結局、他の話題を取り上げても、つい深く調べてしまうので気分転換にならない事が判明。(笑)
本当は、今月の『育英公院』のように、ワンパンチで気軽に楽しめる方が好きなのに。
ってことで、兎も角『東学党の乱』の続きを始めてしまいました。
( ´H`)y-~~

< 2008年2月のエントリー >
英文史料や漢文史料が多すぎて、見た目以上に時間がかかっています。(笑)
最近、官報等の活字史料ばかりだったので、読み取りにも手間取ったり。
割と苦闘の月。(笑)

林、柳、南、桂等の姓を有する者

以前、『創氏改名(十)』及び『創氏改名(十三)』で取り上げた話の補強というか増補というか。
「林、柳、南、桂等の姓を有する者」でも設定創氏している具体例についてですね。


東学党の乱(百十一)

昔の連載の時に、漏れてた史料の補填。
朝鮮へ出兵するに当たっての、伊藤博文から大島陸軍少将と伊東海軍中将への訓令の話。
これを見て、露館播遷の時の小村の対応を思い出した僕は、何か間違ってると思う。(笑)


東学党の乱(百十二)

史料補填その2。
xiaoke氏の協力により、以前の連載で不明だった5月22日付『機密第63号』を入手。
朝鮮政府の対応への予想を提示し、それが起きた場合の対処に関して協議したいという内容。
内容的には面白いんだけど、流石にガイシュツなものばかりなので、新味に欠ける。(笑)


育英公院

ニンステッドへの給料未払い。
南廷哲の差額着服。
そしてメインディッシュの卒業者の居ない近代的学校。(笑)
見所は満載。
こういう史料ばかりなら楽なのに。


日清戦争開戦まで(一)

これまでの経緯のおさらいとして、昨年の4月20日のエントリーでのまとめを基本にした年表を取り上げました。
ついでのように英文史料を一つ。(笑)


日清戦争開戦まで(二)

英文史料地獄。
そして、やはり役に立たない電信線。
個人的に、朝鮮の電信がちゃんと繋がってれば、結構歴史変わったと思う。(笑)


土地収奪の具体例 ~ 李震の場合 ~ (三)

xiaoke氏からも頂き物。
日本人長官との連署図面によって、日本人だけの高等土地調査委員会で、日本陸軍所管の国有地が朝鮮人の所有地に変更されるわけですよ。(笑)


日清戦争開戦まで(三)

仁川から京城への要衝と漢江沿岸の各所に展開する日本軍。
前例がありますからねぇ。
後、ポイントとしては1894年(明治27年)6月17日付の汪鳳藻への親展文書かな。
結構重要。


日清戦争開戦まで(四)

仁川から京城への要衝と漢江沿岸の各所に展開してるのは、避難ルートと通信の確保のためだよと、予想通りの回答。
日清戦争にしても日露戦争にしても韓国併合にしても、一般的に「feeling of public」が無視されがちなのは、何故なんでしょうねぇ?
で、「京城・釜山間の電信線の権利」は兎も角、「日本人への内陸部での課税廃止、防穀令の完全な廃止」を要求しろという陸奥。(笑)
いくら防穀令が朝鮮官吏の金儲けのために使われてるからってさぁ、無茶でしょ。


日清戦争開戦まで(五)

全州奪還からかなり経った6月18日。
ようやく朝鮮政府から東学党の乱の鎮圧通知が。(笑)
一方、大鳥公使を初めとした日本公使館側では、日本より先に清国の撤兵を求め、それが拒絶されれば清国の宗主権維持と朝鮮の独立を保持しようという日本側の努力を拒否したと看做して、力強い手段に訴えて良いかという提議が、陸奥に対して行われます。


日清戦争開戦まで(六)

撤兵要求に必死な朝鮮政府。
一方で、派兵中止の電報が届かないのでゲシゲシ出発して到着している日本軍。
だから電信線を修理しろ、と。(笑)


日清戦争開戦まで(七)

李鴻章と荒川領事の対談。
天津条約の趣意を忘れたのはどちらなのか、非常に疑問。(笑)
つうか、「在京城公使の力で高宗を説得して、行政なり財政なり軍事なりを助言・勧告するのはオッケー」って言ってるし。(笑)


日清戦争開戦まで(八)

李鴻章と荒川領事の対談の続き。
つうか、「在東京清国公使よりの電報は一層簡単にして、充分了解し難し。同公使よりは、両国委員撰任行政改革等の箇條はなかりし。」って、この重要な時期の重要な話に対して、問題在りすぎじゃないかと。(笑)


日清戦争開戦まで(九)

北京の小村から、李鴻章の訓令を受けた清国政府も、日本の提議に対して拒否回答である旨の電信が届きます。
つうか、李鴻章の言ってる事が本当だとして、東学党の乱の共同鎮圧の話しか伝わってなければ、鎮圧されてると見なされている以上当然の拒否なんですがね。(笑)


日清戦争開戦まで(十)

清国の援兵を依頼しておきながら、撤兵時期は袁世凱任せの朝鮮。
まぁ、当時の情勢的には明白なんですが。
でも、それを日本の公使に公文書で言っちゃう朝鮮。(笑)
建前でも独立国なんだから、マズイだろ。(笑)


日清戦争開戦まで(十一)

日本兵の入京に対する朝鮮政府の状況について。
閔泳駿のお気楽発言といい、趙秉世や沈舜澤の陰謀論といい、お前等もう少し頭使えや、と。(笑)
つうか、袁世凱が本当に「若し速に撤退せざれば、兵を以て相戦はん。」なんて言ってたら大問題なわけで。(笑)


日清戦争開戦まで(十二)

日本兵の入京に対する朝鮮政府の状況についての続き。
袁世凱の「清国の兵が帰国すれば日本も撤兵するだろうけど、もしそうでなければ必ず各国の批難があるだろうし、中国でも罪を問う出兵するアル」ってのは、かなり妥当な意見だと思うんですがねぇ。
その次がねぇ・・・。(笑)


地籍無届の森林山野の関する件

日清戦争前のお話、休憩の回。
森林法第19条の届出を行わなかった私有森林に対して、所有権を回復するための手続きについて。
「無主公山が届出されず国有地となった」は事実でしょうけど、その後所有権回復の手段も周知されてますのでヨロシク、と。


日清戦争開戦まで(十三)

if Japanese troops be not so withdrawn, additional Chinese troops will be sent for protection of Chinese.」ってさぁ、脅しのつもりかも知れないけどさぁ、割と「それを言っちゃあ、お終ぇよぉ」の部類だと思うよ。(笑)
そして、やっぱり出てこない内政改革の話。


日清戦争開戦まで(十四)

在英青木公使から、突然意味不明の朝鮮分割統治案が。
つうか、独立国扱いしてやれよ。(笑)
一方で、「日本人への内陸部での課税廃止、防穀令の完全な廃止」は無茶ッスと大鳥。
まぁ、その通り。(笑)


日清戦争開戦まで(十五)

属邦と雖濫りに其内政に干渉するを得ず。清韓両国の間柄さえ尚ほ且如斯。況や日本は隣邦たるの誼あるのみに於おや。
属邦ってのは、どういう権利なんだ、と。(笑)


日清戦争開始前の話もそうだけど、割とそれ以外の部分の方が大事な気もする昨今。(笑)
つうか、英文&漢文史料の翻訳以外は、結構楽しんでやった月な気がします。
手間はかなりかかりましたが。



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さて、今日は前置きなしで早速。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』から。
2画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月21日付『機密第25号信』より。

朝鮮に対し、日清協同の義に関する来復電信並に口演書其他対話筆記相添申進の件

本件に関し、去る17日別紙甲号の通り貴電到達以後、其翌18日乙号の通り電訓に付、即日啓文を以て丙号口演書を総理衙門に発送。
これと同時に、其翌19日面会の義を申入れ、貴方へは丁号の通り電信差出、即ち当日午後3時半総理衙門に罷越該大臣と対話の次第は戊号筆記の通りにて、此行は彼方の存意を探り旁、局外に漏らせらるるを予防せんとの微衷に出たる義に候得ば、当方よりは別段何等弁論不致候。
尤も、徐用儀の言に、李鴻章よりの電報に3ヶ條は我政府より在天津日本領事を経て申入れたりとあり。
汪公使より電報との事は、更に承知せずと有之。
閣下より公然汪公使に御申入の義は、在天津荒川領事を経て李鴻章に御申入の筈無之と相考候に付、為念帰館直様己号の通り電報差立置候処、昨20日庚号の通り重て電訓に付、即日総理衙門に罷越該大臣と対話の次第は辛号の通りにて帰館直様壬号の通り電報差立置候。
右申進候也。
北京での経過のまとめって感じですね。
「去る17日別紙甲号」は、昨年の4月16日のエントリーでの1894年(明治27年)6月16日付『電送第206号』。
「其翌18日乙号」は、2月8日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月17日発『電送第210号』ですね。
その2つの電訓があったので、即日丙号の通りの口演書を発送した、と。

