< 2006年12月のエントリー >
ほぼ東学党の乱一色。
しかも、派手さが無くとても地味。
尤も、それは僕のせいじゃなくて史実がつまらない、或いは漢文にも報告にもなってない朝鮮電報のせいだと言いたいわけですが。(笑)


東学党の乱(一)

遂に手を付けてしまった東学党の乱。
まずは、東学の起こりの説明に適した史料の紹介から。


東学党の乱(二)

東学党の乱の連載2回目。
東学の起こりの説明に適した史料の続きなんですが、この辺になると、今後も取り上げていくような年代に入っています。
つうか、分かってたけど全く役に立たんね、朝鮮軍。( ´H`)y-~~


東学党の乱(三)

所謂東学党の乱の起きる前年、1893年に起きた東学絡みの事件に関する史料。
既に播遷の噂が立ってるのが笑えます。


東学党の乱(四)

付日不明なのが残念ですが、古阜民乱を始めとする各地民乱の話や、洪鍾宇と金玉均の死体処分に関する話など、中々興味深い内容が並んでいます。
勿論、最大の見所はほとんど王室の経常的な歳入だったという売官の話。
コラは、ウリの作った下地画像に、hitkot氏が高宗を切り抜いてペタペタしてくれた自信作。(笑)


東学党の乱(五)

この回も、付日不明ながら古阜民乱や洪鍾宇の話など、見所が多い回ですね。
党争の一環か、勢道としての閔泳駿に非難が集中し始めている様も見ることが出来ます。


東学党の乱(六)

この日も付日不明の在京城帝国公使館通常報告から、いよいよ招討使出発の話を見ることができます。
また、もう一つの史料において、今回の民乱が売官とそれによる過酷な徴税が原因であると断じる大院君の談話が見られます。


東学党の乱(七)

この回は、袁世凱の談話がメイン。
清国の軍艦平遠号が出航する事になった経緯説明ですね。


親日派名簿

この回だけ東学党の乱を離れて、親日派名簿の話。
特に何かを述べているわけではないんだけど、覚書的に名簿を転載してみました。
良く考えたら、これから何百人も同様の名簿が出るわけで、このブログに登場した人を赤字にしたのは、もしかして失敗だったかもと後悔してみたり。(笑)


東学党の乱(八)

仁川の能勢領事の報告で招討軍の人数が分かるんですが、1人計算が合わないのはご愛敬。(笑)
尚、これに記載のある「パン2,000斤余」は、招討軍の携帯した食料が本当にそれだけだったことが、後の史料で分かります。
つうか、ピクニックかよ。(笑)


東学党の乱(九)

東学の徒を負商等による義兵が討伐した話が出てきます。
勿論、東学の徒は一時的に退避しただけで、沈静化どころかすぐ再起しちゃうわけですが。


東学党の乱(十)

地方兵大敗の報。
更に、あちこちで税穀やら武器やらが奪われるようになってきます。
また招討使洪啓薫が、一戦する前から援軍を要請しているのがちょっと情けないですな。


東学党の乱(十一)

中央から招討軍が派遣されて1週間も経つのに、その間の戦闘行為は全て地方兵等が行い、ボロ負けして、地方官は逃げだし、あちこちで兵器や食糧を奪われてる状態が続きます。
おまけに、一向に説得等のアクションを起こすわけでもなく・・・。


東学党の乱(十二)

左捕盗大将兼扈衛大将の申正熙の直話でも、原因としての地方官の暴政が言及され、地方制度の大改革が言われたりするわけです。
一方で清国の動きを注視する日本側。


東学党の乱(十三)

熱出して死んでた頃のエントリーですな。
前回に続いて、清国の動きが中心です。
ただ、一戦もせずに清国に援軍して貰うってどうよと言える、招討使洪啓薫はやっぱり素敵。(笑)


東学党の乱(十四)

メインは勿論前半の朝鮮政府関係の電報なんですが、相変わらずブツ切れで分かりづらい報告ばっかり。
後半はおまけの史料なんですが、昌徳宮に怪事が多いから景福宮に戻る話が出てきたり、フランス人が平壌人を殺害する話と、そのフランス人を収監した事にフランス公使が文句付ける等、後半の関係ない史料の方が面白かったりします。(笑)


東学党の乱(十五)

久々に史料飛ばしちゃいました。(笑)
しかも、分かりづらいと愚痴こぼしてたのが分かりやすくなる史料。
駄目よねぇ、こんなんじゃ・・・。
内容的には、この頃地方から仁川へ戻ってきた商人等への、聞取書になっています。


東学党の乱(十六)

この回も、飛ばした史料の続き。
錦山で東学党が負商に負けたり、その後官軍が大敗したり、朝鮮政府の公文電報より商人に聞き取りした方が分かりやすい。(笑)


東学党の乱(十七)

清国軍艦平遠号の艦長の談話をこれまでの報告と対比したものは、結構状況が整理されて見やすいかな、と。
尚、袁世凱の談話では、招討軍が移動途中に疲労から病気になったとされていますが・・・。(笑)


東学党の乱(十八)

清国軍艦平遠号の艦長の談話と、地方兵大敗の話とか、あちこちで武器等を奪われてたりとか、結構符合する点が多いわけで。
まぁ、この回一番力を入れたのは、実は地図だったりするわけですが。(笑)


東学党の乱(十九)

引き続き清国軍艦平遠号の艦長の談話。
もう、「お前等、飯どうすんのよ?」の辺りでお腹が痛かった回。(笑)
兵糧ぐらい持って行けと思いつつ読み進め、船の中で飯貰ったにも係わらず、到着時に持ってたパンを半分喰っちゃってる所で再度大笑い。
挙げ句の果てに病気になってみたり。
もう、駄目駄目だよね、と。(笑)


東学党の乱(二十)

マジで、朝鮮側の電報って、ずっと日本の公文見てきたウリには苦痛です。
さっぱり流れとか状況が分かりません。(笑)
良くこんなので政治してたよね、と。
何か、内容の紹介じゃなく愚痴になってますが。(笑)


東学党の乱(二十一)

流れもへったくれも分からないながら、この回でようやく東学軍が南進して、霊光を落とした事が分かります。
この辺から、乱の大体の輪郭が見えてきてるのかな?


東学党の乱(二十二)

特別な事はそれほど書いてないんですが、これまでの史料を連結して、流れが分かりやすくなった「全羅道全州より帰京したる者の直話」が中心。
ただ、乱そのものが特定の部隊によるものではなく、同時散発的に起こっている感じなので、漏れてる部分も当然あるわけですが、古阜民乱の前後からこの時までの状況としては、かなり分かりやすい史料かと。


東学党の乱(二十三)

袁世凱と已に出兵の密約結んでる閔泳駿萌え。(笑)
そして、忠州に宮廷移すってどうよ?と、早くも逃げ腰の高宗に萎え。(笑)
まぁ他の大臣連中に反対されて、結局保留されるわけですが。


東学党の乱(二十四)

相変わらず朝鮮側の電文が意味不明なのに対して、尽く流れを分かりやすくしてくれる仁川の能勢領事の公文。
朝鮮側の電文って、「重要そう」ではあるんだけど詳細がサッパリで、結局後から「あ、あの事か」と思ったり。
で、能勢領事の送る公文で、流れが掴みやすくなるんですよね。


東学党の乱(二十五)

この頃になると、随分東学党の勢力が分かりやすくなってきます。
多分、分散してゲリラ戦だったのが、徐々に収束してきたからだと思うんですが。
特に、version2の地図があれば完璧。
自画自賛。(笑)


東学党の乱(二十六)

招討軍が、東学軍の集結しているという霊光に向かう話が出てきます。
いよいよ激突かとワクワクしているところで、今年のエントリー終了。(笑)


早く、意味不明な朝鮮漢文電報地獄から抜け出したいよなぁ・・・。(笑)
ってことで、良いお年を。



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東学党の乱(二十六)

テーマ:

明日は恒例の今月の回顧録の日なので、今回が実質今年最後のエントリーになりますね。
それでは早速。

今日も、いつも通り東学に関する監司なんかの電報になるんですが、ちょっと長いので一項目づつ。
ひょっとしたら次回まで続くかも知れません。
1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』より。

1)四月初四日(我五月八日)東学徒通文を法聖邑吏郷に為す
聖明在上官民塗炭何者民弊之本由於吏逋吏逋之根由於貪官貪官之所犯由於執権之貪婪噫乱極則治晦變則明理之常也今吾儕爲民爲国之地豈有吏民之別乎究其本則吏亦民也各公文簿之吏逋民瘼條■■件没穀報来也當有區別之方矣勿慮持來無違頃刻惕念如悉事
又吾儕今日之挙上保宗社下安黎民指死爲誓勿爲恐動第観来頭之釐正也転運営之爲弊於吏民也均田官之去弊生弊也各市井之分銭収税也各浦口之船主勒奪也他国潜商之峻価貿来也鹽分之市勢也各項物件都売取利也白地徴税松田起陳也臥還之抜本條條弊瘼不能盡記而凡吾士農工賈四業之民同心協力上輔国家下安濱死民生豈非幸也哉
濟衆義所
5月8日の東学の徒から法聖邑の吏郷への通文って、もう25日なのに随分古い話ですな・・・。
途中欠文もある上、内容的にさっぱり分かんねぇけど、取りあえず簡単に。

前段部では、官民が塗炭に苦しんでいる元凶を最終的に執権の貪欲としていますね。
勿論、閔泳駿に当たるでしょう。

んで、不明部分以下は穀物の話等になっています。
つうか、転運営や均田官の弊害って言われても、どういう役職かすら分かんね・・・。( ;´д`)

分銭の収税は、米等で税を収めさせるのではなく、金銭で収めさせたって事かな?
それとも、米売って得た現金収入に対しても課税したって事かな?
んー、良く分からん。

この後も分からない事だらけで、「何を」かは不明だけど、各港の船主等が奪う。
米穀?

