< 2006年11月のエントリー >
スチーブンス暗殺事件といい、李承晩の逮捕話といい、なんか中途半端なエントリーばっかりだったなぁ。
申し訳なし。
結局、スチーブンス暗殺事件(五)スチーブンス暗殺事件(六)での、スチーブンスや田明雲に関する新聞記事が一番面白かったり・・・。


今月の回顧録(2006年8月)

独立協会系の話は、一回年月日入りで整理したいと思ってる。
結構大事だし。
ただ、その年表に大臣の入れ替わりまで書くかどうかは未定。(笑)


今月の回顧録(2006年9月)

強制譲位とか、面白くなかったかなぁ・・・。(まだ言ってる・笑)
後は、『朝鮮戸籍及寄留例規』のテキスト化は、宿題を沢山残してくれました。(笑)


今月の回顧録(2006年10月)

もう一回言っておきますが、李周會と尹錫禹と朴銑は、閔妃暗殺の罪ではなく、謀反の罪で処刑されてますから。
逆に、裁判宣告書上は朴銑が閔妃を殺したものとされてるわけで、稀に禹範善や趙義淵は謀反罪で閔妃殺害の罪に問われたわけではないとか言う韓国人が居ますが、閔妃殺しても問われてる罪は謀反罪ですから、と。( ´H`)y-~~


張嬪

『張嬪、朝鮮宮中物語』について、井上馨が「捏造だし杜撰だし韓国人の感情を損なうし、国際上でも憚られるから、発禁ヨロ」として発禁になった話。
張嬪そのものについて調べてみたいとは思ったものの、何の史料見れば良いかさえ、皆目見当も付かず。


スチーブンス暗殺事件(一)

スチーブンスが渡米し、フェアモントホテルで韓国人と会談。
殴りかかられるという事件が発生。
その翌日、スチーブンスは銃撃されます。


スチーブンス暗殺事件(二)

頗る良好だった筈のスチーブンスの容体。
でも容体急変し、開腹してみたら貫通創6ヶ所を発見。
1908年(明治41年)3月25日午後11時10分、ダラム・ホワイト・スチーブンス死去。


スチーブンス暗殺事件(三)

スチーブンスの死去に伴って、日本政府及び韓国政府から遺族扶助合計20万円が贈与される事になります。
そして、アメリカ出発前に残した、自らが死ぬのを予感していたかのような手紙・・・。


スチーブンス暗殺事件(四)

サンフランシスコ・クロニクル所載記事で、「この売国ヤツよ!<#`Д´>」と根拠なく非難する張仁煥。
ロサンゼルス新聞所載記事抄訳で、「可哀想なヤツ。( ´H`)y-~~ 」と憐れむスチーブンス。
ENJOY Koreaの縮図。


スチーブンス暗殺事件(五)

フェアモントホテルで自分に殴りかかった韓国人についても、暴行者を捕縛しないことを希望していたスチーブンス。
相手を殺して自分も死のうと決意して、55歳のスチーブンスに殴りかかり、自分より強かったから逃げる田明雲(25歳)。


スチーブンス暗殺事件(六)

この回はあまり重要な話でもなく・・・。
ただ、韓国統監府在東京出張事務所っつうものが在るのが分かったってのは収穫。


スチーブンス暗殺事件(七)

スチーブンスの裁判関連で送られた資料、表題見ただけで美味しそうなんだよねぇ・・・。
まぁ、内容的には前回同様あまり面白い者でもなく。


スチーブンス暗殺事件(八)

スチーブンスの追悼会と遺産の話。
主にそれだけ。


スチーブンス暗殺事件(九)

スチーブンス暗殺事件に関するハングル新聞の論調。
「元来頑迷固陋にして時勢の如何を知らざる韓人輩が、其国権恢復、大韓独立等の文字の美にして其の辞の彼等を魅するよりして、何等深謀底意あるなく唯単に空文傲語に雷同して以て快となすは、其の母国に在ると外国にあるとを論ぜず一般韓民の常性に有之。」という表現、素敵。(笑)


スチーブンス暗殺事件(十)

ウラジオストックのハングル新聞「海朝新聞」では、田明雲と張仁煥は自首した事になってるらしい。(笑)
そして、調子ぶっこいてメソジスト派宣教師のビショップ・ハリスまで暗殺しようとする在米韓国人。
もう、日本に味方すれば、見境なし。( ´H`)y-~~


スチーブンス暗殺事件(十一)

