ダン・ギルロイ監督・脚本、ジェイク・ギレンホール、リズ・アーメッド、レネ・ルッソ、ビル・パクストン出演の『ナイトクローラー』。2014年作品。
第87回アカデミー賞オリジナル脚本賞ノミネート。
ひょんなきっかけから事件や事故現場でスクープ映像を撮影してTV局に売る“ナイトクローラー”の仕事を始めたルイス。ニュース番組のディレクターのニナと知りあい、次第にその才能を発揮して同業者のジョーからも一目置かれるほどになる。しかしこの業界で“レヴェルアップ”して自身の野望を実現させるために、やがてルイスは越えてはならないはずの一線を越えていく。
まったくノーマークの作品だったんですが、評判がいいので。
それと、たまたま上映館の前売券を買ってあってそれの使用期限が今月いっぱいということもあったんで、シルバーウィークの最終日に鑑賞。
有名人を追う“パパラッチ”もそうだけど、アメリカには事件や事故の衝撃映像をTV局に売るプロたちがいるってことは何かで見て知ってましたが、警察を出し抜いて想像以上に現場にズカズカと踏み込んで凶悪犯罪でもなんでもどんどん撮影しちゃう、ってのがなかなかショッキングでしたね。
この映画で描かれた“ナイトクローラー”たちの行為がどこまで事実に基づいているのかは知りませんが(ナイトクローラーとTV局の関係がかなり誇張されている、という指摘もあるようで)。
だって日本だったら考えられないでしょう。
たまにインターネットで検索してると遭遇する実際の事件や事故の凄惨な現場の画像ってほぼ海外のものだけど、でも日本だってたまたま警察が来るよりも前にそういう現場に出くわすことはあるだろうから、やっぱりそういう動画や画像を撮影してしまう人も中にはいるかもしれないし。
僕はけっして他人事ではないと思いましたが。
だって、何か起こったらみんなすぐスマホで撮りまくるじゃん。
ファインダー越しに見たものはどこかフィクションめいていて、それは往々にして人の倫理的な感覚を麻痺させる。
ひと頃のバカッターみたいに恥ずべき行為を自撮りする。有名人がいたら本人に了承を得ずに勝手に撮影する。洪水で人が流されていっても、火事で他人の家が燃えていても事故で大怪我をした人がいても、人はカメラでそれを撮る。
「すげぇぇぇ!!!」とか言いながら。
カメラの存在が人に、カメラがない時には絶対やらないようなことを可能にさせる。
海外で自撮りやってて誤って死んでしまう人たちがかなりいるそうだけど(やってることがエクストリーム過ぎるので^_^;)、映像を残す、という目的のために時に人は自分の命まで危険に晒す。
たかが映像なのに。
その魔力に僕たちは知らず知らずのうちに取り込まれている。
この作品は「胸クソ悪い」という感想を持つ人たちがいるように、ちょっと受けつけがたいかたもいらっしゃるかもしれません。
といっても目を背けるような残酷な映像があるということではなく(年齢制限なし)、人間的に問題あり過ぎる主人公が成り上がっていく物語だから。
観終わったあとに横の席に座っていたカップルのカノジョの方がグッタリした様子で「マジ勘弁」と呟いてて、あぁ、お気の毒に(°∀°)y-~と思ったけど、正常な感覚の持ち主だったらそう感じて普通だと思う。
逆に主人公のルーに妙に感情移入したり、彼に本気で憧れるような人間の方がよっぽどコワい。いや、現実にそういう輩が居そうだから。
逡巡もせず、自分の目的のためなら軽々と一線を越えられてしまう人間は実在する。
僕はちょっとディカプリオが主演した『ウルフ・オブ・ウォールストリート』を連想したんですが。
人間として何か重要なものを欠いている彼らに現実の世界で憧れるような奴はろくでもないと思うけど、しかし、この映画はそれでも明らかに主人公ルイスをどこかヒロイックに描くのだ。
そして観客である僕は、場面によっては彼の立場、視点でこの映画を観ていた。
映画は「勧善懲悪」であってほしいと思っていたり、後味の悪い映画が好みでない人はこの映画はストレスが溜まるだろうからお薦めはしません。
僕もどちらかといえば悪人がのさばるような話は苦手な方なんだけど、この映画に関しては非常に面白かった。
ギルロイさんも初監督作ということだけど、なかなか手馴れた演出で。
以下、ネタバレがありますのでご注意ください。
昔から社会のルール、時には“人”の道すらも外れた「外道」「悪漢」を主人公にした映画はあったわけで、どうしてそんな映画をけっして少なくない数の観客が支持するのかというと、そういうキャラクターたちの徹底したクズっぷりにむしろ清々しさすら感じるからだ。
