュアルに対する病的非理性的恐怖症)であるし、偽善的だ。だから、そのような場合には、その人のセクシュアリティーを公けにすることは必要だと思う。

しかし、サイモン・ヒューズに関しては、彼は一度もゲイに対して差別的な言動もとったことはなく、ゲイの権利を守る法案などにも常に賛成票を投じている。そういった意味において、彼はHomophobiaでもなく、偽善的でもない。

こういう場合には、彼のセクシュアリティーを公けにする必要はないだろう。ましてや、それを攻撃することなどまったく必要がない。

さまざまな立場にいる人で、自分のセクシュアリティーについては黙っている人がまだまだ多い。これは、カミングアウトすることによって自分が自分の属しているコミュニティーから差別を受けたり、排他的扱いを受けたりするからだ。こういう可能性がある限り、セクシュアリティーについて黙っていてはいけない、というのは、おかしい。黙っている権利だってあるはずだ。

本当に、わたしもそう思う。カミングアウトできたら、それは簡単でいいだろう。でも、実際にはそんなに簡単にできない。カミングアウトできないのは、その人に勇気がないからでも、その人がずるいからでもない。そういう人に対して偏見と差別を持っている社会が悪いのだ。


ゲイであることをカミングアウトしろ、そして、ゲイであることを「認めろ」と要求する背後には、やはり、どれだけイギリスがゲイに対して理解があるとはいえ、ゲイに対する恐怖感があるのかな・・・と感じた。


「だってさ、君がゲイだってわかってないと、安心できないじゃん」


と、暗に言っているような気がする。


この背後には、ゲイというセクシュアリティーを、性の怪物としてとらえている部分があるんだと思う。だから、怪物の居場所をはっきりさせることによって、安心感がほしいんだろう・・・。そこには、ゲイと性犯罪人を同列で捕らえている部分があるような気がする。


でも、ゲイは性犯罪人ではない。


だから、それを必要な場合を除いて、公けに言う必要はない。


そう思います。



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2006-01-12 02:28:30

誰だって幸福になる権利は持っている。

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる

この記事を書こうと思い立ってから、もう一ヶ月以上になっています。忙しかったから、と言ってしまえばそれまでなんだけど。それ以外にも、このことについては、わたし自身の非常に個人的な部分においてかなり考えることがあって。


いろんな言葉の使い方があるんだけど、ゲイ、という言葉はわたしは同じジェンダーを持つ人をを愛する人たちをさす言葉として使っています。女性も男性もトランスセクシュアルも第三ジェンダーも含めます。


わたしが、普通、ホモセクシュアル、レズビアン、という言葉であらわされる人たちをゲイという言葉で示すのにはいくつかの理由があります。


ホモセクシュアルは異性愛を意味するヘテロセクシュアルに対応していていい言葉なのですが、差別的な意味で使われていることが多く、誤解を招くかな、と思うことがひとつ。


レズビアンはレズボズ島に住んでいる人という意味で、サッフォーという古代ギリシャの女性詩人がここに住んでいて、女性同士が愛し合う耽美的な詩をたくさん書いた・・・(ご参考までにこちら )かららしい・・・。しかし、レズボズ島にはいろんなジェンダーの人が住んでいるわけなので、なんとなく、その地名に由来する言葉を使いたくない。


ゲイ、という言葉を使うのは、長年すんでいたイングランドではそれが同じジェンダーの人を愛する人たちをさす言葉でなじみがあることがひとつの理由。


もうひとつは、これは以前に書いたんだけど、gayという言葉はもともと喜ばしい・幸せなという意味を持っている言葉だから。自分について正直であることで、自分が幸せであると、自分たちを差別する人たちに向って宣言をする誇り高い言葉だから。


・・・まあ、日本では、やっぱり差別用語になっていて、理解がされていないみたいだけど。


以上、本文に入る前に、長々と説明をさせていただきました。


わたしのセクシュアリティーについての基本的立場はセクシュアリティーによる差別は一切許してはいけないというものです。もう少し詳しく説明してあるこちらの二つの記事を読んでいただけると幸いです。


怒りながらゲイを語る

もうちょっとゲイについて語る


それと、セクシュアリティーについて考えてみる、というテーマで、関連した記事を一まとめにしてみました。


まだまだ勉強不足です。間違いや、不適当な表現などありましたら、やさしく指摘していただけるとうれしいです(甘えてる・・・笑)。


また、こういった記事に関して不快感をもたれる方もいると思います。それは人それぞれです。わたしは単にすべての人は幸福になる権利を持っており、それを守る・守ってもらう権利があると考えています。そういう考えで、こういった記事を書いています。ゲイの権利など守る必要がない考える方もいらっしゃるでしょう。わたしは、その考えは間違っていると思います。でも、ここにおいて、そういう深い議論をするだけの余裕もありませんし、時間もありません。ですので、わたしの側で不愉快である、と判断したコメントは勝手に削除させていただきますので、ご容赦ください。


それから、バイセクシュアルもあります。でも、この場合、へテロの場合は権利が保障されていて、ゲイのがわの権利が保障されていないので、まあ、二つに分けて(勝手にわけてます)。ですので、特にバイセクシュアルについては言及していません。


*****************************


2005年の12月は、わたしにとって次の二つのニュースが大きな意味を持っていました。


一つ目は、12月5日にイギリスにおいてゲイの「結婚」が法制化されたこと。ただし、結婚という言葉は使わずにCivil Partnership(市民的配偶関係、以下CPと省略します)と呼んでいます。


これは、結婚という言葉にヨーロッパ文化圏においては、宗教的意味合いが非常に濃いこと(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などにおいて。ことに、カソリックにおいては)が主な理由です。結婚という言葉を使うと、非常に反対が多くなり、法制化に手間取る可能性が高かった、と予想されていたようです。そして、同性間の配偶関係を認めるというのは法的にあたらしい概念であるので、新しい法律用語を作ったほうがいいだろう、という考えもあるようです。


この新しい法律については賛否両論あります。結婚という言葉を使うべきだと言う人もいれば、同性間の配偶関係は絶対に認めるべきではないという人たちもいます。


反対をする人たちの主張は、


結婚というものは異性間で行われることが正常であり、そうすることによって家族というものが成立する。同性間の配偶関係を認めると、彼ら・彼女らの生活形態が、伝統的な安定した家族のあり方を侵食する。


