概略として分かっている事でも、細かく調べていくと新しい発見があったり。
特に、この頃の安定していない通信状況の中では、発着日の関係は、非常に重要だなと思います。
つうか、素直に京釜電信線、修繕しとけばねぇ・・・。
( ´H`)y-~~

< 2008年3月のエントリー >
今月は、先月と比較して英文史料や漢文史料が少なかった気がする。
多少楽だった感じ。
このまま行きたい。(笑)

日清戦争開戦まで(十六)

小村寿太郎と清国の総署大臣等との会談筆記。
日本の提議に対する回答督促です。
この時点の清国側の対応は、李鴻章の判断に従ってる形なのかな?
かなり薄味なエントリー。


日清戦争開戦まで(十七)

英・独・露・仏の各国の意向もある中で、李鴻章の動き。
ちょっと情報収集不足の感もありますがね。
一方で、日本側は清国の拒否回答に伴う出兵準備を進め、関連する外交面での動きが活発化してきます。


日清戦争開戦まで(十八)

これまでの経緯が、「半公信」によって大鳥に届けられます。
というか、簡略にまとまってるので、それだけで価値あり。(笑)
一方で、清国出兵の噂が出てきます。


日清戦争開戦まで(十九)

もう一つの「半公信」によって、特に京釜間の電信修繕について尽力しろという訓令が出ます。
一方で、清国は正式に日本の提議を拒否。
これに対して、日本もすぐさま遺憾表明と将来的な保証が無い限り撤兵できない旨を回答。
焦臭くなってきました。


日清戦争開戦まで(二十)

清国の拒否回答と増派の報告を受けて、日本側は兵力を京城へ移動。
また、京釜間の電信修繕について更に訓令が下り、朝鮮政府が回答を引き延ばすようなら、日本陸軍で工事してその旨を朝鮮政府に伝えろ、と。
一方大鳥公使は、「日清戦争開戦まで(十)」で見た朝鮮政府のマズイ発言についてすかさずツッコミ。


朝鮮国有森林未墾地及森林産物特別処分令に依る森林の縁故者及木材業者の資格

今月のエントリーで、唯一日清戦争関連ではない話。
朝鮮国有森林未墾地及森林産物特別処分令」中の、「縁故者」及び「木材業者」についての規定。
国有森林を「無料」で借りる事のできる対象者は、明確に寺の所持であることが分かる寺と、入会慣行がある者と、森林法に基づく地籍届を行わなかった所有者と、森林法施行前に適法に占有した森林山野の所有者。
ちゃんと法的フォローも入ってるわけで。( ´H`)y-~~


日清戦争開戦まで(二十一)

高島留学生による全羅道近辺の状況報告が主。
いよいよ、招討使や巡辺使の軍も撤収するお話に。
つうか、やっぱり鎮定されたのに居座る清国の方が、名分が無い気がしますがねぇ。(笑)


日清戦争開戦まで(二十二)

宮中からの情報とされる報告が、信憑性に薄いと言われるだけあってそれなりに面白い。(笑)
要するに、今日我国の禍害消滅せしは専ぱら日本兵入城の力に由れるなり。」がイヤらしい部分。
つうか、量の割にかなり内容は薄い。

日清戦争開戦まで(二十三)

袁世凱と閔泳駿の関係が切れ、且つ閔泳駿がヒッキーになっちゃった話が秀逸。(笑)
この後の史料においても度々出てくる事になります。
そして、見事に掌を返す様がまた素敵。(笑)


日清戦争開戦まで(二十四)

袁世凱フィルター発動。(笑)
「その時日本は韓国を併呑する陰謀を敢行できないのは、みんな知ってる事だ」って、重要な部分を抜かす素敵さ。
同じ電報で、「日本に撤兵を迫るのではなく、韓国に匪賊を剿滅しろと言え」という話は興味深いです。
まぁ、その意図までは推測しきれませんが。


日清戦争開戦まで(二十五)

大鳥のツッコミに対する、朝鮮の回答になってない回答。(笑)
困るといつもコレだもんなぁ。
一方、日本は正式に京城に向けて2,000人増派する事に決定。


日清戦争開戦まで(二十六)

電信の不通によって錯綜する情報。
文書の着日の前後によって、話が繋がってない部分が出てきてます。


日清戦争開戦まで(二十七)

この回のエントリーは、混成旅団報告から。
これまでは外交文書を中心として見てきましたが、兵力を京城に集中させる話が出てきましたので、そろそろ混成旅団の動きも取り上げなければ、と。
まぁ、この時点ではまだ大したことの無い内容。


日清戦争開戦まで(二十八)

この回でも袁世凱と閔泳駿の決裂の話が見られます。
また、仁川からは続々清国人が帰国。
それに伴って、仁川港中立問題が起き始める形。


日清戦争開戦まで(二十九)

日本軍の移動。
ロシア臨時代理公使の撤兵勧告。
イギリスの動き等、徐々に逼迫していく情勢ですが、それだけに笑い所が無いのが難点。
いや、お前は何を求めてるんだとつっこまれても困るんですが。(笑)


ってことで、もっと面白い話が多かったと思っていたら、割とそうでもなく、真面目な話が続いてた月でしたねぇ・・・。
ツマンネ。(笑)



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仕事イソガシス・・・。_| ̄|○
ってことで、ちょいと更新滞り気味になると思いますが、乞う御容赦。
ハァ・・・。

さて、日本の提案に対する清国側の拒否回答&撤兵要求と、それに対する日本の遺憾表明&撤兵拒否回答から、非常に焦臭い史料が続いております。
もっとも、閔泳駿なんかが笑いのスパイスを振りまいてくれてはいるんですが。
あまりシリアスになり過ぎると「ボクが」飽きてくるんで、丁度良いタイミングでやらかしてくれてると思います。(笑)

さて、今日最初の史料も『駐韓日本公使館記録2』から見ていきたいと思います。
今日最初は、元山の上野二等領事から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月24日付『機密第6号』から。

清国兵員を咸鏡道北部に派遣云々の風説

東学党一事に付ては、咸鏡・江原両道共に是迄至極平穏にして、民間の評説も余り無之候処、昨今に至て当元山市韓人の間に専ら風説有之候は、今般清国兵員を全羅・忠清両道に発送したるを機会とし、清国政府は当国政府と協議の上当咸鏡道の北青より以北、慶興までの間に当る要害の場処二、三ヶ所を撰定し、兵営を築造し、之れに清兵を分派し以て露国兵の侵入を防禦し、永遠の安全を謀る事に密約相整たりとの説頻りに流布致候。
又た、一説には露国兵も公使の護衛を名とし、浦鹽斯徳より陸路慶興を経て京城に派出せしむるに際し、慶興近辺に兵隊を屯在せしめ、尚ほ当元山港へも軍艦を定繋せしめ、万一の用に備ふべし。
而して右軍艦は、不日当港に向け来航すべしとの取沙汰有之候、右両説共に其出処相分兼ね、固より信を置くに足らざる事とは存候得共、当地電報局幇辨なども多少如是説を聞込居候由内話致候。
殊に露国兵員派遣云々の事に付ては、先頃来御内報にも相成居候に付、右は速に電報を以て報上可致と存候得共、去15日より電線断絶未だ修繕相整はず。
不得已郵信に付し、右の趣報明に及候。
尚ほ、此後の景況は探知次第重て可申上候。
匆々敬具
東学党の乱については、咸鏡道・江原道ではこれまで非常に平穏であり、民間の評説も無かったけど、この頃元山市の韓国人内で、清国の今回の出兵を機会に、清国政府は朝鮮政府と協議の上、咸鏡道の北青から慶興までの要害2~3ヶ所に兵営を造り、そこに清国兵を入れてロシアの侵入を防ぎ、朝鮮の安全を図るという密約が整ったという噂が、頻りに流布してる、と。
一説には、ロシアも公使館護衛の名目でウラジオストックから陸路で京城に派出する際、慶興附近に軍を駐屯させ、万一の事態に備えて元山港にも軍艦を停泊させるめ、遠からず元山港に来航するという噂も出てる、と。

どちらも出所不明の噂で信用できる話ではないけど、昨年の4月7日のエントリーで大鳥から上野に電信があったように、以前ロシアの派兵についての話が来てたので、速やかに電報で送ろうと思ったけど、電線の断絶がまだ修理されてないから、仕方なく郵便で送ります、と。

毎度ながらイザベラおばさんの「朝鮮は流言蜚語の国なのである。」を思い出すわけで。(笑)
朝鮮で流れている噂を一々気にしててもしょうがない。
でも、当てずっぽうでも当たるときはあるわけで、内容が内容だけに報告しないわけにはいかないという。
困ったものですなぁ。(笑)

さて、次。
3月21日のエントリーで、仁川に駐留していた日本軍が京城に向かう事が決まっていましたが、それに関連した史料。
大鳥公使から趙秉稷への書簡を『駐韓日本公使館記録2』より。
1894年(明治27年)6月24日付『第56号』。

敬啓者我兵之向在仁川港逗留者本属応調入京城以充備警但本公使審察時勢暫令該処逗留候命祗以現在該処良水漸形短絀未可久留等情屡有所報茲於本日将該兵調來楊花津一帯地方暫行結幕紮住矣為特備函奉佈即希貴督辨照諒可也耑此順頌
台祉
仁川港に逗留している我が兵は、元々京城で警備に充てる予定だったけど、大鳥が状況を察して暫くそのまま逗留させるよう命じていた。
しかし、現在そこでは水があまり出ないため、長期間留まる事ができないという報告がしばしば送られて来たため、軍を楊花津一帯の地方に移して駐屯することとした、と。

楊花津ってのは、現在のソウル特別市麻浦区合井洞。
京城のすぐ近くですね。
駐屯地がそこになるって話なのかな?