では、先にその丙号を見てみましょう。
5画像目になります。

日本政府不啻愿朝鮮現在變亂速有勦滅之功亦望将來平安該國基礎鞏固綿長儻再有變亂之事其歸致傷日清朝鮮之和好不可不絶之未萌即於本月十六日日本國外務大臣與清國欽差大臣相晤将日本愿與清國戮力同心之意由該欽差大臣轉達清國政府其要如左

一.彈壓現在叛徒出可及之力速復平安整齊
二.日清両國政府互派委員将朝鮮國行政理財之道應如何更正之處會同講究
三.俾朝鮮整頓精兵自護其國
想清國欽差大臣當経轉達其政府清國政府依以上所開由其欽差大臣迅速答復日本政府實有厚望焉
ほぼこれまでの話と同様ですね。
東学党の乱の早期鎮圧だけでなく、今後変乱が起きないようにするために、日清の共同鎮圧と、日清の委員派遣による朝鮮の行財政改革の研究と、朝鮮が自衛のために必要なだけの精兵をおく事。
これは清国公使から伝わってると思うので、できるだけ早く回答をしてくれ、と。

で、これと同時に面会を申し入れ、陸奥には2月12日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月18日付『電受第264号』を発信。
その時の大臣との対話の内容は戌号の通り、と。

それではその戌号を見てみましょう。
7画像目。

明治27日6月19日、朝鮮事件に関し総理衙門に於て対話筆記如左。

列席総署大臣 孫毓汶 徐用儀 張蔭桓 崇禮
臨時代理公使 小村寿太郎 三等書記官 鄭永昌譯述

本日は午後3時半に於て面会の約定なりしに、同時間に至るも英国公使オコーノル氏尚ほ衙門に於て談話中なりとて、最初出席せしは孫崇両大臣なり。
依て英国公使退散後、各大臣来会を待し、為め右両大臣と雑話数十分に至り、漸く徐張両大臣来席せり。

小村
本日参衙せしは、重大の事件に関し御面談致し度に付、英国公使の退散を待ち各位大臣へ面謁の上陳述せんことを希望し、只今迄両位大臣の御来席を相待たる次第なり。
其事は余の義に非らず。
即ち昨日朝鮮事件に付、我外務大臣よりの電訓に接したり。
其の趣旨は節略に認め貴覧に呈し置たるに付、已に御熟覧のことと存ず。
又、此件に付ては在東京貴国公使よりも、詳細上申せられたらむ。
右は重大の事件に付、貴国政府より可成速かに御回答らあん事を希望す。


貴国政府は在東京汪公使を経て、3ヶ條の提案を申入られたる云々とあれども、李中堂の来電に拠れば貴国政府は右3ヶ條を在天津日本領事を経て申入られたりとあり。
汪公使より電稟せしこと、更らに承知せず。
右は少しく事実相違せしやに思考す。

小村
外務大臣の電報に拠れば、右3ヶ條は在東京貴国公使を経て申入たりとあれば、事実の相違は有之間敷ことと信ず。


貴国政府より提出せられたる3ヶ條に対し、我政府の意見如何は在東京汪公使を経て回答すべき旨、已に李中堂へ申遣し置きたれば、最早同中堂より回電ありしことと信ず。
然る上は、此件に関し貴署大臣と弁論を層るに及ばさる事と存ずれども、此席に於て全く我々の私話として之を談及するには妨なかるべし。

小村
本官も、勿論此件に関し貴大臣等と彼是弁論する所存に非らず。
啻だ事重大に属し、一日も之を等閑に差置難きに付、貴政府より急速の御回答あらんことを面請する為めに参衙せり。


今度朝鮮事件に付、貴国政府の挙動は本大臣等更に想象の及ぶ所に非らざるなり。
清国は、朝鮮立国以来国内擾乱自力を以て鎮圧し難き際は、援兵派遣せしこと数回にして、今日始りたる事に非ざること御承知の事と存ず。

小村
本官は、朝鮮事件に関し我政府より未だ詳細の報知に接せざれば、実際の情形如何は承知せず。
本官単に一個人の資格を以て御話致すべし。
我政府が朝鮮に対する意向と貴国政府の所見と自ら異る所あれば、御了解なきも無理ならざる事と存ず。


貴国政府より提出せられたる第1ヶ條に、朝鮮の逆徒を鎮圧すべしとあれども、該叛徒の重立たるものは已に散乱し、各地方には多少の叛徒出没するのみにて、朝鮮自国の兵力を以て之を圧服するに難からざるに付、最早天兵の応援を仰ぐに及ばざるなりと、同国政府より袁世凱へ通知せりとの報告に接したり。
依て、清兵も内地へ進入を見合居る場合に付、今此弁法を施行するの必要あるを見ず。
貴国の兵員京城に達したるを以て、人心を動搖し却て事端を惹起するの患なしとせず。

小村
朝鮮政府に於て内地の逆徒散乱最早平定に至りたる旨、袁氏へ通知したりと云はるるも、今回の叛賊は全羅忠清の両道に跨り、其勢甚だ劇烈なる由に付、容易には鎮定し難き事と思考す。


袁世凱の上申に拠れば、日本政府は人民保護の為め兵員2、300名を朝鮮に派遣すべしと在京城大鳥公使より伝承せしに、漸々其兵数を増加し、已に800余名の多きに至れりと云ふ。
又其後2,000余の兵隊を貴国より操出すとの風説をも聞及たり。
国乱鎮定の今日に至り、如此多数の兵員を派遣せらるるは実に其意を得ざるなり。


第2第3條に、朝鮮国の内政理財を更正し軍務を整頓する云々とあれども、我政府は断然之に同意を表し難し。
朝鮮は自立の権を有し居れば、属邦と雖濫りに其内政に干渉するを得ず。
清韓両国の間柄さえ尚ほ且如斯。
況や日本は隣邦たるの誼あるのみに於おや。
又此干渉に付ては、諸外国に於ても各々其意見を異にし、遂には意外の事端を惹起し、却て両国間の迷惑を招くの憂あり。
此点に付ては宜しく注意を要する義と思考す。

小村
其辺の懸念あればこそ、我政府は此案を提出し、日清韓三国間の和好を永続固鞏ならしめんとの意に外ならず。


貴国政府より此案を提出せられたるは、元より好意に出たる事と信ずれども、我政府は前述の理由あるに依り何分同意を表し難し。

小村
今茲に貴大臣等の御注意を促し置度義あり。
即ち、右の個條は貴我両国間にて協議施行する重大の事件に付、互に之を秘密に致し置く事最も緊要と存ず。
若し他の外国公使に探知せらるるに於ては、彼是面倒なる関繁を醸成する恐不尠義に付、御他言無之事を切望す。


至極御同感なり。
貴署大臣に於て御他言なき以上は、本大臣等に於ても決して他に相洩れざる様注意すべし。


本大臣等に於ては、腹蔵なく我政府の意見を申上たる義に付、尚ほ貴署大臣よりも貴国外務大臣へ御報告相成も妨げなし。

小村
貴大臣より承りたる事は、其大略を我外務大臣に報告すべし。
貴政府より李中堂を経て御回答相成たる上は、最早他に御話致すことなし。

つうか、「属邦と雖濫りに其内政に干渉するを得ず。清韓両国の間柄さえ尚ほ且如斯。況や日本は隣邦たるの誼あるのみに於おや。」って。(笑)
朝鮮は清国の属邦だけどみだりに内政に干渉できない。
まして日本は隣邦の誼があるだけだろ、と。

朝鮮が「自立の権」を有してるなら、清国も「隣邦たるの誼」があるだけだろ。
「属邦」って一体何の権利なんだ、と。(笑)
つうか、そもそも「未だ曽て朝鮮国を以て貴国の属邦とは認居不申」だしな。


ってところで、途中ですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)


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今日は前置きなしで早速。

アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』より。
23画像目。
在イギリス青木公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月20日発『電受第278号』から。

Mutsu
Tokio

With reference to eventual understanding with China respecting Corea, I call your attention to Anglo-French agreement of 2月 2日 1888 with regard to their con-dominion on the Somali Coast.
Separate protectorate is always preferable.
I therefore propose to protect four southern provinces under our exclusive control of their external and internal affair recognizing at the same time Chinese protection of three northern provinces under same conditions, while leave 京畿道 provisionally to the entire control of Corean King with mutual obligations of both protectorates to oppose any attempt on the part of third power to acquire or assert any right over this province.

