園子温監督、長谷川博己麻生久美子西田敏行渋川清彦マキタスポーツ奥野瑛太松田美由紀出演の『ラブ&ピース』。



楽器の部品会社「ピース」で働く鈴木良一(長谷川博己)は、皆からバカにされるうだつの上がらない毎日を送りながら同僚の裕子(麻生久美子)に好意を寄せつつも想いを伝えられずにいた。ペットに亀を飼い「ピカドン」と名づけてかつて夢見たロックスターになる妄想に耽る良一だったが、会社に持っていったその亀を課長(マキタスポーツ)以下社員一同にからかわれて、思わずトイレに流してしまう。


相変わらず超多作の園子温の今のところの最新作。すぐに『リアル鬼ごっこ』や『みんな!エスパーだよ!』が控えてますが。しかし、それにしてもこの本数!1年に劇場公開映画5本って、どう考えてもアタマがおかしい(※褒め言葉です)^_^;

同時に撮ったりもしてたらしいし。マルチタスクな人なんでしょうな。掛け持ちで連載持ってる漫画家みたいな。

ですが、プログラムピクチャー全盛期やTVドラマならばまだしも、この2015年に1年間に5本もの劇場公開映画を撮ってたら1本1本はほとんど走り描きみたいになるのが当然で(走り描きだろうがなんだろうが、面白けりゃ何の問題もないですが)、だからハッキリ言って粗製乱造の感は否めない。

なんでそんなに全力疾走してるんだろう。1本ずつ腰を据えてじっくり撮る気はないのだろうか。

監督ご自身は長らく映画でメシが食えなかったので「仕事がなくなる」ことへの恐怖心もあるようで、まるで売れない時期が長かったお笑い芸人や俳優さんたちがブレイクしてからも来る仕事を拒まずにすべて受けちゃうみたいな、そんな必死さがある。

5年や10年に1本撮るか撮らないか、という監督に比べて、俺はこんだけ映画撮りまくってるんだ、という意地や矜持もあるのかもしれませんが。

たとえば園監督の特徴として、ここんとこいつも例に挙げてしまう三池崇史監督(奇しくも現在、最新作『極道大戦争』が公開中)との類似性がある。両者は映画に対する姿勢や評価のされ方においてますます似てきている気がする。

海外でも知名度があり、日本国内にも熱烈なファンが存在するいわゆるカルト映画監督。だから受けつけない人にはとことん受けつけない作風。作風というか、監督ご本人たちのキャラも濃過ぎるので(;^_^A

お二方とも明らかに性格、人格、性的嗜好に問題のある“サディスト”だし(※個人の意見です)。

ただし決定的に違うのは、三池崇史には作品の中で自我を表出する欲求がほとんどなくて、一見やりたい放題やっててもゲテモノ映画をあくまでも業務的に撮っているように見えるのに対して、園子温作品には多分に「俺」に執着するナルシシズムが感じられること。しばしば作品自体と作家本人が分かちがたく結びついている。

「オレを見ろ!」というウォー・ボーイズ的欲求ですな。




そもそも彼の映画ではナルシシズムや幼児性はしばしばダダ漏れだったりするし、その人間として未熟ともいえる部分こそがこの映画作家の魅力であることは確かだ。

彼の映画を愛する人々は、女性に対する幼稚な幻想だったり、10代の少年がそのまま大きくなってしまったような監督のキャラを面白がったり、愚かな主人公に自分自身を重ねて身悶えしたりするのだろう。

そしてそれはご本人が「魂の集大成」と称する今回の映画でも顕著。

「朝生」の人とか、「脳科学」の人とか、「終わりなき日常」の人とか、浅草キッドの人とかがゲストでちょっと出てたりする。

良一のバンド仲間役で「サイタマノラッパー」シリーズの“ブロの男”(奥野瑛太)も。

その他にも、声の出演も含めてこれまでに園子温作品にゆかりのある俳優たちが大勢顔を出している。

松田龍平翔太兄弟のお母さんが良一を発掘するレコード会社のプロデューサー役で出てて、網タイツの太ももが眩しかった。ちょっとムラムラしました~。なぜか途中でいきなりいなくなっちゃったけど。

