新シリーズ「上野桜木」探検1:探決委と鶯谷 | 今日は何をレポートしようかな?

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何でもレポートします。

七郎委員長とメンバー

七郎委員長 

 「番町・麹町・平河町・隼町」探検を終えて、次の

探検地をどこにするのか?

5月29日、探検地決定委員会略して探決委が

召集されました。

この日、候補地として挙がったのは

□豊洲

□小名木川

□港区 芝 増上寺・愛宕神社

□上野桜木

の四箇所でした。

会議は白熱し、とうとう多数決による採決に入ろう

かとした その時、突然七郎委員長が発言します!

「やっぱ上野桜木にしようじゃないか!」

結局はお屋敷町が好きな七郎委員長の意見が

通ってしまいました。

実はこの時七郎委員長、『アド街ック天国』の録画

を見た直後だったのでした。

結論として、上野桜木に行って探検し昼食、次に

ストレッチ目標で根岸に行き、そこから上野まで

歩きアメ横そばの立ち飲みでやさぐれる!

概ねこういったルートに決定したのでした。



JR鶯谷駅ホームより

JR鶯谷駅
言問通り
跨線橋 

 一行はJR鶯谷駅で降り立ちます。

ホームから石垣が見えます。

いやがうえにも興奮してきます。

鶯谷といえばラブホ街のイメージがありますが、

地名の由来は何でしょう?

鶯谷 地名の由来

江戸時代、寛永寺の住職として、代々京都から

皇族がやってきていた。そのうちの一人、公弁が、

元禄年間に「江戸の鶯はなまっている」といって

当時の文化人・尾形乾山に京都から鶯を運ばせて、

この地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来

する。

現在はウグイスの声は殆ど聞くことができないくら

い都市化が進んでいる。

〔参考:Wikipediaより〕

「江戸の鶯はなまっている」なんて、ずいぶん差別

的発言ですね!?

探決委本部の付近では鶯の囀りを毎日聴くことが

できますよ!濱っ子なまりですが・・・。

鶯谷駅名の由来

1912年(明治45年)に駅ができた時の地名は、

下谷区桜木町。付近には「谷」もない・・・・。
東京駅も地名ではないのだが、それ以外では唯一

駅名として地名が採用されなかった駅である。

鶯谷の由来としてあげられている説には、
日暮里駅に近い「霊梅院」付近の谷に鶯がいた
御隠殿坂橋の先の音無川に架かっていた橋、

水鶏(クイナ)橋が「鶯橋」と改名された
などがあるが、いずれも駅からは離れた場所であり、

改名も鶯が人気となった後からのものである。

〔参考:サイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」より〕

どうも地名の由来は何処も諸説あり決めてが無い

ようです。



寛永寺橋
寛永寺坂標識1 
寛永寺坂標識2 
養寿院1 
養寿院2

養寿院3

 JR線を越える跨線橋「寛永寺橋」を渡ります。

すると寛永寺坂の標識が在りました。

寛永寺橋と寛永寺坂

大正年間(一九一一~二五)発行の地図からみて、

この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。

当初は鉄道線路を踏切で越えていた。

現在の跨線橋架設は昭和三年(一九二八)八月

一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと

考えていい。

坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむ

という。

寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に

現存。

言問通りを、JRの線路をわたる寛永寺陸橋を越え

るとある緩やかな坂です。

このあたりに、かつて、京成電鉄の寛永寺坂駅と

いう地下駅があったことでも知られています

〔参考:サイト「東京23区の坂道」より〕

坂道を進むと、小さなお寺が在りました。

養寿院です。

天台宗 養寿院

養寿院は寛永寺山内の子院で、寛永13(1636)

創建されました

〔参考:サイト「猫のあしあと」より〕

さあ、本格的に上野桜木です。