ほとんどが国有地の紛糾についてで、関連として森林法が1回、無関係にニュース絡みで金九が1回という月でした。
長めの連載が続いてるけど、もっと短編やりたいなぁ・・・。
特に、今回の国有地の紛糾のように、読んでて笑うより呆れちゃう史料は、ちょっとつらい。
いや、イヤ論文よりはマシだけど。(笑)

< 2007年11月のエントリー >
まぁ、曲がりなりにも500年も続いた李朝の土地制度の沿革ですので、かなり理解しづらい部分があるのは事実。
さらに、全然合理的でも無いし、法令とか出ても遵守されるわけでもないし。
「官の横暴」「ケンチャナヨ」「場当たり」ってことだけ覚えておいて、詳細で分からないことあったらググる、ってのが主な使い方になりそうな予感。(笑)

国有地の紛糾(一)

緒言から「朝鮮に於ける特異なる現象」、「最も注目に値するものの一」、「全く他に其の比類を見ざるが如き興味ある内容を有し」。
全部やり終わった後ですので言います。
「さもあらん」と。(笑)


国有地の紛糾(二)

沢山の機関設置による冗費。
享祀費、交際費等の濫費。
王命を偽ったり改量と称して行われる民田略奪。
一つも完全な財産原簿が無い状態。
場所すら分からない帝室有地。
もうね。(笑)


国有地の紛糾(三)

平安時代の土地制度レベルの場所に近代土地制度を持ち込む、悪辣な日帝。(笑)


国有地の紛糾(四)

投托された土地が国有か私有かってのは、実に微妙な問題だと思ってたんですが、1907年(明治40年)の導掌の廃止の際、投托導掌に対しては土地が返還されています。
「免税を受けるために寄付した土地」なんてのも、奪われた対象として稀に見られますが、還してますが何か?と。(笑)


10万ウォン紙幣に金九

朝日の報道に絡んで過去スレのまとめ。
土田讓亮、軍人ではありませんし、当時の金九もそのようには述べてません。
お終い。って話。


国有地の紛糾(五)

一司七宮のうち、七宮の宮庄土に関する紛争の具体例。
基本的に国側の資料が不備なために起きている紛争なので、全体としては国側不利に見えます。
税と小作料の区別については、後で面白い話も。(笑)


国有地の紛糾(六)

要するに歴代王朝のお墓の話。
つまらない。(笑)


国有地の紛糾(七)

この回は、李朝時代のお墓の話。
紛争の具体例も出ているものの、主張はちっとも具体的でない。(笑)


国有地の紛糾(八)

駅土の話。
基本的には、官用郵便物や官吏の旅行等の際の、中継地に関する費用捻出の制度の話ですね。
李朝時代の土地制度の欠陥が、もろに噴出してる感じ。


国有地の紛糾(九)

この回は、屯土の話。
軍需用の屯田と地方官庁用の屯田の2種類があったようです。
別の国有地の所管替え、荒れ地を開墾、民有地の税金の徴税権、国事犯等の没収地、買収地の5種類によって屯田が形成されるようですが、その後の管理が疎かなため、国有か私有か分からない状態に。


国有地の紛糾(十)

屯土の話の続き。
賭租と小作料を同じ意味で誤用。
所有者の区別を行わない各種文書記載。
土地所有権の売買証書と小作権の売買証書がほぼ同一書式。
国有地調査でも精密な国有・民有の区別の調査はしない。
お互いに善意や悪意によって、土地を奪ったり詐称したり。
紛争が起きない方がおかしい状態。(笑)


国有地の紛糾(十一)

更に屯土の続き。
併合前の国有地調査で、国有地の小作人に対して「国有地小作認許証」なるものが出され、それでも尚土地調査事業の際に自分の権利を主張せず「土地を奪われた」朝鮮農民って、アホか?


国有地の紛糾(十二)

まだ続く屯土の話。
紛争は割とパターン化されてきた気がしないでも無い。(笑)


国有地の紛糾(十三)

またもや屯土の続き。
基本的に国有論の方が不利っぽく感じる記述が多い。
つうか、この辺にくると割と飽きかけてる。(笑)


国有地の紛糾(十四)

屯土編の最後。
各庁所属屯土にはちょっと面白いパターンの紛糾が見られるものの、その他には見るべきものも無く。


国有地の紛糾(十五)

牧場と禁山、封山、胎封山について。
牧場は、経緯見ただけで、紛争になりそうな風味満載。(笑)
山の方は、禁標の区域すら判明しないものが多く、と。
やっぱり紛糾しない方がおかしいと思うよ。(笑)


国有地の紛糾(十六)

この回は、森林と国有未墾地について。
森林に関しては、既に1908年(隆煕2年)森林法で届出の必要が。
国有未墾地に関しては、立案に関して様々な酷い事例が。(笑)


国有地の紛糾(十七)

森林、山野、未墾地の紛争と、堤堰について。
水税取ろうとして他人の土地を潅漑には笑った。(笑)


国有地の紛糾(十八)

堤堰と洑の話。
農耕のやり方が日本と違いすぎて、さっぱり理解できんというのが正直な所。(笑)
まぁ、水車も実用化できなかったくらいだから、仕方ないよね。
( ´H`)y-~~


国有地の紛糾(十九)

「国有地の紛糾」の最後は、洑の話。
川の水面が田畑より低い場合の洑については、未だにちゃんと理解できてません。(笑)


土地開墾に関する件

国有地の紛糾(十六)」で出た宿題の第一弾。
1906年(明治39年・光武10年)7月30日『宮内府令第4号 土地開墾に関する件』。
こういう時は、ハングルの勉強してみようかなと、少しだけ思う。(笑)


ということで、土地調査事業に関しては、民有地はおろか国有地ですら把握してないわけですから、関係者に手を挙げさせる申告制以外に方策としてあり得ないと思うわけですが。
( ´H`)y-~~



AD

11月23日のエントリーの宿題、第一弾。
以下、その時の記述引用。

光武10年宮内府令を以て自今宮内府に於ては荒蕪地の開墾を人民に認許せざること、帝室所管土地中開墾の必要ある地域は、別に方法を設けて之を告示すべき、従来開墾の認許を得たる者と雖、正当なる手続を経ざるものは皆無効とす。
各宮家も亦、其の所属地に非ざる土地に対し開墾を許可することを禁止し、従来各宮家より開墾許可を為したるものにして其の所属地に非ざるものは、皆是を無効とする旨発布せり。
ってことで、光武10年(1906年)ということと、宮内府令ってこと、開墾に関する内容しか分からず、当然国有未墾地利用法で廃止されていると思われることから『現行朝鮮総督府法規提要』等にも記述が見つからず、非常に調査が難航したわけですが、官報めくっていってようやく見つけました。
それが、これ。

土地開墾に関する件 (クリックで拡大)

1906年(明治39年・光武10年)7月30日付「官報第3518号」の『宮内府令第4号 土地開墾に関する件』です。

ええ、読めませんとも。( ´H`)y-~~
エッヘン(笑)


それでも、何とか先ほどの要約と、以前xiaoke氏が挙げてくれた▲役に立つかもしれない【獄長に捧ぐ】を参考に、なんとかやってみようと思い、努力はしてみたんですが、無理。(笑)
大体こうだろうと言うのは分かるんですが、正確さが確保できません。

まぁ、それでもさっき引用した要約を基本にして、大意をメモ的に書いておきたいと思います。
ご利用は自己責任で。(笑)

「自今宮内府に於ては荒蕪地の開墾を人民に認許せざること」が第1条。
「帝室所管土地中開墾の必要ある地域は、別に方法を設けて之を告示す」が第2条。
「従来開墾の認許を得たる者と雖、正当なる手続を経ざるものは皆無効とす」が第3条。
第4条を飛ばして、「各宮家も亦、其の所属地に非ざる土地に対し開墾を許可することを禁止」が第5条。
第6条を飛ばして、「従来各宮家より開墾許可を為したるものにして其の所属地に非ざるものは、皆是を無効」が第7条かな?

第4条は、大意として本令発布前に正当な手続きを経て開墾の認許を得た者は、期限の指定が別に無い場合でも、本令発布後1箇年以内に開墾に着手しない場合には、認許を取り消す。
認許を得て既に開墾に着手している時は、その旨を宮内府に報告して臨検を請うこと、かな?

