今月、3回しか更新してねぇ・・・。(;´H`)y-~~
回顧するまでも無いような気もしますが、逆に数が少ないので今月の回顧録が書ける、みたいな。(笑)

< 2008年4月のエントリー >
冒頭に言ったとおり、今月はほぼ何もしてねぇ。

日清戦争開戦まで(三十)

安駉壽の内話。
閔泳駿の話やら、閔妃の話やら、袁世凱の話やら、改革派は日本兵の駐留を当てにしてたり。
感想を一言で言うと、甘えんな、と。(笑)


日清戦争開戦まで(三十一)

日本側は京城に軍を移動。
清国は東学党の残党狩りを朝鮮政府に要請。
袁世凱と閔泳駿は仲違い。
短い史料が多いエントリーですが、動きはかなり激しい。


日清戦争開戦まで(三十二)

大した史料も無い回なんですが、見つからなかった史料が全く別の簿冊で発見した回。
いやね、史料って言っても、元々はお仕事で使ってた公文書なわけで、連番じゃなくお仕事毎に綴るってのは当たり前なんですがね。
当たり前なんですがね・・・。(笑)


ってことで、こんなペースでやってたら、この話だけで子供が結婚するくらいの年齢になりそうだよなぁ・・・。(笑)
まぁ、仕事も落ち着いてきたことだし、もう少しペースアップすべく努力いたしますです、はい。
( ´H`)y-~~


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まだバタバタしてて、テキスト起こしどころか史料読む暇すら中々無い昨今、如何お過ごしでしょうか。
( ´H`)y-~~

さて、日本側は全軍を京城に移動。
一方で、清国側も東学党の残党狩りを朝鮮政府に要請してたり、袁世凱が閔泳駿と仲違いしたり、結構動きも激しくなってたところまで見てきました。

今日最初の史料は『駐韓日本公使館記録2』から。
芝罘の伊集院領事から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月25日付『機密京第2号信』。

爾来、当地方清国軍艦并に陸兵等の挙動に付、一層注意致し居るも、当港は威海・旅順と間接の関係にて事実殊に認め難く、当道台には当初李帥の隨伴せしに付、如何の口気なるやを聞かん為め帰国を待受け往来致候も、当政府の決心并に出兵後朝鮮模様等は秘する様より寧ろ分り居ざるものの如し。
然も我国出兵の件に付ては稍々不満の意に有之候。
右の次第に付、一般の人気は自然平穏の方なりしが、百■岱并に四砲台は、工事の行き掛りとも候得共、兼て独国に注文致置きたる大砲24サンチメートル3門、15サンチメ―トル3門、53密里8門、40密里12門も本月初上海より遇順艦に搭載し、威海衛に廻到し、夫より利運にて直に当港へ運送し来り。
更に、据付方殊に取急ぎ、10日を出でず何れとも其工を終へ候趣。
又、弾薬運搬等軍備致居候。
其後天津より朝鮮へ可送達大砲9門、法国船にて威海に廻達せしも、其の已に転送せしや詳にせず。
而して、丁提督陳統領にも出韓の探聞に接し、其の筋に付事実確め中、本22日帝国千代田艦突然入港致し、経遠に提督旗を飜へし、超勇・広乙を率ひ已に仁川沖にて出遇ひ候趣に付、右は確実と認め不取敢及御電報置き候も、後にて丁提督尚ほ威海に在り、林統領之を率ひ、軍艦は鎮遠、超勇、広丙たる事を探聞致候。
又、陳統領には芝罘より2営、張統領には3営を率ひ、目下一令の下に出韓の準備整ひ居り、愈々両統領にて出韓候節は、東山縣より1営、栄城縣より2営募墊候手筈に相成居候。
且つ、各軍艦は何時にても出韓の予意致し居候趣。
是等の事実は、昨今探聞に掛り急電可仕候処、析柄当港と済南府間電信線路に故障起り候為め、当港より本邦北京及び京城への電信は不通と相成り、且つ一週間後にあらざれば修繕覚束なきとの事同局員より聞及び候。
右は当政府の政略なるや否やは探偵中に候も、此際斯る通信の不便亦不得止次第に候。
当時威海にある軍艦は、定遠、経遠、来遠、威遠、広乙、鎮辺、広済なり。
致遠、済遠は、旅順にて工事尤も取急ぎ居候も、来月ならでは修繕し終らざる由。
又、朝鮮より支那に向け、続々帰国致し、22日鎮東にて700余名、翌23日肥後丸にて50名計。
是日千代田艦は佐世保に向け出帆せり。
又24日、平遠にて袁公使家族は当港に帰着せり。
兼て備へたる元と三井物産会社跡に仮便致し居候。
今般当政府出兵せる同予意の厳備なるは、何程迄の決心なるや知る能はざるも、要するに一朝事あるときは我が駐兵に劣らざるを期するものと為考候。
右は其確実と認め候もの、一括及御報告候也。
んー、分かりづらい報告だねぇ・・・。(笑)