在米韓国人組織、共立協会・大同保国会・合成協会の概要が分かります。
エントリーには書きませんでしたが、韓国では共立協会って安昌浩が作った事になってます。
根拠が何かは未調査ですけど。


スチーブンス暗殺事件(十二)

ここで唐突にロシア領内の状況。
アメリカで裁判していた筈の田明雲が、何故かウラジオストックに。
割と英雄扱いされてるわけですが、相手を殺して自分も死のうと決意して、55歳のスチーブンスに殴りかかり、自分より強かったから逃げた田明雲(25歳)が、どのような心情だったのかは、私には分かりません。(笑)
そして、それ以外の在ロシア韓国人の情報も失笑もの。


スチーブンス暗殺事件(十三)

スチーブンス暗殺事件(十二)」と同様に、在ロシア韓国人の情報を中心に、ウラジオストックにいつの間にか来ていた田明雲の情報も。
っていうか、ロシアに逃げ込んでる所謂「義兵」。
日本人には金目当てと思われてますな。( ´H`)y-~~


スチーブンス暗殺事件(十四)

突如入った、ウラジオストックに田明雲現るの報に、ゴタゴタする外務省。(笑)
この辺の報告は、単に間違ってるのかわざとなのか真偽も怪しい報告なんですが、田明雲の裁判記録を見れていないので、確定できず。


スチーブンス暗殺事件(十五)

張仁煥の刑は、禁錮25年で確定。
ここから、張仁煥の裁判の模様が始まります。


スチーブンス暗殺事件(十六)

張仁煥の裁判の模様の続き。
つうか、義挙とか言う割に狂人のふりしてんじゃねーよ、と。(笑)


スチーブンス暗殺事件(十七)

張仁煥の裁判の模様の続き。
アメリカの裁判ですので、当然陪審員制度。
張仁煥は、2等殺人犯と判定されます。


スチーブンス暗殺事件(十八)

張仁煥裁判宣告の巻。
陪審官に2等殺人犯と判定された張仁煥ですが、刑期は一般的な2等殺人犯の刑期より、かなり重い判決だったようです。


スチーブンス暗殺事件(おまけ)

久しぶりに、独立記念館の記述をいぢってみました。(笑)
勿論対象は張仁煥と田明雲。
他の有名「義士」と較べて、若干必死さが足りないです~。( ´H`)y-~~
独立記念館は力出しなさい~。(笑)


帝国の迷走(四十九)

帝国の迷走(四十八)」の続きを唐突に。
中枢院及び万民共同会が、朴泳孝の入閣を目指す話ですね。


帝国の迷走(五十)

中枢院及び万民共同会による朴泳孝任用問題に関して、高宗激怒。
上疏筆頭者の逮捕を命じたり、「亡命者は永遠に許さないもんね。( ´H`)y-~~」という詔勅を出したり・・・。


帝国の迷走(五十一)

朴泳孝任用問題で火病の収まらない高宗。
中枢院の議官等の処分にまで発展。
ここで、1899年(明治32年)1月3日、李承晩が中枢院の議官を罷免されております。


帝国の迷走(五十二)

この回は朴泳孝任用問題にはあまり関係なく、その他の問題に関する話。
金無い国が金無い時に体面ばっかりに拘って金使うって、やっぱ終わってるよね。( ´H`)y-~~


衆議院議員選挙法中改正法律(一)

朝鮮半島における衆議院議員選挙の話について。
まぁ、メモ書き。(笑)


衆議院議員選挙法中改正法律(二)

朝鮮半島における衆議院議員選挙の話についてのメモ書きその2。
1945年(昭和20年)4月1日公布の「衆議院議員選挙法」改正は、結局一度も施行されないまま終了することになりました。


何か知らないけど、やっぱり今月のエントリーって、薄味な気がする。(笑)



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前回からお送りしている1945年(昭和20年)4月1日公布の「衆議院議員選挙法」改正の内容。
何か淡々と進んでますが、それほど変なところがないんですもの。(笑)
ってことで、今回も淡々とアジア歴史資料センター『御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律/御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律(レファレンスコード:A04017707700)』の続きを。

第157條
本法中県に関する規定は朝鮮に於ては道に、臺灣に於ては州に、県庁に関する規定は朝鮮に於ては道庁に、臺灣に於ては州庁に、郡に関する規定は朝鮮に於ては郡又は島に、澎湖庁に於ては庁に、支庁長に関する規定は朝鮮に於ては郡守又は島司に、臺灣に於ては澎湖庁長又は郡守に、支庁に関する規定は朝鮮に於ては郡庁又は島庁に、臺灣に於ては澎湖庁又は郡役所に之を適用す。

