えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。


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このお庭にいったのは2月ごろです。立派な日本庭園です。
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池のまわりに、橋があったり、あずまやがあったりして、なかなか楽しいです。
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お茶室があったり、お茶会をやったたりするのを遠くから眺めてました。
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祠があったり、不思議な十三重の塔があったり、ミステリーです。
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お花が咲いています。まだ寒いのに、早いです。
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髪の毛を作ってもらって、ごはんをたべました。

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雛人形が立派です。さすがに結婚式場です。
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 シェイクスピアの「ハムレット」に出てくる、ホレーショについて、「彼はいったい何者なのか」というはなしをします。ハムレットの親友で、終始べったりくっついている、彼です。とはいえ、彼はけっこう議論になるんですよね。なにしろ、歳も身分も国籍すらも、はっきり書かれていないため、諸説あるのです。
 ハムレットが30歳であることは、これははっきり数字で言われているので動かせません(墓堀のシーンに明記されています)。なにしろ主人公ですから、その年齢が不詳というのでは話が進みません。で、ホレーショはそのハムレットの「学友」といわれているのだから、普通は同年輩だろうと思うところです。実際、劇の最初のほうで歩哨の兵士たちに呼ばれて城壁に現れた時には、兵士たちから旧知の友人のようなタメ口をきかれています。
 とはいえ、このへんは「日本語翻訳のマジック」というべきものもあります。日本語には敬語が多様なため、翻訳者がどう解釈しているかで、尊敬語にもタメ口にも、どうとも訳せるのです。ここんとこ、日本語でシェイクスピアを読むときは要注意です。たとえばホレーショが本当にハムレットの親友なら、たとえ身分は王子と臣下でも、(「蒼天航路」の曹操と夏候惇のように)タメ口を効いたっていいかも知れませんし、年長だが身分が下の者にどんな話し方をするか、息子が父親にどのていど敬語を使うか、そうしたことも、翻訳者の価値観とご時世の問題になりますから、一概にはいえません。閑話休題、とりあえずここで言えることは、ほとんどの日本の翻訳者は、ホレーショと兵士たちは同年輩だとなんとなく考えているようだ、ということです。。
 しかし一方、兵士たちは、眼前に現れた亡霊について、なんらかの判断をホレーショに求めています。実際、ホレーショは国王の亡霊を見て、「ノルウエー王と一騎打ちした時の姿と同じだ、だからホンモノだ」と判定しています。つまりホレーショは30年前の王の姿を見知っているのです。つまりここでは、ホレーショは「物識りの年配者」の扱いをされているようです。少なくとも四十代か五十代であろう、という推論が成り立ちます。
 さあ、いきなり、「彼はいったい何歳なんだ」という話になります。大学の同級生だったはずじゃないのか。
 
 このへんのところに、ちょっと前に読んだ福岡の素人研究者の本「よみがえるハムレット」という本では、独自の解釈をしています。
「当時のロンドンには、エリザベス女王の肖像画はいたるところに飾られていて、王に逢ったことなどない庶民も一人残らず女王の顔を見知っていたはずだ。同じように、偉大な先王ハムレットの、栄光の瞬間を描いた若いころの肖像画はデンマークじゅうに残っているはずで、その肖像画をホレーショが見知っていたとしても何の不思議もない。『若いホレーショが、先王の甲冑姿を見知っているはずがない、ホレーショは嘘つきだ』という非難は全く的外れである」
 このヒトは、ハムレットをたまたま読んだだけで他のシェイクスピアは知らない、と自慢げに豪語しているくらいで、それだけに彼の数々の大発見は果たして信じていいのかどうか眉唾なのですが、この件に関していえば、ハムレットとホレーショは同い年のデンマーク人、という考えが大前提のようです。それがまあ、現代日本人が「学友」と聞いて素直に考える、「素直な読者」の「素直な判断」なのでしょう。
 しかしどうでしょう。ハムレットの留学先は「ヴィッテンベルグの大学」と明記されています。北ドイツの、海外の学校、しかもここはルターが宗教改革をはじめたので有名な「神学校」です。18歳で高校を卒業した受験生が入試を通って入る現代日本の(ドラゴン桜に出てくるような)「大学」と同じものを思い浮かべるのは大間違いです。中世の大学での話ですから、学友といっても同年代とは限らない。若者と壮年が肩を並べて勉強していたっておかしくないわけです。
 そもそも、ホレーショがデンマーク人なのかどうかも疑問です。日本語で「ご学友」というなら、デンマークから一緒について行った事実上の臣下だろうと、普通そう思います。しかし、留学先で知り合った学友なら、デンマーク人であるとは限らない。実際ハムレットは城壁の上でホレーショに向かって「デンマークの悪しき風習」について得々と述べています。「おや、ホレーショは外国人なのかな」と思わせます。そうなるとまた一方、兵士たちが、自分の国の英雄について、外国人に知識を求めて判断を仰ぐというのは奇妙です。少なくともホレーショは兵士たちよりずっと「先王」についての知識があるからここに呼ばれたわけで、そう考えれば彼がデンマーク人以外のものであると思うことのほうが不自然です。
 さらにいえば、ホレーショは、冒頭の兵士たちを除けば、ハムレット以外の主要人物とまったく会話をしません(船乗りから手紙を受け取ったり、墓堀にちょっとツッコミを入れているくらい)。これでは彼がどんな立場の人間なのか推理のしようがありません。結局、ホレーショの年齢・国籍・身分について、劇全体から統一的に判断することは困難といわざるを得ないのです。だからこそ「謎の人物」「鍵を握る人物」と殊更に重視することもできますし、シェイクスピアがそこに特別の罠を仕掛けているのではないかと深読みをするのも楽しいのですが。
 