清国の挙動については一層注意してたけど、芝罘港は威海衛や旅順港と間接的な関係なので特に報告すべき事項も無く、李帥の帰国を待ってどんな口ぶりか聞こうと思ってたけど、清国政府の心づもりや出兵後の朝鮮の様子などについては、秘密にしてるというより寧ろ分からないようで、日本の出兵についてはやや不満だ、と。
ってかんじで、一般の雰囲気も当然平穏な方なんだけど、百■岱と四砲台では、工期の関係かもしれないけど、以前ドイツに注文してた各砲が上海→威海衛経由で運ばれてきて、据え付け工事も10日も経たずに完工。
弾薬運搬等の軍備もしている、と。

で、その後天津から朝鮮へ送られる大砲が9門、フランス船で威海衛に輸送されてきたけど、それが既に朝鮮に転送されたかは分からない。
ただ、丁提督や陳統領が朝鮮に行くという情報を受け、その筋に事実確認を行ってる最中、6月22日に千代田が突然入港し、仁川沖で提督旗を掲げた経遠が超勇・広乙を率いてるのと出会ったってことなので、確実と認めて取りあえず電報しておいたけど、後になって丁提督はまだ威海衛におり、林統領が率いる鎮遠、超勇、広丙だったと聞いた。

また、陳統領は芝罘から2営、張統領は3営を率いて、現在命令が下れば直ぐ朝鮮へ出発する準備が整っており、正に両人が出発するときには、更に東山縣から1営、栄城縣から2営を集める手筈になっており、各軍艦もいつでも出発できるようにしてる。

以上の事実は、最近探聞したので急電しようとしたけど、芝罘と済南府間の電信に故障があって日本・北京・京城への電信が不通となり、修繕も1週間後でなければ覚束ないという事を聞いた。
この電信不通が清国政府の政略なのかどうかは調査中だけど、この時期このような通信の不便はやむを得ない事。

現在威海衛にある軍艦は、定遠、経遠、来遠、威遠、広乙、鎮辺、広済。
致遠、済遠は旅順で修理を急いでるけど、7月でなければ修繕し終わらないとの事。

また、3月24日のエントリーでも仁川の能勢領事が述べていたように、清国人は朝鮮から清国へ続々帰国しており、22日には700名ほど、23日には50名ほどが帰国。
24日には平遠で袁世凱の家族が到着。
千代田は23日に佐世保へ向け出港。
ってことで、今回清国政府の出兵の準備が、どこまでの決心によるものかは知る事が出来ないが、要するに何かあれば日本の朝鮮駐留兵に劣らない事を期しているものと考える、と。
やはり、一両日程度で清国兵は仁川に着けるんでしょうねぇ・・・。

さて、続いてはアジア歴史資料センターの史料から。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の23画像目。
北京の小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月25日発『電受第308号』より。

Mutsu
Tokio

(9) All your telegrams to no. 12 received.
Telegraph for my information disposition of treaty powers especially Great Britain, Russia, France about the attitude of Japan toward Corea and also telegraph from time to time every change of the disposition.