朝鮮に於ては、本法中市に関する規定は府に、市長に関する規定は府尹に、市役所に関する規定は府庁に之を適用す。

京城府に於ては、前項の規定に拘らず、本法中市に関する規定は区に、市長に関する規定は区長に、市役所に関する規定は区役所に之を適用す。
但し、第12條の規定の適用に付ては、其の日迄引続き6月以上其の市町村内に住居を有する者とあるは、其の日迄引続き6月以上其の府内に住居を有し、且其の日に於て其の区内に住居を有する者とす。

本法令中、町村に関する規定は朝鮮に於ては邑面に、臺灣に於ては街庄に、町村長に関する規定は朝鮮に於ては邑面長に、臺灣に於ては街庄長に、町村役場に関する規定は朝鮮に於ては邑面事務所に、臺灣に於ては街庄役場に之を適用す。

第144條の2の規定は朝鮮に、同條及第145條第1項の規定は臺灣に之を適用せず。
基本的に、内地の行政機関や行政区分を、朝鮮や台湾でのそれに置き換える規定ですね。
ま、特に問題はありません。

第158條
第10條の規定を除くの外、本法中官吏とあるは、朝鮮に於ては邑面長を、臺灣に於ては街庄長を含むものとす。
第10條は、「官吏及待遇官吏は、左に掲ぐる者を除くの外、在職中議員と相兼ぬることを得ず」として、「国務大臣・内閣書記官長・法制局長官・各省政務次官・各省参与官・内閣総理大臣秘書・各省秘書官」が議員と兼職出来ない事を定めた条項です。
ここで述べられた「官吏」以外は、この法令で官吏とあるのは朝鮮では「邑面長」を含み、台湾では「街庄長」も含む、と。
読替とほぼ同義ですね。

第159條
第16條第1項中、地方裁判所に関する規定は、朝鮮及臺灣に於ては地方法院合議部に、同條2項中大審院に関する規定は朝鮮に於ては高等法院に、臺灣に於ては高等法院上告部に、第84條第2項中検事に関する規定は朝鮮に於ては朝鮮総督府検事に、臺灣に於ては臺灣総督府法院検察官に之を適用す。

本法中、刑事訴訟法とあるは、朝鮮に於ては朝鮮刑事令に於て依ることを定めたる刑事訴訟法とす。
これも、内地の「地方裁判所」に対して、朝鮮及び台湾における当該司法機関の読替ですね。
これまた特に問題なし。

同表中北海道の部の次に左の如く加ふ。

(前略)

京畿道   3人
忠清北道 1人
忠清南道 1人
全羅北道 1人
全羅南道 2人
慶尚北道 2人
慶尚南道 2人
黄海道   2人
平安北道 2人
平安南道 2人
江原道   2人
咸鏡北道 2人
咸鏡北道 1人

(後略)
合計23人ですな。
ちなみに、日本で最も少なかった選挙区は、鳥取県の4人。

本法中第6條及第140條の2の改正規定、附則第3項の規定竝に樺太、朝鮮及臺灣に関する改正規定の施行の期日は、各規定に付勅令を以て之を定め、其の他の規定は公布の日より之を施行す。

本法施行に関し必要なる事項は、勅令を以て之を定む。

裁判所構成法戦時特例中、左の通改正す。
第6條に左の1項を加ふ。
第2項の規定は、衆議院議員選挙法第149條の2の規定の適用を妨げず。
第6條の改正規定とは、「「刑法」を「刑法(朝鮮刑事令及臺灣刑事令に於て依る場合を含む)」に改む」。
第140條の2の改正規定は、「第16條及第84條第2項の規定に依る訴訟竝に第12章に掲ぐる罪に関する訴訟に付、上告裁判所が大審院に非ざる場合に於て、法律の同一の点に付曾て大審院其の他の上告裁判所の為したる判決と相反する意見あるときは、決定を以て事件を大審院に移送することを要す。前項の決定ありたるときは、訴訟は上告を為したる時より大審院に繋属したるものと看做す」。
これと上記附則第3項、そして樺太と朝鮮と台湾に関する改正規定の施行期日は、各規定について勅令で定める、と。

ま、大体以上ですな。
制限選挙であること以外は、さして特記することも無い規定ですね。
勿論この法律、結局敗戦によって、1946年(昭和21年)8月21日法律第8号により、1945年(昭和20年)法律第34号(衆議院議員選挙法の一部を改正する法律)中まだ施行していない部分の廃止に関する法律として、一度も施行されることなくその運命を終えております。


