藤原鎌足は、いなかった(再録) 不比等の静かな野望、とは? | えいいちのはなしANNEX

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 日本書紀によると、藤原姓は、中臣鎌足が、生前の功績から、死に際に賜った姓です。ですから、不比等が生まれたときは中臣だった、父の死に際に藤原になった、というのが、公式に正しいとされている歴史です。

 鎌足の邸宅が大和国藤原郷(現・檀原市高殿町)にあったことに由来するんだそうです。この鎌足の邸宅のあったのと同じ場所に、のちに都が造営されます。これが「藤原京」です。
 正史にそう書いてあるんだから、歴史的には、これ以外の答えはありません。

 でもね、その正史、つまり日本書紀を作ったのは、誰なのか。 実質的な編集長は、他ならぬ藤原不比等なんです。 怪しいと思いませんか?  昨日のブログでは宜的に「藤原鎌足は~」って繰り返し書きましたけど、これはいつもいう「歴史記号」であって。 私は、藤原鎌足という人物は存在しなかった、と考えています。いや、もちろん、中臣鎌足はいたでしょうが、このひとが「死に際に藤原姓をもらった」というのは、眉唾です。

 たとえば、天智天皇の子孫は淡海氏(近江京から)、天武天皇の子孫は清原氏(飛鳥浄御原宮から)、桓武天皇の子孫は平氏(平安京から)、というように、天皇の都の名前が姓になっています。だから栄誉なんです。 鎌足が藤原という場所に住んでいたから藤原氏、これじゃ単なる苗字であり、名誉でもなんでもないです。なんで、もっと気のきいた立派な名前を考えてあげないのか、ってことです。
 また、臣下の姓と同じ名前が、新しい宮につけられる、というようなことは原則的にありえません。もし万が一、偶然そうなったら、臣下のほうが遠慮して改姓するはずです(大伴氏が伴氏に改姓したように)。つまり、「鎌足が藤原姓を貰った」というのは、作為の匂いがありありです。ホントはそんなことはなかったんじゃないか、日本書紀は、ウソ書いてないか。

 日本書紀を実際に作ったのは藤原不比等です、何度もいいますが。 不比等は、決して手柄を誇らない、実に周到な人物です。自分の名前が大きく扱われ世間の反感を買わぬように、生涯右大臣にとどまり、律令、書紀の編纂を主導しながら、皇族の名前に隠れてトップにクレジットされることを避けています。
 もともと「藤原」という地名のところに都が建設された、だから藤原京、というのは、いいでしょう。でも、晴れて都になった以上は、それは高貴な地名となります。その高貴な名を、国家建設に多大な功績のあった不比等が姓として賜った、それなら辻褄が合います。

 臣下の姓と同じ名前が天皇の都につく、というのは、原則としてありえません。ならば、「都の名前を姓に賜った」これしかありません。 しかし不比等は、自分が「天皇から姓を賜わるような大物である」という事実を誇りたくはなかった。というか「一代でのし上がった成りあがり者である」と見られて反感を買うのを避けたかった。
 そこで、藤原は父の鎌足が死に際に貰ったのだ、ということにしてしまったのではないか。そのあとすぐ壬申の乱のドサクサになってしまったのだから、「そういうことが実はあったんですよ」と言っても通らないでもない、と。

 ま、日本の歴史をイチから作り上げる偉業をやったのだから、自分の親のことについて、ちょっと偽装を混ぜ込むくらいのことしても、バチはあたらないでしょう。つじつまを合わすため、「屋敷のあった藤原という地名に因んだんですよ」ということにした、と考えられます。
1 実際のところ、不比等は、若いときはずっと中臣を名乗っていたような形跡もあるんです、堂々と藤原を名乗るのは大物になったあとです。それって、彼が「藤原鎌足」の子だとすれば、何だか不自然じゃないですか。 私は、藤原姓を貰ったのは、他ならぬ不比等自身であったと考えています。

 そう思っているのは、私だけ、ではないです(私だって、たぶん、どっかで読んで、そうかあ、と思ったのをうろ覚えてしてるだけ、何も知れません)が、歴史学は「証拠のないことは言えない」ということになってるので、みんな「おかしいな」と思いつつ、黙ってるんです。そんなものです。