前回までやってた史料、全然途中なんですが、いつも通りに。(笑)
いや、一つの史料を何日もかけて書くの、飽きるってのもあるんですが。

< 2008年10月のエントリー >
やっぱ、イギリス公使の努力台無しな、清国の撤兵するまで交渉拒否が一番面白いな。
日本は交渉しなくても困らないし。(笑)

日清戦争開戦まで(九十四)

メインは、大鳥の内政改革要求提出の報告。
内政改革の交渉する窓口作りまでをやっとく筈が、栗野が持ってく文書の到着前に内政改革の綱領を提出しちゃう大鳥。


日清戦争開戦まで(九十五)

大鳥の提出した内政改革要求関係の文書についての回。
大鳥の出したのは、大枠として政治制度改革・財政整理・法整備・軍整備・教育制度確立の5点。
まぁ、国家として自立するための基本の部分。


日清戦争開戦まで(九十六)

大鳥の内政改革要求の詳細その1。
言ってる事は正論だけどね。


日清戦争開戦まで(九十七)

大鳥の内政改革要求の詳細その2。
内政改革に期限をつける大鳥。
つうか、3日以内に議定して10日以内に着手とか、6ヶ月以内に決行とか、2年以内に決行とか、そんな短期間にできるんなら、朝鮮のような惨状になって無ぇだろ、と。


日清戦争開戦まで(九十八)

アメリカの干渉と、そのお返事の巻。
朝鮮国への駐留自体は、済物浦条約による権利です。
撤兵に関しては、天津条約の「其の事定まるに及んでは」について清国と見解の相違がありますが、それについての交渉は拒否られましたが、何か?と。


日清戦争開戦まで(九十九)

仁川港中立問題、在オーストラリア代理公使からの文書、大鳥からの小村とイギリス公使間の話し合いの進捗と清国の態度照会、天津の荒川領事からのロシア公使等の動きについて等、多種にわたる史料の回ですが、そんなに重要な話では無いっすね。


日清戦争開戦まで(百)

記念すべき連載100回目。
日本が撤兵しなければ、交渉に入らないという宣言をして、イギリスの努力とか台無しにしちゃう清国。
つうか、交渉拒否ったら困るのどっちよ?と。(笑) 一方で、結構強烈な圧力かけてたロシアからは、日本の回答に満足するとの返事。
ハシゴ外すの好きだよねぇ、ロシア。(笑)


日清戦争開戦まで(百一)

大鳥から、内政改革の勧告が拒否された場合について、日本の執るべき手段についての照会があります。
この時に、一部で噂の王宮の「包囲」に関する話が、始めて出てきます。
まぁ、7月10日に出されても7月17日まで届かない文書なわけですが。


日清戦争開戦まで(百二)

イギリス公使に対して、清国の非融和的態度に対する遺憾表明。
本野から受け取った大鳥のメッセージに関する件。
京釜間電信線に関する件。
清国の態度変更に関する報告の4件。
いづれも、短いながら結構重要。


日清戦争開戦まで(百三)

清国から、撤兵しなきゃ交渉しねぇという宣言に対する回答要求が。
いや、交渉しないならしないで良いし。(笑)
後は、アメリカ政府の態度についてと、芝罘の状況について。


日清戦争開戦まで(百四)

京城の内田領事から大鳥への、荻原警部らによる東学党の乱が起きた各地方の視察復命報告について。
流石に全州は被害大きかった模様。
でも、被災者支援とかも無い模様。(笑)


日清戦争開戦まで(百五)

荻原警部の復命書の続き。
金溝以外の場所では、東学党の乱による直接的被災は、それほど無かった模様。
まぁ、金銭や物資についてどうなのかは分かりませんが。


つか、清国の「外交」って、「外交」になってないよねぇ・・・。(笑)



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今日は前置き無しで。

前回は、在京城二等領事内田定槌から大鳥への1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』の別紙復命書で、荻原等が全州を訪れて色々と聞き込んだ後、泰仁に向かおうとして馬が雇えなかったってとこまででした。
今日はその続き。
んでは早速。

何にせよ致方なきに付轎夫を雇ひ、27日全州を発し同日泰仁に着し、直に府使に面し目下暴徒の状況等を尋ねたるに、当地にありては現時何等の異状あることなし。
長城及古阜には、数百群をなし強盗を働くものありと云ふことなり。
確実と認むべき説なかりし。
此地は一旦東徒の占領せし地なれば、其被害も如何あらんと考へ居りしが、民家及官庁等一も破損するものなく、且又東徒通過の際に当り彼等は何等の暴行をなしたることなし。
故に之とて損害を被らずと云ふ。
まぁ、何にしても馬が居ないんじゃ仕方ないんで、駕籠屋を雇って6月27日に全州を出発。
同27日に泰仁に到着し、すぐに府使に面会して現在の暴徒の状況を尋ねると、泰仁では現在なんの異状もない。
長城や古阜では、数百人の集団で強盗を働く者がいるっつうことだけど、確実と認められるような説は無い、と。

で、泰仁は一回東学党に占領された場所なので、その被害もどれほどになるんだろうって考えてたけど、民家や官庁など破損しているものは無く、東学党の通過の際にも彼らは何の暴行もはたらかなかった。
ってことで、これといった被害は無かったよ、と。

泰仁とかって、結構東学党の乱の連載の時に出てきたんですが、被害ほとんど無かったんですねぇ。

んじゃ、続き。

其次日は、此地より長城に赴かんとせしが、先にも全州にて泰仁地方は彼是危険ありとの話なりしに、一切其事実を認めざるが故に、又々長城に赴くも此の類ならんと察し、転じて古阜に赴きたる。
28日なりし。
此地は、今般民擾に最も関係ある地なれば、多少面白き事実を発見し得らるべしと、予て楽み居りたり。
泰仁より古阜に到るの途中は、山中にて6、7名の訝しき者に出会たると、民家の放火せられたるもの6、7軒とを見受けたるのみ。
之れは、村民が官府の脚夫共に飮食物を供したるを憤り、東徒の放火せしものなりと云ふ。
古阜に着するや民乱の原因を尋たるに、矢張前任府使が収税の酷なりしに原因し、或は府使に歎願し或は監司にも哀訴したるも一々其望を達せず、反て譴責せられたり。
然れども、此儘に打過ぎんが到底生活に途なく、互に謀議を凝せし中、茂長に於て東徒の一揆起り、東学党と称し各地を橫行し、不平の徒、若くは東学の名に惑ひ入党したるもの、又は各地に盜賊を業とするの輩附従し、遂に相互力を合すこととなり、全州迄も践入る勢に至りたりしも、目下已に其の苦情も消へ、各其業に就き何たる異状あるなしとの事なりし。
同地にて昼飯を喫し、夫より扶安に赴く途中に於て、只今東徒の残党鉄砲を持し扶安に向て行きたりとの話を聞き、轎夫馬夫等の躊躇するを叱して急ぎ追跡し、彼等に出会ひ詳細の話を聞取らんとせしに、遂に其踪跡を得ず空しく扶安に着したり。
同地にも一時は彼徒の入込たることあり、村民は多少其の害を被り或は入党したる事あるも、之迚て重々しき事にもあらずと云ふ。
全州にて敗北したる輩も、当時帰村各其の業に就き居るものあれども、総て遠隔地に在りとの事にて直接面談する事を得ざりし。
同地にて聞けば、全州陥るや扶安の橫道を通過し、何れにか逃げ行きたるもの数百名。
之れは多分淳昌に行き、当時其地に屯集すと云ふ説なりと。
同地に1泊。
翌6月28日には、泰仁から長城に行こうとしたけど、この前も全州で泰仁地方は色々危険だって聞いてたのに、一切その事実が無いので、長城に行くのも似たような結果になりそうだと察して、古阜に行く事に決定。

勿論、古阜ってのは今回の東学党の乱の起点地であり、多少面白い事実を発見できるんじゃないかと、予め楽しみにしてた、と。
んー、どういう「事実」だと「面白い」とか「楽しい」なんだろう?
つうか、お前は俺かよ。(笑)

泰仁から古阜に向かう途中、山中で6~7人の怪しい者に出会ったのと、放火された民家6~7軒を見ただけ。
この民家は、村民が官庁の運搬人等に飲食物を供した事を憤り、東学党が放火したものだという、と。

で、古阜に着いて直ぐ民乱の原因を尋ねると、やっぱり前任の府使の収税が酷い事に起因し、府使に歎願したり監司にも哀訴しても、その望みを達せられないばかりか、返って譴責された、と。
つうか、府使じゃなくて郡守の趙秉甲じゃないの???