おしまい。



衆議院議員選挙法中改正法律(一)


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以前、ENJOY Koreaで画像だけ挙げたスレッドがありまして。
忘れないウチにテキスト化しておこうか、と。

で、表題の件。
勿論、ただの衆議院議員選挙法の改正であれば当ブログで扱う必要も無いわけで。
半島絡みの改正という事になります。

アジア歴史資料センター『御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律/御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律(レファレンスコード:A04017707700)』の中から、直接関係する「第14章 朝鮮及台湾に於ける特例」を抜粋してテキスト化すると共に、簡単な解説を付して今日と明日に分けてお届けしようか、と。
尚、改正法律中、別条項が記載されている部分を解説で参照している部分は、大正14年法律第47号「衆議院議員選挙法改正」の条文に拠っておりますので、それ以降部分的に変わっている点があるかもしれませんが、ご容赦を。
それでは、1945年(昭和20年)4月1日公布の「衆議院議員選挙法」改正の内容を。

第十四章 朝鮮及臺灣に於ける特例

第151條
朝鮮及臺灣に於ては、第5條第1項の規定に拘らず、帝国臣民たる年齢25年以上の男子にして、選挙人名簿調製の期日迄引続き1年以上直接国税15円以上を納むる者は選挙権を有す。

法令に依り軽減又は免除せらるる直接国税は勅令の定むる所に依り、前項の規定に依る納税資格要件に関しては軽減又は免除せられざるものと看做す。

前2項の直接国税の種類及計算に関しては、勅令を以て之を定む。
第5條第1項の規定とは「帝国臣民たる男子にして、年齢25年以上の者は選挙権を有す」。
つまり、普通選挙(男子のみ)である部分が、朝鮮と台湾に於いては更に直接国税15円以上という制限が加えられ、制限選挙の形となっています。
日本が衆議院選挙を導入した当初と同じですな。

第152條
朝鮮及臺灣に於ては、選挙人其の住所を有する府邑面又は市街庄外に於て前條の直接国税を納むるときは、命令の定むる所に依り、9月20日迄に其の住所地の府尹、邑面長又は市街庄長に其の旨を届出づべし。
其の期日迄に届出を為さざるときは、其の納税は選挙人名簿に登録せらるべき要件に算入せず。

朝鮮及臺灣に於ては、第12條第4項の規定に拘らず、選挙人名簿には選挙人の氏名、住居、生年月日及納税額等を記載すべし。
第12條第4項は「選挙人名簿には選挙人の氏名、住居及生年月日等を記載すべし」。
第151條で国税の納税額による制限選挙の形を取りますので、それに合わせて選挙人名簿にも納税額が項目として規定されている事になります。

第153條
朝鮮及臺灣に於ては、第79條第1項、第6項及第7項の規定は、議員の定数1人の選挙区に付ては之を適用せず。

前項の選挙区に付ては、第79條第5條中其の闕員の数、同一選挙区に於て2人に達するを待ち、最後に第2項の規定に依る通知を受けたる日とあるは、第2項の規定に依る通知を受けたる日とす。
第79條第1項「議員に闕員を生ずるも、其の闕員の数同一選挙区に於て2人に達する迄は、補闕選挙は之を行はず」。
第79條第6項「補闕選挙の期日は、地方長官少くとも14日前に之を告示すべし」。
第79條第7項「第75條第2項乃至第4項の規定は補闕選挙に之を準用す」。
ということで、議員の補欠に関する規定なわけですが、当然定数1の選挙区では欠員が2人になる筈もなく。

代わりに定数1の選挙区では、第79條第5項の「其の闕員の数、同一選挙区に於て2人に達するを待ち、最後に第2項の規定に依る通知を受けたる日」を単に「第2項の規定に依る通知を受けたる日」にする、と。
これで、欠員が出次第、次点の繰り上がり当選や再選挙が行われるわけですね。

第154條
朝鮮及臺灣に於ては、選挙委員、選挙運動の為使用する労務者又は選挙運動の費用に付、第93條第1項、第93條の2第1項又は第102條第1項の規定に拘らず、勅令を以て特別の規定を設くることを得。

