ここ2ヶ月で4日分の史料しか扱ってない・・・。
そりゃ、話進まなくて飽きるわなぁ、と。(笑)

< 2008年6月のエントリー >
先月から2日分しか進んでなくても、内政改革の項目が閣議決定されたり、かなり重要な話はあるんですが。
如何せん、史料が長い。(笑)

日清戦争開戦まで(四十四)

日本にとって、というか実は朝鮮にとっても重要だったんじゃねぇの?という、京城・釜山間の電線架設の話から始まります。
次いで、改革勧告に関連する電報。
最後に、清国1回拒否ったけど、朝鮮領土保全の相互尊重と、騒擾防止を基本とした申し入れがあれれば、日本は清国の提案を受け入れるかもよ、と言っても良いという小村への電訓。
いずれも、地味ながら重要な話。


日清戦争開戦まで(四十五)

改革勧告の閣議決定について。
別に、善政しろと言ってるわけではなく。
少なくとも「独立国」としての体裁を守り、他国との交易に最低限必要な事ぐらいはしろよっていう勧告でしょ?と。
( ´H`)y-~~


日清戦争開戦まで(四十六)

改革勧告の各項目の詳細についての前編。
外国交渉云々ってのは、外交当局者の話がコロコロ変わる事について。
現代韓国ですら、米韓FTAなんかを見ると非常に怪しく。(笑)
裁判云々については、「延て外交上事端を滋すに至る故に」。
会計出納と兵制警察云々については、東学党の乱対策と独立国の体裁整えろって事かな。


日清戦争開戦まで(四十七)

改革勧告の各項目の詳細についての後編。
幣制云々については、「貿易上の不便」。
次の交通云々と合わせて、商業基盤を整備しろって事でしょうね。
最後に、陸奥の『蹇蹇録』の記述に対する巷間の説に対する疑義提示を。


日清戦争開戦まで(四十八)

前段は、改革勧告と同時に要求する事項について。
清国人と同等の待遇要求と、朝鮮人の海外留学と、国事犯の特赦について。
後段は、『日清戦争開戦まで(四十二)』で見た聶士成の布告の真偽照会に対する袁世凱の回答について。
良く分かりません、と。(笑)


日清戦争開戦まで(四十九)

天津の神尾少佐から大鳥公使への、清国というか李鴻章の動きに対する報告。
やる気の李鴻章と、出兵許可しない中央政府。
ここまで何度か清国の援軍が送られる話が出ていたのに、実際にはまだ送られてないのは、そういう事情らしい。


日清戦争開戦まで(五十)

長文の対韓政策についての具申を出した翌日、更に追加で具申する京城領事内田定槌。
真面目というか、その上に「生」が付きそうな勢い。(笑)
もう一つは、混成旅団報告。
内容的には、第二次輸送兵の配置について。


日清戦争開戦まで(五十一)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についてのその1。
情報の遅延・不足・意見の温度差等による錯誤。
大鳥も「是迄貴我の電信にては意味充分に相通せざりし廉をも判明」な筈なんですがね。
まぁ、大鳥や陸奥も俯瞰して見るわけにも行かないわけで。


日清戦争開戦まで(五十二)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についてのその2。
なんか大鳥、内政改革に燃えちゃってるんですが・・・。(笑)
つか、開戦に向けても盛り上がっちゃってる雰囲気。


日清戦争開戦まで(五十三)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についてのその3。
独立属邦問題と内政改革問題の具体的実施手順について。
割と強引。


日清戦争開戦まで(五十四)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についての別紙。
本文の上申の方で述べてた通りの内容で、特筆すべき点は特になし。


日清戦争開戦まで(五十五)

取り上げてなかった史料、『仁川港局外中立ノ件』について。
取りこぼしの部分だけで終わっちゃった。(笑)
簡単にまとめると、日本軍が仁川到着して清国公使が抗議→租界内への日本軍の駐留に対して英国副領事が苦情申し立て→清国軍艦の到着や日本軍の京城移動等を見て、居留地で臨時会を開いて仁川を局外地とする議決→京城使臣へ提出予定→『日清戦争開戦まで(二十八)』の1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』で対応協議という流れ。


弥縫策と決行の方針

「決行の方針」=「閔妃暗殺」って、倫理飛躍しすぎ~。
「決行の方針」云々の10日後には、閔妃の懐柔の話が閣議に出されてるという、熊本大の小松くんのお粗末な史料調査でしたとさ、チャンチャン。


つうか、アジ歴の目録は相変わらず酷い。(笑)
( ´H`)y-~~



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朝日新聞が、今更な記事をあげたらしい。
4日も経ってから取りあえげる俺もどうかとは思うが。(笑)

朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる

日清戦争直後の1895年秋、ソウルの王宮に押し入った日本人らによって朝鮮王朝の皇后閔妃(ミンビ)が殺害された事件で、新史料が見つかった。
日本政府高官の間で交わされた手紙。
日本では駐韓公使三浦梧楼の独断的犯行とされてきたが、三浦の赴任以前に、資金提供などの懐柔策から「強硬策」に転換することで高官の間で合意が形成されていたと示唆する内容だ。
歴史をめぐる日韓の大きな溝となってきた事件で、論議を呼びそうだ。

日清戦争の結果、朝鮮からは中国の影響が一掃された。
しかし、ロシアなどの三国干渉になすすべもなかった日本に対し、朝鮮王朝ではロシアを味方につけようという動きが出てきた。
閔妃はその代表的存在で、日本は駐韓公使の井上馨が中心となり懐柔しようとしていた。
朝鮮に300万円を貸与、さらに300万円贈与する計画もあったことが知られている。
日清戦争前の日本の国家予算は8千万円で、かなりの巨額だ。

手紙は韓国のドキュメンタリー映画監督で閔妃暗殺事件を調べていた鄭秀雄(チョン・スウン)さんが東京の国会図書館憲政資料室で探し出した。
事件前に交わされたもので12通。鄭さんの依頼で熊本大の小松裕教授(日本近代史)が読み解いた。

95年8月2日付で野村靖内相が井上公使に出した手紙は、反閔妃クーデターを企てたとして追放され日本に亡命した朴泳孝(パク・ヨンヒョ)内相に、次期駐韓公使に内定していた三浦梧楼陸軍中将と熊本国権党の代表が「ひそかに会った」様子を伝える。
日本からの資金は閔妃にも配分すると朴が伝えたが、「貰らはナイ」「コハイ事」と閔妃に拒否された様子も生々しく記されていた。

芳川顕正法相が陸奥宗光外相と山県有朋前陸相にあてた手紙は6月20日付。
一時帰国した井上公使と会った様子を伝える。「弥縫(びほう)策ハ断然放棄シ決行之方針ヲ採ラル」よう伊藤博文首相を説得してほしいと芳川が井上に依頼。
長州出身の井上と伊藤は一緒に英国留学した親しい関係。
この方針は芳川、陸奥、山県の3人の「合同の意見」だと芳川が説明すると、井上は了承したと書かれている。

王宮を襲う実行部隊には陸軍の600人などのほか「壮士」と呼ばれる民間人47人が参加した。
うち21人を熊本の関係者が占めていた。
その背景が浮かび上がる手紙もある。

奈良県知事などをつとめる官僚が井上に出したもので8月3日付。
熊本勢の多くがかかわっていた熊本国権党に強い影響力を持つ国民協会代表の品川弥二郎が抱えた膨大な借金を、井上が立て替え完済したことを知らせるもの。
「熊本国権党のメンバーは近年そろって井上に心服している」との内容だ。

井上の後任公使として三浦は9月1日に赴任。
外出もせずに読経に明け暮れていたという。
そして閔妃は10月8日に殺害される。
三浦は、国王の父が首謀者で実行犯は日本人を装った朝鮮人だと主張したが、欧米外交団の強い抗議で、日本政府は三浦を解任。さらに関係者を召喚し、広島で裁判にかけたが民間人は三浦を含め全員が証拠不十分で免訴、軍人も無罪となった。
一方、現地では朝鮮人3人が死刑になった。

手紙を読み解いた小松さんは「政府高官の間で『決行の方針』が打ち出され、実行犯として熊本国権党を手なずけるなど準備が進められた。三浦はそうしたことを承知のうえで赴任し実行、独断での犯行を装った。日清戦争に勝ち『文明国』の仲間入りを果たした日本は、この蛮行を隠すしかなかった」と考える。