残りの第6条は、各宮家より其の所属土地の開墾を認許された時でも、宮内大臣を経て勅許を奏請したものでなければ無効。
自信無ぇ。(笑)

(2007.12.1追記)
としてたら、xiaoke氏がエンコリでスレ立てしてくれました。
▲獄長に捧ぐ
パクリして引用。(笑)

宮内府令第4号
土地開墾に関する件

第1条
今より宮内府に在せし荒蕪地の開墾を人民に認許せざること。

第2条
皇室の所管土地で開墾せざるべからざるを要する境遇には、其の時に特別なる方法を設けて此れを告示す。

第3条
本令頒布前に開墾を認許するを得る者であっても、正当なる節次を未だ経ざる者は皆無効とす。

第4条
本令頒布前に正当なる節次を経て開墾を認許するを得たる者で期限の指定が無き者は、本令頒布後1個年内に開墾に着手せざる時は該認許を繳消す。
認許を既に得たる者が開墾に着手する時は其の旨を宮内府へ報せ臨検を請うこと。

第5条
各宮家は其の所属せざる土地に対して、開墾を認許するを禁止す。

第6条
各宮家から其の所属土地の開墾を認許せんとする時は、宮内大臣を経て勅許を奏請し勅許を経ざる者は無効とす。

第7条
本令頒布前に各宮家から開墾を認許する者で、其の所属地に非らざる者は皆無効とす。
但し、所属地に係わる者は第3条、第4条の規定を適用す。

附則

第8条
本令は頒布日より施行す。
で、ヤッサンから指摘があったんですが、上で第7条のつもりで第6条の話してるね・・・。
_| ̄|○

第7条は、この宮内府令以前に宮家から開墾を許可された者で、宮家の所属地でないものは皆無効、かな?
で、所属地に係る場合は、第3条、第4条の規定を適用、と。
つうか、許可受けてるけど「所属地でないもの」が規定されてるってどうよ、と。(笑)

今日はこれで。



AD

「国有地の紛糾」も今日で最後。
張り切っていきましょう。
それでは今日も、アジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』から、337画像目。

第3節 洑

洑は澓とも書し、潅漑の用に供する為石木又は土を以て河流を堰き止むる施設にして、内地の堰に類似せり。
然れども、朝鮮に於いては堰は堤堰なる一語を成し全く別種の施設を意味するを以て、堰と訳するは妥当ならざるのみならず、洑の構造も亦内地と同一ならず。
洑は河水を堰き止むる施設なるを以て、其の構造部分は自ら洑垌及洑内の2に分つことを得べし。
洑垌とは河水を遮断する為に築造せる堰其のものの謂にして、単に之を垌とも称し、洑の起端を為すものにして、此の部分は最も決潰し易く、一度決潰せば其の修築も亦多大の資力を要するものとす。
洑内とは遮断せられたる河水の停滞する部分を云ふ。

洑は河流面と潅漑水田面との高低の差に因り、其の構造二種あり。
其の一は、河流水面が潅漑水田より高き場合に設くるものにして、他は河流水面の潅漑畓(水の下に田)面より低き場合に設くるものなり。
河流水面が潅漑畓(水の下に田)面より高き場合に於ては、石又は木材を以て流水を所要の高さに堰き止め、溝渠を開鑿して水を通し潅漑の用に供するものにして、余水は絶えず洑上を溢流するを以て年年壊決修築の労を要せず、比較的理想の水利施設なり。
然れども、河流水面が潅漑畓(水の下に田)面より低き場合に於ては、年年陰暦10月乃至11月の交河水を附近の土地に溢出せしめ、晩春挿苗の時には両岸一面海の如く水を漾へ、戽と称する汲上器を以て低地より漸次高地に汲み上ぐるものなり。
而して、挿苗終わりたる時に洑を決して水を落下するものとす。

洑は、其の附近国有地を灌漑する為、政府に於て特に経営せるものあり、又人民の共有或は個人有のものありて一定せず。
洑も亦堤堰と同じく、私人有地として宮家の占奪する所と為り、更に国有に編入せられたるもの鮮からず。
例へば黄海道沙里洑は、光武3年居民鄭某之を創設し、自他田畝約200石落を灌漑せしが、翌年内藏院に於て之を官没し、盤官をして之を管理せしむると同時に、調査委員を派して灌漑田畝を実査し、毎一斗落に付水税4斗5升を徴し、総水税中より50石を洑修築費として支給することを引水者に約せしも、水税を徴収するのみにして毫も修築することなきを以て自然荒廃に帰し、灌漑田畝亦陳田と化したる如きあり。
又、洑の修築は、凡て所有者之を為すを原則とし、若所有者之を怠る為、潅漑畓(水の下に田)の用水に欠乏を告ぐるが如き場合に於ては水税を免じ、又蒙利者自ら之を修理し、其の費用は水税を以て差引くことを得る慣習なり。
例へば黄海道景祐宮洑は、隆煕元年に国有に編入せられたる以前に於ては、該宮の所有と見ることを得るものにして、其の創設費は不明なるも、其の修築は冬春秋及臨時に蒙利畓(水の下に田)主及小作人等、宮監監督の下に之を修理し、其の費用は之を景祐宮に請求するの慣例なりしと云ふ。
洑は、潅漑のために川の流れを堰き止める施設で、内地の堰に似てる施設。

洑の構造には2種類あり、一つは川の水面が田畑より高い場合。
石や木材で所要の高さまで水を堰き止め、水路を掘って潅漑の用に供するもので、不要な水は堰の上から溢れて流れていくので、年々壊したり直したりが必要なく比較的理想の水利施設だ、と。
普通の取水堰に近い感じかな?

次の、川の水面が田畑より低い場合が良く分からない。
陰暦の10月~11月頃に人為的な洪水状態にして、苗を植える頃には両岸一面を海のようにして、戽という汲み上げ器で低地から徐々に耕地に汲み上げる。
で、苗を植え終わったら洑を決壊させて水を抜く。
「戽」がどういうものか不明ですが、どちらにしろ規模の割にもの凄い効率悪そうな・・・。
つうか、これも下流に水、行かなくね?(笑)

洑は国有、人民共有、個人有のものがあって一定しないけど、洑も堤堰と同様に私有地として宮家に奪われることになり、更に国有に編入されたものも少なくない。
で、具体例が書かれてるんですが、洑修築費を出す約束しておきながら、水税を徴収するだけで修築しないって。(笑)

その修築は、総て所有者負担が原則であり、所有者がそれを怠って潅漑用水が欠乏するような場合には水税が免除され、受益者が自分で修理して費用は水税から差し引く慣習、と。
慣習になるくらい、所有者が修繕しないって事か?(笑)

第4節 堤堰洑に関する紛争

堤堰洑に関する紛争は、203件、49筆にして、清道、慶山、高霊、金堤、沃溝の各郡其の他京畿、忠南、全南、黄海道等にも之を存したり。
一例を挙ぐれば、振威郡所在の事件に付民有を主張する者は、本地は光武7年時の内藏院収租官が、振威郡庁の例冊に堤堰と記載ありとの理由を以て国有なりとし、1斗落に付籾3斗宛を徴収し、明治44年国有地調査以降小作料を徴収せられたり。
本地は、古昔堤堰たりしことは争なき事実なるも、中途崇善宮房に下賜せられ、同房の子孫は之を人民に売渡し、爾来数百年間転輾売買し来りたる民有地なりとし、之に反し其の国有を主張する者は、本地は元堤堰基址を起墾したるものにして、光武7年以降国有地として異議なく管理し来り、又国有地台帳に登載せられ、現在小作料を徴収しつつあるものにして、国有地なること明瞭なりとせり。(大正7年3月)
堤堰洑の紛争の具体例。
1903年(光武7年)の内藏院収租官が、振威郡庁の例冊に堤堰という記載があるからという理由だけで国有に。
「斗落」は5月10日のエントリーで一回やってますが、田んぼに使う単位で、一斗の籾殻をまく範囲が一斗落ですね。
その、1斗落につき籾3斗を徴収。
その後、1911年(明治44年)の国有地調査以降小作料を徴収された、と。

で、当該土地は昔堤堰だったのは争いもない事実だけど、崇善宮房に下賜され、その房の子孫が人民に売り渡したもので、それ以来数百年間売買されてきた民有地だってのが、民有側の主張。
いや、売っちゃってるのかよ。(笑)
あり得ないって断言できないのが辛い。(笑)

勿論民有側の主張でもある「崇善宮房に下賜」から見ても、元々国有の堤堰だったのは確実。
で、1903年(光武7年)以降国有地として問題なく管理して来たし、国有地台帳にも登録されて、実際に小作料を徴収してんだから国有なのは明白だろ、と。
いや、割と論点は崇善宮房の子孫が売ったのか売ってないのかの一点なんですが。(笑)

さて、以上の各紛争数を一覧にするとこんな感じ。

  件数 筆数
内需司庄土 343 1,016
毓祥宮庄土 314 874
宣禧宮庄土 367 760
景祐宮庄土 430 2,560
明礼宮庄土 703 6,018
於義宮庄土 15 395
龍洞宮庄土 180 622
壽進宮庄土 780 1,987
陵・園・墓 43 85
驛土 1,254 2,098
糧餉屯 735 1,537
訓練屯 554 2,757
摠戎屯 811 1,801
守禦屯 1,418 3,715
摠理営屯 268 2,002
各鎮所属屯土 500 784
耆老屯 707 2,154
宗親府屯 803 1,357
忠勳屯 120 516
司僕屯 8 37
各庁所属屯土 794 3,123
牧場 2,164 4,722
森林・山野・未墾地 1,187 2,814
堤・堰・洑 203 49
14,701 43,783

11月1日のエントリーで、所有権に関する紛争のうち、国対民は6万4,449筆とされていましたので、約20,000筆ほどがどこの所有地か不明。
皇室所有地なんかなぁ・・・。

ってことで、制度が前時代的とかなんとか以前に滅茶苦茶で、台帳に類するものすら整備されていない事が、紛糾の原因ってことでしょうなぁ。
で、「こっちでサッパリ分からんから、心当たりのある人は申告して」っつう状態なわけですから、そりゃ紛糾するだろう、と。(笑)


若干の疑問を残したまま、「国有地の紛糾」についてはお終い。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)
国有地の紛糾(十三)
国有地の紛糾(十四)
国有地の紛糾(十五)
国有地の紛糾(十六)
国有地の紛糾(十七)
国有地の紛糾(十八)


AD

今日は前置きなしで早速。
アジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』の「第10章 堤堰及洑」の続き。
335画像目から。