前項の規定に依り、選挙委員若は労務者の数又は選挙運動の費用の額を定めたる場合に於ては、本法の適用に付ては之を第93條第1項若は第93條の2第1項又は第102條第1項の規定に依る定数又は額と看做す。
第93條第1項「選挙委員及選挙事務員は、議員候補者1人に付通して50人を超ゆることを得ず」。
第93條の2第1項は何時の改正によるものか、ちょっとそこまで調べていない。
第102條第1項「選挙運動の費用は、議員候補者一人に付、左の各号の額を超ゆることを得ず」(以下各号略)
ということで、選挙運動に関しては勅令で別途規定を設けることが出来る、と。
まぁ、恐らく開始当初ですので、内地とは規模も違うでしょうしねぇ。

第155條
(臺灣のみの規定のため省略)


第156條
第76條中、内務大臣とあるは、朝鮮に於ては朝鮮総督を経て内務大臣、臺灣に於ては臺灣総督を経て内務大臣、第86條第1項及第2項竝に第143條中内務大臣及関係地方長官とあるは、朝鮮に於ては内務大臣、朝鮮総督及関係道知事、臺灣に於ては内務大臣、臺灣総督及関係州知事とす。

第79條第2項中、地方長官とあるは、朝鮮に於ては朝鮮総督を経て道知事、臺灣に於ては臺灣総督を経て州知事とす。
此の場合に於ては、朝鮮総督又は臺灣総督は、道知事又は州知事に対する内務大臣の通知を受けたる日より5日以内に道知事又は州知事に対し之を発すべし。
第76條の当選証書付与の報告を始めとして、当然ながら朝鮮総督又は台湾総督が間に入り、地方長官についてもそれぞれの行政機関の呼び名に読み替えるという規定ですね。


まぁ、法律なんかは特にあまり突っ込む部分も無いので、割と楽ができます。(笑)
今日はここまで。



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さて、前回で既に主眼だった李承晩がどうなったかという件に関しては、1899年(明治32年)1月3日付けで中枢院議官を免官になりました、ってことで終了したわけですが、史料はまだ終わってませんので、最後までやっちゃっておきたいと思います。

それでは今日も、アジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関シ其後ノ成行等ニ付在韓加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049600)』の中から、1899年(明治32年)2月13日付『送第35号』の別紙を。

服制の改正

本年1月1日、官吏の服制改正に関する詔勅を発せられたり。
曰く、「朝臣服章の従前より変通屡になり、蓋し時に因り宜を制し、務めて簡便に従ふに由る。
而更張以後、多くは未だ揆るに表章を以てするに遑あらず。
尚ほ周備を欠くあり。
其れ掌禮院をして祭禮・賀礼・燕禮を除くの外、古今の制式を参酌し、亦各国通行の規に倣ひ、磨錬して以て入れよ」云々。
而皇帝陛下は、既に其向へ洋服新調の御兆ありたる由に聞く。
役人の服装は以前から何度か変わり、丁度良い時期になるべく簡単にしなければならないと思ってたんだけど、改革後も着手できなかったんだよね。
まだ服装の形式揃ってないからさ、掌禮院で祭祀や祝い事や宴会の礼式以外は、昔や今の服制を考えて、また各国で一般的に行われてる規定も模範にして作りなさい。かな?

で、高宗本人は既に洋服新調してるらしい、と。
つうか、金無い国が金無い時に、体面ばっかりに拘って金使うって・・ねぇ?(笑)

服上疏手続の規定

近来上疏の手続なきため、濫疏するもの日に多きを加へ煩■に堪へずとて、皇帝陛下は其規程を設くべき旨御下命ありたるより、議政府は之に関する調査を遂げ、去る4日議政府参政徐正淳より上奏し裁可を得たり。
其規程は左の如し。

一.勅任官は現任と前任とを論ぜず、碍げなく陳疏するを得。
一.現に奏任官を帯るものにして若し事を言はとする時、其長官に請ひ、長官の手を経て代奏し、或は具案を以て政府に請議するを要す。
一.曾て奏任官を経たるもの及士庶人にして事を言んとする時は、中枢院の議を経由せしむ。
一.勅任官以下の官員及士庶人にして、若し弾劾を欲するときは、必ず証拠の確鑿■るを須く然る■案を具し、高等裁判所に送呈し、其法を案じて懲罸するを要す。
上疏の手続きがちゃんと決まってないため、みだりに上疏する者が段々増えてきてごたごたしてきたので、高宗は規程作れと命令。
これを受けて議政府は調査し、4日に上奏して裁可を得た、と。

