早くも10回目の「俄館播遷」。
話が殆ど進んでいないのは、恐縮の至り。(笑)
ってことで、先に進みましょう。

今日もアジア歴史資料センターの『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/2 明治29年2月12日から明治29年2月22日(レファレンスコード:B03050313500)』からになります。
前回の、1896年(明治29年)2月13日付『機密第11号』の続き、21画像目から。

惟ふに今般の事変は、実に客歳11月28日の事変に起因せるものにして、李範晋・李允用・李完用等当時該事変に関係せる重なる者は、爾来露米両館に潜伏し居り。
又露公使館には常に数十名の護衛兵を置き、大に警戒を加へ居れり。
而して本年に至り、衛兵交代の都度兵員追々増加の模様ありしが、近々の計算にては少くも4、50名ありと云へり。
然るに、去る10日、又仁川港より更に107名の武装兵并に大砲1門を牽き入京の報ありしを以て、此度露館増兵の挙に付ては、必ず深く謀るところあるべしと思料し、当国内閣に於ては同夜より特に巡検70名を増加し(平時は30名)宮中の護衛を厳にし、又我守備隊に於ても窃に警戒を加へ居りたるに■は料らん。
翌11日払暁、大君主は日本党の大臣中、去年10月事変と同様の陰謀を企つるものあれば、急露国公使館に避けらるべしとの偽造密告を得るや否や、恐懼■一方、遂に世子宮と共に女官の乗輿に御し警衛の隙を窺ひ出て露館に入御あらせられたるも、更に之を■阻するものなかりしなり。
扠れども、女官乗輿出入の件に関しては、昨年11月28日事変以後、従来の如く女官の出入に際し乗輿を出て徒歩せしむるは、大に不都合なりとの説起り、国王始め大院君に於ても不同意を唱へられしかば、遂に其後に至り婦人丈は乗輿の侭出入するを許すべき旨、守衛兵に通達しありたるを以て、此日女輿の出るを見るも衛兵は更に之を咎めざりしに因り、適々謀計其機に中りたるものと云ふべき乎。
又此日早朝、大闕門前よりして大街には地方より来りたる負褓商体のもの充満し居りて、殆んど通行する能はざる程なりしと。
因て思ふに、大君主并に世子宮を宮中より誘出するの策にして、萬一齟齬する時は非常手段を以て宮闕を犯すの目的に出でたるものならん。
後探偵の報に拠れば、果して朴定陽・李允用は令を地方の負褓商に伝へ此日を期して入京せしめたるに、京畿道は全体、忠清道は過半、黄海道も過半の負褓商皆当地に来集したるなりと云ふ。
又、該負褓商等は、10日夜を以て我公使館を襲はんとの企てありしも、前内閣の学部大臣にして新内閣の法部大臣たる趙秉稷は、此謀計を聞くや、直ちに其頭領を招き懇々説諭を加へ、暴挙を思止まらしたりと。
前回に続いて、これまで報告されていなかった事項は、まずロシアの動きに呼応して宮中の護衛兵の数が増やされてた事。
一応、警戒はしていたようで。

ところが、俄館播遷は成功。
何故かといえば、高宗と純宗は女官の乗る駕籠に乗って宮中から出たから、と。
韓国歴史マニアには、結構有名な話です。

春生門以降、女官の出入りに関して駕籠から降りて徒歩で宮中に出入りするのは不都合があるという説が起こり、結局駕籠に乗ったままの通過を許可してたんですね。
このために衛兵も誰何せず、そのまま宮中を出る事が可能だったわけです。

また、事件の日の早朝には、地方から負褓商が大量に来て、通行することが出来ないほど充満。
これは、いずれも俄館播遷後に入閣する朴定陽と李允用が集めたものであり、推測ではあるけど、女官の乗る駕籠での逃亡が失敗した時には、負褓商を使って非常手段に出て宮闕を犯す目的だったんだろう、と。

