サカツク13年目は、ACCC優勝もWCCではノースイングランドと3対3までいってPK戦負け。
世界も少しづつ見えてきた。
J1、Jリーグカップ、ニューイヤーズカップの国内三冠を果たし、J18連覇達成。
まだ初期メンの赤尾と酒井が居ますが、後継も育ってるので無問題。
かなり順調。( ´H`)y-~~

でも、ブログのエントリーは、一周忌とか年度末とか理由は色々あるものの、今月は更新がかなり低調・・・。
(´・ω・`)


< 2007年3月のエントリー >
言うまでもなく東学党の乱。
つうか、東学党の乱しかやって無ぇ。
おまけに話が全く進んで無ぇ。(笑)
まぁ、面白い記述は結構あったんだけどね。


東学党の乱(七十六)

渡辺という巡査が、大院君と会談した際の復命書の回。
ロシアの出兵について語った大院君の「閔氏全体で一致した行動とるとでも思ってんの?一方が清兵を請えば、一方で露兵を求めるのって、当然だろ?」。
いや、朝鮮政治の見方としては、そのとおりなんだけどさ。(笑)


東学党の乱(七十七)

済物浦条約等について、ウリナラ解釈で対抗しようとする朝鮮。
本気で読めないのか、ワザと読めないフリをしているのかは知りませんが。(笑)
そして、日本の出兵に対して、軽いジャブを放ってくる宗主国様。
「未だ曽て朝鮮国を以て貴国の属邦とは認居不申」とした日本への回答が、「属邦を保護するの先例に因れり」って、喧嘩売ってんのか、と。


東学党の乱(七十八)

内容的には面白味が皆無ですが、大鳥公使の着京や、清国へ「属邦」に対する抗議と日本の出兵理由が済物浦条約に基づくものである通知。
そして、小村の「済物浦条約って何?」等、重要な話が多かったりします。


東学党の乱(七十九)

現行以上の出兵を行う事に対して、陸奥外務大臣と大鳥公使のやりとりがメインながら、寧ろ小村と清国政府の遣り取りの史料の方が面白い。
お馴染みの「属邦保護」とか、「日本の派兵は朝鮮の要請によるものではないため、朝鮮国内に入っていくことは出来ない」という、明らかな認識不足とか。


東学党の乱(八十)

当然のように対ロシアが重要なイギリスの話と、東学党の乱の起こりから日清出兵に至る経緯説明の史料の二本立て。
後者の史料は、簡単に纏まっているため便利な反面、継続的にウリのブログを見ている人には全く役に立たない史料。(笑)
ま、これまでの流れが整理されてるから、それはそれで良いのか。


東学党の乱(八十一)

外交的な観点から、後発の兵を仁川に留める事に尽力する大鳥。
でもねぇ、予算使って出兵しておいて、何等為すところ無く帰国ってのも、対内的には問題あるのよね。(笑)


東学党の乱(八十二)

「兵を率いて入京しちゃ駄目!」と大鳥公使一行を止めようとしてに、逆に一つ一つ反駁されて反論できなくなり、一緒に入京しちゃう李容植とか、何度説明しても理解できない馬鹿なのか、分かってて必死なのかは不明な趙秉稷とか。
条約文と高平臨時代理公使の知照、そのまま読め、と。


東学党の乱(八十三)

縋るような趙秉稷の文書は、もうお腹いっぱい。(笑)
ってことで、「全州落城後官軍進撃に関する彙報」がメイン。
最初から自国で頑張ってれば、日清の出兵も無かったろうにねぇ。( ´H`)y-~~


東学党の乱(八十四)

「全州落城後官軍進撃に関する彙報」の続き。
6月6日に官軍が東学軍に勝ち、首領格の2名を討ち取り、その内1名は14歳というところまでは、どうやら事実の模様。
それにしても、清国の出兵を全く知らずに呆然とする朝鮮政府とか、文書取り次いだだけなのに処罰される門番とか、何度見ても笑える。(笑)


東学党の乱(八十五)

この回も「全州落城後官軍進撃に関する彙報」の続き。
つうか、そのまま匪徒を残しておけば来年の春にまた事件を起こすだろうから、寧ろ全部殺しちゃおうと上奏する洪啓薫。
首謀者は殺して、降伏したヤツは罪の軽重で決めるべと決定する高宗。
そんな中で、どうやったら6月10日に全州和約結べんだ、と。(笑)


東学党の乱(八十六)

条約を全く理解できていない高宗。
「袁世凱に全部任せるべ」で済んでしまう朝鮮政府。
清国への出兵依頼がどのような影響を与えるか、全く考えていないかのような閔泳駿。
おまけに、清国へ出兵依頼したにも拘わらず、上陸拒否する朝鮮政府。
馬鹿の見本市。


東学党の乱(八十七)

「いやぁ、こんな雑魚が起こした乱に、なんで必ずロシアの兵に骨を折らせる事がありましょうや。」と言いつつ、清国には援軍頼む閔泳駿が素敵。(笑)
そして、「いや、清国皇帝が東学党の乱を聞いて大いに激怒し、出兵を命じたのです。」と、堂々と嘘吐く申正熙も素敵。
一番素敵なのは、後でこの嘘がばれる事だけど。(笑)


東学党の乱(八十八)

京城の民が、日本兵より清国兵を恐れているとする話については、当然親日派もいたでしょうから、全員がそうだとまではいかなくても、実際にそういう人も居たのでしょう。
一方で、東学党の乱も日清の出兵も勢力争いの材料にして、仲間割れしてる閔氏一族。
そして、こんな中ですら閔泳駿を庇う高宗。
何やってんだか。


東学党の乱(八十九)

後発兵の上陸に関して、大鳥公使と陸奥外務大臣のやりとりが淡々と続く英文史料。
面白味は全く無い。


東学党の乱(九十)

この回も、後発兵の上陸に関する大鳥公使と陸奥外務大臣のやりとり。
やはり面白味は皆無。


東学党の乱(九十一)

全緑豆即ち全琫準の事と思われる、全菉荳や全祿斗といった、漢字違いの人名は中々興味深い。
まぁ、そんな話も「朝鮮は早晩ロシアに占領されるからどんだけ働いても無駄だと失望落胆して、働く者が居なくなった」村の話の前には、全部かすんでしまいます。(笑)


東学党の乱(九十二)

「暴民実況及び清韓兵動静偵察彙報」からの話。
何故か京城近郊の龍山に運ばれる清国の武器弾薬とか、水原に変装した東学党が出たりとか、そりゃ公使館も護衛するだろ、と。(笑)
気になるのは、政治改革を主張する府使が、数年間日本に留学した事があり、その政治を敬い慕っているという事が、何故東学党に加担しているのではないかという疑いに繋がるのか、ということ。


東学党の乱(九十三)

清国の動きがメインのエントリー。
つうか、2月18日のエントリーで徴発されてた牛馬等は、やはりタダで奪われてたようで。
単に清国兵の上陸地だってだけなのに、可哀想に。(笑)


東学党の乱(九十四)

全州奪還の正式な通報があった回。
既にどうでも良い感のある趙秉稷の話は置いておいて、ここで先に入京した水兵300人と陸兵800人が交替しております。
後は、日本の出兵理由を告げたところ、理解したのか何なのかアッサリ了解してるロシアって、割と不気味。


東学党の乱(九十五)

清兵数千人が入京するだろうという噂。
これに関して、袁世凱と大鳥公使の中々濃い会談が面白いです。
尚、東学党の乱(八十七)で申正熙が「清国皇上之を聞くの後、赫然として大に怒り、之を命送せしめたるなり。」ってロシアに嘘吐いたのに、袁世凱が「勿論朝鮮政府の依頼で出兵したよ」と返事しちゃいます。


東学党の乱(九十六)

袁世凱と大鳥公使の会談の続き。
つうか、何の権利があって清国が「あまり多くの兵を入京させないように」等と言うのか、と。
で、そんな会談の最中に清国兵2,000人出発の噂が届くわけですな。


東学党の乱(九十七)

この回も、袁世凱と大鳥公使の会談の続き。
日本からくる予定の兵が仁川に上陸しない限り、今居る清国兵や噂の2,000人の兵について便宜を図ろうと思うんだけどと、脅し混じりに言う袁世凱。
噂の2,000人の兵の真偽次第では、日本兵上陸させなきゃ駄目だから、真偽を報告してねと言う大鳥公使。
緊迫感がある、非常に面白いやりとりだと思います。


んー、色々と忙しかったのもあるし、連載が長期化してるせいもあるんですが、何か上手くまとまらない月だったなぁ・・・。



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東学党の乱(九十七)

テーマ:

さて。
3月26日のエントリーから取り上げている、1894年(明治27年)6月14日付『機密第94号』の『別紙甲号』。
前回は、談話中に天津領事からの来電が届き、それにあった清国からさらに2,000人の兵が来る話が本当なら、日本兵を上陸させないで帰国させる事は、とてもじゃないけど出来ないから、速やかに調べて一報して欲しいという、大鳥公使の発言まででした。
今日はその続きから。
そんじゃあ、早速。

袁氏
承知せり。
万一我政府更に出兵の事真なりとするも、右は余に於て如何様にもして之を差止め、貴公使の御迷惑と成らざる様に可致候。
且つ、在牙山我兵の義も、昨日午前10時全州を回復したる報知を得ると同時に、右通知旁最初兵員を乗せ来りたる軍艦にて、先づ2、300名の兵を残し置き、其の余は盡とく帰国せしむる様取計あり度旨李中堂に電報致置き候に付、貴国より来着すべき兵員仁川へ上陸せざる限りは、右の通りに取計ふ事も出来可申と存候。
就ては、入京すべき貴国陸兵も半減せらるる事は叶ふ間敷哉。

公使
否、夫は出来不申候。
我陸軍の組織にて一大隊の編制をば之を分てば、雙方とも用を為さざる事に相成と存候。

袁氏
如此貴我両方に於て充分打合せ相届き候上は、貴我之間に異議相生ずべしとは思はれず、因て本日御談話の趣は此より無漏李中堂に電報し、右の出兵の義は有無に拘らず見合せられ度と申遣はすべく、万一余が発電間に合はず出兵の都合に相成り候共、余に於て無相違仁川より其儘帰国せしめ候様盡力可致候。

公使
兎に角、貴国出兵の実否相分り次第、速に御一報被下度。
右は我兵到着の上、上陸するとせざるとに関し、大に影響を来し可申次第に御座候。
袁世凱は、清兵2,000人出兵の真偽について一報することを了承。
その上で、万一清国が更に出兵する事が事実だとしても、それは袁世凱が何としても差し止め、大鳥公使の迷惑にならないようにする、と。

また、牙山の清国兵も、6月11日に全州を回復したという知らせを受けると同時に、李鴻章にその事を伝え、更に牙山に2~300人の兵を残して、残りは最初に兵を乗せてきた軍艦で帰国させるように取りはからってくれと電報した。
最初に兵を乗せてきた軍艦って、図南号かな?

ってことで、日本からくる予定の兵が仁川に上陸しない限り、そのように取りはからう事も出来るだろう、と。
ウハハ。
じゃあ仁川に上陸すれば、どうするんだよ。(笑)

で、京城入りさせる日本の陸兵を半減できないだろうか、と。
へぇ。
交代予定の水兵と同数の400人くらいならオッケーなんだ。(笑)

これに対して大鳥は、イヤ、無理。
陸軍の組織で1大隊を編制しているのに、これを分割すれば双方役に立たなくなるだろうし、と。

袁世凱はこれを聞いて、このように日本と清国の両方で充分打ち合わせが出来ていれば、その間に異議が生じるとも思えず、従って今日の談話の内容はこれから李鴻章に電報し、増援出兵が本当だろうと嘘だろうと見合わせて欲しいと申し述べ、万一その発電が間に合わずに出兵されても、自分が間違いなく仁川からそのまま帰国させるように尽力するから、と。

へぇ。
そのまま牙山直行じゃなくて、仁川に寄るのは分かってるんだ。(笑)
まぁ、一般的な航路なんでしょうけどね。(・∀・)ニヤニヤ

で、大鳥は、兎に角清国が増援を寄越すのがマジかどうか、速やかに一報してくれ。
それが、日本兵が到着したときに上陸するかしないかに、大きな影響あるからね、と。
んー、大鳥も負けてませんなぁ。(笑)

んじゃ続き。

袁氏
此際は、貴我の間に種々離間を為すもの少からず候に付、万事慎密に慎密を加へ、決して貴我の間に不和を生ずる事有之候には不相成候に付、貴国兵と我商民等との間に於て、些細の間違を起す等のこと無之様、充分取締を厳重にせられ度希望致候。

公使
右は無論注意を要し候事に付、既に本使より各士官へ委細申含置候。
又、兵士等も可成街頭に逍遙せしめず、多くは山■を運動せしむることまで注意致居候。

袁氏
如此にして始めて他の離間説に或はされず、此度の事は貴公使と余との両人に於て、平穏に落着せしむる事を得る義と確信致候。
此前3、40分時頃に、外国人の来客二た組別房に待せありたれば、公使即ち辞して帰館せらる。
時に午後6時30分なり。
袁世凱は、最近は日本と清国の間に色々な離間策を廻らす者も少なくないため、万事に慎重を期し、決して日本と清国の間に不和を生じることのないようしたいので、日本兵と清国商民等との間でトラブルが起こす事等が無いよう、充分取締を厳重にして欲しい、と。

大鳥も勿論この点に異存のある筈もなく、その事は無論注意する必要があるため、既に自分から各士官へ詳細に言い含め、又兵士などにもなるべく街をぶらつかないようにし、次が良く読み取れないんだけど、どっかで運動することにまで注意している、と。
また「△日露戦争物語で見た」になりますが、陸兵、狭いところに押し込められてたしねぇ・・・。(笑)

で、袁世凱は、このようにして初めて離間策に惑わされず、今回の一件は大鳥公使と袁世凱の二人で平穏に落着させられると確信している、と。
んで、外国人の来客を2人待たせてるって事で、大鳥も退出。

以上が、1894年(明治27年)6月12日の大鳥公使と袁世凱の会談の内容でした。


ってことで次は『別紙乙号』に移るわけですが、キリの良いところで今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)  東学党の乱(九十二)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)  東学党の乱(九十三)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)  東学党の乱(九十四)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)    東学党の乱(九十五)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)  東学党の乱(九十六)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)   東学党の乱(七十五)


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東学党の乱(九十六)

テーマ:

仕事、忙しい・・・。( THT)y-~~

さてと。
日清戦争前のロシアの動向って、別途追うと面白そうな話になるんですが、流石に現状そこまでは手が回りかねます。
まぁ、朝鮮が絡んでなきゃ、また真面目な話になっちゃうだろうし。(笑)
保留案件ってことで。

さて。
前回、1894年(明治27年)6月14日付『機密第94号』の『別紙甲号』で、日本の増派の話と、それを終えて私人同士の対話に移り、その中で、ロシアの動きの話を受けての「今回日本政府の出兵については、何か他の理由があって朝鮮に来たのか、伺う事はできますか?」という袁世凱の質問で終わりました。
今日は、その続きからという事になります。
では早速。

公使
当局民乱の報告追々我国に達するや、我政府は事勢の軽からざるを察したり。
殊に、貴国より援兵を派遣せらるるまでに至りたるを以て、我国に於ても隣誼上傍観すべきにあらず、且又当京城も漸く動搖するの色あれば、即ち我公領事館及在留人民保護の為め出兵致す事と相成申候。

袁氏
当国の民乱は、御承知の通り官軍の力を以て全州を戻し、余類は金溝に退きたるも、最早数百の一小勢なれば、全く鎮定に至るも遠からざるべし。
就ては、貴国の護衛兵入京の儀、御差止め相成様御取計相成候事は出来申間敷哉。

公使
本使着京来、当地の模様も極めて平穏なるには相違なきも、目下民乱全く鎮定せりと云ふべからず。
依て前述の通り、海兵と交代して護衛兵800名は是非共入京せしむる考へなり。
然し、最早多数の兵を要せざるべければ、未発の後隊は一時見合せられ度き旨、我外務大臣へ発電致置きたるも、右電信到着せざる前已に出発せしか、陸続発船せりとの電報に接したり。
此の上は、右後着の兵は可成上陸せしめずして貴国せしめたしと、折角盡力中に有之候。

袁氏
今日は、最早貴国兵入京之後なれば其詮なき事には候へ共、過日李中堂の来電に拠れば、此度日本より公使館護衛として兵士派遣せらるる由。
就ては可成多数の兵士を入京せしめられざる様、大鳥公使へ伝ふべしと。
右は已に間に合はざる儀には候へ共、一応伝言の趣き丈申述候。
尚ほ、貴公使の御勘考を願ひ度し。

公使
前述の通り、護衛兵800名丈は是非共入京為致候筈なれば、其他は入京せざる様取計可申候。

此時公使館より天津領事の来電を送付し来る。
東学党の乱の情報が日本政府に伝わると、日本政府では事態が軽くない事を察した、と。
特に、清国から援兵の派遣を受けるまでに至ったため、日本でも隣国の友誼上傍観すべきでなく、且つ京城でも動揺している様子だったため、日本公使館・領事館・居留民の保護のために出兵する事となった、と。
まぁ、この辺は公式見解通り。