兎も角、譴責されたっつっても、このまんま過ぎてけば到底生きていく方法も無く、お互いに謀議を凝らしている中で、茂長で東学党の一揆が起こり、東学党と名乗って各地を横行し、不平の徒や、東学の名前に惑わされて入った者や、各地の盗賊なんかが付従して、遂にお互いに力を合わせることになって、全州まで攻め入るような勢力となったけど、現在は既にその苦情も消え、各自がそれぞれの仕事に戻って異状なしって事だった、と。

古阜で昼飯喰った後、扶安に向かう途中で、東学党の残党が鉄砲を持って扶安に向かったという話を聞き、駕籠屋や馬夫がビビリ入ってんのを叱咤して、急いで追跡し、彼らと会って詳しい話を聞きたいと思ってたんだけど、最後までその痕跡を見つけられず、空しく扶安に着いた。

扶安にも一時は東学党の者が入り込んだ事があり、村民は多少その被害を受けたり、逆に東学党に入っちゃったりしたヤツもいるけど、そんな主たる動きじゃないという。

全州で敗北した連中も、当時村に帰ってきて仕事してる者もいるけど、総て遠隔地にいるって事で直接面談は出来なかった。
全州が陥落するや、扶安の横道を通過してどこかに逃げていった者が数百名おり、これらは多分淳昌に行き、当時そこに集結するという話だった、と。

ってことで、扶安に一泊。

29日、扶安より金堤に至りたりしが、同地にては格別東徒に入りたるものなく、最も静穏に打過ぎたりとのことにて、東徒全州より敗走の際は此地を経過せしと云ふ。
民家に至り飮食物を供給せしめ、扶安地方に向て出発したり。
其数凡そ6、700名ならんとの事なりし。
他に必要の事実を得ざる故、直ちに金溝に赴きたり。
金溝府使は不在中。
但、吏員一人も居らざりしに付き、村民に就き被害の状況を問ふに、初め各府縣に於ては東徒に対する厳ならず、或は優待の向もありし様子なりしが、金溝府使は部民中より壮丁を集め抗拒するの準備をなしたり。
然るに、東徒の勢遂に防ぎ難く、乱入せらるるに至り。
官庁も破られ、或は焼かれ、村中悉く逃避するに至りたり。
為に、農事等も一切手に付かず困難一方ならずとて、何れも菜色あらざるはなし。
夫より■■■■に宿泊す。
6月29日に扶安から金堤に到着したけど、金堤では特に東学党が入り込んだ様子もなく、最も静穏に通り過ぎた場所、と。
全州から敗走した際には、約6~700名が金堤を通過し、民家に来て飲食物を出させ、扶安地方に向て出発したらしい。

ってことで、特に他に必要な事も無いって事で、荻原一行はそのまま金溝へ。

金溝の府使は不在。
官吏も一人もいない。
で、村民に被害状況を尋ねると、最初は各府県では東学党に対して厳しくなかったり、あるいは優待する気配もあったんだけど、金溝府使は抗戦を決意。
部民の中から成年男子を集めた、と。

ところが、東学党の勢いが強すぎて乱入され、官庁も壊されたり焼かれたりで、村中が非難する有様に。
そのため、農業も手につかず非常に困ってるってことで、みんな顔色が青い状態、と。

訓練されてたり、武器が揃ってればまた違ったかも知れないけどねぇ。
単なる民兵じゃ・・・。(笑)


ってことで、まだ続くんですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一) 日清戦争開戦まで(百一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(五十二) 日清戦争開戦まで(百二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三) 日清戦争開戦まで(百三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(五十四) 日清戦争開戦まで(百四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(五十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(六十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(六十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(六十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(六十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(六十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(六十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(六十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(六十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(六十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(六十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(七十)
日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
日清戦争開戦まで(二十三) 日清戦争開戦まで(七十三)
日清戦争開戦まで(二十四) 日清戦争開戦まで(七十四)
日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
日清戦争開戦まで(二十七) 日清戦争開戦まで(七十七)
日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(八十二)
日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
日清戦争開戦まで(三十六) 日清戦争開戦まで(八十六)
日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
日清戦争開戦まで(三十八) 日清戦争開戦まで(八十八)
日清戦争開戦まで(三十九) 日清戦争開戦まで(八十九)
日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)


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さて。
前回の予告どおり、今日からは7月11日の史料に入って行きます。

まず最初は、『駐韓日本公使館記録2』から。
在京城二等領事内田定槌から大鳥への、1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』より。

曩きに当国南部民乱地方状況視察の為め、当館より派遣致候荻原警部の一行は、本月4日を以て当地へ帰着し、別紙の通り警部より復命書を差出候。
其要領は、同警部一行の巡廻たる地方は、今回民乱の起りたる重なる場所、即ち全州、泰仁、古阜、扶安、金堤、金溝にして、其内全州及び金溝の外は乱民の為め格別惨状に陥りたる模様無之、今日に在ては人民各其堵に安じ、再び地方官の虐政に遇ふにあらざれば俄に暴発するの患無之趣に御座候。
尚、詳細は別紙御一覧の上御承知有之度、此段申進候。
敬具
以前、朝鮮南部の民乱の起きた地方の状況視察のため、京城領事館から派遣していた荻原警部の一行が、7月4日に京城に帰ってきて別紙のとおり復命書を提出した。

えーっと。
2月20日のエントリーの1894年(明治27年)6月20日付『第53号』で、荻原他1名に対する旅行券と公文の要求があり、朝鮮側からオッケーが出てましたが、その関係ですね。

視察箇所は、東学党の乱の起きた主要地方である全州、泰仁、古阜、扶安、金堤、金溝であり、そのうちの全州と金溝を除いては、乱民のせいで特別惨状に陥った様子もなく、現在では人民も落ち着いて、再び地方官の虐政にあわなければ突然暴発するような事も無い雰囲気だ、と。
じゃあ、全州と金溝はどうなんだろう?

ってことで、別紙の方を見ていきたいと思います。
1894年(明治27年)7月9日付の荻原秀次郎の復命書より。
非常に長いので、分割しながら見ていきます。

別紙

民乱地方視察復命書

全羅道全州地方民擾地実況視察として、6月21日京城出発。
同地方に赴き、全州には6月25日を以て着するに至りたり。
此際に在りては、一旦東徒の有に帰したる全州城も、官兵恢復後20有余日を経過し、招討使も亦京に帰りたるの後にてありし。
発程後、行旅者の話にて往々全州の惨状を耳にし、其現場を視察するに当り尚一層の感を起したり。
同州は、田舎には稀なる繁華の地にて、其戸数7、8千位あるべしと思はるべき土地なり。
特に、財産家の多数なる此地方に有名なる場処なりとの事なりしが、今や全く其趣を異にし、西大門外等兵燹に罹り、財産は烏有に帰し、妻子は離散し、各自焼跡に悄々佇立結然として後図を計画しつつあるの有様は、実に気の毒と云ふのほかなきなり。
聞く招討使は官兵を率ひ全州にあり、可成丈非常手段を用ひざるの決意ありし如く、即ち招討の事実を行はんとしたるには相違なかりしと云ふ事なり。
然るに、一時猖獗を極めたる東徒、若くは平素地方官の苛政に苦み居りし不平党、何時かは官人を苦めんと思ひ居るときなりしかば、素手にても握殺さんとの勢を以て遂に官と一戦勝負を決せんとしたる事なり。
已に中々官兵も万勝を期し難く、巨砲を撃ち、敢て良民の財産を害損するの止むを得ざる策に出でたりと云ふ(其損害の状況等は、已に内報巡査復命筆記にあれば略す)。
当時にありて或は万貫文の支出、3里以内の伐木を自由にし、以て救助の方法を行ひ居るとの説あれども、已に20余日を過ぎし時に当り、未だ罹災者が一人だも再建築等に着手し居らず。
東徒の全州に集りたるものは、或は万を以て数ふるものあれども、戦死者は実際2、300に過ぎざるべく、其他逃走せる者6、700名なりとの事なるは、都合1,000名位なるべしと思はる。
全州にて監司金鶴鎮に面し善後策等を尋ねたるに、同氏は目下之とて救助するの途なく、只各自其業に安んぜよとの諭達し居るのみと最も冷酷に説き去り、敢て部民を保護すべき点には掛念なきものの如し。
26日は全州に滞在。
夫より泰仁に赴かんとして行先地の模様を尋たるに、風説によれば、近時東徒の余類各地に屯集し強盗等を働き居り、已に昨日も泰仁に於て彼等に殺害せられたるものあり。
支那人4名は之を見て急ぎ帰りたり。
可成は危険を避けられよとの注意を受けたり。
依て我々は、夫等の実際を目撃するこそ望む処なれば、是非に明日は出発すべしとて立帰り、翌朝出発の用意に取掛りたるも、乗馬は雇入るる事能はず。
之れは、我々と同時に20名の清兵全州に入りたる為に、総ての飼馬を専領せし為ならんと考へたり。
先ほど、2月20日のエントリーのエントリーで6月20日にオッケー出てた話はしましたが、その出発は翌21日だったようで。
ってことで、東学党の乱の実地視察として6月21日に京城出発。
全州には6月25日に到着、と。

1度は東学党に占拠された全州城も、官側が奪還してから20日以上経過し、招討使も京城に帰って行った後。
出発後は、旅行者からしばしば全州の惨状を聞き、その現場を視察するにあたって、・・・「尚一層の感」ってのは緊張が高まってたって事かな?