さて、続いての史料は、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から。
39画像目。
大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第303号』。

Mutsu
Tokio

8. In a private conversation 六月二十三日 evening Russian Chargé d'Affairs ad-interim argued withdrawal of Japanese soldiers as soon as possible.
He said that he has telegraphed morning 六月二十三日 在日本露公使 to inquire into real intention of Japanese Government.
He added that Russian Government would not send their soldiers to Corea in the present circumstances.
I answered that I am waiting for instructions about the withdrawal, that Japanese Government have no object other than to protect our Legation and the people; in this connection I have confidentially informed him Chinese Government have declared to Japanese Government that China has sent troops to Corea in order to assist tributary state.
He told me he would inform his Government the said declaration.

Otori
6月23日夜の非公式会談において、ロシア臨時代理公使は日本軍の早期撤兵を主張した。
彼は、6月23日の朝、日本政府の実際の意図を問い合わせるよう、電信を発したという。
彼は、現在の状況ではロシア政府は朝鮮に軍を派遣しないと付け加えた。
私は、撤兵に関する訓令を待っており、日本政府は我々の公使館と居留民保護以外の何の目的も無いと言った。
これと関連して、私は清国政府が日本政府に対して、属国援助のために朝鮮に軍を送ったと宣言した事を内々に知らせた。
彼は、本国政府にその宣言を伝えると述べた。
このロシア臨時代理公使って、ウェベルかな?

さて、続いてはイギリスの状況。
同じく『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から、40画像目に本文が。
41~42画像目に訳文が載っていますので、訳文の方のみ取り上げてみたいと思います。
それでは、在英青木公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第305号』。

英国外務大臣は本日本使を招き、東京及北京よりの電信3通を示せり。
該電信中に、袁世凱は6万の兵丁を要求せりとあり。
英国政府に於て、日清間に交戦起らば第三国の干渉を招くべきに付き、之を防がんと欲すること甚切にして、貴大臣最後の電信に関し穏便の処置を貴大臣に勧告あり度旨本使へ依頼せり。
本使は一己の考として、清国自侭の措置を弁駁し多少説明を為したるに、同大臣も清国と何か適当の談合を付くること望ましからんと自認したり。
然れども同大臣の意見にては、右撤兵を為したる後に談合を付くるを以て可とする方なり。
本使の私かに希望するところは、若し貴大臣に於て英国外務大臣の斡旋を望まるるなれば、常に本使に向て報告し置かるること必要なり。
本使は、今回の事件に付き英国を日本方に引入れんと尽力せり。
東京及び北京からの3通の電信ってのがどういうものかは分かりませんが、その中に袁世凱が6万の兵を要求したってのがあった、と。
袁世凱、やる気じゃん。(笑)

しかし、イギリス政府は日清間で戦争が起きれば第3国の干渉を招くだろうから、それを防ぐことを切に願っており、陸奥の最後の電信に関して穏便の処置を陸奥に勧告してほしいと、青木に依頼した、と。
この最後の電信ってどれだっけ?

で、青木は一個人的考えとして、清国のわがままな措置について弁駁し、多少の説明を行ったところ、イギリス外務大臣も清国と何か適切な話し合いを付ける事が望ましいと自認した、と。
しかし、イギリス外務大臣の意見では、それは撤兵後に話し合いする方が良い、と。
撤兵後に出来るんなら、苦労しねぇ。(笑)

青木が密かに希望しているのは、もし陸奥がイギリス外務大臣の斡旋を望むなら、常に青木に向かって報告しておくことが必要だ、と。
で、青木は今回の事件について、イギリスを日本側に引き入れるように尽力する。
いや、それ当たり前だし。(笑)

何か青木公使はピントがずれてる気がするなぁ・・・。(笑)


長くなりましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)


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今日は前置き無しで早速。
『駐韓日本公使館記録1』より、大鳥公使から元山の上野二等領事への、京城の情勢に関する文書。
1894年(明治27年)6月24日付『機密105号』。

漢城に於ける現在の事勢一班

全羅道に於ける民乱は幾んど鎮定に帰し、清国援軍凡2,000名程は依然牙山に滞陣致居る義は、追々の報告にて御承知相成り候事と存候。
然るに、軍兵引揚方に付本官と清使との意見相違致し、清使は飽迄我兵と同時に引揚げしめんと試み、我は先づ清兵退回せしむるは事の順序なりと主張致候より、雙方の間に漸く隔絶を生じ、今は協議の中止の姿に相成り居り候。
然るに、一両日已来天津又は北京よりの電信に拠れば、清国政府は北塘小站及山海関の兵併せて5,500名程を朝鮮に派遣せんとの計画有之、而して其内500名程は去22日午後既に出発したりとの事実相分り、本省の電訓に従ひ我兵は盡く京城若くは漢江近傍に集合せしめ、而して更に2,000名の兵は本日仁川に向け出発の筈に有之候。
尤も、袁世凱氏を始め清国官吏は孰れも清兵続発の事は虚伝なりと断言致居り候。
此後の模様は如何に変化すべきや。
若し清兵増遣の報告事実に有之候はば、或は日清両兵の衝突測り難しと雖ども、幸に増兵の事実なきに於ては、結局無事落着に至るべくと被考候。

将又朝鮮政府の内部を顧みれば、是迄閔泳駿は専ら袁世凱と結托し、諸事同氏の指図に依りて取計ひ居候処、数日前支那兵を以て大闕を守衛せしむるの相談相纏らざりしが為め俄に仲別れと為り、断然袁氏に拒絶せられたるに因り、閔氏は急に金嘉鎮氏外日本党数名を採用し漸く我方に傾向せんとの兆候有之。
又、是より先き当国にて開化党と称せらるる人々は、我兵の入朝を機として切りに政府改革の運動を始め居り、其機に乗じて大院君再び政府に飛込まんとの様子相見得候へ共、右は果して如何程迄の点に相運び候哉、未だ確探致兼居り候。
右は目下の形勢御通報迄申上候也。
東学党の乱はほとんど鎮定され、清国兵約2,000人は依然として牙山に駐留し続けてるのは、これまでの報告で分かってると思うけど、撤兵の方法について俺と袁世凱の意見が相違し、袁世凱はあくまで両国の同時撤兵を主張し、俺はまず清国が撤兵するのが順序だろと主張したので、双方の間に隔絶が生じて、今は協議中止の状態になった。

しかし、天津または北京からの電信で、清国政府は5,500名ほどの追加派兵をする計画があり、そのうち500名ほどは既に22日の午後に出発した事が分かり、外務省の電訓に従って日本兵を全て京城または漢江近くに集合させ、さらに2,000人が追加兵として今日出発予定。
もっとも、袁世凱を始めとした清国官吏は、いづれも追加派兵の事は虚報だと断言している。
もし清国の増援が事実であれば、あるいは日清の衝突となるかもしれないが、増援の事実がなければ結局無事に落着するだろうと考えている。

一方で、朝鮮政府の内部を見れば、これまで閔泳駿は専ら袁世凱と結託し、様々なことを袁世凱の指図で取りはからっていたけど、数日前清国兵によって宮廷を守らせる相談がまとまらずに仲違いを生じ、断然袁世凱に拒絶されたため、閔泳駿は急に金嘉鎮ほかの日本党数名を採用し、日本に傾向する兆候がある、と。
ちょっ!変わり身早っ!(笑)

また、朝鮮で開化党と呼ばれる人々は、日本の入京を機会として頻りに政府改革の運動を始めており、その機会に更に乗じて大院君が再び政府に飛び込もうとしている様子も見え、これらは果たしてどの辺までになるのか、いまだ判然としない、と。
巷間、日本党と開化党は同一視されていますが、この報告の中では区別されてる感じがしますが、どうなんでしょうねぇ。

さて、続いては『駐韓日本公使館記録2』から。
仁川の能勢領事から大鳥公使に向けた、1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』より。

