最終回「駒場公園」探検7:道玄坂マンサード・看板建築 | 今日は何をレポートしようかな?

今日は何をレポートしようかな?

身の周りの物の掘り下げ、都会を訪ねて、歴史を訪ねて、小説・
映画・TVドラマの舞台を訪ねて、レトロを探して
何でもレポートします。

 松見坂交差点から京王井の頭線・神泉駅は、すぐ

傍です。寄ってみましょう。

円山町のレトロな家
円山町と石碑

神泉駅

東電OL殺人事件現場
神泉駅前の階段 

 円山町に入ると、昭和レトロな建物をたくさん見る

ことができます。

神泉駅に出ました。

この傍に「東電OL殺人事件」の現場アパートがまだ

残っていました。

この周辺は、昨年の11月「渋谷探検」で歩いている

場所です。

当初此処円山町界隈で、昼食&やさぐれを考えて

いましたが、どうも適切なお店もなく気乗りもせず

七郎委員長、早々と諦めてしまいました。

京王井の頭線のトンネルの上に通じる階段を上り

ました。


渋谷道玄坂石碑

与謝野晶子歌碑

 道玄坂の通りに出ました。

標識と石碑を見つけました。

石碑は道玄坂道供養碑渋谷道玄坂石碑与謝

野晶子歌碑でした。

標識にはこう書かれています。

道玄坂標識

江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多く

の人が往来していました。 当時の道玄坂は、現在

の道玄坂から世田谷街道に入って松見坂までを

広く呼んだものでした。

江戸中期頃より道玄坂とは専らこの坂を指すよう

になったのです

樋口清之元国学院大学名誉教授が書いた石碑に

 こう書かれています。

渋谷道玄坂石碑

渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)

その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄

を造って住んだ。

それでこの坂を道玄坂というといわれている。

江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物

を江戸へ運ぶ大切な道だった。

やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると

渋谷付近もひらけだした。

近くに住んだ芥川竜之介、柳田国男がここを通って

通学したが、坂下に新詩社ができたり、 林芙美子

が夜店を出した思い出もある。

これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街

として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことであろう。

樋口先生はTVで見たことがあります。

とても優しそうな先生でした。

大阪の堺から上京した与謝野晶子が生家を思い

詠んだ句だそうです。

与謝野晶子歌碑

 母遠(とほ)うて瞳(ひとみ)したしき西の山

  相模(さがみ)か知らず雨雲かかる



マンサード屋根の建物
マンサード屋根の建物2

マンサード屋根の建物3


渋谷駅前取り壊し中のビル

 道玄坂を少し下ると、緑色のネットが掛けられた

店舗跡のようなレトロ建築物が在りました。

マンサード屋根と呼ばれる特徴のある建物です。

マンサード屋根

マンサード屋根-やね)とは、17世紀のフランスの

建築家フランソワ・マンサールが考案したとされる

屋根で、寄棟屋根の、外側の4方向に向けて2

段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配

屋根である。天井高を大きくとったり、屋根裏部屋

を設置したりするのに適している。

マンサード様式などとも呼称される。

〔参考:Wikipediaより〕

この建築物に関して書かれたサイトから紹介しま

しょう。

道玄坂のマンサード・看板建築

道玄坂の中程に建っている木造3階建ての洋風

建物群。

6軒の建物に見えるが、2軒ずつが組になっており、

構造的には3棟の建物。

左側の1棟はマンサード屋根がファサードにもその

まま現れている。

ケヤキ並木の下で、坂に沿って少しずつ高さを変え

ながら階段状に並んでいる姿が美しい。

〔参考:「Site Y.M 建築・都市徘徊」より抜粋〕

何気なく通り過ぎていた坂道。

渋谷駅前のこの建物のように、いつかは取り壊され

る運命にあるのでしょうか?

 一行は此処での昼食は諦めて、横浜に戻ることに

しました。

それについては次回!

これで「駒場公園探検」を終ります。