 ここで、身も蓋もない言い方をすることは可能です。「シェイクスピアってヒトは、けっこう場当たり的に芝居を書いているのではないか。脇役はそのときの都合でいろんな役をさせられるもので、近代劇のように、すべての登場人物に統一したキャラクターづけがなければならない、と考えるほうが無理なんだ」ということです。
 実際私は長年シェイクスピアおじさんと付き合ってきて思うのですが、彼は書斎の文豪ではなく、締め切りに追われ、現場の突き上げでしょっちゅう書き直しを迫られる現場の台本書きです。「事件は書斎で起きてるんじゃない、劇場で起きてるんだ」というわけで、観客のウケ方をフィードバックして筋も変わり、その時々の劇団事情で配役も変わり、その都度建て増しの違法建築旅館のようにツギハギされて今日に至る、というのも、けっこう有りうるのではないかな、とも思うのです。
 ホレーショは、観客とハムレット、観客と劇のつなぎ役として、半分は「物語の外」にいる存在のようなところがある。だから、前半はいろんな事情を説明するため、後半はハムレットの本音(というか愚痴)を聞くために存在するのであって、設定についてはあんまり細かいことはいいっこなし、なのではないか。実にあっけない言い方ですが、このへんが真相かも知れません。 
 「ホレーショは、ハムレットと同年輩のデンマーク人」と普通に読めばよいので、ときたまそこから逸脱するせりふを言ったとしても、作者の構成上の都合でそうなっちゃっただけなのです。これは近代リアリズム演劇ではないのだ、と頭を切り替えなければなりません。ホレーショの存在が劇の真相解明に深い意味を持つならともかく、劇の進行に意志的に関わろうとする様子のまったくない彼が「実は年配者なのだ、それはよく読むとわかるんだ」「いや、外国人なんだ、おまえこそよく読め」といった論争をする必要性はあんまりないのです。
 通常シィクスピアは、劇の進行にある程度の役割をする主要人物については、(衣装や扮装に頼らず)台詞を聞いただけでその人物がどういう年齢か分かるように書いてあるもので(たとえばポローニアスに対しては繰り返し「白髪」「耄碌」といった言葉を浴びせて、彼が老人であることを強調しています)、そうでない人物は「何歳でも構わない」「役者におまかせ」、配役上、そのときたまたまホレーショになった役者が、若手なら若者、ベテランなら老人、二枚目ならマジメに、三枚目ならお調子者でやればいい役なんだ、ということなのです。
 