つうか、済物浦条約と高平臨時代理公使の知照の事、もっとハッキリ教えてやった方が、日清間の関係としてはスッキリする気がするんだけどなぁ。
( ´H`)y-~~

で、これに対して袁世凱は、東学党の乱は御承知のとおり官軍が全州を取り戻し、残りの属徒は金溝に撤退したけど、最早数百名程度の小勢力になり、完全な鎮定も時間の問題となった。
ついては、日本の護衛兵入京の件を差し止めるように取りはからう事は出来ないもんだろうか、と。

勿論大鳥は、いや、確かに私が着京して以来平穏だけど、民乱が完全に鎮定したとは言えない。
そのため、前に述べたとおり海兵と交代で陸兵800人を是非とも入京させる考えだ、と。
しかし、最早多数の兵は必要無いだろうから、まだ出発していない後続の部隊の出発は、一時見合わせて欲しいと陸奥外務大臣には電信しておいたが、その電信が到着する前に既に出発してしまった。
ってことで、後続の兵についてはなるべく上陸させずに帰国させたいと尽力中だ、と。

全く上手くいってませんけどね。(笑)

袁世凱は、今日既に日本兵が入京してしまった後だから仕方ないとはいえ、以前李鴻章から、今回日本から公使館護衛として兵士が派遣されるそうだけど、あまり多くの兵を入京させないように大鳥公使へ伝えろと来電があったんだよね。
もう間に合わない事ではあるけど、一応その伝言の話だけしておくよ。
大鳥公使の考えは?と。

だからさ、何の権利があって清国からそんな事言われなきゃ駄目なんだ、と。(笑)
大体、「多数の兵士」って何人だよ。

で、大鳥は、さっきから言ってるけど、護衛兵800名だけは是非とも入京させる事になってるので、その他は入京しないように取りはからいたい、と。

と、そこへ日本の公使館から、天津領事からの来電が送付されてくるんですな。
んじゃ、続き。

公使之を一読し、

今此の電文に拠れば、貴国より更に2,000の兵を発せらるる風説ありとの報ありと。
右、実否定めて御承知の事ならん。

袁氏大に訝り曰く、
否々決して知らず。
目下我兵千六、七百名、牙山に留り居る者あり。
此れさへ目下既に必要なければ、此上兵を要する事情あるべからず。
或は、我政府に於て貴国出兵の風説盛なる為め、更に出兵の都合に成りたるやも測られず。
併し余は、其の説を真なりとは信ぜられず候。

公使
若し真なるときは、我兵を上陸せしめずして帰国する事は迚も難出来に付、■の処速かに御探聞相成り、御一報を煩し度候。
今この天津領事からの来電によれば、清国からさらに2,000人の兵を出発させるという噂があるって言うんだけど、本当か嘘か御存知だと思うんですが?と。

この話を聞き、袁世凱は怪しんで、いやいやマジ初耳。
今ウチの兵は700~800人牙山にいるけど、これでさえ今既に必要ないわけで、この上更に兵が必要な事情もあるわけじゃなく。
或いは、清国政府が日本の出兵の噂が盛んなので、更に出兵する事になったのかも知れない。
ただ、自分としてはその話をマジだとは信じられない、と。

もしかして、結構「Σ (゚Д゚;)」ってなってる?(笑)
まぁ、袁世凱だからポーズかも知れんけど。
「貴国出兵の風説盛なる為め」とか、凄ぇイヤラシイ言い方してるし。(笑)

まぁ、大鳥公使も負けてません。
もしこの話が本当なら、日本兵を上陸させないで帰国させる事は、とてもじゃないけど出来ないから、速やかに調べて一報して欲しい、と。

何か、外交の現場って感じ。(笑)


今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)  東学党の乱(九十二)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)  東学党の乱(九十三)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)  東学党の乱(九十四)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)    東学党の乱(九十四)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)   東学党の乱(七十五)


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東学党の乱(九十五)

テーマ:

サカツク12年目は、ACCC準優勝でアビスパに負け。
J1は順調に7連覇。
ニューイヤーズカップは優勝し、Jリーグカップは準決勝敗退。
世代交代も割と上手くいってます。( ´H`)y-~~

さて、後どんくらいで「東学党の乱」が終わるのか、ザラッと史料眺めてたんですが、どうせこれから内政改革要求→日清戦争と流れていくわけで、単にタイトル変わるだけで、内容継続だよなぁと思ったので、無駄な事は止めました。(笑)
まぁ、恐らくではありますが、東学党の乱が鎮圧したかどうかを廻る、6月23日前後の史料で一旦区切れるのかなぁ、と。
尤も、史料の内容まで読み込んでないので、後から変更するかもしれませんが。

ってことで、今日も史料を見ていきましょう。
今日最初は、大鳥公使から陸奥外務大臣への、1894年(明治27年)6月14日付『機密第94号』から。

別紙公信を以て報告及候通り、当地にては昨今専ら清兵数千入京すべしとの風説有之候所、在清小村臨時代理公使よりも同様の電報有之候に付、時節柄頗る注意を要する問題に有之。
且つ其入京すると入京せざるとは、我兵の進退に大なる関係有之候間、本官当地着任の翌日袁世凱氏を訪問の節、又袁氏其翌13日本官を答訪の上本件懇話致候処、同官には日清の兵力当地に於て又々面倒を惹起すを恐れ、可成此衝突を予防したき旨談話有之。
依て其会談筆記、別紙を以て差進候間、委曲右に就て御判断相成度候。
右申進候也。
京城ではこの頃になると、清兵数千人が入京するだろうという噂が流れてるんですね。
しかも、小村からも同様の電報があり、当然注意を要する問題だ、と。
つうか、何の権限があって京城に来るんだよ。(笑)

で、清国兵が入京するかしないかは、日本兵の進退にも大いに関係する事から、大鳥は着任した翌日に袁世凱を訪問した時、及び13日に袁世凱が答礼の訪問をした際に、その件について懇談。
その際大鳥に対して、日清の兵力が朝鮮でまたまた面倒を起こすのを恐れ、なるべく衝突を予防したいと談話があった、と。
壬午軍乱に甲申事変ね。

ってことで、別紙がその会談の筆記ということになります。

じゃあ、別紙の方を。
まずは、6月12日の会談について『別紙甲号』から。
長いので、いつものようにキリの良いところで分割しながら。

6月12日大鳥公使袁世凱氏応対筆記

大鳥公使再度の挨拶あり。
袁氏又別後の起居に付問答雑談。
暫時にして袁氏容を改めて云く

袁氏
今般貴側より汽船14艘に兵員8,000を乗せ当国へ派遣せらるるとの説を聞けり。
果して事実に候哉。

公使
否。
本公使此度入京に付、公使館護衛の為め陸兵一大隊、工兵一小隊を引率し来るべき筈の処、軍艦に搭じて来着したれば右陸兵間に合はず、因て已を得ず目下仁川滞泊の我各軍艦より水兵若干宛を卸し、合計400余名丈不取敢引率して入京せり。
尤も、前述陸軍到着せば、水兵と交代して入京すべき都合に有之候。
又、本国より尚渡来すべき分共合計千七、八百程なり。

袁氏
然らば右千七、八百の兵は悉く入京せしめらるるの御考に候哉。

公使
否。
我公使館護衛の為め、一大隊丈は是非入京せしむべく候得共、本使入京来京城の模様極めて平穏に有之候へば、先づ後着の分は入京せしめざる考へなり。

袁氏
騎兵も来るとの由。
如何哉。

公使
然り。
此度は一旅団の兵を派遣せらるるに付、其組織中には騎兵あり砲兵あり。
大島陸軍少将之を統率せらる。

袁氏
是より貴我共に職分を離れ私交の談話を致度と存候が、貴公使に於ても御異存無之候哉。

公使
別に異存無之。
何にても御申聞けられたし。
袁世凱:「日本では汽船14隻に8,000人の兵を乗せて朝鮮に派遣するって話を聞いたけど、マジ?」

大鳥圭介:「ハハ、まさか。今回私の入京に当たって、公使館護衛のために陸兵1大隊と工兵1小隊を連れてくる予定だったんだけど間に合わなかったので、やむを得ず仁川にいた日本の軍艦から水兵を降ろし、合計400人を連れて入京したわけ。
尤も、間に合わなかった陸兵が到着すれば、連れてきた水兵と交代して入京する予定。
これから日本本国から来る分と併せて、1,700~1,800人くらいじゃないかなぁ。」