ジェイク・ギレンホールが演じるルイスは映画を観る限りでは平気で人に嘘をつき、ためらいもなく人殺しさえもやってのけるような犯罪者だが、その異常者ぶりというのはただハイテンションだったり見境なく他人を傷つけるキ○ガイというのではなく、仕事以外ではストイックな人物として描かれている。
ちゃんと成果を出して人を納得させる能力もある。
ルイスとニナがベッドでどんな“プレイ”をしていたのかは定かではないが(ルイスは「ベッドで命じられたことはやれ」とニナに言う)、仕事以外のことでは彼はハメを外すことはない。
目立たず、調子にも乗らず、金が入ってもアパートでひっそりと生活している(車とヴィデオカメラは買い替えるが)。
ある意味“筋の通った”その姿には、雑多なものにまみれている現実の世界の人間にはない崇高なものすら感じるのだ。
ルイスの目的はなんだろう。
金か。
しかし、彼はビル・パクストン演じる最新の機材やノウハウを持つヴェテランのナイトクローラー、ジョーから「手を組もう。儲けは山分けだ」と持ちかけられてもにべもなく断わる。
そんなウマい話を蹴ってまでも彼が実現したいこととはなんなのか。
だいたい、彼は最初はジョーのところで働きたがっていたのだ。
ナイトクローラーの仕事に興味を示すルイスに、ジョーはこの業界が甘くないことを告げてバンで走り去る。
のちにジョーが頭角を現わしてきたルイスを誘った時に彼が「興味ない」と言い捨てるのは、すでに“レヴェルアップ”したルイスにはジョーなど必要なかったからだ。少なくとも彼はそう考えた。
恐るべき学習能力と上昇志向。
ちなみにビル・パクストンはかつて『ツイスター』で車で竜巻を追う竜巻ハンターを演じていたけど、今回のこのキャスティングは絶対狙ってますよねw
パクストンの業界ズレした感じの演技はよかったけど、かつてジェームズ・キャメロンの映画でいつも情けない役だったり惨殺されていたパクストンがこの『ナイトクローラー』でも悲惨な目に遭っているのを見て、僕はちょっと笑っちゃったんですよね。酷い場面なんだけど。
それぐらい彼が演じるジョーはイイ感じにお人好しに見える。あぁ、きっとこいつは殺られるだろうな、というのにピッタリな。
予想外にあっさり始末されてしまったので、ちょっと意表を突かれたけど。
ジョーの末路は多くの人々の不幸をメシの種にしてきた者への当然の報いとも思えるが、だったらその彼から「学習」して自分の夢を実現させたルイスの方がもっと凶悪だろう。
ジョーの死は因果応報的ではあるが、何も殺すこたぁないじゃないか、と。
しかも、そんなジョーを殺した当のルイスは裁かれない。
まったくストーリーは違うけど、僕はちょっとロバート・アルトマン監督の『ザ・プレイヤー』を思いだしたんですよね。
『ザ・プレイヤー』はハリウッドを皮肉った映画で、ティム・ロビンス演じる軽薄な映画プロデューサーが何者かに脅されて、犯人だと思った男をはずみで殺してしまうのだが、真犯人は別にいて…というアルトマンの諧謔味溢れる作品。
主人公は殺人まで犯しているにもかかわらず、最後にはすべてが彼に都合の良い「ハリウッド・エンディング」で幕を閉じる。
その人を食ったような結末が『ナイトクローラー』と似ていたな、と。
『ザ・プレイヤー』はわりとお気に入りの作品なんですが、このように「映画」というのは必ずしも主人公に“感情移入”できなくたって「楽しめる」のだ。
そのことをこの映画であらためて知らされた気がする。
そして、そこにはもちろん映画的なテクニックが駆使されている。
たとえば、ヒッチコックの『サイコ』。
仕事先の金を横領して逃亡したヒロインは一般的な常識からいえば悪人だが、映画を観ているうちに観客はいつしか彼女と共犯関係になっていく。
警察に捕まらないか、モーテルの管理人ノーマン・ベイツに犯罪が露見しないか、とハラハラしている自分に気づく。
同様に、『ナイトクローラー』でルイスが刑事にほぼ事件の真相を言い当てられる場面で、本来ならば極悪人であるルイスが破滅するのを願うだろうところを、僕は彼の側の立場から観ていた。
そして口許に不敵な笑みを浮かべたルイスは最後まで怯まず、まんまと彼が望んでいたものを手に入れる。
死んだ「相棒」の代わりになる自分の“コマ”たちの前で、いっぱしの経営者のように自らのビジネス哲学を語るルイス。ほとんど『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のラストと一緒だ。
サバービア(郊外)の裕福な白人が悲惨な目に遭う、というのがもっともニュースヴァリューがある、と考えるTV局ディレクターのニナは、人々が何を望んでいるのか知っている。
だからそれを提供する。
そう、TVというのは視聴者が望むものを見せる媒体なのだ。
中国系のチョウ氏の殺害がニュースになるのは、彼が富裕層だからだ。
