今回も半月越え・・・。
まぁ、しょうがないんですけどね。
より簡単に纏めてくれる人が居ると、有難いですよねぇ。
商業利用は困りますけど。(笑)

それでは今日もロシアの絶影島借入れの話。
アジア歴史資料センターの『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/1 明治30年8月18日から明治30年10月14日(レファレンスコード:B03041171700)』から、再び釜山領事伊集院彦吉の報告。
1897年(明治30年)8月31日付『機密第28号』を分割しながら。

露国政府当港絶影島に石炭貯蔵所借地の件に付具申

露国政府に於て、当港絶影島に石炭貯蔵所借地の件に付ては、駐京加藤辨理公使より電示の廉も有之候に付兼て注意致居候処、去29日午後、同国軍艦シユウイチ号仁川より入港し、駐京露国公使館書記官ケルベルク(副領事と称し居候由)乗組来釜し、同人は直ちに上陸。
当港税関長ハント氏を訪問せり。
翌30日、当国監理と同伴、右借地選択の為め同島赴きたるに付、直に監理に就き事情相探り候処、同書記官の京城より携帯し来りたる朝鮮政府の公文には、単に吾石炭庫に準じ、同様石炭庫敷地用として絶影島の土地を丈量貸し渡すべしとのみありて、其間数及場処等も明示無之由に有之。
然るに同書記官は、同島にある我海軍石炭庫の西方(炭庫を距る凡10町斗■)、我居留地の対岸なる処に於て、四方凡200間程の土地を選択したる趣に有之候。
然る処、右地所は同島中第一の平坦なる畑地にして韓人家屋も有之、将来当港貿易旺盛に赴き候暁には、商売地として実に枢要の場処に属するを以て、監理は之を貸与することを好まず、他処を選択せんことを申談したるも、同書記官は是非共其地に決定せんことを主張し、遂に双方熟議相纏らず、監理は、一応政府へ経伺の上にあらざれば決定し難き旨相答へたりとの事を聞込みたるに付、即日川上書記生を監理署に遣はし、右露国の選定地は後日当釜山港拡張の妨害となるは必然にして、且つ区域は石炭置場として広過ぎ、何れにして不利益なれば、十分反対の意見を京城に具報すべきを勧めたるに、監理も容易に承諾し、前文の意見を附して政府へ電報することに内話致置候。
前回の在京城のロシア公使館書記官が釜山に来たという、1897年(明治30年)8月31日発『電受第353号』の詳報ですね。
で、釜山の税関長はハント氏、と。
恐らくはイギリス人でしょうね。

で、書記官は京城から朝鮮政府の公文を持ってくるわけです。
ところが、その公文には場所も広さも明示が無い。

白紙小切手かよ!(笑)

前回は、殆ど突っ込む所が無かったわけですが、さすがに朝鮮政府や朝鮮王宮は笑いを提供してくれます。

書記官ケルベルクは、絶影島の日本海軍石炭庫の西側、日本人居留地の対岸の場所を選定。
四方200間ってのは、200間×200間の40,000坪かな?
東京ドーム3個分に少し足りないくらいですな。

しかし、選んだ場所は絶影島で一番平坦な場所であり、韓国人の家もあり、釜山での貿易が盛んになれば商売上重要な場所になってくるという理由で、朝鮮の監理は「ここはちょっとぉ・・・。別の場所でどうですか?」と申し出るが、ケルベルクは「いや、ここに決めた」と。
双方平行線のまま、監理は一応政府に聞いてからでないと決定できませんと答えたんですね。

これを聞いた伊集院は、書記生を監理署に派遣して、今回ロシアが選定した場所は、将来釜山港拡張の妨害になるのは分かりきっており、さらに石炭置き場にしては広すぎ、何にしても不利益であるので、十分反対の意見を朝鮮政府に報告すべきだと勧めると、監理も簡単に承諾してそのように政府へ電報する事になった、と。