袁世凱:「じゃあ、その1,700~1,800人を京城に入れるつもりなわけ?」

大鳥圭介:「いやいや、公使館護衛に一大隊だけは是非入京させようと思ってるけど、私が入京してからこっち、京城の様子も極めて平穏なので、後から着いた分は入京させないつもり。」

袁世凱:「騎兵も来るって聞いたけど、マジ?」

大鳥圭介:「マジ、マジ。
今回は一旅団を派遣するんで、その組織中には騎兵や砲兵もあるし。
大島陸軍少将が統率すんだよ。」

袁世凱:「ここからはさぁ、お互いに職務を離れて、私人として話したいんだけど良いかな?」

大鳥圭介:「もち。
何でも言って。」

ってことで、ここからは政府の代表者対政府の代表者じゃなく、私人と私人の立場での会話ってことになります。
じゃあ続き。

袁氏
過日俄公使ウエーバー氏仁川より出発之際、同国書記官ゲールベーグ氏に命じ余に問はしめて曰く、此度貴国出兵の儀は特に貴国より発議せられたるか、又は朝鮮政府の依託に依り出兵せらるるかと。
余曰く、勿論当国政府の依託に応じて出兵する事となれり。
彼曰く、然らば我国も、当国政府の依頼あらんには亦出兵する事なきにもあらざるべしと。
就ては、今般貴国政府が出兵に付ては、何か他の理由あって此に到りしや承はる事を得べきや。
袁世凱が言うには、この前、ロシア公使のウェベルが仁川から出発するとき、ロシアの書記官ゲールベーグに命じて照会させた事がある。
内容は、今回の清国の出兵は、清国から発議したのか朝鮮政府からの依頼によるのか、と。
そこで袁世凱は、勿論朝鮮政府の依頼で出兵したよと返事。

あーあ。
3月16日のエントリーで折角申正熙が「清国皇上之を聞くの後、赫然として大に怒り、之を命送せしめたるなり。」って嘘吐いたのに、あっさりバレちゃったじゃない。(笑)

これに対してゲールベーグは、それじゃあロシアも、朝鮮政府の依頼があれば出兵することもあるかもね、と。
ロシアはロシアで恐ぇ。(笑)
つうか、「隣国の厚誼で出兵」という朝鮮政府の言い訳の方が、ロシアの勝手で出兵できる分、「朝鮮政府からの依頼で出兵」よりもマズイ気がするんだけど、気のせいかなぁ・・・。
ああ、でも「隣国の厚誼で出兵」の場合、朝鮮が拒否しようと思えば、押しつけは出来ないのか。
難しいなぁ。

ということで、今回日本政府の出兵については、何か他の理由があって朝鮮に来たのか、伺う事はできますか?と。
ロシアの話と繋がって無い気が・・・。(笑)


ってことで、ちょっと長くなってきたので、史料途中ですが、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)  東学党の乱(九十二)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)  東学党の乱(九十三)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)  東学党の乱(九十四)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)   東学党の乱(七十五)


東学党の乱(九十四)

テーマ:

んー、連載100回が見えてきた・・・。
( ´H`)y-~~ プハー
オラ知らね。

ってことで、あまり気にすること無く先に進みましょう。(笑)
まず今日は、官軍が全州を奪還したという話について、大鳥公使の1894年(明治27年)6月13日付文書より。

敬覆者昨展台■承悉両湖招討使已於貴暦初八日巳時克復完城等情本公使深爲抃頌想叢爾賊匪一體掃清之日企而可待也爲此函覆貴督辨所伸歓抃同情肅此專佈順頌刻安
昨日趙秉稷の書翰を受け、招討使が朝鮮暦8日(陽暦6月11日)に全州城を奪還した事が分かった。
本公使は、深くお祝いを申し上げる。
そして、匪賊を一掃する日を待ってる、と。

ところで、文頭話に出てくる「昨日の書翰」、まだ取り上げて無かった・・・。
いや、ポッカリ抜けてたみたい。(笑)
ってことで順番逆になりますが、全州奪還の通報に関して、趙秉稷からの1894年(明治27年)6月12日付文書から。

敬啓者曩以南道教匪囿守全城気勢日促断無意外之慮一事業経函告在案現接両湖招討使洪電稟内開初八日巳時已復完城掃清賊匪等語前来據此適聞之下不勝忻忭惟念我両国和好敦睦誼共休戚諒貴公使同深喜幸爲特函佈尚望貴公使照亮可也專此并頌夏安
要するに、洪啓薫からの電報によれば、8日(陽暦6月11日)に全州城を回復して匪賊を掃討したという言葉があった、と。
しつこいけど、全州和約の締結日って6月10日とされてるよねぇ。(笑)

ってことで、朝鮮政府から全州城を奪還して匪賊を掃討したという連絡を受け、大鳥がおめ、という流れですね。

じゃあ次の史料。
次も大鳥公使からのものになります。
1894年(明治27年)6月13日付『第48号』より。

逕啓者所有我国拱衛使館陸兵八百名由仁進京一事昨已佈函知照在案現於本日六点鍾業已到館至在京海兵亦一律出京回仁矣惟因我国商民房屋不敷投宿隨時或在本署左近擇地支棚露宿即希貴督辨諒照可也耑此佈聞順頌日祉
日本公使館護衛のために、陸兵800人が仁川から京城にくるのは昨日已に知らせたが、本日公使館に到着し海兵は京城を出て仁川に帰った。
ただ、日本商民の家に泊まることが出来ないため、随時日本公使館の近くに野営する予定なのでよろしく、と。

元々大鳥公使は水兵300人と共に入京したわけですが、陸兵800人が入京したので、先に入京した水兵300人は仁川へ帰したよ、って事ですな。
で、800人を収容する施設が無いために、公使館近くに野営させるよ、と。

続いて、趙秉稷からの照会。
1894年(明治27年)6月13日付『照会第13号』より。

大朝鮮督辨交渉通商事務趙爲
照会事照得此次貴国陸兵八百名由仁向京来代海兵以致都下驚擾一事昨経函復請亟并行撤回在案迺貴公使迄無決止自不得不再爲煩涜惟査全州匪徒前已掃除目下我京本甚安堵因貴兵迭次替進数又過倍従以人心大騷風鶴皆警各国客民尤多謠疑此等情形実有岌々可危之慮想貴公使已可亮及似不待本督辨之贅陳也尚望貴公使立即電詳貴政府亟将来兵従速撤還寔為両国國之大幸倘貴政府顧全時局誼存隣好自無不允従也相応備文照会請煩貴公使査照施行可也須至照会者
右照会
今回日本の陸兵800人が仁川から京城に入り、海兵と交替する事で京城では騒々しいということで、昨日書翰で早期撤収を懇請したけど、公使の決定がまだなされてないので、やむを得ずもう一回言っておくね。
全州の匪徒はもう掃討され、現在の京城も前から安定してたのに、日本兵が交代して数も増えたから、人心が大きく騒がされ、風の音や鶴の声にも皆警戒する有様で、各国の人は尚更懐疑を抱いている、と。
このような危うい情勢は大鳥公使も御存知の事を思う。
従って、大鳥公使は直ちに本国政府に詳細を電信し、早く撤兵させてくれ、と。

日本は国際的に孤立しているニダ。(笑)

次の史料から、14日の史料に移ります。
まずは大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月14日付『機密第93号』から。

当国全羅道民擾鎮定の為め、清国より応援として2,100名(能勢領事の報告によれば、内1,000名は8日、残り1,100名は9日及び10日の両度にて牙山に来着したりと)の兵丁を当国に派遣致候に付、我国よりも公使館護衛の為め歩兵一大隊派遣相成り、前日本官携帯入京致候海兵と、昨日交代致候儀は早速貴大臣外緊密に公館へ電報致し、且つ外務督辨へも前以て通知及置候処、別紙甲乙両号の通り我政府に電報して速に兵卒撤還候様可致旨照会有之候。
右は、前便機密信にて追々申進候通り、15年の條約に従ひ護衛兵を設置するの都合なるを以て、同督辨依頼の義は本官取計難き旨回答可致積に有之候。
然るに右出兵の義は、兼て預期致候通り当地人心の騷擾を来し、中には竊に京外に移転する者も有之やに承り候処、昨日午後6時、恰も我兵着館したるとき俄臨時代理公使来館。
「現に見る処によれば、兼て聞及候通り貴国兵丁数百来着したるが、右は抑も如何なる目的にて渡来したる都合なるや。
本官が過日杉村臨時代理公使より聞く処によれば、貴公館護衛の為めなりとの事なれども、閣下の見らるる通り当地更に危険の情形なく、現に外務督辨の来翰によれば、賊徒は敗走して官軍全州に入りたる趣なれば、事実夥多の兵卒を引入るる必要なしと信ず。
好し多少の危険ありとするも、公館護衛の為めには朝鮮兵数十名差遣すべき旨督辨には申し居られ、又猶是れにても足らずば海兵を上陸せしめても充分なるに、今更陸兵を入京せしむるに至りては、何となく穏かならざる模様に見受けられ候が、詳細の説明承り度し」と申候に付、本官は之に対し、目下の処にては左迄の要用あるまじけれども、不意の出来事に対しては相当の準備なかるべからず。
又、朝鮮政府が必要の際護衛兵を各館に派遣し呉るるは、別に我国が條約により得たる権利に関係あるにあらざれば、是れを以て我兵の入京を拒むの理由となすに足らず。
要するに、兵を出すと否らざると及び其数を定むるは、我権内に存することにして、或は他国より傍観して兵数過多なりとの懸念を起す事あるも、我政府に於ては公館護衛の外他に意あるにあらざれば、此儀は充分記憶相成りたしと確答候処、同官も是に満足して帰館致候。
又本日も、独副領事は同領事の命により来館。
松井書記官迄右同様の問答有之候に付、同書記官に於て同じく右の通り挨拶致置き候。
右申進候也。
東学党の乱鎮圧のため、清国から2,100人が出兵。
日本からも公使館護衛のために歩兵一大隊を派遣し、前の日に大鳥公使と入京した海兵を入れ替えた件は、早速陸奥外務大臣と各国の公使館、朝鮮外務督弁の趙秉稷にも通知。

