さて。
前回の予告どおり、今日からは7月11日の史料に入って行きます。

まず最初は、『駐韓日本公使館記録2』から。
在京城二等領事内田定槌から大鳥への、1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』より。

曩きに当国南部民乱地方状況視察の為め、当館より派遣致候荻原警部の一行は、本月4日を以て当地へ帰着し、別紙の通り警部より復命書を差出候。
其要領は、同警部一行の巡廻たる地方は、今回民乱の起りたる重なる場所、即ち全州、泰仁、古阜、扶安、金堤、金溝にして、其内全州及び金溝の外は乱民の為め格別惨状に陥りたる模様無之、今日に在ては人民各其堵に安じ、再び地方官の虐政に遇ふにあらざれば俄に暴発するの患無之趣に御座候。
尚、詳細は別紙御一覧の上御承知有之度、此段申進候。
敬具
以前、朝鮮南部の民乱の起きた地方の状況視察のため、京城領事館から派遣していた荻原警部の一行が、7月4日に京城に帰ってきて別紙のとおり復命書を提出した。

えーっと。
2月20日のエントリーの1894年(明治27年)6月20日付『第53号』で、荻原他1名に対する旅行券と公文の要求があり、朝鮮側からオッケーが出てましたが、その関係ですね。

視察箇所は、東学党の乱の起きた主要地方である全州、泰仁、古阜、扶安、金堤、金溝であり、そのうちの全州と金溝を除いては、乱民のせいで特別惨状に陥った様子もなく、現在では人民も落ち着いて、再び地方官の虐政にあわなければ突然暴発するような事も無い雰囲気だ、と。
じゃあ、全州と金溝はどうなんだろう?

ってことで、別紙の方を見ていきたいと思います。
1894年(明治27年)7月9日付の荻原秀次郎の復命書より。
非常に長いので、分割しながら見ていきます。

別紙

民乱地方視察復命書

全羅道全州地方民擾地実況視察として、6月21日京城出発。
同地方に赴き、全州には6月25日を以て着するに至りたり。
此際に在りては、一旦東徒の有に帰したる全州城も、官兵恢復後20有余日を経過し、招討使も亦京に帰りたるの後にてありし。
発程後、行旅者の話にて往々全州の惨状を耳にし、其現場を視察するに当り尚一層の感を起したり。
同州は、田舎には稀なる繁華の地にて、其戸数7、8千位あるべしと思はるべき土地なり。
特に、財産家の多数なる此地方に有名なる場処なりとの事なりしが、今や全く其趣を異にし、西大門外等兵燹に罹り、財産は烏有に帰し、妻子は離散し、各自焼跡に悄々佇立結然として後図を計画しつつあるの有様は、実に気の毒と云ふのほかなきなり。
聞く招討使は官兵を率ひ全州にあり、可成丈非常手段を用ひざるの決意ありし如く、即ち招討の事実を行はんとしたるには相違なかりしと云ふ事なり。
然るに、一時猖獗を極めたる東徒、若くは平素地方官の苛政に苦み居りし不平党、何時かは官人を苦めんと思ひ居るときなりしかば、素手にても握殺さんとの勢を以て遂に官と一戦勝負を決せんとしたる事なり。
已に中々官兵も万勝を期し難く、巨砲を撃ち、敢て良民の財産を害損するの止むを得ざる策に出でたりと云ふ(其損害の状況等は、已に内報巡査復命筆記にあれば略す)。
当時にありて或は万貫文の支出、3里以内の伐木を自由にし、以て救助の方法を行ひ居るとの説あれども、已に20余日を過ぎし時に当り、未だ罹災者が一人だも再建築等に着手し居らず。
東徒の全州に集りたるものは、或は万を以て数ふるものあれども、戦死者は実際2、300に過ぎざるべく、其他逃走せる者6、700名なりとの事なるは、都合1,000名位なるべしと思はる。
全州にて監司金鶴鎮に面し善後策等を尋ねたるに、同氏は目下之とて救助するの途なく、只各自其業に安んぜよとの諭達し居るのみと最も冷酷に説き去り、敢て部民を保護すべき点には掛念なきものの如し。
26日は全州に滞在。
夫より泰仁に赴かんとして行先地の模様を尋たるに、風説によれば、近時東徒の余類各地に屯集し強盗等を働き居り、已に昨日も泰仁に於て彼等に殺害せられたるものあり。
支那人4名は之を見て急ぎ帰りたり。
可成は危険を避けられよとの注意を受けたり。
依て我々は、夫等の実際を目撃するこそ望む処なれば、是非に明日は出発すべしとて立帰り、翌朝出発の用意に取掛りたるも、乗馬は雇入るる事能はず。
之れは、我々と同時に20名の清兵全州に入りたる為に、総ての飼馬を専領せし為ならんと考へたり。
先ほど、2月20日のエントリーのエントリーで6月20日にオッケー出てた話はしましたが、その出発は翌21日だったようで。
ってことで、東学党の乱の実地視察として6月21日に京城出発。
全州には6月25日に到着、と。