んで、全州は田舎には珍しく賑わった場所で、戸数は7~8,000くらいあると思われる場所。
特に、金持ちが多いって有名な場所って事だったけど、現在は全くその趣を変え、西大門等は兵火に焼かれ、財産は何も無くなり、妻子は離散し、それぞれ焼け跡でしょんぼりと佇んで今後を考えているのは、実に気の毒という他ない、と。

招討使が軍を率いて全州にいたけど、一昨年の12月12日のエントリーの1894年(明治27年)5月16日付『機密第52号』でもあったように、武力行使ではなく慰撫して帰順させるという決意があったようで、「招討」という文字通りの努力をしようとした事には違いない。

でも、一時猛威を振るった東学党や、普段地方官の苛政に苦しんでいる不平党が、いつかは官吏を苦しめてやろうと思っていた時であり、素手でも握り殺してやるぐらいの勢いだったんで、遂には官軍と一戦して勝負を決しようとしたらしい。
既に官軍も全勝するのが難しく、大砲を撃って、あえて一般市民の財産に損害を与えるのもやむを得ない作戦に出たという、と。

で、当時は万貫文の支出をするとか、3里以内の木材伐採を自由にして、罹災者救援を行うという噂もあったけど、既に20日以上経過しているのに、未だに罹災者は一人も再建等には着手していない。
んー、結局噂だけで援助は行われなかったのかな?
それとも、援助はあったけど罹災者の気力が無かったのかな?
いや、多分援助も気力も無かったっつうパターンだと思うけどさ。(笑)

東学党で全州に集まったのは、1万以上という者もいるけど、戦死者は2~300に過ぎないようで、その他に逃走した者が6~700人という事なんで、大体1,000人くらいの規模じゃね?と。
つうか、それが事実なら、1,000人くらいの民衆に城占拠されたりすんのか・・・。

全州の監司である金鶴鎮と面会して善後策等を尋ねると、金鶴鎮は現在はこれといって助ける方法もなく、ただ各自仕事汁!と諭達しただけで、民衆を保護するような考えは無いかのようだった。
うむ。
やはり。(笑)

6月26日はそのまま全州滞在。
そこから、泰仁に行こうと思って状況を尋ねると、噂では最近東学党の残党が集まって強盗等をしており、昨日も泰仁で殺された者がおり、支那人4名もそれを見て急いで帰ったんで、なるべくなら危険を避けた方良くね?と忠告を受けるわけです。

忠告を受けた荻原等は、そういうのが見たいんだよ、そういうのが、と。
いや、強盗に遭いたい訳じゃなくで、治安が未だに回復してないってのを知らせたかっただけだとは思うんですが。(笑)

そういうことで、是非明日は出発しようってことで、帰って翌朝の出発準備にかかったんだけど、馬は雇い入れる事ができなかった。
これは、荻原等と同時に20名の清国兵が全州入りしたため、総ての飼い馬を占有したせいだろうと思う、と。

昨年の2月18日のエントリーとかで、牛とか馬とか大豆とか人夫とか徴発されてましたね。
荻原の予想が正しかった場合、清国兵、使用料払ったのかなぁ・・・。


ってことで、途中ですが今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)


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私用で忙しかったので、1回飛ばしちゃいました。
あまり居ないと思う、更新を楽しみにしてくれている方、すいません。(笑)

さて、今日も英文史料から。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の56画像目左側。
前回同様、小村から陸奥への電信になります。
1894年(明治27年)7月10日発『電受第405号』より。

Mutsu
Tokio

At the conclusion of interview 七月九日 王大臣 authorized me to communicate to my Government their declaration concerning withdrawal of troops as the view of their own Government and asked me to acquaint them with reply of my Government without any delay.

Komura
7月9日の会談の結果、王大臣は彼ら自身の政府の見解として、撤兵に関する彼らの宣言を日本政府に伝える権限を私に与え、即刻日本の回答を彼らに伝えるよう求めた、と。

おお。
凄ぇ一方的。(笑)
俺だったらこれで交渉決裂な感じですなぁ。

続いてはアメリカの情報。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/3 明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日(レファレンスコード:B03050308300)』より。
9画像目。
在アメリカ公使の建野郷三から陸奥への、1894年(明治27年)7月10日発『電受第410号』。

Mutsu,
Tokio

On every occasion possible, I have explained to Secretary of State Japan's attitude towards Corea as stated in your telegrams, but he has got an impression from other sources that Japan’s actions directly interfere with Corean independence.
This was reason for telegram of 七月七日 sent to 在日本米公使.
Secretary of State said that arbitration would be best method for the settlement of differences between Japan and China.
I did not admit the state of affairs called for arbitration but I believe the President would consent to arbitrate if requested.

在米公使
この電文、何故か『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の29画像目に同じものがありまして。
日付が7月11日発なんですが、30画像目の訳文を見るに10日発となっているので、恐らく同一電文でしょう。
ってことで、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の30画像目から、訳文も起こしておくことにします。

本使は、機会ある毎に国務大臣に向ひ、朝鮮に対する日本国の意嚮は、貴電にて御垂示の如くなる旨縷陳したれども、同大臣は他の筋より聞込たることありと見へ、日本国の行為は直接に朝鮮国の独立に干渉するものなりとの感を抱き居れり。
之れ、7月7日附を以て同大臣より在日本米公使へ電信を送りたる所以なり。
同大臣は、日清の紛議を結了するに、之れを仲裁裁判に付すること最も得策ならんと云はれたるなり。
然れども本使は、現今の状況未だ仲裁を要するものと認めざる旨申入れ置きたれども、大統領に於ては請求次第仲裁の労を執ることを承諾さるるならんと信ず。
建野は機会があるごとにアメリカ国務大臣に向かって、朝鮮に対する日本の意向は陸奥の言ってたような事だって言ってるんだけど、国務大臣は他の筋からも何か聞いてるらしくて、日本の行為が朝鮮の独立に干渉するものだという感想を抱いている、と。
「日本の行為」って、どっからどこまでの部分なんだろ?

で、若干日付が違うようですが、恐らくそれが10月10日のエントリーでやった在日本アメリカ公使のダンによる申し入れの関係で、グレシアムからダンに電信が送られた理由だ、と。

アメリカ国務大臣は、日清の紛議を終わらせるためには、仲裁裁判に付する事が最も得策だろうと言ったので、建野は今の状況はまだ仲裁は必要ではないと言っておいたけど、アメリカ大統領は請求があり次第、仲裁の労を執ることを承諾するだろうと信じる。

常設の仲裁裁判所は、この後にオランダのハーグに出来るわけですが、この頃ってどんな形で開かれてたんだろ?

さて、次は『駐韓日本公使館記録2』を見ていくことにします。
まずは、芝罘の伊集院領事から大鳥公使への1894年(明治27年)7月10日付『機密第3号』より。

爾来其向へ探偵方無怠注意致居候処、本月5日夜、威海衛より稍々可信探聞に接し、同衛には目下石炭其他軍器等最も軍備を戒厳し、前に朝鮮への派出軍艦は本月2、3両日に於て帰衛。
又、修繕中なりし致遠は本月同2日修繕を了り、水雷2隻を率ひ同衛に入口したり(当時済遠も了修帰衛之筈に有之候)。
現に碇泊中大小艦11隻は、本月7日迄に戦闘の準備可致旨命令有之候由にて用意中之趣に付、右は必用と認め翌朝早速別紙の通電報差立候も、電報は不通なりとて差回し候。
又、東京北京には同様及電報候処、翌之8日に至り済南府総局より不通の旨申来れりとて同原案返し来り候始末なり。
尤も、其後何たる模様も不相見惟待命之由に有之候。
右及御報告候也。
探り入れるのを怠らないようにしていたら、7月5日の夜に威海衛からやや信ずべき情報を受けた、と。
んで、威海衛では現在石炭や武器等の軍備を厳重にし、以前朝鮮に派遣されていた軍艦も7月2~3日中に帰って来てる。
また、修理中だった致遠も7月2日に修理を終え、水雷艇2隻を率いて威海衛入り。
済遠も修理終わったら威海衛に来る筈、と。

んで、現在停泊中の清国艦11隻が、7月7日までに戦闘準備をするように命令があり、その準備中らしいので、必要な情報だと思い8日朝に別紙のとおり電報したけど、電報は不通ってことで差し戻された。
東京と北京にも同様の電報をしておいた所、8日になって済南府総局から不通ってことで、原案を返してくる始末だ、と。
んー。
電報不通って、嘘くせぇ。(笑)

ただ、その後は出発の様子は見えず、命令待ちって事らしいよ、と。

残念ながら別紙については記載なし。


ってところで、ちょっと早めですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一) 日清戦争開戦まで(百一)
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日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
日清戦争開戦まで(二十三) 日清戦争開戦まで(七十三)
日清戦争開戦まで(二十四) 日清戦争開戦まで(七十四)
日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
日清戦争開戦まで(二十七) 日清戦争開戦まで(七十七)
日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(八十二)
日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
日清戦争開戦まで(三十六) 日清戦争開戦まで(八十六)
日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
日清戦争開戦まで(三十八) 日清戦争開戦まで(八十八)
日清戦争開戦まで(三十九) 日清戦争開戦まで(八十九)
日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



今日も前置き無しで、英文史料から見ていきましょうかね。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』から。
54画像目左側。
陸奥から小村への、1894年(明治27年)7月10日発『電送第312号』。

Komura,
Peking.