次の「別紙甲・乙号」は見つけられていないですが、恐らく先ほどの1894年(明治27年)6月13日付『照会第13号』と、その文中にあった「昨経函復請亟并行撤回在案」の話だと思われ、朝鮮政府では日本政府に電報して速やかに撤兵してくれと照会があった、と。

これに対して大鳥は、済物浦条約に従って護衛兵を設置してるんで、趙秉稷の話は取りはからえないよ、と回答する積もりだ、と。
しかし、日本の出兵の話は前々から予期されていた通り、京城の人心を騒がせ、中には密かに京城の外に引っ越す者もあると聞いているような時に、ロシアの臨時代理公使が日本公使館へ来る。

で、その話の内容。
「今、私が見るところでは、前から聞いていた通り日本兵数百人が到着したけども、これはどういう目的で来韓したの?
僕が杉村臨時代理公使から聞いてた話では、日本公使館の護衛のためだって事だったけど、大鳥公使も分かってる通り京城では危険な情勢も無く、現に趙秉稷の書翰では、賊徒は敗走して官軍が全州奪還したって言うじゃない。
多すぎる兵を引き入れる必要が無いと思うんだけど。
もし多少危険な事があっても、公使館護衛には朝鮮兵数十名を派遣するって督弁も言ってるし、これで足りなきゃ海兵を上陸させても良いのに、今更陸兵を入京させるって何となく不穏な状況に思うんだけど、詳細説明してくれないか。」と。

これに対して大鳥は、今んとこ、これ程までの必要は無いんだけど、不意の出来事に対しては相当の準備無きゃ駄目っしょ?
また、朝鮮政府が公使館護衛のために朝鮮兵を派遣してくれるのは、別に日本が条約で得た権利と関係無く、そのことで日本兵の入京を拒否する理由には出来ないでしょ?
要するにさ、出兵するかしないか、何人出兵するかってのは日本の権限に属する話で、もしかすれば他国から見て多すぎるとか懸念するかも知れないけど、日本政府では公使館護衛の外に他意は無いので、これは充分覚えておいて欲しいと確答すると、ロシアの臨時大地公使も満足して帰ってった、と。

今日もドイツの副領事が来て、松井書記官に同様の問答があったので、松井書記官から同様に挨拶しといた、と。

ま、この時点ではロシアとドイツは、普通に帰ってった見たいですな。


今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)  東学党の乱(九十二)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)  東学党の乱(九十三)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)   東学党の乱(七十五)


東学党の乱(九十三)

テーマ:

前回、牙山への清国兵力の増強の様子もさることながら、龍山への武器輸送の話や水原に変装した東学党が出た話なんかを見ると、到底京城が平穏とは言えないよなぁ、と思ったり。

ってことで、今日も1894年(明治27年)6月13日発『京第33号』の続きを見ていきましょう。
では早速。

一.当港碇泊の清国軍艦より水兵30余名を搭載し、6月6日牙山に向へたる朝鮮利運社汽船慶済号は、6月10日午后6時帰港し、清兵の食料品購載の上再び同地へ廻航する筈なりしに、同夜慶利号にて龍山より積来れる小銃400挺、至急郡山へ廻送すべしとの命令ありて、翌11日郡山へ向け発航せり。
仁川港に停泊中の清国軍艦から、約30人の水兵を乗せて6月6日に牙山へ向かった慶済号は、6月10日に仁川へ帰港。
清国兵の食料品を積んで再び牙山へ向かう筈だったけど、その日の夜に龍山から慶利号で運ばれてきた小銃400挺を至急群山へ持ってけという命令があり、6月11日に群山に向けて出港した、と。

つうか、龍山って清国の物資集積地になってんのか?

一.利運社汽船蒼龍号は、平壌兵300を載せ(将官は京城人韓奎東なる者なりと)6月11日午前入港し平壌より便載し来れる韓銭其他貨物の陸揚を完り、直ちに郡山に向て進発の都合なる由なりしが、同夜京城の来電に依り俄かに途を転じて、翌12日午前6時、陸路京城へ向て進発せり。
又、蒼龍号にて積来れる什器及食料品を韓船に移し、京城へ輸送する事となれりと。
而して蒼龍号は、貢米積取の為め同日午後郡山木浦へ向け出発せり。
蒼龍号は、韓奎東を将とする平壌兵300を載せ、6月11日に仁川へ入港。
一緒に平壌から積んできた韓銭等の貨物を陸揚げし、直ぐに群山に向けて出発の予定だったけど、
一.6月12日、牙山を発し帰港せるものの報ずる所に拠れば、目下同地には清艦1隻碇泊せり(超勇ならんか)。
支那兵は図南にて来着せるもの凡1,000人。
海晏にて来着せるもの凡500人は既に上陸したり。
而して、海定にて来着せる500人は、本日(6月12日)上陸の都合なり。
又、右陸兵2,000人の内2、300名は、牙山より凡そ1里の本街道に操出したりと云。
昨夜11日夜、支那兵500計り牙山邑を距る1里なる海岸の山上に野営せり。
又、牙山海岸には支那米200苞、弾薬500発入34箱積置けるを見受けたり云々。
6月12日に牙山から仁川へ帰ってきた者の話。
現在牙山には、清国の船が1隻停泊中。

牙山に図南号で来た清国兵約1,000人と、海晏号で来た約500人は既に上陸済み。
んで、海定号で来た500人は6月12日上陸予定、と。

それら合計約2,000人の清国兵のうち、2~300名は牙山からおよそ1里の本街道へ出動。
11日夜に入って、清国兵500人程度が牙山からおよそ1里の海岸にある山に野営。
牙山海岸には、米200苞と弾薬500発入りの箱34個を見受けた、と。

んー、牙山の清国の動き、もう少し詳しくしりたいなぁ・・・。

一.6月12日、清国理事府より艀船50隻全羅道へ回漕すべき旨伝令あり。
監理署員に於て種々手を盡したれども、船主等右の由を聞て遁逃せるもの多く、数の如く揃はず。
午後に至り、僅かに20艘差押へたり。
30隻差押へ次第清国水兵を積入れ、軍艦之を引帯して郡山に赴き、同地より陸路全州へ進行せしむる都合なりと。
一説には、支那理事府にて毎艘1日1円25銭づつにて、已に25隻を雇切りたり。
30隻に満つるを待ち、直に飛虎号をして之を引かしめ、郡山へ出発すべしと。
監理署員云々ってことは、仁川の監理署に対して、6月12日に清国理事府から艀船50隻を全羅道に持ってってくれと伝令があったって事でしょうね。
で、仁川監理署の署員が八方手を尽くしたけど、船主達は全羅道に持ってく話を聞いて逃げ出す者が多く、数が揃わない。

午後になってようやく20隻の差し押さえに成功。
30隻を差し押さえた時点で清国兵を乗せ、軍艦が引っ張って群山へ行き、そこから陸路で全州へ向かわせる予定、と。
一説には、清国理事府では各船毎に1日1円25銭で雇い、既に25隻を集め、同様に30隻になった時点で飛虎号に牽引させて、群山に出発するだろう、と。

