【核密約】抄録(1) 

 衆院外務委員会が19日午前に行った核持ち込みなど日米間密約に関する参考人質疑の抄録は以下の通り。

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 森田一元運輸相「私が関与したのは大平(正芳)外務大臣、大蔵大臣、総理大臣の秘書官としての1960年1月の安保改定時の核持ち込みに関する密約と、大蔵事務官としての1972年の沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わりに関する密約です。

 まず、前者に関して、私は外務大臣の秘書官、大蔵大臣の秘書官、総理大臣の主席秘書官でしたが、次の通りでございます。

 第1点として、池田内閣の大平外務大臣は、ライシャワー大使とは肝胆相照らす仲でしたので、時折、会っておりました。

 第2点として、1963年4月3日に、ライシャワー大使の秘書から、今度は首相公邸でお会いしたいという申し入れがあり、何かあるなということを感じたわけでございます。

 第3点として、大平大臣はよく、その日の出来事について私に語って聞かせることが多かったわけですが、この会談後につきましては、何も申しませんでした。

 第4点として、しかし、それからしばらくして、私は秘書官のときも秘書官でないときも、大平正芳のゴルフのお供をしていたわけですが、その1日ですが、ゴルフに行く途中で、小さな声で、イン

トロダクションというのをつぶやいて、考え込んでおる姿を見まして、会談の中身を察した次第でございます。

 第5点として、このイントロダクションというつぶやきは、その後も続いたわけですが、そのうちに会談の内容を打ち明けられました。

 時が移って、第6点として、田中内閣になりまして、大平は2度目の外務大臣となり、私も再度、大蔵省から出向して外務大臣の政務秘書官になったわけです。そのときに大平大臣から、将来回顧録を書くときに参考にしたいので、日記をつけるようにいわれたのです。

 その日記を今、読み返しますと、木村俊夫外務大臣がアフリカ出張に出発するに際し、大平大蔵大臣が外務大臣を兼任することにした。それは核問題に一応の決着をつけるためである、とか、あるいは10月31日のところには、ホテルで外務省幹部と核問題について打ち合わせをした、とか、あるいは、田中総理大臣はこの問題を処理して退陣する決意を固めているようだ、と書かれています。特に、最後のこの記述に関しては、私も鮮明に覚えておるんですが、書かなければよかったという思いから、日記に斜線が引かれてます。

 ちなみに、このとき大平外務大臣が、大蔵大臣に横滑りをする際に、その後任になったのは木村俊夫先生でした。木村先生はそのときはよく知らなかったんですが、後でいろいろ知るところによりますと、佐藤内閣の官房長官のときから、この問題についていろいろ考えられ、悩んでおられたようですが、このように、この問題に悩む2人が偶然、田中内閣で顔をそろえることになったわけです。そこで田中総理に対する働きかけということになったんだろうと思います。

 第7点として、1978年、大平が総理大臣、内閣総理大臣になってから、伊藤圭一氏が国防会議の事務局長になられたときに、大平総理から言われて、この問題を解決することについて、いい知恵はないか聞いてくれ、ということで電話をしました。

 もちろん、なかなかこれといったいい知恵はなかったわけですが、第8点、1980年4月に総理の執務室で、伊東正義官房長官と加藤紘一官房副長官と主席秘書官をしていた私が顔をそろえて大平総理と話すことがあったわけです。それぞれ忙しいので、このように4人が顔をそろえることはあまりなかったもんですから、そのときにいろんな話をしました。

 そのときに問わず語りに大平総理の口をついて出たのは、「例の核の問題について国民に分かってもらえるような、いい方法はないだろうか」といわれたわけです。3人とも考えて、3人ともほとんど同時に、「そりゃ難しいでしょうね」と答えました。というのは、40日抗争の後でもあり、この問題に手をつければ(自民)党内が大変やかましくなるという思いがあったからです。大平はそれを聞いてぶぜんとして、「難しいからこそ君たちに聞いているんだ」ということをいって、再びこの問題に言及することなく、6月12日に他界したわけです。以上がいわゆる核持ち込みの密約について、私が関与した全容です。

 次に、後者の沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わりに関する密約につきましては、私が大蔵省主計局法規課の筆頭課長補佐として関与したものです。私は1970年7月10日から1971年7月9日まで、課長補佐をしていました。

 そのときの模様は次の通りでございます。

 まず第1点として、法規課というのは主計局の、いわば法制局のようなところで、財政支出に関係のあるいろんな問題について各省から問題が持ち込まれておりました。この問題については、沖縄返還に関しては、外務省の条約局から持ち込まれたわけです。そして、条約局の中島敏次郎課長と、栗山尚一法規課長と、主計局の戸塚岩夫法規課長と、私の4人で、ことの性格上、外務省に出かけまして外務省の会議室で協議したわけです。

 その中で戸塚課長から、「あなた方の説明を聞いていると日本側が米国側に支払う話ばかりしているけれども、米国側からもらう話もあるんじゃないか」という発言がございました。外務省側が「ちょっともらう話というのは…」という発言をしますと、戸塚課長は、「例えば飛行場が返還されても、農民にそのまま返すわけにはいかんじゃないか、原状回復をしなきゃいかんでしょう、その費用だ」と言いました。

 第3点として、戸塚課長は、「大蔵省としては金額の大小よりも米国からもらうべきものはちゃんともらった、ということが大事なんだ」ということを力説すると同時に、金額については「森田を沖縄に派遣して確定させるから、米国側に要求してもらいたい」ということを言ったわけです。

 第4点として、私はその結果、沖縄に1週間出張して、戸塚課長の指示がありましたので、私が沖縄返還交渉の一環として沖縄に来たということは一切悟られることなく、琉球政府の、いわば雑談のような形で会談をして、400万ドルという金額を割り出したわけです。

 第5点として、外務省が米国側に要求したところ、日本側から支払われるお金については、金額がいくらであっても何の問題もないが、米国側が支払うお金についてはその金額がたとえ小さくても歳出権を議会からとることが大変だ、ということが連絡、外務省から連絡を受けました。

 第6点として、その連絡を受けたとき、これは大変やっかいなことになったな、と思ったわけですが、しばらく推移を見るほかはありませんでした。若干時間がたちまして、外務省から、上とも相談したのですが400万ドルについては、米国側が日本側が支払う3億2000万ドルの中から支払うということにしたいので、主計局としても了解してほしいということでした。

 これは極秘にするから、ということでもあり、問題が難しくなっていることはよくわかっていましたから、主計局としても特に異議を差し挟まなかった次第です。

 以上が沖縄に関する私が関与したいわゆる密約の全容でございますが、同じ大蔵省でありながら、私たちは、柏木さんと話し合いはなく、いわゆる有名な柏木・ジューリック会談の中身についても外務省を経由して内容を聞いていたわけです。

 それから、ご関心があるかと思いますが、いわゆる無利子預金の件につきましては、これは主計局のマターでございません。国際金融局のマターでしたので、私どもは一切聞いておりません。以上でございます。

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