みんなが集まって「オレの映画」を撮る。

そんな園子温が今回選んだのは、日本映画界における“あるジャンル”だった。

これ以降、ネタバレを含みますので、未見のかたはご注意ください。



園監督の映画を観るのは僕は去年の『TOKYO TRIBE』以来で、最近公開された『新宿スワン』は未見。

予告篇観て、ホストにもエリカ様にもまったく興味をそそられなかったので。

すべての監督作品を観ることはちょっと難しいしそんな義理もないので、興味が湧いた作品だけ映画館に足を運んでます。

この『ラブ&ピース』については昨年、映画の存在とクライマックスの超展開を知って関心を持ったのでした。

すでにポスターや予告篇、情報番組などでネタバレ全開だったりするんですが、要するに日本映画界のお家芸でもある“怪獣映画”なのですな、これは。

だから、園子温を知っていようがいまいが彼に興味があろうがなかろうが、自称他称問わず“怪獣映画ファン”ならとりあえず観ておかなくてはいけない作品なんである。

しかもデカい亀の怪獣って、そのまんま“ヤツ”じゃないですかw

つまり、ほぼガメラなのだ。

空は飛びませんが。

ちなみに、主人公のリビドーの捌け口である亀が「おっきくなっちゃったぁ!」って、なんか卑猥ですがエロネタはありませんので。

権利関係とかどうなってるんだろう、と思っちゃうんだけど、この映画の特撮には本家「平成ガメラ」のスタッフが参加してて(「三匹のおっさん」じゃない方の泉谷しげるさんの名も)、つまりホンモノなのであった。

ゴジラ復活に続いてヤツもか、とw

2006年公開の『小さき勇者たち~ガメラ~』の目ん玉クリクリのガメラをさらに“ゆるキャラ化”したような(路線としては、ほとんどあの映画のリメイクといってもよいのではないかとw よく見るとその造形は意外と細かい)亀の“ピカドン”、またの名を“ラブちゃん”。

『小さき勇者たち~ガメラ~』 監督:田崎竜太 出演:富岡涼 夏帆 津田寛治 寺島進 奥貫薫



こいつがピカチュウの声でお馴染み大谷育江のカワイイ声で唄いながら新宿をズンズン歩いて戦車相手に大破壊を繰り広げるのだ(亀さんはただご主人のいる場所に向かって歩いてるだけなんですが)。

その姿は『ゴーストバスターズ』のマシュマロ・マンとか、安達祐実主演の『REX 恐竜物語』のテイストもちょっと入ってるような気が。

特技監督は「怪奇大作戦 ミステリー・ファイル」や「ウルトラマンX」などの日本特撮界の俊英、田口清隆

ビルの破壊や戦車の砲撃などの描写はかつて田口監督がNHKで撮った特撮短篇ドラマ「長髪大怪獣ゲハラ」(企画:みうらじゅん)を思わせて、実は日本特撮の新時代を担う人材がここでしっかり“ガメラ”を撮っているんである。




『TOKYO TRIBE』の渋谷で砲撃する戦車のVFXと比べると、今回の『ラブ&ピース』の「特撮」がどれだけ本気で撮られているかよくわかる。

まぁ、この『ラブ&ピース』はすでに結構ネタバレしちゃってるけど本来は何も知らずに観たらサプライズ、みたいな映画なので、怪獣映画としての特撮の醍醐味が味わえるのは終盤のクライマックスのみですが。

庵野秀明樋口真嗣の新生ゴジラもいいけれど、僕は個人的にはこの人の撮るゴジラが観たいんですけどね。いずれ実現する日を楽しみにしてますよ。彼ならばギャレス・エドワーズのハリウッド版を超えるゴジラを生みだしてくれるだろうと期待しています。

亀の怪獣の名前に“ピカドン”とか、良識ある人々には眉をひそめられそうだけど、そもそもゴジラこそまさに「ピカドン=原水爆」の落とし子だったわけで、だからこの忌まわしい名称は実は怪獣の名前にはもっともふさわしいものであったりする。

園子温が12年に撮った『希望の国』が福島を思わせる東北の地で起きた大災害と原発事故にまつわる映画だったことを知っていれば、この「ピカドン」にも何か深い意味があるようにも思えてくる。

もっとも、その辺は今回はテーマとしては清々しいほどカンケーなくて、たまたまTVで耳にした「ピカドン」という言葉をテキトーにペットの亀につけて「お前を忘れない~♪」と唄ったら反核ソングと勘違いされた、というオチなんですが。




同じく長谷川博己が主演した『地獄でなぜ悪い』が監督自身の体験も盛り込んでいたように、25年前に仕事がない中で書いたシナリオをほとんど書き換えずに撮ったという今回の『ラブ&ピース』にはかつての園子温の鬱屈した想いが込められている。