群山港の測量をまだやって無かったのか、やった結果水深が浅すぎだったのか。
兎も角、群山港には大型船は接岸できなかったんですね。

一.同13日、牙山より帰来せる日本人の説によれば、本日入港の支那船より兵士1,000人と馬150頭来着云々(朝鮮人の説)。
鶏牛は無代価を以て百姓より取上げ、地方官は之を清兵へ供給すと云。
東学徒500人を殺し、又其首領したるもの2人(10余歳)を殺したるに付、安堵せよと地方官より伝令をなせりと云。
又、支那兵荷物運搬用に充つる為め韓船を差押ゆるときも、前同様の伝令文を携帯し廻はれり云々。
右及報告候也。
これが1894年(明治27年)6月13日発『京第33号』の最後。

6月13日に牙山から帰ってきた日本人の話。
今日入港の清国船から兵士1,000人と馬150頭が到着した。
尤もこれは、朝鮮人の言ってた話。

2月18日のエントリー辺りでも、当該地方で牛馬等の徴収が行われていましたが、やっぱりタダだったようで・・・。
それを清兵へ供給。
酷くね?(笑)
そりゃ、「罪なき者に向て猥りに出銭など命ずる故、東学党も起るなり」何て愚痴るわな。

次の2名(10歳余)って事は、例の3月12日のエントリーの報告にあった、金順明と李福龍の事だろうね。
その2名を殺し、東学党500名を殺したので安堵しろと、地方官から伝令があった、と。

しつこいようだけど、全州和約って本当に結ばれたのか?と。(笑)

で、清国兵の荷物を運搬するために韓国の船を差し押さえる時も、前同様の伝令文を携帯して回っているという、と。
やっぱり牙山地方の住人も、良い迷惑だよなぁ。(笑)


1894年(明治27年)6月13日発『京第33号』も終わったところで、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)  東学党の乱(九十二)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)   東学党の乱(七十五)


東学党の乱(九十二)

テーマ:

サカつく11年目は、アジアチャンピオンズリーグで優勝するも、ワールドチャンピオンズカップでは、1回戦でまたもチェルシーに負け。
ただ、点差は1対2だったので、確実に詰まってはおります。
J1は6連覇。
俺ツヨス。
その他、ニューイヤーズカップ優勝にJリーグカップ準優勝。
そろそろ世代交代が気になる年代であったりします。

さて。
今日は、仁川の能勢辰五郎領事から特命全権公使大鳥圭介への、1894年(明治27年)6月13日発『京第33号』から。
長いので、分割して見ていきます。

暴民実況及び清韓兵動静偵察彙報

一.6月4日郡山を発し、同7日帰任せる朝鮮人所持帆船順回丸及順初丸乗組員の談話なりと言ふを聞くに、郡山に於ては近日東徒来襲の説盛にして、官民共に狼狽し、特に官吏の如きは既に悉く海龍号に乗込みたり。
又た、曩きに漢陽号被劫の際、東徒に捕獲せられ纔かに一命を以て逃がれ帰りたる郡山人金某は、是迄順回丸に潜伏し居りしが、今回同船帰仁するに付是亦海龍号へ乗込ましめたり。
然るに郡山に於ては、東徒蒸汽船を奪はんとすとの噂あり。
之れが為め、海龍号は碇を移して沖合に停泊せりと。
順回丸及び順初丸の談話と称する話。
群山では最近東学の徒が来襲するという説が盛んで、これに官民共に狼狽し、官吏なんかは既に残らず海龍号に乗り込んでる、と。
逃亡準備ですな。(笑)

で、先日漢陽号が襲われた時に東学党に捕獲され、辛うじて逃げ帰った金某。
1月20日のエントリー等で度々話題にしてきた、仁川転運局郎中の金容徳の事でしょうね。
彼はこれまで順回丸に潜伏していたが、今回順回丸が仁川に帰る事になったので、彼も海龍号に乗せた、と。
しかし、群山では東学の徒が蒸気船を奪おうとしているという噂があり、海龍号は群山沖まで出て停泊中。

・・・つうか、あれか?
官吏や金容徳の乗った海龍丸って、どっか別の港とかに避難するんじゃなくて港に停泊してるだけで、今は東学が蒸気船狙ってる話を聞いて、群山沖でプカプカ浮いてるだけか?
なんじゃそりゃ。(笑)

一.6月6日忠清道忠州を発し、同9日仁川へ帰着せる朝鮮人の言ふところに拠れば、東徒は同地近傍到処五七隊を成し潜行する由なれども、別に異なりたる挙動もなく、只地方の富家に向て財資の義捐を求むるの風あり云々。
忠州から仁川に帰ってきた朝鮮人の談話。
東学の徒は、忠州付近の至る所で分散して潜行しているそうだけど、別に普段と変わった挙動もなく、ただ地方の富豪のところへ行って義捐金を求める雰囲気がある、と。
これ見て、抗日義兵がやってた「義捐金要求とその使途」を、つい思い出してしまうのは悪い癖だなぁ・・・。(笑)

一.6月9日、芝罘より入港の清国兵船操江号にて積載し来れる兵器は、左の如くなりと。

一.背槍皮帯(一千根)壹個
一.皮腰帯(一千根) 1個
一.腰帯銅釦(一千根) 1個
一.刀頭皮挿(一千根) 1個
一.装子皮盒(一千入) 4個
一.独逸国槍砲(千桿入) 42個
一.刀頭(千把入) 4個
一.毛瑟槍子(十萬粒入) 100箱
右は、同夜中龍山へ向け小蒸気船を以て輸送せり。
流石に積んで来たという兵器の固有名詞までは、色々ひっくり返さないと何の事だかサッパリなので、分かる人のコメントに期待。(笑)
兎も角、6月9日に芝罘から操江号で積んで来た兵器は上記のとおりで、これはその日の内に龍山に輸送された、と。
つうか、京城付近は平穏じゃないのかよ。
何で龍山に兵器運んでんだよ。(笑)

一.6月10日午後、江華島より弾薬22箱朝鮮船に搭載し、韓兵1名之を押送して本港へ来着。
直ちに監理署へ送り去りしが、翌11日午前、永泰号船に搭載し清国官吏(去9日下仁せるもの)同乗。
龍山へ向け輸送せり。
6月10日、江華島から韓国兵1名が弾薬22箱を輸送して仁川へ。
直ぐに監理署へ持って行ったけど、11日の午前に永泰号に乗せて、6月9日に仁川に来ていた清国官吏が同乗して、これまた龍山へ輸送。
いや、だから何故龍山に。(笑)

一.6月11日午前、牙山より入港したる漢陽号乗組員の言に拠れば、同月8日清国招商局汽船図南号にて清兵1,000人を搭載し、牙山へ着港。
直ちに上陸せり。
翌9日、海晏号にて更に500人許り。
10日午後、海定号にて600人許り来着したれども、11日漢陽号が同地を解纜する迄は、該2隻の清兵は上陸せざりし。
又清国軍艦平遠号は、9日午後牙山を出発し、嗣で10日夜清国軍艦の超勇号入港せり。
又た、前記海定号には、赤地に「葉」の一字を記したる大旗を掲げ居れり云々。
6月11日に牙山から仁川入りした、漢陽号の乗組員の話。
6月8日に清国招商局汽船図南号で清兵1,000人が牙山に到着し、直ちに上陸。
これは、2月27日のエントリーでも日本の砲艦筑紫の水兵から、同様の報告がありましたね。

更に、9日には海晏号で約500人、10日には海定号で約600人が牙山に到着するも、11日に漢陽号が出港するまではそれらの兵は上陸しなかった、と。

んで、清国軍艦平遠号は9日に牙山出発。
10日に清国軍艦超勇号が牙山に入港。
また、600人を連れてきた海定号には、赤字に「葉」、つまり葉志超の旗が掲げられていた、と。

一.東学党5、6名、服装を変じて水原府に出没す。
東学党5~6名が、変装して水原に出没。
つうか、京城に近づいてるんですが・・・。

一.某韓人の伝説に拠れば、忠清某府々使(地名を諱て話さず)近来大に政治の改革を主張せるを以て、政府の嫌疑を受けたるものと見へ、政府は密かに人を遣はし其形跡を探索し、時機に依りては逮捕するやの噂あり。
該府使は、数年間日本に遊学し其政事を欽慕するが故、或は東徒に加担せるにあらざるやの疑あるに因れるなりと。
某韓国人の話。
忠清道の某府使は、最近大に政治改革を主張しているため政府の嫌疑を受けたようで、政府は密かに人を送って内偵させ、機会があれば逮捕するだろうとの噂がある。
で、その府使は数年間日本に留学した事があり、その政治を敬い慕っているため、あるいは東学党に加担しているのではないかという疑いによる、と。

いや、政治改革しちゃ駄目なんか、と。
つうか、何故日本に留学して日本の政治を敬慕すると、東学党に加担している疑いがかかるのか、サッパリ分からないんですが。(笑)