そうでないダウンタウンのヒスパニック系の住人の事件はニュースにならない。TVの中で人の命は平等ではない。
金がなさ過ぎて最初は1日30ドルで仕事を引き受けるリックも白人ではない(演じるリズ・アーメッドはパキスタン系)。
警察でルイスを問い詰めるが結局尻尾を掴むことができない刑事がアフリカ系の女性なのも、意図的なキャスティングだろう(そういえば、『ザ・プレイヤー』で主人公を追う刑事役もアフリカ系のウーピー・ゴールドバーグだった)。
この映画が「皮肉」に満ちていることは疑いようがない。
僕がこの映画をとても面白く感じた理由の一つは、この映画が人間の「モラル」について描いた作品であると同時に、「映画」について描いてもいるからだ。
どういうことかというと、映画の撮影現場ではいい構図を得るために役者や小道具などの配置を考えるが、『ナイトクローラー』の中でルイスがやってることはそれとまったく同じだから。
「いい構図」のために事故現場の死体を動かしさえする。あれはかなりブラックなシーンだ。
よく映画のロケセットなどで、撮影のために借りた部屋を荒らした、という話なども聞く。
撮影に夢中になっていると、スタッフは実際に住んでいる人の部屋の物を壊そうが壁を傷つけようがだんだん平気になっていく。
彼らにとってはもはや「撮影」の方が「常識」よりも大切なのだ。
ルイスは現実をまるで「映画」のように見ている。
「映画」だから、その中のモノがどうなろうと構わない。人の命でさえも。
被害者宅に忍び込んで遺体を次々とカメラに収めていくルイスの表情からは恐怖心はうかがえない。
過剰に興奮している様子もなく、むしろ淡々と素早く「仕事」をこなしていく。
カメラ寄り過ぎ
彼はまるで「天職」をみつけたような顔で仕事を楽しんでいる。
ルイスが映画監督になったらきっと面白い映画を撮るに違いない。この映画のような…。
主演のジェイク・ギレンホールは僕は『遠い空の向こうに』で見たのが初めてで、以降『ドニー・ダーコ』や『デイ・アフター・トゥモロー』『ゾディアック』など何本も主演作を観てきて芸歴も長い人だけれど、大作にも出ている一方でちょっと癖のある映画への出演も多く、そのチョイスの仕方や最近では作品によってマッチョになったり今回のように痩せたりと肉体改造を行なうところなんかは、ちょうどクリスチャン・ベイルやマシュー・マコノヒーを思わせもする。
before → after
ただでさえ目が大きいのに、この映画では減量して頬がこけて目ばかり目立って異様な顔つきになっていた。
ギレンホールの顔はもともと口角がちょっと上がってていつも口許が笑っているように見えるのだが、この『ナイトクローラー』ではさらに笑顔がコワい。
部屋の中でTVのニュースを観ながら突然笑いだすタイミングも気持ち悪いし、たいして髪が長くないのに頭頂部で縛ってチョンマゲみたいにする髪型も見ていて微妙にイラッとさせられる。
さすがの役作り。
『ブロークバック・マウンテン』ではアカデミー賞にノミネートされてるけど、まだ受賞歴はない。僕は彼の出演作品を観るのは『ミッション:8ミニッツ』以来だけど、それ以降もコンスタントに主演作は公開されているしその評価も高いので、これからさらにその実力が認められていくのでしょうね。
ニナを演じるレネ・ルッソは、僕は90年代に『リーサル・ウェポン3』や『ザ・シークレット・サービス』などを観ていて、主人公と対等にふるまう颯爽としたヒロイン像が魅力的でした。
彼女が出演した『フリージャック』も観たけど、あの映画の共同脚本家がこの『ナイトクローラー』の監督で彼女の夫でもあるダン・ギルロイなんですね。
『フリージャック』で主人公を演じていたエミリオ・エステヴェスは最近何やってるんだろ。
弟のチャーリー・シーンはクスリとセックスで有名になっちゃってますが。
そういえば兄弟でそれぞれレネ・ルッソと映画で共演もしている(チャーリー・シーンとは「メジャーリーグ」シリーズで)。
レネ・ルッソってモデル出身で綺麗な人だけど、すでに還暦過ぎてるのね(現在61歳)。
ちょっと『裸の銃を持つ男』のプリシラ・プレスリー(現在すでに70歳)思いだした。
『マイティ・ソー』の女神様は「相変わらず綺麗だなぁ」と思ったんだけど、この『ナイトクローラー』での彼女は厚化粧で口のあたりのシワなども「あ、おばあちゃんになってる」とちょっとショックだったんですよね。
そんな彼女が息子ほどの年齢のギレンホール演じるルイスと肉体関係を持っている、というのは(具体的な描写は一切ないが)、なんだか妙に爛れたエロスを感じさせたのだった。
変態だなぁ、ギルロイ監督^_^;
奥さんは劇中でも「FUCK'N」を連呼してましたし。
