ご無沙汰しています。




この世の極楽。



熊本に行っていました。


見えるかな?

ちんちん電車の中から撮った、JR熊本駅。


熊本に行く前。

おじじ のお見舞いに行った。


数日、京都を離れるから。

もしかしたら…。

今生の別れになるかも知れない。


そう思って。

いっぱい、喋って。

いっぱい、体をさすって。

いっぱい、キスした。


そして、熊本に向かう新幹線の中で

地震のことを知った。


沢山の尊い命が奪われた。


京都に帰って来た今。

おじじは生きてる。

まだ、命をいただいている。


それは、嬉しい。

とっても、嬉しい。


でも…。


命はなんて、はかないのか。もろいのか。

そして、不思議なのか。

自分の意思で、どうしようも出来ないのか…。



テレビや新聞から溢れ出る情報に

悲しく、辛く、苦しい気持ちになる。

その、胸を締め付けられる苦しさ。


その苦しさを感じながら

食事をし、「おいしいね」と言ってる自分がいる。


どんなに悲しくても、その悲しみを

〝我が事”として受け入れる事が出来ない悲しさ。


悲しくて、本当に悲しい。




正直な話しをすると…。


TVに映し出される、荒涼とした大地を見て

僧侶の端くれとして、こんな時こそ僧侶が動かなきゃ!

って、思った。


せめて、お経のひとつでも。

何か出来ることはないかな?って。


そう思って、ハッとした。

僧侶だから何か出来ないか?と思った驕りの気持ち。

それが、善意ヅラして首をもたげて来たことに…。

すっごく恥ずかしい気持ちになった。


でも、偽善でも、何でもいい。

とにかく行動を起こす事が、大事かも知れない。




実は…。


親鸞さんが生きていたころ。

じゃぽんはすっごい天災に見舞われていた。



○ 養和2年(1182年)

  親鸞さんが9歳の時。



養和の大飢饉。


鴨長明の書いた「方丈記」によると

養和2年の4月から5カ月の

たった2か月の間に

洛中だけで、4万2千3百名の死者。



○ 健保2年(1214年)

  親鸞さんが42歳の時。


関東を中心にひでりが襲う。



○ 寛喜2年(1230年)

  親鸞さんが58歳の時。



旧暦の6月(新暦の6月下旬~8月上旬)に

武蔵国(現在の東京、埼玉、神奈川)で

降雪が観測される異常気象。


全国的な長雨による冷夏。

台風の襲来が続き

農作物の収穫に壊滅的な打撃を受ける。



○ 翌、寛喜3年(1231年)

  親鸞さんが59歳の時。


鎌倉時代を通じて、最大規模の飢饉。


藤原定家の日記「明月記」には

洛中に死骸があふれ

その死臭は、家の中まで漂ってきたと言う。



そんな怒涛の天災+源平の戦い。


そんな中…。



親鸞さんは2回、あるコトをしている。


健保2年と、寛喜3年。

共に、天災で、じゃぽんが

めちゃくちゃになった時。


親鸞さんは、お経を称えた。

休むことなく、称え続けた。


そして、数日後…。




止めた。


自分の「お経を称える」と言う行為によって

みんなを救おうと思う心。

それは、自分の力でなんとかなる!

と言う、自分の力に対するこだわり。

またそれは、みんなを救う側に立とうとする

自分の心の表れ。



親鸞におきては、ただ念仏して

弥陀にたすけられまいらすべしと

よきひとのおおせをかぶりて

信ずるほかに別の仔細なきなり。


「歎異抄」第2章



やっぱ、念仏しかないよ~。

阿弥陀さん 、ありがと。


そう思ったであろう

親鸞さんのキモチが

少し、感じられた気がした。



が。


しかし!


今は、念仏を称えているバアイではない。



もちろん!


行きつく先は、念仏だし。

阿弥陀さんだと思う。



でも!


念仏を称えていても、復興は始まらない。


念仏を胸に。

今、出来ること。

自分が出来ること。

目の前のこと。

ひとつ、ひとつ。


そんなことを、思った。




この世の極楽。

で、熊本で何してたって?


お掃除してました。




Have a nice day !!
素敵な1日を! 音譜