Otori
No12までの総ての貴下の電文を受け取った。
当方の知識のために、朝鮮に対する日本の態度について、条約国、特にイギリス、ロシア、フランスの意向を送り、また、その意向のいかなる変化についてもその都度知らせてよ、と。
まぁ、現場の公使としては当然の要求。

で、3月17日のエントリーで6号まで受け取った話が出ていましたが、その後のNo7が不明。
No8は3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日発『電送第236号』。
No9は3月17日のエントリーの1894年(明治27年)6月23日発『電送第240号』。
No10と11は、3月18日のエントリーの1894年(明治27年)6月23日発『電送第242号』と1894年(明治27年)6月23日発『電送第243号』。
No12も不明、というところまで書いたところで、No12発見。

アジア歴史資料センターの『日清韓交渉事件ノ際二於ケル軍用電線架設関係雑件/1.軍用電信線架設ノ件(レファレンスコード:B07090434500)』の4画像目左側。
1894年(明治27年)6月24日発『電送第244号』。

Otori
Seoul

12 Telegraph line between 京城 and 釜山浦 will be repaired quickest by military engineers commencing from both ends.
Use your discretion whether the work is done as under direct control of Japanese Government or in the form of request of Corean in compliance with which Japanese Government furnished engineers and necessaries, which will be sent soon.
Consult with 大島 who will receive instructions on the subject.
Arrange for commencing repairs from 釜山浦 end.

Mutsu
京釜間の電信線は、陸軍の技術者により両端から始められ、迅速に修理される筈だ。
その作業が直接日本政府の管理下で行われるか、朝鮮政府の依頼に応じて日本政府が間もなく送られるだろう技術者と必需品を提供する形式にするかは、貴下の裁量に任せる。
大島がその件に関する命令を受けるはずなので、彼と相談すること。
釜山の方で修繕を始める用意をすること、と。

つうか、この史料の右側とか2画像目とか見ると、大鳥から修繕用の材料や技術者派遣の要請が来てたのね・・・。
いや、3月6日のエントリーで「「今朝電信にて申上候」の電信が見つからないわけですが、京城・釜山間の電信線の修復に関する電信のようで。」とか言ってたヤツじゃん・・・。
_| ̄|○
こんなにバラバラだと、探すの大変じゃんかよぉ!(笑)


ってところで、長くなりましたが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一) 日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)


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ただ忙しいだけじゃなく、会社のパソコンは壊れるわ、リズムは掴めないわで大変・・・。
(;´H`)y-~~

さて。
今日はまず、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の21画像目。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第300号』を。

Mutsu
Tokio

(2) All Japanese troops will leave for 京城 1 a.m. 六月二十四日.

Nosse
3月21日のエントリーで、仁川に駐留していた日本軍が京城に向かう事になってましたが、24日の午前1時に京城に向けて出発予定、と。
まぁ、目立たないように夜間行軍って事でしょうか。
つうか、3月21日のエントリーで「6月24日午前1時出発に臨み」って大島が書いてたね・・・。_| ̄|○

続いて、同じく22画像目。
大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第303号』。

Mutsu
Tokio

(7) According to secret information it appears that 閔泳駿 is now in bad terms with 袁世凱, and 金嘉鎮 and several others of Japanese party have been appointed officials.
Men desiring entry of 大院君 into Government are gradually increasing.

Otori
秘密情報によれば、閔泳駿は現在袁世凱と不仲となったようで、金嘉鎮及びその他何人かの親日派が官吏に任命されたという。
大院君の入闕を希望する人が、次第に増えている、と。
3月24日のエントリーの大鳥から上野領事への1894年(明治27年)6月24日付『機密105号』や前回の1894年(明治27年)6月24日付『発第85号』などで見られた話ですね。

