信心深くないし、積極的に宗教活動に参加したりする気ゼロの私にとっては、宗教団体や信者の行動について、ナゼ???という不可解なことがあります。
教会での「ざんげ」という行為に対しても、
「どんな罪を犯しても、懺悔さえすれば、それで許されるって、おかしくない??」
などと罰当たりなことを思ってしまい、
「ごめん!で済んだら、警察いらん!」
という言葉が頭の中をぐるぐる。
けれど、アンジェラの灰 のフランク少年がまっとうに大人になったのには、教会の役目は大きかったのだなあ、と感じました。
自分の家庭や社会を取り巻く貧困、生まれてからずっと経験してきたつらい思い出、不条理な世界に対するやりきれない気持ち、自分が犯してしまった間違いを後悔する気持ち、心の中に澱が溜まりに溜まって、どうしようもない16歳の誕生日当日。
立ち寄った教会で涙を流していると、神父がやさしく包み込んでくれます。
「君の心を苦しめているものを、神に話してみなさい。」
誰にも話せずにいた思いを吐き出します。
神は、君をお許しになったよ。 だから、君も自分のことを許さなくてはいけない。
神は、君を愛しておられる。 だから、君も自分のことを愛さなくてはいけない。
自分自身の中にある神を愛せないことには、神がお創りになった全てのものを愛すことは出来ないのだから。
このような神父の言葉を聞き、穏やかな気持ちで教会をあとにします。
誰にも分かち合えない、心の中の気持ちを聞いてもらう。
こんなにダメな自分でも、愛してもらい、許してもらい、肯定してもらえる。
それだけで、人間のつらさはとても軽くなるものなのです。
16歳の誕生日、教会という場がなかったら、フランクは耐え切れず、将来は全く違ったものになっていたのではないか?
そう思いました。
また、神父のことは 'Father' と呼びかけますが、愛してはいても、今、助けにはなってくれない実の父親の役割を、まさに神父が担ってくれたのだなあ、とも思いました。
私は、「懺悔」の意味を、初めて少し理解できたようです。





1 ■自分も
信心深くなく、海外で信仰のことを訊かれて困ったりしますが・・・
こちらで生活規範がしっかりした人々は、多分にもれず信心深いように思えますが、マレーシアでもフィリピンでも・・・
気のせいですかね?