漢陽大(ソウル)の崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授は「日清戦争に勝ったのに、ロシアが出てきて日本にとっては何のために戦争をしたのか分からない事態になっていた。閔妃の懐柔には失敗したが、三国干渉で敵だったドイツを日本は味方につけることに成功し、懐柔策を続ける必要がなくなった。情勢変化を知らない閔妃が、日本が擁立した内相の朴を解任したことで、対立は決定的になる。そうした経緯を手紙は示す決定的証拠で、三浦の独断ではありえないことが明らかになった」と語った。

一方、この事件の研究を一昨年まとめた歴史家の秦郁彦さんは「戦前期を通じて内実に触れるのがタブーとされたため、真偽の見極めのつきにくい事件だ」としたうえで、今回の手紙について「日本政府が関与したというには証拠不足。強硬策=王妃の殺害を意味すると見るのは論理の飛躍だ。伊藤を説得する話にしても、穏健派の伊藤がどう反応したのかはわからない。聞き流したことも考えられる。わいろを断ったという点も、だから殺害しなくてはと判断したとは思えない」と話す。

(渡辺延志)
まず問題は、3年も前の話を何故今頃、と。(笑)

【参考】 http://dreamtale.ameblo.jp/dreamtale/day-20051006.html

新しい発見でもあったのかと思ったけど、秦郁彦のツッコミを見るに、3年前と全く状況変わってない模様。(笑)

取りあえず、手紙を読み解いたらしい小松裕熊本大学文学部教授のコメント、「政府高官の間で『決行の方針』が打ち出され」に関して、秦郁彦曰く、「強硬策=王妃の殺害を意味すると見るのは論理の飛躍だ。」。
3年前の俺曰く、「『決行の方針』について何を決行する方針なのか、「対象」を表す史料が全く無いようですが、また「余地がある」のでしょうか?」と突っ込んでいる件に関して取り上げておきたいと思います。

アジア歴史資料センターの『鉄道電信其他ニ関スル日韓条約締結方交渉一件/分割3(レファレンスコード:B07080194900)』の30画像目。
井上馨から外務大臣臨時代理の西園寺公望への、1895年(明治28年)7月1日付『機密受第533号』より。
長いし、恐らく今後ちゃんと取り上げる事になると思うので、必要部分だけ抜粋。
34画像目、左から5行目。

34画像目 (クリックで拡大)

要するに、第1案は300万円を返却せしめ、残余の一半を王室に与へ、国王并に王妃を心服せしめ且抱き込み
30画像目上部欄外右側によれば、これは井上から西園寺に手交され、7月1日に閣議に提出されたもののようです。

あれあれ?
6月20日付の手紙で、『決行の方針』が決まってたのでは?(笑)
王妃を心服させて抱き込む井上の案が、その10日後に閣議に出されてますが。

漢陽大(ソウル)の崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授が、「閔妃の懐柔には失敗したが、三国干渉で敵だったドイツを日本は味方につけることに成功し、懐柔策を続ける必要がなくなった。」なんて言っちゃってますが、どの時点で?と。(笑)

寧ろ。
37画像目の右から2行目。

37画像目 (クリックで拡大)

又、本官に於ても該案の結果は名実共に多少朝鮮の独立を損傷し、従って他国より批難の嫌ひも有之候に付、彼此斟酌の上再次鄙見申出置候義も有之候処、時態変更の今日となりては断然の処置を為すこと急要と認め、前陳の通り更に鄙見中述べたる次第に有之候。
要するに、暫定合同條款の履行等について「断然の処置」をすることが急務だ、と。
こっちや、あるいは先ほどの借款の返済方法の変更そのものの方が、弥縫策から決行の方針への転換としては妥当な気がしますがね。

まぁ、これも断定はできないワケですが。
とりあえず、「決行の方針」は閔妃暗殺じゃねーだろ、と。( ´H`)y-~~
ってことで、休日更新してみた。


今日はここまで。



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ぶっちゃけ飽きてきた。(笑)
いつもの病気ですね。
時間がなくて、ブログ以外の調べ物っつうか、息抜きの調べ物ができないっつうのもあるのかも。

ってことを考えながら、今日の史料へ。
今日は、今回の連載で初めて取り上げる綴りかな?
アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/2.仁川港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143600)』からになります。

文字通り、日清戦争の時の仁川港の局外中立問題の話になるわけですが、ピラッと開いたら、もう取り上げてなきゃ駄目な史料が・・・。(笑)
つうか、21画像目まで全部そうだよ・・・。_| ̄|○

とりあえず、どうしても取り上げておきたい2画像目を。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第301号』より。

Mutsu
Tokio

(3) All the foreigners will hold a meeting to protest against Japanese army making 仁川 a place of military operation declaring it is neutral port.

Nosse
一応、3画像目が和訳になってます。
外国人は全て、仁川を局外中立港だと断言し、日本軍が仁川を軍事行動の場所にしようとすることに対して抗議するため、集会を開くらしい、と。

取り上げたかったのは内容ではなく。
アジ歴の当該目録について。



Lokio.

(3) all ttu @oiegueso will gapaneel a@wuy makiug 仁川 a place of nulilang openatuoi dcelavuig it is nuvtsal porr. Nocee.
「Mutsu」はどこ行った?
「hold a meeting to protest against」の部分、丸ごと1行無ぇぞ。
「Lokio」ってどこだ?
「Nocee」って誰?

つうか、何語だよ!(笑)

飽き始めたボクに笑いを提供してくれるアジ歴に感謝。
つか、アジ歴の目録はこのくらいの誤字は頻出なので、この程度で笑っちゃうってのはやっぱり飽きてる証拠かしら。(笑)

いや、それだけのために2画像目をテキストに起こした。
( ´H`)y-~~

残りの4画像目からの部分、どうすっかな・・・。
全部やるのは面倒くさいので(笑)、一応、流れの分かりそうな史料だけでも取り上げておく事にします。
んーと、まずは4画像目。
仁川の能勢領事から外務次官林董への、1894年(明治27年)6月24日付『機密第28号』より。

清国官吏の勧説、各国租界内駐兵に付居留外国人の苦情、并に仁川港をして局外地たらしむるの運動等に関し報告の件

帝国派遣軍第二次三大隊、本月15日に於て来着するや、在港清国理事は即日来訪し、該軍隊の上陸及び駐陣に関し再三勧阻せし趣は、曽て機密第27号を以て申報の次第有之候処、我兵上陸後各国租界内日本人所有の地所家屋等に駐宿する儀に関し、在港英国副領事其他より種々苦情申出候始末は別紙京第36号、仝40号及び英副領事来文寫甲乙丙各号に就き、逐次御熟悉相成度候。
然るに、今般清兵5,500発遣の確報に接し、昨23日大鳥公使の電報に拠り、大島少将は当港駐留の兵3,000を引率し、即夜京城へ進発致候処、昨日威海より来港せる清国北洋水師分遣艦隊司令官林泰曽は(鎮遠、超勇、廣丙の3隻を以て6月22日来着)、之を探知するや否や深更上陸。
劉理事等同伴にて来館し、小官に対して我兵の入京を阻止せんとし、談論数刻に及びたる次第は別紙京第41号寫の通りに有之候。
以上の如く、清艦の来着に続き我兵の入京等の情形を視て、両国開戦の危機旦夕に迫れるを察し、在港各外国人は租界の安寧を保つが為め、遂に仁川港をして局外地たらしむるの議を起し、昨25日各国居留地のの臨時会を開き、以て之を議決し、直ちに京城使臣会議へ提出すべき事と相成たるを以て、小官は右に関する方針の確定を希望し、別紙機密第8号寫の通り大鳥公使へ及請訓候始末に有之候。

以上為御参考別紙一括及送呈候間、御査閲相成度不取敢此段申進候也。
簡単に纏めると、日本軍が仁川到着して清国公使が抗議→租界内への日本軍の駐留に対して英国副領事が苦情申し立て→清国軍艦の到着や日本軍の京城移動等を見て、居留地で臨時会を開いて仁川を局外地とする議決→京城使臣へ提出予定、と。
で、それに関する方針の確定を大鳥に求めたのが、3月24日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』なんですね。

で、具体的にどのような事に対するどのような苦情なのかが、6画像目からになってます。
長いけど、一応取り上げておくか・・・。
能勢領事から大鳥への、1894年(明治27年)6月19日付『京第36号』より。