仁川港が、日清両国交兵の地より各自生命財産の危険に陥らん事を懼れ、在港清国人は貧富老幼を論ぜず避難帰国するもの実に夥しく、本月21日出帆の汽船鎮南号にて500余名を搭載し去り。
尚、袁氏の家族并に当港理事府員の家族を始め、大小商民は幾んど数を盡して軍艦平遠号及汽船北平号に乗込み、続々帰国の途に就きたる次第は、昨23日の電文を以て御推諒相成たる儀と存候。
右等情形なるを以て、在港各外国人も弥よ租界の安寧を保ちがたきを恐るるの念甚しく、明25日各国居留地会に於て、仁川港を以て純然たる局外地たらしめんとの議定をなし、以て京城使臣会議へ提出すべき都合有之。
而して、本件は英米各使臣を始め仏独俄等外交官も至極賛同の様子なるのみならず、在北京英公使ヲコンナー氏の如きも遙かに応援をなしつつありとの事に有之候得共、不日貴地使臣会議の議題として現れ出づべくと存候。
抑も本件は、国際上頗る緊要の問題に属し候処、前年清仏戦争の際上海租界を以て局外中立の区となし、又福洲船廠砲撃の時に当り、各国居留地の災険を保証せしむる等の近例も有之。
右中立説にして成立するを得ば、仁川港は局外者の兵力を籍て之れが保護を受くる事を得、本港居留本邦人は勿論、各外国人は無上の幸福に可有之候得共、退て我軍隊の当地に於ける情況を察するに、清兵は已に南陽湾間牙山を以て軍隊の起動点となしたるの観あり。
我軍隊が上陸地及糧餉万端の便を有する起動地として、当仁川港を除き他に適当の地有之間敷、且つ今日の有様を以て見れば、我大兵は現に当港邦船会社支店を以て兵站監部となし、いざ開戦とならば直刻埠頭に堆積せる支那米と清商の倉庫を封抄し、其電報局を押領するの手段を取るべき旨其筋の軍議も有之趣なるに付ては、清国果して大軍を挙げて当国に来らんには、決して一矢を発せずして此形勝の区を退譲すべきにあらず。
況んや港内には、日清軍艦互相睥睨咄嗟の間轟砲攻衝の機あり。
又清国人退去の挙動は、殆んど清野の計とも可申の観あるに於ておや。
於是当港は、彼我両軍が起動点争奪の為め、第一着に兵焚に罹るの虞あるものと云ふを得べきかに相考候。

前述せる如く、仁川港が局外の地位に立つべきや、将た我軍隊の起動点となすべきかの問題は、我後継隊として本日忠海を発せる軍隊の来着と同時に生起すべきものと被存候。
就ては、右に関し小官心得方の為め、予め貴官の御意見相伺置度候間、折返し何分の御回訓相仰候也。
日清両国が交戦して各自の生命財産が危険に陥る事を恐れて、仁川の清国人は貧富老若を問わず避難帰国する者が非常に多く、21日には鎮南号が500名を載せて出航するような状況。
袁世凱の家族や仁川港理事府員の家族など、商民も含めてほとんどが平遠号や北平号に乗り込み帰国した件については、23日の電報でご存じの事と思う、と。
23日の電報はまだ見つけられてませんが、兎も角、政府関係者以外は皆帰国状態って事でしょうね。

ってことで、在仁川の各外国人も租界の安寧を保ちがたくなる事を恐れ、翌25日に各国居留地会で仁川港を局外地にしようという議定をし、それを京城使臣会議へ提出する予定がある、と。
このことについては、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロシア等の外交官等も積極的に賛成している様子であり、それだけでなく在北京のイギリス公使オコンナーも応援しつつあるってことで、遠からず京城の使臣会議の議題として上るだろう。

この中立説が成立すれば、仁川港は局外者の兵力を借りてその保護を受ける事ができ、仁川港居留日本人は勿論、各外国人も安心。
しかし、日本軍の置かれた朝鮮での状況を見れば、清国は南陽湾・牙山を軍の拠点としている観がある。
日本軍が上陸や兵站の準備をする場所としては、仁川港以外には適当な場所もなく、現在の状況からいけば、日本軍は仁川の日本の船会社の支店を兵站監部としており、いざ開戦となった時には直ぐに埠頭に積まれた清国の米と清国商人の倉庫を封鎖し、電報局を押さえる手筈をとる軍議もあるようなので、清国がもし大軍を朝鮮に送ってきた時には、何もせずに仁川を去るべきではない。

まして港内で日清軍艦がにらみ合い、撃ち合いの機会もあるだろう。
また、清国人退去の挙動は、ほとんど清野の計とも言うべき感じがあるわけで、と。
清野の計って焦土作戦だっけっか?
この状況を指す比喩としては、どうなんだろう?(笑)
兎も角、そういうわけで仁川港は日清両軍が起動点確保のため、一番最初に兵火が起きる恐れがあると言えると思う。

以上のように、仁川港が局外地になった場合、日本軍の起動点とするべきかどうかという問題は、日本の後続部隊の来着と同時に起こる形になるだろうから、前もって心得までに大鳥公使の意見を聞いておきたい、と。

んー、仁川以外なら釜山って事になるのかもしれませんが、そこからだと補給線も非常に長くなりますしねぇ。
仁川港が使えなくなるっつうのは、結構問題。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
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日清戦争開戦まで(四)
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日清戦争開戦まで(十七)
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日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)


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水曜はここのコメント欄でもおなじみのxiaoke氏来青のためお休みでした。

さて。
今回からは24日の史料に入っていきます。
まずは、3月7日のエントリーで清国の追加派兵と衝突不可避の見解が伝えられ、これを受けて3月14日のエントリーでは朝鮮内の各領事に伝達事項がありました。
これらをうけて、仁川に留まっていた軍にも動きがあります。

史料はアジア歴史資料センターの『明治27年 「秘密 日清朝事件 第5師団混成旅団報告綴」/6月23日 本日迄船中に置きたる第21聨隊第2大隊 明24日より上陸せしめんとし其幕営地等定む 此の即時正午頃大本営より清国出兵の電報あり急に山口大隊上陸せしむ 軍・・・(レファレンスコード:C06060160500)』から。
1894年(明治27年)6月24日付混成旅団報告第6号のうち、6月23日の記録を。
長いですが、内容的には大した事ないので、一気に見ていきます。

6月23日 晴又曇

一 午前早く、帝国軍艦松嶌号牙山附近偵察の為めに赴く

一 本日迄舩中に置きたる第21連隊第2大隊(3中隊)を明24日より上陸せしめんとし、其幕営地及び上陸手続を定む。

一 此の即時正午頃、大本営より清国出兵の電報あり。
士気頓に奮ひ、急に山口大隊(山口少佐の率ゆる大隊)を上陸せしむることに定め、午後2時過ぎより着手。
6時過ぎに至り全く終る。

一 此より後るること凡そ30分、大鳥公使より清国4,000の兵を出す確報と、衝突は免れざるべし。
速に兵を京城に入れられたし。
後続兵も同様にたのむとの報あり。
先是今朝、参謀より福嶌中佐に宛て諸情報に依れば、支那の出兵疑ひなし。
速に公使の所決を待つと云へる照会の書信を出したり。

一 此同時又伊集院少佐より艦隊に宛てたる電報を通知す。
浪速艦、陸兵を護送して朝鮮に向ひ、24日頃出発の筈と。
是に依り、第二次輸送兵の到着を察す。

一 軍機一変せり。
午後5時、会報を以て明24日行軍に関する部署を定む。
其大要左の如し。

1 工兵は直に出発し、今夜星峴に宿し、楊花鎮に至る道路を修理す。
2 設営隊は橋本少佐指揮し(本官は過日旅団長上京のとき随行せしめ、竜山附近の陣地を偵察せしめたるものなり)、24日午前1時出発。
3 本隊の行軍序列は、騎兵中隊、歩兵2中隊、砲兵大隊(1中隊)、歩兵第11連隊、野戦病院、大行李
4 星峴と楊花鎮に湯を沸かすこと
5 24日の晩食は京城在屯大隊より送ること
6 兵站用諸荷物は水運すること
 之が為め、汽船一隻を更に借り入るること
7 漢江に於て、渡舩50艘を買い占むること(是れは、公使館附担任)
8 騎兵将校、斥候を牙山の方向に向け出すこと
9 山口大隊は、仁川に残留すること
一 英国人所有家屋に強迫的に舎営したる云々の御電報全くの嘘なり。
成程始め舎営を配布するとき、領事に協議し、各国居留地は可成避くべきことを参謀より云ひたれ共、領事曰く日本人現在居留及び各国租界と雖も、日本人所有の家なれば差支へなしとのことに付き、之に舎営せしむることに決し、之を実行したり。
其後6月19日、旅団長入京のとき、公使より各国租界には舎営するを断るとのことに付き、電報を以て其撤去を舎営司令官に命じ、20日に於て各隊全く日本人居留地并に日本居留民所有地(公園附近)のみに幕営することとなれり。
確かに聞く。
各国居留地会は、我兵舎営のことに関し臨時会を開きたるに、多数を以て、日本兵は安眠を妨ぐる等のこと無し。
之を許すべしと決したり。
但し、之が為めに下掃除代の多費になるは甚だ迷惑なりと云ふ位にて、多数は遂に我兵舎営を許すことに決せり。(独商モーゼルの信用すべき日本商人に話したる言)
然るに、支那人某(仏蘭西の女を娶るもの)頻りに税関雇英人某に運動し、遂に領事を説き附け、領事より公使に照会させたるものなることを確聞せり。
一昨21日雨多し。
英国人を除きて、他の外国人は我兵の不幸を憐みたりと確聞せり。

