2010-07-18 09:08:13

猫の後ろ姿 301 宮下太吉のこと 大逆事件と日本人

テーマ:ブログ

 山梨の地に住みながら、ものを書くことを意思する人々があつまって雑誌『猫町文庫』を出した。


   猫町文庫 山梨県甲府市美咲2ー15ー30


        福岡哲司


 文芸への「志」がこんな形となった。ご声援をお願いする。

 わたしはこれにこんな文章を書いた。大逆事件で幸徳秋水らとともに死刑となった宮下太吉は山梨生まれの男であった。


 「宮下太吉の墓のこと」

             飯野正仁


 宮下太吉の墓が山梨県甲府市相生3丁目の光沢寺にあることを偶然に知りました。私がこの墓を訪ねた日はたまたまお盆でもあり、かすかに線香の香が寺域内にただよっていました。墓碑が建てられており、<我にはいつにても 起つことを得る準備あり>という石川啄木の詩「墓碑銘」の最終行が刻まれていました。



「猫の後ろ姿」
 


             宮下太吉


 宮下太吉は、いわゆる「大逆事件」において天皇爆殺を企てたとして死刑となった人物です。1875(明治8)年山梨県甲府市若松町に生まれ、16才で出郷、東京・大阪・神戸・名古屋を遍歴、熟練工となります。1908(明治41)年、片山潜と出会い、<日々、職工ニ労働シテ、アマツサエ器械ノタメニ足ヲ失イ、手ヲ失ウモノガアルコトヲ目撃シテオリ、一方ニ資本家ハサヨウナ危険ガナク、美衣美食ヲナシテオルノデ、総テ世ノ中ノコトハ不公平ナモノダト感ジテ>(予審調書)いた宮下は、はじめ片山の普通選挙請願運動に従いますが、次第に幸徳秋水の直接行動論に共鳴するようになります。

 「日露戦争」後の目標喪失による人々の意識の弛緩、戦争経済による経済基盤の破壊、民権運動の高揚等々の明治国家にとっての危機を乗り切るために、山県有朋ら支配層は、天皇を中心にした国家イデオロギーの強化を計り、天皇の名においてすべての矛盾を隠蔽し、あらゆる批判を封じ込めようとしました。この天皇制国家機構に鋭く対峙し続けたのが幸徳秋水ら明治の「社会主義者」たちでした。

 <我ガ国ノ人民ハ、カクモ、皇室ヲ迷信シテ居ル。コレデハイカナル立派ナ社会主義モ実行スルコトガデキナイカラ、先ヅ爆裂弾ヲ造リ、天子ニ投ゲ付ケテ、天子モ我我ト同ジク血ノ出ル人間デアルト言フ事ヲ知ラシメ、人民ノ迷信ヲ破ラネハナラヌト覚悟>(予審調書)した宮本は、1909(明治42)年113日、長野県明科の山中で爆裂弾の爆破実験を行 ないました。



「猫の後ろ姿」

            宮下太吉の予審調書     



 塩酸カリにケイ冠石を混ぜ、これに小石大の礫約20個を入れ、缶につめて爆裂弾をつくったといいますが、実はそれはほとんど玩具の花火にも等しいものだったようです。木村哲人『テロ爆弾の系譜-バクダン製造者の告白-』(三一書房、1989年)によれば、この爆裂弾を再現しようとした著者は、それがあまりにも小さい事(直径3センチ、長さ6センチ)、使用された爆薬がたった20グラムである事、したがって、この爆裂弾は「玩具花火」にすぎず、当然天皇を爆殺することなど到底不可能である事を知ります。このようなオモチャに等しいものを爆殺するに十分の威力を持つものと権力は宣伝し、幸徳らを国家に反逆するものとして死刑に処したのです。さらに後世の研究者もこの爆裂弾そのものの威力に疑問を持つ人はいませんでした。

 この「爆裂弾」は破壊力はともかく、音だけは大きかったようで、これによって宮下は警察にマークされ、翌年525日、「爆発物取締法」違反準現行犯として逮捕されます。(この「爆発物取締法」は一部改正されながらも、ときどきニュースや新聞などにでてくることからわかるように現在もそのまま法律として機能しています。)

