安重根。
明治の元勲、伊藤博文を暗殺したテロリスト。
韓国では、勲章まで授かっている民族独立の英雄である。

安重根


安重根が、旅順獄中において書いた自伝「安応七歴史」を参考に、話を進めたい。


安重根は1879年7月16日、黄海道海州府首揚山麓に、安泰勲の三男一女の長男として生まれた。

父親の泰勲は俊才のほまれ高く、8、9歳の時にはすでに四書三経
(朝鮮では、四書五経ではない)に通達し、13、4歳の時にはあらゆる書物を読破してしまったという、所謂神童であった。

1884年頃、泰勲が京城に滞留していた際、朴泳孝が、政府を革新し国民を開明に導こうとして、優秀な資質の青年70人を選んで外国に派遣し、遊学させようとした際、泰勲もこの一人に選ばれた。

ところが、政府の奸臣たちが朴を、反逆を企てるものであると無実の汚名をきせて逮捕しようとした。
朴は日本に逃がれ、その他の同志は、学生達とともにあるいは殺戮され、あるいは遠隔地に流刑に処せられた。


所謂「甲申政変」と、その後の閔妃の要請に基づいた、清による王宮奪回の件であろう。
 
但し、これでは『政府の奸臣』が閔妃になってしまう点、『反逆を企てるものであると無実の汚名をきせて逮捕』ではなく、実際にクーデターを起こしている点を知らなかった、あるいは気付いていないことが分かる。


1894年、安重根は16歳で金氏の子女を娶って、二男一女を生んだ。

この頃、韓国の各地方ではいわゆる東学党が蜂起し、外国人排斥を名目にして郡県を横行、役人を殺害し、民衆の財物を掠奪した。
官軍はこれを鎮圧することができず、そのために清国が出兵し、日本も出兵して、日清両国の問に武力衝突が起き、大戦争になった。
(日清戦争)
泰勲は東学党の暴行に耐えがたく、同志と団結して、檄を飛ばして義兵を挙げ、狩猟者を招集し、その妻子たちまでも隊伍に編入し、70余人の兵力で清渓山の中腹に陣どり、東学党に抵抗した。
このとき、東学の首魁元容日が徒党2万余名を率いて長躯して押し寄せてきた。
安重根はこれに夜襲をかけて撃破した。


東学党の乱である。
韓国においては、「甲午農民運動」あるいは「東学革命」とまで言われている。
一部の韓国人の間では、抗日運動の一部として理解されているようだが、実際は李朝後期の政治の紊乱、貪官・汚吏の不道徳、税金の過重、そして特に外国勢力の浸透に対して、社会改革・外国勢力の排斥をうたった運動である。
 
『外国人排斥を名目にして郡県を横行、役人を殺害し、民衆の財物を掠奪』、この時代の朝鮮民衆は、壬午事変を見ても分かるとおり、いつもこの様である。
もちろん、この傾向は、3.1運動にもその後の独立運動にも引き継がれてた。
この東学党の暴行に怒った安重根の父は、70余人の兵力を率いて抵抗、安重根は、2万人という人数は過剰としても、これを撃破するのである。

・・・あれ?
民族独立の英雄が、「社会変革・反侵略に対する朝鮮民衆の意志と闘争力量を示した民族運動の一大転換点とされる運動」を、叩きつぶしてしまいました。
どうしましょう?

韓国の独立記念館を見てみよう。


1894年甲午農民運動の時、父親と一緒に銃を持ち、東学革命に乗じて道内で民間人に被害を与える群れの討伐に出たこともある。



・・・( ゚,_・・゚) プッ