というもののようです。


しかし、このような考え方はいくつかの宗教的伝統に根ざした考え方で、この考え方を「真実である」とするには無理があるようにわたしは思います。


まず、何を持って正常とするかは、時代背景や文化的価値観によって異なります。現在では法律的に禁止されている三親等以下の結婚がごく普通に行われていた時代もありますし、日本においても、ゲイの関係が当たり前のものとしてとらえられていた時代もあります。


また、最近の研究で明らかになってきたように、生物学的性は遺伝子によって決まりますが、社会における自分の性の位置づけとしてのジェンダー、自分の性的傾向であるセクシュアリティーは、必ずしも遺伝子によって決定されるわけではないようです。脳の構造などの先天的要素が強いのではないか、といわれています。これらの研究の結果として、西ヨーロッパにおいては、ヘテロ以外のセクシュアリティーも自然なものであり、その自分の自然に正直に生きてゆくことは、個人の権利であると考えられる傾向が強くなりつつあります。


その考えの結果として、オランダやイギリス、ドイツにおける同性間の配偶関係を法制化するという動きがあるのです。


最後に、「ゲイの生活スタイルが伝統的家族形態を脅かす」というよくあるゲイに対する否定はまったくの誤解に基づくものだとわたしは考えます。

たとえば、すべてのヘテロセクシュアルの男性がすべての女性に対して欲情をし性交をしたいと考えていて、それを行動にうつしたいと思っている、とわたしが言ったとします。すると、多分、ほとんどの方から、


「あなたは男性というものに対しての強い恐怖を持っていて、その恐怖によって男性の性的な部分を怪物のように取り扱っていますね」


と言われると思います。そして、その恐怖は、わたしが男性をよく知らないことによって生じている、と判断されるのではないかと思います。


それとまったく同じことが、ゲイに対して行われているのではないでしょうか。それゆえ、「伝統的な家族形態が脅かされる」と言われるのではないか、と考えています。そういった意味においてラトビアで12月15日にゲイの結婚を憲法において禁止した 、というニュースは非常に興味深いです。


ラトビアは、2005年、EUのメンバーになりました。EUではゲイの権利を認める動きが進んでいます。ラトビアはこういったゲイの権利を認める動きに強い懸念を示し、憲法を改正し、ゲイの配偶関係を禁止する条項を書き加えました。国内法ではすでに同性間の配偶関係は禁止されているのですが、EU法のほうが国内法よりも優位に立つ場合があるため、EU法よりも上位に位置すると一般的に考えられている自国の憲法に改正をくわえたわけです。


EU法では今のところ、同性間の配偶関係は合法化されていませんが、いつされるかわからない、という感じをラトビアの国会議員の中で受けている人が多いようです。しかし、EU内にもカソリック国などあり、EU法として同性間の配偶関係が合法化されるのはまだではないかとわたしは思っています。


ラトビアの総理大臣やそのほかの内閣のメンバーはこの改正には賛成しておらず、必ずしも、ラトビアが国として一致した意見を持っているわけではありません。


ただ、国内法だけではなく、憲法まで改正してまでも、同性間の配偶関係を禁止しようとする動きや、この憲法の改正を要求したラトビアの与党の理由


ホモセクシュアル的生活形態から伝統的家族グループを守る。


などを見る限り、冷静に判断をして、というよりは、恐怖におびえてヒステリカルに行動しているという印象をどうしても受けてしまいます。

ゲイの生活形態というと、なぜ、乱交などのイメージが強いのでしょうか。これは、メディアなどの責任が問われるべきではないかと思います。しかし、実際には、へテロセクシュアルのカップルと同じようにお互いに対して愛情と責任を持ったカップルが多く存在しています。たとえば、今回のイギリスのCPを認める法律によって配偶関係を結んだエルトン・ジョンと彼の長年のパートナーなどがそのいい例であると思います。

そういった意味において、ゲイのカップルも異性のカップルと変わりはありません。二人の間で子供ができないことくらいでしょうか。しかし、異性のカップルでも子供ができない人たちはたくさんいます。それについてはさまざまな解決法があります。子供がほしくないというカップルもたくさんいます。子供がほしくないのであるから、この二人は結婚すべきでないとはいえないのではないでしょうか。


基本的にイギリスの今回のCPの法制化は、このように愛情と責任を持って関係を持っているにもかかわらず、配偶関係が成立できないため、相続権や、自分のパートナーの子供に対する権利、また、パートナーが病気などになったときに詳しい情報を知る権利などが与えられていないことに対する批判から始まったようです。


つまり、結婚をすることによって、二人がお互いの権利を守り、お互いに対して権利を持つことができるのと同じ権利を、同性間のカップルにも与えるのが今回の法律の主眼であると言ってよいかと思います。結婚というものをロマンティックな関係の結果としてではなく、お互いに責任を持ち一緒に生活をしていく際に二人が持つ権利としてとらえています。

この権利をお互いに対して持つというのは実ははなり大事なことです。以前、マッチーさん に尾辻かな子大阪府議員の書かれた新聞の記事をおくっていただいたのですが、そこでも、やはり、同居をしているパートナーが病気になったときや、たとえば事故にあった際などに、詳しい情報や安否などを知る権利がないことが指摘されています。


また、同じ記事の中で尾辻さんは人権問題としてゲイの権利が問題にされている、というのは表面上で、異性を好きになることが自然であると性教育の本に書かれる、ゲイについて教科書などで言及すべきではないという発言がおきる、など、実際にはゲイに対する差別が深まっていることも指摘されています。


そういった意味において、同性間の配偶関係を認める法律を作る、ということは、単にゲイの権利を法的に認めるだけではなく、ゲイのカップルも、ヘテロのそれと同じように、お互いに責任と愛情を持って結ばれているのだ、なんら違いはないのだ、と、広く一般に伝える役割も持っているのではないかと思います。