内容は、一度でも勅任によって任命された官吏は、何の問題も無く上疏可。
奏任で任命された現任官吏は、その長官経由で政府に請議。
前に奏任で任命されたことのある官吏と士人や庶人は、中枢院の議決経由。
この辺は、所謂請願なんかと似てるのかな?
んで、勅任官や現任奏任官以外が弾劾するときは、証拠等を添えて高等裁判所行きで裁判する、と。

この上疏というシステム、割と自慢気に話す韓国人が居たりするんですが、これ見てどう思うんでしょうねぇ?(笑)

露官入京

新任露国公使パウロウ氏(Pawlow)は、其■と同国■■艦マンジスル号に搭じ、前日来駐剳韓国公使李夏栄氏は其一行を率ひ去る7日帰京せり。

右及具報候。
敬具
1899年(明治32年)2月7日、新任ロシア公使パブロフ到着、と。

さて、今回の史料で、万民共同会の運動が具体的にどのように衰退していったのかが分かると共に、李承晩が1899年(明治32年)1月3日に中枢院の議官を免職になった事が分かりました。

で、逮捕されたのは何時で、本当の罪は何なんでしょう?
さっぱり分かりません。(笑)


「帝国の迷走」第二期、おしまい。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九) 帝国の迷走(四十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)  帝国の迷走(五十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一) 帝国の迷走(五十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)



準備しておいたのに、すっかり忘れてた事がありまして。
張仁煥と田明雲の写真を見つけてたのに、すっかり使うの忘れてました。(笑)
ってことで、『スチーブンス暗殺事件(おまけ)』に追加しておきましたので、ご覧になりたい方はどうぞ。

さて。
今日は、万民共同会の運動の結果中枢院の議官となった李承晩が、どのようにして墜ちていくかを主眼にした、以前の連載への補足の3回目。

前回までの史料の中で、主に朴泳孝の任用問題に関して、中枢院・万民共同会とそれに対する高宗等の対応を見ることができました。
結局、この問題については万民共同会がこれ以上運動しないということで、決着がつくかに思われますが、という続き。
今回から、史料はアジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関シ其後ノ成行等ニ付在韓加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049600)』に移ります。
それでは、1899年(明治32年)2月13日付『送第35号』より。

朴泳孝召還の建議に関し、其後の成行等別紙の通在韓加藤公使より報告有之候間、右寫茲に差進候也。
ってことで、前回「本問題は向後有無の間に立消へ可申姿に有之候」と述べていた加藤増雄公使ですが、その後の成り行き等の報告があったようです。

ってことで、早速『別紙』の方を見ていきましょう。

朴氏召還問題後の成行

朴泳孝召還の説端なく中枢院の議事に上り、其決議を政府に定収したると同時に、李錫烈なるもの亦召還上疏をなしたるに、陛下は李氏の上疏を斥け、且つ亡命者に関する詔勅を下して之れを制止せられたる一件は、客月12月27日附公信第88号を以て報告に及置たる処、其後陛下の逆鱗一方ならず、為之中枢院議官は総免職となるべしと取囃せし処、之に関し議政府と中枢院との間に数回の往復交渉を経、同院議長の進退伺ひとなり、竟に去27日議長代理として該議事を見たる李時宇以下、去る3日を以て処分せられ、李氏は1ヶ月の罸俸に処せられ、動議者崔廷徳并に議長代理として政府に通牒の手続をなしたる尹始炳両氏は免官となり、申海永・魚瑢善・卞河璡・李承晩・洪在箕5氏は免官に。
劉猛・洪正厚・鄭恒謨3氏は始めに不可を唱たるも、政府に通牒するを賛成したりしとて各罸俸に処せられ、為めに勢焔頓ど煙滅に帰したり。
朴泳孝召還の件が中枢院の議事となり、その決議を韓国政府に提出したのと同時に、李錫烈も朴泳孝の召還上疏したところ、高宗が李錫烈の上疏を退けて、かつ亡命者に関する詔勅を出して制止した話は、前回までの1898年(明治31年)12月27日付『発第88号』で見たわけですが、その後も高宗の怒りは収まらなかった、と。
んで、そのために中枢院の議官って総辞職になるんじゃね?噂されるようになるんですな。
そして、これに関して議政府と中枢院の間で数回交渉が行われ、中枢院議長の進退伺いとなった、と。

次のあたり、高宗実録なんかでは12月23日の記事になってまして、ちょっと調べたら官報での公布が1898年(明治31年)12月27日付けで、その中身は12月23日付になっております。
ってことで、まず1898年(明治31年)12月23日に、当時議長代理だった李時宇が1ヶ月の罰俸となり、動議者崔廷徳と政府に通牒した尹始炳が、中枢院議官を免官になります。