我軍隊が外国人租界内外国人所有の地所を使用し、各国租界に入営したる等の為め苦情申出候儀に附、縷々発第161号を以て御申越の趣き承知致候。
今回我軍隊の来着するに当てや、小官も其当港に滞在すべきは、僅に両3日間とのみ相考へ居候に付、其意を以て各国居留地会員各外国人にも相談し、可成彼輩の迷惑を来たさざるべき旨相通じ置き候へども、其兵数兵科馬匹の如きは素より軍機に係るは勿論、小官と雖も之を前知せざるを以て之を遺漏することなかりしより、彼輩に於ても格別留意するの模様無之。
現に、先発一大隊留営の際の如きは、大に歓迎の意を表はしたるの実有之候処、先着全軍の来着に至て其兵員の数多なる事、大小銃砲携帯の事、馬匹の夥多なる事を目撃し、何れも大に驚怖し、斯く本邦が仁川に駐兵せしむるに於ては清国も亦た派兵するも難計、其場合に於て両兵相衝突するが如き事あらば、当港内にある外国人の生命財産に危害を及ぼすに至らんとて、爰に初めて非常に危疑恐懼せるより、租界を警備するに必要なる兵員の外は都て租界に移陣せられたしとの事を提出せるに外ならざる儀と存候。
就ては、其唱ふる所の苦情とても、各国人を代表するに非ずして全租界の安危を慮るものに外ならざる様に有之候。
其故は、馬匹繋留場の如き租界D号第11第12号の地は英国人ハチソンの所有にして、堀久太郎の借受居候ものなれば、堀久太郎の許諾を受けたるものに有之候。
又、大小弾薬置場なるD第13第14号は独逸人の所有なれども、小官に協議無之直ちに使用候為、本日其所有主より苦情申出候に附き、弾薬は明朝当館内に移置せられんことに副官中原大尉に協議致置候儀に有之。
又、英領事公文内に云ふ砲台建設云々は、前記堀久の借用地内にして、本館裏手なる小高き場所に野戦砲6門を南面して排列し、兵士抜剣して之を護衛するより、或は之を以て砲台と看做せしやは承知不致候へども、未だ砲台を建設致せし事なく、又英国人の地所を強取せる云々とあるは、該地は英国人ハチソンの地所なれども、堀久に1ヶ年340$の地代にて貸渡しあるものに附き、其使用如何は地主なる英国人に於て云々すべきものにあらざるものの如くに有之候へども、目下の形勢野戦砲6門の排列は衆人をして徒らに疑懼心を起さしむるべきに付き、寧ろ領事館表門内に移置する方可然被存候。
此外に外国人所有地若くは各国租界内の地所を持主又は管理者の承諾なくして使用致候等に儀は、目下小官の預知する所にては無之様子に候。
其各国租界内我国人の所有地、及所有の家屋、及外国人の所有の地所家屋にして我国人の借用するものに対しては、未だ何等の苦情申出ざるは、前述の通り元来我大兵が本港に滞陣するに際し、一朝清兵との間に葛藤相生じ候場合には、全港の安危に罹るとの懸念より相成し候次第は、大兵淹留銃数日に及ぶときは、物価は騰貴し、飲料水は欠乏し、人心は洶々生業に安ずる能はざる等の口実より出候儀に有之候。
尤も、軍馬見物の為め、又は野戦砲置場を横切り、又は弾薬置場を距る数十米突を通行せんとして、衛兵の為め抜剣又は携銃にて制止せられたるものは英国領事1人に止まらず、本邦人中にも数人有之。
又、清国租界間の公道、朝鮮町と各国居留地との界道等に於て同様衛兵の為め誰何せられ、通行を制止せられたるもの昨日迄に日、清、外国人中にも数多有之趣聞及候に付き、右は中原副官に申通し取調方依頼致置候。
又、一昨日曜日には、兵士の清国租界併に朝鮮町に三々五々遊歩するもの多きが為め、清国領事併に監理使より取締上に付き大に懸念し、屡次掛合来り候のみならず、元来右両地区は、淫売賭博の巣窟、病毒侵染の地なるを以て、自今遊歩等の為め多数立入らざる方可然旨、是又副官へ申入置候。
又、過日清国租界内信局の京仁間配達方山東人某は、九硯山下に於て衛兵水兵に通行を遮断せられたるも、幸に我郵便局の脚夫の言明に因り通行を得たる旨、予て清国領事より申出候に付き目下調査中、昨18日午前、右清国脚夫は再び九硯山下に於て衛兵の為め攔阻せられ、其携帯する所の信書袋を開き、是を検点し、当港より京城へ届方を依托せられたる刀剣の上包を開き、剰さへ刀を以て頭部を按じ威嚇の所為ありたるより、該脚夫は大に恐怖して以後京仁間往復を謝絶せりとの事を訴出候に付き、電報にて旅団長に御照会有之度申上候と同時に、所管兵站監竹内中佐へも掛合置候次第に有之候。
右は追々所轄領事等より貴官に対し申立有之儀と被存候へども、為御参考御回答傍此段申進候也。
アジア歴史資料センターの『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第5号(レファレンスコード:C06061757800)』の5画像目によれば、衛兵等による通行止め等についての調査結果は不明ながら、その都度厳格に注意喚起されてたのは事実なようで。

また、英国人の土地云々については、『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第6号(レファレンスコード:C06061758100)』の10画像目左端から話がありますが、嘘報だ、と。

つうか、清国租界と朝鮮町は「淫売賭博の巣窟、病毒侵染の地」て。(笑)

まぁ、仁川から出て行って欲しい外国人達と、水も満足に補給できない「不毛の地」である仁川から早く出たい日本兵。
その辺は共通してるんだけどなぁ。
如何せん、この頃はまだ朝鮮政府の差し止め要求に応じてる頃だからねぇ。


ってところで、取りこぼした分しかやってませんが、長くなったので今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)


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さて、前回までで、大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』の本文を見ました。

今日は別紙の方に移ります。
とは言っても、やっぱり乙号と丙号は見つかんないんですが。(笑)

まぁ取りあえず、内政改革の必要性を述べ、委員を定めて大鳥と協議するよう上奏したという、別紙甲号から見ていきましょう。

アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』の34画像目、左側から。
とは言っても、墨がぶっと過ぎて読めないので、『高宗実録』と『駐韓日本公使館記録』からパクリングで。

使臣大鳥圭介謹
奏恭惟
大君主陛下
聖徳日躋兆民沐化
郅治彌隆寰宇獻頌無任欽仰之至窃当
南民蠢爾梗化敢扶有司跳梁一時
王師爰発大張撻伐復慮滅此朝食之不易竟有借隣援之挙我
政府有聞於此以為事体較重乃奉
大皇帝陛下諭旨令使臣帯領兵員回任
闕下自衛使館商民併念
貴国休戚所繋如有所求兼可一臂相助以盡敦隣友誼使臣銜
命抵京也適聞完城克復余党竄退於是班師善後漸将就緖此莫非
威徳所被実為内外所共慶頌也顧我日本国與
貴国共処東洋一方疆域逼近詢不翅輔車唇歯況講信修睦使幣往来今昔不渝徴之史冊歴然可稽方今観列国衆邦之大勢政治教民立法理財勧農奨商無非富強自致逞長専能而欲雄視宇内耳然則泥守成法不思通変達権広開眼界不力争勢自主何能相持介立乎列邦環視之間耶是以又命使臣以会同
貴朝廷大臣講明此道相勧
貴政府務挙富強実政則休戚相関之誼於是乎可始終輔車相依之局於是乎可保持矣伏望
陛下聖鑑降
旨飭令辨理交渉大臣或専委大臣会同使臣俾盡其説庶幾無負我
政府篤念隣誼至意則大局幸甚使臣圭介不勝仰望屏息之至爰祈
陛下洪福無疆謹
東学党の乱が起きたので、軍を動員して討伐しようとしたが簡単にはいかず、清国に援兵を頼んだ。
日本政府はこれを聞いて事態が比較的重大だと思い、天皇陛下の諭旨によって公使館と商民を保護すると同時に、要請があれば隣国の友誼によって援助しようと、兵を連れて来た。

私が京城についた頃、丁度全州城を奪還して残党は逃げたという話を聞き、撤兵して善後処理し、徐々に収まっていくのは高宗の威徳によるもので、喜ばしいことだ。

日本と朝鮮は共に東洋の一地方にあり、領土は近く、唇歯輔車の関係にあり、友好的に使臣や弊物が行き交うのは今も昔も変わらない。
今、世界の大勢を見るに、政治・教育・立法・財政・勧農・商業奨励により富強をなさない国は無く、世界に雄視されることを欲している。
しかし、昔の決まりを守ることに拘泥し、変わることや視野を広げることを考えなければ、どうして列国の中で自主権を存立できようか。

そのために、朝鮮の大臣と会同してこれらに対する方途を講じ、朝鮮が富強の実を挙げる政策を勧告すれば、朝鮮との友好関係も維持されるだろう。
従って、辨理交渉大臣か専委大臣に私と会同して議論を尽くすよう命じて欲しい。
くらいで良いかな?