第2節 堤堰の冐耕

堤堰の冐耕とは、国有堤堰内を冐耕するを云ふ。
冐耕の起源は甚だ詳ならずと雖、李朝中宗11年の諭に侵占盗耕の事を述べ、世祖の時守山堤を決して閘を置き、仍て国の国土と為すとあるを以て、当時已に其のことありしを認むべし。
仁祖元年、備辺司啓請の條に、今丁未以前明確に折受立案し税を納めて耕食したるものの外、戊申以後立案冐耕したるものは修築潴水せむと云ひ、又顯宗の朝賑恤庁節目に「諸宮家の折受及土豪冐耕の処は盡く陳に還し、此の後若し奉行に勤あらざるものは、重律を以て論ず」とあり。
同朝備辺司の啓請には、諸道に申飭して冐耕を厳禁し、更に修築を加へ云々とあり。
斯の如く代代冐耕を禁じたるも、光海君の末年豊徳の昇天府堤堰を梨峴宮に於て折受したるが如き、其の他此の例少なからざるに徴すれば、権門勢家の折受占奪既に其の弊を滋からしめたること明なり。
粛宗6年、吏曹判書の奏に、江華屈千浦新堰は、税重くして荒廃し。
臣別に農器、農粮、農牛を備へ、飢民流離者をして其の地を耕し、其の穀を税し、以て軍餉に備へむと欲すと。
同10年清城府院君又莚啓して曰く、平安道諸邑に奮筒廃堰あるも、民其の利を蒙ることを得ざるに依り、本道に命令して民の耕食を許し、以て地の利を盡すは如何と。
同45年閔鎮遠の啓に曰く、三南の廃堰は湮塞已に久しく、水道変遷し蒙利すべからざるの処は民の耕食を許し、仍て其の税を収めば年年数千石の穀を収むべし等の意見あり。
漸次廃堰許民耕食の令ありしと云ふも、今や奸偽漸滋の日に於て此の途一度開かば、京外の奸民輩必ず冐濫の計を生じ、将に定固なる潴水蒙利の所を廃堤なりと称して占を図り、遂に堤堰なきに至りて已まむ。
請ふ此の令を還寝し、更に申飭を加へて修築せば如何とあり。

上述の如く、堤堰の冐耕に付ては禁許両途に出で、方針時に依りて異れり。
純祖19年、全羅慶尚両道に改量を命じ、量田事目を頒行して曰く、堤堰にして仮令廃止せられたりとするも、能く修築して貯水すべき所を冐耕したるものは、陳に還さしめ、或は堤堰を他に移設したる旧庫を起墾したるものは、守令より観察使に報じ摘奸したる後、打量入録すべしとあり。
爾来法禁の弛廃久しく、殊に堤内の土地は一般に肥沃なるを以て、事実冐耕を為せるもの少からず。
中には、名を閒曠地起耕取得の原則に籍り、観察使の許可を得て公然冐耕せるものあり。
光武8年、水輪院規則を設け、久しく廃したる堤堰を濬築貯水して蒙利せしめ、冐耕畓(水の下に田)は一切厳禁することを規定せりと雖、冐耕の因習は久しく行はれ来りたる所なるを以て特に例外を設け、官有地を人民より出資開墾して植付けたる場合に於ては、本院にて文憑を発給し、資主は5年を限り収税を納めて専管耕食し、年限外は小作人折半したる中より其半分を本院に付し、収税は之を免ずること。
但し、収税の期限は飜田は5年、新墾は7年とす云云とあり。

光武8年、水輪院を改罷して其の事務を農商工部に移属し、冐耕地の賭租は尚経理院をして徴収せしめしが、隆煕元年経理院収租官の廃止に伴ひ、冐耕地の管理は驛屯土に準じ其の賭租は度支部に委属し、次で驛屯土小作料徴収規定の適用を受くるに至れり。
この辺、イマイチイメージが湧かないなぁ・・・。
しかも、一行目が堤堰の冐耕とは、国有堤堰内を冐耕する事を言う。
まんまやん。(笑)

前回の説明だと堤堰ってのは、「潅漑の目的を以て土堤を構築し、渓水又は雨水を貯ふる施設」、つまり貯水池的なものだと思うんだけど、その中を勝手に耕作するってさぁ・・・。
要するにどこよ?(笑)

何て迷ってたら、一つ思い出したスレがあって。
李泰鎮・・・バカですね・・・世宗、バカですね・・・( ´H`)y-~~」より。

干ばつに備えた溜池が山間部などにありますが、周辺の農民が渇水時に干上がった池の底を耕作し、水が溜まってくると、自分の耕作地が水没しないように堤防を壊して水を抜くということをくり返します。
下流には必要な時には水が無く、大雨の時、さらに水が増える結果になります。
激しく馬鹿です。
(世宗実録 巻一一二 世宗二十八年)
原文の世宗実録の

濫耕堤堰之内水若多貯則決以流之以用其内故雖有水多之地縁此不貯深可患也
が当該部分になるのかな?
まぁ、そういうことか、と。(笑)

この冐耕の起源については良く分からないけど、1516年(中宗11年)には已にあったようで、その後代々冐耕を禁止する一方で、昇天府堤堰を梨峴宮が貰った事例を初め権門勢家による折受占奪、飢民流離者に耕作させたり、廃堰に対して耕作の許可を出したりで、堤堰の冐耕については禁止・許可等の方針はその時々で変わってる、と。

で、1819年(純祖19年)頃からは暫く法で禁止される事も行われなくなり、特に堤内の土地は一般的に肥沃であることから、事実冐耕を行う者が少なくなく、中には閒曠地起耕取得の原則に名を借りて、観察使の許可を得て公然と耕す者までいる始末。

次ぎの光武8年は、恐らく光武6年(1902年)の間違いだと思われますが、水輪院規則を作り、長らく廃していた堤堰も直して貯水して使わせ、冐耕を一切厳禁することを規定したけど、冐耕の因習は長く行われてきた事なので特に例外規定を作り、官有地を民間で出資開墾して植え付けを行った場合には、水輪院で文憑を発給し、金出した人は5年だけ収税を納めて、それが過ぎたら小作人の取り分の半分を水輪院に収めさせ、収税は免除、かな?
ぶっちゃけ、何を意図したシステムなのか、というより何を考えてるのか理解不能。(笑)

で、1904年(光武8年)に水輪院の事務は農商工部に移され、冐耕地の賭租は経理院に徴収させてたけど、1907年(隆煕元年)経理院収租官が廃止されたのに伴って、冐耕地の管理は驛屯土に準じることになり、賭租は度支部の管轄になり、最終的に駅屯土小作料徴収規定の適用を受けることになった、と。

んー、結局「堤堰」関係無くなるんやね。(笑)


ちょっと早めですが、今日はここまで。
次回で「国有地の紛糾」はお終い。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)
国有地の紛糾(十三)
国有地の紛糾(十四)
国有地の紛糾(十五)
国有地の紛糾(十六)
国有地の紛糾(十七)



地味に、過去のエントリーのリンク貼り替えるついでに、文字や色や文体なんかもチマチマと修正している昨今。
なかなか面倒くせぇ。
いつ終わるのかも不明。
つうか、暇だな、俺・・・。(笑)

さて、前回のエントリーで久しぶりに宿題が出たわけですが、思えば東学党の続きやるの、すっかり忘れてるような・・・。(笑)
それでは今日もアジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』の「第9章 森林、山野及未墾地」の続きですね。
333画像目から。

第4節 森林、山野、未墾地の紛争

森林山野未墾地に関する紛争は、1,187件、2,814筆にして、全道を通じて殆むど之を存ぜざるものなし。
一例を挙ぐれば、梁山郡所在の事件に付民有を主張する者は、本地は今より120年前華山洞中に於て民有地を買収し、水害を防ぐ為堤堰を築き、之に竹木を養植して守直を設け、以て禁護し来りしが、開国502年洞中より之を本洞書堂に寄附し、光武9年当時の郡守に請願して樵牧を禁止し、守護し来りしものなり。
然るに、隆煕3年国有地測量の際国有地に編入せられたるものとす。
本書堂は、本地中の田及垈よりは麦2石宛を徴して学校の経費に充当し、其の他の部分に付ては生徒の紀念植樹に係る数千本の樹木ありて民有たること疑なしとし、之に反し其の国有を主張する者は、梁山郡備付に係る康煕量案には、本地は「陳防築」又は「陳無主」とあり。
又、邑誌には「黄山堰、在郡西20里、中年頽破改更加土石之築、且種竹云云」とあり。
本地が元来堤堰たりしことは極めて明瞭なるのみならず、時の政府に於て公益の為荒廃毎に修繕を加へ、竹木を植付けたる事実あり。
其の中、田及び畓(水の下に田)に付ては、是亦国有地管理の不充分なるに乗じ、之を冐耕したるものと認めざるべからずとせり。
森林や未墾地等に関する紛争。
今回の民有の主張は、書堂によるものかな?
紛争の内容的には、結局元々堤堰を作ったのが誰かと、その附属地の範囲ってことになるんだろうなぁ。
尤も、双方竹木を植えたのはウリニダ!と言ってるわけで、これも水掛け論の世界っぽい。
ただ、書堂に寄附された話が1893年(開国502年)で比較的新しく、過去の量案や修繕記録のある分国有の方が有利なのかなぁ。

