前回に引き続き、30日の史料を見ていきたいと思います。

今日は、いつものように旅団報告から。
アジア歴史資料センターの『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/第10号、6月28日(レファレンスコード:C06061758600)』を見ていきます。
んでは早速。

第10号

6月28日

一 昨27日命令せる東十里東方高地に出ずべき部隊は、同日午前10時54分在京城歩兵第11連隊第1大隊より軍曹以下15名を出し、毒縣島に通ずる道路を監視せしむる旨、一戸少佐より正午6時報告し来る。

一 八重山艦長の報告、午後2時在京城福島中佐より通知あり。
其要領左の如し。

操江は6月26日午前9時、牙山より仁川に入港す。
午後3時、独艦イルチス号神戸より入港す。
午後5時、武蔵を以て浪速等先導出迎の為め、港外ベーカー(小島)附近に出ず。
6月27日午前4時、操江出港す。
同日午前、揚威牙山より入港。
午前10時、能勢領事より本邦人力武平八所有スクーナー形舩順駅丸、本月26日忠清道屯浦より帰仁の折、同夜12時頃白石浦沖航行中支那軍艦ボート1艘来り、内4名舩中に入り何名を積み居るやを尋ねたるに付、悉皆米なることを示したるに、舩内処々を捜索し帰りたりと。
其節同舩の目撃したる所に依れば、牙山碇泊の軍艦にして(ランプ)を点ぜずと云ふ。

一 龍山兵站司令部の報告に、午後3時左の物品を竜山に揚陸し、京城に向ふたりと報告す。

天津機器局(光緒5年4月製造)開花砲子 五拾箱位
二号槍薬 拾 箱位
独乙製弾薬 拾五箱位
甲戌別合副五拾斤入 貮拾箱位
大砲(但旧式) 貮  門

一 京城并龍山間軍用電線を架設し、通信を開く。

一 午前7時、在京城福島中佐より、兵庫丸、住ノ江丸、三河丸、熊本丸、越後丸、和歌ノ浦丸、酒田丸は第二次輸送諸隊を載せ、軍艦浪速号之を護衛し、昨27日午後5時46分仁川に到着する旨報告あり。

一 歩兵第11連隊より1中隊を露梁渡場附近に出し、同渡場及銅雀津の渡場を監視せしむ。

一 歩兵第11連隊第2大隊の3中隊及第1大隊の2中隊は、午後3時過ぎ当幕営地に到着す。


6月29日
一 昨28日午後3時40分、平壌発電報、同午後6時京城着、土橋中尉の報告左の如し。

 支那兵をらず。

一 水原方向に出したる騎兵斥候の報告午後3時10分到着。
曰く、軍浦場及水源地方に支那兵を見ず。
当斥候は、尚南陽方向に進で捜索せんとす。

一 第二次輸送諸隊の内昨日到着せる残余は、本日午前2時半仁川出発。
炎熱の為め行厨腐敗。
為めに大なる困難に遭遇し、其先頭4時頃揚華津に到着す。
先着軍隊よりは急々行厨を炊爨し、直ちに揚■鎮に向て輸送し、以て兵の饑渇を救ふの手当をなす。

右報告仕候。
支那軍艦ボート1艘来り、内4名舩中に入り何名を積み居るやを尋ねたるに付、悉皆米なることを示したるに、舩内処々を捜索し帰りたりと。」って、臨検?臨検?(笑)

他に特記しておくのは、「京城并龍山間軍用電線を架設し、通信を開く。
「京城」がどこを指してるか不明ですが、大体4~5kmの距離って感じで良いのかな?
その間に軍用電線を架設した、と。
これも建前的には2月12日のエントリーの仁川の要衝や漢江沿岸への兵員配置と同じく、公使館警備の方法として必要不可欠だから、って事になるのかな?
つうか、今までどっかでこの軍用電線の話出てきたっけ?と思ってたら、アジ歴の『明治27年 「秘密 日清朝事件 第5師団混成旅団報告綴」』の中に、混成旅団の参謀長岡外史から川上操六中将への私報が綴られてますので、一応引用してみたいと思います。
長いので、多分途中でぶった切る事になるかと。
まずは、『明治27年自6月至9月 「明治27年 「秘密 日清朝事件 第5師団混成旅団報告綴」/川上中将閣下に上る私報(1)(レファレンスコード:C06060161000)』から見ていきましょう。

川上中将閣下に上る私報   長岡参謀

小官は、第二次輸送兵を迎ふる為及び監督部と協議の目的を以て漢江を下る途中、■暇を得申候間、2、3景況申述候。

○ 兵を龍山附近に置かれたる顛末
去る23日午後、公使より仁川の兵を京城に集めよ。
第二次の兵も亦爾かするを望むと云ふ電報に接したり。
公使の考にては、京城に一大隊にては少なきを感ずる如しと雖も(上原少佐の言)、目下京城に多数の兵を容るる策の得たるものにあらず、却て混雑を生じ、特に夜戦に在って然ればなり。
目下、旅団直接に牙山方向を顧慮せざる可らず。
次に、義州街道を顧らざる可らず。
然るに、義州街道には今日迄士官斥候より何等の報なし。
旅団目下の策は、先づ牙山よりするものを撃ち、次に義州街道に当たんとするに在り。
此目的の為めには、龍山附近を適当の陣地を愚考仕候。

京城の大隊は、京城の死命を握れり。
龍山諸隊は、南大門に通ずる諸道路を扼せり。
諸隊の歩哨は、総て京城を瞰下し、南山の歩哨と通信旗を以て交通するを得る。
其歩哨線より余計に退きて龍山附近に幕営したるは、他日一朝渇水の際、漢江の水にて兵馬を養はんが為なり。

漢城附近図(2万分1)不精甚だし。
昨26日より3個の器械を以て測図に着手せしめらる。
測図完成後は、配布略図を出ずべし。
3月7日のエントリーで清国が日本の提案を拒否し、追加派兵の噂が入った事によって出された1894年(明治27年)6月22日発『電送第236号』の中で、「you are hereby instructed to concentrate all troops to 京城 immediately notwithstanding you may have more or less fear to create complications.」という訓令が出され、23日午後には大鳥から仁川へ軍の移動指示が出され、4月14日のエントリーの1894年(明治27年)6月24日発『電受第300号』で報告があったように、6月24日午前1時に仁川を出発してます。

で、上原少佐は「大鳥公使は京城に1大隊じゃ少ないと感じているらしい」と言ってる、と。
つうか、訓令による京城への兵力集中なんですが・・・。(笑)

うけど、現今京城に多数の兵を入れるのは、却って混乱を生じ、夜戦になればなおさらなんだから不得策だ、と。
旅団的には、第一に牙山方面、第二に義州街道を考慮しなければならないが、義州街道では現在偵察士官からは何の報告も無いので、まずは牙山にいる清国軍を撃って次に義州街道に当たるのが目下の策。
この目的のためには、龍山附近への布陣が適当と考えた、と。
当然ですが、純軍事的な見方。

で、京城の大隊は京城の死命を握っており、龍山の諸隊は南大門に通じる諸道路を押さえる。
諸隊の歩哨は京城を見下ろして、南山の歩哨と通信旗で交信可能。
その歩哨線よりも更に下がって龍山に幕営したのは、今後渇水になった場合、漢江の水で兵馬を養うため、と。
仁川では、水で非常に苦労してましたからねぇ・・・。

で、京城附近の地図は非常に不正確のため、6月26日から測図に着手し、それが完成したら略図を作る、と。


途中ですが、今日はここまで。



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