在英公使
朝鮮に関する清国との最終的な合意に関して、私はソマリコーストの共同統治に関する1888年2月2日の英仏協定について、貴下の注意を促す。
分割保護領が常に望ましいため、南部4道の内外の事件を我々の独占的支配下で保護し、同時に北部3道を同様の条件の下で清国の保護を承認し、一方で京畿道は双方の保護領としてこの地域の何等かの権益を獲得または主張する第三勢力のいかなる企てにも対抗する相互義務を付けて、暫定的に朝鮮国王の完全な支配下に置くことを提案する、かな?。

ってことで、北半分を清国領朝鮮。
南半分を日本領朝鮮。
京畿道を朝鮮の暫定統治地域にという、やたら唐突な分割統治案ですな。

恐らく、4月14日のエントリーでの1894年(明治27年)6月16日付『電送第208号』によってイギリスの外務大臣辺りに伝達し、それに対する返事って事だとは思うんですが、このまますんなり読めば、無関係な青木公使の唐突な意見という事に。(笑)
青木くん、言葉足りなすぎだよ・・・。

つうか、清国との最終的な合意って、気が早いだろ。
しかも、既にソマリア辺りと同一視されてるし。(笑)

続いて、同じく24画像目左側。
大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月20日発『電受第284号』より。

Mutsu
Tokio

全羅道 revolt seems to have been completely quelled.
Why do you send Japanese soldiers to 釜山浦 and 元山 without consulting me.

Otori
全羅道の反乱は、完全に鎮圧されたと思われる。
何故私に相談せずに、日本兵を釜山と元山に送ったのか、と。

いつの時点の上陸か不明ですが、当初予定に更に追加して派兵するには、時期的に早すぎる気がしますので、やはり大鳥公使の現状報告前に送られたものだと思うんですけどねぇ。
ちょっと保留。

続いては、『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の19→18画像目より。
同じく大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月20日発『電受第291号』。

Mutsu
Tokio

Carefully considered your telegram 六月十八日 which was received 六月二十日 of p.m.
But I cannot take steps mentioned in that telegram because we have no grounds whatever to make such demands against Corea, and in my opinion, there is no other course than that mentioned in my telegram 六月十八日 it is absolutely necessary prompt and decided action should be taken and I expect your prompt answer.
It appears that some Powers entertain suspicion upon our attitude toward Corea in sending such powerful forces.
Hope you will take best possible means to explain our object to those powers.
6月18日付の電信は、勿論2月12日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日付『電送第218号』の事。
この機会を利用して、京城・釜山間の電信線の権利、日本人への内陸部での課税廃止、防穀令の完全な廃止などを要求するかもしれないってヤツですね。
まぁ、電信線の修繕ってのは確かに吃緊の課題でしょうけど、その権利や内陸部の課税廃止や防穀令の完全な廃止ってのは無茶な話なわけで。(笑)
ってことで大鳥も、根拠無ぇーし無理、と。

で、6月18日の私の電信ってのは2月13日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』の事でしょう。
私の見解では、それで建議した事項以外には方法は無い、と。
これは、日本兵より先に清国兵の撤退を要求する件でしょうね。

ってことで、迅速で断固とした行動を取ることが絶対に必要であり、直ちに回答を願う。
いくつかの列強は、朝鮮にあれほどの大軍を派遣した我々の態度を疑っているように見える。
貴下は、その列強達に我々の目的を説明する最善の方法をとるよう願う、と。

続いて、再び『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』に戻って、10画像目左側。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月20日発『電受第274号』。

Mutsu
Tokio

王大臣 promised to telegraph 李鴻章 to answer through 在日本清国公使 as previously instructed though I urged them to telegraph 在日本清国公使 direct to secure quickness.

Komura
王大臣は、以前の訓令のように、在日本清国公使を通じて回答するよう李鴻章に打電すると約束した。
しかし私は、迅速性を確保するために、直接在日本清国公使に送ることを促した。
前回の1894年(明治27年)6月20日発『電送第225号』を受けての要求ですね。
結局回答は清国公使を通じて行われる事に。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)


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さて、1回お休みを挟みましたが、即再開。
もっと休みたひ・・・。(笑)

さて、前回前々回では、笑える閔泳駿&袁世凱コンビを見てきました。
朝鮮が絡むと、本当にホッとします。(笑)
今日はアジア歴史資料センターの史料から。
『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/4 明治27年6月9日から〔明治27年6月21日〕(レファレンスコード:B03030205000)』の33画像目。
陸奥から小村への、1894年(明治27年)6月20日発『電送第225号』より。

Komura,
Peking.

Received your telegram of 六月十九日.
See 総理衙門 王大臣 again and insist upon their forwarding answer through proper diplomatic channel 在日本清国公使 as requested.
Any conversation between 李鴻章 and 在天津領事 cannot be regarded as such.

Mutsu
6月19日の電信は受け取った、と。
これは、2月19日のエントリーでやった、1894年(明治27年)6月19日発『電受第268号』の事でしょうね。

で、総理衙門王大臣に再び会って、要請どおり正式な外交ルートである在日本清国公使を通じて回答を送るよう、強く要求すること。
李鴻章と在天津領事の間のいかなる会話も、正式な外交ルートとみなす事はできない、と。
国家として回答よこせやゴルァ!って事でしょうね。

続いては、同じく34画像目→33画像目。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)6月20日発『電送第227号』から。

Otori,
Seoul.

4. Received your telegram of 六月十八日 which I presume was sent before you had seen my telegrams regarding my proposals to China.
I believe you would think differently after you have seen the above telegrams.
From telegram of 在北京臨時代理公使 it appears that Chinese Government would reject our proposal.
In that case we may be constrained to take a single handed measure.
I had an interview with 在日本清公使.
He said under instructions of Chinese Government firstly that 東学党 has been suppressed there is no necessity for first clause of my proposal to conjointly put down the rebels etc.
I answered that I construe that as willingness of Chinese Government to act conjointly with Japan in case there existed any revolt at any time.
Secondly he said that Coreans are alarmed and fly away because of large number of Japanese troops and requested that troops may be withdrawn leaving small number in order to remove the alarm and that if Japanese troops be not so withdrawn, additional Chinese troops will be sent for protection of Chinese.
I answered that I heard of it for the first time, that I firmly believed that Japanese troops being under strict discipline there is no apprehension that they would frighten the people; I am going to tell Chinese Minister that after investigation your report is to the contrary.
Bear this in mind in case of conversation with 袁世凱 etc.
清国に対する提案についての私の電文を読む前に送られたと思われる、6月18日の貴下の電文を受け取った、と。
my telegrams regarding my proposals to China.」は、4月15日のエントリーの1894年(明治27年)6月16日付『電送第205号』や、2月12日のエントリーでの1894年(明治27年)6月18日付『電送第218号』の事でしょう。
で、「your telegram of 六月十八日」は、2月13日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』の事でしょうね。

で、「my telegrams regarding my proposals to China」を見れば、貴下の考えは変わると思う。
北京の小村臨時代理公使の電文によれば、清国政府は我々の提案を拒否するようだ。
その場合、我々はやむを得ず単独での措置をとらざるを得ない。

私は、在日本清国公使と会談した。
彼は、清国政府の命令により、第一に東学党は鎮圧されたので、共同して反逆者を鎮圧するという私の提案の第一項の必要性は無いと言った。
私は、いついかなる反乱でも存在した場合には、清国政府が日本と共同して行動する意欲があると解釈すると答えた、かな?
自信ナッシング。(笑)

第二に、朝鮮人は多数の日本軍に恐れて逃げ出しており、恐怖を取り除くために少数の兵を残して撤兵するよう要求した。
もし日本が撤兵しないなら、清国人保護のため追加の清国兵が送られると言った、と。

んー、内政改革の話が出てないところをみると、李鴻章が2月18日のエントリーで、汪鳳藻から聞いてないから知らんって言ったのは本当かもねぇ。

つうか、東学党の乱の鎮圧依頼を受けてるだけの清国が、朝鮮人の恐怖を取り除くために日本に撤兵要求って、何の権限で?
天津条約に基づき双方撤兵で良いジャン。
それ以前に、何から清国人を保護するので?
これ、最後通牒ですか?(笑)


まぁ、詳細はまだ分かりませんし、そもそもそこつっこんじゃうと交渉終了ですし。(笑)

ってことで、とりあえず陸奥は、それは初耳であり、日本軍は厳格な規律の下にあり、民衆を怖がらせる不安は全く無いと堅く信じると答えた。
私は、調査後の貴下の報告は正反対だと清国公使に述べるつもりだ。
袁世凱等と会談する場合それを念頭に置くこと、と。

朝鮮人民が日本軍の到来で恐怖している話は、朝鮮側から何度かありましたが、2月12日のエントリーで、お前ぇらに危害加えるわけじゃないんだから、お前ぇらで何とかしろや、程度の回答は既にしているわけで、その後の大鳥の調査による報告とは正反対だと言うのも、厳しい気がします。(笑)

さて、今日最後の史料は、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から。
11画像目。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月20日発『電受第275号』より。

Mutsu,
Tokio.