続いて、6月28日に照会された、保護属邦の4字を認めるかどうかの照会文。
同じく37画像目から別紙丁号。

第59号

以書柬致啓上候。
陳者今般本国外務大臣の訓令を奉じたるに、我暦本年6月7日東京駐在清国欽差公使汪氏の照会に接到候処、其中且派兵援助乃我朝保護属邦旧例等語有之。
然るに、我国政府は初めより朝鮮を認めて自主独立の邦国と為し、現に明治9年2月26日訂結両国修好條規第1項にも、朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有すとの文字明載有之候処、該清国欽差の照会は全く之に反対し、実に意外の儀に存候。
右は、日朝両国の交際に対し至大の関係を及す儀に付、朝鮮政府に於ても自ら保護属邦4字を相認め候儀に存候哉、至急貴国政府に向て御意見を相慥め可申との儀に有之候。
依て、該清国欽差照会寫相添、茲に及御照会候間、明日即我暦本月29日を限り、何分の御回答相成様致度、此段及御照会候。
敬具
ま、読んだままなんですが、一応。(笑)

日本暦の6月7日の在東京清国公使汪鳳藻の知照に、「派兵援助乃我朝保護属邦旧例」って言葉があったんだよね。
でもさ、日本は最初から朝鮮を自主独立の国として、現に明治9年2月26日に締結した日朝修好條規の第1項にも、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」って明確に書いてるのにさぁ、汪鳳藻の言ってるのって全然これと反対だし、ビックリだよね。

でさ、これ日朝両国の付き合いに非常に大きく関係してくるしさ、朝鮮政府でも自分から「保護属邦」の4文字を認めんのかどうか、至急朝鮮政府に意見を確かめろって、陸奥から言われたんだよね。
だから、汪鳳藻の知照の写しも添付して照会するから、明日までに何らかの返事くれや、と。

まぁ、1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』で大鳥が要約してた通りの内容。
っつうか、先走りし過ぎな気もしますが。


ってところで、今日は早めにここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



前回は大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』から、問題を独立属邦と内政改革の二種類に区別し、以下の順序に従って決行したいという所まで見ました。

今日はその続き。
アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』の31画像目、左から2行目から。

(甲) 独立属邦の問題

第一着
本月6日、東京駐在清国公使より貴大臣閣下に送呈したる公文寫を朝鮮政府に送り、同政府は保護属邦の4字を認むるや否を慥むる事(但し是は本日別紙丁号の通り照会を遂げたり)。
最初は、独立属邦問題について。
まずは、在日本清国公使汪鳳藻から陸奥に送られた公文の写しを朝鮮政府に送り、朝鮮政府が「保護属邦」の4字を認めるかどうかを確かめる。
ただし、この件については、既に本日6月28日に別紙丁号のとおりに紹介済み、と。

この、汪鳳藻から陸奥に送られた公文の写しってのは、昨年の2月12日のエントリーで見た清国の出兵知照の公文の事かな?
いや、別紙丁号見た方が早いか。
ってことで、ちょっと後回し。

兎も角、まずは「保護属邦」とか清国が言ってるけど、どうなんよ?という確認を行うわけですね。

んじゃ、続き。

第二着
朝鮮政府は、若し我国は自主独立にして清国の属邦にあらずと返答したる時は、我は「朝鮮政府に向ては」今清兵は保護属邦と称して貴境に入りしは、是れ貴国の独立権を侵害せり。
之を退去せしめて日朝條約の明文を全ふるは貴政府の義務なれば、早く之を逐出す可し。
若し貴国政府の力にて之を能せざるときは、我兵力を以て貴国を助け、之を逐払ふべしと相迫り、「清国公使に向ては」貴国は保護属邦を名義として朝鮮に派兵せられたる事は、我政府の飽迄不同意を唱ふる所なり。
我政府は初めより朝鮮の独立を認めたれば、其独立を保護する義務あり。
且つ、朝鮮政府も亦貴国の属邦にあらざる旨を明言せり。
左すれば、貴国の兵は不正の名義を以て派来したる者に付、速に引払はるべし。
若し躊躇せらるるに於ては、余儀なく我兵力を以て之を引払はしむ可き旨通知す可し。
又、若し朝鮮政府は清国の属邦に相違なき旨返答したる時は、我は一応督弁に面会して其利害を説明して、公文を撤回せしむべし。
彼若し我説に服せざるときは、公然朝鮮政府に向て彼が修好條規第一款に背き、且つ訂約已来17年間我を欺きたる罪を責め、兵力を以て之に迫り、彼をして謝罪の実を挙げしめ、我に満足なる補償を取るべし。
又、若し朝鮮政府は我国は古来清国の属邦と称せらるるも、内治外交は自主に任ずる約束なれば、自主の邦国たるに相違なしと返答したる時は、我は朝鮮政府に向て、内乱を鎮定したるは内治に属せり。
然るに清国は、保護属邦の名義を借りて其兵を前派したる者は、是れ内治に干渉するなり。
属邦の実を挙げんとする者なりと云ふ理由を執り、其他は第一項の手続に従て韓廷及清使に迫るべし。
朝鮮政府の返答が、朝鮮は自主独立で清国の属邦ではないという返答をすれば、朝鮮政府に向かっては、今回清兵は保護属邦と称して朝鮮国境内に入ったのは朝鮮の独立権を侵害しており、これを退去させて日朝条約の明文を守るのは朝鮮政府の義務だから、早く追い払え。
自力でできねーのなら、日本の兵力で朝鮮を助けるから追い払え、と。

一方で、清国政府に対しては、清国が保護属邦を名義として朝鮮に派兵した事について、日本政府は飽くまで不同意。
日本政府は朝鮮の独立を最初から認めており、その独立を保護する義務がある。
しかも朝鮮政府も清国の属邦ではないと明言している。
そうであれば、清国兵は不正の名義で来たという事であるから、速やかに引き払え。
もし撤兵を躊躇するなら、仕方なく日本の兵力によって引き払わせるという旨を通知する、と。

割と力押し。(笑)

で、朝鮮政府が清国の属邦だよと認めちゃったら、一応外務督弁に面会して利害を説明して、公文を撤回させる。
その説明にも納得しなかったら、公然と朝鮮政府に向けて日朝修好條規の第一款に背き、締結から17年間日本を欺いた罪を責め、兵力で朝鮮に迫って謝罪させ、日本が満足できる補償をとる、と。

ちょ、全然問題解決になって無ぇぞ、それ。(笑)

最後に、もし朝鮮政府が、昔から清国の属邦と称されてるけど、内治外交は自主に任せる約束なので、独立国であることに相違ないと返答すれば、朝鮮政府に向かって内乱を鎮定するのは内治に属する事だ。
それなのに、清国は保護属邦の名義を借りて派兵しており、これは内治に干渉し、属邦の実効を挙げようとするものだという理由により、その他の手続きは清国の属邦ではないという返事をした場合と同様にして、朝鮮政府と清国公使に迫る、と。

要するに、清国が政略的に清韓関係を曖昧にしてきた部分を突く、って事でしょうね。

続いては内政改革問題。

(乙) 内政改革の問題

第一着
国王に奏上する事(去26日、既に奏上を遂げたり)。
まずは、内政改革について高宗に上奏する事。
で、これはもう26日に奏上した、と。
6月18日のエントリーで言ってた、「別紙甲号」の話ですね。

んじゃ、次。

第二着
改革案を政府に提出し、政府は我勧告を容れて改革を実行するや否決答を促す可し。
改革案を朝鮮政府に提出し、朝鮮政府は日本の勧告を受け入れて改革を実行するのかどうか、返答を促す。

第三着
朝鮮政府若し勧告に応ぜざるときは、條理の許す限りは恐嚇手段を執り、其実行を促す可し。
もし朝鮮政府が勧告に応じなければ、条理のゆるす限りは恐嚇手段に訴え、その実行を促す、と。
やっぱり力ずくかよ!(笑)

つうか、そんなんで「改革」になるかよ。( ´H`)y-~~
何考えてんだ、大鳥。
いや、「奴らには無理」ってのが前提なのかも知れないけどさ。(笑)