主人公・良一は冴えない会社員で、会社でも、通勤電車の中でも、道を歩いていてもすべての人々からバカにされている。

現実にはそんなことありえないから、これは全篇を良一のほぼ一人称の視点で描いた物語なのだ。

彼の中にある劣等感、焦燥感、ルサンチマンが「世間はオレを見下して嘲笑っている」という被害妄想となって彼の前に現われる。

だからなのか、この映画での良一の演技はほとんど「コント」みたいに演出されていて、極端にデフォルメされている。

これを楽しめるかどうかだと思う。

僕は正直しんどかったんですよね。ぶっちゃけ「手抜き」なんじゃねぇの?と思ってしまって。

『地獄でなぜ悪い』同様に、プロが撮ったアマチュア自主映画みたいで。

園子温の映画は壊れているのが当たり前で、正統派のシナリオや演出を期待する方が間違っているのかもしれない(でも『ちゃんと伝える』は普通の演出だったんでしょ?観てないけど)。

インディーズのパンクバンドに大手レコード会社の大衆ウケを狙った定型通りの曲を作らせようとするみたいなもので。

だからまぁ、僕がこれから指摘することだってこの監督の資質を理解していない的外れな感想かもしれません。

だけど、僕はこの映画を観ていて、もったいないなぁ、って思いました。

もしもこれを『海街diary』ばりの通常のドラマのように脚本化、演出していたら(ムチャ言うなよ^_^;)、僕はクライマックスのピカドン大行進に本気で泣いたかもしれないから。

草食系イケメンの長谷川博己が顔を歪めながら情けない声で「ヒィィ~」とか「あ゛あ゛あ゛~」って叫んだり亀みたいに地面を這ったり忌野清志郎みたいな格好してステージで唄う姿に萌えることは可能だと思います(厚底のブーツ履いておぼつかない足取りで歩く長谷川さんのお尻はキュートでした)。

それだけでも人によっては一見の価値がある作品でしょう。

でも、彼が演じる主人公があまりにマンガちっくに演出されているせいで、僕には笑えないコントを見せられてるようにしか感じられなかったんですよね。

ジョニー・デップのコミカル演技の超劣化版、みたいな。演技のパターンが単調だから観ていて飽きる。

長谷川博己がどんなにダメっぽい演技をしてみせても生理的な嫌悪感をもよおさせるような描写はなくて、けっして観客を引かせないように周到に配慮してある。彼がリアル鼻水垂らしまくって号泣するような、心底無様な姿を晒す場面はない。

これは長谷川さんの演技力にではなくて、演出の仕方に問題があると思う。

ぶっとんだことやるんならとことんまでやる、そうじゃないならもっと丁寧に演出できなかったのだろうか。

まだかろうじて一般社会と繋がっていた主人公がやがて壊れてとんでもない方向に暴走していくのが面白いんで、最初から壊れてたらそんな奴がどうなろうがだんだんどーでもよくなってきてしまう。

楽器の部品を扱う仕事がどういうものなのかの描写もないので、彼の普段の仕事ぶりもまったくわからない。オフィスでみんなからバカにされてるだけで。

だから、楽器の部品作ってた人がやがて楽器を演奏したり歌を唄う側になる、という展開にイマイチ高揚を感じられない。

そうじゃなくて、たとえば良一の地味で冴えない毎日をまず普通に描いて、そこから徐々に逸脱していくふうにした方がよかったんじゃないか。

劇中ではかなり誇張されてるけど、現実の世の中でも会社の上司や先輩、同僚などに見下されて嫌味を言われたりからかわれることはある。

マキタスポーツ演じる課長が鼻で笑いながら良一に言い放つ「君はカケラですらないからね」って侮蔑の言葉、僕は似たようなことを言われたことがありますよ(あ、ピースって平和のことじゃなくてカケラのピースなのか?と思ったけど、映画の英語タイトルは「LOVE & PEACE」)(>_<)

十分、リアルに描ける題材なんですよね。

そして、そんな屈辱的でクソつまらない日常描写の中に時々主人公の妄想が紛れ込む、と。

彼にはこういうふうに世界が見えている、というように(「廃棄」と書かれたシールを貼られる場面なんかもその類いでしょう)。


そういう段階を経てこそ、やがていきなり彼がミュージシャンになったり、ペットの亀が巨大化したり、捨てられたオモチャたちが喋ってサンタの力で生まれ変わるファンタスティックな展開が映えるのであって。