つうか、「国有地管理の不充分」がそもそも駄目なんだ、と。(笑)
まぁ、国有森林の管理が難しいってのは分かるけどね。

第10章 堤堰及洑

第1節 堤堰

朝鮮水利に関する旧慣調に依れば、堤堰とは潅漑の目的を以て土堤を構築し、渓水又は雨水を貯ふる施設を総称し、時に堤或は地方に依り垌とも称し、又普通に之を防築と謂ふ。
古来堤堰に付ては、為政者の常に意を用いし所にして、到る処其の経営の痕迹を認めらるるもの多し。
距今1,500年前新羅訖解王の時、全羅道金堤郡に一大堤堰を開き碧骨池と称す。
其の岸長1,800歩、5渠あり。
1を水餘渠と云ひ、流れて萬頃縣に到る。
2を長生渠と云ひ、流れて萬頃縣西に到る。
3を中心渠と云ひ、流れて古阜郡北に到る。
4を經藏渠と云ひ、流れて仁義縣に到る。
5を流通渠と云ひ、流れて仁義縣西に到る。
其の後重修せること数回なりしも、現今に於ては全部田畓(水の下に田)と化し、僅に石造の巨大なる水門と10数町に亙築堤の残存するものあるに過ぎず。

元来堤堰は、当初公共事業として経営せられ、新羅以降歴朝屡令を下して其の開墾修理を行はしめ、或は国家直接に之に任ずるあり。
或は観察使、守令等をして之に当らしめ、民丁を徴発し、軍旅を督して役に赴く者には賃穀を給し、修築材料たる木材は堤堰司に報して採取することを得せしめ、民力の徴給は堤の大小に従ひ蒙利区域の田夫を以て之に充てしものなり。
柳馨遠の疏に曰く、金堤の碧骨、古阜の訥堤、益山全州間の黄登堤は皆是れ坡堤の巨なるもの、一地方を利する所大なり。
往昔一国の力を極めて成築せしもの今皆廃欠す云云とあり。
荒廃せる堤堰敷地は、飢民をして耘耕せしめ軍餉に備へ、守山堤は之を決して屯土と為し、三南の廃堤は之を賑恤庁に属せしめたるが如き、概ね国有に帰属せしめて漫に宮家土豪の冐耕起墾するを禁じたり。
堤堰の大部分が国有なりしことは疑なきが如し。

然れども、多数堤堰中には民有のもの亦鮮からず。
文獻備考孝宗の條に、魚川察訪金澄應上疏して曰く、定州一境の民各自財力を出して堤堰を築き、名けて保民筒と云ふ。
幾もなくして宮家の占奪する所なり。
民の怨苦甚し。
本道監司をして詳査啓聞せしめ一切禁断せむ云云とあるが如きは、人民共有堤堰の存在せしを認むるに足れり。
亦、個人所有堤堰には、所有者が自己の土地を潅漑する為に特に築設せしものあり。
或は他人の土地を潅漑して、一定の水税を徴する目的を以て鑿掘せるもの等あり。
是亦宮家の占奪する所となりしもの鮮からず。
水の豊富な日本だと、寧ろ防災的な意味合いの方が強いわけですが、朝鮮では川の水や雨水を蓄える、所謂貯水池的な意味合いの方が強いらしいですね。
勿論、農業に密接な関係があるでしょうから、為政者も常に気を配る部分であり、至る所でその経営の痕跡を認められる、と。

で、元々堤堰は、当初は公共事業として行われ、新羅以降の歴代王朝は度々命令を出してその開墾修理を行わせたり、国家で直接行ったり、観察使や守令に行わせたりといった形で、庶民を徴発し、軍勢を率いて労役に向かう者には穀物を支給し、修築材料の木材は堤堰司に連絡して採取させ、労働力の供給はその堤の大きさに従って、その利益を受ける区域の農民を充当、と。
「受益者負担の原則」。(笑)

でもこれを荒廃させちゃう。わら
その荒廃した堤堰敷地は、飢民に耕作させて兵糧作ったり、屯土にしたり、賑恤庁に属させたりで、概ね国有としてみだりに宮家や土豪が勝手に開墾する事を禁じるわけです。
で、堤堰の大部分が国有であることは疑いないようだ、と。

ただ、多数の堤堰の中には民有のものも少なくない。
『文獻備考』中にも人民共有の堤堰に関する記載もある。
また、個人所有の堤堰についても、所有者が自分の土地を潅漑するために特に作ったってのもある。
他人の土地を潅漑して、水税を取ろうとして掘鑿したもの等もある。
宮家に奪われたものも少なくない、と。

つうか、宮家に奪われるっつうのは、ここまででもそれなりに見られたけど、水税取ろうとして他人の土地を潅漑って。www


今日はここまで。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)
国有地の紛糾(十三)
国有地の紛糾(十四)
国有地の紛糾(十五)
国有地の紛糾(十六)



パターン的に大分見えてきたので、早く終わっちゃいたい昨今。(笑)
今日は、「第9章 森林、山野及未墾地」の続きからですね。
それでは、アジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』の332画像目から。

第2節 森林

上述の如く封山、胎封山中、其の区域の明ならざるあり。
無主空山或は公山と称して、個人の所有に属したることなき山野あり。
該地域内に於て、堂宇墓碑其の他のものを建設して久しきに弥りたるものあり。
或は、地元人民等に於て共同利用の慣行あるものあり。
或は、鉱業、牧畜等の目的を以て、官許を得て永年使用し来りたる地域あり。
或は公山の植樹、山野の開墾等に依り其の権利を主張するもの等ありて、森林の限界明ならず、極めて錯綜を極めたり。
隆煕2年森林法を発布し森林山野の所有者は、本法施行の日より3箇年以内は森林山野の地籍及面積の見取図を添附し、農商工部大臣に届出づべし。
期限内に届出なきものは、総て国有と看做すと規定せり。

其の他森林法に於ては、部分林の設定、保安林の編入、森林山野の開墾竝火入、墳墓の設置等に関する事項を規定せり。
次で国有林山野中、国土の保安上又は国有森林山野の経営上、国有として保存の必要なき箇所の決定、公益上特別の事由を生じたる場合に於ける国有保安林の解除、国有森林山野の随意契約に依る売却処分及国有森林山野の交換に関する事項に付審査決議を為すこととし、又国有森林山野及産物処分規則を以て、農商工部大臣は此の審査会の決議を経て国有森林山野及産物の処分を為すものとせり。
斯くして国有森林山野の整理及処分を為し、且つ森林法に依る地籍届に対しては、明治45年森林山野及未墾地国有私有区分標準を定め、私有を認むべきものの外は之を国有とし、只旧森林法施行前公山と称する国有森林山野に墳墓を設けたるものは、墳墓の存在する限り其の墳墓区域を従来の通使用することを得とせり。
前回見たように、封山や胎封山の中には、その区域が明確で無いものがある。
無主空山または公山と呼んで、個人所有されたことのない山野もあり、そこではお堂や墓碑等を作ってたり、地元住民が共同利用する慣行があったり、鉱業や牧畜のために許可を得てずっと使ってきた地域があったり、植樹や開墾等を根拠に権利を主張する者がいたりで、更に境界も明確でなかったりで非常に錯綜した状態。

ってことで、1908年(隆煕2年)に『森林法』を発布して、森林山野の所有者は施行日から3年以内に森林山野の地籍と面積見取り図をを添付して農商工部大臣に届け出ることにさせ、期間内に届出なければ、全部国有にするよ、と。
割と、土地調査事業の前哨戦ですね。

その他、森林法では、部分林の設定、保安林の編入、森林山野の開墾や火入れ、墳墓の設置等に関する事項を規定。
で、国有山野の中で、国土の保安上や国有森林山野の経営上、国有としておく必要の無い場所の決定と、公益上特別な理由ができた場合の国有保安林の解除、随意契約による売却、交換に関する事項は審査と決議を経ることにし、また『国有森林山野及産物処分規則』によって、農商工部大臣は審査会の決議を経て国有森林山野及産物の処分をすると規定。

ってことで、国有森林山野の整理と処分を行い、かつ森林法による地籍届けについては、1912年(明治45年)に『森林山野及未墾地国有私有区分標準』を定め、私有を認めるべきもの以外は国有とし、ただ旧森林法施行前に公山と呼ばれた国有森林山野に墳墓を作ってる場合には、墳墓が存在する限りその区域を従来のとおり使用することにした、と。

つうか、『土地調査法』の第14条とか『土地調査令』の第2条とかで、林野については調査・測量地間にあるものに限られてるのは、『森林法』等の方が先行してたからなのかな?

