長く使い続けた椅子の背がおかしくなったので、当面の代用に近場で入手できるスツールを買ったことがある。
確か1000円と少々。「これ、御願いします」と萬屋のおばさんに言うと、持ちやすいようにヒモをつけてくれながら、「この上に立って高いとこにある物を取ろうとしたりしないでね」。
えっ?と問いただすと、こういうものを販売する時には、一言添えないといけないことになっているという。
製造物責任法(PL法)だ。つまり座るのはいいが、踏み台に使って怪我をしたときの責任は取れないってこと。
その店の主とは顔見知りだから、「おかしな時代になりましたね」「そうだねえ」とお互いに頷き合っていた。
この「責任法」は、「責任回避」のための法律だ。そしてその法律が製造者を何から守ろうとしているかと言えば、
「電子レンジで雨に濡れたネコを乾かそうとしたら死んじゃった、責任取れ!」という類の「クレーマー」であって、
決して「生命の危険」を除去しようというものではない。
要するに、「責任を問われる」「責任を追及される」というリスクを回避するために法律がある、といっていい。
天災から連鎖してしまったカンのある「人災」、野菜、原乳などの「汚染」についての「暫定的基準値」と、その政府による「運用」の仕方にも、まったく同じことが起きていると思える(←この部分2011/03/22 22:13に追記。コメントを下さったかたに感謝します)。
何が起きているかと言えば、そういう「リスクのたらい回し」。リスク分散すなわち責任逃れの分散である。
「生命の危険」を回避するという建前のこの「リスクのたらい回し」は、今回の大災害のさなかにも、もう数え切れないほど起きているが、その大半が、国の法定基準と、その運用に起因する。
いくらいくらの数字を示したら、「出荷停止」。
まるで殺人犯の被害者の人数だけで、死刑かどうかを判断しているようなものだ。
法律は、機械ではない。運用するのは人である。
しかし今回のような事態で機械のように動き、自動で遮断機が作動するに近いことを起こしているのも政府という名の人間である。
この国には「高度な政治判断」というものはないのか?
責任逃れの、リスクのたらい回しの連鎖が、天災に次ぐ人災の連鎖を助長していく。
そしてそれに同調して風評被害に荷担する「クレーマー」が、
「迅速な情報の提供」すなわちマスメディアによって全国的な規模に増殖する。
実に悲しい。