でも映画を観ていても、彼は冴えないどころか最初から完全な社会不適合者、というかアタマがおかしい人にしか見えないのだ。

だからまったく感情移入できない。そもそも作り手が最初からそれを放棄している。

一種の寓話というか、ある男の脳内妄想をそのまま映像化した、いくつかの飛躍したイメージが通常のストーリーに収まることなく並列して描かれる。

いろんな解釈ができる、という意味では観客に向かって開かれた映画なのかもしれない。

この映画を観て「泣けた」という人がいるのはわかる気はします。

僕も西田敏行演じるおじいさんの腕の中で人形のマリア(声:中川翔子)が息を引き取る場面や、クライマックスのピカドンがスタジアムに向かうくだりなど、ウルッときたもの。

浮浪者のおじいさんが実はサンタさんで、捨てられて戻ってきた「希望」の残骸たちを新しく生まれ変わらせてまたクリスマスにプレゼントとして子どもたちに届けに行く、というのがわかった時、でもまた1年後にはみんなボロボロになってここに戻ってくるのだ、という哀しい予感。



 


あの、ピカドンが現実の町を破壊して歩くのと、コタツの上にタバコやお菓子の箱を並べたミニチュアの間を亀が歩いていくカットバックに『時計じかけのオレンジ』ヴァージョンの「第九」が流れるクライマックス。

名シーンだと思います。

これは園子温の作品としては異例なほどエログロ抜きで感動を呼べる映画で、お世辞ではなく1年後ぐらいに普通にTVの地上波で放映されたら高視聴率取れるんじゃないだろうか。

TVドラマでやってたら名作として記憶されることになったかもしれない。

それぐらい愛着を感じられる作品ではあります。

ともかく、怪獣出現は見応えがあるし、まるでふた昔前ぐらいのNHKの人形劇を彷彿とさせるオモチャたちのシーンはどこか懐かしくて、そして物哀しくもある。

下水道に捨てられた亀が巨大化する、というのは『アリゲーター』っぽかったり、その亀がオモチャたちのいる場所へ流れていく場面が思いっきり『バットマン リターンズ』だったり(音楽もダニー・エルフマン風)、もちろんオモチャといえば『トイ・ストーリー』も入ってるし、観ていて楽しい要素はいくつもある。

だからこそ「惜しい」。

肝腎の主人公である良一がミュージシャンに登りつめていく一連の流れが、僕にはほんとにどーでもよく感じられてしまったので。

あんなふうにトントン拍子にスターになってしまうこと自体がありえないから、僕はずっと「これは主人公の妄想なんだろう」と思っていたんだけれど、どうもそうではないようだし、じゃあ、これはなんだ、プロの映画監督になった園子温のことか、調子に乗って天狗になってる姿は彼自身のことなのか。




仲間との軋轢とか、深読みすれば園子温自身の経験が込められているのかもしれないが。

でも、このシナリオが書かれた当時はまだ園さんは今のように映画監督として成功していなかったんだから、やっぱりこれは彼の脳内でシミュレートされた話だろう。

…などと一所懸命想像力を働かせて観ていたんだけど、とにかくバンドのくだりがあまりにどうでもよ過ぎて、もう亀よ、とっとと巨大化して町を破壊しまくれよ、と思ってしまった。

「全力歯ぎしりの歌」とか、だからサムいって。

浮浪者のおじいさんとオモチャたちとの会話も、なんだか途中で話が全然先に進まなくなって少々退屈してしまって。

25年前に書いたシナリオを書き換えない、という意味がよくわかんないんですよね。

いや、普通にもうちょっと推敲してリライトした方がよかったんじゃないの?って。

監督はあの当時のシナリオをほとんどそのまま使うことにこだわったようだけど、それは観客であるこちらには関係のないことで。悪いけど俺はこの監督の映画を観にきてはいるけど、別に“園子温というおっさん”個人には興味はないから。

けっして完成されたシナリオではなくむしろかなり拙いものなのだから、そこは個人的な愛着はおいといてもうちょっと人間描写に力を入れてもらいたかった。

だってこの25年の間に監督自身が人間として成長したはずでしょ?より良きものにブラッシュアップすることは可能だったはず。

良一はおなかがユルいという設定なんだから、だったらクライマックスのステージ上で再び急に便意をもよおす(夢から覚めて日常に戻っていくということ)とか、そういう伏線の張り方だってできたでしょうに。

だから25年前の「俺」にこだわったこの映画には、やっぱり監督自身のナルシシズムが多分に漂っているのです。

そういう理由もあって、僕は世間ではわりと評判がいいらしい『地獄でなぜ悪い』もこの最新作もノりきれなかった。

むしろ、そういう監督自身の「オレを見ろ!」的な自意識があまり感じられなくて純粋にバカたちの祭りに徹していた『TOKYO TRIBE』の方が好きだったりする。

いや、ナルシシズムを描いちゃいけないんじゃなくて、作り手自身がそこに留まり続けていることに問題があるのだと思う。

この映画で麻生久美子演じるヒロイン、裕子は良一にとっての理想の女性として描かれている。

 