前回の1894年(明治27年)6月24日付『発第85号』は接受日が7月4日ですので、それよりは10日ほど先に着いてる事になるのか。

さて、次からは6月25日の史料になっていきます。
まずは、『駐韓日本公使館記録1』から。
1894年(明治27年)6月25日の報告。

5月22日(我6月20日)袁世凱より朝鮮政府に送りたる機密書簡

敬密啓者頃接葉大師電開頃接史丞探報沿道地方官與雲史丞意見均合准全羅道今聞雲前往古阜一帯百計阻攔不慮匪而慮倭并言匪已散蓋其中顕有情弊等語地方官既不協又無嚮導良莠不齋勦撫無従措手祈兄転達韓廷迅飭辨理并催韓進勦云准此応即備函請煩貴政府速飭各官前往進勦以期一律粛清免留餘孼致復萌起甲并飭該道地方官遇有我処探軍妥派嚮導勿更延阻爲要專此密布敬頌
勛安維祈電照不既


探報者云 此書翰、袁世凱より議政府に抵したるものなり。
東学已に散ず。
而聶帥前進剿滅を期せんと欲す。
故に迎接使の切に進む勿れと阻擋す。
然るに、聶帥は其言を信ぜず、雲史丞を送り兵を率ひて往かしむるに至る。
実に勦討すべきものなきなり。
此を以て迎接使書を政府に送る。
再昨日、閔泳駿清館に進み、其余徒の慮るに足らざるを以て、速に清兵撤還を請ふ。
袁氏其言を信せず。
因循の答を為し、敢て決する所あらざりし。
葉志超からの電報によれば、雲史丞の探報では沿道の地方官と雲史丞の意見は、全羅道を目標とする事について一致してたけど、今聞いたところによれば、雲史丞は匪賊対策ではなく日本対策のために先に古阜辺りに行っており、匪賊は既に解散したって言ってたけど、その中に情弊とか言うヤツもいるし、地方官は協力せず、道案内もせず、良民と匪賊の区別もせず、討伐もせず、慰撫もしない、かな?
だから葉さんから朝鮮政府に速やかに伝え、朝鮮は軍隊を出して彼等を討伐させて下さいと言ってる。
ってことで、秘密裏に朝鮮は速やかに各官吏に命令して、匪賊を討伐させて残党が再び蜂起しないようにし、同時に地方官にも道案内させるように言え、と。

3月14日のエントリーでも、袁世凱が韓国に匪賊を剿滅させろと言われて、それを朝鮮政府に伝えてましたが、これもその一環なのかな?

で、探報者が言うには、東学党は既に逃げ散ったけど、聶士成は更に前進して掃滅しようとしたので迎接使が進まないでくれと邪魔する。
しかし、聶士成はそれを聞き入れずに雲史丞を古阜に行かせた。
でもやっぱり掃討すべき賊が居ない。
ってことで迎接使は朝鮮政府に書簡を送る。

閔泳駿は袁世凱の処に行って、残党は心配するほどじゃないので、速やかに撤兵してくれと述べたけど、袁世凱はそれを聞き入れず、歯切れの悪い答えをして敢えて何も決めなかった、と。
つうか、朝鮮側も朝鮮側で、残党対策として討伐するなり慰撫するなり、何かしろよと思うわけですが。(笑)

続いての史料は、『駐韓日本公使館記録2』から、元山の上野領事から大鳥公使への1894年(明治27年)6月25日付『機密第7号』。

本港へは、是迄帝国軍艦の繋泊するもの無之候処、機密第6号信を以て報上致置候通り、清国兵員の風評追々流布致し、殊に露国軍艦来航の説も有之。
此際一隻の保護艦も無之ては、大に我居留人民の感情にも相関候間、帝国臣民保護として急に一隻丈けにても派遣相成候様致度候。
且つ、此度我国陸兵の発送せらるるは、専ら在韓帝国臣民の安全を保つ為めの主意なる事は、既に世間の公認致居候事なれば、当地へも釜山同様相当の兵員派遣相成候様致度と存候。
尤も、右等の事は既に夫々決定致居候義とは推考被致候へ共、当港の如き通信不便の地方に在ては殊更に人民の感情も強く、隨て兵員派遣等の事は最も渇望致居候。
此に付、前情不取敢上申致置候。
悤々敬具
「機密第6号信」は、3月26日のエントリーで見ました。
ってことで、清国の駐留の噂とロシア軍艦が来る噂があるけど、元山港には1隻も日本の軍艦が居ないので、元山の居留民の感情にも係わってくるから、日本人居留民保護用に1隻だけでも送ってくれ。
ついでに、日本兵が朝鮮に送られたのは日本人居留民保護のためだってのは既に世間の公認を得てるんだから、元山にも釜山と同様に相当数の兵を送って欲しい、と。

