タイトルのとおりです。
一応ですがネタバレ注意で。

①~⑤まであります。
これから5日間に分けて一つずつエントリーします。(ネタ切れの対策じゃありませんよ。←)

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1970年代のソビエトは、才能のある子供たちを特別扱いすることは許されていませんでした。一部の者にエリート教育を施すことは国策として認められていなかったのです。
しかし数学という分野は大変特殊で、何の装置も場所も必要なく、頭と鉛筆と紙があればそれで世界最先端の研究ができます。それで、ソビエトの多くの数学者は政治からの抑圧を欺いて、ズバ抜けた才能を持つ子どもたちを世界へと導きました。

この本は、そんな中で育ったユダヤ人の「超天才」数学者の話です。

1941年、ソビエトでは民間機を軍用機に改修するにあたり数学者の需要が急増。そんな中で突出した成果を上げたのがアンドレイ・コルモゴロフという世界的数学者でした。
彼は同性愛者であり、「パートナー」であるパヴェル・アレクサンドロフと共に独自の教育方針を確立します。彼らの教育は数学だけでなく、クロスカントリー、登山、音楽鑑賞、視覚芸術、詩、そしてそれらのテーマについて論じ合うなど独特のものでした。

コルモゴロフの教育はソビエトのイデオロギーと明らかに対立していましたが、そんな中でモスクワ第二学校を創設し、それとほぼ同時期にレニングラード第239学校が創設されました。これがグリゴーリー・ペレルマンという、将来「世紀の難問」を解く天才数学者の母校となるのです。

コルモゴロフ体制の下で優秀な生徒らは優遇され、同時に大いに鍛えられました。レニングラード第239学校を卒業した生徒は極めて優秀でしたが、しかし現実にはレニングラード大学へ進学できる者はほぼ皆無でした。当時、ソビエトのイデオロギーから抜け出るのは至難だったのです。中には、数学のノーベル賞と言われる(実際にはノーベル賞より受賞するのが難しい)フィールズ賞の授賞式に出席できなかったソビエトの数学者もいました。
このようにソビエトでは徹底的に対海外を意識した線引きがなされたことで、偶然によりソビエト国内と国外でほぼ同時期に、別人が証明した定理も複数あります。(その場合は『クック=レヴィン定理』など両者の名を冠したものとなります。)

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セルゲイ・ルクシンという世界的に有名な「教育者」がいます。彼は数学者としては一流にはなれませんでしたが、教育者としての才能は卓越していました。
1981年の夏、ルクシンは独自のサマースクールを開きます。ペレルマンもルクシンに見出されて参加しました。
このスクールもコルモゴロフ的教育を受け継いでいました。生徒たちには水泳、ランニング、ハイキング、クラシック鑑賞などをさせ、そして山のような数学の問題を与えました。
ルクシンの教育は非常に単純なものでした。教師はただ教室の隅で椅子にかけているのです。生徒は問題を解き、証明できたら教師に説明をしに行く。ただそれだけのことでした。しかしルクシンの指導能力は卓越しており、次第に「ルクシンの魔法」と呼ばれるようになります。
モスクワのある数学コーチは「第239学校との数学コンペティションは、全ロシア数学オリンピックより大変だった」と語っています。

この時のペレルマンは、まだ目立つ存在ではありませんでした。少なくともこのサマースクールにおいて3人の優秀な生徒がペレルマンを負かしています。実際、ペレルマンの才能を「きらびやか」だとか「輝かしい」などと表現する者はいませんでした。しかしとにかく頭の回転が速く、考えがとことんまで厳密であったことは誰もが口をそろえているようです。

ペレルマンは問題のほぼ全てを頭の中だけ考え、図や数式を書くことはほとんどありませんでした。考えている間は鼻歌を歌い、うなり声をあげ、机にピンポン玉を投げ、体を前後に揺らし、机をペンで叩いてリズムを刻み、ズボンの太もものところをテカテカになるまで擦ったりしました。
そして、やがて両手をこすり合わせ始め、解答を書き始める…という変わった癖を持っていました。

この当時のペレルマンは、教師に分かりやすく自分の考えのプロセスを説明することは非常に苦手でした。それは錯綜した個人的な物語のように聞こえたと言います。

また、ペレルマンは、ルクシンと母親のいいつけは良く守りました。そして学校などでの規則も非常に厳密に守りました。ペレルマンの世界はルクシンと母親、そして数学でほぼ全てを占めていました。ルクシンと母親が世界のあらゆる「理不尽」の防護壁となり、ペレルマンは数学に集中することができたのです。

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当時、ソビエトで重要だったもう一つの要素は「反ユダヤ」でした。
ユダヤ人の生徒が海外でコンペティションに出るような状況になると、教師らは「勝つこと」と「反ユダヤ」の狭間に立ち、常に綱渡りを強いられました。

ペレルマンが13歳のとき、レニングラード数学オリンピックへの選考試験で僅かに成績が足りず、また非常にユダヤ的な名であるため落選するという事件がありました。しかしルクシンの努力により、代表にはなれなくとも最終選考試験を「受けるだけ」という条件で受験資格を取り付けます。
そしてその最終選考試験でペレルマンは7問全てを正解し、次点の者が3問しか解けないという事態になりました。そこで「全国大会には勝てる生徒を送るべき」という意見が強まり、ペレルマンは全国大会へ参加します。

ペレルマンはこういった状況でも独自の倫理観を持っていました。
受験者は問題を一つ解くたびに、待機している審査員に解答を説明します。その後はもう一度同じ問題を考え直してもよいし、次の問題に移ってもよいという形式でした。
著者の表現によると「狂おしいほど」時間が惜しいこの状況でも、ペレルマンは変わっていました。解答の説明を受け、審査員は「よろしい」と背を向け歩き出しましたが、ペレルマンはその背広を掴んで「あと3つの場合があるんです」と言ったのです。著者によると、彼は狂気に近い正直さを持っていました。

また、ペレルマンの頭脳には極めて重要な要素がありました。
本人が正しいと思い込んでいても実は間違っている、その状態を英語で「レモンをつかむ」と言います。数学にそれは付き物なのです。クレイ研究所は「世紀の難問」と呼ばれるほどの難問の証明なら2年間もの時間をかけて、誰も間違いを見つけられなければようやく認定する、という方針を取っています。
ペレルマンは決してその「レモン」をつかまないことで有名でした。彼は数学に関して一度たりとも勘違いというものが無かったといいます。

その年ペレルマンは全国大会に出場し、2位という成績で終わりました。ルクシンはその原因を「怠慢」だと考えています。ペレルマンにとってもショックな成績であり、彼はこの時から「数学に関しては今後誰にも負けるものか」と固く誓ったのです。