CPと結婚の間には違いはありません。子供に対する権利も二人で持ちます。離婚も異性間のそれと同じようにきちんとした法的手続きをふまなければできません。あるとすると、どの段階でそういう法的関係が成立したとみなされるか、です。CPの場合は、書類に二人が署名をすれば成立します。結婚は書類への二人の署名が行われ、証人と戸籍吏の前で口頭で結婚の宣言がなされた場合に成立します。


この違いは、ヨーロッパにおける言語論の伝統において面白い点だと思いますが、本論から外れるので、ここでは一応、無視します。


誰にでも幸せになる権利はあります。そして、自分の愛する人を守る権利を持つことはとても大切です。結婚という制度は、愛しているから、というような感情的なものだけではなく、自分の愛する人を守り権利を与えるという、非常に重要な法的側面を持っています。


日本でも、一日も早く、こういったことが議論され、ゲイの権利も含めた人権に対する理解が深まることを願ってやみません。

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文中で言及した尾辻かな子さんの記事です。上下に分かれています。クリックすると大きくなります。

Otsuji1

Otsuji2


参考までに

ゲイの結婚の歴史

ラトビアがゲイの結婚を禁止

イギリスでゲイのシビル・パートナーシップが法制化。

ゲイの結婚の詳細


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業務連絡

マッチーさん、もう、ものすごく時間がかかりました! ごめんなさい。記事をおくってくださってどうもありがとう。

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2005-09-02 07:16:02

悲しいなあ・・・

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる

青バラ先生のこちらの記事 を読んで、本当に悲しくなってしまった。


何をもって、「きもい」というのだろう。自分は「正常」「きもよい」(というのか?)で、そうでない人は、「異常」「きもい」


どうしてそんな風な画一的なものの見方しかできないのだろうか。


自分のセクシュアリティーやジェンダーが、生得のそれを一致していないことを、なぜ、「障害」と呼ぶのだろうか。


それは自然ではないからだ。男と女は交わり、子孫を残すのが自然だからだ。自然の摂理だからだ。


そういう声が聞こえる。


それに対して、小声で答えていいですか。


いいえ、人間は最早、自然な存在とはいえません。わたしたちは、必要以上に自然の姿を変え、自分たちの営みを管理してきました。そういう存在ですから、最早、画一的に何が自然などとはいえないでしょう。人工授精、遺伝子操作、代理母、医療行為全般、延命、手術、そのほかもろもろ・・・。


自分にとって何が自然なのか、それに正直に生きて行きたいと思います。それは、あなたの自然とは違う自然かもしれません。それが当然なのだと思います。


あなたの自然が絶対のものだと高らかに宣言をし、それをわたしに押し付けないでください。



*********************


もし、あなたが異性愛者であれば、すべての異性に対して性欲を覚えますか?


それと同じです。自分と違うからといって、その人たちの持っているものを怪物化するのはやめてください。


自分と違う人たちをひとくくりにして、単なる一言、「きもい」で代表させないでください。


わたしたちは一人一人、違う顔を持った人間なのです。自分の自然を生きているのです。




***********************


過去記事を、よろしければ、どうぞ。ご批判、ご指摘、ご意見、お聞かせください。


怒りながらゲイについて語る

もうちょっとゲイについて語る



小声でしかいえなくて、ふがいないです・・・。ごめんなさい。

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2005-05-06 18:56:36

しつこいようだが、昨日の記事の補足

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる

昨日の記事はこちらです。


しつこいんですよ、性格が(笑)。


でも、実は、性教育というのは、自分が持っている肉体的性に対する実践的な知識と、自分が後天的に確立したジェンダーに対する理論的知識を持って、自分という世界にひとつの個性を存分に生きるためのものだと思っています。


たとえ、どんな肉体であろうとも、どんなジェンダーを持とうとも、それに劣等感を覚えることなく、自分の個性としてそれを受け入れ、他人の個性も受け入れることができる個人を作ること。大言壮語をするようですが、これがわたしの理想です。


だから、こういった話題というのが、性教育というものにとって一番大事な根っこの部分だと思っています。だから、もう少ししつこく。


昨日、コメントで、complexologistさん が、「社会的ジェンダーの枠組みというのが必要ではないか」、と指摘されました。また、kayoさん は同じものを「最大公約数」と表現されています。わたしはそれを「ひな形」と言っています。


が、実は、これは、ナラティブと呼ぶべきものではないかと考えています。物語、です。


わたしたちは一人一人、まったく違う経験をします。そして、変わってゆきます。時間がたつから変わるのではなくて、変わったために時間がたったことを認識するのだと思います。わたしたちはずっと同じままではありえない。


でも、同じままではありえない、としても、そこに過去の自分と今の自分と未来の自分につながりがなければ、個というものが成り立ちません。だから、変わってゆく自分をひとつのものとするためにナラティブが必要になります。


歴史もひとつのナラティブです。江戸時代、戦前、戦後、と日本は大きく政治形態が変わり、国民だって入れ替わり、国土も大きさが変わりました。おなじ国とはいえないような過激な変化を経験しました。それでも、それをひとつの国としてわたしたちが考えられるのは、そこに歴史というナラティブがあるからです。


ところで、ナラティブというのは人間が作るものです。(←ここの議論はちょいと専門的になりすぎるので、そういうことにさせてください。)


だから、同じ人物や国に対してまったく違うナラティブも作ることが可能です。


しかし、恣意的にまったくあたらしいナラティブを作ってしまうと、それを筋の通った物語としてわたしたちは認識できません。


なぜなら、ほとんどのナラティブには共通した構造があるからです。この共通構造を「社会的ジェンダーの枠組み」「最大公約数」「ひな形」ということができると思います。


たとえば、横森里香の「恋愛は少女小説で教わった」という本を読むと、恋愛というのには基本的ナラティブパターンが数個しかなく、そのパターンにわたしたちが大きく影響をされているかがわかります。


要するに、ナラティブの細部は交換可能だけど、構造は変更不可能なんです。このあたり、プロップという人がかなり面白い研究をしています。そして、あたらしいナラティブの構造が社会に受け入れられるようになるには、かなりの時間がかかります。


ゆえに、社会にあるナラティブの構造は古いものがいまだに残っている。でも、わたしたちを取り巻く環境やわたしたち自身はどんどん新しくなっている。だから、古いナラティブの形にはまらない人たちも増えている。