次は、同じく「何を」かは不明で、他国の闇商人が高値で買っていった、かな?
次の塩分の市勢って何?

それから各商品の問屋が利潤をとり、徴税官吏が不法・過重徴税を行って・・・松田って何だよ・・・。_| ̄|○
わけわかめながら、そういう病弊はすべて記録も出来ないほど多い、と。
だから、士農工商4業の者が一致団結して国家と瀕死状態の民を助けなきゃね。

まぁ、当時起こってたインフレも関連している雰囲気は分かるけど、朝鮮のこの頃の制度自体の踏み込みが浅いから、結局意味不明だな・・・。
ちょっと凹む。

気分切り替えて、2つめ。
5月19日の招討使洪啓薫からの電報。

2)四月十五日(我五月十九日)招討使電報
方出陣軍糧不可不預備以益山鄭元城運糧官差下伏対彼徒入霊光云霊光倅(郡守)知彼徒入邑之機避浮海二隊兵送陸絶後待以兵(全羅営)前後期應伏計
出陣に当たって兵糧も予備も無いため、益山の鄭元城に運糧官を命じた、と。
京城出発時からほとんど兵糧を持たず、12月24日のエントリーで公穀と公銭で支給する計画になってたわけですが、それらの運搬を鄭元城という者がする事になったようです。
つうか、益山って官軍大敗した場所の近くですよねぇ・・・。

で、東学の徒は霊光に入り、霊光郡守はそれを知って海に逃げているので、2隊の兵を送って全羅営の後続兵を待って挟撃する計画だよ、と。
おお。
マジでようやく事態が動きそうな気配。

次も招討使洪啓薫からの、同日付の電報。

3)同日未刻招討使電報
彼徒半留霊光半向咸平務安等地云昨則派二隊兵今暁又送二隊兵次次連進後援伏計
東学の徒の半分は霊光に留まり、半分は咸平・務安方面へ向かったという。
昨日2隊の兵を送り、また今朝の夜明けに更に2隊派遣したので、次々に連なって進軍して後援させる計画、と。
この辺、2つ目の招討使電報に書かれていた挟撃計画通りですな。

4)四月十七日忠清監司電報 我五月二十一日
即接鎮岑所報則彼徒已散兵丁留連甚悶云又接出住軍官及探校(探偵軍官)回告則青沃等地(青山沃川)姑無動静或有帰化云即此輩踪跡閃勿情形叵測有難全信然且令形便言之多数軍兵許久出住殊渉可悶故営門軍兵及商丁方飭還而現連見完伯(全羅監司)電来則南擾去益猖獗云本道戒厳不可疏忽清営兵丁(清州の兵営)三百名前者外送恩沃(恩津沃川)両邑要害処使之移防将其帰聞下諒伏望更於頫給之節果是難継甚憫
今鎮岑の報告では「東学の徒はすでに解散したのに、軍隊はずっと駐留しているので息苦しくて!」とされ、また、出動した軍官と探偵軍官の回告では、「青山と沃川では動静が無く、帰順した人も居る」と言うけど、東学の徒は神出鬼没で形跡が分からないため、全てを信じる事は難しい、と。
ん。
確かに、何が起きてるかさっぱり分かりません。(笑)

全体としては東学軍は南下しているようなので、まぁ、鎮岑とか青山とか沃川なんかの忠清道方面から、東学の徒が転進している可能性はありますけどね。

しかも、多くの軍隊が長期間駐留しているって言うから営門軍兵と商人兵は帰す事にしたけど、全羅道の監司からは、南方の騒擾はさらに激しくなってるって言うし、忠清道の戒厳も疎かにできないよねぇ。
清州の兵営から300人を、前者(鎮岑とか青山か?)ほか恩津と沃川という要害の地の守備に充てたよ、と。
次の「頫給」云々は、何の事か全く分かんね。┐(´д`)┌

続いては、5月22日の招討使の電報。

5)四月十八日招討使電報(我五月二十二日)
今日進軍于東徒聚会霊光地
今日、東学の徒が集まっている霊光に進軍します、と。
いよいよ一戦間近かな?ワクワク。


と、ようやく官軍と東学軍激突か?とワクワクしているところで、しかも実質最後の日に史料途中のままで、今年はここまで。(笑)



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)  東学党の乱(二十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
東学党の乱(十)  東学党の乱(二十)


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東学党の乱(二十五)

テーマ:

今日は前置きなしで。
ちょっと発日等不明なんですが、杉村から外務大臣陸奥宗光への『機密第65号』を。

全羅地方へ我軍艦派遣の件

過日来全羅忠清地方に蜂起したる民乱は、追々勢熾にして地方の兵丁のみにては鎮撫の見込無之を以て、当京城より800名の兵を該地に派遣致候に付ては、其実況情察旁清国軍艦の挙動注視の爲め、群山迄大島艦派遣相成りては如何哉、去る14日電報を以て上申及候処、去る16日を以て同艦を派遣すべき旨御電訓の趣拝承致候。
右は早速大島艦へ協議及候処、兼て海軍省より同艦に与へたる訓令には、大和艦を仁川に派遣すべきに付、同艦着仁次第直に発仁帰朝すべしとの事にて、非常に帰朝を急ぐに付、視察の義は大和艦又は筑紫艦へ替へ候様致度旨同艦より回電有之候。
依て愚考するに、大島艦の群山行は右様の次第にては到底速に協議相纏り申間敷と存候に付、拙官は直に同艦に対し出発帰朝の義異存なき旨を回答し、大和及筑紫の両艘へは能勢領事を経て視察の義協議に及び、再三往復の末、逐に筑紫を派遣する事に商定相済み、同艦は愈々本日群山へ向て出帆致候。
将又視察上、便宜の為め乗組士官等に交付すべき護照関文例に拠り統署へ請求及候処、地方の状態右の通りにて、旅行者の危険少なからざるも地方官の保護充分行届く間敷に付、請求に応じて関文発給致難き旨申越候に付ては乍遺憾、右軍艦も単に群山に上陸して其附近の情状を視察するに過ぎず候へ共、是とても同所に暫時滞泊するときは、幾分か事情を知るの便利とも相成、并せて清国軍艦の挙動を視察し、間接に其不都合の行為を予防する効力可有之と存候。
右上申及候也。

追て大島艦は、去る18日午前9時仁川解纜。
本邦へ向て廻航致候。
すっかり忘れてましたが、12月13日のエントリーで14日電報で上申し、16日に許可を得て群山へ視察に向かう筈だった「大島」の話ですね。
ところが「大島」と協議すると、海軍省からの「大和」を仁川に派遣するから入れ替わりで帰ってこいという訓令を受けており、非常に帰国を急いでるから、視察の件は「大和」か「筑紫」に頼んでよと返事がある。

そこで、大島の群山行きは、こんな成り行きじゃあ到底速やかに協議はまとまらないだろうから、大島に向かっては帰国の件について異存ない事を回答し、「大和」及び「筑紫」には能勢領事経由で視察の件に関して協議し、結局「筑紫」を派遣する事に決定し、この日出発した、と。
この時期の「筑紫」と言えば、あの秋山真之が乗ってた頃ですな。

秋山真之 秋山真之

で、視察上必要なパスポートみたいな文書を韓国政府に請求すると、地方はこんな状態で旅行者の危険も少なくなく、地方官の保護も十分行き届かないだろうから、請求に応じて文書発行するのは難しい、と言われる。
これは遺憾ではあるけども、筑紫も単に群山に上陸して附近の状況を視察するだけだったし、群山に停泊しているときにいくらかは事情も分かるだろうし、清国軍艦の挙動も視察して不都合な行為を予防する効力もあるだろう、と。

まぁ、「きままに歴史資料集」さんの所を見ても、暴走する朝鮮人ってのは見境無いですから、遺憾とは言いながら朝鮮政府の措置って妥当な気もするわけですが。(笑)

続いて、朝鮮の臨時代理公使の杉村濬から、多分この時清国の臨時代理公使だった小村寿太郎への、1894年(明治27年)5月23日付『発第13号』を見ていきます。

過日来、全羅道及忠清道に蜂起したる乱民は其後追々勢熾にして、地方兵丁のみにては鎮撫致兼ぬるのみならず、益々猖獗を極め、官吏を逐ひ城邑を屠る等、侮り難き模様に有之只今。
今日迄本官が聞得したる報道に拠れば、乱民の占拠若くは橫行したる市邑は、全羅道に在りては古阜・泰仁・扶安・金溝・高敞・茂長・羅州・咸平・務安・霊光等の各邑。
忠清道に在りては懐徳・鎮岑ㆍ青山・報恩・沃川・文義等の各邑に有之候へば、全羅忠清両道の凡3分1に相跨り候に付、当国に取りては実に容易ならざる変乱に有之候。
加之、近年其他の各道とも所在地方官の虐政に苦み、政府を怨み、動もすれば民擾を発せんとする折柄なれば、全忠両道乱党の勢力如何に因ては、彼等起て之に応ずるやも難計被存候。
故に当政府にても一方ならざる心痛にて、先きには当京城壮衛営より800名、又昨日には江華兵凡そ400名を征討の為め差遣候に付、何れ近日内に該地方に於て一合戦可有之と被存候。
其勝敗の決果竝に本件に関する報道は、今後時々御報道を怠らざる積りに有之候へども、今日迄の大略茲に申進候間、委曲別紙彙報に付御承知相成度候。
右申進候也。

