さて。
8月6日のエントリーの西公使への1894年(明治27年)6月30日発『電送第268号』、8月8日のエントリーの青木公使への1894年(明治27年)6月30日発『電送第269号』、8月15日のエントリーの大鳥公使への1894年(明治27年)7月1日発『電送第270号』、前回の小村臨時代理公使への1894年(明治27年)7月1日発『電送第271号』と続いた一連の史料の中で、「回答は、閣議決定勅裁を得たる上」送られる事になっていましたが、今日はその回答について見ていきたいと思います。

アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/8 明治27年6月29日から明治27年7月2日(レファレンスコード:B03030205400)』の28画像目。
陸奥からヒトロヴォ宛の、1894年(明治27年)7月1日起草の『親展送第44号』より。

7月1日、外務大臣は此回答案を臨時閣議に提出せられ、閣議決定の上翌日上奏。
裁可を経て之を露国公使に送附せり。

6月30日の来文に対する露国公使え回答案

去月30日午後、露国特命全権公使閣下より下名に手交せられし公文は、頗る緊要に属するものなるを以て、帝国政府に於ては篤と熟閲を加へたり。
右公文中に、朝鮮政府は同国の内乱既に鎮定したる旨を、公然同国駐箚の各国使臣に通告したりと記載せられたるも、帝国政府が接受したる最近の報告の趣に拠れば、不幸にも朝鮮政府の該通告は大早計に出てたると言はざるを得ず。
然り而して、右最近の報告にして帝国政府が確信するが如く事実なるに於ては、啻に事変を醸成するの原因未だ芟除せられざるのみならず、日本兵員を派遣するの已むを得ざるに至らしめたる変乱も、猶ほ未だ全く其跡を絶つに至らずして、之が処分を要するものの如し。
而して、今若し該変乱の根源にして全然掃攘せられざるときは、将来又常に擾乱紛騷を引起す事を免れず。
帝国政府の措置は、疆土侵略の意に出でたるものに非らずして、全く現在の形勢に対して已むを得ざるの必要に応ずるに外ならず。
是故に、帝国政府に於て朝鮮国内の形勢全く平穏の域に復し、将来復た何等の虞なかるべしと認むるに於ては、目下朝鮮に在る所の日本兵員を撤回すべき事は、下名は之を露国特命全権公使閣下に明言するに躊躇せざるなり。
帝国政府は、露国皇帝陛下の政府が友厚なる勧告に対して謝意を表すると同時に、両国政府間に幸に現存する相互の信義と好誼とに因り、今下名がなせし明言は露国政府に於て十分信を置かるべき事は、帝国政府の信じて疑はざる所なり。
前陳の事を露国特命全権公使閣下に回答するに当て、重ねて茲に敬意を表す。
敬具
7月1日起草・閣議決定。
7月2日上奏・裁可・ヒトロヴォへ送付されたものですね。

で、ヒトロヴォが6月30日午後に持ってきた公文中、朝鮮政府が東学党の乱を既に鎮圧したと、各国使臣に公然と通告したって言うけど、日本が接受した最近の報告によれば、この朝鮮政府の通告は大早計だ、と。

その最近の報告が、日本の確信するように事実であるとすれば、ただ事変を醸成した原因がまだ取り除かれていないだけでなく、日本の出兵をやむを得なくした変乱自体がまだ完全に終息しておらず、その処分が必要だろう。
そして、今もし変乱の根源を全然はらいのけない時は、将来また常に擾乱・紛騷を引き起こすのは免れない。

日本の措置は、朝鮮の疆土侵略の意図から出たのではなく、全く現在の形勢に対してやむを得ない、必要に応じた措置に他ならない。
このため、日本は朝鮮国内の形勢が全く平穏になり、将来的にもまたなんの虞もないと認めれば、現在朝鮮にいる日本兵を撤兵する事については、ヒトロヴォに明言するのに躊躇しない、と。

8月6日のエントリーで、ロシアに「日本帝国政府に向て朝鮮の請求を容れられん事を勧告し、且つ日本が清国政府と同時に在朝鮮の兵を撤回することに付故障を加へらるるに於ては、重大なる責に任ずべき」と足枷嵌められてますので、前提間違えてるよ、と。

さらに、当初から言ってきたとおり、将来的な平穏も保証されるような状態になれば、当然撤兵するし、という外交的スタンスは変わってないわけで。
まぁ、朝鮮半島の安定ってのは、日本だけの望みでは無いですからねぇ。

で、これをロシア語訳(?)したと思われるものが32→31画像目。
英訳したものが34→33画像目になってますが、どっちもテキスト起こしは省略。

さて。
次の史料からは7月2日の史料に移っていきます。
まず最初は、『駐韓日本公使館記録2』から。
8月1日のエントリーの1894年(明治27年)6月30日付『第16号』で、朝鮮は独立国である旨の回答がありましたが、それに対してのもの。
1894年(明治27年)7月2日付『第66号』より。

以書簡致啓上候。
陳者貴暦甲午5月27日貴公文第16号を以て、査丙子修好條規第一款内載朝鮮自主之邦保有与日本平等之権一節本国自立約以来所有両国交際交渉事件均按自主平等之権辨理云々、且本国内治外交向由自主亦為中国之素知至中国汪大臣照会逕庭与否応与本国無渉本国与貴国交際之道只可認照両国條規辨理為妥云々御申越相成候に付、遂一閲候処、貴督辨が茲に重ねて貴我修好條規第一款の意義を慥められたるは、本使の満足する所に存じ候。
殊に、御来文中内治外交向由自主亦為中国之素知一節を掲出されたるに至りては、貴国の内治外交は総て其自主に任じて、毫も清国君主権の干預を受けず所謂不覊独立の邦国なることを、特に聲明せられたるものと解釈。
貴我両国の為め、本使の誠に欣悦する所に存じ候。
依て、此段照覆得貴意候。
敬具
この次に漢訳文が続くんですが、そっちは省略。

8月15日のエントリーの1894年(明治27年)7月1日発『電送第270号』で訓令受けてるので、深くは突っ込んでない文ではありますが、それでも余計な言葉が多い気もします。(笑)
何か、属邦論に未練タラタラな雰囲気。

続いてはアジア歴史資料センターの史料から。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日(レファレンスコード:B03050308400)』の10画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)7月2日付『機密第115号』より。

朝鮮国が清国の属邦たるや否や慥かめし為め、朝鮮政府竝に清国駐在官と往復公文寫合計5通、今般本野外務省参事帰国の便に託し申進候間、御査閲相成度此段及具稟候也。
朝鮮国が清国の属邦なのかを確かめるため、朝鮮政府と清国駐在官への往復公文5通を、今回帰国する本野参事に托す、と。
その5通とは、11画像目が6月25日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日付『第59号』。
12→13画像目が、8月1日のエントリーの1894年(明治27年)6月30日付『第16号』。
14画像目が・・・今やったばっかりジャン。
気付かなかった。(笑)
ってことで、今日の1894年(明治27年)7月2日付『第66号』。
15→16→17画像目が、5月28日のエントリーの大鳥から袁世凱への1894年(明治27年)6月26日付照会と、その一連の文書。
18画像目が、8月13日のエントリーの袁世凱から大鳥への1894年(明治27年)7月1日付書簡って事になっています。

返事待ってとか、そういうのは省略された模様。(笑)


ってところで、今日はここまで。



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