一 帝国軍隊軍紀の厳粛に就ては、外人より数多の褒辞を受く。

右謹而報告仕候也。

6月24日午前1時出発に臨み
混成旅団長 大島 義昌

参謀総長 熾仁親王 殿
23日午前早くに、松島が牙山附近偵察に出発。

で、これまでは昨年の3月20日のエントリーなんかで見たように海兵と交代した800人と、2月11日のエントリーのように、要衝と漢江沿岸に配備された一部の部隊を除いて、仁川に留まることになってました。
更に一部は船の中に留めっぱなしだったようで。
その可哀想な部隊、第21連隊第2大隊(3中隊)を6月24日から上陸させようと、幕営地と上陸手続きを決定。

そんな中、正午頃に大本営から清国出兵の電報が。
急遽山口大隊を上陸させることにして、それに午後2時から6時までかかった、と。
上陸ってことは、山口大隊も船の中だったのか・・・。

で、大本営の電報から30分後なのか、山口大隊の上陸後30分なのかは分かりませんが、大鳥公使から清国兵4,000人の追加出兵の情報と、衝突は免れないだろうから速やかに兵を京城に入れて欲しい。
後続兵も同様に頼むとの報告があった、と。
前回の1894年(明治27年)6月23日発『電送第243号』は24日の到着ですので、3月7日のエントリーでの釜山の室田経由での1894年(明治27年)6月22日発『電送第236号』が、このころ大鳥の手許に届いたのかな?
で、23日の朝には参謀から福島中佐にあて、諸情報によれば清国の出兵は疑いなく、速やかに公使の決断を待つという文書を出しておいたって事かな?

同時に、伊集院少佐から24日に浪速が陸兵を護送して出発するはずという電報があり、それによて第二次輸送兵の到着を察した、と。
で、午後5時には24日の行軍に関する担当を決定。
ここまでが23日に起きた事。

それ以降は、3月7日のエントリーでも「宿営等のことに付居留英国及其他の国民よりの苦情不少趣なり。」なんて軽く触れられていましたが、イギリス人所有の家屋に強制的に宿営したという話が出ていたようで。
それは全くの嘘だ、と。

最初に舎営を設置するときには、領事と協議して各国居留地はなるべく避けようと参謀から言ったけど、領事が日本人所有の家であれば日本人居留地でも各国租界でも差し支えないって事で、そこに舎営させた。
その後、6月19日に旅団長が入京したとき、大鳥公使から各国租界は断ると言われたので、電報でその撤去を舎営司令官に命じ、20日には総ての部隊が日本人居留地と日本居留民所有地だけに幕営することになった、と。

で、結局はある清国人が税関に雇われてる某イギリス人に働きかけ、領事が説得されて公使経由で各国居留地への舎営が不許可になったという話だったという事で。


長くなりましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)



さて。
前回のラスト、1894年(明治27年)6月23日発『電送第240号』で「full instructions for you」とありましたが、それ自体は朝鮮に向けて出発した加藤に対して、下関で届けられる形になります。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の17画像目から。
1894年(明治27年)6月23日発『電送第241号』及び『電送第242号』より。

Kato
Naniwa Kan
Bakan

Take following cipher telegram to Otori and telegraph me when you received this.

△ To Otori 10.

You are hereby instructed to strongly press upon Corean Government in the form of recommendation actual and effective reform and amelioration of the system of administration, justice and finance so as to guarantee against future misgovernment.
You may support your argument with the reasons given in my reply to Chinese Minister which 加藤 takes to you.
You may judiciously disclose the above to foreign representatives so as to justify act of Japanese Government before the world.

Mutsu
右側の欄外によれば、この全文が加藤に伝えられる『電送第241号』。
△以下が大鳥に伝える事になる『電送第242号』と言う形になっているようです。

次の暗号電信を大鳥に渡し、この電信を受け取ったら返電しろ、と。
まぁ、下関に寄る予定の浪速の船中に居る加藤への電信ってことでしょうから、返電で受領確認が必要ですわな。

で、大鳥に宛てられた△以下。
貴下は統治、司法、財政の制度について実際上有効な改革と改善を行い、将来の失政が再び起きない事を保証するように、勧告状によって朝鮮政府に強く圧力をかける事を訓令する。
加藤が貴下に持って行く私の清国公使への回答で述べた理由を、貴下の議論のサポートとしろ。
貴下は思慮深く上記理由を外国公使等に開示し、世界に向けて日本政府の行為が正当である事を説明しろ、と。

my reply to Chinese Minister」は、3月6日のエントリーでの1894年(明治27年)6月22日付『親展送第42号』の事でしょうね。
これまでの事蹟を見れば、朝鮮半島は朋党争闘・内訌・暴動の中心地かのような惨状を呈し、このように事変がしばしば起きる理由は、独立国の守るべき責務を全うする要素を欠いている事が原因だと確信するに十分であるっていう、直球なヤツ。(笑)
つうか、直球投げて欠点指摘しても、ヤツら聞かないと思うけどねぇ・・・。

続いても、同日の陸奥から大鳥への電信。
20画像目。
1894年(明治27年)6月23日発『電送第243号』。

Otori
Seoul

11. In consequence of failure of negotiation with Chinese Government, Japanese soldiers cannot be now withdrawn from Corea on sole condition of withdrawal of the Chinese troops even 東学党 disturbance is quelled and also even collision with China should become unavoidable thereby sooner or later.
We are bound now to do single handed what we proposed to Chinese Government.
Detailed instructions will be brought to you by 加藤 and you will wait till his arrival.
機密第96号 dated 六月十八日 not yet arrived.
Concentrate all troops to 京城 immediately.

Mutsu
清国政府との交渉失敗の結果、例え東学党の乱が鎮圧され、いつかは清国との衝突が不可避になったとしても、清国軍の撤兵というただ一つの条件で今日本軍を朝鮮から撤退させる事はできない。
我々は、清国に提案した事項を単独で行う決意をしなければならない。
詳細な訓令は、加藤から貴下に伝達されるはずなので、彼の到着を待つこと。
6月18日付け機密第96号はまだ到着していない。
総ての兵力を、直ちに京城に終結させること、と。

これは、前回の1894年(明治27年)6月23日発『電受第294号』の返事かな?

結局、清国が撤兵したら日本も撤兵せざるを得ないわけですが、両国撤兵後の改革と言ってもやらない、或いはやれないというのは、天津条約第2条という前例で明らか。
2月13日のエントリーでも述べた問題点のうち、朝鮮における宗主国としての清国の地位向上と、日本の地位の相対的低下を招くという外交上の問題について、現状維持になる程度の効果はあるかも知れませんが、3,000人派遣による予算の無駄遣いによる議会攻撃という国内的問題と、抜本的改革をしない限り、内乱の再発を招き、同様の事態が予想されるという問題ってのは、全く解決しないわけで。
ってことで、撤兵せずに改革という路線堅持という事になったようで。

で、詳細な訓令は、先ほども出てきた加藤が持って行くのでヨロ。
勿論、現実には6月25日に届く事になる、6月18日の『機密第96号 陸兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺』はまだ届いてないよ、と。
つうか、電信や書簡の交錯って、今見てる我々でも整理つかないくらいグチャグチャなんだから、当時は切迫した状況もあって、大変だったろうなぁ・・・。

で、総ての兵力を京城に終結する事、と。
3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日発『電送第236号』で、清国の追加派兵と衝突不可避の見解が伝えられ、渡韓兵力を京城に終結させる訓令が出てましたが、ここでもう一度命令、と。


ちょっと早めですが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
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日清戦争開戦まで(二十五)



今日は前置きなしで早速。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の47画像目。
趙秉稷から大鳥への1894年(明治27年)6月23日書簡より。