1) Received your telegram of 七月九日.
Communicate to British Minister to China the sense of high appreciation for his exertion and tell him it is much to be regretted that the state of affairs in Corea should continue as it was on account of non conciliatory spirit of Chinese Government.

Mutsu.
貴下の7月9日付けの電信、つまり今日の冒頭でやった、1894年(明治27年)7月9日発『電受第395号』は受け取った。

在清イギリス公使の骨折りに対する大いなる感謝の意と、清国の非融和的精神のため朝鮮の状勢が継続するだろう事を、大変遺憾に思っていると伝えろ、と。
布石、布石。(笑)

続いては、『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』の48画像目。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)7月10日発『電送第313号』より。

Otori,
Seoul.

(34) Messages by Motono fully understood.
There is little hope arriving at any understanding at Peking.
Consequently do you utmost to raise reform party among Coreans to cooperate in your efforts.
Meanwhile endeavour to secure all possible material advantages such as railways, telegraphs etc.
Further instructions will follow after cabinet decision 七月十一日.

Mutsu
9月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月3日発『電受第360号』で、本野の東京着は7月8日朝って話だったわけですが、大体予想通り着いたっぽいですね。

で、その本野からのメッセージは十分理解した。
8月29日のエントリーの1894年(明治27年)7月2日発『電受第359号』で、「懸案となっている私の意見を知らせるため、本野参事官と福島中佐が派遣されるだろう。」とか言ってましたからねぇ。

北京では、何らかの合意に達する望みはほんどない。
従って、貴下の行動に協調する改革派を集めるよう、全力を尽くせ。
それまでの間、例えば鉄道や電信などの、可能な総ての実体的利益を確保すること、と。

9月29日のエントリーの1894年(明治27年)7月8日発『電送第307号』でも言われてましたね。
交渉前に確保した利益は保持される可能性が高いからって。

追加の指示は、7月11日の閣議決定後に送られるはず、かな?

続いては、ちょっと戻って46画像目。
大鳥から陸奥への1894年(明治27年)7月10日発『電受第399号』より。
訳文もついてますので、続けて見ていきます。

Mutsu
Tokio

(21) 督弁交渉通商事務 gave decided refusal to our proposal in regard to repair or the construction of 京城 釜山 telegraph line, insisting that these works belong to sovereign right, cannot allow any foreign country to do them.
It now remains to take recourse to your instruction 機密第二十五号信 dated 六月二十一日 third clause.
I will begin on favourable opportunity.

Otori


電信訳文

京城・釜山間の電線を修繕し、又は新築することに関する我提議に対し、督辨交渉通商事務は断然之を拒絶し、此等の工事、一国の主権に属し、外国をして之を為さしむること能はずと主張せり。
依て此上は、本使に於ては6月21日附機密第25号貴大臣の訓令第3項に依り之に処するの外致方なし。
本使は、好機に投じて之に着手すべし。
電信線の修繕又は新築に関する話は3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日付『機密送第25号』を始め何度か出てきたわけですが、その提議に対して、こういった工事は1国の主権に属する問題で、外国にそれを行わせることは出来ないとして、督辨交渉通商事務は拒否してきた、と。
つうか、清国は「外国」じゃないのかよ。(笑)

兎も角そういう事で、大鳥としては3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日付『機密送第25号』の第3項で対処する他無くなった、と。
第3項ってのは、朝鮮政府で電信線を修復するか、その返事を引き延ばした場合には、日本軍で電信線引いてそれを朝鮮政府に通知するって部分で良いのかな?

で、大鳥は良い機会を捕らえてそれに着手する、と。
20日くらい経ってるのに、まだこの段階か・・・。

続いては、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の56画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)7月10日発『電受第404号』より。

Mutsu,
Tokio.

During the interview 七月九日 I was strongly impressed that 王大臣 changed their attitude since the previous interview, that they expected fear of Russian interference would induce Japanese Government to withdraw troops immediately and that they had no idea as to what they should propose after their withdrawal.
I saw British Minister twice my last telegram.
He says that 王大臣 having changed their attitude he cannot do otherwise than to wait till asked by them to discuss the question again.
I will try to ascertain cause of the change.

Komura
7月9日の会談の中で、王大臣が前回会談をして以降、態度を変えたという印象を強く受けた。
彼等は日本政府がロシアの干渉を恐れ、直ちに撤兵するを予期し、撤兵後に彼等が提案しなければならない事については、何の見解も無いようだ。

要するに、ロシアの圧力に日本が屈するだろう。
それで、この一件お終い。
と考えてるらしいってことですな。

いや、もう日本は拒否済みなんですがね。(笑)

で、小村は最後の電信以降2度イギリス公使に会った。
イギリス公使は、王大臣が彼等の態度を変えたため、彼等が再びこの問題を協議しようと要請するまで待たなければ、協議できないと言ってる、と。
イギリス公使も困ってるし。(笑)

で、小村は態度の変化の原因を突き止めてみる、と。


ってところで、今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



今日は前置きなしで早速。

『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/3 明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日(レファレンスコード:B03050308300)』の32画像目から見ていきます。
大鳥から陸奥への1894年(明治27年)7月10日付、7月17日接受の『機密第122号 本71』より。

朝鮮内政改革の勧告拒絶せられたる時、我が執るべき手段に付伺

朝鮮政府に向て内政改革案提出の顛末は、既に機密第121号信に詳陳致候通りに有之候処、当政府の内情を探偵するに、国王には大分改革に傾意せらるると雖も、先般来李鴻章の内意を受けたる電信天津より続達し、袁世凱又之に附和して恐嚇し居るが為め、守旧即ち事大派の気焔を一層強めたれば、彼等は我に向て外面改革を口にするも、其実行は到底見込無之候。
彼等の胸算は、一時我が鋭鋒を避け、我勧告に応ずるが如き顔色を装ふて時日を送り、其間に李鴻章及び各国公使に依頼して我駐在兵を撤退せしめんとの考案に可有之と被推察候。
就ては、我より尋常手段にて之に当るときは、必然彼等の術中に陥り可申掛念有之候に付、此際断乎たる処置に出て後害を残さざる様注意するを緊要の義と存候。
就ては、朝鮮政府に於て断然我勧告を拒絶するか、若くは遷延して可否決答を為さざるか、又は表面我勧告を容れて之を実行せざる場合に於ては、総て我勧告を拒絶したるものと見做し、本官は左記両案の内必其一を執り、直接又は間接に改革の必行を促し度と存じ候。

(甲) 朝鮮政府より陽に或は陰に拒絶を受けたる時は、我より「朝鮮政府は内政不整頓なるが為め、屡々変乱を挑発し、或は外援を招くに至り、実に我国に向て危険を与へり。我国は、政事及貿易上朝鮮との関係甚だ深きが故、自衛の為め朝鮮内政の改革を促し、変乱の根源を絶たざるべからず」と云ふ事を辞柄と為し、兵威を以て之に迫り、其必行を促すべし。
但し、兵威を以て之に迫るの手段は、我護衛兵を派して漢城の諸門を堅め、且つ王宮の諸門を守り、彼等が承服する迄手詰の談判に及ぶべし。

(乙) 朝鮮政府若し陽に或は陰に我勧告を拒絶したる時は、我は先づ公文を以て「朝鮮政府の拒絶は全く東洋の大局を顧みず、我国と相提携して共に富強を図るに意なきを表示したるものなれば、我国は遺憾ながら本国の利益を保護する手段を執らざるべからず」との決意を申送り、之と同時に左の要求を為すべし。

一.日朝条約中、「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」の主義を推拡して、従来清韓間に有せし宗属の関係を悉皆革除せしむること(但し、清韓間宗属の問題は、我より提出すべからざる旨御電訓にて承知致居り候へども、朝鮮に向て之を提出するは強て差支有之間敷と存候)。