追て、本邦にては清国兵全羅道に赴きたりとかの風聞有之由に候へども、右は去る8日清国軍艦平遠号が、当局汽船蒼龍竝に漢陽と同じく、朝鮮兵を載せて群山に赴きたるを誤伝せるものならんと存候。
尤も、同艦長の談話によれば、当国清署の民辨徐國俊氏は洪招討使と共に5、6名の清国人を従へ全州に赴きたりとの事に有之。
又、洪招討使群山に上陸の際、之に対し同艦より提督の礼を以て祝砲15発を打発したる由に有之候。
清国在任の小村寿太郎へ、朝鮮の状況報告ですかね?
つうか、前回の『機密第65号』とか今回のこれとか見てると、実は今までの史料見てきた我々と同様に、杉村も実際どういう状況なのか、わけ分からない状態というか文書として纏められない状況なんじゃ・・・。
12月26日のエントリーで「早く、総合的な報告みたいなもん、出てこないかしら。(笑)」なんて言ってたのは、酷な話でしたかね?(笑)

ってことで、最早定型文かと思われる状況が書かれ、東学の徒は官吏を追い出し城邑を破るなど侮りがたい模様、と。
杉村がこの日までに接した報道では、東学党の占拠した或いは横行している市邑は、全羅道では古阜・泰仁・扶安・金溝・高敞・茂長・羅州・咸平・務安・霊光等。
忠清道では懐徳・鎮岑ㆍ青山・報恩・沃川・文義等で、全羅道・忠清道の約3分の1にまたがる、と。

ここでまた地図に起こして見ました。
前回同様、視覚優先なので宜しく。

東学党の乱地図ver2
(クリックで拡大)


んー、全州は完璧に囲まれてますね・・・。

で、それに加えて近年はその他の地方も地方官の虐政に苦しみ、政府を怨んで民擾を起こしがちな状況であり、東学党の勢力次第ではそれに応じて蜂起するかも、と。
そのため高宗が「忠州に逃げるってどうよ?」と言うぐらい朝鮮政府もひどく心配し、最初に招討軍800名を派遣。

次の江華兵の派遣は、12月27日のエントリーの「清国に援兵を乞の議は中止の件」で、閔應植が5月19日に江華へ向かい、前回詳細な報告があったヤツですね。

ここでは、5月22日に派遣されたのは江華兵400人とありますが、前回の報告を見るに、江華兵と壮衛兵合わせて470人が群山に向かったわけです。
ということで、近日中に一戦あるだろう、と。

大晦日目前にして、いよいよ緊迫して参りました!(笑)


ってところで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
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東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
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東学党の乱(二十四)

テーマ:

宮中で何が話し合われようと、東学党に何等影響を与える話が出たわけでもなく、事態は着々と進行していくわけで。
まぁ、閔泳駿とそれ以外の間での争いが、朝鮮政府で統一見解というか一定対応策を打ち出せずに、右往左往する根本原因なのでしょう。
この図式は、これ以前もこれ以降も続くわけで。
全く、迷惑な話ですな。

ってことで、今日は東学のその後の状況を、再び朝鮮側の電報から。
1894年(明治27年)5月22日付『発第102号(仁川領事)、発第103号(元山領事)、発第104号(釜山総領事)』より。

一.4月16日亥時全羅道監司電報(我5月20日)
今見転運使文移抵招討使者漢陽船利運社小形汽船税穀装載次十三日送于霊光九岫浦十四日酉時東徒数萬名留陣於法聖前後山九岫浦前後山数時鎗刀放砲欄入漢船破碎船板沙格(水夫の事)與日人逢輒駆打仁港委員金徳容弊所従人雇人詰我縛捉去乃被拘執漢陽船不得載穀当日還到群港事極駭瞠先爲電通

一.京捕盜庁機校偵探記
茂長井邑霊光長興泰仁玉果屯聚之徒毎日操錬陣法毎夜誦読経文此六邑人可量爲五六千名式茂長尤多此外各邑五十里許式各立義旗不下千余名若対陣相敵之時先揮白布帳則官軍多発大小砲銃弾鐵丸紛紛落地於白布之外以此官軍毎毎見敗甚怪甚怪
東道大将下令於各部隊長約束曰毎於対敵之時兵不血刃而勝者爲首功雖不得已戦功勿傷命爲貴毎於行陣所過之時功勿害人之物孝悌忠信人所居村十里内勿爲屯住

  ○ 十二條軍号
  降者愛対、困者救済、貪官逐之、順者敬服、飢者饋之、姦猾息之
  走者勿逐、貧者賑恤、不忠除之、逆者暁喩、病者給薬、不孝刑之

右條吾儕之根本若違令者囚之地獄云

一.忠清道東徒之所謂帰化云者皆虚語也盡附全羅道東徒云列邑形勢可謂土崩瓦解極可寒心云云

右及御報候也。
まずは、いつも通り全羅道監司の電報ですが、良くわからんなぁ・・・。
まず、転運使ってのは、各地の産物を中央に運ぶことを掌る、中国唐代に置かれた官職と同義で良いのかな?

その転運使から招討使への文書で、利運社の小形汽船漢陽号を、税穀を積むために5月17日に霊光九岫浦に送ったが、18日に東学の徒数万名が法聖浦の前後の山と九岫浦の前後の山に陣取る。
んで、鎗刀を持ち砲を撃ちながら漢陽に乱入。

次は、船板を破壊して水夫と日本人を殴りつけ、仁川港の委員金徳容と従者や雇い人を縛って捕らえ連行の上拘束したため、漢陽は税穀を積めずに群山港に帰ってきた、かな?
んー、解釈難しい・・・。
取りあえず、利運社の小形汽船漢陽ってのは、勿論招討軍を連れてった漢陽号だろうね。

次は、京捕盗庁の者の偵察記録。
こっちも難しい・・・。
茂長・井邑・霊光・長興・泰仁・玉果等に駐屯する東学の徒らは、毎日陣法を練習し、夜には経文を読んでいる。
この6邑には5~6,000名ほど居り、茂長が最も多い。
この他、各邑50里の許式は、それぞれ旗を立て1,000余名はくだらない。
もし対陣したときなんかは、先に白い布を張れば官軍が発射した大砲や小銃の銃弾や鉄丸は、白い布の外に落ちるという、と。
白い布の話は、12月25日のエントリーでも出てましたね。

東道大将は、命令を下して各部隊長に約束し、「敵兵むやみに殺さないし、孝悌忠信の人が住む村があればその10里以内には駐屯しない、と。

んで、12条の軍号。
降伏した者は愛で対し、困窮した人は救済し、貪官は追い出し、帰順者には敬服し、飢えた人には食べ物を与え、姦猾な者は阻止し、逃走した者は追わず、貧しい者は賑恤し、不忠な者は排除し、反逆者は説得し、病気の者には薬を与え、不孝な者は処罰する、と。
この条文は自分たちの根本であり、命令を破れば地獄に堕ちるよ、と。

最後は、忠清道の東学の徒らの帰順すると言ったのは全部嘘で、これらは皆全羅道の東学の徒と繋がって、多くの邑の形勢は瓦解している、と。

んー、逃げようとしてる高宗より、随分まとも・・・。( ´H`)y-~~

さて、先ほど解釈が難しいと言っていた、仁川港の委員なんかが捕らえられた話、実は仁川領事からも報告がありまして。
ついでに他にも重要な話が出てきます。
仁川の能勢領事から杉村臨時代理公使への、1894年(明治27年)5月22日付『京第23号』より。

東学党鎮圧の為め、曩に新軍兵を引率し全州に出張したる招討使より屡々援兵を請ひたる義は、既に其筋の報告にて御承知の事と存候。
然るに、一昨20日夕刻、京城より親軍壮衛兵40人は4斤半砲1門、弾薬車1輛、火薬5桶、弾丸10箱を領率して、陸路当港へ来着し、引続き昨21日正午、江華島より陸兵450名、6斤砲2門を携帯し、水路にて統制使閔應植親ら之を領率し着仁の上、更に江華府中軍徐炳勲、副官李鍾大なるものをして江華営兵と親軍壮衛兵の内20名、砲3門を督率せしめ、本日午後5時汽船顕益号にて全羅道群山へ向け出発致候。
尤も、京城より来仁の壮衛兵40名の内20名は、今朝陸路帰京。
又閔應植は、今夜陸路帰京する趣に有之候。
清兵は勿論、清国人の顕益号に同乗せるものは更に見受け不申趣に有之候。
又、過般群山地方へ赴きたる仁川転運局郎庁金悳容、通辨沈書房外1名は汽船漢陽号に乗込、貢米積入の為め本月17日本浦へ上陸候処、金悳容外2名は東学徒の為め生捕られ、貢米積載の見込なきを以て漢陽号は空しく郡山へ戻し、爾来同所に碇泊の趣に有之候(一説に招討使の請ふ所により于今滞泊すと云)。
又、本浦に堆積しある貢米は、目下全く東学党の手に押さへられたりとの説有之候。
此段申進候也。
12月18日のエントリーで欠文になっており、良く分からなかった援兵。
一応、前回閔應植が援軍派遣の話を受けて、5月19日に江華島へ向かっていたわけですが、その後の話ですね。

20日夕方に、京城から壮衛兵40人が4斤半砲1門・弾薬車1輛・火薬5桶・弾丸10箱を持って仁川着。
21日昼には、江華島から統制使閔應植に率いられた陸兵450名が、6斤砲2門を持って仁川着。
そのうち、江華府中軍徐炳勲と副官李鍾大に、江華兵450名と壮衛兵40人のうち20人を率いさせ、大砲3門を持って5月22日に汽船顕益号で群山に出発。

壮衛兵の残り20名と統制使閔應植は、陸路で京城に帰る模様。
清国兵は勿論、清国人を連れて行った形跡無し、と。

んー、12月15日のエントリーでは、壮衛営の兵300人と江華島の沁営兵500人になっており、更になんか騒動が起きたような事が書かれてたけど、どうなったんだろう?