3,000 Japanese soldiers arrived safely 六月十五日 in stormy weather and are staying at 仁川.
General 大島 alone will leave for 京城 六月十八日.
Chinese soldiers still are stationed at 牙山.

Nosse

(欄外)
本電は、遅くも6月17日頃に起草したる文意也。
而して現書には実際6月20日後10時に仁川電信局を発し居れり。
甚可■。
3,000人の日本兵が荒天の中6月15日に無事到着し、仁川に駐留している。
大島少将一人が6月18日に京城に着くだろう。
清国兵は、まだ牙山に駐留している、と。

まぁ、2月14日のエントリーでは、「我護衛兵入京候義は、過般電信を以て御報及置候後、去15日大島旅団長は軍隊3大隊を率ひ仁川着。昨18日を以て同旅団長以下2、3将校入京相成候。」でしたから、一人で入京というわけではなさそうですが。
つうか、その2月14日のエントリーで、同じく能勢領事から18日着の600人の兵士の話が出てるわけで、何で15日着の3,000人の話が20日発になったのか、確かに不思議~。


ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)



約2週間連載を続けたので、ちょっと休憩。
それで土地調査関係の話に戻るあたりがアレなんですけどね。(笑)

ってことで、表題の件。
1912年(明治45年)1月9日の官報第407号で出された、『官通牒第2号 地籍無届ノ森林山野ニ関スル件』です。
基本的に、前年の1911年(明治44年)6月に出された『森林令』に基づくものになります。

そんじゃあ早速。

地籍無届の森林山野に関する件 (クリックで拡大)

官通牒第2号

明治45年1月9日 政務総監

各道長官宛

地籍無届の森林山野の関する件

旧森林法第19条に依り、期限内に地籍届を為さざるし土地に対する土地家屋証明規則又は土地家屋所有権証明規則に依る所有権証明方に付ては、民有たる証拠明確にして事情憫諒すべきものは、事由を具し指揮を受くべき旨、客年2月23日朝乙発第1600号を以て及通牒置候処、今般施行せられたる森林令第29條の規定に依れば、此等林野と雖、永年禁養の実あるものは、同令第7條の貸付を受けたるものと看做され候に付ては、造林成功したるものとして譲与を出願して所有権を回復せしめ、又禁養の実跡なくものに付ては、新に森林令に依り造林貸付を出願せしめ、造林成功の後改めて譲与を受けしむる様、一般に周知方御取計相成度、此段及通牒候也。

追て本文朝乙発第1600号通牒は廃止致候儀に付、御了知相成度候。
残念ながら、本文中の1911年(明治44年)2月23日朝乙発第1600号は見つけられてません。

えーと、まずは森林法第19条のおさらい。

第19條
森林山野の所有者は、本法施行の日より3年以内に森林山野の地籍及面積の見取図を添付し、農商工部大臣に届出づべし。
期限内に届出なきものは、総て国有と看做す。
ってことで、1908年から3年以内ですので、1911年(明治44年)1月頃までには森林山野の所有者は届出しなきゃ駄目ってことでした。
で、その期限内に届けを出さない場合は国有とみなされる事になってたわけですが、さすがに救済措置があったようで。
その届出をしていない土地に対して、土地家屋証明規則や土地家屋所有権証明規則に依る所有権証明について、民有の証拠が明確で、事情も憐れむべき処がある場合、その理由も添えて指揮を受けるという通達があったんですね。
それが、まだ見つかってない1911年(明治44年)2月23日朝乙発第1600号、と。

で、続いては森林令第7条と第29条のおさらい。

第7條
朝鮮総督は、造林の為国有森林の貸付を受けたる者に対し、事業成功したる場合に於て特に其の森林を譲与することを得。

第29條
本令施行前永年禁養したる国有森林は、第7條の貸付を為したるものと看做す。
ということで1911年(明治44年)6月『制令第10号 森林令』が施行され、その第29条の規定によれば、届出していない林野であっても、永年禁養してきた実績があるものについては貸付を受けて造林成功したものと見なして、譲与の出願をさせるという手続きで所有権を回復。
禁養の実績が無いものについては、新しくその造林のための貸付を出願させ、造林が成功したら譲与させるという手続きに。
で、それを一般に周知させろ、と。

12月18日のエントリーで、「ただ、前回の「永年樹木を禁養したる土地」は私有地とする旨の条文は、どうなるんかなぁ・・・。」と疑問を呈しましたが、その「前回」に当たる『森林山野及未墾地国有私有区分標準』では、「旧森林法第19条の規定に依る届出を為さざりし森林山野は、此の限に在らず。」だったわけで。
整理すると以下のとおりになります。

1.森林法に該当しない程度の林野(あるのかどうかは知らんけど)について、永年樹木を禁養してきた土地は、自動的に私有地。
2.森林法に該当する森林山野は、届出をすれば私有地、届出をしなければ国有地に。
3.国有地になった森林山野のうち、森林令施行前の場合は、民有の証拠が明確で、事情も憐れむべき処がある場合、その理由も添えて指揮を受ける事ができ、それによって所有権の証明を受ける事が出来る可能性があった。
4.国有地になった森林山野のうち、森林令施行後の場合は、永年禁養してきた実績があるものについては貸付を受けて造林成功したものと見なして、譲与の出願をさせ、それによって所有権回復。
5.国有地になった森林山野のうち、禁養の実績が無いものについては、造林のための出願をさせて、それが成功したら譲与。

さて、12月18日のエントリーで、『「無主公山が届出されず国有地となった」は事実でしょうけど、入会権は奪われて無いのでヨロシク』とツッコみましたが、追加。
「無主公山が届出されず国有地となった」は事実でしょうけど、その後所有権回復の手段も周知されてますのでヨロシク、と。
( ´H`)y-~~


今日はここまで。



土地調査事業のここまでの整理
土地収奪の具体例 ~ 李震の場合 ~ (一)
土地収奪の具体例 ~ 李震の場合 ~ (二)
土地収奪の具体例 ~ 李震の場合 ~ (三)
土地収奪の具体例 ~李啓恆の場合~



さて。
今日も早速本題に入りたいと思います。
前回の1894年(明治27年)6月20日付『発第82号 我兵入京に付韓廷并に京城内模様探報』の続きです。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』より。

6月19日午前接 恵堂及袁氏の問答

5月14日(我6月17日)夜、恵堂袁氏に謂て曰く、東学乱民猖獗して全州落城するに至る。
郷兵之に敵せず、京軍出張する事多日なれども萬も剿滅するの道なかりしに、幸にして天兵来臨し、威聲先づ振ひ、賊をして風を聞て胆破れ、自から■れしむ。
京軍猛なりと雖ども、狂蜂窮狗豈亦咬射の毒なからん。
而して、今日流散せるものは専ぱら天兵の来臨に由る大矣皇恩極矣皇恩、且つ此れ大人の賜ふ所に非ざるは莫し。
現今日本兵故なく出て来り肆に都城に入る。
放肆凌侮朝鮮を以て無人の境に置く。
豈交隣の誼と云ふべけんや。
伏て大人善く裁断を為し、一は以て朝鮮を安んじ、一は以て紀綱を立てられん事希望の至りなり。
袁氏曰く、乱徒流散せるは貴邦の洪福なり。
慶すべし。
賀すべし。
皇恩の外弟敢て謝を受けず。
日人が此に乗じて兵を他国の京城に闖入せしめたるは、駭然せざるにらず。
清兵にして帰国せば、彼亦兵を退くべしと雖ども、若し然らずんば必らず各国の批難あらん。
而して、中国も原より亦問罪の兵を起さざらんや。
弟既に彼に向て談判する所あり。
此意を以て貴君主に稟達せられ、叡慮を安んぜられたし云々。
前回、「昨夜深更、閔泳駿は単騎袁氏を訪ひ夫より直ちに参内して密奏する所ありしが、其何事たるを漏聞かざりし。」という一文がありましたが、その前段部の6月17日に閔泳駿が一人で袁世凱と会談した時の内容ですね。