敬啓者昨准
来覆閲悉一切査漢城本甚安静南匪早已削平乃貴公使以重兵駐我都城已閲旬日之久人心転益驚騷如鼎沸靡有底定本督辨迭将各情反覆詳陳不翅再四貴公使不徒不見聴従而又牽渉援兵以本督辨所見殊未為然貴兵既云護館商而来試看目下情形已無可護宜其速撤固不待言焉至来文内称何憚效労等語寔出本督辨意慮之外尤非所願聞也前後辯論迭次懇嘱言已至而礼又盡矣貴公使素以時局為念邦交為重諒有所涵亮尚望幡然改図函撤留兵俾熄騷訛至所襦切耑此順頌
日安
京城は元々非常に安静であり、南匪も既に平定されたけど、貴公使は多くの兵を我が都城に駐屯させて10日が経った。
そのため人心が益々騒がしくなったので、私は各情報を以て詳しい説明を再三再四してきたが、貴公使はそれを聞き入れず、さらに援軍を連れてきた。
日本兵は公使館と商民保護のために来たというが、目下の情勢はすでに保護の必要が無く、速やかに撤兵しなければならないのは言うまでもない。

ところで、来文の中に「何憚效労」等の言葉があったけど、私の思っても見なかった事で、聞くことを願っているわけではない。
前後の議論において言葉も礼儀もつくしてきたし、貴公使にはウリナラに対する愛情もあると思うので早く撤兵するように望みます、と。

私の思っても見なかった事って、割と返事になってないような。(笑)

つうか、良く考えてみたら、2月20日のエントリーで「然設欲審知援兵之去就応由貴公使向詢清国総理袁自可明晳矣諒不俟本督辨之言也」ってボロッと言っちゃった時って、閔泳駿が袁世凱を激怒させた日だよねぇ。
何か関係あるのかしら。(笑)

さて、続いては『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』の36画像目から。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)6月23日発『電受第294号』より。

Mutsu
Tokio

Received your telegram No.5, 6.
As it is absolutely necessary take measures mentioned in my telegram of 六月十八日.
May I take such steps immediately.
See 機密第九十六号信 dated 六月十八日.

Otori
貴下の電信第5号と6号は受け取った。
6月18日の私の電信に述べた措置をとる事が絶対に必要だ。
直ちにそのような手段をとって良いか。
6月18日付機密第96号を見てくれ、と。

電信第5号は不明。
第6号は、3月4日のエントリーの1894年(明治27年)6月21日発『電送第230号』の事ですね。
清国の追加派兵を考慮すると衝突は避けられないと思われる。
日本は約2,000人の追加兵を送る予定であり、高宗と朝鮮政府が日本を頼りにするように上手く取り扱えって電信でした。

で、そのためには6月18日の私の電信、つまり2月13日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』の措置をとることが必要だが、直ちにそのような手段をとって良いか、と。
日本より先に清国の撤兵を要求し、袁世凱がそれを拒絶すれば朝鮮に対する宗主権維持のためのものと見なして、日本の朝鮮独立を保持しようという日本の努力を拒否したとみなし、兵力によって対抗する手段をとって良いかってヤツですね。

で、6月18日付けの機密第96号を見てくれと言うわけです。
これ、昨年の4月18日のエントリーで見た6月17日付『機密第96号』の事ですが、この時点ではまだ日本に届いておりません。
見てくれと言われても~。(笑)

続いて、同じく『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から。
37画像目にロシアの西公使から陸奥への1894年(明治27年)6月23日発『電受第298号』が。
38画像目にその訳文が載っていますので、2つ続けて。

Mutsu
Tokio

I heard that a few month ago Russian Government promised to Chinese Government not to interfere with affairs or make any attempt to the integrity of Corean Kingdom.

在露公使


電信訳文

数月前、露国政府は清国政府に向て、露国は朝鮮の国政に干預することなく、又該国の独立を侵さざるべき旨を約したりと聞けり。
数ヶ月前、ロシアは清国に向かって、ロシアは朝鮮の国政に関与せず、また朝鮮の独立を侵害しない旨を約束したと聞いた、と。
ということで、今回の件についてはロシアは部外者に。

今日最後の史料は、『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の16画像目から。
陸奥から大鳥への1894年(明治27年)6月23日発『電送第240号』。

Otori
Seoul

9. Your long telegram of 六月二十日 received.
加藤外務書記官 will leave 廣島 together with 2,000 troops 六月二十四日 for 京城 with full instructions for you.

mutsu
6月20日の長い電信ってのは、2月26日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月20日発『電送第227号』かな?
で、加藤が京城に向けて2,000人の追加兵と貴下への総ての指示と共に、6月24日に広島を出発する予定、と。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
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日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)



前回のお話で状況一変。
袁世凱と閔泳駿の関係が切れ、且つ閔泳駿がヒッキーになっちゃいました。
これからどうなって行くのでしょうねぇ。

ってことで、今日からは23日の史料に。
まずは、李鴻章の電報→袁世凱→朝鮮政府という経路を辿る事になる話から。
『駐韓日本公使館記録1』から。

李鴻章より袁世凱宛電報

此電報に拠り、別紙の通り袁より朝鮮政府に照会せり。

総署電韓自全城克復後敗匪若干究竟何往迄無的信此時韓畏倭如虎転置剿賊正事於不計倭之藉口助兵為韓不辨賊也今首要一名不獲余匪去向不知以擾及両省之賊匪一朝査無踪跡誰実信之無論倭更有詞断不遽退即同撤之後賊燼復燃又当如何為今之計宜飾袁不必促倭退兵惟催韓剿匪但能将匪事辨有切実頭緖俾外人共見彼時約倭同撤当致順乎此時倭之不敢遽謀呑韓人所共知而藉口駐兵恐不免好事駐與不駐我均有前事可循相時辨去亦不慮無以応之葉已派隊前往探捕袁応亦催韓趕速進兵剿匪必眞粛清乃可報賊平也


陰5月20日(我6月23日)
袁世凱より統署を経て議政府への照会

敬密啓者今夜奉総理衙門北洋大臣電開韓自全城収復敗匪若究竟何往迄無的信韓転置剿賊正事於不計今而首要不獲余匪去向不知以擾及両道之賊衆一旦査無踪跡誰実信之無惑他国有所藉口宜飭袁道催韓趕速進剿竝飭葉聶相機助剿必真粛清乃可報賊平也等因奉此除転電葉軍門聶鎮台遵照酌辨竝隨時面催往来各官外特請貴政府迅飭通兵前往剿捕必須真実清始可報称匪乎以抒中朝之憂顧而杜他人之藉口是所盼切専此布頌勛祺維希電照不既

右に付採報する所に拠れば、議政府は賊匪已に平定したるに付、清国援軍の進撃を願はざる旨を以て回答したりと云ふ。
最初の文が、李鴻章から袁世凱への電報で、それを元に次の文で朝鮮政府に照会した形なわけですが・・・。
袁世凱フィルター発動(笑)
今之計宜飾袁不必促倭退兵惟催韓剿匪」は袁世凱への指示だろうから兎も角、「此時倭之不敢遽謀呑韓人所共知」って、意図的に抜かしただろ。www
そこ重要なのに。(笑)

大体の概略は、韓国が自ら全州城を回復した後、敗れた匪賊達は結局どこへ行ったのか。
今、首謀者の一人も捕らえず、残りの匪賊はどこへ行ったか分からず、全羅・忠清の両道で騒擾を起こした匪賊が痕跡もなく居なくなったと誰が信じられるだろうか。
だから日本人達は何を言っても撤退しないのだろう。
撤退した後に、賊の残党がまた騒擾起こしたらどうすんのよ?
ってことで、袁世凱に日本に撤兵を迫るのではなく、韓国に匪賊を剿滅しろって言え、と。

そん時には、外人にも一緒に見せとけ。
日本は同時撤兵に当たって順当に行うと約束した。
その時日本は韓国を併呑する陰謀を敢行できないのは、みんな知ってる事だ、と。
いや、知らない人達も居ましてね・・・。(笑)

葉志超には已に軍を向かわせて賊を探索、捕縛するように言ってあるし、袁世凱も韓国に早く兵を出させて匪賊剿滅して平定報告しろや、と。

割と、日本側の言い分が通じてるかのような、清国側の電報。
日本の駐留理由を無くそうとしているのか、逆に日本と同じ言い分で駐留しようとしてるのか。
いや、他国に救援依頼するまでになってる民乱が、首謀者の捕縛も無しに一度の敗戦で匪賊が消滅して、それでお終いって、あり得ないと思うのが普通だとは思うんですけどね。(笑)

さて。
3月7日のエントリー等で、清国の追加派兵と日清衝突不可避の見解が陸奥から伝えられましたが、これを受けて大鳥も動きます。
『駐韓日本公使館記録1』から、1894年(明治27年)6月23日付『機密第101号(能勢二等領事)、機密第102号(室田総領事)、機密第103号(上野二等領事)、機密第104号(京城 内田二等領事)』。