で、ここからが先ほどイマイチ判然としなかった部分。

仁川転運局の金悳容と通訳沈書房ほか1名は、漢陽号に乗込んで年貢米積み入れのため5月17日に本浦に上陸していたところ、東学党に生け捕りにされた、と。
いや、何で年貢米積み込みのに、通訳が同行してるんだ・・・?

兎も角、そのために年貢米を積み込む見込みが無くなった漢陽号は、群山に戻って碇泊中。
ここでの本浦が、先ほどの史料での九岫浦の事でしょうね。

何つーか、流れが分かる日本の報告マンセー!
∩( THT)∩



ってとこで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
東学党の乱(十)  東学党の乱(二十)


東学党の乱(二十三)

テーマ:

今日は、前置き無しでいきなり行きます。
釜山領事室田義文から杉村臨時代理公使への照会、1894年(明治27年)5月21日付『京第25号』から。

東学党の近況に関する各地よりの報告、陸続御廻付相成逐一拝悉御注意之段、深謝致候。
右の内、本月16日付発第86号貴信追伸中、陰暦4月11日忠清監司電報内に清営隊官処云々の句あり。
又17日付発第86号貴信中、我4月(5月歟)16日招討使電報内に、請来清兵一枝以爲調用如何の句あり。
右清営と云ひ、或は清兵と云ふは、忠清道の営或は兵と云ふ義に候哉。
又は他に意味あるものに候哉。
御取調相成居候得共、御一報相成度右及御依頼候也。
5月16日付の「4月11日忠清監司電報」が記載されているとする、『発第86号』が見あたらないなぁ・・・。
兎も角、その電報内に「清営隊官処云々」という字句があった、と。

次の17日付の招討使電報内では、「請来清兵一枝以爲調用如何」の句があった。
これは、12月18日のエントリーで取り上げてますね。

で、この「清」って忠「清」道の「清」の意味なの?
それとも別な意味あんの?と。
まぁ、普通は「清」と言えば清国ですからねぇ。

で、この回答が1894年(明治27年)5月25日付『発第111号』になりますので、先に見ておきましょう。

当館発送に係る東学党に関する報告中、清営隊官及請来清兵の意義に付本月21日付京第25号を以て質疑御申越相成致了承候。
右は、御解釈の通り1は忠清道清州兵営、他の1は清国兵を請し来り調用せば如何を意味する義と到判定候。
尚、右に関する外務大臣宛機密報告寫1通、別紙にて差出候間、詳細は右にて御承知相成度候。
此爲回答申進候也。

別紙は、機密第58号
ってことで、最初のは忠清道清州兵営の事。
もう一つは、清国兵の事。

で、清国兵については、機密第58号に詳細書いてるから、ヨロ、と。
これは、12月16日のエントリーで取り上げた、1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』の事ですね。
みんな「清国」の動きには注意してるようで。(笑)

で、清国援兵の話はこれで終わりじゃないんですね。
1894年(明治27年)5月22日付『発第61号』より。

清国に援兵を乞の議は中止の件

昨今東学党大に瀰蔓し其勢猖獗なるに因り、恵堂閔泳駿氏は殊に清兵の来援を乞ふの得策なる事を奏上したるに、国王は諸大臣を宮中に召し会議を開かれたるも、結局清兵の援助を不可とするの議論多きを占め、国王御同意を得て閔泳駿氏の提議は一と先中止に帰したりと云ふ。
委細は左の探報書。
東学党の勢力拡大に伴って、一番の元凶である閔泳駿は、もう清国兵に来援お願いするのが得策じゃね?と奏上するんですね。
この奏上を受けた高宗は、大臣を集めて会議。
結果、不可とする者が多く、結局高宗の同意を得て閔泳駿の提議はひとまず中止、と。

続いて、その詳細とされる『別紙』の方を見てみましょう。

別紙

探報書
○ 即聞公事庁所信則
去夜時原任将臣大臣竝爲命招会議於榻前而上曰連接三南電報賊徒去益猖獗民心漸々反復帰心於賊党姦巧之中日日滋漫而禍色迫頭此将奈何見今事勢危急存亡之秋也京城四面受敵之地難以防備且不無北虞之深予意則見機而移御于忠州藏後院新闕何如諸臣一齊答曰大不可大臣金弘集奏曰此徒之暁諭帰化惟在擇是善否一員而已何以先発兵而使渠等背反聖朝耶上曰然則何以措処耶金奏曰大臣以下文武百官中豈無可用之人乎各進一計則必有神奇良謀矣行此法取才之第一也以此而連夜会議而某某人密密秘論未得詳聞可探耳

○ 十三日恵堂奏曰賊勢去益猖獗莫可剿滅捕捉請電達要求請兵来助恐合事宜
上曰請兵一款不可軽挙爛商於諸大臣以爲辨決可也恵堂奏曰已爲密約於袁世凱矣勿爲煩布秘密開筵命招大臣下詢何如上曰可也十四日暁頭命招諸大臣於筵中使之議稟大臣竝奏曰當初招討使下選之命急不穏当而今忽請兵大不可也内乱之鎮定也命送幹局者一員足矣何必紛紛招外兵耶内以英断先除弊政之大者加重律於不良之守令方伯以安其心則乱民帰化国内太平若不然而忍爲加兵下送沁營兵丁往両招計至可外兵要求之地極難者有三一曰有国以民爲本而剿滅幾萬生霊謂一難外兵一入国内京郷弊端無所不及人心煽動矣謂二難外兵入国内各国使客必有出兵各守公館易致生釁矣謂之三難也伏乞垂察焉
上曰意亦與諸卿同然屯故今日開筵特爲爛議請兵一款置之勿論可也即爲命招摠制使閔應植使之調発沁営兵丁五哨往助可也該摠制使閔應植調発兵丁次十五日下去江華
最初のは、昨晩大臣集めて会議して、高宗が「相次いで3つの電報受けたけど、賊との勢いが益々激しくなって、民心も徐々に賊徒に傾いてるんだけどどうすれば良い?危急存亡の時だし、京城って四方から入れるから守備に困るし、機会を見て忠州の藏後院に宮廷移すってどうよ?」と。
逃げる気満々。(笑)

これに対して諸臣等は、「ふざけんな、ボケ(「それは非常に正しくない事です」と言った彼等の思いを代弁・笑)」。
更に金弘集は、「じゃあ何で軍隊送ったのよ?」と。

高宗はこれに対して「どうすれば良いと言うですか!<#`Д´>」
金弘集は「大臣以下文武百官の中で、どうして使うに価する人が居ないでしょうか。それぞれ一策を出させれば、必ず良い策があるでしょう。」と、何か今更な話をするわけです。

で、この件で連夜会議をしているけど、まだ詳細を窺い知る事は出来てない、と。

次のは、閔泳駿絡みの件。
5月17日に閔泳駿が、「賊の勢力は益々広がり、彼等を掃滅や逮捕出来ないため援軍要請しているようだ」と言うと、高宗は「援軍要請の件は簡単にはいかないので、大臣達とよく相談して決めよう」、と。
これに対して閔泳駿は、「もう袁世凱と密約しちゃったから、秘密にしないで大臣に言っちゃえば?」と。(笑)
で、高宗も「いいよ」ってことで、5月18日の夜明けに会議が開かれるわけですね。

そこで大臣達は、「最初から招討使を送ったのが穏当ではないのに、今また急に援軍送るのって駄目っしょ。そして、内乱鎮めるのに外国の援兵を呼び入れる必要がどこにあるの?英断を下して、先に弊政を行った地方官を処罰して、そんで民心を安定させて帰順させれば良いだけでしょ?そうじゃなくても兵を送るなら沁営の兵を送るのが穏当な処置でしょ?外国の軍隊を要求するのに難点が3つあって、国家は国民を根本にするのだからそれを掃滅するのが一つ。外国兵が一度国内に入れば、その弊害は及ばない処はなく、人心を煽動することになるのが一つ。外国軍が一度国内に入れば、各国公使も必ず軍隊を出動して各国公使館を守る事になり、軋轢が生じやすいというのが一つ。この点を良く考えてね」と。
ええ、特に日本は済物浦条約がありますしねぇ。( ´H`)y-~~

高宗はこれに対して、「私も同意見だから、今日の議題の援兵の件は置いておこう」とし、摠制使の閔應植に沁営兵から援軍を出させるよう命じて、この準備のために閔應植は5月19日に江華へ去った、と。

つうか、外国に援兵頼めばどうなるか、この時点で分かってるじゃんねぇ?( ´H`)y-~~


今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
東学党の乱(十)  東学党の乱(二十)


東学党の乱(二十二)

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何か、もう連載20回過ぎたのに、朝鮮側の電報に基づく史料だけ見てると何が起きてるのかサッパリ分からない、東学党の乱。
順を追って報告するとか、出来ないのかしら。( ´H`)y-~~
まぁ、何となく招討使がほとんど何もしていない事と、あちこちで民乱が起きて地方官が逃げちゃったり殺されたりってのは分かりますけど。

ってことで、今日は嬉しい朝鮮漢文では無い史料。(笑)
全州から帰ってきた者の直話から。
杉村臨時代理公使から外務省への、1894年(明治27年)5月21日付『発第60号』。
長めなので、二つに分割して。

