ラナ&アンディ・ウォシャウスキー、トム・ティクヴァ共同監督、トム・ハンクス、ハル・ベリー、ジム・ブロードベント、ジム・スタージェス、ペ・ドゥナ、ベン・ウィショー、ジェームズ・ダーシー、ヒューゴ・ウィーヴィング、ヒュー・グラント、スーザン・サランドン出演の『クラウド アトラス』。PG12。
19世紀から24世紀までの6つの異なる時代と場所、異なる主人公たちの物語がランダムに描かれていく。
今回、『クラウド アトラス』という映画、およびウォシャウスキー姉弟というクリエイターに対してかなり暴言を吐いています。
気分を害されるかたがいらっしゃるかもしれませんので、あらかじめご了承ください。
すでにさまざまな感想を目にして、そのなかにはかなり痛烈な批判もあった。
上映時間は172分。
けっこうリスキーな作品だろうとは予想していた。
僕がこの映画を観る前に、なんとなく連想していた作品がある。
ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の2009年の映画(日本公開は2011年)『ミスター・ノーバディ』。
近未来。世界で唯一の「老人」になった主人公がみずからの人生をふりかえる。
少年時代に迫られたある選択からいくつもの可能性が枝分かれしていって、それらが交互に描かれる。
おなじように未来都市の描写があるこの『クラウド アトラス』にも似たようなものを感じたのだった。
でもじっさいに観てみると、老人が昔話をするところは共通しているものの両者はまったく違うタイプの映画だった。
『ミスター・ノーバディ』の主人公は終始一貫して1人だが、『クラウド アトラス』には1本の映画をとおした主人公というのは存在しない。
冒頭と最後に老人として登場するトム・ハンクスが演じるザックリーはこの映画の語り部といえるかもしれないが、描かれる物語すべてに彼が登場するわけではないし、あとでまたふれるが、この映画に登場する多くの人物たちはそれぞれに特に深いかかわりがあるわけではない。
というより、ハッキリいってまるっきり関係のない話をむりやり接ぎ木して強引にあたかもなにか因果関係があるかのように仕立てたのがこの作品である。
…これは難物だなぁ。
映画を観終わって内容を思いだそうとしたんだけど、細切れにされた物語の断片が頭に浮かぶばかりで、映画で描かれた9割方の要素は記憶のかなたに消えてしまったような、ひどく時間の無駄遣いをした気分になった。
予告篇だけ観ると、なんだか面白そうなんだけどね。
しかしことわっておくと、この映画は難解でも複雑でも深遠でもない。
とりあえず、映画鑑賞直後の僕のこの映画についての覚書。
・ヒューゴ・ウィーヴィングが大変なことになっている。
・未来の人のまぶたには膜が張ってる。
・クライマックスが老人ホームからの脱走。
・ペ・ドゥナのおっぱい。
・トム・ハンクスとヒュー・グラントがいっぱい。
・とにかくヒューゴ・ウィーヴィングが大変なことになっている。
以上。
もうこれだけでじゅうぶんな気がするんだけど(;^_^A
まじめに感想述べる必要あるんだろうか。めんどくさいんだよなぁ。
なげやりなこといってますが、僕にはこの映画がまともにとりあう価値のある作品に思えないので今回はこのテンションでいきます。
原作があってけっこう忠実に映画化してる、なんてこともいわれてますが、無視します。
いちいち6つのエピソードをこまかく検証する気にもならないので(気になるかたは、申し訳ないですがWikipediaで確認してください)、ものすごくざっくりした感想を述べます。
まるで素材も色も形もバラバラのパーツをむりやりくっつけた、いびつなオブジェを見ているようでした。
6つのエピソードは六重奏を奏でるどころか、不快な不協和音となって右の耳から左の耳に通りすぎていった。
こういう作品に「美」を感じる人がいても別にいいと思うけど、僕にはとてもグロテスクな「汚ブジェ」に映りました。
