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こちらの情報をまとめてます→虚空山彼岸寺β様より引用

は初期の仏教には今の様に仏像と言う物は見られなかった。

また、所有という事に関しても戒律で決まりがあったそうです。


この仏像を所有しては駄目という考えの根拠となるものが、お釈迦様の遺言の御経としても知られている涅槃経で、お弟子の一人であるアーナンダが釈尊に、釈尊死後、何を依りどころとすべきかを尋ねた所、


「法によりて人に依らざれ(依法不依人)、義に依りて語に依らざれ(義依不依語)、智に依りて職に依らざれ(智依不依識)、了義経に依りて不了義経に依らざれ(了義経不依不了義経)」と示され、さらに「自灯明・法灯明(法を依りどころとし、自らを依りどころとせよ)」ということもおっしゃいました。この所から、大切なのはブッタが説いたところの真理、法をよりどころとすべきであり、仏像を崇拝するのは釈尊の教えに合ってないと見なされる。

確かに仏教は、「執着する心から離れよ」というのがその教えの一つとしてあり。大切だと感じる物が有れば、それに執着してしまい、苦しみをもたらす。だから執着の心から離れる事が大切、という訳です。所有の制限と言う事がいわれるのも「本質」はそこにあるのでしょう。


そして仏像を祀るという事に関しても、大切なのはその「本質」であると思う。もし仮に、特定の像自体に力があって、それを崇拝するとなれば偶像崇拝となってしまうので、避けるべきことである。

仏像と言うのは信仰を喚起する為の一つの「手だて」です。その手だてでもって、仏教の教えを解り易く目に見える形として表現し、そして仏像を敬う事を通して三宝(法・法・僧)を敬う心を養い、同時に自らのあり方を振り返る為の一つの指針とする。


それが仏像の本来の役割であり、存在意義であると思う。


お釈迦様の教えの中に「指月の例え」というものがあります。月はどこにあるのか?と尋ねられた時、あそこだと指をさします。月は指の差す先に有り、指に月があるわけではありません。

指は月を示すための「手だて」であって、月こそが大切にすべき教え、つまり「本質」であるという事を現す比喩です。


今の仏教の現状をみると、仏教の本質でなくこの手だての方に目が行きがちなのかもしれません。

仏教の本質とは一切皆苦とされるこの人生を如何にして歩んでいくべきか?という所にあるのだと思います。その本質の部分において、今の仏教がお釈迦様の教えと違っているのという事ではないかなと、私は思います。

~以上が引用をまとめたものになります




≪ここからは私の調べた事および自分が思った事です≫

事実、お釈迦様が入滅して暫くは仏像というものがありませんでした情報ソース こちらのサイト様が詳細にわたってかいてあります

仏教が誕生してから約500年間は、インドでは仏像が造られなかった。さて、造る技術がなかったのか、それとも造る必要がなかったのか。その謎に迫ると・・・
釈迦の生前には、 釈迦の教えというのは、自らの知恵によって苦悩から超越するという「悟り」を多くの人々に分かりやすく説いたものなので、自分以外のもの(他力)に身を任せことによって救われるという考え、即ち、偶像を崇拝することは許されなかった。

神様とは自分の中にあるものだというアのンさんの意見と全く同じですよね。私も同じ様に解釈してます。


つまり、修業とかも「悟りを開く為の一つのツールでしかない」と私は思います。


その逆を言えば・・・。自然の仕組みを考えて大事にして、日常生活を真摯な姿勢で真面目に考え、今を一生懸命生きてる人は別に僧侶になったりしなくても、「悟りは開ける」と思うのです。


何故なら仏教では生きていく事そのものが苦行であり修行であるとお釈迦様がおっしゃてるからです。

僧侶の人が山や谷で修業するのは山あり谷ありは人生の例えであり、その苦しみを凝縮して学ぶとも聞いた事があります。


でも、例えは何も考えないで山や谷にぼ~っとして歩いてるだけなら何も悟れないと思います。ちゃんと意味を知るからこそ悟れるのでは?と私は思いました。


聖職と言われる職業についてない私達が、例えば陰謀論があるから、日本で頑張って働いても無駄!馬鹿馬鹿しいと放棄する人はもちろん下界に落っこちるでしょう。

そして仏様の事についてブログを一生懸命書いて伝えようとしても、例えば子育てをさぼったり、仕事をさぼったりして書いたものであれば全く意味をなさないのだと思います。


一生懸命に毎日を暮らし、そして自然の理を忘れず感謝して、そして、自分が生きてる事が輝いてるって思える様な人・・・・

そんな人に仏の心が宿るのだと思います。そしてそいう人は天界から話しかけられると思います。

そんな法にきがついたからそこ、お釈迦様は、普通の庶民にも説法をしたのではないでしょうか?特別な人だけしか出来ないのなら始めからそんな手間は面倒と思うはずです。


そしてこの、いわゆる仏様の事ですが、実は何もないところから何かが生まれないと思いますが・・・。


原型があったと思うのです。

それをこれから記事にしていきたいなと思ってます。



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