本月18日全羅道全州より帰京したる者の直話

全羅道新任萬頃県監李某の赴任に隨行して、陰暦3月21日京城出発。
同月29日萬頃着。
夫より転じて、同4月1日全州に出で同所に留まること8、9日間にして帰京せり。
右の同人の全州滞在中、東学党に関し見聞せし処に拠れば、東学党の根拠は即ち古阜にして、其の首領は高・朴2姓なり。
抑該党の蜂起せし原因は、道及郡守の苛斂に因りたるものなり。
昨年10月中の事なりしが、同郡民は該地方官の貪慾飽くなきを憤り、官庁に迫まりて寃を訴へんとす。
時に該郡官恐慌。
遁して全州に走り、監司の保護を乞へり。
依って郡民等は全州に赴き、監司に哀訴する所ありたるに、監司は至極冷淡なる答を出し、且つ云ふ。
国用急なり。
郡官をして不時の徴発を出さしめたるものにして、決して郡官の貪慾し来たるにあらずとて、却て貪官汚吏を庇保するの語義ありしかば、此2郡民は大に激昂し、最早今日の地方官に公明清廉を得ることはあらず。
寧ろ鬱抑を霽し、自から快するに若かずとの語を残して古阜を指して引揚げたり。
この直話をした人物が誰なのかは不明。
取りあえず、全羅道に萬頃県という怪しい(笑)名前の県があるわけですが、その新任県監として赴任する李某に随行して4月26日に京城を出発した人物の直話らしいですね。

で、彼等は5月4日に萬頃県に到着。
そこから5月5日に全州に行き、8~9日間滞留した時に見聞した話、と。

それによれば、東学党の根拠地は古阜で、首領は高と朴。
つうか、未だに「全琫準」らしき名前を見ませんねぇ・・・。

東学蜂起の原因は、道及び郡守の苛斂のせい、と。
1893年の10月中に、郡民はその地方官の貪欲飽くなき事を憤り、官庁に不服申し立てをしようとすると、郡守はビビッて全州に逃亡し、全羅道監司に保護してくれと頼むんですね。

そのため、郡民等は全州に行き監司に哀願するんですが、監司は非常に冷淡な答え。
更に、国家の用(費用?用務?)が急に必要になったから郡官吏に臨時徴発させたのであって、決して郡官吏が貪欲なわけではない等と、却って貪官汚吏を庇おうとする語意があったので、2郡の郡民は大激昂して「もう現在の地方官に公明清廉は期待出来ない!こっちで勝手に憂さ晴らししてやる!<#`Д´>」と言い残して古阜に引きあげた、と。

それで古阜民乱かぁ・・・。

然るに、同郡を距る里余の海浜に、地方官により兼て倉庫3棟を設け、糧穀を積置したりしが、該郡民等は全州を引揚げるや否や、之を破壊して米穀数万石を奪ひ、郡邑に持帰って人民に平等分配して之を食せしめ、且つ官府に蔵めたる軍器を出して軍備を為し、本年陰暦2月に及んでは、保国安民倡大義なる大旗を飜し、全く反抗の決心を示すに至りたる処、四隣風を臨んで来り投ずるもの多く、称して東学党と云ふ(其数1千2、3百人と云ひ、或は8、900人とも云ふ)。
陰暦4月1日、該徒は進んで全州を距る7里なる牧場の前面、小高き丘上(僧頭山)に壁を築きたりしかば、其地は即ち山を負ひ野に面したる処にて、其報全州監営に達するや、営兵500名の中300を営将李璟鎬引率して出で、彼党を征討せんとて其拠れる丘の東面なる原野に陣を張り相対峙せり(場所は、泰仁・金溝の間にして、古阜を距る1里と云ふ。)
越へて陰暦4月4日払暁、東学党の一手は山麓を迂回して窃に軍を官軍の側面に進め突喊発銃。
其本隊と相応じて官軍を挟撃せしかば、官軍不意に出で之を防ぐの遑なく、大に狼狽して軍器糧食を打捨てたる儘先を争ひ全州を指し潰散せり。
是時営将李璟鎬は乱軍中に死し、兵丁60名も亦た殺傷せらる。
官軍棄てる所の軍器は、残らず彼党に収められたり。
此の一戦、益々東学党の勢焔を加へ大に猖獗し逞しき色あり。
之がため、全州一帯の地方は人心驚動其堵に安ぜざる模様なり云云。

又、招討使洪啓薫氏は、全州に着したる後其一隊を龍頭面地方(全州を距一里余)に出し空砲を放ち、大に示威の運動を為しつつあるを見聞せり。
左の書翰は、淳昌府使李聖烈氏が此程恵堂閔泳駿氏の許に送り越したるものにして、書翰中稍や以上の語と符合する所あるを以て、此に掲載す。
古阜郡から1里ぐらいの海辺に地方官が建てた倉庫3棟があり米穀を積み置きしている、と。
で、先ほどの2郡の郡民は全州から引きあげるや否や、この倉庫を破壊して米穀数万石を奪って持ち帰り、人民に平等に分配して食べさせ、且つ官府に収めてある兵器を奪って軍備し、1894年の陰暦2月には「保国安民倡大義」という大きな旗をたてて完全に反抗する決心を示すまでになる。

  _  ∩
( ゚∀゚)彡 古阜民乱!古阜民乱!
 ⊂彡

近隣からこれに投じる者が多く、これを称して東学党という。(ババーン!)
その数1,200~1,300人、或いは8~900人ともいわれる。

1894年(明治27年)5月5日。
東学党は全州から7里離れた牧場の前面、僧頭山に陣を敷き、この報を受けた全州監営は、直ちに李璟鎬に500名居る営兵のうち300名を与え征討を目論む。

5月8日に至って東学党の別働隊は、山麓を迂回して突如僧頭山東面に陣を敷いていた官軍の側面に現れ、吶喊しつつ発砲。
本隊と呼吸を合わせ挟撃を開始。
官軍は不意を打たれ、大いに狼狽して武器糧食を投げ捨て遁走。
官将李璟鎬は戦闘中に死亡し、兵士60名も殺傷され、官軍の棄てた武器は全て東学党に奪われる等、官軍の大敗であった。

この一戦以来、東学党の勢力は益々拡大するのであった。。

って、何か変なテンションのまま書いちゃった。(笑)
この戦闘、12月12日のエントリーでの李璟鎬死亡に関する服喪報告と、12月22日のエントリーでの清国兵船平遠艦長の直話なんかにもありましたね。

で、招討使洪啓薫は、全州到着後一隊を龍頭面地方に出して空砲を放ち、示威行動をなしつつあるのを見聞した、と。
こっちは、12月21日のエントリー辺りで元世禄がやってた、意味不明の行動の事でしょうね。

この史料には別紙が付いているんですが、その書翰は淳昌府使の李聖烈が閔泳駿に送ったもので、書翰中に今回の直話内容と符号する所があるため、添付します、と。

つうか、今回の史料で、始めてこれまで出てきた史料のウチの幾つかが繋がった気がする・・・。
もう固有名詞は違うわ、死者数はバラバラだわ、話が前後するわで、同じ件について述べてるのか違う話なのか、イマイチ確証が持てなかったんですけどね。

そろそろ、これまで民乱の状況について記載のあった日時や場所を一覧にしておかないと、もうわけわかめだとは思っているんですが中々ねぇ・・・。
早く、総合的な報告みたいなもん、出てこないかしら。(笑)

まぁ無いものを嘆いてもしょうがないので、続いて淳昌府使の李聖烈が閔泳駿に送ったという別紙の方を。

淳昌倅李聖烈抵恵堂書

今月初三四間東徒自金溝泰仁地退而扶安古阜等地官軍爲逐捕至古阜井邑両界間僧頭山下形如錚盤之伏彼類結陣山上外布白布帳暗築土城内置草稿隠身其下以爲放砲官軍結陣処與彼相距東西不備数弓之地地形稍下暗夜無知之間彼類自上而壓臨自下而攀登出其死力故我官軍則官軍本以烏合之衆遽当壊決之勢無非鳥獣之散被殺本雖不可的知其数大抵其数聴問大駭衆心不可鎮定軍情難可復振昇平日久非徒兵不爲兵抑亦主其軍比未必得臨事而懼断謀不成者乎此猶勿論賊勢鴟張後患無窮其徒不過三四千数而恐自此添衆況且到処衝大民家奪取民産老者顛倒溝壑壮者流散道路安知不云爲盜賊乎右道幾邑便是空虚若不自朝廷另賜撫綏之方則恐知者難爲也蓋彼類符讖誘人嘯呼聚党假名於倭洋之擯斥執咎於守宰之貪墨非一朝一夕之故此則在王法固不可逭其罪悪奈兵力之不足恃何哉窃伏念迨茲一辺是方伯之任不可不愼擇也貪虐之宰不可不懲治也賦斂之弊不可不矯正也然後無可慰我衆民之心而一辺急遣宣撫之任兵以臨之義以諭之恩以撫之彼終梗化則乃行天討恐合事宜此則慮或兵力不足故強用柔道而散其兵然後乃可逐捕魁領也彼徒之爲窮寇急迫則其勢盤結難解緩漫則驕悍不服所以不容不商量於其間也且以下邑事勢論之百名砲軍之往役者逃走者不過数十丁其余存已迨今無聞且況軍器全没無余雖賊臨門外無以放一砲列邑挙皆皆如是将若之何云云
長くなってきたので、簡潔に。
「放砲」とあるとおり、東学党もやはり大砲持ってたようで。
勿論、官庫から奪った物なんでしょうけど。

つうことで、前半は勿論「書翰中稍や以上の語と符合する所」ですね。
後半部分は、結局今回の事件の起きた理由と、それを治めるために弊政改革や貪官汚吏の懲戒を行うべきだとする一方で、それに併せて宣撫使と兵力を派遣して、兵力で治める方法も取るべきだ、と。


つうことで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
東学党の乱(十)  東学党の乱(二十)


東学党の乱(二十一)