史料途中ですが、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)   東学党の乱(七十五)


東学党の乱(九十一)

テーマ:

今日も前置き無しで。
ようやく、アジ歴の英文史料地獄から一旦抜け出せます。(笑)
釜山の室田総領事から杉村臨時代理公使宛ての、1894年(明治27年)6月13日発『京第36号』から。

東学党の近況探聞記、為御参考通知候也。

追而
右探聞記は朝鮮人の手に成りしものに付、原書は漢文なりしを和訳したる者に有之候。
東学党の近況について、朝鮮人が書いた探聞記を入手したので、和訳して参考までに通知するね、と。
つうか、室田の送ってくるもんって、どうしてこう出自が怪しいものばっかりなんだろう?(笑)

じゃあ、続き。

東莱咸陽間沿途探聞記

4月28日、東莱を発し金海に宿し、29日昌原に到着す。
沿途風説頻りに起るも、確信すべきものなし。
同日鎮海に宿し、翌30日晋州に向ふ。
該営将民兵千余を募り、以て不虞に備ふ。
東徒白道弘を徳裕(智異山と標界の城)に捕へ、直に梟首し、余徒数十名は獄に繋ぎしを以て暫時鎮定す。
同処の牧使は時疫に罹りて死し、目下治喪中なり。

5月1日晋州を発し山清に宿し、2日咸陽に着す。
同地以西通路阻絶せりとの事なるを以て、尚ほ其模様を探聞せしに、全羅道雲峰と接界の処に於て、東徒は厳に通行人を看守し、一々取糺の後放送すとのことなるを以て、遂に進行することを得ず。
依て、雲峰地方より来るところの人に就き探聞せしに、3月17日全羅道古阜に民乱起り、東徒釁に乗じて乱を作し、古阜の居人全菉荳なるもの首となりて全州に向へりと。
新任全羅監司は、単車にて界に到り、南固山城に滞在して交代せんとす。
其日は即ち4月27日なり。
東徒数千は、猝かに監営の西門に入り、先づ軍器を取りて城中に占拠し、其勢強大にして抵敵すべからず。
前監司は、南門を開て出て、南固山城に於て新監司と交代し、後京城に向へりと云ふ。
3日、4日探報の為め滞在し、5日に発程して7日に晋州に着せしに、別に騷擾の模様なし。
9日帰着す。
今回経過せし嶺南の各地方は凡て平安にして、到る処麦挿秧の景を見ざるはなし。
慶尚道の東莱→金海→昌原→鎮海→晋州→咸陽→晋州を回った朝鮮人の話。
つうか、忠清道にも全羅道にも行って無ぇじゃん。(笑)

取りあえず道中は色々な噂があったけど、確信できるものは無かった。
晋州では、募兵を行って不虞の事態に備えており、東学党の白道弘を徳裕で捕縛してさらし首に。
他の賊徒も投獄して、当該地方の民乱は鎮定した、と。

咸陽は現在の全羅北道と隣接している場所にあるわけですが、そこから全羅北道方面は東学党が厳しく通行人を監視し、一々取り調べてから解放するってことなので、全羅北道方面に行くのを断念。
で、その丁度境にある全羅道雲峰から来た人に話を聞くと、古阜民乱が起きて東学党がそれに乗じて乱を起こし、古阜の住人全菉荳という者がボスになって全州に向かった、と。

この「全菉荳」って、もしかして「全緑豆」即ち「全琫準」の事かな?
つうか、3月14日のエントリーで死んでた「全祿斗」も、もしかして読みが同じだったりして。
まぁ分からんけど。

全州を襲った全菉荳等の一団は、監営の西門から侵入し、武器を取って城中を占拠。
前全羅監司の金文鉉は南門から逃げて、南固山城で新任の監司と交代して京城に向かった、と。
いや、1月26日のエントリーでは徒歩で山寺に行ったり本営に行ったりしてると思ったんですが。( ´H`)y-~~

ってことで帰って来たけど、今回通り過ぎた地方は概ね平穏で、麦の植え付けの風景を見ないところは無かった、と。

んー、この報告した朝鮮人って、何者だったんだろう?

続いて、もう一丁釜山総領事室田から杉村臨時代理公使への、1894年(明治27年)6月13日発『京第36号』。

慶尚道内東学党景況探聞報告

慶尚道内東学党の事に就き此程探聞する所に拠れば、客月中旬の頃当道内金山、知礼、居昌の3地に於ては不穏の萌ありしを以て、東学党の嫌疑により大邱に引致せられたるもの20余名ありしに、内3名は東学党の隠語を衣中に蔵匿せしを以て、目下大邱に於て厳訊中なりと云ふ。
右隠語と云ふは、「爲天柱造化定永世不忘萬古知」の13字にして、兼て東学党の巨魁と称せられたる全羅道光陽の李某なるものの作語なりと云ふ。
慶尚道内に於ても、忠清・全羅両道に接近せる各地方に於ては東学党類多くして、殊に善山、尚州、幽谷等の各地は、平素同党の巣窟とも称せられ、今回忠清道の擾乱に就ても同党応援の為め、尚州辺より同地に赴きたるもの少からずと云ふ。
右各地方の人民は、東学党に対しては何れも暗に敬意を表し、東学党を目して東学君或は東学人と称し、党とは云はざる由。
而して、其云ふ所を聞くに、何れも閔家の専横を憤り、地方の弊政を嘆ずるにあらざるはなしと云ふ。

目下大邱に於ても頗る戒厳を加へ、男子の夜行を禁じ、監営所属の兵士は日々操練をなし、4、5年前当港在留本邦商人の手を経て東京大倉組より購入したる600挺の小銃を以て、30間許りの距離に1間四方位なる的を立て、初日に於て之に命中せし兵士1名を直に登用して先達の官を授け、大に他の兵士を奨励したりと云ふ。
右小銃中火門の錆蝕して発火せざるものをば、火縄銃に改造したるも少からずと云ふ。
又漆谷地方に於ては、近来一種の浮説行はれて大恐慌を来せり。
今其故を聞くに、朝鮮は早晩露国の占領する所となるが故に、人民如何に労働するも其甲斐なしとて、失望落胆の余り全村挙て少しも労働するものなしと云ふ。
又、客月中晋州地方に於ても、近郷各地の東学党蜂起して頗る不穏の状ありしも、日ならずして鎮定し、巨魁白道弘始め30余名の党類縛に就き、其後無事なりとの事なり。
又、当道馬山浦に於ても、先日来東学党蜂起せりとの風説ありしかども、同地方のは東学党にあらずして、農民の小紛擾を起せしに過ぎずして、目下已に鎮定に帰せり。
右及報告候也。
慶尚道地方では、5月中旬頃に金山・知礼・居昌の3ヶ所で不穏の萌芽が見られたので、東学党の嫌疑によって20余名が大邱に連行。
そのうち3名が東学党の「爲天柱造化定永世不忘萬古知」という隠語を懐中に持っていたため、現在厳しく尋問中。

で、忠清道と全羅道がメインとされている東学党の乱ですが、慶尚道でも忠清道と全羅道に隣接する地方では東学党の類の者も多く、善山、尚州、幽谷等は普段から東学党の巣窟と呼ばれ、今の忠清道での騒乱にも尚州辺りから忠清道へ向かった者も多いという、と。
それらの隣接地方では東学党に対して暗に敬意を表し、東学党とは呼ばずに東学君とか東学人等と呼んでおり、結局閔一族の専横と地方の弊政に対する怒りが、根底で共通していると言う、と。
閔族、嫌われてますねぇ。(笑)

現在大邱でも厳戒態勢で、男子が夜間出歩く事を禁止し、大邱の監営に所属している平氏は日々訓練。
4~5年前に釜山に居た日本人商人の手を経て、東京の大倉組から買った600挺の小銃で、約50mほど離れた所に180cm四方の的を立てて、初日に命中させた兵士1名を登用し、官職を授けて他の兵士にも大いに奨励した、と。

この東京の大倉組って、現代の大成建設で、大倉喜八郎が創業者なヤツかな?
余談だけど、大倉喜八郎って言えば、明治維新の際に津軽藩にも鉄砲運んでたなぁ・・・。
まぁ、色々と面白い逸話のある人らしいですが、そんな史料漁ってたら完全に脱線してしまうので・・・。
つうか、大邱の方が中央政府よりもやってる事まともなんですが。(笑)

で、火門が錆びて発火しない小銃を、火縄銃に改造したのも少なくない、と。
折角買ったんだから、手入れしろよ。(笑)

また、漆谷地方では最近ある噂が蔓延り、大恐慌となった。
その訳を聞くと、朝鮮は早晩ロシアに占領されるからどんだけ働いても無駄だと失望落胆して、働く者が居なくなった、と。