んー、今度『森林法』とかも改めて取り上げなきゃ駄目かもなぁ・・・。

第3節 国有未墾地

朝鮮に於ては、嘗て官民に於て利用せざる原始的荒蕪地を閒曠地と称し、閒曠地の開墾に関しては大典の規定する所に依り、凡そ閒曠の処は起墾者を以て主と為す。
豫め立案を得たるものにして、自ら起墾せずして他人の起耕せるものを冐奪せる者及起墾の立案を私に売買する者は、侵占田宅律を以て論ずとせり。
然れども、往往起墾の立案を売買する者あり。
又、甚だしきは一旦起墾の立案を受くるも、事実起墾に着手せずして放置し、他人の労力を加へて該地域を開墾するを傍観し、其の開墾成功後に於て曩に受けたる立案を理由に、其の土地を横領せる事例あり。
其の他、起墾許可の立案を得むが為幾多の奸策を弄し、一司七宮其の他の権力あるものに請託して立案の獲得に努め、其の弊害甚しかりしを以て、光武10年宮内府令を以て自今宮内府に於ては荒蕪地の開墾を人民に認許せざること、帝室所管土地中開墾の必要ある地域は、別に方法を設けて之を告示すべき、従来開墾の認許を得たる者と雖、正当なる手続を経ざるものは皆無効とす。
各宮家も亦、其の所属地に非ざる土地に対し開墾を許可することを禁止し、従来各宮家より開墾許可を為したるものにして其の所属地に非ざるものは、皆是を無効とする旨発布せり。
而して、一方に於ては国有未墾地の利用を希望する者に対し之を保護奨励し、且つ其の取締を為す為、光武11年国有未墾地利用法を発布し、民有以外の原野、荒蕪地、草生地、池澤及干潟地は全部国有未墾地として本法の適用を受くることとし、国有未墾地の貸付、払下、無償付与、利用の方法、許可の取消及付与を受けたる土地の税率等を規定し、本法の規定に依らずして国有未墾地を利用したる者の罰則、及3町歩以内の小面積地域の旧慣に依る開墾は本法の規定に依らざることを得るの除外規定等を定めたり。
尚、未墾地に付ては、曩に述べたる森林山野及未墾地国有私有区分標準の適用あること勿論なりとす。
今度は、森林より更に問題になりがちな国有未墾地の話。

朝鮮ではかつて、誰も利用していない原始的荒蕪地を閒曠地と呼び、閒曠地の開墾については大典の規定によって起墾者が所有者とされていた、と。
11月8日のエントリー辺りで、「開墾と私有に関する法とか、隠田の編入法とか、どうやって法整備されてたのかなぁ・・・。」なんて疑問を呈してたわけですが、「開墾と私有に関する法」については『大典』によるらしい。
尤も、『大典』が何を指すか、まだ良く分かってないんですが。(笑)

で、勿論開墾する場合には許可を得る必要があるわけで、それが「立案」なのかな?
予め立案を得た者が、自分で開墾せずに人が耕したのを奪ったり、起墾の立案を私的に売買する者は侵占田宅律によって処罰されるとされてたんだけど、それでもしばしば起墾の立案を売買する者がいる。
甚だしい場合では、一旦起墾の立案を得たのにそのまま放置し、他人がその地域を開墾するのを黙って見ていて、その人が開墾に成功した後、その立案を理由にして土地を横領する事例もある。

その他、開墾の許可の立案を得るために様々な奸策を使って、一司七宮等の権力を持つ者に請託して立案を得ようとし、その弊害が非常に大きかったため、1906年(光武10年)に宮内府令によって、今後宮内府では荒蕪地の開墾を人民に許可しないことや、帝室所有地で開墾の必要がある地域は別な方法を作って告示し、従来開墾の許可を得ているものでも、その所属地で無いものは総て無効とすると発布した、と。

一方で、国有未墾地の利用を希望する者に対しての保護奨励と取締りのために、1907年(光武11年)に『国有未墾地利用法』を発布して、民有以外の原野、荒蕪地、草生地、池沢、干潟地は、全部国有未墾地として同法の適用を受けることにし、国有未墾地の貸付、払下、無償付与、利用の方法、許可の取消、付与を受けた土地の税率等を規定。
で、国有未墾地利用法の規定によらずに国有未墾地の利用をした者の罰則と、3町歩以内の小面積の地域の旧慣習による開墾について除外規定等を定めた。
但し、未墾地については森林の項で述べた、『森林山野及未墾地国有私有区分標準』を適用、と。

以下、個人的メモ。

1906年
宮内府令

1907年
国有未墾地利用法

1908年
森林法
国有森林山野及産物処分規則

1910年
土地調査法

1912年
土地調査令
森林山野及未墾地国有私有区分標準

んー、光武年間と隆煕年間の国有地調査、始まりがいつで根拠法令が何か、良く分かんね。(笑)


今日はここまで。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)
国有地の紛糾(十三)
国有地の紛糾(十四)
国有地の紛糾(十五)



今日は前置きなしで、早速。
アジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』から。
329画像目。

第8章 牧場

馬政は高麗朝以来重視せられ、高麗朝に在りては龍驤、隴西、銀川、羊欄、左牧、懐仁、常慈院、葉戸峴、江蔭、東州、耽羅水平坪等に大牧場を設け、又養馬の法を定めて力を馬政に注ぎたり。
李朝の初に当りても、白翎、身彌、江華、箭串、南陽、水原、陽城、羅州、興陽等に大牧場を設け、又海島を選びて之を牧場に供し大に馬匹の改良を謀り、更に各郡に送りて之を飼養せしめ、宮室用、軍用及驛馬の需要に応じ、牧場に位田を置き、又牧子には毎1人に付位田2結を給し、以て其の費用に充てたり。
当初牧場を設置せるもの123箇所に達し、監牧官、群頭、副群頭及牧子を置きて之を経営せしめたり。
中世以降馬匹なくして自然廃棄に属したるもの多く、馬匹なき牧場は開墾せられて熟地となりしものあり。
其の起墾の始め、官庁自ら之を開墾したるものあり。
或は官許なくして犯耕したるもの等ありて、其の方法一定せず。
開国503年国勢改革の際、牧場の制度廃止せらるるに至り、各牧場牧子位田は宮内府に移属せられ、同時に戸曹に於ては地税を徴収し、宮内府よりは其の収益に応じ地税を控除して小作料を徴収したるを以て、其の帰属愈混乱を極めたり。
光武4年、宮内府より捧税官を派遣して賭銭1負に付1両乃至8銭を徴収することとなり、隆煕2年度支部所管に移属せり。

牧場に関する紛争は、2,164件、4,722筆にして、高陽、高興、濟州、麗水、蔚山、江陵、瓮津、保寧の各郡に所在せり。
一例を挙ぐれば、高陽郡所在の事件に付国有を主張する者は、本地は李朝建国の当初、軍馬養成の目的を以て豆毛面所在の草坪に牧場を設置したりしが、其の後荒廃して所管庁の更改ありしも、牧場用地は数百年間国有として管理し、何等の疑なきものなりとし、民有を主張する者は、本地は元楊州郡に属し、転輾売買し来れる民有地なり。
然るに、正祖の朝本地に牧場設置の際京城府に帰属し、結税を牧場に納付せり。
開国503年、更に種牧局に移属せられ、畓(水の下に田)に対する結銭は租を以て代納したりと雖、固より民有たるに妨なしとせり。
御料牧場みたいなもん?
で、例の如く牧場にも位田を置いて費用を賄ってた、と。

最初は123箇所あった牧場も、中世以降には馬がいなくなって自然と廃棄されていったものが多く、馬の居ない牧場は開墾されて肥沃な土地となっていったものもある、と。
何で居なくなったんだ?

その起墾の際に、官庁が自分で開墾したり、許可なく勝手に開墾したり等があり、その方法は一定していない。
「犯耕」ってことは、やっぱり許可なく開墾するのは犯罪か。

で、牧場の制度が1894年(開国503年)に廃止された時に、各牧場牧子位田は宮内府に移り、戸曹は地税を徴収して宮内府ではその収益に応じて地税を控除して小作料を徴収するという、意味不明な状態に。
1900年(光武4年)には宮内府から捧税官を派遣して、賭銭1負に付き1両ないし8銭を徴収することとなり、1908年(隆煕2年)に度支部に移管。

経緯だけで、紛争になりそうな風味満載ですが・・・。(笑)

その紛争の具体例については、国有側は荒廃して所管庁の変更とかあったけど、元々牧場用地だから、と。
それに対して民有側は、元々は楊州郡に属して売買してきた民有地だったのを、正祖の代(1700年代後半くらい)に牧場を設置する時、京城府に帰属して結税を牧場に納めただけで、1894年(開国503年)には種牧局に移されて結銭は租で代納したけど、元から民有だ、と。

これ、水掛け論っぽい。(笑)
まぁ、元が元なだけに、グチャグチャなんだろう、と。

第9章 森林、山野及未墾地

第1節 禁山、封山、胎封山

禁山とは、王宮の尊厳を維持し或は其の風致を保つ為、漢城の四圍に之を設けたるものにして、景福宮及昌徳宮の主山及其の来脈の山背山麗には耕作を禁じ、外山は只山脊を禁ず。
漢城府堂下官和会分掌考察に、伐取する者あれば杖90に処し、木石は官に没収し、木は伐者をして條に準じて栽植せしむるの規定なり。
又、毎年春秋には四山を分授して松雑木を栽植せしめ、違ふ者は罪に科し、毎朔工曹の郎官巡審して伐を禁ずることとし、漢城府郎官は四山を分掌し、緊関禁忌の処を検挙し標を立て以て庶人の濫に冐すことを禁止したるものなり。

封山とは、王室及政府の必要に応じ、宮殿、梓宮、船舶等の用材を提供する為、最も植林に好適の地を選擇し、一定の地域を限り政府に於て直接に保護管理し来りたるものなり。
例へば、王室及国家の建築用材を養護する為各地に設けたる黄腸封山あり。
各道黄腸封山には敬差官を遣し、慶尚道及全羅道は10年に1を取り、江原道は5年に1を取りて梓宮を擇定す。
其の数は臨時量定し、慶尚道7邑、江原道22邑は内梓宮板を取り、全羅道3邑は外梓宮板を取れりと謂ふ。
萬機要覧に「松政の一事は、其の用を為すこと至大なるが故に伐採を禁ずること厳なり。
上は宮殿の材より下は戦艦漕舶の需に至る迄、必ず其の長養を俟て此を成す。
故に封山を劃定し、種を勧め伐を禁ずること大典に昭載し事目を以て申べたり。
三南及東北海西等6道は勿論、封山黄腸封山松田は、凡そ植松に適したる処皆其の数あり。
禁養の節亦其の法あり。
粛宗の時、別に節目を撰み諸道に頒示し、正宗亦改撰頒行せる旨の記載あり。
封山の取締としては、特に山直監官を置きたる地方と、地方官憲、郡守、海運判官、萬戸等をして之に膺らしめたる地方とあり。
毎年穉松を栽植し、又は種苗を交付して培養せしめ、毎年敬差官を派遣して実地の状況を視察せしめ、松田に放火し又は禁松を犯斫したるものは重く之を罰せり。