又、同日午後に至り同書記官、監理を訪問し、本日丈量したる土地中の所有者を取調べ、明日中に通知あり度旨請求したるに、監理は土地所有主中或は不在の者も可有之、又日本人に関係ある土地も可有之に付、明日中には取調の道なき旨答へたる由に候処、同書記官は監理に対し殆ど強迫箇間敷挙動を示し、是非共明日中に調査すべき旨相迫り、特に日本人に関係云々と云ひしときの如き一層権幕を示し、其場にある薼を取り膝に乗せ、日本に擬したるものの如くして指頭を以て之を弾落し、日本人に加担すかと脅喝せし趣にして、監理は素より朝鮮政府の命により撰定に立会ふことなれば、彼是争ふことにあらざるを以て、本日更に実地取調の為め同道。
同島へ赴き候。
右に付、同夜監理より該選択区域内の土地に於て、我人民関係の有無を取調べ、至急通知あり度旨申来り候に付早速取調候処、右撰択区域内、我人民が予て韓人より買収したる土地幾部分有之候を以て、直に其趣監理へ通知致置候。
右日本人は3名にして、内2人は未だ韓人より土地売■証文をも取り居らざるを以て、直に日付を溯り、該証書を取り置かしめたり。
他1名は、証書を有するのみならず、当港監理署の公認をも所有し居るに付、右露国借入れ撰定の地に故障を申込むには屈強に付、監理署にも此事を通じ置き、同時加藤辨理公使に電報致置候。
右の外、加藤辨理公使より妨害の手段を尽すべき旨電示も有之候に付、我炭庫の西方に接近し、地稍平坦にして谿水■流出し、之を狹で海岸に少しく畑地有之。
此辺、炭庫敷地には格好の場所なれば、或は此地域を選択することも可有之かと思考候に付、後日故障の一助とも相成べきやと存じ、右海岸の畑地を日本人に買入れしめ置候処、露国書記官来釜し撰定したるは全く意外の場所にて、水源もなく、只平坦なる畑地且つ其区域も広大に選択したるを以て、或は露国の意は石炭置場のみを目的とするものなるや、疑はしく候。
将又右選択区域は、先年総税務司ブラヲン氏が各国居留地に予定し置きたる地区に、多少掛り居るやに聞込み候に付、直に当港税関長を訪ね、露国の借用せんとする地所は、釜山港則ち各国の利害に関係を及ぼすものなるが其意見如何を訪ねたるに、同氏も不同意なるに付、其趣京城其筋へ陳情すべき旨内話有之候に付、尚ほ其事を勧め置候。
尚ほ、本件に関し見聞の次第は、時々加藤辨理公使に及電報候。
此段具申及候。
敬具


追て、本件の大要は、昨30日付露国陸軍大佐ヤンジウルに関する挙動注意の件御電訓に対する伺の、本日付■■電信の序を以て、申進置候。
此段申添候也
書記官ケルベルクが30日午後に再び監理を訪問して、今日測量した土地の所有者を調べて明日中に知らせろと言って来た。
之に対して監理は、「いや、明日中には無理。」と。
土地台帳とか登記簿があるわけじゃないですからねぇ。(笑)

しかしながらケルベルクはこれを聞いて、強迫がましく31日中の調査終了を迫り、特に日本人関係の話が出ると、「日本人に加担すんのか!」と恫喝。
まぁ、朝鮮政府の命令は現に存在し、また争うのが目的ではないわけで、31日に更に実地調査のため監理はケルベルクと共に絶影島に向かった、と。

一方で監理からは、選定地区内での日本人が関係する物件の有無を調べて、至急通知して欲しいという申し出があり、伊集院が調査すると、3人ほど買収により土地を所有。
うち2名は証文を取ってなかったので、日付を溯って取得させ、もう1名は証文どころか監理署の公認も保持している、と。

その他加藤からの訓示もあって、さらに異議申し立ての材料となるように、石炭庫とするのに適当だと思われる場所を日本人に買い入れさせていたのだが、ロシア書記官の選んだ場所は全く意外な場所で、水源も無いただの平地で、区域も広大に選んだ事から、伊集院は、もしかしたらロシアは石炭置き場にする事だけが目的じゃないかもよ、と。
確かに、東京ドーム約3個分の石炭置き場って、かなり無駄ですわな。

また、ロシアが選定した場所は、総税務司ブラウンが各国居留地として予定していた地区に、多少ひっかかるとの話を聞き、伊集院自身が税関長ハントを訪ねて意見を求め、ハントも不同意であるということで、京城のその筋(恐らくは総領事館かブラウン)へ陳情するべきだとして運動中、と。

んー。
日本とロシア、地味ですが結構やりあってるんですなぁ。

さて、今日最後の史料は、1897年(明治30年)9月3日付『機密第30号』。

客月30日付第75号御電示に対し、同31日第9号電報を以て及御報置候通、30日入港の玄海丸に就き取調候へども、一向御電示の露国陸軍大佐らしきもの乗込居らず候に付、探聞の便宜上同人日本出発の日及御伺候次第に有之候。
其後、当港出入舩舶に対し不怠注意致居、特に去る1日入港の浦潮行大連丸に就ては充分に取調候処、長崎より乗船したる露国海軍大尉「アラレ・ミヤローフ」と称するものあり。
年齢30位にして、朝鮮人1名を通辨として伴ひ居り、元山碇泊の露国軍艦クレゼル号に乗込むために、同港まで便乗するものの趣にて、大連丸は昨2日まで当港に滞泊候により、其間右露国人の挙動注意致居候処、同人は上陸は致さざりしも、8月31日付機密第28号を以て申進候、絶影島内石炭置場撰定の為め在京城露国公使館書記官を載せ来航したる同国軍艦シユウイツチ号へは、右海軍士官屡々往来し、多少絶影島石炭置場借入の相談にも与かりたるの形跡ありて、大連丸出帆当時まで同艦にあり帰り来らず、大連丸より乗船を促がされ、漸く帰舩。
元山へ赴き候由。
此外に露国軍人らしきもの無之候。
右為御参考申進候。
敬具
要するに、ガセでした。(笑)


今日はこれまで。



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