まずは閔泳駿が袁世凱と清国軍をヨイショするわけですね。
割と露骨なゴマすり。

つうか、「京軍猛なりと雖ども、狂蜂窮狗豈亦咬射の毒なからん。」て、どんな言い訳やねん。(笑)

で、日本軍が今理由もなく来て欲しいままに王都に入ってる。
勝手で規律も無くて馬鹿にして辱めて朝鮮に人が居ないかのように振る舞う。
どこが交隣の誼ニカ!
何とか一つ朝鮮を平安にし、規律正しい状態にして欲しいニダ!と。

これに対して袁世凱は、東学党の乱の鎮圧を祝した後に、日本人がこの機に乗じて兵を他国の王都に入れたのはビックリしたアルよ。
清国の兵が帰国すれば日本も撤兵するだろうけど、もしそうでなければ必ず各国の批難があるだろうし、中国でも罪を問う出兵するアル。
今談判してるとこだし、このことを高宗に伝えて安心させるアル、と。

袁世凱も自分で言ってるとおり、援兵のためにきた清国兵が鎮圧を済ませたとして帰ったのに日本軍が駐留を続ければ、各国の批難を浴びるわけで。
2月15日のエントリーでも言ったけど、さっさと清国軍撤退させて、日本の非を鳴らせば良いのにねぇ?(笑)

んじゃ、続き。

6月19日午後接 報告

袁氏、恵堂に対して大言して曰く、日本は東方の一褊小国なり。
既に亜細亜の一部に在りながら、小を以て大に事ふることを念はず。
而して、中国より毎々罪を問はんと欲するもの久し。
余は彼に向て言はんとす。
爾の恃む所は何の強ぞ。
頼る所は何の力ぞ。
爾萬兵を以て来り戦はば、我二萬を以て之に敵せん。
爾十萬兵を以て来り戰はば、我二十萬を以て之に敵せんと。
今般の事を以て之を言へば、兵を都城に入るるは萬国に例なし。
而して渠れ強毒を恃み、朝鮮を凌侮すること紀極あるなし。
中国実に朝鮮の為めに痛憤す。
且つ隣国の都城二十里内に於て賊変あれば、締約の各国兵を領して来り護るは公法に載する所。
而して、今朝鮮の内乱は尚ほ五百里外にあり。
日本兵の来るもの実に無名妄動と為す。
況んや他国の都城内に入るに於ておや。
以て償金を要求するも可なり。
此事は余自から担当して妥結せしむべし。
故に若し日本公使に談判するところあらば、毎々此意を以て攻撃すべし。
中国の威を以て日本に示すは、草芥の如きのみと。

恵堂此意を以て内奏せしかば、此より毎事全く袁氏の周旋を恃み、毎々大小の内務外交の事を協議す。
故に有志の人は退て緘黙すれども、内心大に嗟嘆せりと云へり。
去る18日我居留人の報に拠れば、昨今に至り一般朝鮮人民の恐怖疑懼の念弥よ増加し、之に反し下等社会の事あれがしと望む連中は、何となく愉快気に見ふる模様あるは事実なり云々。
右及御報候也。
続いて19日の午後の報告なんですが、いつの会話かは分からず。
ただ、「恵堂此意を以て内奏せしかば」ですので、先ほどの会談と同様、前回の「昨夜深更、閔泳駿は単騎袁氏を訪ひ夫より直ちに参内して密奏する所ありしが、其何事たるを漏聞かざりし。」のうち、今度は後段部の閔泳駿が参内して密奏した内容、と考えるのが妥当っぽいですね。

日本は東方の狭く小さい国で、アジアの一部にある癖に事大しないアル。
だから中国は、しょっちゅう罪を問おうと思って久しいアル。
ワタシ日本に向かって、アナタの恃んでるのは何の強さで、頼ってるのは何の力か聞きたいアルね。
日本が1万の兵で来ればワタシ2万の兵で対し、日本が10万の兵で来ればワタシ20万の兵で対するアル。

今回の事で言えば、兵を王都に入れるのは世界に類を見ないアル。
朝鮮を馬鹿にして侮辱すること限りないアル。
中国は朝鮮のために痛憤してるアル。

隣国の王都20里以内で内乱が起きれば、条約を結んでる各国が兵を率いて守るのは公法にも載ってるアルが、朝鮮の内乱は500里も離れてるアル。
日本兵が来たのは名目もない妄動アル。
まして、他国の王都に兵を入れてるアル。
それによって賠償金を請求することも出来るアル。
それについてはワタシ担当して妥結させるアル。
だから、もし大鳥と談判するのなら、毎回この意によって攻撃するアルよ。
中国の威を以てすれば、日本なんてゴミみたいなものアル。

これを、袁世凱が閔泳駿に向かって言ったと。
これまた閔泳駿の嘘なのか、袁世凱が本当に言ったのか。
袁世凱でも言いそうなところが怖いところですが、先ほどの会話の内容と併せて考えるに、もし似たような事を言ってたとしても、大幅に閔泳駿が脚色してる気がします。
いや、やっぱり袁世凱でも言いそうだよなぁ・・・。(笑)
まぁ、どっちにしろ伝聞情報なので、本当かどうかも分かりませんしね。

ってことで、閔泳駿がそういう内奏を行ったので、その時から総て袁世凱の援助を受ける形になり、大小の内務・外交の件について協議している。
そのため、心ある人は退いて口を閉ざしてるけど、内心は大いに嘆いているという、と。

6月18日の日本人居留民の報告によれば、最近になって一般朝鮮人民の恐怖疑懼の念は益々増加し、それに反して何か起きれば良いのにと思ってる連中は、何となく愉快気に見ている模様があるのは事実だ、と。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)



今日は前置き無しで早速。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の9画像目から。
1894年(明治27年)6月20日付『発第82号』。
長いので分割しながら見ていきます。

我兵入京に付韓廷并に京城内模様探報

6月18日接 韓廷に於て大臣会議の模様

○日本軍艦10艘毎艘500名の兵を載せ合計5,000名計り、其外商船30艘共渡来せり。
或は何等奸計なしとも測り難し。
如何せば可ならん。
城内の騷動非常にして、今日ころ避乱の人民多く東門を出でたり。
且つ日本人の質店主人発言して曰く、若し速に質受を為さざれば皆な遺失せんと。
故に一層恐懼を極め、一夜の中に米柴の価暴騰し、人民困難を蒙り、内乱を生ずるの虞あり。
右に付国王も大に叡慮を悩せらる。
然るに、恵堂(閔泳駿)奏して曰く、日前袁世凱日本公使館に往来して其不都合を責めたれば、必らず日ならずして退去すべしと。
左議政趙秉世密かに領議政に謂て曰く、日人の奸謀測り難し。
若し俄国に結托して朝鮮及清国を図らば如何んせんと。
領議政曰く、俄国が清国を呑んと欲すること久し。
日本も亦狡黠なり。
斯る慮りなしとせずと。
勳洞大臣金宏集曰く、胡爲ぞ如此大言を出すか。
此言一たび他に伝はらば、大に大臣たるの体面を損せん。
公法の存する以上は萬も此理なし。
口を慎み、上を煩はす勿れ。
但だ、尤も禁じ難きは、我国人日本公使館に往来して我内情を漏すものなり。

○昨夜深更、閔泳駿は単騎袁氏を訪ひ夫より直ちに参内して密奏する所ありしが、其何事たるを漏聞かざりし。
只だ、袁氏日本公使館に至り詳細協議せり。
袁氏にあらざれば、如何にして如此なるを得べけんや云々との詞を聞取りたり。

○又恵堂(泳駿)暗電を閔泳翊(在香港)に送るべしと奏せしに、早速発電すべしと勅答ありたり云々。
6月18日の朝鮮の大臣会議の模様。
要するに、日本兵が来て避難する人が出たり、米や柴の値段も暴騰したりで、人民が困難を蒙って内乱を生じる恐れがある。
で、そのことに関しては高宗も大いに頭を悩ませている、と。

それなのに閔泳駿は、「前日袁世凱が日本公使館に往来してその不都合を責めたので、そう遠くないうちに退去するっしょ」とお気楽発言。(笑)
左議政の趙秉世は領議政に向かって、「日本人の奸謀って計り知れないし、もしロシアと結託して朝鮮と清国に対して何か企てたらどうするよ?」と。
領議政は、こん時は沈舜澤かな?
その沈舜澤は、「ロシアはずっと清国を併呑したがってるし、日本はずるがしこいし、そういう事もあるかもね。」と。