禁標区域内に於ては庄土を設け、又は起墾耕食を為すを禁止したり。
即ち、封標内に庄土を設けたる者は杖100、流3,000里と定め、又嶺阨禁養の処定標内を冐耕放火したる者は松田冐耕放火律に依りて之を論ずと定められたり。
然れども実際に於ては、諸宮家に於て封山を起墾して庄土と為したるもの少からず。
又、禁標内の植樹なき地域を起耕したる事例稀ならず。
例へば、純祖19年全羅慶尚2道の改量を命じ、量田事目を頒行し、封山禁標内を冐耕したる者は一切還陳すべし。
或は、距水稍遠き平衍の地を封山の境内に混入したるものにして、多年人民の耕作するに至りたるものは、別に摘奸して打量入録し、禁標を明定して更に犯すことなからしむべしとあるが如き是なり。
現今に於ては禁標の区域すら判明せざるもの多く、光武3年内藏院に於て屯土調査の際査執したるものは、封山として忠南鰲川安眠島、扶安郡辺山の2箇所、松田としては咸興、徳源、永興の3郡に於けるものに過ぎず。

胎封山とは、李朝歴代の王及王妃の胞衣を安置したる箇所、即ち胎峰の存在する山にして、京畿、江原、忠清、慶尚、全羅の各道に渉り、胎峯の判明せるもの24箇所あり。
胎封山の区域は大典の定むる所に依れば、大王胎室は300歩と制定しあるも、歩外長養の処は一体に禁断せり。
大君は200歩、王子は100歩とす。
禁標火巣の内を斫木したる者及之に入葬したる者は、陵園樹木盗斫律に依るとあり。
然れども現今に於ては、歴代の王及王妃以外の胎峯は判明せざるもの多し。
封山は全部国有に移属したるも、胎封山は胎室即ち胞衣の安置したる場所及直接之に必要なる場所、即ち莎草地外10間居ないは李王家の所有とし、其他を国有に移属するに至れり。
禁山ってのは、要するに見栄えが良いように京城周辺の山の伐採や耕作を禁じたもの。
封山は、宮殿、梓宮、船舶等の建築資材用に確保してあるもので、伐採や放火は勿論、禁標区域内で庄土を作ったり起墾耕食禁止。
ただ、実態は封山を起墾して庄土にしたり、禁標内の植樹が無い地域を起耕したりという状態だったらしい。
つうか、「現今に於ては禁標の区域すら判明せざるもの多く」ってなぁ・・・。
またか、と。(笑)
胎封山は、歴代の王や王妃の胞衣(胎盤?)を安置した場所がある山。
勿論、禁標内で斫木した者や入葬した者は、陵園樹木盗斫律で処分。

整理の仕方としては、封山は国有地、胎封山の一部分を李王家の私有地とし、それ以外を国有地に。
まぁ、妥当な区分の仕方。

基本、禁山でも封山でも松材採取用だったみたいだね。


ってところでこの辺は簡単に、今日はここまで。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)
国有地の紛糾(十三)
国有地の紛糾(十四)



ここまで見てきて、概念として国有地側は「土地所有権と徴税権」、民有側は「土地所有権と耕作権」の区分も希薄だったんだろう、と。
勿論、官側のケンチャナヨな仕事や、そもそも制度が平安時代とか、根本的原因はあるんでしょうけど。

で、その辺を整理しようとして光武年間や隆煕年間にゴタゴタが起き、その状態のまま土地調査事業になるわけで。
結局、何百年も前の、そもそも開墾したのは誰かという時点まで溯らなければ分からないという。
そもそも資料が無ければ水掛け論になったでしょうしね。
これで、実際の判定がどのようだったか分かれば面白いですけど。

さて、それでは今日もアジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』を見ていきましょう。
今日は、「第7節 京各司屯」の続き、328画像目からになります。
では早速。

第3 忠勳屯

忠勳屯は、李朝太祖元年開国功臣に対し功を論じ、賞を行ひ、碑を立て功を記し祿を賜ひ、嫡長世襲して永世之を失はざらしめ、又其の罪を曲げて罰せざるの制を定め、同時に功臣都監を置きて之を監理したるに起り、太祖14年功臣都監を改めて忠勳司と為し、世祖6年開国後の功臣も亦之に準じて受祿するに至り、司を陞して府班に列し、田結奴婢を加賜せり。
其の経費は、(一)国王より下賜せられたるもの、(二)功臣中罪を得て籍を削られ、科祿を還付したるもの、(三)荒陳地の付与を得て開墾したるもの、(四)買得したる田土を其の所属と為し、其の収益を以て之を支辨したるものより充当することとし、隆煕2年他の屯田と等しく度支部所管に属したり。

本屯に関する紛争は、120件、516筆にして、金海郡に所在せり。
建国の功臣に対して、末代まで功労し、罪を犯しても罰しないという制度を定め、同時に功臣都監を設置してこれを監理。
次の「太祖14年」は「太宗14年」の間違いで、1414年(太宗14年)に功臣都監を忠勳司に改め、1460年(世祖6年)には建国後の功臣もそれに準じて受禄するようになる。
で、その次の「司を陞して府班に列し」ってのは、忠勳司から忠勳府に格上げされたって事かな?
兎も角、建国後の功臣も受禄するわけですから、田や奴婢も加増。

経費については、国王からの下賜と、功臣中で罪によって籍を剥奪され、科禄を還付したものと、荒れ地を貰って開墾したものと、買い入れしたものの4種類によって所属とし、その収益によって充当。
最終的に、1908年(隆煕2年)に度支部所管に移った、と。

んー、紛争の具体例が無くて、寂しい・・・。(笑)

第4 司僕屯

司僕寺は、高麗朝時代既に其の設置を見たりしが、李朝に於ても太祖即位の元年、輿馬厩牧等の事務を掌る為之を設置し、牧場は監牧官之を監理したるを以て唯其の監督を為すに止まり、本寺は別に土地を下賜亦は買得し、其の経費を支辨せり。

本屯に関する紛争は、8件、37筆にして金海郡に所在せり。
其の国有を主張する者は、本地は乾隆55年の金海府改量田案に依れば、菉山面的字金丹串員第24号以下第112号に至る間、第45号を除く外凡て司僕屯として登載せりとし、民有を主張する者は、本地は同治10年より隆煕元年に跨り夫夫売買に依り取得し、隆煕4年まで自作亦は他に小作せしめ、連年秋収し、且結税を司僕寺に納付したるも本来民有地なりとせり。
司僕寺ってのは、結局乗り物関係の事務を掌る部署って事かな?
で、牧場は監牧官が監理しているので、その監督をするだけで、司僕寺としては別に土地を下賜または買い入れて、その経費を賄った、と。

んで、紛争は非常に少ないですね。
具体例については、国有側は1790年(乾隆55年)の量案に依拠しているのに対して、民有側は1871年(同治10年)以降の売買にのみ言及している点や、そもそも開国当時から部署が存在する事、及び司僕屯は非常に狭い範囲であるにも係わらず、係争が8件、37筆でしか起きていない事等から考えて、恐らく国有地の可能性の方が高いんじゃないかな。
で、国有地と知らずに売買してただけな気がします。

第5 各庁所属屯土

李朝に於ては、各道各邑に道庁及郡庁の外、郷庁、吏庁、将校庁、通引庁、使令庁、官奴庁等の庁舎を設け、田土を所属し其の収益を以て経費を支辨せり。
其の設定は、(一)各庁の公共財産を以て買収したるもの、(二)観察使及郡守の捐金に依り買収したるもの、(三)犯罪人より没収し、及無主田畓(水の下に田)の帰属したるもの等にして、国庫財産と分離し、本来公共用に供したるものなり。
光武元年、一部は軍部の財産に、他の一部は同3年宮内府の所属に編入せられ、隆煕2年度支部の所管と為れり。