ちなみに。20年前に読んだ田中重弘氏の著書によると、ハムレットの留学していた「ヴィッテンベルグの大学」というのが、ルターの宗教改革の発祥地であることは当時の観客のあいだでも周知の事実で、ズバリ「神学校」として有名です。なぜハムレットがここに留学していたのかというと、つまり「先王と王妃の正式な結婚前に生まれたハムレットは私生児であり、王位継承権がないため、聖職者になるために国外に留学していた(というか、ていよく追放されていた)のだ」というのです。その学友である以上、ホレーショもまた聖職者であり、その証拠に英語読みホレーショはラテン語でオラトリオ、祈祷の意味です。
 ホレーショが亡霊鑑定のために兵士たちに呼び出されたのは、先王に詳しいからではなく、神学者なら亡霊と悪霊とを見分ける知識を持っているだろうと期待されたからだ、ということなのです。これなら、ホレーショが外国人であっても、また何歳であっても(ハムレットと同年輩であっても、または年上であっても)格別な矛盾はありません。
 この説はある種の説得力があります。しかし、やはりいろんな不自然さは否めません。「じゃあ、何のためにデンマークに来たんだ、何の義理でハムレットの家来みたいなことをやってるんだ」という別の疑問が未解決になるのです。
 ここで田中氏は、「ホレーショの正体は、ハムッレット物語の原作(デンマーク人物列伝、みたいな本)を書いた、シェイクスピア時代よりちょい昔の聖職者、サクソ・グラマティウスである」と言い出します。彼は時空を超えて、ハムレットの物語を身近に取材し記録するためにここに来たのだ、というのです。いきなり抽象的な言い方になりますが、つまりそうした存在を舞台に置くことで、観客と劇の橋渡しをしている、というわけで、ある意味「リアルな肉体的存在ではない、物語の外部にいる者なのだ」ということになります。だから物語にコミットしないし、年齢不詳で一向構わないのです。なるほど、これは「当たっている」のではないかと私は思っているので、けっこう受け売りで話し回っています。以下も、この説を前提に話を進めます。
 
 ハムレットを巡って大騒ぎするクローディアスやガートルード、ポローニアスやレアティーズといった人々の口から、劇の最初から最後まで、王子の親友としていつもべったり一緒にいる男の名前・ホレーショのホの字も出てこないのは、実に奇妙なことです。まるでホレーショこそが幽霊みたいです。然り、彼はいわば「未来からきた透明人間」であり、ハムレット以外からは「見えていない」のかも知れない。だから話しかけられもしないし、名前を呼ばれることもないのです。いわば映画「シックス・センス」みたいな状況です。
 例外は冒頭の兵士たちですが、それこそこれは、シェイクスピアが、たまたま便利だと思ってホレーショを「生身扱い」して使ってしまっただけで、「場当たり執筆」の結果なのでしょうか。
 というか、もうちょっといい喩えをいま考えつきました。幽霊は、懐かしがったり恨んだりしている「用事のある相手」にしか姿を見せないものです。無関係の第三者には見える必要がないのです。それと同じで、「歴史家」で「神学者」であるサクソ・グラマティウス=ホレーショは、その存在を「必要とする」兵士連中からだけは、見えるし話もできる、という仕組みになっているのかも知れません。
 亡霊は「姿を見せたい相手」にだけその姿を現すし、「姿が見たい」と思っているものの目にしか写りません。私は、「ハムレット」を政治劇だと考えています。ここで大きな役割を果たすのが、文字通りの「亡霊」、つまり冒頭から何度も出てくる先王ハムレットの亡霊です。
 先王の亡霊がが見えるか見えないかは、先王派(戦争拡大、征服路線)か現王派(平和協調、外交路線)かの、リトマス試験紙なのです。先王の亡霊を城壁で見たのは、クローディアス王に反感を持つ「先王派」の青年将校たちだけです。ガートルード王妃は、先王の亡霊が目の前を通っても全然見えなかったじゃないですか。
 そしてサクソ・グラマティウス=ホレーショは、「ハムレット王子による王位奪還を望む先王派の兵士たち」の要請を受け、王子を先王の亡霊に引き合わせ、それによって物語を起動させるためにここに現れたのです。それを望まない現王派の人々にとっては無用の存在であり、だから見えないのです。
 シェイクスピアは、こういうことまで計算して綿密に劇を構成しているのです……というのは本当だろうか? やっぱりシェイクスピアおじさんはかなりいい加減にゲンバで台本を書き飛ばしているだけで、それをわれわれが勝手に深読みしているだけなのかも知れない、その疑いは依然として捨て切れません(笑)。私はシェイクスピアおじさんの罠にはまっているだけのだろうか。それはそれで楽しくもありますがね。

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