何か事件をおこしたり、反社会的な行動をとってしまったりする人に対して、すぐに「トラウマ」がどうのこうのという原因を持ち出してきたりする論調には、私はどうも納得できません。
誰も彼もが何一つ問題ない環境の、何一つ問題ない暖かい家庭で、何一つ劣等感も持たずに育つわけではなく、どんな人だって幼心に傷ついたり不安を抱いたりした経験の一つや二つは、あるのが普通ではないのでしょうか?
そんなことで、いちいちトラウマになったなんて言っていたら、世の中ほぼ全員トラウマ持ちで、問題行動の原因にそれをあてはめるなんて意味がないように思えてしまうのです。
しかし、「心臓を貫かれて」の中で語られるゲイリー・ギルモアは、そんなトラウマという言葉に懐疑的な私も、納得せざるを得ないほど心の傷を受ける生い立ちを背負っています。
- マイケル ギルモア, Mikal Gilmore, 村上 春樹
- 心臓を貫かれて〈上〉
- マイケル ギルモア, Mikal Gilmore, 村上 春樹
- 心臓を貫かれて〈下〉
罪もない人を殺し、アメリカ・ユタ州で死刑囚となった兄・ゲイリーの生い立ち、更に家族を遡っての暗い歴史をたどり、なぜこのような事件がおこってしまったのかを考えながら本書の原書「Shot In the Heart」を書き上げたのは、実の弟マイケル。
このギルモア家の中で心の傷を負っていたのは、ゲイリーだけではありません。
著者マイケルも、もう一人家族の中で生き残っている長兄フランクも、大きな傷を抱えたまま生きています。
ただ、同じくらい痛めつけられたとしても、その人が自分の傷のためにどのように人生を損なうか・・・
外に向かって暴力的に怒りを爆発させるのか、
それとも精神的に人を傷つけてしまうのか、
逃げ回ってばかりのような一生を送ることになるのか、
自分自身を痛めつけるような行動をせずにはいられないのか、
そこが違うだけのような気がします。
ゲイリーはもちろんのこと、ギルモア家のどの人の人生も、読みながら心が重たくなる話なのですが、私は特に長兄フランクがどんな思いで人生を過ごしているのかについて思うと、本当に心が塞がります。
表紙を初め、本書の中にはギルモア家の人々のスナップショットが何枚か出てきます。
これらの写真の人々の顔を、いちいちじーっと眺めずにはいられません。
無邪気に笑っているように見えるこの少年が、将来どんな道を歩むことになるのか、とか
難しい顔をしているお母さんも、昔はこんなに美しい人だったのだ、とか
この写真を写している瞬間には、それぞれの人はどんな気持ちを抱いていたのだろう、とか
考え込んでしまうのです。
どんな親だって、本当は「よきもの」「すばらしいもの」こそを、子供に、そしてまた次の世代に伝えて生きたいと願う気持ちが強いはず。
なのに、反対に、こうして次々と「邪悪なもの」「荒廃したもの」を送っていってしまう羽目になるとは・・・つらい話です。
あとがきで、訳者の村上春樹氏が書かれた文章の中で、この本を読み終わった私もまさにそのように感じたのだ、と思うところがあります。
この本を一冊読み通すことで、僕の人間に対する、あるいは世界に対する基本的な考え方は、少なからぬ変更を余儀なくされたのではないかと思う。
「ある種の精神の傷は、一定のポイントを超えてしまえば、人間にとって治癒不能なものとなる。
それはもはや傷として完結するしかないのだ」
ということを、僕は理解できたような気がする。
頭によってではなく、皮膚によって。
理論としてではなく、ひとつの深いリアルな実感として。
もちろん、意味のない殺人の犠牲者となった人や、その家族にとっては、ある日急に人生を奪われた背景として、犯人の過去がどうであろうと、どのような精神の傷を背負っていたのであろうと、それを知ったところで全く何の慰めにもならず、納得できることではないとわかってはいますが・・・。
また、私自身にいわゆる「第六感」は全く備わっていないらしく、生まれてこの方、妖しげな現象を目の当たりにしたことも、金縛りにあったりしたこともないため、オカルト現象についてはわりと冷ややかで、そのような話をきいて背筋がぞっとすることはほとんどありません。
が、この本の中での不気味な現象については、なぜだか身の毛がよだつようなところがあります。
きっとそれらの亡霊は、怪奇現象というよりも代々ギルモア家に伝わってきたトラウマの気配だったのだろうと思うのですが。
そもそもこの本を読もうと思ったきっかけは、別の本にありました。
ブログを始めて間もない頃に読んだ、Under the Banner of Heaven (日本語訳版: 信仰が人を殺すとき)という、モルモン教原理主義者の話。
そこでおこる事件も、モルモン教徒が作り上げたユタ州の町のなかだったわけですが、同じプロヴォの町でのゲイリー・ギルモア事件についても言及があり、実弟が事件に関して書いたフィクション「Shot In the Heart 」を探していたのですが、ここらの本屋さんでは見つからず。
村上春樹さんの日本語訳を先に見つけて読み始めました。
「信仰が人を殺すとき」とあわせて読むと、一層
「人が自分の力ではどうしようもなく、犯罪を犯す道をたどってしまう可能性」
のようなものについて、考えてしまうと思います。
そして、不吉なものに「とり憑かれた人」というものがあるのなら、同じように不吉なものに「とり憑かれた場所」というものも、あるのかもしれない、などと考えてしまいました。





1 ■読みます!
凄く読みたいです。と言うか、読みます。
私自身は結構、運命論者的なところがあるんです。
生きて行く上で、自分の努力以外に、誰かとの出会いとか別れとか、身の上に降りかかる出来事(幸、不幸含めて)って、自分の力ではどうにもならない、あらかじめ定められた事のような気がしています。
そして、その積み重ねが、やはり今の私を作りあげているように思っているんです。
そういう意味でも、とっても興味アリアリ♪