本屯に関する紛争は、794件、3,123筆にして、順天、麗水、濟州、統営、金海、慶山、瓮津、博川の各郡に所在せり。
一例を挙ぐれば、金海郡所在の事件に付国有論の主張する所は、本地の創設起源明ならずと雖、今を距る100年前自如驛察訪庁員が利殖の目的を持って、各自私金を醵出して稧会を組織し、近傍所在の土地を担保として貸付を為し、其の利子として該土地より生ずる収穫物を収得したるものなりと云ふも、該資金は果して私金なりや否明確ならざるのみならず、年年一定の収穫物を徴収し、之を以て庁の経費に充当したる事実あるに因りて観れば、其の当時少くとも屯土の観ありしものとす。
然れども、開国503年廃庁の際、債務者は其の義務を履行して土地の返還を受け、純然たる民有地の状態に恢復したるものなるべきに、其の翌年宮内府査辨官本係争地より賭銭を徴収せるを以て、民有側に於ては宮内府及軍部に請願し、土地及既納賭銭の還付を受け、光武年間再び国有地に編入したるものなりとし、之に反し民有を主張する者は、旧昌原府尹の伝令に「故に顛末を略陳して府に修報す、指令に曰く是れ分明に契畓(水の下に田)なるに依り、速に出給して報来すべし」とあり、又自如倉斗数税租区別成冊には、「今此の各倉畓(水の下に田)は、即ち前自如驛吏庁契の物にして、該驛廃止の後該庁諸吏が、渠庁私物として部府に訴へ、還給の訓令指飭ありしを以て、転輾売買せしものあるに、辛丑(明治34年)の歳京派員に於て査執するに当り、精査せずして混同執税せしものなり」とあり。
其の他参考人等は、自如驛吏等の組織せる庁契なる一私契会の所有地なる旨陳述し、一旦国有に編入せられたるも、私有と認めて之を還付せられたる事実明瞭なるを以て、民有地なること確実なるとせり。
各庁所属の屯土について。
屯土の設定については、官庁の公共財産で買収したものと、観察使や郡守の捐金で買収したものと、犯罪人から没収したり無主の田畑を帰属させたもの等で、国庫財産と分離して公共用に供した土地だ、と。
で、1897年には一部は軍部の所属となり、他の一部は1899年(光武3年)に宮内府所属に編入され、1908年(隆煕2年)に度支部所管になった、と。

紛争の具体例に関しては、これまでとはかなり趣を異にする感じ。
国と、そこに勤務してた官吏との争いらしいですね。

つうか、その土地に課税されてたかどうかを見れば、一発で分かりそうなもんだけど。
官吏が自腹切ってやってた土地なら課税されてるでしょうし、そうでないなら屯土を装った脱税か、屯土そのものなわけで。
ただ、1回国有地に編入した後、還付されたという事は確定しているようなので、その辺が大きなウエイトを占めるかもしれないなぁ・・・。


今日はここまで。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)
国有地の紛糾(十三)



紛争の具体例等の中で、光武○年云々という記述が散見されますが、これが趙錫坤氏の「収奪論の近代化論を超えて-植民地時代の再認識」の中で「光武査検」とされたものだろう、と。
5月10日のエントリーでの、「1901年(明治34年)10月20日に出された『勅令第21号 地契衙門職員及処務規程』」に年代的に近いですね。
で、更に同エントリーで「実際に「多くの民有地が公土(国有地)に編入され、紛争が発生した。」のかどうか、その他記述に合致する事例があるのかは、現在のところ保留。」と保留していた部分に関しては、あったようだ、と。

その後、隆煕年間の国有地調査に於て国有地が確定され、その場所(具体例として見られたのは屯土について)の耕作者に対しては、「国有地小作認許証」が出されたらしい。
そして、土地調査事業で紛争地化、という経緯を辿ってるようですね。

それでは今日もアジア歴史資料センターの『朝鮮ノ土地制度及地税制度調査報告書(レファレンスコード:A06032020900)』を見ていきましょう。
今日は326画像目からになります。

第7節 京各司屯

李朝の官制は、中央官庁を京城に置き、地方官庁を各道各府郡に設け、以て庶政を統治せり。
而して、中央行政事務は議政府、吏曹、戸曹、礼曹、工曹、兵曹、刑曹の1府6曹に於て之を分掌し、又特別官庁を設けて特殊の事務を掌理せり。
其の経費は戸曹より支辨すと雖、又各官庁に土地を賜与し、或は官庁自ら土地を買得して所属屯田と為し、其の経費に充用せり。
各司屯土の設定、管理亦自ら異る所あり。
但し茲に注意すべきは、耆老屯、忠勳屯、司僕屯及各庁所属屯田は普通之を屯田と称するも、其の性質は全く他の屯田と之を異にし、単に某田と称すべきものにして屯田と称すべきものに非ず。
只、通俗の用例に従ひ、便宜茲に記載することとせり。
李朝における中央官庁のルールが前段。
1府6曹の経費は基本的に戸曹から支給されるけど、各官庁に土地を賜与したり、官庁自らが土地を買い入れしたりして所属屯田とし、その経費に充当してた、と。
中央官庁ですら、各自の屯田持ってたのね・・・。

ただ、耆老屯、忠勳屯、司僕屯及各庁所属屯田については、普通はこれを屯田と言ってるけど、その性質は全く他の屯田とは違い、単に某田と称すべきもので屯田と呼ぶべきものではない。
ってことで、通俗の用例に従って便宜的に記載しておく、と。

んじゃ、続き。

第1 耆老屯

李朝太祖3年、耆社を設け耆老所を置き太祖親ら之に入り、耆臣優遇の目的を以て実職正2品年齢70歳以上に達せる文臣に入社を許したり。
而して、之が経費に充つる為、田土、魚箭、鹽盆を賜ひ、其の収益を耆老所の所得とせり。
故に、地部太倉等とは何等の関係なく収集の時之を分配し、田土には舎音又は導掌を置き、屯監を送り、或は郡庁に託して管理せしめ、各地の田土に依り差違ありと雖、其の収益は土地の状況に応じて之を定め、土地の所在も亦賜与の初から一定し居り、開国503年国政改革の際に至る迄存続せるものなり。

本屯に関する紛争は、707件、2,154筆にして、井邑、沃溝、高敞、求礼、務安、舒川の諸郡に所在せり。
一例を挙ぐれば、井邑郡所在の事件に民有を主張するものは、元来民有地なりしも、地税徴収権を耆老所に附与せられたるに過ぎずとし、国有を主張するものは、太祖3年耆老に賜与せられたる田土にして、爾来管理の経路明瞭なるを以て、国有として何等の疑なしとせり。
高齢高官専用の老人ホームみたいなもん?(笑)
いや、官職ではあるんでしょうけど。

次ぎの魚箭は、簗のこと?
漁場くらいで良いかな?
経費充当のために、田や漁場や塩田を賜与して、その収益を耆老所の所得としていた、と。
ってことで、収税なんかとも関係なく、収穫の時に分配し、田には舎音又は導掌を置いて屯監を送り、あるいは郡庁に託して管理させ、各地の田で差はあるけど、その収益は土地の状況に応じて定め、土地の場所も賜与当初から一定しており、1894年(開国503年)まで存続してた、と。

んー、これ官側に土地所有権あるのか?
賜与したのがマジで国有地なのかどうか、ってところから争いになりそうな気がするな・・・。

で、民有論については、元々民有地で地税の徴収権を耆老所に与えられたに過ぎないという、これまで良く見たパターン。
国有論の方は、1394年(太祖3年)に耆老に賜与された土地で、その後の管理の経路も明瞭だから国有、と。
いや、だからその賜与の段階が怪しいわけで。(笑)

第2 宗親府屯

宗親府は、李朝国初より設置せられ、列聖の御譜、御真影を敬奉し、両殿下の衣■を進め、■源諸派の王族を統領する官衙にして、其の経費は淳昌其の他12郡に在る屯税銭、宣惠庁の給銭等合計3万両、竝濟用監其の他各庁各倉より米609石6斗、木綿15同(50疋を1同と云ふ)、麻布10同の支給に依り之を支辨せり。
屯土の設定は、王室より下賜せられ、土地に依り其の管理及収税は毎年屯監を送り賭銭を定めて徴収し、隆煕元年同府の廃止と共に宮内府の所属に移り、次で国有に決定せられたるものとす。

本屯に関する紛争は、803件、1,357筆にして、務安、金浦、金海の各郡に所在せり。
一例を挙ぐれば、務安郡所在の事件に付民有を主張する者は、康煕量案には「起主何某宗親府免税」とあり、他の異議なき国有地には「起主内需司作何某」とあり、又普通民有地には「起主何某作何某」とありて、各記載例を異にし、起主は量案作成当時の地主、作は当時の小作人を掲げたるものと見るべきを以て、宗親府の所有ならざること明なり。
次に、屯結と普通民有地の結税額とを比較するに、甲午年(明治27年)以後は2者全く同一額と為り、其の以前に於ては民結よりも却て低廉の状況に在り。
其の徴収方法も普通民結徴収と同一にして、郡庁より草記を発し、吏員出張して之が徴収の任に当り、之に対し尺文を発給し、土地の処分に関しても昔時より売買し来り。
買得価格は普通民有地より高価にして、買収者は自由に小作人を置きたるものなるを以て、民有たるべきものなりとせり。
まぁ、簡単に言うと王族を管理する所、かな。
その経費は、淳昌その他12郡に在る屯税銭と宣惠庁の給銭等合計3万両、各庁各倉から米609石6斗、木綿15同、麻布10同の支給によって賄っていた、と。
それなのに何故屯土が設定されるのか分かりません。(笑)
兎も角、屯土は王室より下賜され、管理や収税は毎年屯監を送って賭銭を定めて徴収し、1907年(隆煕元年)に宗親府が廃止された時から宮内府の所属に移り、その後国有に決定された、と。

で、紛争の具体例は民有側の主張しか載って無ぇ。
ここまで理路整然と根拠を述べている事例ってのは、これまでありませんでしたね。
多分国有側、負け。(笑)

ただ、結税額についても言及されているんですが、甲午以前の結税が一般民地より安いってのは、民有の主張の根拠たりえるんだろうか?

