松見坂交差点から京王井の頭線・神泉駅は、すぐ
円山町に入ると、昭和レトロな建物をたくさん見る
ことができます。
神泉駅に出ました。
この傍に「東電OL殺人事件」の現場アパートがまだ
残っていました。
この周辺は、昨年の11月「渋谷探検」で歩いている
場所です。
当初此処円山町界隈で、昼食&やさぐれを考えて
いましたが、どうも適切なお店もなく気乗りもせず
七郎委員長、早々と諦めてしまいました。
京王井の頭線のトンネルの上に通じる階段を上り
ました。
道玄坂の通りに出ました。
標識と石碑を見つけました。
石碑は道玄坂道供養碑と渋谷道玄坂石碑と与謝
野晶子歌碑でした。
標識にはこう書かれています。
道玄坂標識
江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多く
の人が往来していました。 当時の道玄坂は、現在
の道玄坂から世田谷街道に入って松見坂までを
広く呼んだものでした。
江戸中期頃より道玄坂とは専らこの坂を指すよう
になったのです。
樋口清之元国学院大学名誉教授が書いた石碑に
は こう書かれています。
渋谷道玄坂石碑
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)
その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄
庵を造って住んだ。
それでこの坂を道玄坂というといわれている。
江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物
を江戸へ運ぶ大切な道だった。
やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると
渋谷付近もひらけだした。
近くに住んだ芥川竜之介、柳田国男がここを通って
通学したが、坂下に新詩社ができたり、 林芙美子
が夜店を出した思い出もある。
これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街
として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことであろう。
樋口先生はTVで見たことがあります。
とても優しそうな先生でした。
大阪の堺から上京した与謝野晶子が生家を思い
詠んだ句だそうです。
与謝野晶子歌碑
母遠(とほ)うて瞳(ひとみ)したしき西の山
相模(さがみ)か知らず雨雲かかる
道玄坂を少し下ると、緑色のネットが掛けられた
店舗跡のようなレトロ建築物が在りました。
マンサード屋根と呼ばれる特徴のある建物です。
マンサード屋根
マンサード屋根(-やね)とは、17世紀のフランスの
建築家フランソワ・マンサールが考案したとされる
屋根で、寄棟屋根の、外側の4方向に向けて2
段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配
屋根である。天井高を大きくとったり、屋根裏部屋
を設置したりするのに適している。
マンサード様式などとも呼称される。
〔参考:Wikipediaより〕
この建築物に関して書かれたサイトから紹介しま
しょう。
道玄坂のマンサード・看板建築
道玄坂の中程に建っている木造3階建ての洋風
建物群。
6軒の建物に見えるが、2軒ずつが組になっており、
構造的には3棟の建物。
左側の1棟はマンサード屋根がファサードにもその
まま現れている。
ケヤキ並木の下で、坂に沿って少しずつ高さを変え
ながら階段状に並んでいる姿が美しい。
〔参考:「Site Y.M 建築・都市徘徊」より抜粋〕
何気なく通り過ぎていた坂道。
渋谷駅前のこの建物のように、いつかは取り壊され
る運命にあるのでしょうか?
一行は此処での昼食は諦めて、横浜に戻ることに
しました。
それについては次回!
これで「駒場公園探検」を終ります。