テーマ:

クリスマスのプレゼントに何を選ぶかってのは、非常に難しいですな。
特に娘の場合・・・。

ってことで、今日も朝鮮側の電報に基づく史料の一つから見ていきます。
杉村臨時代理公使から外務省への、1894年(明治27年)5月21日付『発第59号』より。

1)全羅道監司竝招討使合啓大概
捉得潜踪往来之東徒数十名取招則渠等云我等以忠孝爲本而欲除満朝逆賊也何以謂我逆賊乎問曰汝等抗敵官何得免逆名乎渠曰我等只敵逆賊之兵而何敢抗奉命之京軍乎問日持何謂逆賊之兵乎貪虐之方伯守令豈昨逆賊耶問曰汝之魁首何人答云東道大将軍李也年纔十四歳上通天文下達地理中辨人間禍福且有両元師一曰鄭一曰徐皆英傑雖古之著名良将莫過於此也東道大将李氏自南朝鮮出来而精兵十万踪後出来矣爲之剿滅乱臣之秋也問曰汝之抗戦官軍之時一揮白布帳則矢石砲弾不得穿入何故渠曰見今泰西各以火学得其理也我等以水学得其理水克火也火砲焉能犯水屯乎不必加問故着枷厳囚以待処分挙行云云

2)15日招討使暗電
彼徒万餘名屯聚霊光郡而五里式有伏路軍三十里許二千五百名式其勢浩大一日滋漫不知幾千名四方従者雲集各処往来書字電飛伏悶

3)宮中会議援兵発送に決す
昨日夜(18日夜)将大臣竝爲牌招爛商而壮衛営兵丁3三百名沁営兵(江華島兵丁)五百名当即発送而火乱在兵云云

4)4月15日辰時全羅監司暗電(我5月19日)
午間茂長倅(府使)書報又接興徳公兄(郡吏)文状彼類自茂長外二隊転向霊光云矣今聞霊邑等人回報則該倅閔泳壽載糧乗船避去七山洋凶徒屯結於城内軍器火薬皆任意奪取城門緊鎖不得出入食床外排於城外曹正言金進士両家若不従令殺刧者多此計在擾城頑拒之計也情形転益凶悪

5)同日同時暗電
政府今見霊光倅所報則十二日彼類万余名攔入城中居民渙散剿滅無策不勝惶悶云云

右及御報候也。
最初は、捕まえた東学の徒数十人の取調の話。
「忠孝を本義にするウリ達が、何で逆賊ですか!<#`Д´>」
「いや、実際官吏に抗戦してるのに、何で逆賊の名を免れると思ってんのよ?」
「ウリ達が敵にしたのは逆賊の兵だけで、奉命を受けた京軍と抗戦した事は無いニダ!<#`Д´>」
「逆賊の兵って何よ?」
「貪欲で虐政する地方官のどこが逆賊では無いのですか!<#`Д´>」
「・・・で、君たちの親分って誰?」
「東道大将軍は李氏で、14歳ですね。天文にも地理にも通じて、人間の禍福も分かりますね。ホルホルホル。そして元帥が鄭氏と徐氏2人居て、昔の有名な良将比べても遜色無いですね。東道大将の李氏は朝鮮南部から精兵10万を連れてきたので、乱臣を掃滅できますね。<*`∀´>」
「・・・君たち、官軍と抗戦するとき、白い布を張れば矢や石や砲弾が貫通出来ないとか言ってるけど、あれ、何?」
「今泰西を見ると、火学でその理を得ているので、ウリ達は水学でその理を得ました。何で火が水に勝てますか?<*`∀´>」

何か、頭痛くなってきた・・・。(笑)
っていうか、五行思想とかも東学の下敷きにあったのかな?

で、2つめは5月19日の招討使の機密電報。
東学の徒1万名余は霊光郡に集結し、5里ごとに伏兵を置いて30里で2,500人になる。
彼等の勢力は拡大し、一日に何千人増えてるか分かんねー、と。
なんか、何でそれで傍観してるだけなのか、理解に苦しむわけですが・・・。

3つめは、宮中会議で12月18日のエントリー以降、何度か話には出てきていた援軍派遣の話。
5月18日の夜に相談の結果、壮衛営の兵300人と江華島の沁営兵500人を送ったけど、その兵に騒擾を起こった、と。
何があったんだ?

4つめは、全羅監司の機密電。
茂長の府使や興徳の郡吏の報告では、茂長外の2隊が霊光に向かった、と。
霊邑からの報告によれば、府使の閔泳壽は船に食料を積んで七山洋に逃亡。
凶徒は城内に集まって兵器や火薬を好き勝手に略奪し、城門を固く閉ざして出入り出来ないようにしている、と。

次の「食床外排於城外」は良く分からん。
で、曹正言と金進士の両家では、命令に従わずに斬り殺された者が多い、と。
これは、城で騒ぎを起こして頑強に抵抗する計画だろうってことで、情勢益々悪化。

最後の機密電は、政府が霊光の府使から受けた報告。
つまり、閔泳壽の報告かな?
5月16日に東学の徒1万名余が攻め寄せたため、住民は散り去る。
掃滅する策もなく、勝てないよぉ、と。

んー、4と5の電文見ると、霊光を攻めて、そこに立てこもった話なのかな?


かなり短めですが、今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
東学党の乱(十)  東学党の乱(二十)


東学党の乱(二十)

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クリスマスイブですね。
昨年同様、これうpしたらプレゼントを子供達の枕元に置いてこようと思います。

さて。
長かった清国兵船平遠艦長の直話も終わって、今日からは新しい史料に移れます。(笑)
今までの乱民の史料は、そのほとんどが全羅道か忠清道の乱民に関する報告でしたが、今日最初の史料は、ちょっと離れた慶尚南道の金海の報告になります。
現在の釜山の隣接市ですね。
釜山総領事の室田義文から、この時はまだ外務次官の林薫への、1894年(明治27年)5月19日付『京第23号』より。

近日、全羅忠清両道内に蜂起せる東学党の景況に付、両道監司より其筋へ達したる電文寫等御回付相成、了悉致候。
右東学党の事に関しては、当地方に於ては未だ詳細なる模様相分り不申候得共、先頃当道金海府に於て相起り候一揆の概況、御参考の為め左に掲起致候。

金海府下数千名の人民は、去月29日蜂起して府衛門を襲撃し、府使趙駿九及其家族を趙氏の故郷当道尚州に放逐し、次て大小官吏を捕縛し或は監禁して、甚しき侮辱を加へたりしが、其後朝鮮政府に於ては昌原府使を明査官として同地に派出し善後の策をなさしめ、暴動も目下已に鎮定に帰せり。
今回同府民が暴挙に及びたる原因なりと云ふを聞くに曰、府下に於ては昨年中米穀不作の為め人民一般に疲弊し居るに拘はらず、前府使閔泳啓は苛税を賦課して痛く民心を失ひしが、同府使は本年1月の頃交代し、後任趙駿九も此程府下数名の豪農に対し、多額の納金を命じたるより、同府の民心は之が為め一時に激昂して、遂に此の如き暴動に出でたるものなりとの事に有之候。
右回答旁申進候也
12月5日のエントリーでの閔泳達の密奏を見るまでもなく、この頃はあちこちで一揆が起きてるわけです。
で、全羅道及び忠清道で蜂起している東学党と関係あるか分からないけど、先日金海府で一揆が起きたから一応報告するよ、と。

金海府の数千名の人民は、1894年(明治27年)4月29日に蜂起。
府衛門を襲撃して、金海府使の趙駿九とその家族を放逐。
又官吏を捕縛又は監禁して侮辱を加えたけども、その後朝鮮政府は金海府の西隣にある昌原府使を派遣し、善後策を施して現在は鎮定、と。

ちなみに、高宗実録の高宗31年4月9日(新暦で5月13日)では、趙駿九は民乱で印符を奪われたとして府使を罷免されてますので、この罷免も善後策の一つになっているのかも知れませんね。

で、今回の一揆の原因は、昨年の米穀の不作で人民が疲弊しているにもかかわらず、前府使の閔泳啓が苛税をかけて民心を失う。
さらに1月に府使交代で後任となった趙駿九が、今回府下の豪農に多額の献金を命じたため民心激昂。
今回の暴挙となった、と。

わりと、そりゃ一揆起こすだろという状況ではありますな。

続いて、杉村臨時代理公使から仁川の能勢領事宛の、1894年(明治27年)5月20日付『発第89号』。

此以下は仁川領事宛。

1)陰4月13日卯時(我5月17日)全羅道監司電報
彼徒幾千名向去羅州云故発関該牧使及近邑另加緊守然而空官多処伏悶

2)同日午時忠清監司電報
東徒懐三千名或外屯於沃川懐徳鎮岑文義青山報恩木川等邑只自守官結屯而探偵営校所報内渠等以待魁首而行陣云

3)同日辰時招討使電報(以下缺文)

4)同日卯時忠清道監司電報
東徒帰化兵千余名忽然不知去処痛駭萬萬其所降云者未可信也期於剿滅乃已耳

5)同日午時招討使電報
即聞金世豊之子婚弟姪十一名逃去符同彼徒掛書托全州南門樓而其書云方今之事勢不可坐以待死也雖兵百萬猛壮三千各信地以待期日延逢天師矣禍色迫頭故更飭各部将士飛書千里以速爲主可也以国事論之所謂執権大臣者皆曰以閔爲姓盡宵満腹経営只切於腹己之私慾其党派在各邑日事害民民何能支保乎所云招討者人本無識来此以後畏劫東道之威不得出兵而妄殺賢良有功之人渠雖釣名飭邪之策未久必受毒刑而死矣三年之内国帰於俄人帰於洋可不惜乎是故東道大将挙義兵以安民生云此徒之所謂尤極駭痛内外兵火速調度下送之地伏望