二.最恵国条款に依りて、支那政府及人民に許与したる権利特典(就中朝鮮国内に於て朝鮮人民を裁判する権利、并電信架設等)を我に要求すること。
右2ヶ条の実行を保証する迄、我は兵を派して漢城并王宮諸門を守るべし。
但し、両国交渉事件の未決にするものは、通常談判として別に提出するを可とす。
何となれば、此際提出するものは強迫の材料に供する迄なれば、若し朝鮮政府が敢て改革を妥行するときは、必ずしも提出に及ばざるものなればなり。

已上甲乙両案とも聊か例外に在りと雖も、此際斯る例外の処断に出でざるときは、好結果を収むべき見込無之候。
尤も、其内甲案は、改革の目的を貫徹する方に取りては都合善しと雖も、余り例外に奔馳したりとの譏責を免れざるべく、乙案は我に一応の口実ありと雖も、要するに改革の目的の相齟齬するを以て、我挙動は始終相貫徹せざる嫌有之候。
乍去、是亦改革を力迫する一手段に過ぎざれば、寧ろ譏責の軽き乙案に従ふ方可然やとも被考候。
右は、目前に差迫り候事件に付、本信御落手次第何分之御電訓有之候様致度、此段至急伺出候也。
10月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月9日付け7月17日接受の『機密第121号 本70号』等で見られるように、朝鮮に対して内政改革案が提出されたわけですが、それが拒否された時の対応についての伺い。

ってことで内政改革案を提出したけど、朝鮮政府の内情を探ると、高宗はかなり改革に傾いてるけど、この前から李鴻章の内々の意向を受けた電信が天津から続々と届き、袁世凱もそれに同調して恐喝してるので、守旧派即ち事大派が勢力を増しているので、彼らは日本に向かっては表向き改革を口にしても、その実行は到底見込みが無い、と。

国王には大分改革に傾意せらるる」。
これ、かなりくせ者。
高宗って、対日本に限らず、誰かに何か言われたら取りあえず「うん」って言うヤツだから。(笑)
押しが弱いだけなのか、主体性が無くてフラフラしてるだけなのかは知らんが。

で、守旧派・事大派の胸算用は、一時的に日本の矛先を避けるために、日本の勧告に応じるふりをしておいて、その間に李鴻章や各国の公使に依頼して日本の駐在兵を撤退させようという考えだろう、と。
まぁ、開国以来からのいつもの手。

ってことで、日本が普通の手段で対処しようとすれば、必然的に守旧派・事大派の術中にはまる事が懸念されるので、この際断固とした処置に出て、後に害が残らないように注意する事が緊要だと思う。
つうか、改革やりたくないなら勝手にしろって、放置できる場所だったら良かったのにねぇ・・・。

そんなわけで、朝鮮政府が断然日本の勧告を拒否するか、もしくは回答の引き延ばしを図るか、表面上日本の勧告を受け入れて実行しない場合、総て日本の勧告を拒否したものと見なして、以下の甲・乙いづれかの案のうち必ず一方を執り、直接的または間接的に改革を必ず実行する事を促したい、と。
割と大きなお世話。
つうか、朝鮮に夢見すぎ。(笑)

で、勧告拒否されたときに執る方策のうち、まずは甲案。

朝鮮政府によって明確にでも実質的にでも拒絶された場合、
「朝鮮政府は内政不整頓のためにしばしば変乱を起こし、あるいは外国の援兵を招くことになり、日本に向かって危険を与えた。
日本は政治や貿易上、朝鮮との関係が非常に深いことから、自衛のために朝鮮内政の改革を促し、変乱の根源を絶たなければならない。」
という口実により、武威によって朝鮮に迫り、改革を必ず実行させる。

ただし、武威で改革を迫る手段としては、日本の護衛兵を派遣して京城の諸門を固め、かつ王宮の諸門を守って、朝鮮政府が応じるまで猶予を与えず厳しく詰め寄る、と。
この辺が、王宮占拠事件につながっていく話。
まぁ、「包囲」じゃなくて「占拠」自体が計画だったなんて言ってる人も居ますが。(笑)

一方の乙案。
同じく勧告を拒絶されたら、まず公文によって、
「朝鮮政府の拒絶は、全く東洋の大局を顧みておらず、日本とお互いに提携して共に富強を図る意志が無い事を表したものなので、日本は遺憾ながら日本の利益を保護する手段を執らざるを得ない」
という決意を述べ、同時に次の要求をする。

第一に、日朝修好条規第1条中の「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」という主義を拡大し、清国と朝鮮間の宗属関係を総て清算するっつう要求。

ただ、8月15日のエントリーの1894年(明治27年)7月1日発『電送第270号』で、「日本の提議にして独立及び擾乱の予防を基礎となし、属邦論は之を度外に置くときは、清国政府に於て之を受理するの意嚮ありといへり。右の事情なるが故に、本問題を挙げて、或は直接に各国政府との間に容易ならざる外交上の葛藤となるも計られず。」とか言われてたけど、朝鮮に向かって言うんなら特に問題無いっしょ、と。

第二に、最恵国条款によって、清国政府や清国人に与えている権利・特典(朝鮮国内で朝鮮人を裁判する権利や電信架設等)を日本の要求すること。

その第1及び第2の要求の実行を保証するまで、京城や王宮の門を守るっていう名目での強迫的手法については、甲案の方と手法的に同じ。

ただし、日朝の交渉事件で未決のものは、通常の談判として別途提出することでオッケー、と。
なぜならば、この時に提出する要求ってのは、強迫の材料にするためだけのものなんで、もし朝鮮政府が改革を行うなら、必ずしも提出する必要がないからだ。

この甲案・乙案は両方とも多少例外的な事項だけど、このような例外の処断を行わなければ、良い結果を収められる見込みがない。
ただ、甲案は改革の目的を貫徹するためには都合が良いけど、あまりに例外に走りすぎてる気がするし、乙案は日本に一応の口実があるけど、改革っていう目的からは齟齬する。
しかし、これも改革を迫る一手段に過ぎないんだから、寧ろ責められる可能性の少ない乙案の方が良いんじゃないかと思う。

これは、目前に差し迫った事件のため、この書簡が着いたら直ぐ何らかの電訓よこせ、と。

つうか、いつから目的が「改革」になったんだよ!(笑)


ってところで、一つしか史料やってませんが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(五十九)
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日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
日清戦争開戦まで(二十三) 日清戦争開戦まで(七十三)
日清戦争開戦まで(二十四) 日清戦争開戦まで(七十四)
日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
日清戦争開戦まで(二十七) 日清戦争開戦まで(七十七)
日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(八十二)
日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
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日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
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日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



連載100回目だよー。
東学党の乱から通算すると214回。
俺、馬鹿じゃないのかと思う事がたまにある。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』から見てきたいと思います。
54画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電受第395号』より。

Mutsu
Tokio

At an interview 七月九日 総理衙門王大臣 declared that Chinese Government would not enter into negotiation until Japan withdrew her troops from Corea because Tientsin Convention required immediate withdrawal of troops on the suppression of disturbance and if China and Japan detained troops there was danger that other powers might claim right to do the same.
The effort of British Minister and myself has failed to induce them to make further proposals.

Komura
7月9日の会談に於いて、総理衙門王大臣は、日本が軍隊を朝鮮から撤兵するまで、清国政府は交渉に入らないと宣言した。
天津条約は、騒擾の鎮圧による早急な撤兵を要求しており、もし清国と日本が軍隊を駐留させれば、他の列強も同様の事をする権利を主張するかも知れない危険があるためである。
さらなる提案を行うよう彼らに勧めるイギリス公使と私の尽力は、失敗に終わった、と。

9月15日のエントリーの1894年(明治27年)7月5日発『電送第299号』で、協議が始まったとしても日本の提案を拒否った事を根拠に、清国の提案を拒否って聞くだけにしろっつう訓令も出てましたが、それ以前の問題に。(笑)

suppression of disturbance」の解釈に関して、見解の相違があるにも拘わらず、一方的な撤兵要求って。
イギリスの努力とか、台無し。(笑)

つうかね。
日本は良いんだよ、別に。
朝鮮の内政改革、単独で進めるだけだから。(笑)

で、次で7月9日の史料は最後です。
多分。

『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』より。
29画像目が英文、30画像目が訳文になってますので、一緒に見ていきましょう。
ロシアの西公使から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電送第396号』より。

Mutsu
Tokio

Chief of the Asiatic Department has informed me that Russian Government are satisfied with your reply and sincerely desire our peaceful arrangement to be made with China as soon as possible.
Instructions will be sent to 在日本露公使 and Russian Minister to China in the above sense.