今般我国より出兵相成候に付、或は支那兵と衝突を生ずるも難計。
依て外国人等に対しては、談話の際隠に其意思を表示し、彼等をして我挙を賛成せしむる事は必要と存し候に付、御心得迄別紙趣意書差進め候間、時機を見計ひ雑談の中に打混じ公然となく該意を示し相成候様致度、此段内々申進候也。
今回日本から出兵したため、あるいは清国兵と衝突を生じるかも知れない。
従って、外国人等に対しては、談話の時に密かにその意思を表し、彼等に日本の挙を賛成させる事は必要だと思われるので、心得までに別紙の趣意書を渡しとくので、時機を見計らって雑談の中に織り交ぜ、それとなくその意を示すようにしたいので内々に言っておくよ、と。

で、別紙。



此度我政府は軍兵を朝鮮に入れたる事は、先般来朝鮮に民乱興り、之が為め外援を請ひたる等の事実有之候に付、日朝両国の條約を照遵し、警備の為め派遣したるものにして決して他意あるにあらず。
然るに支那の軍兵は、本と朝鮮を援助して民乱を鎮定せんとして派遣せしものなれば、民乱既に平定したる後は直ちに之を撤回すべきに、仍ほ依然之を留陣せしむるは甚だ不審且つ不当なり。
加之、昨日天津の電報に拠れば支那は更に5,500の兵を発遣せんとせりと云へり。
何故に重て斯の如き大兵を発遣するや、実に不審の極なり。
我国は、御承知の通り最初より朝鮮の独立を認め其事実を挙げしめんと勉め居る事なれば、万一或る大国は若し此国を属邦視し、其君主権を行はんとする事実あるときは、我国は余儀なく之と衝突を生ずる場合あるも計り難し。
乍去、我国は可成丈衝突を避く可く務むるなり。
貴国は我国と同様に朝鮮の独立を認められ、且つ朝鮮を以て或大国に附属せしむる事は貴国の利益にも背く可ければ、無論我と同様の意見を有せられ、且つ我が目的を賛成せらる可しと確信せり云々。
今回日本が朝鮮に出兵したのは、先般来朝鮮で東学党の乱が起こり、そのために外国の救援を願った等の事実があったため、済物浦条約に照らして警備のために派遣したものであり、決して他意があるわけではない。
しかし清国軍は、元々朝鮮を援助して民乱を鎮定しようとして派遣したのだから、民乱が既に平定した後はすぐに撤兵すべきであるのに、依然として駐留しているのは甚だ不審であり、且つ不当である。
これに加えて、昨日天津からの電報によれば、清国は更に5,500人の派兵をしようとしていると言ってきている。
何故重ねてこのような大軍を出兵させるのか、実に不審の極みである。
まぁ、その通りで。(笑)

何度も言いますが、清国が撤退して「民乱の鎮圧に成功して清国は撤退したんだから、日本も天津条約に基づいて早期撤退を」と言ってくれば、日本としても抗弁できないわけで。
それなのに追加派兵って、「やる気」か?と。(笑)

で、日本は御承知のとおり、最初から朝鮮の独立を認めて、その実効を挙げようと努力しているわけで、万一ある大国が朝鮮を属邦視し、その君主権を行おうとする事実があれば、日本は余儀なくこれと衝突を生じる場合もあるかも知れない。
しかしながら、日本はなるべく衝突を避けるように努力する。
貴方の国も日本と同様に朝鮮の独立を認めており、かつ朝鮮をある大国に附属させる事は貴国の利益にも背くだろうから、無論日本と同様の意見を持っており、かつ日本の目的に賛成するだろうと確信している、と。
この辺は「保護属邦」絡みでチクッと刺しておく、と。(笑)

これまでの日本の言い分そのままを整理した感じですね。


ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
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日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)



前回は、李南珪の上疏、「全く信憑し難き節も少なからず」な宮中からの情報、量の割に中身の薄い現地報告という、見てても、テキスト起こしててもつまらない報告でした。(笑)
ってことで、今日もさっさと続きを見ていきたいと思います。

『駐韓日本公使館記録3』から、1894年(明治27年)6月22日付『発第83号』の続き。

8) 6月22日接探報
両3日前、閔泳駿は袁世凱に面会し謂て曰く、君は誓て貴軍兵を城内に入るとの策を執らざるへしと明言せられしにも拘はらず、昨今の模様一変して貴兵入城の挙あるが如し。
果して然らば、我国の不幸を来すへければ、清兵入城を止められたしと。
袁氏之を聞て大に憤怒し、種々罵言を加へ、終に其面に唾するに至りしと云ふ。
閔泳駿は過日其兼官なる統衛使(統衛営の大将)を辞したるところ、右願意を聞届けられ、後任には扈衛副将申正熙をして兼務せしむる旨翌23日の朝報に見へたり。
袁世凱氏国王に上書して曰く、幸に死したる玉均を斬戮せしより、寧ろ生ける玉均を斬らば国内無事ならんと。(蓋し此意は、朴・徐等の諸氏を得て而して甘心するを謂ふ乎)。
3日前、閔泳駿が袁世凱に面会して言った。
ニムは誓って清国兵を城内に入れるようなことはしないと名言していたニダが、最近は状況が変わって清国兵入城が行われるらしいニダ。
もし本当なら、ウリナラの不幸を招くので、清国兵入城はやめてくれニダ。
これを聞いて袁世凱激怒。
さまざまに罵倒して、しまいにはその顔にツバするに至った、と。
どんだけぇ~。(笑)

で、閔泳駿は先日兼任している統衛使の職について辞意を述べたところ、その願いが聞き入れられ、後任に申正熙を兼務させる旨が23日の官報に掲載された、と。
また、袁世凱は高宗に上書して、「幸いにして死んだ金玉均を切り刻むより、寧ろ生きている金玉均を斬れば国内は安泰だろう」、と。
生きている金玉均ってのは朴泳孝や徐載弼等のことで、彼等の言に納得したり感服したりしている状況を言っているのだろう、と。

んー、混沌としてきましたねぇ。(笑)

9) 在松都或我国人の私報に拠れば
去る18日、坡州の北1里許の処にて支那人3名に出会す。
各駿馬馳て京城に向ふ。

○ 只今支那巡査2名京城より当府に入城せり。(入城後直に商人体の服装にて市街を徘徊するを発見せり。其他5、6名の同国人在城各擬商人ならんか)
巡査も現に目撃せり。

○ 去16日、支那人10名入城。(現今其行処を知らず)
近日支那兵約4,500人当府へ着するならんとの風説あり。
其の何れより来るかは、説を為す者も知らずと云ふ。
松都は今で言う開城らしいですね。
そこに住んでいる日本人からの報告では、6月18日に京畿道の北側にある坡州の北1里くらいの場所で、清国人3名と出会った。
それぞれ馬を走らせて京城に向かった、と。
そして、今清国巡査2名が開城府に来て、直ぐに商人風の服装で市街を徘徊。
その他5~6人の清国人が開城に居る偽商人ではないか。
巡査も現に目撃した、と。

去る6月16日、清国人10名が開城に。
今どこに行ったのかは不明。
最近、清国兵4,500人が開城府に来るという噂があるけど、どこから来るのかは、来るという噂を流している者も知らないという、と。

んじゃ、続き。

10) 6月23日午前接
平安兵使義州府尹状啓大概(22日夜宮中にて開封)
清国兵二万名已為入境将向京城日行八十里前進不幾日抵京事登聞云耳

去20日、閔泳駿袁氏を訪ひしも遂に追ひ帰へされ、失意家に帰り、直ちに上疏して将兵の任を辞し、門を杜して客を謝すと云ふ。
又同氏は近来護兵を以て邸宅の周圍を守り、以て不虞に備ふと。

○ 最初清国より兵を朝鮮に送るや、袁氏は閔氏に対し、凡て軍用の費は我国より担当支出して貴国に仰がざるへしと相約せるも、今に至りては、前後諸費は一々朝鮮に於て負担すべしと恐嚇せりと。

○ 清国は、既に派遣せる兵の外尚5,000人を送り、南陽馬山浦に上陸せしめ直に京城に向ふと云ふ。

○ 袁氏人に対して曰く、朝鮮は一恵堂の奸計小謀を以て焉ぞ敢て我を欺く乎。
吾意已に決せり。
誓て罪を問はんとす。
只だ憐むべき者は人民なりと。

○ 閔泳駿、安駉壽と密議を経たる後、外務督辨をして密かに俄国公使を訪問せしめたりと。
只た其意は何事なりしやを知らず。
然れども、専ら保護を悲願するに存するべし。

○ 袁氏初めは日本を怨みたるに、今は却て憤りを閔泳駿及安駉壽に含み、20日早朝400余字電報を発せりと云ふ。
まずは、平安兵使と義州府尹からの報告。
清国兵2万人が既に国境を越え、京城に向かっている。
1日80里進み、幾日もせずに京城に到達する、と。
んー、平安道と義州府って遼東半島に隣接する地域ですので、そこから来た清国兵2万人越境の報告ってのは非常に嫌な報告ですなぁ・・・。