この映画が倫理的道徳的に許されないことを描きながらも年齢制限がないのは(日本ではPG12ですらない“G指定”)、直接的なヴァイオレンスやエロがまったくといっていいほど画面に映っていないからだ(映るのは射殺死体とリックが撃たれる瞬間ぐらい)。
映っていないのに観る者に禍々しいものを見たと思わせる技術(遺体にモザイクがかかった瞬間に急に生々しく感じられる不思議)。
そして、それにはギレンホールの変わり果てた人相と迫真の演技(「迫真の演技」というのはこういうもののことを言うんだと思う)が大きく寄与していることは言うまでもない。
ルイスは見習いとして雇い入れたリックを安い賃金でこき使い、また事あるごとに彼を責め立てる。その叱責は時には明らかに憂さ晴らしのためじゃないかと思えることもある。
そしてリックが知恵をつけて彼に反論するようになると、クビをチラつかせる。
こういう上司はいる。
常にルイスに出し抜かれるリックは見ていてもどかしいが、でも彼の立場に立ってみれば無理からぬところではある。
仕事の内容も知らされず、矢継ぎ早に命令されて急かされる。
それについていけなければ罵倒され、いきなり社員にしてやる、いくら欲しいと聞かれ、ちょっと遠慮して金額を言うと今度は命にかかわる仕事を命じられる。
完全なる超ブラックな仕事を請け負うことになり、結果的にルイスのついた嘘で殺されてしまうリックには、まったくもって同情を禁じえない。
リックのルイスに対する「お前は人間がわかっていない」という言葉は、客席で僕ら観客が感じていたことの代弁だ。
ルイスには他者の気持ちがわからない。相手がどんなに不快な思いをしているのか気にも留めていない。
そのことを指摘されても、彼が本当に理解したのかどうかは怪しい。
なぜなら、ルイスが見ているのはいつだって相手が自分にとって利用価値があるかどうかだけだから。
利用価値があるなら使うが、ないと判断すれば切り捨てる。
下手をすれば、彼にとってはニナでさえも使い捨てなのかもしれない(他局にスクープ映像を売ることをほのめかしてTV局のお偉いさんに会わせるように半ば脅迫する場面からもそれがうかがえる)。
この映画が言っているのは、世の中には2種類の人間がいて、1人はルイスのような者、もう1人はリックやジョーのような者、ということだ。
ルイスにとっては警察だろうがTV局の人間だろうが、誰もが自分のために利用するための存在でしかない。
極端にも見えるルイスのこのパーソナリティに戦慄するのは、さっきから言ってるようにこういう人間に見覚えがあるから。
いるんだ、こういう奴は。
一方でルイスの過去や家族関係など、生身の「人間」としての彼について映画の中でまったく触れられていないのは、彼がもはや人間ではなく人間の姿をした得体の知れない「何か」であることを示している。
ニナとのセックスの描写が一切ないのも、そういう人間らしい営みすら省略してしまうことでルイスから完全に人間性を消してしまおうという狙いだろう。
この映画がどこか「清々しい」のはそこで、僕にはルイスが「俗っぽいジョーカー」に思えたのだった。
クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』におけるジョーカー(演じたヒース・レジャーは『ブロークバック~』でギレンホールと共演している)は、手に入れた大量の札束を燃やすように「金」そのものを笑いのめしてただひたすら悪意のみを表出する純粋な“道化”だったが、ルイスは金を手に入れるために邁進する。
そして何人もの若者を使う事業主に成り上がる。
ハッキリ言って、やってることは実にチンケだ。
ルイスという男そのものが「人間」が持つ醜さや愚かさ、つまらなさを象徴しているように感じられる。人間の「負のエキス」を見せつけられているような気分になる。
そこに唯一抜けているのは、「人間」としての「隙」というか、「弱さ」だ。
弱いからこそ、人は「愛」を求めたり、自分が本当に求めているものがなんなのか悩み七転八倒するのだが、ルイスにはそういう人間らしさがない。
ただひたすら目標のために「学習」し続けるアンドロイドか宇宙人のようだ。
彼は別に人々に悪意があるわけではない。
単に彼にとって人はいくらでも取り替えの効くモノでしかないのだ。
その突き抜けた非人間性。
だからこそ、もはや不快を通り越して痛快ですらある。
人間性を失った者、もともとそんなものを持っていない者は、超越的な存在に見えるからだ。
ヒトラーやナチスが一部の人々に人気があるのも、似たような理由だろうと思う。
なかなか恐ろしい映画でした。
※ビル・パクストンさんのご冥福をお祈りいたします。17.02.25
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