Nissi


亜細亜局長本使に告げて曰く、露国政府は貴大臣の回答に満足し、可成速に清国と平和の取極めあらん事を冀望せり。
在日本露国公使及在清国露国公使へ、其旨を訓令に及べりと。(本文は特に秘密を要し候)
そのままですね。

ロシアのアジア局長が西に向かって、「ロシア政府は陸奥の回答に満足し、なるべく速やかに清国との平和の取り決めがなされる事を希望する。
在日本ロシア公使と在清国ロシア公使にその旨訓令した。」と述べた、と。

んー、ロシアがこの決定に至った背景って、どんなんだったんだろう?

さて。
次からは7月10日の史料に入ります。
まずは、軍用電信線に関する話題から。
『日清韓交渉事件ノ際二於ケル軍用電線架設関係雑件/1.軍用電信線架設ノ件(レファレンスコード:B07090434500)』の20画像目から。
陸軍の兵站総監川上操六から陸奥への、1894年(明治27年)7月10日付『発第10号』より。

今般京城・釜山間に架設せんとする電線は、当時完成の急速を要せし為め、其幾部分は朝鮮国用線を利用する目的を以て、大邱より迂回して清州に至る線路を採用し、之を両電線架設枝隊に訓令せしと雖も、目下の形勢に於ては必しも完成の急速を要せざるを以て、其迂回線を利用せむよりは、将来兵略上に公算多き路線、即ち兵站線路に適する道路に沿ふて架設するの有利なるに如かず。
因て、曩の計画を改め、釜山・大邱・尚州・忠州を経て京城に至る直線、俗に中路と称するものに沿ひ架設致す事に相成、別紙之通両枝隊司令官に訓令致候間、其旨大鳥公使へ御通示相成度、此段及御移牒候也。


第1電線架設枝隊司令官に与ふる訓令

一.京城・釜山間の電線架設に付、我邦と朝鮮国との協議調ひ架設に着手するに至らば、曩に与へし訓令に記載せる電線架設線路を左の如く変換すべし。
釜山・大邱・尚州を経て鳥嶺を越へ忠州に至り、此地に於て第2枝隊の線と連絡すべし。

二.釜山・大邱間に要する材料は追送す。
故に、携行せし材料は大邱・忠州間に使用すべし。


第2電線架設枝隊司令官に与ふる訓令

京城・釜山間の電線架設に付、我邦と朝鮮国との協議調ひ架設に着手するに至らば、曩に与へし訓令に記載せる電線架設線路を左の如く変換すべし。
京城より廣州を経て忠州に至り、此地に於て第1枝隊の線と連絡すべし。
之に要する材料の不足は、追送すべし。
曩に与へし訓令」ってのは、6月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月27日付『機密受第860号』に別紙として付いてた訓令かな?

その訓令では、釜山→大邱→星州→秋風嶺→清州っていう経路で電線を架設し、釜山・大邱間は「成るべく朝鮮国用在来の電線を利用し」だったわけですが、朝鮮の電線利用を止め、大鳥と朝鮮の協議が整い次第、釜山→大邱→尚州→鳥嶺→忠州→廣州→京城という経路で直線的に架設することにして、その変更に関する訓令をしたって話ですね。
で、各枝隊には、朝鮮の電線を利用するはずだった区間について、その材料を追加で送る、と。

つうか、「目下の形勢に於ては必しも完成の急速を要せざる」って、すぐにでも開戦するっていう緊張感からは遠のいたのかな。


ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(五十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(六十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(六十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(六十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(六十三)
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日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(六十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(六十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(六十七)
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日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(六十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(七十)
日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
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日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
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日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
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日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
日清戦争開戦まで(三十六) 日清戦争開戦まで(八十六)
日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
日清戦争開戦まで(三十八) 日清戦争開戦まで(八十八)
日清戦争開戦まで(三十九) 日清戦争開戦まで(八十九)
日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九)  日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)



月曜日の休日が増えたこともあって、土日とかあんまり考えずに、2日に1回更新ペースにしようかなと、うっすら考えているdreamtaleです。
ども。

さて、7月9日の史料の続きに入る前に、1件7月8日の史料で書き忘れてたのがありまして、今日はこれからやりたいと思います。
史料は、アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/2.仁川港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143600)』の25画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)7月8日発『電受第391号』。

Mutsu
Tokio

(20) Diplomatic Corps met 七月七日 at 統理衙門 by suggestions made by the British Consul General to discuss the question of placing 仁川 outside perils of military operations the discussion then has gone beyond proper sphere it was then moved to place all open ports and cities including 京城 and also way from 仁川 to 京城 in the same position.
I said that such motion cannot be decided without instructions and all have agreed to my views finally the resolution was carried to meet 七月十日 to discuss 仁川 only.
I shall not agree to the question unless following conditions accepted, 1st Japanese soldiers ammunition shall be freely shipped and landed at 仁川, 2d necessary Japanese soldiers shall be posted in the Japanese settlement, but they shall refrain from offensive action dangerous to safety of the port in general.

Otori
仁川を軍事作戦の危険の局外に置く問題を協議するため、イギリス総領事が提案したとおり、7月7日に統理衙門で外交団が会合した。
しかし、話し合いは元々の争点を逸脱し、開港場と京城を含む都市の総てと、仁川から京城への道路もまた同様の位置に置く提案がされた。
私は、そのような提案は訓令なしには決定できないと述べると、総ての者が私の意見に同意し、最後に7月10日に仁川についてだけ検討するために会合する決議が可決された。

私は、以下の条件が受諾されねば、その問題に同意しないだろう。
1.仁川での日本兵と弾薬の自由な船積みと陸揚げ。
2.日本人居留地内への必要な日本兵の配置。
しかし、港の安全を脅かす、攻撃的な行動は控えるだろう、と。

仁川港中立問題の話ですね。
つうか、「開港場と京城を含む都市の総て」を戦時局外中立だと、釜山とかにすら入港できなくなるという。(笑)

ってことで、忘れてた史料お終い。
7月9日に史料に、戻ります。

9月5日のエントリーでオーストラリアの臨時代理公使から日本の行動の主な理由と目的について照会があり、9月10日のエントリーで各国公使に経緯が説明されてましたが、その関係。
『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/10 明治27年6月29日から明治27年9月8日(レファレンスコード:B03030207000)』の19画像目。
9月5日のエントリーでは「佐藤(?)」って言ってましたけど、大山綱介でしたね。
オーストラリアの大山臨時代理公使から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日付『機密信第22号』より。

朝鮮に関する形勢問合せの件

墺国新聞紙は朝鮮に関し、日清両国の形勢危急切迫なる趣掲載致し候に付、本月3日別紙写甲号之通御問合せ致候処、去る6日別紙写乙号の通御回電被下、本件目下の状勢能く相分り致多謝候。
日清の葛藤に就き、欧米諸国は自己の利害に従ひ、政略上同意或は反対を表すべきこと勿論に候得共、我帝国は東洋に於ける開化の主動者と見認められ居候に付、政略上の反対者と雖ども我が活溌なる挙動には、内心賛成を表し居る義と愚考致候。
何卒朝鮮に於ける帝国の威権、倍々増進致候様祈居申候。
此旨申進候。
敬具
オーストラリアの新聞が、朝鮮に関して日清両国の形勢が危急切迫しているという記事を掲載したため、7月3日に別紙甲号で問い合わせたら、7月6日に別紙乙号の通り電報してくれて、状勢良く分かったよ。
サンキュー。

日清間の対立について、欧米諸国は自分の利害に従って、政略上の同意や反対するのは勿論だけど、日本は東洋の開化の主動者と見られてるわけだから、政略上の反対者でも日本の活発な挙動には、内心賛成してると思う、と。
何、そのウリナラマンセー。(笑)

で、朝鮮における日本の権威が増進するように祈ってる、と。
つうか、これ届くの約2ヶ月後の8月29日なんですが・・・。

文中の別紙甲号については、勿論9月5日のエントリーの1894年(明治27年)7月4日発『電受第367号』のこと。
別紙乙号の方は、電文番号が不明ですが、内容的には8月27日のエントリーの上海の大越領事に対する1894年(明治27年)7月2日発『電送第281号』と全く同内容ですね。
つうか、いつ送ったんだろ?

続いては、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』から。
28画像目右側。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電受第393号』より。

Mutsu,
Tokio.

How is the talk between 小村 and British Minister going on in regard to our proposals on Corea?
What attitude China taking now?

Otori
朝鮮に関する日本の提案について、小村とイギリス公使の間ではどのような話が進んでいるのか。
現在清国は、どのような態度をとっているのか。
それは本国でもまだ良く分かってないんじゃないかな?

続いて、同じく28画像目の今度は左側。
天津の荒川領事から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電受第394号』。

Mutsu,
Tokio.

Waeber, former Russian Representative in Corea will leave here for Seoul 七月十日 and Russian Minister to China still continues to remain here.
He will leave for Peking in a few days.