6)同十三日全羅監司電報
領官以下死亡即爲啓聞之不暇而連飭該地方官詳爲摘奸則統称一百十四名外自営探知并爲平人兵丁与負褓商守城軍各邑砲軍及屠漢輩散而未合姑難辨其死生実数故修啓自京遅滞方甘飭其邑使之査探各邑軍器挙皆見奪今無両高出給者未奪邑則今将使其邑防守黄土山即道橋山是也而己爲啓聞彼情隨探修啓京軍餉需以公穀公銭中画給計料

7)同日亥時招討使電報
沁営(江華営)兵丁何日下来軍刀十柄好品(原文自起熿の三字あり。不明に付略)下送伏望元世禄此日探還方使李斗璜李学永率二隊兵出送金溝泰仁高敞興徳等地縁由

右及御報候也
この辺、全く重要でないものと重要なものと入り交じっているんですが、取りあえず。

まずは、5月17日の全羅道監司の電報。
東学の徒数千人が羅州に向かったので、羅州の牧使と近隣の邑に文書でしっかり守るように言ったけど、官吏が居ない所が多くてねぇ・・・。(´・ω・`)

つうか、12月18日のエントリーでも言ったけど、羅州ごちゃごちゃしすぎ!
わけわかめ。
そのまま取れば、崔法軒への援軍なんでしょうけどね。

2つ目は忠清道監司の電報で、東学の徒3,000人、或いはそれ以上が沃川・懐徳・鎮岑・文義・青山・報恩・木川邑等に駐屯してるけど、何か首魁を待って行軍するみたい、と。

3つ目の招討使洪啓薫からの電報は欠文。

4つ目は同じく5月17日の忠清道監司の電報。
この帰化は、後半彼等が降伏すると言ったのは信じられないので、掃滅しなきゃ駄目でしょうってあるので、帰順するって言った降伏兵って事なのかな?
その1,000余名が急に姿消した、と。
つうか、いつの間にそんな状況に???

5つ目が招討使洪啓薫からの電報。
金世豊ってのが何者か良く分からないんですが、家族等11人と逃走し、東学の徒とぐるになって南門に文を掲示。
その文中では、閔氏一族の私欲や、地方官となっているその党派が民を害している事を批難し、招討使は無識でこっちに来て東学党にビビって軍隊を出せず、賢くて善良で功がある人を殺してるから、必ず残酷な刑罰を受けて死ぬっしょ。

で、ポイントは次の「三年之内国帰於俄人帰於洋可不惜乎」ですね。
「俄人」だとロシア人になっちゃうわけで、恐らく駐韓公使館記録に起こす時に「倭人」を誤読したんじゃないかなぁ。
ロシア人、この時期ほとんど朝鮮半島に居ませんし。
まぁ、どっちにしろ「斥洋倭唱義」な感じですけど。(笑)
でも、ここでは「俄人」と「洋」。
つまりロシア人と西洋。
ってことで、3年以内に国が日本か西洋の属国なっちゃうよぉ、と。

6つ目は、また全羅道監司の電報。
この時点での死亡者数の話かな?
地方官は114名で、その他平民兵士と負褓商、各邑守備兵・砲軍、白丁などは不明であり、そのため報告が遅れた、と。

後は、前回不充分な兵糧というか、「お前等、ピクニックかよ!」という程度の兵糧しか持っていなかった招討軍ですが、公穀と公銭で支給する計画って話が面白いですね。

で、最後も再び招討使からの電報。
江華営の援軍は何時来るのか、と。
次の、軍刀十柄が何のために必要なのかサッパリ分かりませんが、送って下さい、と。

んで最後に、元世禄が偵察から帰ってきたので、李斗璜と李学永に2隊を率いさせて金溝・泰仁・高敞・興徳等の方面へ向かわせた、と。
何しに?(笑)


今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)
東学党の乱(十)


東学党の乱(十九)

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1894年(明治27年)5月18日付『機密諸第5号』の別紙、清国兵船平遠艦長の直話について、12月21日のエントリーで「日本の商人と中国の軍艦の艦長の話とだったら、どっちを信じるかと言ったら、微妙だよなぁ・・・。(笑)」なんて言ってたわけですが、話の大筋としてこれまでの史料とほぼ整合しますね。
まぁ、各数値や事の起きた場所なんかの詳細部分は、若干違う部分は勿論ありますけどね。

ってことで、今日もその1894年(明治27年)5月18日付『機密諸第5号』の別紙、清国兵船平遠艦長の直話の続きを見ていきたいと思います。
前回は、平遠号から砲手長と水兵1名と朝鮮人従者1名の、沿江地方の報告でした。
今日もその続きから。

此他、途中中国人は勿論日本人にも出会せず、又日本人徘徊するの説あるを聞かざりしと(此一節、小官の直問に答へて云ふなり。)
平遠号、群山停泊中同洋面に於て2艘の日本漁船を看留めたるが、其1艘は売魚の為め同艦に来りたり。
其輩は、日中漁業に従ひ、夜は石褐色嶋上に棲息するものにして、同島には小村落あり、又た飲料水ありと云ふ。
この他、途中中国人にも日本人にも出会わず、日本人が歩き回っている話も聞かなかった、と。
ただ、平遠号が群山沖に停泊していた際に2艘の日本の漁船を見かけ、そのウチの1艘は平遠に魚を売りに来た、と。
ウハハ、逞しいな。(笑)

で、彼等は日中に漁業を行い、夜は石褐色島に住んでおり、そこには小さな集落があり、飲料水もあるという、と。
つうか、東学党の乱とかと何の関係があるんだ?(笑)

同艦は、初10日迄(5月13日)群山洋面に停泊し、同日解纜。
昨13日(5月16日)下午4時仁川へ帰着せり。
同艦が群山抜錨の際迄は、全州に駐屯せる洪招討使の親軍は未だ一回も交戦せし事なきは勿論、日に惟だ乱民の解散を待つものの如くなりしと云ふ。
初め洪が親軍300余を率ひて平遠号に搭じ仁川を発するや、李艦長は其毫も糧餉の備なきを慮かり、餱糧は如何にするやと問ひしに、洪は答へて「此次率ゆるところの親軍800余名に対し、已に麺包1,000封度の分与したれば餱糧は充分なり。此儀は敢て尊慮を煩はさざるべし」と云へるを以て、艦長は再び洪に向ひ、「1,000封度の麺包を800余人に分けば1人僅かに1封度余に過ぎず。是れ、壮丁の1飯に飽かしむるに足らず。宜しく留めて戦地行軍の用に充つべし」とて、同艦に搭載せる300余名の兵士へは艦内にて飮食を与へたるが、群山へ到着せる頃は、各其携ふるところの麺包を検せしむるに、概ね其1半を吃了せり。
因て思ふに、蒼龍・漢陽等の船内にては食料を支給せざれば、該2船に分載せる500余名の親軍は、群山到達以前に早くも其餱糧は全く尽きたるならん。
又聞く所に拠れば全営到着後糧食欠乏の為め、200余名の病者を生ぜりと云ふ。
平遠は5月13日に群山を離れ、5月16日に仁川に到着した、と。
んー、来るときより更にゆっくりしたペースですな・・・。
で、平遠が群山を離れるまでは、全州の招討軍は未だ一度も交戦したことが無いのは勿論、日々ただ乱民の解散を待っているかのようだ、と。

洪啓薫が招討軍300人余りを率いて平遠に乗り仁川を出発するや、李艦長は少しも糧食の備えが無いのを思いはかり、「お前等、飯どうすんのよ?」と聞くと、洪啓薫は「今回の800人には、已にパン1,000ポンド配ってあるから大丈夫!気にすんな!」。
そこで艦長は、「1,000ポンド配ったって、1人頭1ポンドくらいじゃん。成人男子の1食にも足りねー。それ、そのままにして行軍の時に食べな。」と言って、船中では平遠の物資で飲み食いさせてやったんですね・・・。
・・。
・。
_| ̄|○

何か、目眩してきた。(笑)
いや、確かに12月9日のエントリーでもパン2,000斤とかあったけどさ、マジでそれだけしか飯持ってないとは思わなかった。

つうか、何しに行く気だったんだ?お前等。(笑)

おまけに、折角船内では平遠の食料とか貰っていながら、群山に到着したときに検査したら、ほとんどが半分位パン喰っちゃってる。(笑)

で、飯を船内で出した平遠ですらこんな有様なわけで、蒼龍・漢陽では飯出ないんだから、あっちに乗った500人くらいは群山に着くまでに全部喰っちゃったんじゃない?と。
というわけで、聞くところに拠れば、全州監営に到着後食糧不足で200余名の病人が出た、と。
それ、本当に病人か?(笑)

12月21日のエントリーで、袁世凱は水陸移動の疲労で病気になったと言ってたわけですが、それだけで逃げる者が出る筈も無く。
積載された食料なんかも見るに、恐らく食糧不足ってのは正しいのでしょう。

洪啓薫初め一行は、乱民鎮定の上は陸路京城に帰る積りなる由、船上同人より聞き込みたりしと。
援兵添派の説は、之を聞かざりしと。
群山にて洪啓薫上陸の際は、提督の礼を以て祝砲15発を打発したるのみにて、其後は1回も打発せざりし。
親軍の携へたるは、6斤砲4門、ガトリング2門なり。
(此時小官問。示威的発砲はなさざりしや。答。何分乱民屯聚の地は遠く100余里外にあるを以て、到底砲声の達すべきに非れば、示威の効力を見ず。故に1回も発砲せざりし云々)
駐京清国使署武員徐国峻なるものは、平遠号に搭じ、洪啓薫と共に全州地方に赴き、于今営内に滞在せりと。
其行軍者は5名なりしと。
而して其何者なるかを問へば、兵勇(ソルヂヤー)には非らず。
去りとて商人にもあたずと答へたり。
其何の為めに赴きたるやを問へば、即ち曰く、袁の命にて軍容観察の為めなりと。
平遠号は、其筋より命令あるにあらざれば、目下再び群山に向ふべき見込みなし。
尤も、自今2、30日間は仁川に碇泊すべしと云ふ。