右甲乙両問題を決行するが為め、本官は前陳の手続に依るべき考案に有之候得共、実行の際には充分注意相加へ可申、又当地駐在の各使臣へも、予め我趣意を表明して異論を招かざる様に取計可申と存候。
且つ、本件に付き電信不通の為め、明日特に八重山艦にて二口翻訳官補を佐世保に派し電稟に及び候得共、猶ほ為念茲に委細及具申候也。

追て当地の形勢は漸く危険に相迫り候に付、居留民老幼婦女母をば仁川又は本邦へ避難せしむ可き考に有之候。
別紙乙、丙両号は、送第84号を以て発送済。
ってことで、独立属邦と内政改革の問題について決行するため、大鳥は前述の手続きに拠る考えだけど、実行の際には充分注意するし、朝鮮駐在の各国使臣へも予めその趣意を表明して異論を招かないようにしたいと思う。
かつ、この件については、電信不通のため29日に二口翻訳官補を佐世保に派遣して電稟するけど、一応念のために詳細を具申しておくね、と。

この重要かつ急ぐ話の時に、また電信不通かよ。(笑)
使えねー。

で、追伸として、朝鮮の形勢が危険になってきたので、居留民中の老幼婦女を仁川か日本本国へ避難させるべきと考えている。
前回、「乙と丙が無いっぽい」と言ってましたが、送第84号で発送済、と。
いや、その「送第84号」とやらが見あたらないんですが・・・。


長くなりましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



前回は大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』から、改革案が調製され次第、外務督弁か高宗から特命された改革取調委員にそれを提出して協議に及ぶ、という話まででした。

今日はその続きから。
アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』の30画像目、右側真ん中当たりから。

んでは早速。

尤も、先頃より内々改革派をも教唆致し、我は外より迫ると同時に、内に興りて改革を促す可き手筈に致置き候得共、前陳の通り改革派の勢力甚た微弱なれば、彼等果して能く内応の功を奏するや否甚た覚束なく被考候。
萬一我より改革案提出の際、彼は清使の後援を頼み拒絶して受けざるか、若くは陽に之に応じて其実行を躊躇するが如き場合ある時は、本官は條理の許す限りは手荒き手段を用ゆるとも必行に至らせ申度考に有之候間、左様御承知相成度候。
この前から内々に改革派をも教唆して、日本が外から改革を迫ると同時に、内から改革を促させる手筈をとっておいた、と。
しかし、前述のとおり改革派の勢力は非常に小さいので、彼らが果たして上手く内応できるかは、非常に覚束ないだろう、と。
10数人じゃあねぇ・・・。(笑)

で、万一我々から改革案を提出した際に、朝鮮側で袁世凱の後援を頼んで拒絶して受けないか、又は表向きはこれに応じて置きながら、実際は実行を躊躇するような事があれば、大鳥は道理の許す限り手荒い手段を用いても必ず実行させたいと思うので、ヨロ。

つうか、6月4日のエントリーの閣議決定に基づく内政改革の要求内容は、大鳥にはまだ全く伝わってませんし、何をそこまでの気合いでやるつもりなのか、と。(笑)

将又、清国政府の挙動は或は硬、或軟、甚だ曖昧にして判然致し不申、去22日出発の清兵500名程は、同24日牙山に到着致候得共、右は補充の為め派送せられたる趣きにて、其余の兵隊は出発準備の報告に接したる迄にて、未だ渡韓の実否相分り不申、又同国兵入京の説も全く相止み申候。
左れば、清国政府は我と干戈相見るの非策なるを悟り、平和手段を以て両兵撤退の功を奏せんと盡力致居るにあらざるかと被推測候。
一方で、清国政府の挙動は硬軟も非常に曖昧で判然とせず、6月22日に出発した清国兵500名ほどは24日に牙山に到着したけど、これは補充のために派送されたようで、残りの兵は出発準備の報告があっただけで、未だに渡韓したかどうかは分からず、清国兵入京の説も全く途絶えた、と。

日本以上に、現地の袁世凱・葉志超と天津の李鴻章、北京政府の三者間で温度差がありそうですからねぇ。
曖昧で判然としないのも当然かと。

であれば、清国政府は日本と戦争する事が得策ではないと悟り、平和的手段によって日清両国の撤兵を成功させようと尽力しているのではないかと推測する、と。
李鴻章は腹固めたらしいけど、「清国政府」としてはどうなのかなぁ・・・。
イギリスとかが止めろって言わなきゃ、そのままゴーサイン出してたんだろうか?

尤も、去る23日及び25日の両日に、袁世凱より別紙乙・丙号の如き書面を送り、「目下全羅道に於ける民乱は既に平定したりと報告すれども、巨魁及余党の行衛詳ならざる程なれば、未だ充分に平定したる者と見做し難し。右は、他国の為め兵を駐むる口実を与ふるものに付、清韓共に兵を派して剿討の実功を奏す可し」 と相迫り候処、朝鮮政府にては其返答に当惑し、只泣き付くが如く、切りに袁氏に向て出兵中止の事を依頼致居るやに及漏聞候。
で、6月23日と25日に袁世凱から別紙乙・丙のような書面を送られた。
アジ歴には、乙と丙が無いっぽいんですが・・・。

内容的には、現在全羅道の民乱は既に平定したと報告してるけど、首領や残党の行方も詳しく分かってない程で、まだ充分平定したものとは見なせない。
これは他国に兵を駐屯させる口実を与えるもののため、清韓ともに兵を派遣し、剿討の実効を挙げよう、と。

これを見る限り、別紙乙・丙号って、3月14日のエントリーあたりでやった話かな?

で、これを迫られた朝鮮政府はその返答に困り、ただ泣きつくように袁世凱に仕切りに出兵中止をお願いしていると聞き及んでる、と。
「ケンチャナヨでやらせてくれよぉ」みたいな。(笑)
そんなんだから「停滞」とか言わるんですが。

前陳の通り、日清両国兵は各々20余里を隔てたる遠地に駐屯し、而して其目的も一ならざれば、幾日を経過すとも両兵相衝突す可き機会無之。
然るに、我兵は追々増加して彼に2、3倍したれば、我利は速戦に在る事勿論なるのみならず、内治改革の目的を達するに於ても亦速戦を利益とす可きに付、去26日第11号を以て其趣電稟に及びたる次第に有之候。
然処、本日加藤書記官来着、貴大臣閣下の御趣意も充分致了解候に付、前緖を追ひ、問題を独立属邦と内政改革の2種に区別し、左の順序に従て之を決行可致と存候。
前述のとおり、日清両国兵はそれぞれ20里余りを隔てた遠地に駐屯し、その目的も別々なので、何日経過しても両国が衝突する機会は無いだろう。
しかし、日本は徐々に兵力を増加して清国の2~3倍居り、日本の利は速戦にあるのは勿論なだけでなく、内政改革を達成するという面でも速戦が利益となるだろうから、6月26日に第11号で電稟した次第だ、と。

この第11号ってのは、5月30日のエントリーの1894年(明治27年)6月26日発『電受第317号』のことですね。
つうか、加藤書記官到着前から公使館側もやる気満々なわけね・・・。(笑)

で、そんな処に加藤書記官が到着。
陸奥の趣意も充分に了解したので、経緯を踏まえて問題を独立属邦と内政改革の二種類に区別し、以下の順序に従って決行したいと思う、と。


ってところで、少し早めですが、区切りの良いところで今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



さて、今日からはやっと6月28日の史料に入って行きます。
前回は28日分の混成旅団報告を探していて27日分のものを見つけたわけですが、その28日分の報告については、30日付で報告がされてるので後に譲る事に。(笑)

ってことで、それ以外の28日分の史料について。
まずは、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』。
28画像目から。
長いので、分割しながら見てきます。
それでは、大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』。

朝鮮属邦説を排斥し并内政改革断行手続に付上申

昨27日、加藤書記官着仁。
本日午前入京候に付、委曲御訓令の趣致承知、并に是迄貴我の電信にては意味充分に相通せざりし廉をも判明致候。
6月27日に加藤が仁川に到着し、28日に京城入り。
6月24日頃に広島を出発している筈なので、広島・仁川間で4日くらいかかるのか。

で、3月7日のエントリーからちょくちょく言われてた、陸奥の訓令を持ってきて、承知した、と。
この訓令の内容ですが、杉村濬の『在韓苦心録』の記述(『対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録/1 前編 1(レファレンスコード:B03030197800)』31画像目)が事実だとすれば、「27日、加藤書記官は外務大臣の内訓を帯びて到着せり。其大要は今日の形勢にては、行掛上、開戦は避くべからず、依て曲を我に負わざる限りは如何なる手段にても執り、開戦の口実を作るべし。尤も斯る事は訓令として書面に認め難ければ、特に加藤を派すとの事なりき。」だそうで。