当時の開港地は、仁川・釜山・元山の3港。
仁川や釜山に比べたら、重要性については一段落ちるしなぁ・・・。


ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)


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久しぶりの更新です。
会社の部署の異動があって忙しく、エンコリにすら中々顔を出せない日々が続いてまして。
もう暫くの間は、更新期間が空くかも知れませんが、御容赦の程を。

それでは、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の21画像目から。
1894年(明治27年)6月24日付『発第85号』。
長いので、分割しながら。

安駉壽氏の内話

本月20日同氏来館。
内話の要点を摘挙すれば、日本兵入城已来我政府の驚擾者甚敷、諸大臣拱手して策なく、独り閔泳駿は局面に当りて心配すれども、是とても好案なければ、専ら袁世凱に依頼し其説を聴て運動する迄なり。
又諸大臣は、日本兵入城の罪を外務督弁の不行届に帰するを以て、同協辨は病後に拘はらず、雨天を犯して奔走するは誠に気の毒の次第なり。
非職大臣中、金炳始・金宏集の2人は人物と称せらるるも、矢張他の老大臣等と同様に更に口を開かず、諸閔氏は本と泳駿と不中なれば、目下の困難を傍観して敢て之を助けず、却て其失錯を喜ぶものの如し。
政府外の有志者は勿論、現職に在る官吏と雖ども、日本兵の大挙入韓は我国改革の時機を促せりと雀躍し、平生閔氏に結托の人と雖ども、窃に保身の覚悟を為し、且つ内実皆閔氏に離心せり。
又改革希望派の人々は三々五々相集りて相談を為せども、之を発するの勇気に乏きと、之を引率する統領なきに苦めり。
大院君は最も之を統率するに適当の人物なりと雖ども、今日の場合はまだ閔氏を憚り、其門に出入して協議する者なきは勿論、院君も亦同志を引て事を謀るの機会を得ざるなり。
大君主陛下には時務の不可を悟られざるにあらず、去乍王妃殿下は左右を離れられずして、機密に参与せらるる趣。
到底御英断の御処分あること能はざる次第なり。
要之挙朝策略もなく、考案もなく、一に袁世凱に依頼し、いざと云ふときは難を避するの支度を為すに過ぎざるなり。

今日我政府は取捨去就に迷ひ居る要点は、一は日本兵の入城は本と清兵の来援ありしが為め興りしことなれば、清兵さへ引去るときは日兵も直ちに引去るべし。
故に清兵を撤回せしむるは急務なりと云ふこと。
他の一は、日兵の大挙して来るは、必らず他の意志あることなれば、若し清兵退去せば其機に乗じて発すべし。
故に清兵を引て内を守るは急務なりとの二説相対峙して、未だ決せざる姿なり。
第一説は外国事情に通する者之を唱ひ、第二説は袁世凱の主唱に出で、而して朝官の多数は第二説を是とするが如し。
抑々近年我政府が執りたる対日本方略は、総て袁世凱の方寸中に出で、一事件の興る毎に同氏に就いて相談を受けたりしが、袁氏の勧告は毎事其図に中らず、却て我国をして其弊を受けしめたり。
袁氏は、事の初めに於ては我政府に教唆して日本の請求を抗拒せしめ、事の敗るるに及んでは、手を収めて知らぬ顔するは其常なり。
斯く多年我政府は袁氏の為めに誤られたるにも懲戒せず、今日猶ほ毎事袁氏に依頼せんとする傾きあるが故に、過日余は閔泳駿に向て其不可を極諫したれども、毫も其耳に入らず、実に手の附け様なき状況なり。
何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行ふより外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめられんこと、内心希望せり云々。