 この逮捕を皮切りに、幸徳秋水・菅野スガ・新村忠雄や、無政府主義者・急進的社会主義者とみなされる者など逮捕者は全国で数百名にものぼりました。このうち26名が刑法第73条すなわち天皇および皇族にたいし、<危害ヲ加ヘ、又ハ加ヘントシタルモノハ、死刑ニ処ス>という規定にしたがって起訴され、非公開の大審院のみの審理の後、1911(明治44)年118日、幸徳・菅野以下24名に死刑の判決が下されたのです。124日、幸徳ら12名の死刑が執行されました。これがいわゆる「大逆事件」と呼ばれるものです。(但し、大逆事件はこれのみではなく、朴烈・金子文子による天皇暗殺計画などもありました。この金子文子も山梨の生まれです。)




 

「猫の後ろ姿」


 

上段右から森近運平、奥宮健之、大石誠之助、新村忠雄。

中段右から内山愚童、成石平四郎、幸徳秋水、宮下太吉、松尾宇一太。

 下段右から新美卯一郎、菅野スガ、古河力作。




「猫の後ろ姿」


        雑司ケ谷共同墓地の宮下太吉と新村忠雄の墓碑。

        『時事新報』明治44年1月27日



 このいわゆる「大逆事件」は、当時の日本の思想そして文学に決定的に欠けていた一つの課題、すなわち天皇制および天皇制国家機構との対決という課題をいやおうなく人々の前に切開したのです。

 もちろんこれを機に政治からの退避を決めた人々もいました(例えば、自らを「戯作作家」と規定し古き良き江戸の情緒の世界に立てこもった永井荷風)。

 しかし、ここで最も鮮やかに一歩を踏み出したのが、石川啄木でした。大逆事件の弁護人の一人である平出修と親交のあった啄木は、1910(明治43)年1218日幸徳秋水が獄中で書いた「陳弁書」を平出から借り、翌年の14日の夜、これを写し取りました。明治の社会主義思想のなかでも最高の達成と言うべきこの文書を啄木は自ら写し取り、これに註をつけ、『A LETTER FROM PRISON』と名付けています(以下、引用は岩波文庫『時代閉塞の現状・食うべき詩』から)。

 大逆事件を機に、啄木の思想は急速に成熟し、その思索は一点に絞り込まれていきます。すでに啄木はこの前年の「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」(190912月、『スバル』第112号)で、<「国家」という問題>に突き当たり、次のように書いています。



 <従来および現在の世界を観察するに当たって、道徳の性質および発達を国家  という組織から分離して考えることは、極めて明白な誤謬である-寧ろ、日本人に最も特有なる卑怯である>。




 大逆事件の与えた衝撃は、啄木を社会主義の研究へと向かわせます。それは、「時代閉塞の現状」(19108月)へと結晶します。この論説の中で啄木は明確に「敵」が何者であるかを捉えました。



 <我々日本の青年はいまだかつて彼の強権に対してなんらの確執をも醸した事が無いのである。従って国家が我々に取って怨敵となるべき機会もいまだかつて無かったのである>。



 <我々青年を囲繞する空気は、いまや少しも流動しなくなった。強権の勢力は  普く国内に行き亙っている。現代社会組織はその隅々まで発達している>と考える啄木は、<一切の「既成」をそのままにして置いて、その中に、自力をもって我々が我々の天地を新たに建設するという事は全く不可能だ>と主張します。



 <「既成強権」と何らの確執をも醸すことなく、その許す範囲でのみ自己を主張するのならば、「一切の美しき理想は皆虚偽である!」>。



 そして啄木は次のように結論します。

 <一切の空想を峻拒して、そこに残る唯一つの真実-「必要」! これ実に我々が未来に向かって求むべき一切である。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である>。



 そして、ここで文学が果たすべき役割は、時代に対する「批評」の機能だと啄木は言います。<時代に没頭していては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むるところは批評である>。