これはよーするに、男性から女性に変身したウォシャウスキー姉の心象風景を綴ったものですか?(;^_^A
以下、ネタバレあり。
6つのエピソードのなかで一番記憶にのこったのは、ペ・ドゥナのおっぱい…ではなくて、同性愛の若い作曲家の話。
老作曲家ヴィヴィアン・エアズ(ジム・ブロードベント)の採譜者になった若者フロビシャー(ベン・ウィショー)は、自分が作曲した「クラウド アトラス六重奏」をうばおうとしたエアズを撃ち、同性愛の恋人シックススミスに遺言をのこしてピストル自殺する。
この話が一番まともにおもえるのは、ひとえに俳優たちの真摯な演技のおかげ。
『007 スカイフォール』で若きQを演じてどうやら女性を萌えさせたらしいベン・ウィショーが、ここでも陰のある表情で悩める同性愛者の作曲家を演じている。
お尻も見せてるし。
このエピソードは、なんとなく「ふつうの映画」を観ているような気になる。
しかしバラバラになっていたエピソードをつなぎ合わせてみると、じつはたいした話ではなかったことがわかる。
フロビシャーが老作曲家を同性愛者だと勘違いしてあざ笑われて自分の曲をうばわれそうになって激高するくだりなど、じつに陳腐で。
このエピソードに登場したシックススミスは、ハル・ベリーの原発がらみのエピソードにも年とった姿で出てくるが、ヒューゴ・ウィーヴィング演じる殺し屋にあっさり撃ち殺される。
あの作曲家のエピソードとこの原発のエピソードになにか関連性があるのかといったらそんなものはなくて、最初に書いたようにむりやり接ぎ木してつながってるように見せているだけなので、これでオッケーならどんなに無関係な話だってつなげて1本の作品にでっち上げることが可能だ。
登場人物がおなじとか、前のエピソードが書かれた本を読んでるとか、映画を観てるとか夢をみたとか。
ようするに、でたらめなんである。
「モンティ・パイソン」の『人生狂騒曲』のリメイクなんではないか、と思ったぐらい。
『人生狂騒曲』(1983) 監督:テリー・ジョーンズ
ヒューゴ・ウィーヴィングの婦長さんなんて、完全に「おばちゃんコント」だし。
ただし笑いと毒抜きだけど。
この映画には、別々の物語がいつしかつながっていく快感というものはいっさいない。
老人ホームのエピソードではこの映画で唯一ユーモラスな味つけがされているのだが、ここでウォシャウスキー姉弟の笑いのセンスのなさが露呈してしまう(まぁヒューゴ・ウィーヴィングは面白いんだけど、笑いをとおり越して怖ぇんだよ!)。
このエピソードでは、パブでビール飲みながらサッカーを観戦している粗野なスコットランド人たち、というステレオタイプが描かれている。
これが意識的なものなのか無意識なのかはわからないけれど、僕にはなんだかやっぱりできそこないのモンティ・パイソンのコントみたいにおもえたのだった。
この映画のヒューゴ・ウィーヴィングは、なにか違う次元にいってしまった人のようで、時代と人種と性別を超えて追いかけてくるエージェント・スミスといった感じ。
『マトリックス』のセルフパロディなんではないかとすらおもえてくる。
ウォシャウスキー姉弟が製作を担当した『Vフォー・ヴェンデッタ』では一度も仮面をとらない主人公を演じさせられたりしてて、なんかおもいっきり遊ばれてる。
この映画では、何人かの俳優たちが特殊メイクによって何役も演じている。
あるエピソードでは主人公になり、ほかのエピソードでは脇にまわり、ときにはおなじエピソードのなかで別人を演じるといった具合に。
彼らが演じているいくつもの役柄には、人格が一貫しているとか、あるいは生まれ変わった姿であるといった共通性は特にない。
どうして数人の俳優たちがいろんなキャラクターを演じ分けているのか、さほど厳密な意味はないのだ。
『オースティン・パワーズ』でマイク・マイヤーズがやってることと基本的にはおなじ。