かなりの数の日本人の女性が海外で暮らすことを望んでいます。これは、既成のナラティブにはまりきらない自分を解放しようとしている、と分析できるのでは、と思います(注1)。


また、引きこもりをするというのも、既定のナラティブにはまらない自分を、ナラティブを押し付けてくる社会から隠れることで、そのナラティブを拒否し、自由に自分を生きようとするひとつの試みと考えられるのではないかとも思っています。


この、引きこもりという現象は、実は日本に特有なものではないかといわれています。それについてはいろいろと議論ができると思いますが、確かなことは若者の引きこもりの数の多さは日本がダントツだということです。


この理由は、日本という社会に存在する、個性に対する既存のナラティブの数の極端な少なさにあるのではないかと思っています。男であればこうでなければいけない、女の子であればこうでなければいけない。そういう断定的なナラティブしか与えられないと、大人になり、こういったナラティブにはまらない自分を発見すると非常に苦しみます。


そして、そこにある解決策は、社会が別のより自分に当てはまるナラティブを提供してくれない以上、その社会から逃れること(海外脱出か引きこもりか)しかないのではないかと思います。


もう少し過激な方法として、社会を変革してしまう、ということもあるかと思います。しかし、変革には時間がかかります。多分、100年単位の時間がかかるでしょう。それを短期間でやってしまおうとすると、オーム真理教になるわけです(注2)。


メディアは大きな力を持っています。わたしが、ムーニーの宣伝を見て、怒りを感じたのは、断定的な既存のナラティブの補強が行われている象徴として感じたからだと思います。


出発点として、また、相互理解のためにも、ある程度の社会的に合意されているジェンダー・イメージや概念というものは必要です。


でも、complexologistさんがご指摘されたように、「日本人ならお茶しか飲んじゃいかん」的な断定は、不幸しか招きません。「日本人なら、まあ、お茶でも飲んでみる?」くらいの示唆でいいのではないかと思います。それに対して、どのように答えるのかは、個々の判断に任せればいいと思うのです。それが、ナラティブの数を増やすことです。何も、今あるものを全部否定するのではないのです。「乗り越える」のです。


この、ムーニーの宣伝のようなもので断定的な既存のナラティブを補強することによって、このナラティブを生きることができないジェンダーをもつ未来の子供たちがどこかで窒息させられるかもしれないと思うと、やはり怒りを覚えます。


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注1: 海外に出たからといって、簡単にあたらしいナラティブを獲得して、あたらしい個性として生きていけるわけではありません。海外に出るというのは、日本の既存のナラティブからの脱出といえると思います。でも、そこで、新しい自分のナラティブを獲得するのはまた話が別です。「パリ症候群」という現象にはこの難しさがよく出ていると思います。


注2: この部分に関しては、村上春樹の「アンダーグラウンド」のあとがきなどを参考にしてください。


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著者: 横森 理香
タイトル: 恋愛は少女マンガで教わった

読んで納得してしまいます。結構笑えるし、なつかしのあの漫画をもう一度違う角度から味わえます。とってもお勧めです。
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2005-05-05 18:49:16

わたしだったら絶対に買わない

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる

今朝、TVを見ていてうんざりした。番組ではないです。宣伝。

おもちゃの宣伝というのは結構露骨に男の子と女の子のジェンダーイメージを押し付けてきます。男の子がアクションマンで、乱暴と破壊の限りを尽くしている間、女の子はバービーで買い物とおしゃれと整形手術、なんて風にね。

こういったジェンダー・ステレオタイプのおもちゃというのはどうかと思う。ほんとに、おもちゃ屋さんに行くとうんざりする。男の子のおもちゃは黒や深緑や青。女の子のおもちゃはピンク・・・。

ジェンダー・フリーというのはこういった男性や女性に対する押し付けられた既定のジェンダーイメージをなくすことで、わたしはこれは結構大事なことだと思っています。

ちなみに、どっかの馬鹿な国会議員が大間違いをしていましたが、ジェンダー・フリーというのは更衣室やお手洗いを男女一緒にすることではありません。

まあ、おもちゃに関しては、そういう宣伝がたとえあっても、親が買い与えないことができます。必需品じゃないから。別の対処の仕方もあるし。

でも、今朝はほんとにうんざりした。

ムーニーの宣伝。もう、大きくなってきてそろそろオムツが取れるかな、という子供にはかせるパンツに近いオムツを宣伝している。これは、なかなか便利です。わたしも息子のトイレトレーニングの時にはお世話になりました。

問題なのは宣伝文句。

「女の子だからかわいいのがいいよね。キュートガール」
「男の子は乗り物が大好き。アクティブボーイ」

ちょっとまちなよ、女の子はかわいくおとなしくしてろ、男の子は外に出てがんがん働けってそういうイメージを何で、オムツにまでつけちゃうの? しかも、どちらかしか選べない。男か、女か。何でそういう二元論的な考え方をしちゃうわけ? しかも、ひとつの性別を選ぶと、なんか変な性別に関する価値観まで同時に一緒についてくるパッケージ旅行みたいになってるわけ?

ジェンダーというのは、前にも書いたけど、先天的に与えられた肉体的性ではなく、後天的に形成される性意識です。この性意識の研究は欧米で盛んになりつつあって、単に男性と女性ではなく、もっと複雑な自意識で、思春期を終えるくらいまで成立しないものだと理解されています。

自分が誰であるか、という、個性のユニークさ(ユニークというのは世界にひとつしかない、という意味です)を確立する上で、ジェンダーというのはとても大事です。よいワインがゆっくりと熟成するように、自意識というのもじっくりと熟成する必要があります。

自分という個性を形成するさまざまな要素、それをゆっくりと選び、考え、選びなおし、考え、またまた選びなおし、という風に、人は成長します。そうして、世界にひとつしかない「わたし」が出来上がるのです。

しかし、こういったジェンダーステレオタイプは、パッケージ旅行のように、個性の要素がはじめからすべてが決められています。女の子はかわいくてお花が好きで、お化粧や買い物が大好き。男の子は乗り物が好きで、活動的で冒険が大好き。そして、多くのパッケージ旅行がそうであるように、二つのパッケージの中身は相互交換が不可能か、それに近いものになります。

