三中信宏 「進化思考の世界」 2010 よりBarber(1995)の引用文


についての三中氏の文。Barberはここでダーウィン進化論が生物多様性の説明理論としての自然進学の棄却について自然探求と言う国民的なフィーバーが頓挫したことを述べている。

三中氏はここで「同じ対象に関して二つの対立理論が衝突するとき、それぞれの理論体系がどれほど上手く説明出来るかが問題になる」と書いている。

三中氏の著作は圧倒的な知識量の網羅を前提としている様に私には思えるし系統樹思想にも分類思考の世界などでも崇拝者と全く理解出来ない読者層との差が開いている様に見受けられた。

いかんせん私も後者だったが、最近とみに三中氏の本が面白くなってきた。ここでは進化学についての議論が19世紀以降くりひろげられるのだが、良い意味で全ての問題処理の形が見えるのである。

神と言う規範が社会に浸透している所へ既存の科学が幅を利かせ、それが一般人に浸透した頃新たな科学により否定がされて既存の科学や価値観は閉ざされる。

この時点で私達は宗教、社会、既存知識、新たなる知識という四つの世界をもつことになる。

そこで正しさとは何かと言う時に学問の出番となり最初に引用したどちらの理論がより上手く説明出来るかと言うことになるわけだ。

実は私達が人生で自分に影響を与える大きな出来事に出会う時に、私達も科学同様に揺れているのである。私達には学ぶ権利もあるし所属する価値観を選ぶ権利もあれば、新たなる価値観を見つける勇気もある。

ただ大事なことは生物多様性の姿の果てに生き物は「在る」し私達も「在る」し、それが正しかろうと正しくなかろうと「在る」ことに寛容にならねばならぬ。

現象として実体としてそこに「在る」ことを否定すると全ては無意味になってしまうのだ。学問も宗教もモラルもしかり。

そう言う意味で「在る」価値観や理論を軽々と行ったり来たりできるやわらか頭の三中氏が受け入れられている読者層は知識の他に柔軟性を持ち合わせ、共感力もあるのではないかと私には思えてきた。そして確固たる信念や自信がある、あるいは一定の分野の専門的知識を崇拝することにより狭くなる(価値観が固まる)傾向のある方にはしばしば混乱を与えるのではないかと感じられる様になってきたのだ。実は私がまさに一つの宗教観や学問に偏りがちなのでそうかんじるのかもしれない。勿論純粋に学問上の意見の違いという方だっているだろう。あくまでも自分に引き寄せてそう感じただけだ。

いま思想や価値観の世界を旅するために自分の観点を一端倉に収めた春に日にぴったりの一冊なのだ。
ゆっくり読んでいくつもりなのだ。