 
「既成強権」「国家」との対峙を鮮明にしたこの論説の翌年、前述したように、幸徳秋水の「陳弁書」および事件関係書類を筆写します。

 この中で幸徳秋水は次のように言います。



 <無政府主義者が一般に革命運動と称してゐるは、直ぐ革命を起こすことでもなく、暗殺、暴力をやることでもありません。唯だ来らんとする革命に参加して応分の力を致すべき思想、智識を養成し、能力を訓練する総ての運動を称するのです>。



 ここには、力による一過的な革命ではなく、長期にわたる<運動>こそが必要なのだという視点があります。人と人・人と自然との関係のあり方、社会機構の新たな組織の仕方等々すべての存在のあり方をめぐる暗中模索、これを幸徳は<運動>と呼び、そしてこのなかで鍛えられることによって人は<自ら振作し、刷新して、新社会、新生活に入るの能力、思想>を獲得し得ると考えるのです。


 啄木は既に述べたように、「時代閉塞の現状」において「国家」という「敵」を明確に見据えていました。しかし、この時点では彼は自らの「味方」「盟友」を見出しえてはいませんでした。「敵」と「味方」を明確にすること、ここから<政治>は始まります。このような啄木にとって幸徳が指し示した方向は連帯して共に闘うべきは誰なのかを教えるものでした。

 それは誰なのか? それは、<V NARODO! といって人民の中にはいっていったナロードニキとよばれるわかい人たち>(松田道雄)なのだと啄木は考えます。19世紀のロシアのナロードニキ運動こそ啄木にとって共に闘うべき「盟友」として見出されたのです。しかし、それは当時の日本には決して現実には存在しえなかったのです。それはただ、啄木の詩の中にあったのだといわなければなりません。

 1911(明治44)年に発表された「はてしなき議論の後 一」にそれはくっきりと刻み込まれています。



    我等の且つ読み、且つ議論を闘はすこと、

    しかして我等の眼の輝けること、

    五十年前の露西亜の青年に劣らず。

    我等は何を為すべきかを議論す。

    されど、唯一人、握りしめたる拳 に卓をたゝきて、

    「V NARODO!」と叫び出づる者なし。




 このように議論を闘わす青年たちは当時存在していませんでした。唯一、「大逆事件」のみが国家への反逆が可能なことを示していました。しかし、この反逆とても十分に考え抜かれ、計画されつくしたものではなく、天皇暗殺へと一途に昂ぶっていく宮下太吉らが幸徳を抜きにして進め、実行してしまったものなのです。

 宮下らの計画は何らの確固たる後ろ盾を持つものでもなく、また当然幸徳や啄木が夢見た<運動>でさえもありませんでした。<無政府主義者も日本に於ては未だ労働組合に手をつけたことはありません>と幸徳秋水が言うように、この時点では日本の社会主義者たちは自らの思想的営為を労働運動との結合によってさらに強固にするということを考えてもいませんでした。

 問題はむしろ、正確に言うならば、彼等が連帯すべき自覚した労働者たちはこの時点では日本に未だ生れていなかったということなのです。このような社会・政治状況の中で、宮下らはむしろ状況に急迫されて事を成したのだと考えられるのです。啄木はこれを正確に理解したのだと私は思います。こう解釈するとき、啄木の「はてしなき議論の後 二」はまさに「うすにがき」味わいを持ちます。



    我は知る、テロリストの

    かなしき心を-

    言葉とおこなひとを分かちがたき

    たゞひとつの心を、

    奪はれたる言葉の代わりに

    おこなひをもて語らんとする心を、

    われとわが身体を敵に擲げつくる心を-



 ヨーロッパにおいては既に自覚した、変革への意志を持つ労働者たちが姿を現し、自らを組織しようとし始めていました。しかし、日本における労働者を、<奪はれたる言葉の代わりに おこなひをもて語らん>とする人間を描こうとする時、啄木にとってその原像は、かの宮下太吉ら以外にはなかったのではないか。その思想的・運動的不十分さを知りながらもなお、<われとわが身体を敵に擲げつ>け得る人間の原像として宮下太吉は啄木の詩の中で生き続けています。現実には存在してはいないとはいえ、それは新たな人間存在の可能性を指し示しているのです。