で、先ほども顔にツバ吐きかけられた話が出ていましたが、6月20日に閔泳駿が袁世凱を訪問したけど、最後には追い返されて失意のまま家に帰り、直ちに上疏して将兵の職を辞し、門を閉ざして来客とも会ってない。
また、最近閔泳駿は、邸宅の周りを護衛兵で守り、不測の事態に備えている、と。
朝鮮に清国兵を引き入れた張本人なのに。
お約束のように辞職&引き籠もり。(笑)

続いて、最初清国が朝鮮に兵を送る時に、袁世凱は閔泳駿に向かって軍費は全部清国で支出し、朝鮮には負担かけないからと約束してたのに、現在では費用は全て朝鮮で負担しろと脅してる、と。
いや、朝鮮で援兵依頼したのは事実なわけですから、戦費負担するのは当然じゃないかと。
まぁ、最初の袁世凱の甘言がアレなんですが。(笑)

続いて、清国は既に派遣済みの兵のほかに5,000人を送り、南陽馬山浦に上陸させて直ちに京城に向かうという、と。

次ぎに、袁世凱は人に向かって、朝鮮は閔泳駿一人の奸計小謀によってどうして敢えて私を欺くのだろうか。
私の気持ちは既に決まった。
誓って罪を問おうと思う。
ただ可哀想なのは人民だがな。
あー、ぶち切れてる、ぶち切れてる。(笑)

で、閔泳駿は安駉壽と密議した後、外務督辨に密かにロシア公使を訪問させた。
その内容は不明。
しかし、主に保護を悲願するためだろう、と。

最後に、袁世凱は最初日本を怨んでいたが、今は却って閔泳駿と安駉壽に憤り、20日早朝に400字あまりの電報を発したという、と。

これまで割と単純だった構図が、ここに来て一気に複雑に。(笑)


長くなりましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)



前回から、高島留学生からの報告をメインとした報告が続いていますが、高島くん言葉足りなすぎ。
解釈に困るほど少ないわけでは無いんですが、味気は無いなぁ。(笑)

ってことで、今日もさっさと『駐韓日本公使館記録3』から1894年(明治27年)6月22日付『発第83号』を見ていきます。

5) 刑曹参議李南珪上疏
同氏は全羅道民擾に関し、政府の時弊を枚挙して痛く之れを排撃し、又其文中日本兵の滞京を非難する一節あり。
左に抜載す。

抑臣所欲言有急乎此者今日本人卒兵入都門外署(統理交渉通商事務衙門を云ふ)之臣力止而不能臣未知其意之何居而其兵之何名也若曰救恤隣国則我未嘗求援矣若曰防衛商民則我保其無虞矣不求援而猶曰救恤是矯情也保無虞而猶曰防衛是疑義也由前則非義也由後則非信以此責彼有何説之辞交隣之道惟義與信二者不立而能保交好臣未之聞也春秋之盟先言無保好毋留慝次言救患恤乱其緩急之勢固較然矣甲申之変凶逆之逋逃者彼為之藪是保是留顕為邪翼之沿春秋之盟則己偸矣今以救恤為名固己失緩急之勢矣況非救非恤名之以防衛而又無可防之虞乎設若真有可防之虞我当依約防護而彼乃紛々動大衆渉吾境不問禁而入吾国都門騷然不少惟使吾民益騷攘以訛何哉臣恐其中有詐而謂我無人也我国雖少曾無尺寸之兵刃以千里畏人心覤低首一聴其進退莫之敢誰何何哉都城之内許彼開餔識者猶恥之況可許其駐兵而莫之禁乎外署之臣責以義布以誠信彼未必不退若曰非理義誠信所可動是敵也非隣也與敵爲隣内懐疑志外示覇縻而卒無事者未之有也議者必以臣言為不度時宜不量事勢妄談大事以招隣嘖此苟且姑息之説夫国之為国以其有国体也国体不尊中於時議合於事勢非臣攸聞也昔徐盛以片言折魏使之恁胡銓以一紙却虜師之強二子豈不誠度時宜而量事勢妄談大事以招隣嘖哉徒以区々咫尺之義謂図可之国体不可不尊也且国体不尊国雖欲無亡不可得也臣不死於甲申之辱而有愧於二子者多矣今因此言而彼若有嘖願執臣身以謝彼使臣請以頸血濺之而得以従二子於地下雖死亦栄矣始我之求救中国非計之善也演池小盗一縣吏一方伯可能制之涓々炎々醸成巨寇至使招討使巡辺使相継出師殆所謂千斤之弩為鼷鼠而発也此己不可使聞於隣国而又苦能料我而以順討逆理無不克遽示内弱汲々求救卒不藉其力而我己剿捕徒費供億之労輸輓人必以我為惴劫安知日本人不因此而窺我之浅深以兵嘗試之耶我業與彼和今不可遽爾力拒惟以理義誠信悟之如是而不悟是終慢我也我亦宜繕用治兵以待之安有異国之兵在都城之内晏然不為之備乎云々

右の建白書は、6月15日国王殿下に捧呈せられたるも、未だ何等の勅答なしと云ふ。
李南珪が東学党の乱に関して、政府の弊政を枚挙して批難し、その文中に日本兵の京城滞在を非難する一節があったので抜粋、と。
この李南珪、後に中枢院議官になります

で、その抜粋部分は、日本が兵を率いて入城するのを、統理交渉通商事務衙門は止められなかった。
日本の意図がどこにあり、何の名分があるのか分からない。
隣国を救恤するというが、我々は助けを求めた事がないし、商民を防衛するというが、我々が心配なく保護する。
助けを求めた事がないのに救恤すると言えば矯情であり、心配なく保護するのに防衛すると言えば疑義である。
前者は義ではなく、後者は信ではない・・・って全部やるの大変だなぁ。(笑)

超簡単にしちゃうと、日本の行動は普遍的良心をわきまえていない。
確かに清国に救いを求めたのは良策ではなかったけど、もう平和になったので、普遍的良心に訴え、それでも受け入れられなければ兵を備えて待つべきだって事で。(笑)

で、この建白書は6月15日に高宗に捧呈されたけど、まだ何の勅答も無いという、と。
まぁ、日本兵の滞在批難だけなら兎も角、東学党の乱に関連して政治批難までしちゃってるなら、閔泳駿辺りに握りつぶされててもおかしくないと思うけど。

んじゃ、続き。

6) 左の探報は宮中より出でたるものなりとて入手致したるも、全く信憑し難き節も少なからず。
只参考まで掲載致置候。

過般来東学党の勢益々猖獗に至るや、袁世凱氏は恵堂に見へ辞を極めて其心を動かし、且つ恐懼を起さしめ、而後謂て曰く、若し清国の兵一隊を出さば此等の土匪は苦もなく討平すべし。
何ぞ我後援を求めざるやと。
恵堂は先づ其専断する能はざる旨を答へ置き、而して之を国王に奏せしかば、求援の事時相(領議政及左右議政)に相議せざるべからずとの勅意あり。
此時恰かも趙秉世(左議政)のみ出仕し居られたるに因り即ち此意を伝へ、援兵を清国に請ふべしとの義は袁世凱発議通りに取計ふべしと決定し、即時上海を経て北京政府に発電したる処、清帝は時を移さず兵を朝鮮に派遣し、且つ袁氏を以て右翼の大将たらしむべしとの命ありたり。
此時に際し、恰かも閔泳翊より暗電到来せしかば、之を解読するに云く、袁世凱は久しく我国に在りて細かに国情を探り、一に之を政府に報道し、且つ朝鮮が官を売り爵を鬻き生民塗炭に苦む等の事より其他十余條の失政を挙て奏聞せり。
此に於て清帝嚇然大怒に至り、護国大臣を派して朝鮮の大小政務を監督せしめられんとせしも、困難の事情ありて遂に其儘停止せり。
然るに、今般の事に付袁氏は又民心大に変じ、国必らず支へ難からん。
已むを得すんば、朝鮮を討滅して中国に属せしむる為め、一刺使を派出して之を鎮定すべし。
因て急に重兵を発して意外の変を杜かれたし云々との事を稟報したり。
故に、今般清国が兵を朝鮮に出すは、表面救助の為めなりと称するも、其実我に不利にして禍乱測るべからざるものあらん。
至急準備ありたし云々とありしかば、国王及王妃には驚駭色を失はせられ、更に好案もなき析柄、幸にして日本より兵を送り来り神速都城に入り、且つ各要害を拠守し沿路兵を屯して守禦するを以て、袁氏は事の意外に出て其志を達すること得ざる為め、大に憤激して戦端を開かん事を期するも、各国公使強て之を止め、遂に其志を逞ふする事能はざるに至れり云々。
(以下は批評に属するに付削除すべきや)
要するに、今日我国の禍害消滅せしは専ぱら日本兵入城の力に由れるなり。
然りと雖ども、目前の禍を解きたるのみにして永久安堵の策を得難きは嘆ずべし。
報告する側で、信じられない部分も多いけど参考までに掲載しとくと言うだけあって、嘘臭さ満載。(笑)
特に、閔泳翊の暗号電文の辺り。
朝鮮で売官鬻売が横行して民が塗炭の苦しみに喘いでいるからって、清国皇帝が激怒する筈もなく。
増して、日本が来たおかげで難を逃れたなら、帰れという筈もなく。(笑)
個人的には、日本のバックアップを期待している開化派による創作の線が強いと思うんですが、さて。