ここで、勳洞大臣だった金宏集がたまりかねたのか、「何でそういうテキトーな事言うかなぁ。お前等の話が外に伝われば、大きく大臣たる体面を損なうぞ。公法があるんだからそんな事あるわけ無ぇだろ。口を慎んで、高宗を悩ませんじゃねーよ。最も禁じ難いのは、朝鮮人で日本公使館に往来して朝鮮の内情をばらすことだ。」と。
実際、ばれてるし。(笑)

次に、6月17日の深夜、閔泳駿は一人で袁世凱を訪れ、その後直ちに参内して密かに上奏したけど内容は不明。
ただ、袁世凱は日本公使館に行って詳細を協議した。
袁世凱以外に、どうやってこのようにできるでしょうかという言葉は聞き取った、と。

次が、閔泳駿は秘密の電信を香港に居る閔泳翊に送ってはどうかと上奏したら、早速送ろうという返事があった云々。

つうか、何でこんな陰謀論先行なのよ?(笑)


6月18日夜接 報告

○恵堂奏して曰く、袁氏日本公使館に至り無名の兵を他国都城に入るるは公法に載せざる所なり。
若し速に撤退せざれば、兵を以て相戦はん。
然れども、城内は武を用ふるの地にあらず。
別に空閑の地を定めて以て勝負を決せんとの談判を為せり。
但し上海(天津ならん乎)に電報し、其回答を待て決行すべし云々

○大院君政事に携はらんと欲するも、恵堂其機を知て同君に政事の協議を為されざる様、中宮殿(王妃)に奏したりと。
但し、其如何なる奏言ありしやは知らず。

○恵堂は俄国公使に依頼して日本公使館の動静を探偵せらるると云ふ。

○大臣は盡とく袖手傍観するのみ。
閔泳駿は上奏して言うわけです。
袁世凱が日本公使館に行って、「名目の無い兵を他国の都市に入れるのは、公法に載ってない事であり、もし速やかに撤退しなければ戦争だな。しかし、城内は武力を使う場所ではないから、別に空いてる場所を定めてそこで勝負を決しよう。」という談判を行った。
ただ、李鴻章に電報して、その回答を待って決行するだろう、と。

さて、閔泳駿の嘘なのか、袁世凱の嘘なのか、会談内容の具体的記録が見当たらず、4月18日のエントリーの、1894年(明治27年)6月17日付『機密第96号 陸兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺』で、「現に再昨日も来館し、目下牙山に在る支那兵を撤回せしむべきに付、我国の兵隊をも同時に撤回せしめ候事を希望する旨協議有之候。」や、2月13日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』での「happily 袁世凱 came 六月十五日 and proposed to withdraw Chinese soldiers at the same time with the Japanese.」という言葉でしか判明していない、両国同時撤兵の協議があったという、6月15日の大鳥公使と袁世凱の会談の際に述べられていたのか。
まぁ、嘘なんでしょうけど。(笑)

で、次は大院君が政治に関与したがってるけど、閔泳駿はそれを知って大院君には政治の協議するなよと閔妃に上奏。
なんて言ったかは不明、と。
割と死活問題だしねぇ。(笑)

次。
閔泳駿はロシア公使に依頼して、日本公使館の動静を探らせてると言う、と。

最後は、大臣はみな何もせずに傍観しているだけ。
この大事な時期に。(笑)
まぁ、「だから清国への援兵依頼は止めろっていったべ!」という思いがあるのかも知れませんが。


ってことで、途中ですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)



話は亀の歩みの程度にしか進んでいませんが、連載10回目です。
つうか、3日分の電信・書翰しか見れてないわけですが。(笑)

さて、今日からは6月20日の史料に移りたいと思います。
まずは、『駐韓日本公使館記録1』から。
仁川の能勢領事から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月20日付『京発第37号』より。

一.招討使の一行は、既に全州を出発して帰京の途に付きたる由噂するものあれども、出発の時日等は詳かならず。

一.当港在留の朝鮮人500余名、追々郷里へ避難し去れるを以て、監理署にては種々開諭し其堵に安んぜしめんとするも一般の恐怖甚しく、到底止めがたき由今朝同署彭主事来館の節相語り候。
右に付、本夕出帆群山へ向ふべき顕益船便にも、韓人男女数十名乗込みたるを探り得たり。
又、顕益船の群山行の目的は、全州地方の官兵引揚げの為めなりと云ふものあり。

一.在留支那人は、日本軍隊の来着を見て大に恐怖し、山東労働者・耕農及び小商人等200余人并に在港同国婦女子は悉く帰国する事となり、同国理事が百方慰諭するに係らず、昨19日正午以来汽船鎮東号に乗込みたるもの300余人に及びたり。
在港豪商同順泰等を始めとし、家族あるものは悉く同船にて一先づ芝罘迄送り、同地に寓居せしめて此後の動静を伺ひ、再たび呼戻す都合となせり。
右の有様にて、清国人中婦女子を有するものにて尚ほ当港に残し留め居るは、理事府書記生周長齡及び郵船会社雇清国人両名のみなりと。
又、農夫にして野菜を作れるものは、馬鈴薯大根其他皆な其種苗の至小なるもの迄掘尽し、之を売却して帰国の途に就けり。
又汽船鎮東号は、本日早晨の潮にて出帆の予定なるに、昨19日午後俄然京城より暫く出帆見合せよとの電命あり、是れ在京城清国使署より発送すべき公信あるが為めなりとも云々。
又一説には京城よりも同国婦女子を帰国せしむる為めにして、現に本日京仁間通航の小汽船一隻を買切るべき都合なれば、右にて京城より婦女子を搭載し来るなるべしと云ふものあり。

一.清国人の説に拠れば、明21日か明後日の内に、清国軍艦6、7隻入港すべし云々。
尤も、理事府にては万々清国より陸兵の増派、軍艦の来集等の事はなかるべしと言へり。

右探聞の侭及御報告候也。
ま、いずれも噂とそれを元にした行動の報告なんで、本当かどうかは分かりませんが、一応。

まず、招討使一行は既に全州を出発して帰ってくるという噂があるけど、出発の日時など詳細は不明。
つうか、残党狩りとかしないんですかね?
次の2番目と3番目は、日本軍が来た事による仁川の朝鮮人と清国人のそれぞれの反応かな?
それぞれ避難している人が出てきている模様。
最後は、清国人の説では6月21日か22日のうちに清国軍艦6~7隻が入港するだろうといってるけど、理事府では陸軍の増派や軍艦が来るような事は無いと言ってる、と。

日本軍が来てから既に1週間近く経ってる筈なんですがねぇ。
何でこんなに混乱してるっぽいんだろう?(笑)

さて、続いても『駐韓日本公使館記録1』から。
大鳥公使から趙秉稷への、1894年(明治27年)6月20日付『第53号』。

敬啓者茲因遣派我領事館警部荻原秀二郎隨同巡査一名前往忠清全羅両道就地探看騷擾各地併令探査在各該地方行商之我国商民消息為此函請貴督辨循例飭繕護照関文各一道務速擲来以便転給帯領前往可也耑此泐懇順頌
台祉
簡単に言うと、日本領事館の荻原警部と随行巡査1名を忠清道・全羅道に派遣して、騒擾が起きた各地方を探ると同時に、各地で行商している日本商民の消息を調べるんで、前例によって旅行券と公文を送ってくれ、と。

これはもしかしてアレか。
4月6日のエントリーの1894年(明治27年)6月15日発『電送第202号』で、公使館員若くは領事館員を実況取調として派遣して、調査は緩慢にやって、なるべく平和な状態と反対に報告書を作れって言ってたヤツか。(笑)

で、それに対する回答が1894年(明治27年)6月20日付で出ています。

敬覆者頃展
来函為貴領事館警部荻原秀二郎帯同跟後一名前往忠清全羅両道探査各地方商民消息請発関文護照各一道一事茲准厪戒護照関文各一道繕交尚望
貴公使査收轉給該員以便帯往可也耑此順頌
午祺
って事で、許可されました。
見て貰えば分かるとでも思ったのでしょうか。
ちょっと可哀想。(笑)

一方で撤兵については、当然強硬姿勢のまま。
今度はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の45画像目。
1894年(明治27年)6月20日付文書より。

敬啓者此次貴館商護衛兵及漢仁間屯駐軍并即撤還一事以照以函以面商迭経在案無庸贅述現我都下人心転益致騷靡有底定本督辨實不勝懸悶之至且昨日面談時貴公使言明援兵撤去則我兵亦即撤還云々査南匪即平都下安静則護兵自当解帰無渉於援兵之去就然設欲審知援兵之去就応由貴公使向詢清国総理袁自可明晳矣諒不俟本督辨之言也嗣於本月十七日貴来文内称本公使固非徒好留兵多日但必須審察時勢云々一節査匪類帰化巡辺招討両帥取次班師量時度勢自帰妥穏再有何時勢之審察者乎此則本督辨之所未可解也貴館商衛護兵及各処屯駐軍倘仍遅延不撤謠訛驚騷日甚一日将未知伊于胡底尚望
貴公使深以交誼為重并亟撤回非惟我両国之敦誼益密実為大局之幸惟
深諒善図焉耑此并頌
台祺
貴公使館及び商民護衛兵と、京城・仁川間に駐屯している軍の撤収については、書翰と面会などで言ってきた。
今も我が都下の人心は益々騒がしく、定まらない状態なので、貴公使は援兵が撤収すれば撤収すると言ったけど、南匪はもう平定され都下は安定したので、護衛兵達を帰国させなければならない筈だし、援兵の去就に干渉すべきじゃない。
援兵の去就を知りたいとしても、袁世凱に聞いたんだから、私が言うまでもなくハッキリしたんでそ、と。
あるいは、袁世凱に聞けば私が言うまでもなくハッキリするでそ、かな?

