んー。
右側のShiftキーが、散歩に出たまま帰ってこない・・・。
どうも、飼い犬が壊してどっかに咥えていったらしいんだが。(笑)
使いづれぇ。(笑)

って、どうでも良い話は置いておいて、今日は『駐韓日本公使館記録2』から。
袁世凱から大鳥への、1894年(明治27年)7月7日(光緖20年6月初5日)付書簡より。

大清駐紮朝鮮総理交渉通商事宜袁 爲
照覆事照得本年六月初一日准
貴公使照会内開
聶軍門告示字様一案准此査
聶軍門所出告示字様係照我国與朝鮮向来体制応行各節辨理数百年例案備載章籍可考固非初出新裁至朝鮮與各友国立約交際内治外交向由自主竝
曾與欧西各国照会聲明在案無俟
貴公使来文声明本総理久己知悉惟
貴公使如何視断非本総理所敢與聞相応備文照覆
貴公使請煩査照可也須至照会者
右照会
大日本特命全権公使 大鳥
8月29日のエントリーの1894年(明治27年)7月3日付けの書簡に対する返事ですね。

その書簡の中で、聶軍門の告示の中の文字については、清国と朝鮮がこれまでずっと維持してきた体制で、これによって様々な事を数百年の習わしとして処理してきて、文書にも載ってる。
言うまでもなく、今回が初めってってわけじゃ無い。
朝鮮が各友邦と条約を結んで交際することになった時、内治外交については自主になったし、曽て西欧各国とも照会文により声明した前例があるのを大鳥の照会前から知ってるけど、君がどう思うかは私の関与するところではないね。
かな?

自主云々の西欧各国との文書で有名なのは、シューフェルト条約の時の照会文ですね。

< 参考スレ >
■『属国文書』の背景説明

ってことで、所謂「属国自主」について述べた返事って事になるのかな?

んじゃ、次。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/5 明治27年7月2日から明治27年7月19日(レファレンスコード:B03030206500)』から。
22画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)7月7日付け『機密第30号信』より。

本件にて総理衙門大臣、当地英国公使オコノル氏を訪問並に本官より英公使に申聞の件に関する往電は、別紙甲号寫の通り。
又、在日本露国公使よりの公文、並に在英我公使よりの電文、並に在日本英国代理公使の晤談、並に本官より英公使に内話の件に関する来電は乙号の通り。
又当地仏国公使ヂヱラルド氏方に到達の電報、並に同公使所存の件に関する往電は丙号の通り。
又、英公使独立語云々申聞の件に関する往電は丁号の通り。
又、在日本露公使へ回答の件に関する来電は戊号の通りにて、此来電末文の訓令に依り露公使と往復の次第は、早速在天津並に芝罘我領事に致転電候。
又、在日本英国代理公使より当地英公使へ通知の次第、並に其義本官より英公使に通知の件に関する来電は己号の通りに候。

貴方6月11日附機密送第10号信を以て御回送の、両陛下大婚25年の御祝儀に対せらるる清国皇帝陛下への御答翰、去る28日到達。
全権公使在任に候はば、無論謁見捧呈可相成筈に候得ど、臨時代理の本官にては謁見の有無難計とは存候も、兎に角一応総理衙門に可申入と存候に付ては、時節柄該王大臣の言動を見聞して、衷情を推測するの方便にもと存じ、去る3日総理衙門に罷越、先づ謁見の義を談判以後、果して該王大臣より朝鮮問題に言及有之候。
徐用儀より、此程伝聞する処に拠れば、在東京露公使は今般の件に付、何等貴国政府へ申入たる由に候処、貴国政府は最早其申入れに対し御回答有之候哉と相尋候間、其義更に承知不致候得共、本官一個の考にては、我政府は其申入に対し拒絶の意を表せしならんと存候。
其故は、右の如き申入れを許容するに於ては、向後とも朝鮮事件に対し干渉せしむる先例となるべきのみならず、或る国の如きはこれを口実として更に求むる所なしとせざるを以て、可成は他国の干渉を避くるを得策と認定すべければなりと。
此語、固より一場の私語として相答候処、重て徐用儀より、今度の件にて貴国政府の御意見は広く他国政府の知る所と相成る上は、何とか好き辨法も可有之と云ひたる如く、只管平和主義にて専ら露人即ち目下在天津同国公使カウントカシニー氏の仲裁に従事しつつあるを頼み、流石に日本も我を折るならんと思考するものの如くに被見請候間、此際露国の干渉を拒ぎ、且つ朝鮮国内に我国の地位を強固にすべきに於て、機一髮時を失なふべからず。
又、英人の朝鮮に於ける意句は、露人の南下を阻止せんとするに在るは申迄もなき事にて、是迄の行掛の上、彼等は我国の朝鮮に於ける施為に対し、如何の観念を抱き居り候哉。
或は、寧ろ清国と提携するに如かずと思考するにはあらざる歟と推測せられしことなきに非ず。
然るに、今般我国の施為は如何にも敏捷活溌、一切万端彼等の意表に出で、彼等も改観して、心中或は頼母敷念に居るならんと推測せらるることなきにあらざる折柄、我国の朝鮮を管理の義を英公使に説得するは、差して困難にもあらざるべしとの件に関する往電は庚号の通り。
又、英公使総理衙門王大臣と面晤以後、来館談話の次第、並に至急訓令の請求、並に此上或は條約を議訂せられんにも、之を廃棄せらるる様の事あるを予防の為め、批准済迄は我兵の駐韓は必要なるべく、而して清国の政府唯一の目的は撤兵に在るべしと思考の件に関する往電は辛号の通りに候。