以上、5月18日平遠号の尋問の上、同艦長李和氏に就き直聞したるところを記す。
洪啓薫は、乱民を鎮圧したら陸路で京城に戻るつもり。
援軍派遣の話は聞いていない。
群山で洪啓薫が上陸した時に、提督の礼として祝砲15発は撃ったが、その後は1発も撃っていない。
招討軍が持って行ったのは6斤砲4門とガトリング2門。

そこまで話が来たときに、能勢領事が示威的な発砲もしなかったの?と聞くと、群山沖で撃っても砲声聞こえないし、示威にならないから1回も撃ってないよ、と。
まぁ、確かにかなりの距離ですし、12月19日のエントリーで商人等が聞いたのは、別の砲声であって、平遠発砲は最初の祝砲だけってのは論理的には妥当でしょうね。
まぁ、12月7日のエントリーで袁世凱が「一発の破裂弾を放たば直に鎮静すべきは勿論」なんて言ってるので、断言できないのが辛いところですが。(笑)

で、これまで日本側もかなり気にしていた清国兵の帯同等については、12月16日のエントリーでの袁世凱の直話や、12月19日のエントリーでの今回の平遠艦長の直話の冒頭のとおり、清国公館の駐在武官徐国峻が洪啓薫と共に全州に向かい、現在も滞在。
同行者は5名というわけですが、12月16日のエントリーでの袁世凱の直話では、巡査2名と水兵8名が随従してた事になっており、それだと、割と「ソルヂヤー」。(笑)
12月19日のエントリーでは、朝鮮語通訳が士官4名水兵20名と言っていましたが、さて、どれが正解なんでしょうねぇ・・・。

で、平遠号は、その筋からの命令が無い限り、現在の処は群山に再び向かう見込みは無い。
尤も、2~30日間は仁川にいるけどね、と。

というわけで、1894年(明治27年)5月18日の清国軍艦平遠号艦長李和氏の直話でした。
ちなみにこの李和艦長、黄海海戦の際も平遠号の艦長として参戦しております。

何か、量的に多いのもそうなんですが、内容的にも重要だったり、久しぶりにハゲワラな記述があったりで、随分と長くなってしまいましたね。


ってことで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)
東学党の乱(九)
東学党の乱(十)


東学党の乱(十八)

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前回は、1894年(明治27年)5月18日付『機密諸第5号』の別紙、清国兵船平遠艦長の直話から、招討軍が仁川を発って全州に着くまでを見ました。
今日はその続きから。
では早速。

乱党は古阜・泰仁・扶安・茂長・高敞・金溝6県に延蔓し、又錦山・砺山にも蜂起せりとの事。
初6日、全羅営兵300、負商500を以て乱民を古阜斗升山に迎撃せしも大敗し、多く鳥槍刀械を奪掠せられたりとの報あり。
井邑・古阜・蓮池・茅川江辺一帯地方大小官吏逃避し、招討使行軍の心なく、初8日、先100余名を興徳に選派し敵情を偵察せしめ居れり。
乱民が蔓延したとされる古阜・泰仁・扶安・茂長・高敞・金溝は、全て全羅北道の西~南西部。
尤も、金溝は極めて全州に近いですが。
蜂起の話がある錦山は、全州を挟んで反対の北東部。
砺山は、全州の真北になります。

5月10日に、全羅道の地方兵300人と負商500人が、乱民と古阜斗升山で激突し、大敗。(笑)
おまけに武器を奪われてみたりするわけです。
12月20日のエントリーでは、益山で200名近い死者を出したとされていましたが、恐らくは同一の戦闘と思われます。

で、次の井邑・古阜・蓮池・茅川江辺のうち、蓮池とか茅川江とかが良く分からないんですが、兎も角その辺一帯の官吏は皆逃亡。
招討使はこの時、群山から全州への移動中ですが、全くそちら方面へ行軍する気がない。(笑)
で、全州に着いた翌日の1894年(明治27年)5月12日に、100余名を興徳に派遣して敵情視察、と。


地名だけだとちょっと分かりづらいと思うので、ちょっと白地図にこれまで出てきた重要地点を記してみました。
位置関係のイメージ把握優先なので、正確な緯度経度に基づく物でない事は先に言っておきます。

東学党の乱地図ver1
(クリックで拡大)


んー、割と壮観。
勿論、叛乱場所が。(笑)

元来今回の乱民は、所謂東徒と異なり、専ら良民が官家の重斂を怨望して報仇を謀るにあり。
各竹杖・木棍を携へ夜に乗じて起り、昼は家居して騷擾する事なしと。
前日井邑にて棍徒70余人を生擒せるが、東徒は僅かに5、6名に過ぎず、此等は逮捕し良民は即地責放せり。
乱民の頭目は李龍和と称し、年紀13歳なりと云(此書信は、小官熟覧し、地名の如きは寫し取れるものなり)。
元々今回の乱民は所謂東学党とは異なって、良民が官吏の苛斂誅求を恨んで報復に出たものだ、と。
竹杖や木棍を持って夜に乗じて乱を起こし、昼は家にいて騒擾しない。
タチ悪ぃ。(笑)

で、次の「前日」はそのまま5月11日で良いのかな?
それとも先日の意味かな?
兎も角、井邑で70人ばかり乱徒を生け捕りにしたけれども、東学の徒は僅か5~6名に過ぎず、これは逮捕したものの、残りの60人以上の良民は釈放しちゃう。
東学は禁止されているから逮捕されるのは当然として、騒擾起こしても釈放しちゃうのかぁ・・・。

乱民の頭目は李龍和といい、13歳・・・?
書き間違いではなく、恐らく、自分でそりゃないだろと仁川の能勢領事が思ったために、ちゃんとその書信を熟覧した旨が附記されているのではないかと思われます。
いや、書き間違いとか、元文書から駐韓公使館記録に起こした人の間違いの可能性もあるけど。(笑)

平遠号より砲手頭目(准士官)水手各1名、朝鮮人従僕(此れは当港にて雇入れ、支那服を着用せるもの)1名を伴ひ、歩行して沿江地方に赴きしが、全州には至らずして初8日半途より帰報する所に由れば、到処民人其途に安んじ、耕やすものは耕し織るものは織り、稍や騷色なし。
問ふに乱党蜂起の事を以てすれば徐ろに答へて曰く、此次乱民の官衙を鬧がせるは、固より社稷を顛覆せんとするに非らず。
又、我等百姓を惨害せんとするものにあらず。
只だ、官に怨みありて事の茲に及べるなれば、当道官吏こそ狼狽もせん。
我等は少しも相干するところなしと。
群山近傍の如きに至ては、殆んど風馬牛相及ばざるが如し。
平遠号から、砲手長と水兵1名と朝鮮人従者1名で歩いて沿江地方に赴き、全州には行かないまま5月12日に帰ってきての報告によれば、至って平穏。
乱党蜂起について聞いてみると、「いや、今回乱民が官衙を騒がせでるのは、革命とかじゃねぇべ。
勿論、わぁんど百姓さ惨いことするわけでもね。
ただ官吏に恨みがあってこった事してるはんで、官吏もうるだえでらんだべや。
わぁんどさ関係ね。」と。
む。
更に現代語訳しなきゃ駄目だろうか・・・。(笑)

で、次の「風馬牛相及ばざるが如し」って何の故事?と思ってpolalis氏に聞いてみると、「左伝」と即答をもらいました。
「風馬牛不相及」で、何の関係もないことの例え。
まぁ、騒擾起きてるとこでも「関係ね。」とか言うくらいですしねぇ。

又た、沿路風説を聞くに、初6日(即ち洪啓薫全州に達するの前壹日)全羅監営より旧式鳥槍兵300名并に負商数百を以て、乱民1,000余名と古阜の斗升山に交戦し、勝敗未だ分れざるに当り、乱党数百名不意に山後より出でて営軍の後を襲ひ之を夾撃したるを以て、営軍大敗。
死傷12、30名ありしと(此一事、徐の書柬と符合す)。
又、古阜・泰仁・井邑地方に屯集する乱党2万余人と云へ共、是れ引続き一地方に備ひを立て陣を列ねて屯在するにあらず。
不意に嘯聚して官衙を鬧がし、軍器糧食を掠め去るかと思へば、忽ち去て各其業を営むなど、総じて土民烏合の衆なれば、本より一定の人数なきが如し。
また噂では、5月10日に全羅監営は旧式鳥槍兵300人と負商数百人で乱民1,000名と古阜の斗升山で交戦。
勝敗がまだ決まっていない時に、乱民側数百名が突如背後から奇襲し、本隊と挟撃した事によって、官軍は死者120~130名を出して大敗するんですね。

つうか、どう見ても乱民側の方が戦術的なんですが・・・。

で、古阜・泰仁・井邑地方には乱民2万人余が集まっているというけども、これは一つの地方で引き続いて陣を構成しているわけではなく、不意にあつまって官衙を騒がし兵器や食糧を略奪するかと思えば、たちまち去って各自の仕事に戻るなど、総じて烏合の衆であり、元々一定の人数が算出できるわけでは無い、と。
まぁ、ゲリラ戦やりたい放題って事ですな。


つうことで、長くなってきたので今日も途中までで。



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