こうした自分に対するイメージのパッケージを与えられると、それにそぐわない自分を発見したときに、非常に苦しむことになります。パッケージというのは全部パーツがそろっていて初めて意味があるからです(レゴとかプラモデルのパッケージみたいに)。ひとつでもないということは、全部ないのも同じということになりかねないのです。

たとえば、引きこもり、はこういったイメージ・パッケージの弊害の現れ方のひとつといえないこともありません。長男が引きこもりの大多数を占めていることからも、そういう推測を立てることが可能です。

長男、
男の子だからしっかりしてて、
勉強もできて、
将来はいい会社でいい仕事について、
たくましくて・・・


そうでない自分、そう在れない自分を自由にするために、最も不自由な生活形態を選ぶ。そうでなければ、自分に与えられたイメージ・パッケージから自由になれないから。それが引きこもりという現象の根底にある原因ではないか、と考えられているそうです。

個性が大事、というのであれば、こういったイメージ・パッケージの使用をやめるべきでしょう。ジェンダー・ステレオタイプはそのパッケージのひとつです。

わたしが、自分の血液型を絶対に日本人には言わないのはこれが理由です。わたしという個性はそんな汎用パッケージでできていない。そんなもので判断してもらいたくない。

同じ理由で、わたしだったら、このオムツは絶対に買いません。

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2005-03-08 20:29:19

ゲイを理解していないあなたが悪いんですよ

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる
母からメールが来て、「イチゴの旬が終わっちゃったわ」、といわれた。イチゴの旬? 1月2月が? 変じゃない?

それから、ある人からビデオテープが送られてきた。あ、変なテープではなくて、あるTV番組を録画したもの。その番組についてはもう一つのブログで結構まじめな記事を書いた んだけど、ここでは、番組についてではなくて、そこにあったある広告について少しまじめに書こうと思う。

広告は某携帯電話会社の広告。内容はこんな感じ。

エルトン・ジョンがコンサートのためにリハーサルをしていると、二人のスーツを着た男がいきなりステージに上がってくる。そして、新しい携帯電話の機械を見せながら、この宣伝にでてほしいと頼む。そうして、この新しい携帯電話は、これができる、アレができる、と説明し始める。二人はとにかく喋り捲る。

「でも、相手の電話がおんなじことできなかったら困るよね」
「だから、この電話機を買って、うちの会社と契約してくれたら、もう一台ただであげちゃうの!」
「だから、ほら、あなたの奥さんにあげればいいでしょ」

ここまで来て、エルトン・ジョンが怒る。

「But I am a GAY!」(でも、ぼくはゲイだ!)

そうすると、男たちは

「Oh, if you are gay, I am ecstatic!」 (おお、きみが幸福なら、ぼくは恍惚状態だよ!)

エルトン・ジョンの苦虫を噛み潰したような顔が映っておしまい。


この宣伝のジョークの味噌は、GAYという言葉が、以前にも書いたと思うんだけど、「悦ばしい、幸せな」という今ではほとんど忘れ去られているもともとの意味と、同性の人を愛する人たち、という意味の二重性にある。何で、「悦ばしい」という意味を持つ単語が同性を愛する人たちをあらわすようになったのかについては、過去記事をここから 見てください。

スーツ男たちは、いわゆる「男性社会」の代表者で、ゲイのことも女性の権利のことも理解していない。それに、エルトン・ジョンの音楽についてだって無知で、単に有名人だから、宣伝に使おう、という、人を利用することしか考えていない。その上、彼らは、男なら当然奥さんがいるという先入観の固まり。でも、教育だけはあるから、エルトン・ジョンが「ぼくはゲイだ」といったら、その言葉の意味を知ってるよ、という知ったかぶりをしている。しかも、エルトン・ジョンは「a gay」と名詞的用法で使っているわけだから、そこで、彼がどういった意味でGAYという言葉を使っているかに気が付くべきなのに、人の言うことをちゃんと聞いていないから、形容詞的解釈をしている。

要するに、ゲイに対して理解を持たない、男性中心的・自己中心的・自分がえらいと思っているスーツ男に代表されるグループを批判しているわけだ。そして、その人たちの無理解さを揶揄っている。

それが、実に、さりげなく、おしゃれに、おかしく表現されている。

ゲイの存在は、春が来たり、イチゴが熟したり、りんごが実ったりするように、自然で当たり前なことなのに、不自然に「男」を強調するあなたたちにはわからないのね。

笑いものにされちゃうのは、ゲイを理解していないあなたたちが悪いんですよ。

でも、社会には柔軟性がなくて、そういった自然で当たり前のことが認められない。5月から7月にかけてが旬のはずのイチゴを、ビニールハウスで無理やり育てて1月が旬だと言って売ったり、買ったり、する。そういった不自然なほうが、「自然」で「当たり前」になっている。

その状態を、ちょっと怖いな、と思う。




追記: 本日は息子は休みです。

追記2: 

文中、ゲイの存在が自然だ、といっているのには、ちょっとしたわけがあります。

生物学的な性別は遺伝子で決まる、と習います。しかし、最近では、性意識や肉体的特徴はもう少し複雑な過程をへていることがわかってきています。たとえば、胎児がどの程度の女性ホルモンを母親から与えられるか、というのも、肉体的性差を決めるのにかなりの役割を果たしているそうです。

ほとんどの食品がプラスティックで包装されていますが、このプラスティックに含まれている成分が女性ホルモンと非常に似た働きをすることがわかって来ました。この成分が、妊娠中の母親によって吸収され、胎児に他の栄養とともに吸収される。これが、最近の若い男性の精子の数の減少の原因となっているのではないか、といわれています。また、この「擬似女性ホルモン」が多量に摂取された場合には、男性の第一次性徴・第二次性徴ともに十分に行われず、遺伝子的には男性であるにもかかわらず、肉体的には男性としての特徴がほとんどない、というケースも記録されています。

さらに、男性と女性の脳の構造の違いも、わたしたちの性意識に影響を及ぼしているそうです。しかし、この脳の構造の性が、遺伝子的な性と一致していない場合なども報告されています。こうした場合に、その人がどのような性意識を持つのかは個々のケースによるようです。