当方6月28日附機密第28号信を以て申進の、露国代理公使ウエバー氏当地に就任以後未だ1個月をも経ざるに、又々京城に赴任の為め昨朝当地出発。
右は、必定途中天津に於てカシニー氏には勿論、或は李鴻章とも鼎坐打合せ何等計画の次第可有之と存じ、不取敢壬号の通り電報差立、同日癸号の通り電訓に付、本日午後3時総理衙門に致越、王大臣に面晤可相成候。
右申進候也。
経過整理ですね。

まず、総理衙門大臣がオコノルを訪問した時の内容について、小村が応答したという別紙甲号は、32画像目。
8月4日のエントリーの1894年(明治27年)6月30日発『電受第339号』ですね。

で、在日本ロシア公使からの公文と、青木公使からの電文と、在日本イギリス代理公使の申し入れ、小村からイギリス公使への内話に関する乙号は、32→31画像目。
8月18日のエントリーの1894年(明治27年)7月1日発『電送第271号』。

フランス公使からの情報と所存についての丙号は30画像目。
同じく8月18日のエントリーの1894年(明治27年)7月1日発『電受第347号』。

イギリス公使の、独立という単語に関する丁号も30画像目。
8月25日のエントリーの1894年(明治27年)7月2日発『電受第352号』。

ロシアの介入への対応についての戊号は29→28画像目。
8月27日のエントリーの1894年(明治27年)7月2日発『電送第280号』。
で、これについては、訓令中にあるとおり天津領事と芝罘領事に転伝した、と。

それから、在日本イギリス代理公使から在清国イギリス公使への通知と、青木への通知に関する己号が28→27画像目。
9月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月3日発『電送第287号』。

で、これまで取り上げていませんが、6月11日付『機密送第10号』で送られてきた、天皇大婚25年の御祝儀に対する清国皇帝への返書が6月28日に到着。
小村が臨時代理公使という地位なので、謁見出来るかどうか分かんないけど、もしかしたら王大臣の言動とかで、その内心を探れるかも知れないんで、取りあえず7月3日に謁見を申し込みに行ってみたら、やっぱり朝鮮問題に言及があった、と。

で、王大臣の一人の徐用儀から、在東京のロシア公使が今回の件について何か日本に申し込んだって聞いたけど、それに対して何か返事した?と聞いてきたので、知らんけど、俺の考えでは日本政府はその申し入れを拒絶するだろうね。
だって、そんな申し入れを受け入れたら、今後朝鮮での事に干渉させる先例になるだけじゃなく、某国なんかはそれを口実にして、更に求めるところが無いとは言えないわけで、なるべく他国の干渉を避けるのが得策だと思うからね、と答えておいた、と。

これは公的立場じゃなくて私的立場で述べた話だけど、徐用儀から更に、今回の件での日本政府の意見は広く他国政府に知られたわけで、何か良い方法もあんじゃね?と言われたように、ひたすら平和主義を取って、カシニーが仲裁してんだから流石に日本も折れるだろうと考えているように見受けられたので、ロシアの干渉を防いで朝鮮国内の日本の地位を強固にすべき事について、チャンスを逃してはいけない。

また、イギリスの朝鮮での意向ってのは、ロシアの南下を阻止する事にあるのは言うまでもなく、これまでの行きがかり上、日本の朝鮮における行為に対してどのように思っているだろうか。
あるいは、寧ろ清国と提携しといた方が良いと考えてるんじゃないかと思われる事も無いわけではない。
しかし、日本の今回の行為は素早く、活発であり、総て彼らの意表をつき、彼らも見方を改めて、心中では頼もしいと思っているのではないかと推測される部分もなきにしもあらずなので、日本が朝鮮を管理する事についてイギリス公使に説得するのは、それほど困難じゃないだろうという庚号は、27画像目。
9月5日のエントリーの1894年(明治27年)7月4日発『電受第361号』ですね。

つうか、電文より凄ぇ長ぇ。(笑)

で、イギリス公使と王大臣が会談して、日本公使館に来て話したことと、至急の訓令請求と、条約の内容が決まっても廃棄されちゃうのを予防するため、批准が済むまでは日本軍の駐韓は必要だけど、清国の唯一の目的は撤兵だろうという辛号は、26画像目。
9月12日のエントリーの1894年(明治27年)7月5日発『電受368号』。

次に、7月9日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日付『機密第28号信』で言ってたウェベルの就任から、1ヶ月も経たないのに、彼は昨日の朝京城に赴任しに出発した。
これは、途中の天津でカシニーは勿論、李鴻章とも何か計画するのかも知れないという別紙壬号が、26画像目右側。
9月17日のエントリーの1894年(明治27年)7月6日発『電受第380号』。

同日、25画像目の癸号、つまり9月15日のエントリーの1894年(明治27年)7月5日発『電送第299号』のように電訓があったので、7月7日午後3時に総理衙門に行って王大臣に面会するだろう、と。

一部のまとめだけなのに、何か凄ぇ長くなったな・・・。


ってことで、今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(六十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(六十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(六十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(六十五)
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