次は、1899年(明治32年)1月5日付けの官報で、1月3日に申海永・魚瑢善・卞河璡・李承晩・洪在箕の5名が免官。
最初は反対したけど、政府への通牒に賛成した劉猛・洪正厚・鄭恒謨が罰俸という処分になるわけですね。

ってことで、勿論李承晩の裁判経緯とか、何か別途史料があるのでしょうが、現在の処まで分かっているのは、この時点では李承晩も中枢院の議官を免官になったという事だけなんですよねぇ。( ´H`)y-~~

さて、実は李承晩、これしか出てこないんですが、一応続きも見ていきましょう。(笑)

民会解散に関する詔勅

民会跳梁殆んど国綱を紊乱する迄に至りたるを憂懼し、旧臘厳重なる詔勅を公同会に下し、以て其解散を飭令し、其解散後各自の安心を得せしめたれたる件は、客年12月27日附発第87号を以て具報に及置たる処、旧臘28日に於て再び前同様の詔勅を下し、民会をして更に帰向する処を説諭せしめられたり。
其勅語に曰く、

信は五徳の枢紐なり。
故を以て人信なければ則ち立たず。
国信なければ則ち治らず。
曩に朕既に心腹を開示し、民衆に暁諭す。
而猶其或は未だ解せざるあるを恐れ、又此に誕告す。
夫れ人民一二孤独の地にあっては分を守り、志を定めざるはなし。
其千百群をなすに及んでは、自然の浮気■生中に生ずるあり。
始は則ち敢てせざる所の言を発し、終は敢てせざる所の言を行ふは、前日の所謂民会なるもの亦然りとす。
其始や忠君愛国を以て宗旨となし、其終や言を発し事を行ふ、畏忌する所なし。
其散するに及んでや、捕縛是れ憂とし、隠避是事とし、殊に知らず雷霆の到る処衆寡の分つなきを。
苟も赦免を聚会の日に欲して、而言を解散の後に食む。
則ち国家民を待つの道ならんや。
継て今日より疑懼を洞釈し、迷ふて返るを知らず。
什伍を隊となし前習を踵くを思はば、是れ乃ち自ら罪戻を速くものなり。
王章は至厳なり。
再び容貸し難し。
其れ内部をして警務庁漢城府に申飭し、民人等の処に洞諭し、咸を知悉せしむ。
万民共同会がのさばり、韓国の規律を紊乱する迄に至った事を心配し、12月に厳重な詔勅を万民共同会に下し、解散を命令し、その解散後に各自を安心させるようにした件は、1898年(明治31年)12月27日付けの発第87号で報告したとおり、と。
まず、この辺の事情は9月3日のエントリーでもやりました。
万民共同会員の身上の安全に担保を与えた話の辺りですね。

ただ、1898年(明治31年)12月27日付『発第87号』が見つからない。
『駐韓日本公使館記録』には載ってるんだけどなぁ。
かなり面白い内容なんだけど、残念ながらアジ歴ではまだ公開されてないらしい。

で、以下が勅語。
信頼というのは、5つの徳の中でも重要な物であり、人に信頼が無ければ成功せず、国に信頼が無ければ国を治める事が出来ない。
この前、ウリが腹を割って民衆をたしなめたけど、まだ誤解してるかもしれないからもう一回言っとくね。

大体民ってのはさ、一人や二人で寂しく居る時なら、すべてルール守って志を定めなない者は居ないんだけどさ、数百とか数千の単位になると、自然に浮わついて思慮に欠けたりするんだよね。
最初は敢えて遣りもしない事を言ってみたり、最後には敢えて遣っちゃ駄目な事をやったり、この間の民会みたいに最初は忠君愛国とか言ってたけど、最後は言動で恐れ多いとか慎むとか無くなったっしょ?