どんな村やねん。
つうか、諦めるの早っ!(笑)


そう言えば、合邦運動の連載の頃も似たように早々に諦めてた話があったなぁ・・・。


ってとこで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四) 東学党の乱(六十九)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)
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東学党の乱(九十)

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一言だけ愚痴を。

飽きた!( `H´)y-~~

ってことで、逆にサカつくが面白くて。
まぁ、史料読みながらやってるんですがね。(笑)
ながらプレイが出来るのは、サカつくの良いところ。
10年目の成績は、J1五連覇、Jリーグカップ連覇、ニューイヤーズカップ返り咲きを果たし、三冠達成。
しかし、アジアチャンピオンズリーグの準優勝で仁川FCに負けてみたり・・・。
韓国チームに負けてんじゃねー!!!(笑)

さて、史料の方も頑張りたいと思います。
今日から史料は、6月13日のものに移っていきます。
アジア歴史資料センター『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/3 明治27年6月7日から明治27年6月15日(レファレンスコード:B03030204900)』から、大島(?)から陸奥への1894年(明治27年)6月13日発『電受第238号』。

Mutsu
Tokio

Troops brought by Wakanoura 丸 will probably arrive here noon 六月十三日 to replace marines who left this morning.
It is of the utmost importance at this moment not to land so many troops.
Consult 参謀本部 to instruct 大島 to land the least possible troops and to stop them at 仁川.
Wakanoura 丸って何よと思ってたら、きままに歴史資料集さんのとこの「明治開化期の日本と朝鮮(22)」で取り上げられていた『在韓苦心録』を見るに、和歌浦丸のようですね。

和歌浦丸に乗って来た兵は、今朝出発した海兵に代わり、6月13日にここに到着するだろう。
この際重要なのは、多くの兵を上陸させないことが、極めて重要だ、と。
従って、出来るだけ最小限に兵を上陸させ、仁川に駐屯させるよう大島に訓令する事を、参謀本部と協議して欲しい。

続いて、今度は陸奥から大鳥へ。
1894年(明治27年)6月13日発『電送第190号』。

Otori
Seoul

Instructions have been sent to 大島 by 参謀本部 for camping his troops at 仁川 according to your desire.
What is the reason that induced you to ask for preventing entry of troops at 京城.
You remember that from the beginning, more or less alarm on the fact of China and Corea was fully expected.
Now it troops under 大島 will remain long at 仁川 they would probably lose opportunity to enter 京城 and if they should finally return therefrom without doing anything or going anywhere, it would be very awkward and impolitic.
If there is not any serious objection is it not better to let the above troops enter 京城 without unnecessary delay.
Report the reason and opinion by telegraph.

Mutsu
貴下の要望により、参謀本部は大島に仁川で軍を野営させるよう指示が送られた。
貴下が、軍を京城に入れる事を阻むように要請させた理由は何か。
最初から、多かれ少なかれ清国と朝鮮の警告があるというのは、完全に予想済みだった事を思い出して欲しい、かな?
今、もし大島旗下の兵が仁川に長期間留まるような事になれば、恐らく京城に入る機会を失い、そして彼等が何もなすところなく帰国すれば、それは非常に無様で不得策なものとなるだろう。
もし、特に重大な異議が無いなら、上記の兵を不要な遅れなしに入京させるのが良いのではないだろうか。
理由と意見を電信で報告しなさい、と。

この点に関しては、大鳥より杉村の態度が正解だと思うんですよね。
公使館及び居留民の保護のための出兵であって、その出兵時期や人数等は、日本側に決定権があるというのが原則なわけですから。
それ以前に、清国も朝鮮も信用できねーし。(笑)
まぁ、余談。

次も陸奥から大鳥へのものになります。
1894年(明治27年)6月13日発『電送第194号』。

Otori
Seoul

It may be necessary to leave a small detachment of troops at 仁川, but it has been stated in my telegram of the morning 六月十三日, it is advisable to make entry of the main body of troops under 大島 into Seoul in spite of any small diplomatic complications that may arise.
If Chinese troops do not proceed farther than 牙山 you may offer to suppress the rebels with Japanese army as it is very desirable that the peace be restored as soon as possible.
In regard to future policy toward Corea, Japanese Government may be compelled to take some strong measure, about which I am in consultation with Count Ito.
仁川に少しの部隊を残す必要はあるかもしれないが、6月13日の朝の電報で述べたとおり、例え外交上多少の問題を生じさせても、兵の主力を京城に入れることが得策だ、と。
もし清国が牙山から先に進まないなら、なるべく早く平和を回復することが非常に望ましいため、貴下は日本軍と共に賊の鎮圧を申し入れても良い。
朝鮮に対する将来の方針については、日本政府は同様に強硬手段をとることがやむを得ないかもしれず、私は伊藤伯爵と協議中だ、と。

英文史料、ツマンネ ツマンネ ツマンネ ・・・。(笑)


ちょっと早めですが、今日はここまで。



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ようやく一周忌も終わり、これで以前のペースに戻れれば良いなぁ・・・。
つうか、逆に良く今まで月1くらいのお休みでやってきたなぁ。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの史料を見ていきましょう。
『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/3 明治27年6月7日から明治27年6月15日(レファレンスコード:B03030204900)』から、北京の小村から陸奥への1894年(明治27年)6月12日発『電受第230号』。

Mutsu
Tokio

Protest has been sent to 總理衙門 according to instructions.

Komura
Peking
指示に応じて、抗議を總理衙門に送った。
この抗議は、3月5日のエントリーの日本は未だ曾て朝鮮を清国の属邦と認めた事は無い云々の抗議でしょうね。

つうか、10日も経って史料1日分かよ・・・。_| ̄|○

続いて、陸奥から大鳥公使への1894年(明治27年)6月12日発『電送第189号』より。

Otori
Seoul

It is impossible to prevent landing of troops under Command of 大島; but they can be encamped at 仁川 until you apply for their entering 京城.
If this is agreeable to you; you will communicate to 大島 to that effect.
He will be instructed by 参謀本部 by telegraph to remain at 仁川 in case so desired by you.
I believe that you have no objection to entry into 京城 of troops under 一戸.

Mutsu
大島旗下の軍の上陸を阻むのは不可能だ、と。
しかし、貴下が入京に同意するまで仁川に駐屯させておくことはできる。
もし貴下が同意するなら、その旨大島と連絡とってね、と。
参謀本部では、大島に対して貴下が望むように仁川に留まるよう電報で支持するだろう。
私としては、貴下が一戸旗下の兵が入京する事には、異議がないと信じている、と。

淡々と次に。

恐らくは、先ほどの1894年(明治27年)6月12日発『電送第189号』への返信と思われます。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)6月12日発『電受第231号』。

Mutsu
Tokio

As I have telegraphed to you evening 六月十一日 the landing of too many troops may cause diplomatic complications it is desirable that all soldiers except those deemed necessary in my view should be sent back to 対馬 to await further instructions.
Hope you will consult 陸軍大臣 to instruct 大島 in the same sense.

Otori
6月11日夜に陸奥に電報したとおり、あまりに多い軍隊の上陸は外交的紛糾を引き起こすかもしれない。
私が必要だとみなす者以外の兵は、全て対馬に退却させて次の訓令を待つのが望ましい。
このような趣旨で大島に訓令してくれるよう、陸軍大臣と協議して下さい、で良いのかな?

つうか、欄外に「各大臣へ廻すに及ばず」とか書かれちゃってますが。(笑)

さて、次でようやく6月12日の史料はお終い。
同じく大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)6月12日発『電受第232号』。

Mutsu
Tokio

袁 says Chinese soldiers still staying at 牙山, do not go to the interior; rebels have been defeated at 全州 六月十日, 六月十一日, and fled to 金堤.
Am informed that 大院君 proceeded to palace and strongly attacked the ministers of their faults.
Japanese soldiers arrived 仁川 4. p.m. 六月十二日.

Otori
seoul
袁世凱は、清国兵はまだ牙山に留まっており、内陸部には行っていないと言っている。
東学党は、6月10日、6月11日に全州で敗れ、金堤方面に逃走した。
大院君は宮中へ行き、大臣等の咎に非を鳴らしたという報告があった。
日本兵は、6月12日午後4時に仁川に到着した。

んで、欄外を見ると、これは上奏され、各大臣、枢密院議長、参謀次長、軍令部長なんかに廻されてるようです。

つうか、10日と11日に東学党が全州で負けてたら、いつ全州和約結んでたんだ、と。(笑)


んー、やっぱ英文史料ってツマンネ。(笑)
ってことで、今日はここまで。



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