6つのエピソードがシャッフルして描かれるが、なぜここまで各エピソードを細切れにしなければならないのか、それになにか意味があるかといったらそれもない。
ペ・ドゥナが登場するエピソードでは、白人や黒人の俳優がまぶたに特殊メイクで膜を張ってアジア人を演じている。
これがまたじつに奇怪なご面相なのだ。
最初、僕はアジア人の顔を模した異星人かと思ったぐらい。
ピカード艦長みたいなのもいるし。
ヒューゴ・ウィーヴィングなんか完全にバケモンになってる。
そもそも顔の骨格の作りが違うのに、まぶたになにか貼っつけたらアジア人が一丁上がり、という安易さがスゴすぎる。
『トロピック・サンダー』で黒人になってたロバート・ダウニー・Jr.の特殊メイクだってもっと凝ってただろ。
アジア人を出したいんならアジア系の俳優を使えばいいのに(ユナに狼藉をはたらく客たちをアジア系の俳優が演じているが)、わざわざ異なる人種に演じさせている。
ご丁寧に白人の子どもにまで「アジア人メイク」をしていた。やはりクリーチャーっぽかった。
このメイクについて、「ハリウッドは昔から特殊メイクが進歩していない」といった批判を読んだが、ハリウッドの特殊メイクが進歩していないんじゃなくて、ハリウッドのアジア人に対する認識が進歩していないのだ。
とりあえず一重まぶたかツリ目にしとけばアジア人になると思っている。
そりゃああいう目をした人もいるだろうけど、たとえば映画に登場する黒人が全員異様に分厚い唇だったり(エディ・マーフィの「みんな黒人の唇はタラコだっていうけど、スティーヴン・タイラーだってタラコじゃねーかよ」というギャグを思いだした)、白人が全員おとぎ話の魔女みたいな鉤鼻でゴルゴみたいなケツアゴだったら気持ち悪いだろう。
現実にはそういうことはないわけで。
アジア人の顔がみんなあんなふうに見えてるんだとしたら、あいつらは目玉がどうかしている。
反対にペ・ドゥナが白人を演じていたけどまったく白人に見えなくて、なんだかあまりに痛々しいんで僕はスクリーンの彼女の顔をまともに見ていられませんでした。
かようにこの映画では特殊メイクの乱用が目立っていて、なんかもうヤケクソみたいにみんな顔にいろいろ付けまくって人種や性別まで超えている。
なんでそんなことやるのか。
僕は、マイケル・キートンのNG版みたいな薄毛のおっさんがある日いきなりおっぱいのふくらんだおばさんになったラナ・ウォシャウスキーさんの「グロテスクと呼ぶなら勝手にお呼び」というひらきなおりだと思ってるんですが。
フロビシャーは老作曲家エアズの前で採譜した曲を弾くのだが、それはエアズが口ずさんだものとは似ても似つかない曲で彼は怒って「こいつをつまみ出せ」という。
するとフロビシャーは先ほどとはうってかわって、美しく耳に心地良い旋律を奏でる。
エアズは満足げに「それだ」とうなずく。
つまり、この『クラウド アトラス』という映画は、誰もが耳に心地良いと感じる映画ではなく、フロビシャーが最初に弾いた曲のような、いびつで不快な作品です、ということだ。
ヒューゴ・ウィーヴィングが胸におっぱいの詰め物してスカート穿いて老人ホームのおっかない婦長を演じているのだって、ラナさんにはなにか意味があってのことなんだろう。
ただ僕はこのウォシャウスキー姉さんがかかえるジェンダーの問題や性的指向にはまるで興味がないので、もしかしたら彼女が自分自身をかさねているのかもしれない、この映画で描かれている「革命」だとか性を超えたパフォーマンスなどはことごとくチープに感じるのです。
ペ・ドゥナが演じたクローンたちの哀しみみたいなものは『空気人形』ですでに見せてもらっているので(彼女の美しい裸体も)、まったく目新しさがない。
『空気人形』では彼女から醸しだされていたユーモアがこの映画にはみじんもない分、映画としてはより劣化してるともいえる。
だいたい、『グエムル』で怪物と勇敢にたたかってたペ・ドゥナになぜたたかわせない?