7) 在牙山支那兵に関する探偵
18日午後7時牙山着。
支那兵牙山・白石浦に宿す。
総数1,500計ならん。
牙山には宿屋と幕営とに住む。
白石浦には宿屋に住む。
牙山には駄馬数百頭、白石浦には弾薬粮米沢山あり。
牙山と天安の間逓伝を設け電報を送る。
牙山には本営より葉・聶の二将、今有無は明ならず。
近傍の村には二将の徳を頌する為め木碑を設く。
兵卒の種類は明ならず。
但し、水兵も上陸しあり。
牙山・白石浦の兵は今他に行く景況なし。
東学党の鎮静を待ち帰するならん。
風説に拠れば、陰暦20日(我23日)には帰るとの事。
併し、白石浦附近には未だ出航の準備なし。
牙山の沖には支那軍艦あり。

風説
支那兵は20日に出発す。
公州には支那兵あり。
支那兵天安に行きしが、其翌日直ちに牙山に帰へり。
東学党は幾んと解散せり。

一般の状態
土人は至て静粛。
変乱なきが如く。
支那兵及び東学党の事は念頭に掛けざるものの如し。
米の値段は平生に同じ。
土人の無頓着と不断雨風の為め、視察甚だ困難なり。
牙山附近10里以内には馬壹匹も居らず。
清国兵は牙山と白石浦に合計1,500人。
つうか、「近傍の村には二将の徳を頌する為め木碑を設く」ってなぁ・・・。(笑)
まぁ、実際東学党が解散状態になったのは、清兵が来たからビビッたというのが大きいとは思いますがねぇ。

で、清国兵は今のところ他の場所に行く気配なし。
東学党の鎮静を待って帰るんだろう、と。
6月23日には帰るという噂が出ているものの、牙山沖には清国軍艦がいるけど、白石浦附近では出航の準備はしていない、と。

で、噂として清国兵は20日に出発。
公州に清国兵がいる。
清国兵は天安に行ったけど、翌日すぐに牙山に帰ってきた。
東学党はほとんど解散した、と。

一般の状態としては、現地住民は至って静粛であり、清国兵や東学党の事は念頭に置いていない様に見える。
米の値段は普段と変わらない。
現地住民の無頓着と絶え間ない風雨のため視察困難。
牙山10里以内には馬一匹いない、と。

長い割にあまり中身が無ぇ。(笑)


『発第83号』はもう少し続きますが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)



基本的に発日、もしくは付日で史料を整理していってるわけですが、着日で整理していった方が良かったかもなぁと思ったり。
まぁ、そうすると今度は話の流れが分からなくなるわけですが。(笑)
つうか、アジ歴で見れる外務省の簿冊の中自体がゴチャゴチャなんで、ぶっちゃけ整理しきれてない部分もあり。
今後、どっかで突然追加する事もまたあるかも。

ってなわけで、本題。
今日は、大鳥から陸奥宛の文書なんですが、アジ歴で見あたらなかったため、『駐韓日本公使館記録3』から1894年(明治27年)6月22日付『発第83号』を見ていきたいと思います。
長いので分割しながら。

全羅道民擾平定に帰したる電報、竝に韓派遣兵引揚げに関する諸報告、李南珪建白書抜萃等一括として差出候間、御一覧相成度、此段申進候也。
東学党の乱平定・官軍引きあげ・李南珪建白書抜粋などの一括報告、と。
そんじゃ、中身を見ていきましょう。

1) 6月18日当館より在全州高島留学生に向け、全州・金堤・金溝・泰仁等に於ける東学党の模様しらせとの電問を発したるに、同19日午後3時其答電を転ずるに、どこも東学再発の模様なし。
吾等帰るべきか。

参考
本月16日朝、議政府に達したる招討使の電報如左。
東徒之散屯各処者皆聚于泰仁邑盡納事器于官庫自願退帰而或捉或帰一例盡散更無聚屯処従此東徒盡平萬幸
招討使電報
6月18日に日本公使館から全州に居る高島学生に向けて、全州・金堤・金溝・泰仁等の東学党の模様を知らせよと電信で聞いたら、翌19日にどこにも東学党の再発の模様は見えない。
僕たち、帰るべきだろうか、と返事が。

2月14日のエントリーで朝鮮政府から正式な鎮定の通知が6月18日に来ていましたが、どうやら嘘では無いようで。
つうか、この高島っていう留学生、後に書記生となって春生門事件の史料なんかに顔を出すわけですが、一体何者なんだろう?

で、参考として添附されているのが、16日の朝に議政府に着いた招討使の電報。
あちこちに散らばっていた東学の徒を皆泰仁邑に集め、武器等を全て官庫に収めて帰るように言った。
ある者は逮捕し、ある者は帰し、皆解散して更に集まる様子はなく、従って東学の徒は全て平定されたため、幸いである、かな?
ここ、全く自信無し。(笑)

んじゃ、続き。

2) 在全州高島留学生電報(20日午後6時35分接)
○ 招討使兵を連れ一両日内全州を引揚げ陸路より巡辺使平壌兵を連れ海路より帰へる。
監司兵・江華兵、明日帰営の筈。

○ 同上21日午前7時30分接
泰仁の東学40名余全州より帰村後救恤を府使に迫る。
監司より鎮撫の為、正領官派遣し今明日帰へる。

○ 全羅民擾鎮定に付、内務府より派遣兵撤回の上申を為し国王裁可を受けたり。
ってことで東学党の乱が鎮圧されましたので、20日の高島留学生からの報告では、招討使の洪啓薫の軍は一両日内に全州から引きあげ、途中で巡辺使李元會の率いる平壌兵をひろって海路で帰ってくる。
観察使の軍と江華軍も明日帰る筈、と。

21日の高島留学生の報告では、泰仁の東学党の徒が40名ほど全州から帰った後、困窮してるから助けてくれよと府使に迫り、監司は鎮撫のために正領官を派遣し、今日明日帰る、と。
ここで断れば、乱の再発を招く種になるかも知れませんしねぇ。(笑)

で、東学党の乱が鎮定されたので、内務府から派遣軍を撤収させる上申を行い、高宗の裁可を得た、と。
これで形式的にも東学党の乱(前期)終了、かな。

3) 甲午5月17日朝報 我6月20日
内務府草記昨因湖南(全羅道)匪徒剿平之報巡辺使既己撤回今又見招討使洪啓薫電達匪徒余党散帰探知遠近亦無可慮京兵與沁兵可即撤回姑令営兵以鎮民心伏俟処分云矣匪徒既己掃除其余皆散去帰農則目下急務惟在於即速班師令民免有一日之煩費亟図撫恤安業之而騷余民心亦不可不留鎮沁営兵房姑未接住完府招討使之即日撤回事伝曰允
これが先ほどの「全羅民擾鎮定に付、内務府より派遣兵撤回の上申を為し国王裁可を受けたり。」の内容ですね。
これとほぼ同内容の記事が高宗実録の高宗31年5月16日に見えます。
1日ずれてますが。

簡単に言うと、東学党の掃滅に関して巡辺使を撤収する事にしたが、今招討使の洪啓薫からの電報を見れば、「逃げ帰った匪賊の残党は遠くにも近くにも見えず、心配する事も無いだろうから、京兵と江華兵も撤収させ、営兵によって民心を鎮めるよう処分を待つ」とあり、匪賊は除かれ残党も散らばって帰農したので、目下の急務は兵士を撤収して1日も早く民達を煩わしさから解放し、撫恤・安業することにある。
しかし、騒乱後の民心を勘案すれば、しばらく兵を駐留させざるを得ないため、江華兵はしばらく全州府に留める事にし、招討使は即日撤収させたらどうか、と上啓し、裁可を得た、かな。

結局、巡辺使・招討使・観察使の各軍は撤収で、江華兵は残るのか帰るのか現段階では不明って形かな?

んじゃ、続き。

4) 在全州監営高島留学生電報(6月21日午後7時接)
巡辺使今日帰途に就けり。
一文銭万両火災者に下賜せらる。
泰仁の説諭懇加後おさまり帰へる。
21日の高島留学生からの報告。
巡辺使は今日帰途についた。
次の1万両下賜された「火災者」って何だろう?
さっきの、泰仁で救恤を訴えた東学40名余かな?
で、恐らくそいつらが説諭を受けた後帰った、と。


途中ですが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
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