つまり、ゲイやトランス・セクシュアル、中性、などの性意識(生物学的性と区別するため、これをジェンダーと呼びます)は、社会的影響や家庭的環境ではなく、ましてや個人の責任ではなく、生まれつき持っているもの、先天的、といえるのではないか、ということです。

ですから、ごく一部のキリスト教の過激な原理主義者の間で「ゲイの矯正」をする動きなどあるようですが、もちろん無意味であるわけです。

では、なぜ、生まれてすぐにゲイかヘテロかわからないのか、といわれそうです。これは、人間のジェンダーは第二次性徴を経ることで始めて完成されるからだそうです。つまり、10代後半、または20代前半まで、人間のジェンダーは決まらない、ということらしいです。

最近の研究では、ティーン・エイジのころに、自分はゲイではないか、トランスセクシュアルではないか、と思う子供たちがかなりの数いることがわかってきました。これは、第二次性徴期のホルモンバランスの不安定さによってもたらされるものらしいです。12歳前後に男の子の胸が少し膨らむのと似たような状況といえるのでしょうか。

このあたりのことに関しては、もう少し調べてみたいと思っています。
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2005-02-28 21:14:43

この町の変なお祭り

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる
西ヨーロッパと言うと、キリスト教がその文化の中心となっているような印象を受けるかもしれないけど、実は、けっこう、キリスト教以前の土着宗教が残っていて、エキセントリックなお祭りがたくさんある。

でも、こういったお祭りはあまり有名ではないし、その地域の人たちも外から観光目的の旅行者が押し寄せることを嫌うことが多いので、紹介されることはほとんどない。

わたしも、海辺のこの町に引っ越してきて半年が経つけれど、実は今になって始めてこの町の珍しい祭りを知った。日本人がここに住んでいたことはあまりないので、この祭りを日本に紹介するのはわたしが初めてではないか、と、思う。

ことは、息子がもうすぐ11歳になることからはじまった。

この町で11歳というのは大人になる年齢だ。海辺のこの町では、昔、11歳になると男の子は漁師として漁に参加することができた。そのためには大人にならなければいけない。そこで、成人式のような通過儀礼が行われていたそうだ。

そして、その年に11歳になる男の子は復活祭の日に行われるこの通過儀礼に参加しなければいけないのだそうだ。

この通過儀礼というのが、また、非常にエキセントリックなのだ。男の子たちは白いドレスを着て海に入り、ドレスを海中で脱ぎ捨てて岸まで戻ってこなければいけない。

まこと、不思議な行事である。

そこで、少し調べてみた。そうすれば、確かに納得がいく行事であることが分かった。

この地方には、幼少期における男女の格差が小さいのは、子供というのは両性具有であるからだ、という迷信があったらしい。そして、成人通過儀礼を通して、二つの性のうちの一つを神にささげ、男性または女性としての個人が成立するのだそうだ。

ゲイ・レズビアンは、この通過儀礼において、神が両方の性を肉体の中に残した人たち、と考えられている。この場合、なぜ、神がそのようなことをしたのかは分からないが、何らかの人知を超えた理由があると信じられていた。それゆえ、この地方においては、ゲイ・レズビアンは特別な選ばれた人たちと考えられ、大切にされてきた。

男の子は海神に女の性をささげ、女の子は月の女神に男の性をささげる。

その男の子の行事だけがどういうわけか残ったらしい。

だから、男の子は海神の花嫁として海に入る。つまり、これは死の儀式なのだ。

そして、ドレスを脱ぎ、男として海から出てくる。つまり、女の性を捨て(神にささげることで女の性が死に)、男の性だけを持った大人として、海から再生してくるのだ。

この、死と再生という祭りのテーマを考えれば、この祭りが復活祭と同じ時期に行われるのも納得がいく。多分、キリスト教が入ってきたときに、土着の宗教を吸収したため、こういうことになったのだろう。

そこで、息子に花嫁の白いドレスを買ってきた。ちょっと高い。一度だけ着て、海に脱ぎ捨ててくることを考えると、もったいない。でも、まあ、こういったお祭りが大好きなので、少々の出費は我慢しよう。

「おい、復活のお祭りのドレス、買ってきたえ」
「きたくない」
「何でやねん。みんな着るやろ。お祭りの意味も説明したったやろ。なにがいやなんや」
「だって、スカートはくのは女の子でしょ」
「おい、そういうくだらん性差別はあかんって言ったやろ。ズボンはいたら男か?」
「・・・・」
「とにかく、着てみ」

息子はしぶしぶとドレスを持って部屋へ行き、着替えて、でてきた。

・・・・似合っていない・・・。

が、息子、鏡を見ながら、まんざらでもなさそうである。

「おかあ、スカートって気持ちいいねえ。おちんちんとが、ぎゅうって押さえられてなくって。自由な感じ。ねえ、僕、これからスカートはこうかなあ」

え?? 





















































って、うそさ。ごめんなさい・・・。

「うそ日記」へのトラックバックです。

でも、こういう宗教があるんなら、いいかも。新興宗教でも作っちゃおうかな。

個体内に両性が入っている、というのは、ギリシャのアリストパネスの話からヒントを得ました。

アリストパネスの話はこちらをどうぞ。

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2005-02-18 19:25:27

「普通」のヨーグルトは存在するのか

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる
ちょっと前の話。海さんのブログ にTBして書いてます。

息子に

「ヨーグルト食べるかあ??」

ときいたら、息子は

「うん、普通味の」

と答えた。そして、またしても、わたしは怒ってしまった(うーん、怒らないようにしようとは思うんですけどねえ・・・・)。

「あほか、お前!! 普通味ってなんや!! 異常味のヨーグルトがあるんか!!」
「だ、だから、ほら・・・その・・・何にも入ってない・・・」
「何でそれが普通なんや、ゆうてみい!!」

だいたい、普通ってなんや。誰が、「それが普通です」ってゆうたんや。誰が決めたんや、どの味が普通で、どの味が普通やないって。

「だって、虫が入ってるヨーグルトは・・・」
「古代のインカ帝国へ行ってこい!! カメムシの踊り食いが最高のご馳走や、あそこでは。そこやったら、虫入りヨーグルトは『普通』やろ!」

だいたい、何が普通で何が普通でないかなんか、時代やら、地域やらで、ころころ変わるもんや。絶対的な概念やない。しかも、普通って決めてんのは誰や。普通ってなんや。よう考えてみ。普通の子ってなんや。

「親がいて、学校に行ってて、先生の言うこときいて・・・」
「そうやったら、親のない子は異常か。先生の言うこときかん子は異常か」

ちゃうやろ。よう考えてみ。「普通」っていってんのは、「先生にとって都合のいい子」とちゃうか。先生が決めてんのやろ。

ええか、ようお聞き。大事なことや。「普通」ゆうのは、誰かが「勝手に決めた基準」や。その誰かにとって都合のいい基準や。そやけど、普通の反対はなんや。「異常」や。異常と普通やったらどっちがええか?