で、康煕量案の記載について。
普通の国有地は「起主(官庁名)作(人名)」とされており、普通の民有地では「起主(人名)作(人名)」となっている、と。
今回の事例の場合は、「起主(人名)宗親府免税」という、割とハッキリ土地状態の分かる記載なわけですが、「起主」を当時の地主と捉えた場合、前回のエントリー11月6日のエントリーでの紛争事例で、量案に「起主(官庁名)」という記載のあるものは、国有地ってことにしちゃって良いんでしょうかねぇ?


ってところで、今日はここまで。



国有地の紛糾(一)
国有地の紛糾(二)
国有地の紛糾(三)
国有地の紛糾(四)
国有地の紛糾(五)
国有地の紛糾(六)
国有地の紛糾(七)
国有地の紛糾(八)
国有地の紛糾(九)
国有地の紛糾(十)
国有地の紛糾(十一)
国有地の紛糾(十二)



実は、風邪のせいとか史料の整理が悪かったため、飛ばしちゃった史料がありまして・・・。
久しぶりにやっちゃいました。_| ̄|○

ってことで、今日はその抜かした史料から。
仁川の能勢領事からの、1894年(明治27年)5月16日付『京第21号』より。

忠清全羅の東学党に関する模様は、捜索方深く注意致居候得共可信報知を得ず。
今後地方より入港したる者に就き、別紙聞取書の如きは稍信ずるに足るものと御存候に付き、御参考迄差進候也。

通信網が整備されてない所ってのは、情報収集一つ取っても大変だよねぇ・・・。
ってことで、中々信ずるに足る情報を得られない中、昨今地方から仁川へ来た者に別紙の通り聞き取ったものは、やや信ずるに足るものと思うので、参考までに送ります、と。

では、さっそくその別紙聞取書を。
ちなみに、別紙は全部で6つありますのでよろしく。

5月15日調 仁川港 力武商店雇 城島虎之助

本年3月30日広済号にて出帆。
翌31日群倉(群山鎮より南)着。
夫より朝鮮船にて4日目金堤府下の竹山浦に着(群倉より金堤迄陸上八里水路(川)20里。金堤より竹山迄2里)。
此頃より、竹山より東方4里の所に東学党屯集せし噂を聞けり。
4月30日、古阜の白山へ来れりとの噂。
3,500~3,600名の由。
5月1日竹山浦より10町程隔たりし処の問屋に、20余名銃器を携へ来りて暴行せし。
主人は脱走。
家族を縛し家財等を掠奪せることを聞及びたり。
又東徒は頭に紅巾を纏ひ居れりとの事。
同夜11時、竹山浦の問屋主人と共に金堤へ避けたり。
同人の朝鮮船は、1里程下流へ下げたり。
同2日に至り、東学党は元来官吏に反対するものにして人民には害を加へざれば、敢て恐るるに足らずとの説を聞き、再び竹山浦に戻り買米運出の相談をなせり。
同3日中は船中に潜居せり。
同4日に再び上陸して聞く処によれば、白山屯集の東学徒は最早全州に赴きたり。
且親軍出張ある事を聞きたり。
尤も、不安心なれば朝鮮船を3里程下流に下げたり。
河岸を見れば、貢米私米共堆積しありて、之れは東党の掠奪を避くる為めに小舟にて運出するものなりとの事にて、60余隻の小舟の内漸く同人は2舟を借受け、同日300俵を積出たり。
然るに翌5日に至り、更に100百俵を積出さんとする場合に、東党来りて自余の米船を捕獲せんとせるに、同人の分は幸に脱して本船に積込む事を得たり。
同7日朝、同所出帆同夕隔音山に着。
同8日午前出発。
同10時頃沖合航行中、群倉(隔音山より4里)の方に、当に一日中12発の大砲を聞けり。
同夜煙島沖合に碇泊。
同9日朝出帆。
5~6里北に向けて馳走中、大砲14~5発を聞きたり。
同10日午前11時頃より、14~5発を聞きたり。
同13日本港に来着したり。
仁川港の力武商店に雇われている城島虎之助からの聞き取り。
城島は、3月30日に広済号で群倉に出発。
って、いきなり引っかかるけど、広済号ってコレの事か?

んで、群倉から竹山浦まで朝鮮船で向かい、その頃から東学党が竹山の東方4里に集まっているという噂を聞いたり、古阜の白山へ来るという噂を聞いたりするわけです。
5月1日には、竹山浦から10里ほど離れた処にある問屋に、東学党20余名が武器を持って押し入り、主人は逃亡、家族は縛られ、家財等を掠奪される事件が起きたため、城島は竹山浦の問屋主人と一緒に金堤に逃げる。

5月2日に入って、東学党は元々官吏に反対しているだけで人民には害を与えないという話を聞いて、再び竹山浦に戻って商談。
つうか、さっき問屋が襲われてたじゃん。(笑)

5月4日には河岸に貢米も私米も積み上げられており、どうやら東学党の掠奪を避けるため、小舟で搬出するものだとの事。
城島も小舟を借り受け、自分の分を積み出す。
翌5日、更に100俵を搬出しようとしている時に東学党が来襲し、米船を捕獲しようとするけど、城島は難を逃れて本船に積み込む事に成功。

仁川に帰ってくる途中、8日・9日・10日に大砲を撃つ音を聞いた、と。
12月16日のエントリーの1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』で、平遠が日に数発大砲撃ってる云々の話は、もしかしてここから来たのかな?

続いて、別紙2へ。

徐相集所有 順初丸 河永直吉・小川梅造

順初丸は、5月6日に群山へ着。
同12日同所出帆す。
5月10日に清国軍艦と蒼龍及び漢陽にて親軍来着。
蒼龍と漢陽の乗組兵は同日、上陸軍艦乗組の分は翌11日上陸す。
軍艦は群山より3里計り沖に碇泊せり。
漢陽にて軍艦乗組の親軍兵を陸に運びたり。
右親軍兵は、11日中に全州へ向け進軍せり。
12日の午後2時頃、陸の方にて大砲の声2~3発を聞けり。
尤も、親軍兵の来る以前には砲声を聞かず。
親軍兵が大砲2門を持行を見受けたり。
清国軍艦の士官5~6名、親軍兵と同行せるものを見受けたりしが、清兵は見受けざりし。
親軍兵の来る前には、1村より人民50人づつを官軍の方に於て募るに付、夫れに従はずして逃げる様子なり。
米大豆を積込むに、何にも異状はなかりし。
群山近傍には日本人を見受けざりし。
群山近傍には暴民を見受けず。
古阜地方にて戦争ありて、負傷者は雙方にて1千人以上なりとの事を聞けり
今度は、徐相集という者が所有している順初丸の河永直吉と小川梅造からの聞き取り。
5月10日には蒼龍と漢陽に乗り込んでいた招討軍が上陸。
平遠に乗り込んでいた招討軍は、翌5月11日に群山に上陸したようですな。

12月9日のエントリーで平遠の艦長が嫌がってた通り、どうやら平遠は群山沖3里の場所に碇泊して群山には入らず、漢陽に乗せ替えて上陸した模様。
で、やっぱり彼等も砲声を2~3発聞いてるんですねぇ。

そして、清国軍艦の士官5~6名が招討軍と同行しているのを見たけど、清兵は見なかったよ、と。
これが、12月16日のエントリーの1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』で、「能勢領事の内報」とされている其乗組士官及び水兵は親軍と共に全州へ赴き云々の話に関係してくるのかな?

続いて、別紙3を。

蒼龍号 朝鮮通弁 朴某

一.5月8日に仁川出発。
 10日朝群山着。
 平遠は沖合3里余の処に滞泊し、蒼龍漢陽は内港に入れり。

一.親軍兵は10日に上陸。
 翌11日全州地方へ発送せり。

一.平遠よりは士官4名水兵20名(携銃せしや否や不明)は、同日上陸全州地方へ視察に赴きたりと。
 平遠は于今沖合に碇泊すれども、更に発砲などなせし様子なし。

一.親軍兵は全州着以来、乱民と戦争の様子なし。
 乱民と戦争せしと云ふは全州の兵にて、之れは乱民の為めに大に敗られたりと云ふ。
 然し、全州地方に屯集の東徒2,000余名は、京城より親軍の来るを聞て散乱せりと。

一.乱民は五色旗を持ち、旗には輔國安民大倡義とある由。
やはり平遠は、群山沖3里の処に碇泊しているようですね。
また、河永直吉と小川梅造の聞き取りにあった、平遠の士官5~6名が招討軍と同行しているのを見た話は、この通訳の言によれば士官4名と水兵20名、と。

まぁ、どっちにしろ袁世凱の「状況視察のための2名以外は乗組員に禁じて上陸させなかったから、招討軍とは少しも関係ないよ。( ´H`)y-~~ プハー」っての、嘘じゃん。(笑)

ちなみに、全州の地方兵は大敗。
しかし、全州地方に集まっていた東学の徒2,000余名は、招討軍が来た報告を聞いて解散した、と。

んー、どう見てもこの1894年(明治27年)5月16日付『京第21号』を元にして、12月16日のエントリーの1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』が書かれてるよなぁ・・・。
大失敗。(´・ω・`)


この1894年(明治27年)5月16日付『京第21号』の別紙はまだ続くんですが、長くなってきたので今日はここまで。



東学党の乱(一)
東学党の乱(二)
東学党の乱(三)
東学党の乱(四)
東学党の乱(五)
東学党の乱(六)
東学党の乱(七)
東学党の乱(八)
東学党の乱(九)
東学党の乱(十)
東学党の乱(十一)
東学党の乱(十二)
東学党の乱(十三)
東学党の乱(十四)