Arakawa
元在朝鮮のロシア代表者のウェベルは、7月10日に京城に向けて出発するはずであり、在清国ロシア公使は未だここに留まり続けている。
彼は、数日以内に北京に出発するだろう、と。

9月24日のエントリーの1894年(明治27年)7月7日付け『機密第30号信』で、7月6日に北京を出発してたウェベルですが、7月10日に京城へ出発予定らしい。
つうか、やっぱり北京から天津って、そんなにかかるのか・・・。

ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三)
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日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 
日清戦争開戦まで(五十)



トラビアン始めました。
watcher1氏のスレッド、「Let’s土幕民、移住者募集!」を見て始めたんですが、中々はまります。
ブログ書いてる最中に、息抜きに眺める程度で済むし。(笑)
興味のある方は、「サーバ1」の「南東」に村を!
そして、もうやってるって方はウリに惜しみない援助を!(笑)

さて、本題。
ロシア、イギリスと来て、今度はアメリカの干渉が始まります。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の1画像目。
アメリカの特命全権公使エドウィン・ダンから陸奥への、1894年(明治27年)7月9日付『機密受第961号』より。

No.52

Legation of the United States,
Tokyo, July 9, 1894.

His Excellency
Mutsu Munemitsu,
His Imperial Japanese Majesty's
Minister for Foreign Affairs

Sir:
I have received this morning from the Secretary of State of the United States a telegraphic instruction, a copy of the reading of which I have the honor to enclose herewith for your Excellency's information, which says:
"The Government of the United States has heard with sincere regret that, although the insurrection has been suppressed and peace prevails in Korea, Japan refuses to withdraw her troops and demands that radical changes be made in the domestic administration of Korea.
This demand is the more remarked in view of the fact that China favors the simultaneous withdrawal of both the Japanese and Chinese troops.
Cherishing sincere friendship for both Japan and Korea the United States indulge the hope that Korean independence and sovereignty will be respected, and in which I am instructed to say to Your Excellency's Government that the President will be painfully disappointed should Japan visit upon her feeble and defenseless neighbor the horrors of an unjust war."
I avail myself of this occasion to renew to Your Excellency the assurances of my highest consideration.

Edwin Dun

enclosure
Reading of telegram as above.
で、4画像目にその「Reading of telegram」があります。

Reading of telegram from the Secretary of State of the United States, dated Washington, July 8, 1894, and received July 9, 1894.

Dun, Minister, Tokio.

Your cipher telegram of the 5th received.
The government of the United States has heard with sincere regret that although the insurrection has been suppressed and peace prevails in Korea, Japan refuses to withdraw her troops, and demands that radical changes be made in the domestic administration of Korea.
This demand is more remarked in view of the fact that China favors the simultaneous withdrawal of both the Japanese and Chinese troops.
Cherishing sincere friendship for both Japan and Korea the United States indulge the hope that Korean independence and sovereignty will be respected.

You are instructed to say to the Government at Tokio that the President will be painfully disappointed should Japan visit upon her feeble and defenseless neighbor the horrors of an unjust war.

Gresham
これらの訳文が5~7画像目にありますので、そちらもテキストにしておきます。

外務大臣陸奥宗光閣下
亜米利加合衆国 特命全権公使エドウィン、ダン

以書柬致啓上候
陳者今朝合衆国国務長官の電訓に接候に付、貴大臣御承知の為め其解読写茲に致封入候。
該電訓に曰く、

「朝鮮国変乱既に鎮定に帰し国内平和なるにも拘らず、日本は撤兵を拒絶し、該国内政に対し急激の改革を施さん事を要求すると聞くは、合衆国政府の大に遺憾とするところなり。
而して、清国に於て日清両国同時に撤兵を行はんと希望するの事実あるに当り、右要求あるが如きは、殊に他の注目を招くものとす。
合衆国政府は日本朝鮮両国に対し深く友誼を懐くが故に、朝鮮国の独立并に主権の重んぜらるる事を希望するものなり」
依て本使は、同電文中貴国政府へ左之通り開陳可致旨訓令を受候。
「若し日本にして無名の師を起し、夫の微弱にして防守に耐へざる隣国をして、兵火の修羅場たるに至らしむる事もあらば、大統領は痛く望を失すべし」
本使は茲に重て閣下に向ひ敬意を表し候。


合衆国国務長官電訓の解読

東京米国公使ダン宛  グレシアム

去る5日発閣下暗号電報接受。
朝鮮国変乱国変乱既に鎮定に帰し、国内平和なるにも拘はらず、日本は撤兵を拒絶し、該国内政に対し急激の改革を施さん事を要求すと聞くは、合衆国政府の大に遺憾とするところなり。
而して清国に於て日清両国同時に撤兵を行はんと希望するの事実あるに当り、右要求あるが如きは、殊に他の注目を招くものとす。
合衆国政府は日本朝鮮両国に対し深く友誼を懐くが故に、朝鮮国の独立并に主権の重んぜらるる事を希望するものなり。
若し日本にして無名の師を起し、夫の微弱にして防禦に耐へざる隣国をして、兵火の修羅場たるに至らしむる事もあらば、大統領は痛く望を失すべしと東京政府へ申込むべし。
アメリカ国務長官グレシアムから在日本アメリカ公使のダンへ、7月5日発の暗号電報があった、と。

その内容は、東学党の乱が既に鎮定して朝鮮国内も平和なのに、日本は撤兵を拒絶し、朝鮮の内政に急激な改革を施す事を要求していると聞くのは、アメリカ政府の大いに遺憾とするところだ。

で、清国では日清両国の同時撤兵を行う希望している事実があるのに、そのような要求があるのは特に他の注目を招く。
アメリカ政府は、日本・朝鮮両国に対して深く友誼を抱いているので、朝鮮の独立と主権を重んじる事を希望する。

もし日本が無名の師を起こして、その微弱で防禦できない朝鮮を戦場にしたなら、大統領は痛く失望するだろうと日本政府へ伝えろ、って事で、それをダン公使が陸奥に伝達してきたんですね。

で、これを受け取った日本政府は、速攻で返事します。
8~10画像目から。
1894年(明治27年)7月9日付『機密送第46号』。

亜米利加合衆国
特命全権公使エドウィン、ダン閣下
外務大臣陸奥宗光

以書柬致啓上候
陳者本日附貴柬を以て、朝鮮事件に関し貴国国務長官閣下より御受領の電報解読御送附旁御申越の趣致領承候。
帝国政府が目下朝鮮国に対し謀る所のものは、敢て釁を啓くに在るにあらずして、専ら該国の安寧秩序及国政の善良を期する為めに有之。
而して、帝国政府に於て決して該国の独立及主権を重ぜざるが如き処置を執りたること無之ことは、本大臣より閣下に向て之を保証致し置候。
抑も、朝鮮国の邦安に背馳するが如き心情は、帝国政府の毫も懐抱せざる所にして、隨て両国間に衝突を生ずるが如き憂慮も無之。
而して帝国政府に於ては、其隣邦に対し釁端を招くことは更らに希望せざるところなるのみならず、却て其従来屡々起りたる内訌変乱を、将来に予防せんことを期せり。
而して、斯る期望は該国人民苦情の主因、即ち官場の弊実貪婪秕政を及ぶだけ芟除するに非ざれば、之を遂げ得べからずと相信候。
帝国政府が朝鮮国政府に勧告したるところの改革は、其政治を改善し因て以て其民福を増進する事を期するにあり。
而して、若し朝鮮国政府をして、能く自ら審思する所に一任せしめたらんには、此等の改革を実行すべきや殆ど疑を容れざる所なり。
然れども、朝鮮の事体に対する清国政府の挙動常理の外に出で、帰一する所なきを以て、不幸にも啻に該国国政の改善を遷延せしむるのみならず、絶えず東方亜細亜の安寧を妨げ、不穏の虞を生ぜしめ候。
清国が朝鮮に派兵したるは、朝鮮政府の請に応じ其変乱を鎮定する事を援助する為めなれども、帝国政府が派兵したるは、條約の権利に基きたるものにして、自衛の為めに有之。
然るに、今清国政府は該変乱は既に鎮定に帰したりとの口実を以て、同時に日清両国の兵を撤退することを提議せり。
然れども、帝国政府の見る所に拠れば、該変乱の起りたる原因未だ全く除かれざるのみならず、現に其変乱も尚ほ未だ鎮定に帰せざるが如く、且つ目下の形勢を観るも、未だ意を安ずる事能はざる所あるを以て、帝国政府に於ては此際其兵を撤退するの理由なく、又た之を撤退するは得策にあらずと確信致候。
但し、朝鮮国の情形にして、我兵を挙て撤回する事を得せしむるの時期到来することは、帝国政府が欣然之を待つ所に有之候。
茲に重て閣下に向て敬意を表候。
敬具
12→11画像目がこれの英文訳になってますが、そっちのテキスト起こしはちょっと勘弁して下さい。