「普通」
「そや。天気が異常やったら困る。この場合、普通、ゆうのは毎年のだいたいのパターンって言う科学的根拠があるな。重力が異常で、坂の下から上にボールが転がってもちょっと困るな」
「え、おもしろいからいいんじゃない?」
「まあ、そやな。・・・・うん、そやから、異常イコール悪い、ゆうことにはならん」

そやけど、普通VS異常って二つで一組みたいな価値がある以上、残念なことに、普通=良い、異常=悪い、ってゆうことになってしまい勝ちなんや。そやけど、科学的な話をしてへんかぎり、何が普通で何が異常かは、ようわからんやろ。

「考えてみ、ゲイは異常か? 異常やとしたら、ヘテロが普通なんか? 誰がそない言うてるねん? 女の子は化粧するんが普通か? 誰がそや言うてるねん? おかあはやさしいのが普通か?」
「おかあは、やさしいほうが・・・」
「そや、誰かにとって、それが普通や、ゆうのは、自分にとって都合がええからや。怖いおかあよりも、やさしいおかあのほうが、都合ええやろ」

何が普通で何が異常か、そんなもん、誰にもわからへん。そやから、今後、普通ってゆうたらあきません。分かった?

********************
付記: 二元論的価値観、というものからわたしたちは逃れることがなかなかできないようです。白と黒、といったところで、どっちも色なので、どちらのほがより良い色かという議論は不毛なはずです。しかし、白と黒を対立する二つの概念としてとらえ始めたときに、どうしても、善悪という別の対立概念とシンクロナイズさせてしまいます。そして、このようなシンクロナイゼーションは、「潔白」「明白」「白い嘘」などの日常的に使われる言葉によってわたしたちの意識の奥底に深く刻まれて行くようです。

そして、このような二元論的考え方が、普通と異常、男と女、ゲイとヘテロ、という、社会的に構築されてきた概念にすらも、いや、社会的に作られてきた、つまり、権力者のために作られてきた概念だからこそ、深く深く根を張っていることに、息子に気がついてほしい、と思っています。このような概念には、民族、血統、親族、「わたしたち」VS「あのひとたち」、道徳VS 不道徳、なども含んでいます。

普通だからいいわけでも、異常だからいけないわけでもない。普通や異常という概念それこそが、人為的に恣意的に作られた概念であることを、わたしは告発し続けたいと思っています。

追記2: この問題は、とっても根が深くて、実は4年以上前に書いた原稿をもとにしているのですが、まだ、きちんと議論がしきれていない感がぬぐえません。勉強不足を恥じます。師匠、また、勉強しなおします。

追記3: 海さん、素敵な記事にまぬけな蛇足をつけてしまいました。ごめんなさい。
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2005-01-14 00:04:36

もうちょっとゲイについて語る

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる
「ゲイは結婚できるの?」

またしても、息子のいきなり攻撃。

「うーん、調べてみんとちょっと分からんなあ。確か、できるようになった国もあったんちゃうかなあ・・・」

で、調べてみると結構ある。一番早いのはデンマークで1989年。結婚してるのと同じ権利をもてるけれど、しかしながら、教会での結婚式はだめ。本当の意味で、ヘテロの結婚と同じ意味を持つゲイの結婚を認めたのはオランダが初めてで、これは2001年。結構最近まで認められへんかったんやなあ。

「おかあ、何で結婚するの?」
「結婚は、そら、二人の人間が一緒にいたいからするって言う部分もあるんやけどな、もっとぶっちゃけた法律的な単純な話したら、契約や」
「契約?」
「お金とか、財産をちゃんと二人で共有しまっせえってゆうことやな。ゲイのカップルの結婚が認められへんと、かたっぽが死んでしもた時に、残った人は死んでしもた人の財産がもらえへんねん。おかあかて、おとうが死んだときにお金もらわな困るさかいな」
「おとう、お金あるの?」
「あんまりあらへんなあ・・・おかあもないけどなあ・・・」
「ねえ、そういう契約なんだったら、何でゲイは結婚できないの?」
「してもええと思うけどねえ・・・」

まあ、宗教的な理由が結構あるんちゃうかなあ。キリスト教とかイスラム教とかな、結婚は子供作るため、みたいなところがあって、子供作られへんのはあかん、ゆうことになるみたいや。それから、結婚は男と女がするのんやって思い込みもあるんちゃうか。それで、怖いのはな、この思い込みが、
「男と女が結婚することが道徳的や。男同士・女同士は不道徳や」
ってねじれた思い込みに変わることなんや。
それで、もっと怖いのは、この思い込みが、
「そやからゲイのカップルは不道徳や」
って、むちゃな断定に変わってな、
そこから、
「そやからゲイは不道徳な人間や」
って
めくらめっぽう主張するやつらが出てくるねん
そんでな、そうやって声のでかいやつらがわいわい言ってるとな、
それが
(まちがってるんやけど)常識や、ほんまや
ゆうことになるねん。

「そんなのひどくない?」
「ひどい。これは、あかん」

そやけどな、こういった、「常識」は「そやそや」って言いやすいやろ。そやから、ブッシュのあほが選挙のときに「僕はゲイの結婚は許しませーん」とかいって、票を集めよったんや。