右の内話は、能く目下の事情を穿ちたる者と認められ候に付、特に報告中に■■申候。
安駉壽といえば、所謂開化派・進歩派の人であり、1898年の「高宗譲位上疏未遂事件」を始め結構頻出な人です。
その安駉壽が日本公使館を6月20日に訪れた、と。

その要旨は、日本兵の入城したけど諸大臣に策もなく、ただ閔泳駿だけがその局面に当って心配してるけど、やはり良い案は無いため、専ら袁世凱に依頼して彼の言う事に従おうと運動してるだけ。
諸大臣は、日本兵の入城の罪を外務督辨の趙秉稷の不行き届きのせいだとしてるので、趙秉稷は病気の後にも関わらず雨天の中奔走してるのはマジ気の毒、と。
確かに趙秉稷カワイソスwww

非職大臣の中で、金炳始と金宏集の2人は有能な人物を言われてるけど、やはり他の老大臣と同様に口を開かず、諸閔氏は元々閔泳駿とは不仲なので、傍観して閔泳駿を助けるような事はせず、かえってその失策を喜んでいるようだ、と。
閔氏にも色々あるのねぇ・・・。
つうか、何故みんな傍観者気取りなんだ?(笑)

政府外の有識者は勿論、現職官吏でも日本の入韓について朝鮮改革の時機が来たと小躍りし、普段閔氏と結託している人でも密かに保身の方向に走って、内実も皆閔氏から心が離れている。
改革希望派の人々は、三々五々集まって相談してるけど、改革を言う勇気が乏しいのとリーダー不在に苦しんでる。
大院君がそれを率いるのに適当な人物ではあるけど、現在はまだ閔氏を憚って大院君の元を訪れて協議する者がいないのは勿論、大院君も同志を率いて謀議するチャンスを得ていない、と。
高宗は現状じゃ駄目だと悟ってないわけではないけど、閔妃が常に側について離れず、機密に参与しているようなので、到底英断の処分は行えないという状況。
ま、開化派・進歩派の人の話なので、この辺は話半分に聞いておきましょう。

ってことで、結局政府には何の策略もアイデアも無く、まずは袁世凱にを頼り、いざというときには難を避ける準備をしているに過ぎない、と。

現在朝鮮政府がどちらを取るか迷っている点は、まず一つは、日本が来たのは清国が来たからなんだから、清国が撤兵すれば日本も撤兵するだろうってことで、まずは清国を撤兵させるのが急務だとする説。
もう一つは、日本が大挙として来たのは、必ず他の目的があるんだろうから、もし清国が撤兵すればその機会に乗じて事を起こすだろうってことで、清国兵で内を守るのが急務だという説。
以上の2説が対峙して、未だに決まらない状態。
清国の撤兵を急務とするの、外国の事情に通じた者で、清国兵の守護が急務だというのは袁世凱の主唱。
で、官吏の多数も清国兵の守護が急務という説を是としている、と。

最近朝鮮政府がとってきた対日本戦略は、全て袁世凱の胸の内から出たもので、一つ事件が起きるたびに袁世凱に相談してきたけど、袁世凱の勧告は毎回的を外し、かえって朝鮮に弊害を与えてきた。
袁世凱は、事の最初は朝鮮政府を教唆して日本の請求を拒絶させ、それが失敗すると手を収めて知らない顔をするのが常道。
つうか、朝鮮政府も学習しろよ。(笑)

そのように長年袁世凱のせいで失敗してきたにも係わらず、現在でも何事も袁世凱に頼る傾向があるので、先日私は閔泳駿に向かって言葉を尽くして厳しく諫めたんだけど、少しも聞く耳を持たず、実に手の付けようが無い有様なので、こうなったら外兵の威を借りて内部の改革を行うほかに手段が無いため、日本はもう少し兵を駐留させることを内心希望している、と。

