ロシア・イギリスそれぞれの介入が始まり、動きが大きくなってきたので、徐々にまた話を進めるのが楽しくなってきた昨今。
対清交渉って話が進まないから、つまんないんだよね。
朝鮮みたく笑えればまだしも。(笑)

ってことで今日の史料は、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』から。
59画像目と60画像目。
1894年(明治27年)6月30日発『電受第342号』の英文・訳文一緒に。

Mutsu
Tokio

15. Received your telegrams 17, 20.
Corean Government have sent noon 6月30日 official letter confirming Article I 江華 treaty.
I am therefore taking against 袁世凱.
Corean Government steps mentioned in my telegram 12 as nothing can be done without resorting to such measures.
Give me full authority for that purpose.

Otori


電信訳文

17、20の貴電接■せり。
朝鮮政府は、6月30日正午、公文を以て江華島條約第1條(即ち自主の国たるを証明するものなり)を確証する旨申越せり。
故に本使は、袁世凱及朝鮮政府に対し、本使電報第12に記載しある手段を執り居れり(以下電文不明瞭なり。併し、格別重要のことに非ざるが如し)
17は7月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日発『電送第259号』で、聶の布告から属国という文言の撤去と、武力行使は現時点で適切ではない旨と、朝鮮政府が耳を貸そうが貸すまいが、内政改革の提議を提出すること。
20は7月23日のエントリーの1894年(明治27年)6月30日発『電送第266号』で、暴力的手段に訴える前にさらなる訓令を待て、ってヤツでしたね。

で、8月1日のエントリーで見たように、朝鮮政府からは6月30日の正午に江華島条約第1条を確証する公文を得たわけです。

ってことで大鳥は、袁世凱と朝鮮政府に7月14日のエントリーで訳文、7月23日のエントリーで英文を見た、1894年(明治27年)6月29日発『電受第327号・電受第112号』に記載している手段を執っている、と。
簡単に言えば、清国兵の追い出し、ですね。

で、以下不明瞭だけど、特別重要な話じゃないっぽいって・・・。
この時期、そんな重要じゃない話とかあるのか?(笑)

さて。
ここまでで6月中の史料終了。
っつうか、今回の連載が6月17日の史料から始まってるから、半月分の史料やるのに半年かかってんのか・・・。
そりゃ飽きたりするわな・・・。
_| ̄|○

ってことで、7月の史料に入っていきます。
旅団報告は暫く先になるので、まずは『駐韓日本公使館記録』から見ていきますかね。
元山の上野領事から大鳥への、1894年(明治27年)7月1日付『機密第9号』より。

6月23日付第103号、同24日付第105機密信共に昨夕接手相被致候。
我国今回の出兵に付、外国人等に対し我挙を賛成せしむる為め、其談話の趣意書御送付相成領悉仕候。
右は此際至極必要と存候へ共、至急を以て充分辨明致度と相考居候。
当地海関長の如きは、元来支那党に左袒する方にて、此度我国出兵に付ても何となく批難を試んとする口気有之候。
既に此程当地監理処に於て会食の節も、頻りに我国の事を早まる杯の説を口に致候に付、徹頭徹尾其説を打破致置候。
其後当地の景況別に可申上程の事無之、此程電信を以て御問合致したる日清両国兵交戦云々の説は、種々探偵を盡すに其出処は全く支那人の或る部分にて此際我国を傷けん為め如是捏造説を伝播致したるものと思はれ候。
始め日兵大敗との取沙汰流布致候時は、居留人民一般何となく憤激の有様なりしも、幸ひ御返電に接し且つ右は全く或る狡猾者の作言に出たる事判然致し、今日に至っては何等の風評も無之位に候。
清韓両国密約の上、咸鏡道北部の要地に清兵を分駐せしむるの一説に付ては未た確説を得ず。
思ふに此事も或は一時の風説なりしかと被存候。
尤も、清国が今回朝鮮を援助して民乱を鎮圧する軍略上に付ては、専ら彼の提督聶士成の心算に有之哉に聞及候。
同氏は兼て李総督の信任を受け居る人にて、朝鮮各地の漫遊を名として従行士官4名と共に昨多天津を起程し、山海関より盛京省を経て義州に入り、夫より平安咸鏡2道を通過して本年4月18日当元山に着し、2日間の滞在にて陸路(騎馬にて)京城に向け発程し、夫より陸路を取り黄海道を経て再び義州に出て山海関を通過。
天津に帰りしとの事に有之。
当時従行士官の内1名(都司なりと云ふ)を当港より釜山に派遣し、地理探究の為め談地より陸路京城に前往せしめたる由に有之候。
而して、朝鮮北部の守衛を厳にし、兼て防俄策に注意すべしとは聶士成の持論に有之候由に付、或は此度の出兵を機会とし、清兵分駐の説を打出したる事共には無之哉と想像被致候。
此れは固より卑官の推考に存候得共、御参考の為め申上候。
■■敬具


聶士成氏の官銜左記の通りに有之候御参考迄に送上候。

頭品頂戴賞穿黄馬褂賞戴花翎過缺顕奏提督山西
太原鎭總兵統領直隷蘆防惟練馬歩各営巴面魯
機密第103号は3月14日のエントリーで。
機密105号は3月24日のエントリーで見ました。
が。
国内で到着に1週間もかかるって・・・。(笑)

兎も角、外国人等に対して日本の挙に賛成させるような措置を執ることに対して、元山の海関長なんかは元々清国よりで、日本の出兵についても何となく非難をしようとする口ぶりであり、最近元山の監理処で会食した時も、頻りに日本が事を早まったと言うので、徹頭徹尾その説を打破しておいた。

その後元山の景況は、7月7日のエントリーの『機密第8号』で問い合わせた日清両国の交戦の話等、種々あるものの、いずれも風説の域を出ないんじゃね?と。

ただ、朝鮮北部への清国兵分駐の話については、朝鮮北部の守衛を厳しくし、ロシアを防ぐ事については聶士成の持論であるし、その動向を見ても、今回の出兵を機会として清国分駐の説を打ち出したんじゃないかと想像。
勿論、上野の推察だけど、参考までに、と。


ってところで今日はここまで。



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