「何でそんなことになるの?」
「TVの見過ぎやな。TVやら、まあほかの雑誌なんかもそうやと思うけど、ゲイを『男が好きなおんなっぽい男・そんで淫乱』っていうイメージを作ってるやろ」
「だから、僕の友達が、ピンクの袋見て『ゲイだ』って言ったわけだね」
「よくできました。そういうの、偏見ゆうて、ようないんやで。そやけど、あれは、あかむらさき!」
「ふーん。じゃあ、淫乱ってどういう意味?」
「それは辞書をお引き」


*****************
付記(今日はかなり長いです): 「ゲイには僕たちみたいにまじめに付き合ってるカップルは多いんだ。彼とは本当に分かりあえて、僕たちは夫婦とおんなじなんだ」って、The Wedding Banquet という映画で、主人公が主張をしていました(彼の名前、正確なせりふは忘れてしまいました・・・)。

わたしは夫婦がお互いに持っているのと同じ権利をゲイのカップルにも認めるべきだと考えています。たとえば、基本的人権の一つである、財産権を考えてみても、そうすることが正しいことは明白です。

また、世界人権宣言の第二条「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的あるいは社会的出身、財産、門地その他の地位がどのようなものであっても、それらを理由にした差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」をみても、ゲイの結婚を許さないのはおかしいのです。

ちょっと長くなるのですが、ゲイの結婚の法制化の最近の歴史をまとめてみます。

1989年 デンマーク: 同性間結婚のカップルに、異性間結婚のカップルと同じ権利を認める。教会での挙式はできない。

1996年 ノルウェー、スウェーデン、アイスランド: デンマーク型の条例を制定。

1999年 フランス: 同棲しているカップルに性に関係なくPacsという契約を認める。この契約から生じる権利には税金の免除、相続権、親権が含まれていない。

2001年 オランダ: 世界で始めて、異性間結婚と全く同じ権利を同性間結婚に認める。

2001年 ドイツ: 同性のカップルに「生涯パートナーシップ」への登録を認める。この制度では相続権のみ保障されている。

2002年 フィンランド: デンマーク型の条例を制定。

2003年 ベルギー: ゲイの結婚が許可される。

2003年 アメリカ: US Supreme Court(最高裁?)において、同性の大人が合意を持ってセックスを自分たちのプライベートな空間においてすることすら違法であると禁止するのは(法律文章はややこしくて分かりにくいな)、アメリカ憲法に違法であるとの判断を下す。

2004年 スペイン: 社会主義政府が家族法の抜本的改正に着手。草案の段階で、同性間結婚にも異性間結婚と同じ権利を認める。この権利には親権も含まれるため、養子縁組ができるようになる。しかし、カソリック教会はこれに反対し、スペインのカソリック教徒に反対運動を起こすよう呼びかけている。

2004年 フランス: ボルドー地方において、政府の警告にもかかわらず、革新派の市長が同性間結婚を執り行う。しかし、法廷において、「性の違うことが結婚の条件である」として、この結婚は無効になった。

2004年 アイルランド:  レズビアンのカップルの結婚権の請求に関して、総理大臣は同性のカップルの権利をある程度認めるべきだと発言。しかし、結婚を認めるのはまだ先になるとも。

2004年 イギリス: 結婚に伴う権利とほぼ同じ財産権・法的権利を認める条例を貴族院が通過させた。2005年から有効になる。しかし、この権利には親権が含まれておらず、養子縁組をすることはできない。

2004年 ニュージーランド: 国会が同性のカップルのcivil unionを認める条例を通過させる。

2004年 アメリカ: かなりの州で「結婚は異性間の結びつき」という州憲法の定義に対する修正案が可決される。しかし、国会では合衆国憲法の修正案に可決することに失敗。ブッシュ政府は合衆国憲法が同性結婚を違法にする修正案を支持するが、各州においては独自の条例を制定することができると発言。

2004年 カナダ: 最高裁が政府に同性間結婚の登録を許可する法律を国会に提案する許可を与える(ややこしいな)。カナダでは一部地域で結婚証明を同性のカップルに発行している(いつからかはちょっと分からない)。

で、日本は?というと、こんなの話題にものぼらないようです。どんな議論が行われているのか、ご存知の方がいらっしゃったらご一報ください。ドイツに行って結婚された方がいらっしゃるようです。

ここで、親権の話が出てきていますが、「家族」というのは大人だけではなく、そこで育つ子供がいることではじまる、という考えがヨーロッパでは根強いのです(Starting a familyはカップルに子供が加わることを意味します)。そういった意味において、親権が含まれているかいないかで、同性間結婚の意味が大きく変わることが分かります。

また、蛇足ですが、アメリカやカナダでは政府と国会と法廷が三権分立の形で、この同性間結婚の問題に取り組んでいることが分かります。これを見ると、日本の裁判所にももうちょっとしっかりして、立法審査権をしっかり活用してもらいたい、と思ってしまいます。

追記: 上記のまとめはこちら の記事を参考にしました。
追記2: 上で言及した日本人の方の記事はこちら を見てください。
追記3: サブローさん、どうでしょう? 長くなりました。ごめんなさい。
追記4: 当方の事情で英語の記事ばっかりです。日本語関係はGoogleで検索をかけると結構出てきますこちら で見てみてください。
追記5: 追記が多くてすみません。
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2005-01-09 22:19:46

怒りながらゲイを語る: 付記

テーマ:セクシュアリティーについて考えてみる
本文はこちらです

付記2: Honey Bumさんからの指摘がありましたので、文中、誤解を招きそうな部分に説明をたしたいと思います。

ゲイが女性的であるという一般的な誤解があるようです。ゲイにもさまざまなタイプの方がいて、男性的な方も知れば、確かに女性的なかたもいます。それは、ヘテロの男性に女性的な方も男性的な方もいるのと変わりません。こういったゲイへの誤解は、マスメディアにおけるゲイの描写の仕方に問題があるのではないかと思っています。そういった意味において、母親としては、息子と一緒にできるだけテレビを見たり、本を読んだりして、偏りのある表現はそのたびにしつこく怒ろうと思っています。

これからも、どんどん、疑問点、説明が悪い部分・間違っている部分など、指摘してください。わたしは性教育の専門家ではないので、皆さんの意見を聞きながら勉強をしていきたいと思っています。

よろしく~。
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