 1911
(明治44)年1月、啄木は自らを<将来の社会革命のために思考し準備してゐる男である>というところまで思想的に先鋭化していました。宮下太吉を念頭において書かれたと考えられる「墓碑銘」(19116月)は、この意味において、啄木にとっての真の人間の姿を描いたものであり、また自らもそうなりたいと切望する啄木の見果てぬ夢でした。



    ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、

    しかして、また、かの生を恐れざりしごとく

    死を恐れざりし、常に直視する眼と、

    眼つぶれば今も猶わが前にあり。

    彼の遺骸は、一個の唯物論者として、

    かの栗の木の下に葬られたり。

    われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、

    「われには何時にても起つことを得る準備あり。」



 しかし、ここまで急速に且つ根源的に思想的歩みを続けてきた啄木にとってすでにその生はいくらも残されていませんでした。この詩の翌年1912(明治45)年、啄木は肺結核と診断され、413日早朝、死去。

 より人間的な社会を実現するためには天皇を爆殺する事さえあえて行なおうとする人間が現に存在するという衝撃は、啄木にとって根底的かつ過激な思想的追求を迫るものでした。逆にいうならば、「明治」最末期においてはすでに天皇は<神聖にして侵すべからざる>存在として確固としたものであり、<侵す>ことを考える事自体が不可能になっていたのです。


 最後に、1974830日に起きたひとつの事件を思い出しておきたいと思います。「東アジア反日武装戦線狼部隊」と名乗るグループによって東京丸の内三菱重工業本社前に置かれた時限爆弾が爆発、通行人8人が死亡、385人が重軽傷を負いました。彼等は後に逮捕されましたが、その捜査の過程である事実が判明したのです。彼等は「虹作戦」と名付けた天皇爆殺(御召列車爆破)作戦を計画し、実行段階で失敗していた事。このときに使われなかった爆弾が丸の内で爆裂した事。天皇爆殺計画を知った検察当局は事の重大さに驚き、初め警察当局にさえこの事実を隠そうとした事。(詳細は松下竜一「狼煙をみよ-東アジア反日武装戦線狼部隊-」『文芸』1986年冬季号。)


 私自身、彼等のいわゆる「虹作戦」のところを読んだ時、天皇爆殺まで決意し得た人間が今のこの日本にいるのかという強い驚きを感じました。そもそも、そんな事が一体可能なのか。そして正直にいうならば、天皇爆殺または処刑という事まで射程に入れて「天皇制」ということを考えていなかった自分にあらためて驚きました。天皇の肉体を物理的に抹殺するということをまったく想像さえしていなかった自分は、もうすでに強く天皇制の中に組み込まれ、その中で生かされているというのが本当なのではないか。啄木の言うように、<一切の「既成」をそのままにして置いて、その中に、自力をもって我々が我々の天地を新たに建設するという事は全く不可能だ>ということ知りながら、ごまかし続けてきたのではないか。

 「昭和天皇」の死の前後、日本庶民は<賢明に処した>と評した人がいます。神がかることもなくかつまた必要以上に「天皇(制)」に対して批判的言辞を弄することもなかった、という事なのでしょうか。「大葬の礼」の日、スキーに多くの若者が出かけたといいます。吉本隆明の言うように<天皇制なんか知らないよ>という若者が増えれば、天皇制は自然に消滅するのだとしたら、これも確かにかすかな希望となり得るでしょう。しかし私にはそう思えないのです。天皇および天皇制に対して何ら態度を表明しなかった事によって彼等は(そして私自身も)、新たな「天皇」および将来の天皇制の存続に関して暗黙の了解を与えてしまったのではないか。そう恐れます。しかし、啄木の言う<日本人に特有の卑怯>、国家や天皇制という問題を回避しようとする態度を私はなんとか脱したいと願っています。そしてそれはいかにして可能なのか。考えたいと思います。(2009年12月改稿)























AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

モリエール山梨さんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

コメント

[コメントをする]

コメント投稿

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。