内容的には、これまでの日本の対外発言をそのまま踏襲してますね。

日本政府が現在朝鮮国に対して提議しているのは、敢えて不和を招くものではなく、ただ朝鮮国の安寧・秩序・国政の善良を期すためのものである。
そして、日本政府が決して朝鮮の独立・主権を重んじないような処置を執ったことが無いのは、陸奥からダンに対して保証しておく。

そもそも、朝鮮国の安泰に反対するような心情は、日本政府は少しも持って居らず、従って、日朝間で衝突が生じるような心配は無い、と。
アメリカの「夫の微弱にして防禦に耐へざる隣国をして、兵火の修羅場たるに至らしむる事」に対するものかな。

そして、日本政府では隣国に対して不和の始まりを招く事はさらに希望しないだけでなく、逆に従来しばしば起きてきた内乱を、将来的に予防することを期している。
しかし、そのような希望は、朝鮮国人民の不満の原因である、官庁・官吏による悪政をできるだけ取り除かなければ、達成できないものと信じている。
日本政府が朝鮮政府に勧告した改革は、その政治を改善して朝鮮国民の幸福を増進する事を期している。
ま、10月6日のエントリーで大鳥がやっちゃったのは、それ以上のもんですが。(笑)

で、もし朝鮮政府が十分に自分でしっかり考えるのに一任するなら、それらの改革を実行する事はほとんど疑いがない。
・・・。
思ってもいない事を・・・。(笑)

しかし、朝鮮の事態に対する清国の動きは、道理にかなわず一定しないため、不幸にも単に朝鮮の国政改善を引き延ばすだけでなく、常に東方アジアの安寧を妨げ、不穏の懸念を生じさせてきた。

清国が朝鮮に派兵したのは、朝鮮政府の要請に応じて東学党の乱の鎮圧を援助するためだが、日本が派兵したのは条約の権利に基づいたものであり、自衛のためである。

にもかかわらず、現在清国政府は、東学党の乱が既に鎮圧されたという口実で、日清の同時撤兵を提議している。
しかしながら、日本政府が見るところでは、東学党の起きた原因はまだ全然取り除かれていないだけでなく、現にその東学党の乱もまだ鎮定していないようであり、かつ現在の形勢を見ても、まだ安心する事ができない処がある。
そため、日本政府は現在撤兵する理由が無く、また、撤兵するのは得策ではないと確信している。

ただ、朝鮮国の情勢が、総ての日本兵を撤兵する事が出来る時期が到来するのを、日本政府は悦んで待っている、と。

朝鮮国への駐留自体は、済物浦条約による権利です。
撤兵に関しては、天津条約の「其の事定まるに及んでは」について清国と見解の相違がありますが、それについての交渉は拒否られましたが、何か?
( ´H`)y-~~ プハー
みたいな。(笑)


ってところで、非常に長くなりましたが今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(五十)



なんか10月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月9日付け『機密第121号 本70号』の別紙で足止めされてる気分。
つうか、文章的に解説要らない気もするんですが。
テキスト起こしだけ一気にやっちゃえば良かったかな?(笑)

兎も角、前々回前回に引き続いて、その別紙の続きを見ていきたいと思います。

『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/3 明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日(レファレンスコード:B03050308300)』の28画像目、一番左の行から。
別紙丙号の続き。

右各項の内、左の事項は3日を限り議定し、10日内に着手す可きものとす。

一.内外庶政を総理する機務は、挙げて之を議政府に復旧し、六曹判書をして各々其分職を守らしめ、而して勢道執権の弊制を廃止する事
一.内外政務と宮中事務と判然区別を立て、宮中に奉仕する官吏をして一切政務に干渉せしめざる事
一.外国交渉の事宜を重じ、国家に代り其責に任ずる大臣をして之を主宰せしむ可き事
一.従前の格式を打破して広く人材を登用する門を開く事
一.売官の悪弊を停廃する事
一.官吏収賄索銭の悪習を厳禁する事
一.京城と要港との間鉄道を建築し、并に全国重要の城市に通ずる堅牢なる電信を架設し、以て通信往来の便を開くこと
但し、末項鉄道電信の二工事は、10日内起工の決議を為し、準備出来次第其工を起すものとす。

左の事項は6ヶ月内に決行す可きものとす。

一.政事を施行するに必要なる官衙を存立し、其余は総て之を廃止し、又は甲官衙の事務を乙官衙に合併し、以て簡便に従ふ事
一.現在の府郡縣を廃合し、民治に妨なき迄の少数に止むる事
一.事務執行に必要なる官員を存し、其余の冗員は之を沙汰する事
一.時勢を参酌して官吏の俸給を定め、生を資け廉を養ふに差支なからしむる事
一.地方官吏の情弊を矯正する法を設くること
一.国家の収入及び支出を調査し其制度を立つること
一.会計出納を厳正にする事
一.貨幣制度を改定する事
一.不必要の支出を減省し、并収入増加の方法を講ずる事
一.各開港場にある税関は、一に朝鮮政府自から之を管理し、他国の干預を容れざる事

左の事項は2ヶ年内に決行す可きものとす。

一.各道の田畝を精査し、租税を改正すること
一.其他の諸税を改正し、若くは新税を設くる事
一.官道通衢は須らく修平推廣すべき事
一.旧法中、時宜に適せざるものは概ね之を廃革し、或は時宜を参酌して新法を制定する事
一.裁判法を改正して、司法の公正を明にする事
一.士官を養成する事
一.旧式水陸兵一切之を廃し、更に財力の許す所を量り新式兵を増置する事
一.京城及び各城邑に厳正なる警察を設くる事
一.時勢を斟酌して学制を新定し、各地方に小学校を設立し子弟を教育する事
一.学生中俊秀なる者を撰抜し、外国へ留学せしむる事
各項目については、前回の項目を期限毎にまとめたもの。

つうか、丙号って栗野が内信とか持って行った後に作ったんだよねぇ?
教育とかの綱目自体は、10月1日のエントリーで言ってるとおり、「右は去3日提出の綱領を追ふて取調候者に付、今更之を改むる訳に至兼ね候。」って事で仕方ないのは分かる。

でも、7月16日のエントリーの内信で、「我に向て必ず之を実行する事を約束せしむるの外、差向き評判宜からざる人物を免黜遷転せしむる事にて満足可致置。」とか、「裁判・会計・兵制・警察・幣制に関する各項に至ては、今といふて今実行し得らるべき事にも無之候へ共、差向き必ず改良すべしといふ明約を取附置候而已にて満足可致置。」とかってのは、どこに行ったのよ?と。

結局、現時点では差し当たっては評判の良くない人物の罷免・左遷で満足し、その他の事項については、改革の内諾とって窓口確定する程度で良いとしている日本政府と、このチャンスにやっちゃわなきゃ、奴らやるわけないじゃんという在朝鮮日本公使館側の思惑の違いなんかなぁ。

つうか、3日以内に議定して10日以内に着手とか、6ヶ月以内に決行とか、2年以内に決行とか、そんな短期間にできるんなら、朝鮮のような惨状になって無ぇだろ、と。
いや、長期間でも短期間でも、どっちにしろ無理だろってのは無しで。(笑)

1894年(明治27年)7月9日付け『機密第121号 本70号』、やっと終了。

で、続いては『駐韓日本公使館記録2』から。
朝鮮の外務督弁趙秉稷から大鳥への、1894年(明治27年)7月9日付けの文書から。

照覆事照得我暦本月初五日接准
貴公使第七拾号来文内爲面遞抄擬綱領従速採択確切核覆一事均経閲悉足見 貴政府念切友睦殊堪欣悦除由我政府遴定内務督辨申正熙協辨金宗漢曺寅承訂於我暦本月初八日下午六点半鐘在老人亭会同
貴公使暢聆一切外相応備文照覆
貴公使請煩査照可也須至照覆者
右照会
貴公使第七拾号ってのは、10月3日のエントリーでやった乙号の事。
正確に言うと、乙号の漢文訳したものですね。
それを、日本暦の7月7日に受け取った、と。

その70号の中の、面会した時に手渡した綱領について速く採択して確答してくれと言うのは分かった。
日本政府の友睦の念は甚だ喜ばしい事であり、朝鮮政府が選定した内務督辨申正熙と、協辨の金宗漢・曺寅承が、7月10日午後6時半に老人亭で会同することになったんで、ヨロ、と。

10月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月9日付け『機密第121号 本70号』を見るに、まず7月7日朝に申正熙・金宗漢・曺寅承の3人を委員とする通知があったんですね。
公文云々の経緯からして、恐らく口頭通知だったんでしょう。

そこで、改めて8日昼を回答期限とする別紙乙号(70号)が出される。
8日夜になって、「公文出されると迷惑だから、撤回してくれよぉ。」と泣きついてきたのをバッサリと拒絶。
で、9日になって、上記のように10日の午後6時半に会合する旨の公文が送られてきたって経緯かな。


ってところで、ちょっと早めですが今日はここまで。



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