良く分かんないけど、援軍頼んどいてその撤兵時期は袁世凱の言葉任せって・・・。
独立国ならお前が清国の撤兵時期を明言しろよ。(笑)
まぁ、天津条約に基づく対清交渉と、済物浦条約に基づく対朝鮮交渉をごっちゃにしてるのって、今の日本人にも多い気がするけどね。
それぞれ違う国家同士の違う条約に基づく交渉なんだから、区別しようよ、と。

ってことで、これ、捉えようによっては、清国軍の行動が朝鮮のコントロール下に無いって、公文書中でばらしちゃってることになるぞ、と。(笑)

笑いを堪えて先に進みます。(笑)
で、2月18日のエントリーの1894年(明治27年)6月19日付『第52号』で、「本使固より徒らに兵員の滞在を好む義には無之候得共、熟と時勢を観察し」ってあるけど、匪賊は帰化して巡辺使も招討使も撤兵し、時勢も自然と平穏になるはずなのに、何を観察するってのか理解できん。

日本の公使館及び商民護衛の軍と各所に駐屯している軍を遅延して撤兵しなければ、噂による騒動は日が経つにつれて甚だしくなりどうなるか分からないので、早期撤収を、と。

まぁ、ポロッとマズイ話を出しちゃった以外には、これまでと代わり映えのしない内容。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)



事態の推移に、報告や連絡が追い付いてないよなぁとつくづく思う昨今。
清国にしても日本にしても。
まぁ、そういう時代ですから仕方ないんですが。
電信壊れてる朝鮮は別にして。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』の9画像目から。
北京の小村から陸奥への1894年(明治27年)6月19日発『電受第268号』より。

Mutsu,
Tokio.

I had an interview with 総理衙門王大臣 to urge the necessity of prompt answer.
李鴻章 has been instructed already to reject your proposal which he represented to have been made through 在天津日本領事.

Komura
迅速な回答の必要性を訴えるため、総理衙門王大臣と会談。
在天津日本領事を通じて説明が為された日本の提案は、既に李鴻章に拒否するように指示されている、と。
前々回前回お届けした、荒川と李鴻章の会談とその結論の事ですね。
当然、李鴻章に従って清国政府も拒否回答なわけです。

さて、続いては再び天津の荒川領事から、諸外国の反応について。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の7画像目から。
1894年(明治27年)6月19日付『機密第8号』。

此度朝鮮国内乱に因り日清両国出兵に関する件に付、重もなる当地外国人中談話する所の口気に依れば、英人は清が韓廷の請求に応じて出兵せしめたるは相当の事なり。
日本、之が為め故障を申出すべき理由なし。
依て、別に日清両国とも暴動鎮定せば、速に兵を撤去するに過ぎず。
仏人は一層詳細に評せり。
元と李が兵を出だしたる原因は、朝鮮国王の意に出でたるにあらず。
袁世凱の取計に出でたるものなり。
又、李鴻章が出兵前在京城外国公使・領事とも、清兵の保護を希望し居る様申居たるが、右は全く跡方なき事実なり。
独人は別に英と異なるなきも、日本が公館并に人民保護の為め出兵せしたるは当然の事なり等とす。
本月8日、玄海丸にて着津の露国京城代理公使ウエーバー氏は、直に李鴻章伯を訪問せり。
其節、詳かに朝鮮の内乱は清国が出兵せしめたる程の事実にはあらざる趣談話せし由、密かに伝聞せり。
其後大に出兵準備等を李伯は見合はせたるが如く相見へ、頻りに牙山駐在の清兵を引揚度希望ありしなれば、従て外国人等は一同安心して、不遠清兵の帰津を見るならん。
朝鮮は正に鎮定せるに依り、日本も天律條約に因り清兵と同時に撤兵するならんと、多少最初の心配は過ぎたる思を為し居るが如し。
然るに、本月17日午後小官李鴻章伯を訪ひたる翌日、即ち18日李伯を訪問したる清国官吏は、同伯配下の重もなる文武官のみ。
其姓名は左の如し。

東機器局(兵器製造所長)
武庫主任 張士珩
天津鎮
通永鎮
直字営
護衛軍統領 何永盛
翼長
海関道 盛宣懐
天津道
天津縣 李振鵬
右会合は、必ず本月17日以前の状況と異なり、1の変体を顕出するならんと察せられ候。
万一、今後一層軍備を急ぐ等の場合に至らば、或は日本に対するものなるべきに付、内密事情を速に探知するは、頗る困難なるべしと今より相考居申候 。
在北京露国公使伯爵カシニーは、帰国の途次本月18日着津。
不日当地出発。
ウワンコバーを経て帰国する筈と承申候。
何れ、同公使も李伯を訪問すべくも、今日迄は未だ其事を承はらず候。
尚ほ、追々外国人間の批評挙動等も併せて注意致し、為御参考御報告可致候。
右及御報告候也。
ちなみに、これも接受日は7月2日・・・。
(;´H`)y-~~

今回の東学党の件で日清両国が出兵した事について、主な天津の外国人の談話より。
イギリス人は、清国が朝鮮の請求に応じて出兵したのは妥当であり、日本がそれに異議を唱える理由はない。
だから、日清両国とも暴動が鎮定すれば、速やかに撤兵するだけだろう、と。
いや、知照文中の「保護属邦」を問題にしてますが、何か?(笑)

フランス人は、元々李鴻章が出兵した原因は高宗の意志からではなく、袁世凱の計画によるものだ。
また、李鴻章は出兵前に在京城外国公使や領事も清兵による保護を希望しているかのように言ってたけど、事実無根、と。
んー、清兵による保護希望とか、そういう話まで出てんのか・・・。

ドイツ人は基本的にイギリスと同意見だけど、日本が公使館や人民保護のために出兵したのは当然、と。

で、6月8日に玄海丸で天津についたロシアの在京城代理公使ウェベルは、すぐに李鴻章を訪問。
その時、東学党の乱は清国が出兵させるほどの事件ではないという趣旨の談話をしたらしいと、密かに伝聞した。
その後李鴻章は、大っぴらには出兵準備等を見合わせたように見え、頻りに牙山に駐在している清兵を引きあげたがっているため、外国人等は皆安心して、遠からず清兵の天津帰還を見、東学党の乱も鎮圧されたから日本も天津条約によって清国と同時に撤兵するだろうということで、多少は最初の心配は過ぎ去ったと思っているようだ、と。
「最初の心配」ってのは、日清の衝突だろうなぁ。

ところが、6月17日午後に前々回前回で見た荒川と李鴻章の会談が行われた翌日、つまり6月18日に李鴻章を訪問した清国官吏は、李鴻章の配下の主な文武官だけであり、その会合は17日以前の状況とは違い、ある変化が表出したものだろうと推察。
17日以前の状況ってのは、ウェベルの談話で見合わせてた出兵準備とか、清兵の引きあげに関する件等の事でしょうね。
ってことで、万一今後さらに軍備を急ぐ等の状態になれば、それは日本に対するものだろうから、内情を速やかに探知するのは非常に困難だろうと今から考えている。

在北京のロシア公使カッシーニは、帰国途中7月18日に天津に到着。
幾日もしないで天津を出発し、ウワンコバーを経由して帰国する筈、と。
んー、ウワンコバーって、激しく子供心を揺さぶりそうな名前なんだけど、何処の事だ?(笑)

兎も角、カッシーニも李鴻章を訪問するだろうけど、今日までの処はまだその情報は得ていない。
追々、外国人間の批評や挙動についても併せて注意し、参考のために報告するよん、と。