彼の恥ずかしい過去を知っていて、邪険にされても彼のコンサートライヴに来てくれて、最後まで彼のことを気にかけてくれる、女神のような存在。

裕子は園子温にとっての理想の女性像なんでしょう。

園子温の奥さんで結婚後はすべての園作品に出演している神楽坂恵もそこに重ねられているのかもしれない。

この映画は良一の視点から描かれたものだから、裕子からの視点や客観的な視点がないのはしょうがないとしても、それでも最初から最後まで裕子が良一の理想の女性のままなのはやっぱり物足りない。

麻生さんは紛れもない美人であるにもかかわらず、これまでにもどこか冴えなかったり恋愛や対人関係に問題のある残念女子役をしばしば演じてきて(『モテキ』など)、そのイタさにリアリティを感じさせてくれる貴重な女優さんだと思うんですが、だったらやっぱりそういう現実の女性が持つ生身の人間としての「ままならなさ」も描かないと、これはほんとに一人の男がクリスマスに見たただの夢になってしまうじゃないですか。

もしも最初からヒロインを描く気がなかったのだとしたら、麻生久美子が演じるキャラクターをなんであんなこれみよがしにイケてないルックスにしたんだろう。

麻生久美子の持ち腐れだと思う。

この映画を「ハートウォーミング」とか「ラヴストーリー」とか表現している文章を目にするけど、僕はそのどちらでもないと思うんですよね。

だって良一は最後まで自分の口から裕子にその想いを告げない。

巨大亀にその心の内を代弁されて、恥ずかしさのあまりステージから逃げだして、結局元いたアパートに戻るんだけど、最後もまた裕子が彼の許を訪れて映画は終わる。

そこは、最後には良一が自分の足で裕子の許に行かなければ。

やっぱり裕子の描写が少な過ぎるんですよね。


裕子という存在が何を意味しているのか正直僕はちゃんと理解できたとは言い難いんですが、映画を観終わったあとで、良一の過去の恥ずかしいことも全部知っている裕子という女性は、要するに園子温が感じている彼自身の「恥ずかしい過去そのもの」のことなんじゃないか、とも思ったのでした。

つまり、これは「恋愛」を描いた映画ではなくて、一人の男が自分の過去とどう折り合うか、ということで自問自答している話なのではないか、と。

だから擬人化された“彼女”はしばしば活躍中の彼のところに姿を現わして、彼に忌まわしい過去を思いださせる。

その思いだしたくない過去を自分の一部として受け入れて生きていくこと。

そういうことを描いていたのではないか、と。

でも、そうすると、良一が裕子のことが好きで「付き合いたい」と思っていた、というのはどういう意味なんだろ。

憧れのミュージシャンになることと、裕子と付き合うことは彼の夢だったはずだが、それが実現した途端に彼は裕子を遠ざける。

裕子はカッコ良くない良一の過去を知っている女性だ。

だから良一は成長した亀を「カワイイ」と言う彼女(なんか性的なメタファーの気配が…)を追い出して、その後も彼女を避けるようになる。

ステージで観客たちに「僕のために来てくれてありがとう」などと挨拶したり、ジャーマネ(渋川清彦)に「世界を目指したい」などと口走って、数万人収容のスタジアムでクリスマスにライヴを行なう。

それは今や映画界のヒットメイカーになった監督自身のことか?

スタジアムにたどり着いたピカドンの口からオウム返しのように、かつて良一が呟いた数々のこっ恥ずかしい夢が観客の前で開陳される。

裕子への想いも。

良一は客席にいた裕子の前で取り乱して会場から逃亡する。

最後にアパートに戻った良一の許へ、再び裕子がやってくる。

「お前を忘れない」というのは、まさしく葬り去った過去のこと。

だから、これがただ主人公に都合の良過ぎるラヴストーリーなどではなく、彼が恥ずかしい過去を受け入れてまた人生を生き直していく、というお話なんだったら、それはそれでありかな、と思います。


なんだか褒めてるのか貶してるんだかわからないような文章になってしまいましたが、そのどちらでもある、ということで。

これまで再三書いていますが、園子温監督の映画って酒呑んで観ると結構気持ちイイんですよね。

だからこの映画もクリスマスに家で独りでウイスキーを呑みながら観たら、僕は鼻水垂らして泣くかもしれない。



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