まぁ、加藤の出発時点で得られていた情報って、3月7日のエントリーから4月14日のエントリーくらいの間の話ですからねぇ。
つまり、日本の提案の拒否と清国から援軍が来るっつう話で、全兵力を京城に移せとか訓令が出てる時期。

刻一刻と変わる情勢に、京城公使館側も日本政府側もついて行けて無ぇ。(笑)

で、これまで何度か指摘してきましたが、電報だけでは意味が充分通じてない事も分かった、と。
辛うじてリアルタイムと言えるのは英文電報だけで、最低限の情報しか無い上に誤訳もあったのかも知れず。
一方、書翰は1週間も10日も経ってから届くわけで、そもそもの情報量も不足してますからねぇ。
つうか、この書翰自体、1週間以上経った7月5日に着くわけで。(笑)

後は、対清交渉が重要な日本政府と、対朝鮮交渉を重要視する公使館側の温度差もあるのかもなぁ・・・。

扨、当地の形勢は追々電信及び機密信等にて申進候通り、当政府一般の希望は只管無事平穏を願ひ、日夜日清両兵の撤回を僥倖し、而して其目的を達する手段として、初めは専ら袁世凱に依頼したるも急速の結果を見ざるに付、更に転じて各国公使に周旋を依頼し、或は電信にて李鴻章に依頼する等、可及丈の手段を盡し居るやに致推察候。
さて、朝鮮の形勢は逐次電信や機密信で報告してきたように、朝鮮政府一般の希望はひたすら平穏無事を願い、日夜日清両国兵の撤兵の幸運を願ってる、と。
で、その目的を達するための手段として、最初は専ら袁世凱を頼ったけど結果が出ないので、今度が各国公使に周旋を依頼したり、電信で李鴻章に依頼するなど、出来る限りの手段を採っているように見える、と。

清国軍、呼ばなきゃ良かったのに。(笑)
一昨年の12月27日のエントリーの時点で、大臣達が既に指摘してる事ですし。
アホちゃうか、と。(笑)

んじゃ、続き。

又袁世凱は、此際頻りに大言を放ち、或は偽造電信を送りて韓廷官吏を恐嚇し、日本政府今回の挙は全く朝鮮を併呑せんとの野心を包蔵するとか、又は内治干渉の端緖を開かんと欲するに在るとか、自分勝手の理窟を製造して韓官に説込むが為め、左なきだに日本を嫌悪して支那に依頼心深き韓廷の老人連は、徹頭徹尾支那には離る可からず、仮令日兵は一時多数なるも最後の勝利者は必ず支那ならんと確信し、其他稍々時世に通じたる者と雖ども姑く両端を観望し、其勝敗を見て去就を決せんとする様子なれば、所謂ゆる日本党と称せられて或は陽に或は陰に運動する者は、目下勢力なき金嘉鎭、兪吉濬、趙羲淵、安駉壽等10余人に相過ぎ不申候。
斯る有様なれば、此際是非とも支那と一衝突を興し之を打破したる後にあらざる已上は、内政改革の目的充分に貫徹するを得ざるべしと思考致候へ共、日清両兵の衝突は容易に招き難く、依て内政改革を先きにし、若し之が為め日清の衝突を促さば僥倖なりと切りに謁見を促し候処、去26日午後3時、国王殿下には本官を引見せらる可き旨内務督弁より通知有之候に付、此機会に投じて内政改革の端緖を相開き、追て加藤書記官の来着を待て改革案を政府に提出す可くと存じ、別紙甲号寫の通り内治改良の必要を述べ、且つ委員を定めて本使と協議相成候様致度旨殿下の前に言上に及び、同時に上奏文(即別紙甲号の)奉呈致置候。
就ては、改革案調成次第外務督弁又は殿下より特命せられたる改革取調委員に提出して協議に及び可申と存候。
袁世凱は例の如く大言を吐いたり、偽造電信で朝鮮官吏を脅しつけたり、日本の今回の行動は朝鮮を併呑するという野心を持ってるとか、内政干渉の端緒を開くためとか、好き勝手な事を吹き込む、と。

そうでなくても日本を嫌い、清国に対する依頼心が強い朝鮮政府の老人達は、あくまで清国から離れてはならず、例え日本が一時多数であっても、最後の勝者は必ず清国だろうと確信し、その他やや時勢に通じている者も両天秤の様子見で、勝敗を見て去就を決めようという様子なので、所謂日本党と言われ表だって、あるいは裏で運動する者は、現在勢力の無い金嘉鎭、兪吉濬、趙羲淵、安駉壽等の10数人に過ぎない。
少ないねぇ。(笑)

で、そういう有様なので、この際是非清国と一回衝突して打破した後でなければ、内政改革の目的は充分には貫徹できないと思うけど、日清兵の衝突という事態を招くのは簡単ではない、と。
牙山と京城じゃ、何らかの外交上の破綻が無い限り、ちょっとしたいざこざが原因で、というわけにもいかないですからねぇ。

ってことで、内政改革を先にして、そのために日清の衝突が起きれば僥倖だとして頻りに謁見を催促していたら、6月26日の午後3時になって高宗が謁見するという通知をもらい、その機会に内政改革の端緒を開いて、その後加藤書記官が来たら改革案を朝鮮政府に提出しようと思い、別紙甲号のとおりに内治改良の必要を述べて、かつ委員を定めて大鳥と協議するようにしたいと高宗に述べ、上奏文を奉呈。
改革案が調製され次第、外務督弁か高宗から特命を受けた改革取調委員に提出して、協議に及ぶことになるだろう、と。
甲号については後述。

つうか、衝突は結果であって目的では無いわけですが。(笑)

3月24日のエントリーで大鳥自身が元山の上野領事に述べているとおり、「若し清兵増遣の報告事実に有之候はば、或は日清両兵の衝突測り難しと雖ども、幸に増兵の事実なきに於ては、結局無事落着に至るべくと被考候。」であり、今回の冒頭で「是迄貴我の電信にては意味充分に相通せざりし廉をも判明致候」と述べてはいるんですがねぇ・・・。

外交的には、ロシアのヒトロヴォに対して5月8日のエントリーで述べているとおり、日本に同意するか、同意しないなら邪魔すんなに対して、清国のリアクション待ちの状態。
でも、外交上の交渉破綻というのは、それ自体が開戦の理由になるのであって、わざわざ大鳥に開戦理由を探させる必要性があまり無いわけで。

逆に、軍事的に東学党の乱が収まったと言いながら追加派兵→日本への敵対行動とは見なせるものの、最後通牒も出していないこの時期、開戦に至る明確な理由が無い。

だから、冒頭で述べた『在韓苦心録』の記述が事実とすれば、清国出兵の情報を受けての措置、と考えるのが妥当だと思うんですがねぇ。

まぁ、当時の大鳥や陸奥は俯瞰して見るわけにも行かないわけですけどね。


ってところで、途中ですが長くなりましたので、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



さて、先月中頃に4つもエントリーを使うほど対韓政策についての具申を述べてた京城領事の内田定槌ですが、その返事も無いうち、というか、その翌日には再び具申を行っています。(笑)
今日はまずそれを見ていきたいと思います。

史料は、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』。
25画像目。
内田定槌から陸奥への、1894年(明治27年)6月27日付『機密第28号』より。