これ以降の流れについて、この辺から話が出てくるんですね。

んじゃ、続き。

袁・閔両氏俄に隔絶を生じたるに付詳報

袁・閔両氏は、久く相結托して事を行ひ、特に今回の援兵は専ら両氏の相談に依て成功したる処、清兵の着韓に引続き我大兵の入韓したるが為め、両氏の計画全く齟齬し、今や幾んど進退維谷の苦境に迫りたりと評するも正鵠を失はざるが如し。
然るに、5、6日前の事とかや、閔泳駿氏が清館を訪問したる際、袁氏は頻りに清兵入衛の談を促し、一隊を派して京城外義州路の要害を守らしめ、一隊は漢江沿岸の要処に置き、残兵を以て城内各処を守らしむ可きに付、必要の処々は貴方より指示されたしと相迫り候処、閔氏始めより清兵撤回の請求を申出でんとする際、案外の談合にて返答に窮し、拙者は軍事に諳んぜざれば何処を守り何処を固むべきや更に相分らず。
其辺は韓圭・(咼の上にト)に御尋ね下されたしと相答候処、袁氏は其色を見て大に怒り、是迄汝の如き小人と事を謀りたるは余の失錯なりと罵り、逐出すが如くにして之を返したるより、閔氏大に恐懼を懐き夫より俄に其思考を転じたるものにや、本月22日已来、平生彼に反対せる金嘉鎮氏を始めとして、2、3の日本派の人を採用し、我国に依頼せんとの意向を相示したり。
3月13日のエントリー3月24日のエントリー等で出ていた、閔泳駿と袁世凱の仲違い&閔泳駿がヒッキーになった話の詳細。

5~6日前に閔泳駿が袁世凱のところを訪問した際、袁世凱からしきりに清国兵で朝鮮を守備する話が出、どこを守らせれば良いか指示を出せと迫ったんですが、その時には閔泳駿は清国の撤兵請求を申し出ようとしていたので、返事に窮し、「ウリ、軍事の事は分からないから、どこを守ってどこを固めるかは更に分からないニダ。韓圭・(咼の上にト)に聞いて欲しいニダ」と答えたところ、袁世凱激怒。
「これまでお前のような小人と謀議してきたのは、儂の失策だったアル!」と罵って追い出すように帰したため、閔泳駿ビビリまくり。
で、急に考えを変えたようで、22日以来、普段から閔泳駿に反対している金嘉鎮を始め、2~3人の日本派を採用して、日本に擦り寄る意向を見せ始めた、と。
だから、変わり身早すぎだって。(笑)

政府改革派の運動

今般我兵入韓して韓廷に大驚動を与へたるを好時機として、平生改革を希望する人々は盛に運動を初め、其機漸く熟したるが如くに伝聞せり。
其人々は、金嘉鎮・趙羲淵・権永鎮・兪吉濬・金鶴羽・安駉壽・洪鍾宇等にして、先づ閔氏を退け、大院君を総理に載き、政事を根本より改革せんとする計画なりと云へり。
依て該派の人々は、日本兵の一日も永く滞陣するを希望し、其撤回前に改革を決行したしと目下頻りに事功を急ぎ居ると云ふ。

右及具報候也。
ってことで、日本の入韓が朝鮮政府に大きな驚きを与えたのをチャンスに、普段改革を希望している人々は盛んに運動を始め、その機が熟したと聞いている。
その人々は、金嘉鎮・趙羲淵・権永鎮・兪吉濬・金鶴羽・安駉壽・洪鍾宇等であり、まずは閔氏を退けて大院君を総理にし、政治の抜本的改革をする計画だという。
そのためそれらの派の人々は、日本兵が一日も長く滞陣することを希望し、その撤兵前に改革を決行したいと現在しきりに効果を上げようと急いでいるという、と。
相変わらず、他人頼りの迷惑な奴らですなぁ。


長くなりましたが、ここまで。



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