1度は東学党に占拠された全州城も、官側が奪還してから20日以上経過し、招討使も京城に帰って行った後。
出発後は、旅行者からしばしば全州の惨状を聞き、その現場を視察するにあたって、・・・「尚一層の感」ってのは緊張が高まってたって事かな?

んで、全州は田舎には珍しく賑わった場所で、戸数は7~8,000くらいあると思われる場所。
特に、金持ちが多いって有名な場所って事だったけど、現在は全くその趣を変え、西大門等は兵火に焼かれ、財産は何も無くなり、妻子は離散し、それぞれ焼け跡でしょんぼりと佇んで今後を考えているのは、実に気の毒という他ない、と。

招討使が軍を率いて全州にいたけど、一昨年の12月12日のエントリーの1894年(明治27年)5月16日付『機密第52号』でもあったように、武力行使ではなく慰撫して帰順させるという決意があったようで、「招討」という文字通りの努力をしようとした事には違いない。

でも、一時猛威を振るった東学党や、普段地方官の苛政に苦しんでいる不平党が、いつかは官吏を苦しめてやろうと思っていた時であり、素手でも握り殺してやるぐらいの勢いだったんで、遂には官軍と一戦して勝負を決しようとしたらしい。
既に官軍も全勝するのが難しく、大砲を撃って、あえて一般市民の財産に損害を与えるのもやむを得ない作戦に出たという、と。

で、当時は万貫文の支出をするとか、3里以内の木材伐採を自由にして、罹災者救援を行うという噂もあったけど、既に20日以上経過しているのに、未だに罹災者は一人も再建等には着手していない。
んー、結局噂だけで援助は行われなかったのかな?
それとも、援助はあったけど罹災者の気力が無かったのかな?
いや、多分援助も気力も無かったっつうパターンだと思うけどさ。(笑)

東学党で全州に集まったのは、1万以上という者もいるけど、戦死者は2~300に過ぎないようで、その他に逃走した者が6~700人という事なんで、大体1,000人くらいの規模じゃね?と。
つうか、それが事実なら、1,000人くらいの民衆に城占拠されたりすんのか・・・。

全州の監司である金鶴鎮と面会して善後策等を尋ねると、金鶴鎮は現在はこれといって助ける方法もなく、ただ各自仕事汁!と諭達しただけで、民衆を保護するような考えは無いかのようだった。
うむ。
やはり。(笑)

6月26日はそのまま全州滞在。
そこから、泰仁に行こうと思って状況を尋ねると、噂では最近東学党の残党が集まって強盗等をしており、昨日も泰仁で殺された者がおり、支那人4名もそれを見て急いで帰ったんで、なるべくなら危険を避けた方良くね?と忠告を受けるわけです。

忠告を受けた荻原等は、そういうのが見たいんだよ、そういうのが、と。
いや、強盗に遭いたい訳じゃなくで、治安が未だに回復してないってのを知らせたかっただけだとは思うんですが。(笑)

そういうことで、是非明日は出発しようってことで、帰って翌朝の出発準備にかかったんだけど、馬は雇い入れる事ができなかった。
これは、荻原等と同時に20名の清国兵が全州入りしたため、総ての飼い馬を占有したせいだろうと思う、と。

昨年の2月18日のエントリーとかで、牛とか馬とか大豆とか人夫とか徴発されてましたね。
荻原の予想が正しかった場合、清国兵、使用料払ったのかなぁ・・・。


ってことで、途中ですが今日はここまで。



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