対韓政策に関し意見再申之件

今回帝国政府より、海陸の大軍を当国へ向け御派遣相成候好機会を利用し、当朝鮮国を以て我日本帝国の保護国と為すの条約を締結し、我政府に於て当国の内治外交に干与し、其進歩改良を図りて之を富強の域に導き、一は以て我帝国の勢力を拡張し、併せて帝国商民の刑益を増進するの御政策を執られ度旨、昨26日付機密第26号を以て上申致置候処、右条約の締結方は一日も御遅延無之、可成速かに御決行相成度ものと存候。
何となれば、斯る条約を締結するには、当国政府に向て多少の威力を示すの必要も可有之と存候処、若し今後清国の軍隊が続々入京することにも相成候はば、現政府の当路者は例によって之を頼みとし、我外交官の言を容易に採用せざるべきを以て、其掛合方、益々困難に至るべき義と存候。
尤も、斯る計画を実行するには、我国と清国との衝突は到底免る可からざる義に付、早晩交戦を要する事と存候処、弥交戦の廟議相定り候上は、我軍隊が当地に於て昿日持久、清兵陸続として来着するを俟ち、彼より我に向て戦端を開きたる時に至り始めて之に応戦せんよりは、寧ろ清兵の入京に先立ち速に当国政府に要請し、朝鮮国をして我日本帝国の保護を受けしむるの条約を締結し、我政府は此条約に依り、朝鮮政府をして現に牙山其他の地方へ屯在する清兵の撤去を要求せしめ、若し之を撤去せざるときは、其所為を以て当国の安全を害するものとし、我より進んで之を襲撃し、爾後続々当地へ向て来着する清兵は皆、之を途に要撃して其入京を拒絶する様致度ものと存候。
若し夫れ然らずして徒らに清兵の来着を俟ち、戦否を決せず、亦当国政府に対しても何等の処分を決行せざるときは、折角我数千の軍隊が当地へ先入したる甲斐も無之候に付、今回の事件は何卒清韓両国を始めとし、其他の列国をして所謂霹靂一声迅雷耳を掩ふに遑あらざるの感を起さしむること、頗る肝要と存候。
右及再申候。
敬具
5月16日のエントリー5月19日のエントリー5月21日のエントリー5月23日のエントリーで具申した保護条約の件については、成るべく早急に締結をして欲しいと思う、と。
いや、前日に具申したばっかりなのに。(笑)

何故なら、このような条約を締結するためには、朝鮮政府に対して多少軍事的圧力をかける必要もあるだろうと思うが、もし今後清国の軍隊が京城入りすることになれば、朝鮮政府当局者は例によってこれを頼みとし、日本の外交官の言葉を簡単には採用しないだろうから、その交渉は益々困難になるだろう。

尤も、このような計画を実行すれば、日本と清国との衝突は到底免れないだろうから、遅かれ早かれ交戦が必要だろうし、いよいよ交戦が廟議で決定されれば、日本軍が為すことなく月日を過ごして清国軍が続々と到着するのを待ち、清国から日本に向けて戦端を開いてから応戦するよりは、清兵が入京する前に朝鮮政府に要請し、朝鮮国に日本の保護を受けさせる条約を締結し、朝鮮政府から清国兵の撤去を要請させ、もし撤去しない場合にはそれを朝鮮の安全を害するものとし、その条約に基づいて日本から清国軍を襲撃し、以後朝鮮に到着する清国兵は、みんな途中で要撃して入京を拒絶するようにしたいと思う、と。

まぁ、確かに専守防衛よりは先制攻撃の方が被害は少なくて済むわけですが。
つうか、前回の具申の時もそうだったんだけど、視野が狭い気が・・・。(笑)
実際に開戦避くべからず、って状況になれば有効な手段かも知れませんが、まだ色々と交渉中ですからねぇ。

で、それをせずに徒に清国兵の来着を待ち、戦うか否かを決定せず、朝鮮政府に対しても何も行わなければ、折角日本軍数千が朝鮮に来た甲斐も無いため、今回の事件は清韓両国だけでなく、その他の列国に対しても雷鳴が鳴って耳を塞ぐ暇がないって感じを起こさせるのが、非常に重要だろうと思う、と。

いや、「開戦」だけならそうかも知れませんがねぇ・・・。(笑)

さて、これで6月27日の史料終わったかと思って、28日の旅団報告を見に行ったんですが、27日の旅団報告がまだあることが分かりまして・・・。
5月30日のエントリーで見た『第8号』で、6月27日の報告終わりじゃなかったのね。
_| ̄|○

ってことで、アジア歴史資料センター『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第9号(レファレンスコード:C06061758500)』を見ていくことにします。
んでは早速。

混成旅団報告  第9号日

一 第二次輸送兵、本27日午後5時頃悉皆到仁す。
 直に揚陸に着手し、上陸次第出発。
 龍山に向ひ出発することに決す。
 第二次の先着大隊は、直に出発する筈なり。

二 此諸兵は、龍山先着隊の幕営地の西方、揚花鎮より南大門に至る道路の附近に宿営せしむる予定なり。

三 宮門を守備することは目下必要にして、本便を以て到来したる加藤并に釜山総領事も大賛成に付き、右両人公使へ談判の為め、夜を冒して京城に入る筈なり。

右謹而報告仕候也。
5月30日のエントリーで見た『報告第8号』中にも、「第二次輸送諸隊、本日仁川に到着するの予定なるを以て、長岡参謀を仁川に派遣す。」とか「午后8時20分、在仁川兵站監の電報到着。曰く、我運送舩続々入港す。」なんて報告がありましたが、第二次輸送隊の到着は27日の5時頃、と。

すぐに京城へ出発し、龍山に先に到着している部隊の西、揚花鎮から南大門への道路附近に宿営予定。
宮門を守備する事が目下のところ必要であり、この輸送隊と共に仁川についた加藤と釜山総領事も大賛成なので、加藤と釜山総領事は大鳥公使に談判のだめに、夜でも敢えて京城入りする筈、と。

加藤が外務省の加藤増雄書記官で、釜山総領事が室田義文かな?
つうか、宮門の守備の「宮門」ってどこの事を指すのかなぁ・・・。


ってところで、ちょっと早めですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
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日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
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日清戦争開戦まで(二十)
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日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



今日は前置きなしで。
今日も、『駐韓日本公使館記録』から見ていきたいと思います。
天津の神尾少佐から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月27日付の清国軍の動きに関する報告から。

別紙小官の過去に於ける所見及要電二三貴覧に供し度差出候也。
追て御一覧の上は、軍部当局者及渡辺少佐に御示し相成度し。
神尾の所見といくつかの要電の報告。

ってことで、その別紙を見ていきます。
まずは、神尾の所見。

朝鮮事件一転して日清の関係となりし以来、李鴻章の行為は左の如くなりしと判断せらる。

一.本月17日より18日に至る間に於て、李は左の決心を為したるべし。
兵力に訴へ候も、自己の所信を枉ぐる事能はず。
換言せば、日本の要求は断じて容る事能はず。
寧ろ兵力に訴べし。

一.前記の決心に基き、次の処置を為したり。

一.盛京軍及北塘の兵并に軍艦数隻に出師準備を命ぜり。
二.一時出発を見合せありし蘆臺山海関の残余の兵を送遣せり。
三.北洋一般に戒厳令を布けり。
四.盛京軍北塘兵の派遣を奏請せり。
五.朝鮮国王に電報せり。
云く、如し日兵をして先づ撤せしめざれば、我も亦兵を派して彼れと争はん爾の因危し。
然るに、1日待ち2日待つも遣兵の勅許は来らず。
漸く21日若くは22日に至り、軍機大臣より密寄あり。
曰く、和すべくは和し、戦を避けよと。
之と同時に総理衛門よりも来翰あり。
各国公使が出兵を以て不可と為す故に、貴大臣出兵の事には同意し難しと。
出師準備を完れり在朝の為官は切りに増兵を請ふにも拘はらず、今日まで1兵も派する事能はざるなり。
然し、目下尚北京政府と往復中なるべく、且又盛京軍等は全く準備を終へ一令の下発し得る用意を為し居れり。
但し海軍の準備はなし。
カウントカシニー氏は肥後丸に乗る筈なりしが、俄に其行を止めたり。
密に寄り尚数週間は滞在すべしと。
思ふに、両国間に口入れの為めなるべし可悪云云。
盛京軍の出発は、北京政府が李の説に同意したる時なり。
宣戦布告と同様に心得不能被為候。
さて、李鴻章は6月17~18日の段階で日本の要求を受け入れず、むしろ兵力に訴えるべきだという決心をしたらしい、と。
この辺、2月19日のエントリーの1894年(明治27年)6月19日付『機密第8号』でも見ましたね。

で、各兵の出発準備をすると共に、北洋一帯には戒厳令を布き、盛京軍北塘兵の派遣を要請。
高宗に対しては、もし日本兵を先に撤兵させなきゃ、清国も兵を出して戦争になるかもよ、と。

ところが、待ってても中央から出兵の許可が出ないばかりか、軍機大臣からは妥協できるとこは妥協して戦争は避けろ、と。
同時に、総理衛門からも、各国公使が反対してるから出兵には同意できない旨の書翰が来て、出兵できないでいる、と。
3月5日のエントリーを始め、何度か清国の援軍が送られる話が出ていたのに実際にはまだ送られてないのは、そういう事情のためだったんですね。