負褓商による日本公使館襲撃計画もあったが、これは趙秉稷が止めさせた、と。
播遷前後の内閣いずれにも入閣しているという点では、趙秉稷って非常に興味深いよなぁ。

此より前内閣員の挙動を記せしに、当日は総理大臣金弘集を始め、金外部、兪内部、李宮内、権総書等の諸氏、早朝より内閣に聚合し此大変報に接するや、大半既に去れり。
宣しく内閣総辞職を願ひ、以て各自処身の道を謀るべしとの兪内部の発議ありたるも金総理は之を斥け、余は先づ陛下に謁見し陛下の回心を促し、事成らずむば一死を以て国に報ふるの外なしと、決意動すべからず。
是に於て金総理は、内閣を出る中(最初金総理は、英公使館に於て通訳に従事し居る親戚あるを以て途中同館に立寄り、其者を同道して露館に至る考へなりしと)、警務庁より派出したる巡検早已に大闕に入り来り、直に総理を押送して警務庁に拘引したり。
又、一方には巡検数十名、鄭農商工部の邸宅に向ひ、之を捕へて警務庁に拘引したり。
此に於て警官等は、金総理を庁の門前に引出したるに、人民蝟集して立錐の地を余さざるを見るや、抜剣を以て人民を追払ひたる後、金総理を蹴倒すや否や、警官数人抜刀一斉胸背を切り下げたり。
尋て又鄭農商工部を引出し、一刀に之を惨殺し、両屍の脚部に粗縄を結付け、之を鐘路(京城中央の大市街)に引来りて暴露し置き、并に大逆無道金弘集・鄭秉夏と大書せる張紙を為したり。
然るに、彼の街上に充満せる負褓商等は、各其屍体に向て大塊石を投じ又は踏轢り、屍体には一も完全なる所なきに至らしめたり。
要するに此度の事変に付、金・鄭の2氏首として虐殺に遇ひたるは、昨年王妃廃位の時に当り、金氏は首唱者として奏疏を起案し、而して鄭氏之を国王に捧呈したるに由るものなりと云ふ。
事件後の金宏集内閣の行動について。

内部大臣の兪吉濬は、内閣総辞職して各自身の処し方を決めようと述べるんですが、金弘集はこの意見を退け、「余は先づ陛下に謁見し陛下の回心を促し、事成らずむば一死を以て国に報ふるの外なし」と。
んー、前回のこの報告の最初の方には、「最早一身を顧みるの時にあらず。吾先づ露公使館に至り、陛下と謁見して忠諫するところあらん」とあったわけですが、どちらが正しいんだろう?
まぁ、どちらも大意は変わりませんがね。

で、金宏集はその途上、巡検により押送されて警務庁に拘引され、農商工部大臣の鄭秉夏は、私邸で捕らえられて、金宏集と同様に警務庁に拘引。
その後、1月22日のエントリーの『電受第77号』にあるように、二人は警務庁の門前で斬殺。
更に死体の足を縄で縛り、ソウル中央部まで引きずって晒し、「大逆無道金弘集・鄭秉夏」と張り紙。

その後、”負褓商が”死体にデカイ石投げつけたり、足蹴にされたりで、まともな部分が一つも無い状態になった、と。
この負褓商は、当然先に朴定陽と李允用が呼び込んだ者なわけで。
巷間、”民衆に”或いは”群衆に”とされている場合が多いんですが、小村の報告からいくと一般ピープルじゃ無い。

で、彼等が惨殺されたのは、金宏集は閔妃の廃位の主唱者として上疏を書いたため。
鄭秉夏は、それを高宗に捧呈したため。
たったそれだけの理由で惨殺されたとすれば、報われませんなぁ・・・。

ってか、閔妃の暗殺関係ないじゃん!(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)
俄館播遷(六)
俄館播遷(七)
俄館播遷(八)
俄館播遷(九)