せっかく未来世界を舞台にペ・ドゥナにクローン人間を演じさせるんだったら、彼女がニンジャ軍団とたたかって銀河を救う『フィフス・エレメント』みたいな話にした方がぜったい面白いでしょうに。
ボンクラ方面担当のウォシャウスキー弟は撮影中に居眠りしてたのか?
おまえががんばらないとお姉ちゃんが暴走しちゃうだろ!
ウォシャウスキー姉弟は、どうしてもペ・ドゥナを殉教者のように描きたかったのだろうか。
そしていつしか彼女は“ソンミ様”として未来の土人たちに崇められるようになる。
ここでも、ペ・ドゥナを崇めるトム・ハンクスにハル・ベリーが「あなたたちの宗教を否定するわけじゃないけど…」といって言葉を濁すので、じつはなにかとてもくだらないオチがあるんじゃないかと期待したんだけど、そんなものはなかった。
つまり女神のように崇められているソンミは革命軍に身を投じて処刑されたクローン人間でした、ということなのだが、それがどーした!!
彼女たちクローンが“お勤め”が明けたら自由になれる、なんてことはないのは観てるこちらには最初から予想がついているので、たいしたオチがない話をもったいぶって延々とされたような、じつに始末の悪い映画だと思った次第。
あとこまかいけど、ユナ役の女優さんの肌が妙にきたないのが気になった。
彼女たちクローンは美しさが売りのはずなのに、なんでわざわざあんなに顔をきたなく撮ったのか意味がわからない。
『マトリックス リローデッド』のモニカ・ベルッチを見たときも思ったんだけど、ウォシャウスキー監督って女性を綺麗に撮るのがヘタだよな。
原発のくだりで旅客機ごと爆破されるトム・ハンクスとか、密航した黒人に助けられたために最後に奴隷貿易に従事することを拒む娘婿や父親にたてつく娘とか、ほんっとに安くてまいった。
こんなんでいいのか!?と。
ウォシャウスキー姉弟は、どうやら作劇の基礎や演出力をうしなってしまったようだ。
しばしば「斬新さがまったくない」といわれる“ネオ・ソウル”の場面だって、ふつうに楽しめる1本のSFアクション映画として作ってくれてたら僕は不満をおぼえることもなかったかもしれない。
つぎはぎだらけのグロテスクなオブジェの方じゃなくて、耳に心地良い六重奏の方を聴かせてほしかった。
ある程度の覚悟はしていたので本気で腹が立ってるわけじゃないんだけど、3時間もかけてオナニーに付き合わせるなよ、とは思った。
ウォシャウスキーさんたちが作りたかったらしいこの映画のために、6つの物語が使い捨てられていた。
僕はやっぱりとても無駄なことをやってるように感じたのでした。
ストーリーを追うために必要以上に集中して観ていたので、思っていたほど長くは感じなかったけれど。
顔変えてがんばった出演者のみなさん、おつかれさまでした。
感動巨篇?とんでもない、あたしゃトンデモ大作だよ。
まぁ、ヒューゴ・ウィーヴィングがどんなことになっているのか気になるかたは観てみるといいかもしれないですね。
ヒュー・グラントはどこに出てたでしょうか?みたいな愉しみ方もあるし。
おどろくべきことに、ウォシャウスキー姉弟にはさらに次回作があるらしい。
またしても実力のある有名俳優たちが何人も出演するようだ。
スゲぇな、こんな映画撮ってもまだ映画を撮りつづけられるんだ。
これも劇場に観に行って大変困った『スピード・レーサー』につづいてこの『クラウド アトラス』につきあったけど、この人たちの映画は俺はもういいかな。
すくなくとも、いまの彼らはエンターテイナーでもアーティストでもない。
保証するけど、これだったら『ミスター・ノーバディ』の方が百倍わかりやすいし面白いですよ。ってかいい映画ですから。
『クラウド アトラス』みたいにシネコンで大々的に公開されたわけじゃなくて、アメリカでも日本でもまったく話題にならなかったけど。
なのでこの場を借りて、最後に『ミスター・ノーバディ』をお薦めしておきます。
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