つうか、荒川の訪問に刺激されて翌日の李鴻章配下の会合だったら、勘違いも良いところですが、さて。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)



さて。
前回は、在天津日本領事と荒川の会談の模様をお伝えしました。
朝鮮は貧しくて弱いってのはお互いに知ってるんだから、在京城公使の力で高宗を説得して、行政なり財政なり軍事なりを助言・勧告するのはオッケーだけど、両国から委員を出して、国事に干渉するようなことは公法に違反してる。
もし強いてそれをやろうとするなら、兵力による外は無い、何て言うわけですね。

この、「兵力に依るの外なし」に対して、荒川が反応します。
ってことで、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の3画像目真ん中辺りから。
在天津日本領事である荒川から陸奥への、1894年(明治27年)6月19日付『機密第7号』の続き。

茲に於て、小官左の如く云へり。

当席に於て、小官一言を提出するの止むを得ざるあり。
兵力云々は更に小官の解せざる所。
元と兵力を以て朝鮮に対する議あらば、貴国と協議するの必要なきものと見認む。
其他の評言に対しては、小官の答ふる限にあらず。
単に外務大臣の電訓を伝ふるに止まるなれば、左様御考へありたし。
いや兵力で朝鮮に対するのであれば、清国と協議する必要ないだろ、と。
その他については荒川の答えられる範囲ではない。
単に陸奥の電訓を伝えただけなので、そのように考えてくれ、と。

つうか、割と朝鮮そっちのけで清国に対して提議してるわけですし、兵力云々とか言われてもねぇ。(笑)

李云、前陳の如き意見を抱くを以て、決て陸奧大臣の御考案に同意せざるに付、其旨貴領事より同大臣へ御電報あり度希望する申出候に付、小官は此件に限りては特に電訓もあれば、貴国公使を経て御回答ありたしと申候処、

李云、貴領事如斯大要件を本大臣へ伝報するに、何故に本大臣の依頼を拒まるるや。
回答の伝電を拒まるるなれば、貴領事の本大臣へ外務大臣の命を伝ふるの効なきが如し。

小官云、外務大臣の希望ありて特に在日本清国公使を経て中堂の確答を得たしとあれば、止むを得ず。

李云、貴領事の口頭を以て直に陸奧大臣へ回答を為すは望まざる所なり。
在東京清国公使よりの電報は一層簡単にして、充分了解し難し。
同公使よりは、両国委員撰任行政改革等の箇條はなかりし。

小官云、小官は中堂に謁を請ふて清国政府へ提出の考按を充分に談話せよ等、陸奧外務大臣より訓令を受けたるのみにして、特に公文を認め差出す等の訓令はなかりしなり。
兎に角、小官は中堂の回答を転電する義は、此度は遺憾ながら為し能はず。
小官よりは、単に訓令の如く取計ふたる旨陸奧大臣へは電報を発すべしと申■をし、午後6時半帰館致候。

右の大意は、第5号別紙の通り、本月18日午前発電致置候。
右発着電文写4通并に李氏面会の節談話、参考の為め携帯せし要点覚書1通相添へ、為御参考及御報告候也。
で李鴻章は、これまでのような意見で陸奥の提案には同意できないので、その旨荒川から陸奥に電報して欲しいと言うわけですが、荒川は2月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月17日発『電送第209号』で見たとおり特に指示を受けているので、在日本清国公使を通じて回答してくれ、と。

それに対して李鴻章は、こんな大事な要件について陸奥に伝えるのに、何故儂の依頼を拒むのか。
回答を伝えるのを拒むのであれば、荒川が儂に陸奥の命令を伝える意味も無いようなものではないか。
で、荒川は今回は陸奥の希望もあって、特に在日本清国公使を経て李鴻章の確答を得たいというので、やむを得ない、と。

李鴻章は、荒川の口頭で陸奥に回答を行うのは望まないところだ。
在日本清国公使汪鳳藻からの電報は更に簡単で良く分からないし、汪鳳藻からの電報では両国委員撰任行政改革等の話は無かった、と。

要するに、汪鳳藻からは両国委員撰任行政改革等の話は来ておらず、荒川の口頭による話しか聞いてないので、返事するなら荒川に返事するし、そうでないなら公文持ってこい、と。
つうか、4月11日のエントリーでは「委員説は、曽て伊藤伯の言はれたる善後策の事なるべければ、早速李中堂に報告すべく」だった筈なんですが。(笑)
単に李鴻章が臍を曲げたのか、マジで伝わってないのか。
つうか、マジで汪鳳藻が伝えて無いなら、話にならないよなぁ・・・。
いや、その後に「両国軍隊勠力して平乱の一條は至急を要することなれば、電報を以て申し遣はすべし」ですので、電報で送られたのは両軍で鎮圧の件だけで、委員説については書翰で送ってるかもしれず。
そうなれば、まだ伝わってない可能性の方が高いわけですが。

で、荒川は、自分は李鴻章に会って清国政府への提案について充分に談話しろ等、陸奥から訓令を受けただけで、特に公文を出すような訓令は受けていない。
兎に角、自分は李鴻章の回答を転電する件については、今回は遺憾だけどできない。
自分は、単に訓令に従って取り計らったと陸奥には電報出しとくと述べて帰ってきた、と。

つうか、この大事な話が、7月2日接受なわけですよ。
逆に、汪鳳藻が書翰で委員説の話を伝えたとすれば、単純計算でいけば清国政府には7月1日辺りに伝わる事になるんでしょう。
電信で送ったかもしれませんし、書翰だとしても文中に必要な言葉があるかも分かりませんし、そもそも送ってないかもしれませんし、分かりませんが。

兎も角、荒川は込み入った話のため電信ではなく文書で送ったんでしょうけど、前回の「在京城公使の勢力を以て国王を説き、宜しく行政なり財政なり軍事なり助言勧告して隣邦の好しみを尽すは可なり。」を見ても、この辺の遣り取りで大きく変わってきそうな気はするよなぁ・・・。
いや、もしそうなっても、日本側としては清国が約束を守るかどうかという、別な問題も出てくるんですが。(笑)

続いて、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の44画像目。
2月13日のエントリーの最後で取り上げた、1894年(明治27年)6月18日付『第15号』の東学党の鎮圧報告と、2月14日のエントリーの冒頭での1894年(明治27年)6月18日付文書に対する返信になります。
1894年(明治27年)6月19日付『第52号』より。

以書柬致啓上候。
陳者貴暦甲午五月十五日貴公文第十五号を以て、昨接我巡辺招討両使電稟内称湖南匪魁既已就殲脅従余党之散逃者齊訴乞哀亦皆釈去兵器翕然帰化応請転詳貴政府迅将貴館商衛護兵及漢仁間屯駐軍竝即撤還以解我上下之疑惑云々、併に同日貴函を以て輦轂重地玉帛會所而貴公使以大兵来駐其所以恭敬我政府者何在其所以和睦邦交者又何在云々御申越の趣致拝悉候。
査するに、湖南匪魁既已就殲脅従散逃一節は、果して貴督辨御申越之通に有之候はば、貴国の為め実に慶賀す可きの至に有之候。
扨又這般我兵員の当地に派遣せられたる一事は、毎度申進候通り、貴我條約に照準し、警備の為め之を派送したるものなれば、貴政府に於て萬々疑訝せらる可き筈無之候処、貴函中其所以恭敬我政府者何在其所以和睦邦交者又何在の数文字を見るは実に意想の外にして、本使には却て疑訝に堪えざる次第に有之候。
将又撤兵一節に至りては、本使固より徒らに兵員の滞在を好む義には無之候得共、熟と時勢を観察し、愈々置兵の必要を視ざるに至る迄は、乍遺憾貴督辨の御請求に応じ兼ね候。
此段照覆得貴意候。
敬具
趙秉稷からの2つの文書は読んだ。
湖南の匪賊の主魁はもう殲滅し、脅されて従っていた者も逃げ散ったというのが本当なら、朝鮮のために実に喜ばしいことだ。

さて、今回の日本の派兵については、毎回言ってる通りに済物浦条約と高平臨時代理公使の知照に基づいて警備のために派遣しているだけで、当然朝鮮政府が疑わしく思う筈も無いのに、文書中に「我が政府に対する敬意や隣国との交誼がどこにあるのか」という言葉を見るのは意外なことで、私の方が疑訝に堪えない。

撤兵の話に至っては、私は元からいたずらに兵員の滞在を好むわけではないが、じっくりと時勢を観察して、いよいよ兵を置く必要がなくなるまでは、遺憾だけど趙秉稷の請求には応じられないよ、と。

真っ向勝負に出てますな。(笑)


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
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