で、現在北京政府とやりとりしてて、増援部隊は準備を終えて、命令が出たら即出発できる態勢。

在清ロシア公使のカッシーニは、3月4日のエントリー辺りでは海路でロシア本国に帰る事になってたんですが、どうやら延期して暫く滞在するようで。
っつうことは、5月2日のエントリーでウェベルを予想してた李鴻章からの斡旋依頼は、カッシーニのまんまで良いのかな?
ま、いいや。(笑)

最後に、盛京軍が出発=北京政府が李鴻章に同意だから、宣戦布告と同様だと思っておいた方がいいべ、と。
東学党の乱が鎮圧したと言っている以上、現段階以上の増兵ってのは日本側への敵対行動に他ならないわけで。

続いては、別紙のうちのもう一つ。
要電2~3の方を見ていきます。
全部まとめて見ていきますので、よろしく。

6月22日李鴻章の幕僚より葉提督に送りし電文

蘆防隊伍300人、馬80匹、楡防雷営70余名、帯旱雷100余、踹雷30并碰雷各件18晩到塘沽上陸定19晩潮出口赴牙江18晩五點鍾自沽關牙19

6月23日聶士成よりの来電

近日教匪雖未盡平己派小隊恠緝匪首惟倭人陸続来兵万人船9艘由仁至漢布置厳密並於漢城修築行営砲台韓王甚恐頃拠袁観察電称明日倭使請見韓王必議三事雖囑其堅持我無大兵助其胆未知究能持否云適在軍門処見相電己由芦楡両防来兵300馬70並水旱各雷比清軍門電止縁此時与倭議尚未定局若果議不成我再水陸多来大兵俾各名正言順今僅来300無濟抱事反惹倭人籍口此成愚見未審高明以為然否 20 成

前電の返電

漢城即逓 聶統領函電悉情形得為代達所論倭議未完添小隊無益甚為有是名亦深知雷馬現無大済惟軍門電催海定載馬100匹人419下午五點鍾己自唐沽開牙三更軍門電至止行業己無及牙山駁船究有幾隻就地添僱尚易否望告軍門早筹并詳示名

6月25日葉提督よりの来電

効両電悉余匪未清現派功亭帯続往剿撫兼行倭兵日増築台立営分布漢仁扼要各処反客為主多端侮韓勢張甚令憤々殊難堅忍超禡午

前電の答電

禡午電悉倭師張狂韓延惶惑無主令人憤懣懸軍究海勢皆難相述尊意進紮三路所見極是訳署以各国公使勧勿添兵難違其意尚祈加意撫循堅忍以待功亭進搜余匪自是正辨想已切戒弁勇但得治渠魁数輩勿苛協従再相聞全城被乱遺民焚糧惨苦頗為怜憫戒飭査明稍々賑恤以布国家字小之仁尤為得体於公意如何禡未
東学党の残党の話と日本兵の状況報告。
日本兵が進駐して京城や京仁間の要所押さえたりしてるし、高宗はそれにビビッてる状態。
でも、日本兵との議論が終わってないうちに増派するのは無益だし。
うぃ。
各国公使も止めとけっていってるし、取りあえず我慢して匪賊の残党狩りしといて。
って、超訳しすぎかな・・・?(笑)


兎も角、長くなってきたので今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
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日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
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日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
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日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



さて、前回は話が横道に逸れたまま終わりましたが、今日からまた本線に戻っていきます。

前回までの3回で、1894年(明治27年)6月27日に閣議決定を受けた、朝鮮に対する日本の勧告についての訓令を見てきました。
今日はそれと同様に、1894年(明治27年)6月27日に起草されたもので、これまた6月29日に栗野政務局長が携帯して京城に向かったらしいもの。

アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/7 明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の44画像目から、1894年(明治27年)6月27日『機密送第27号』。

閣下には、別信訓令中に列載せし朝鮮国内治の改良に関する事項を該国政府に勧告せらるると同時に、帝国の利益に関し左の事項を要求相成候様致度候。
即ち、

従来、清国人民が該国に於て他の各国人民に比して特有するところの一切の利益には、帝国臣民も之に均霑する事。
仮令ば仁川港の埋立工事の如き、其他両国政府間に現に尚ほ懸延するところの事項を、急速処弁せしむべき事。
又、該国をして益々文明の域に赴かしむるには、広く智識を開き、益々新鮮なる元素を注入するに如くはなし。
而して、此等新鮮なる元素を注入するには、少年子弟をして広く外国の事情に通暁し、宇内の形勢を熟知せしめ、兼て専科の学術を講習せしむるを以て第一の良策と相信候に付ては、此際同国門閥俊秀を選抜して外国に留学せしむることを御勧告相成度。
又御談話の都合にて、如し好機会有之候はば、閣下の御考として此際特赦を行はしむることを被勧試度。
御承知の通、該国にては朋党比類互に相ひ争鬩するの弊よりして脾睨相い属し、動もすれば一巳の私怨を晴さんがため、恣に罪を構え人を陥るるの風、誠に少なからず。
是れ実に文明国に有間敷悪風と謂ふべし。
故に此際特赦の典を行ひ、国事の為めに罪を負ふ者を赦免し、政府の宏量を示し、以て人心を収撹することを務むるは同政府の為め得策と存候。

右申進候。
敬具
前回までの勧告と同時に、日本の利益に関して次の通りの事項を要求するようにしたい。

で、その要求事項の一つ目は、これまで清国人だけが持ってる特権について、日本人にも同等の権利を与えること。
もう一つは、仁川の埋立工事のように両国間で今もまだ引き延ばされている問題について、早急に処理すること、と。

字面だけ見れば、それほど大した要求でも無さそうに見えますが、要は最恵国待遇の要求と同じですからねぇ。
すぐ思いつくのは、無許可で朝鮮内地を自由往来できたり、開港地以外の土地購入できたり、とかかなぁ。
まぁ、それ以上にもありそうな気がするけど、どんだけ清国人が厚遇されてたかは未調査。

また、朝鮮を文明の域に引き上げるには、若者に海外留学させて国外事情に精通させるのと同時に、専門的な学問を学ばせるのが一番だから、門閥俊秀を選抜して外国に留学させろ、と。

明治維新の前後とかでもそうでしたが、自国に無い部分や進んでいる部分を吸収するには、一番の方法ですね。
近代化は「してやらないけど自分でやれ」みたいな。(笑)

尤も、自国の欠点を見つめるのが苦手で、且つ表面が整っている事だけが大事という傾向がある彼の国の人が、どんだけ学んで帰れるのかは、果てしなく疑問なんですが。(笑)

まぁ、最低限「外国の事情に通暁し、宇内の形勢を熟知」して欲しいんだろうなぁ。
清国に頼る愚かさ位は分かるでしょうからねぇ。
いや、やっぱりわかんないかも。(笑)

で、最後は、良い機会を得たら特赦について、大鳥の考えとしての勧告を試みて欲しい。
分かってると思うけど、朝鮮では争闘の悪弊で、動もすれば一個人の私怨を晴らすため、欲しいままに罪をつくり、人を陥れる風潮がある。
これは文明国にあるまじき悪風である。
ってことで、国事犯を特赦して政府の度量を見せ、それによって人心収撹に努力するのは、朝鮮政府のためにも得策だと思う、と。

何で国事犯の特赦?なんて少し疑問に思ったわけですが、朴泳孝とか徐載弼とか居るんだったねぇ、と。

ってことで、これまた「政治的必要」を超えるものではない。
いや、海外留学云々の話は微妙かな?(笑)

さて、続いては5月28日のエントリーで見た大鳥から袁世凱への、「これ牙山でお前んとこの聶が出した布告だって言うんだけど、マジ?」という質問に対する袁世凱の返事を、『駐韓日本公使館記録』から見てみます。
付日は6月26日付けなんですが、旧暦5月23日で書いてるので見落としてた。(笑)
ま、日本側の接受日が27日なんで勘弁してください。

六月二十七日接

大清駐紮朝鮮総理交渉通商事宜袁 爲

照覆事照得本年五月二十三日准
貴公使照会照会開照得現有敝国人由牙山地方来京者謄寫貴国聶軍門在該地方所貼告示一紙投稟前来本公使閲読之下未審此項告示実係聶軍門出示者否為特録呈貴総理査閲即希垂示明白以判真偽是為切盼為此備文照会請煩査照可也等
因准此閲悉惟査此項告示本総理尚未得見難判真偽除抄録可也
貴文咨請
聶軍門核明覆示俟准覆文再行照知外相応先行照覆
貴公使請煩査照可也須至照覆者
右照覆
照会のあったことについて見たけど、真偽判別できねー。
聶に聞いてみるから待っててよ。
かな?(笑)


ってところで、今日はここまで。



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