解散するように言われると、捕まるか心配して隠れて逃げ回り、厳しい処罰があちこちで、多い少ないの区別無く行われるかどうか分からない。
一回赦免するって言ったんだから、解散した後に約束破るようなことしたら、どうして国が国民を待つ(解釈出来ず)道だろうか。

今日からは疑惑を解いて、それぞれ生業に戻って落ち着きなさい。
また同じような事したら、今度は許さんよ。( ´H`)y-~~

つうか、「国信なければ則ち治らず」とか、どの口が言ってんだ、と。
( ´H`)y-~~



今日はこれまで。
次で終わり。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九) 帝国の迷走(四十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)  帝国の迷走(五十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)



さて、万民共同会の運動の結果中枢院の議官となった李承晩が、どのようにして墜ちていくかを主眼にした、以前の連載への補足の2回目。

前回は、中枢院から議政府へ推挙する人材選びの中で朴泳孝や徐載弼の名が取り沙汰され、結局反対派を押し切って、朴泳孝は該当しなさそうな根拠を以て、朴泳孝や徐載弼に対しては特に参考意見を付して回送した話と、その参考意見の中身まで見ました。

今日もまず、アジア歴史資料センターの『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関スル件ニ付在韓国京城加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049100)』から、1898年(明治31年)12月27日付『発第88号』の残りを見ていきましょう。

然るに、万民公同会亦去る19日を以て右召還のことを会議に附し、竟に委員3名を撰で大罪科の有無を裁判せられ度旨、法部に訴願することに議決し、同日該委員3名は法部に出頭して願意を申出でたるに、朴氏問題は陛下の大権に属し、法部の処辨し能はざる処なりとの指令を附して、却下せらるるに至りたり。
然るに又、前主事李錫烈なるもの30余名の疏頭となり、同様召還の上疏を捧呈したるに、22日該疏を却下せられたるのみならず、該疏頭者を捕縛すべしとの詔勅を下されたり。
12月16日に中枢院で、「捕まえて議論した後、罪があれば国法で罰するし、無ければもしかしたら任用されるかも知れないから良いじゃん」ってことで朴泳孝なんかも議政府に推薦する事が決まると、万民共同会は12月19日にこの件について会議するわけです。
で、委員を3人選んで朴泳孝に大罪科があるか無いかを裁判して欲しいと、某部に訴えるわけですね。
すると法部では、「いや、朴氏問題は高宗の大権に属するから、法部で対応するの無理。」と、まぁ与えられてる権限からすれば妥当な返答で却下するわけです。

そんな事で諦めない万民共同会は、李錫烈が30余名の筆頭となって、朴泳孝召還の上疏を提出するんですね。
ところが、12月22日に上疏を却下されただけでなく、この上疏した筆頭者を捕まえろという詔勅が出ちゃうんですね。

其言に曰く、

逋犯の罪赦すなきは、国あっての常典なり。
而即ち聞くに、朴泳孝任用の事を以て肆然疏を投ずる止た一二のみならずと云ふあり。
是れ豈に臣民の口に発すべき処のものならんや。
駭歎の極、寧ろ云ふなからんと欲す。
原疏は秘院(秘書院)より退却すと雖も、此れ若し厳に懲辨を行はずば則ち法施す所なく、国以て国■なすなし。
其れ法部をして警務庁に申飭し、疏頭李錫烈等の諸犯を絅拿したる後盤復情を得、律に照して登聞せよ。
詔勅の内容。

お前、逃げ出した者の罪を許さないのは国として当然でそ?
それなのに、聞けば朴泳孝を任用しろって堂々と上疏してんの、1つや2つじゃないみたいじゃん。
お前等、ふざけんなよ。
呆れてものも言えねーぞ。
もう疏状返したけどさ、これに厳しく懲戒処分しなきゃ法治国家じゃねーだろ。
法部から警務庁に言って、李錫烈等を捕まえた後取り調べて報告しろよ。( ´H`)y-~~

いや、法治国家気取りかよ。(笑)

之れに関連して、同時に亡命者に関する詔勅を下されたり。
即ち左の如し。

法律なるものは、信を国中に昭かにする所以。
罪ある者は刑に服し、罪なきものは免を賜ふ。
乃ち古今の通義なり。
朕服嗣以来上天生を好むの徳を体し、先王失を寧んずるの訓に尊び、罪の疑しきは惟れ軽くし、刑は無きに期す。
輓近紀綱解馳し、国事を以て犯すある者、輒ち亡命を以て能事となし、曾て君徳の玷累国体の虧損を顧みず。
念ふて此に及べば、寧ろ痛惋せざらんや。
凡そ域外に逋逃する者、本罪の大小軽重を論ぜず、亦該犯の魁たり従たるを問はず、其乱臣賊子たる一なり。
邦に常憲あり、永遠赦すなし。
惟だ尓■臣民咸な須らく知悉すべし。

此詔勅に亜て、本問題運動の中心点たる公同会へも解散の詔勅下りたるを以て、公同会員は時勢に鑑み大に考ふる所あり、断然、本問題を別事件として当分主張することを停止することに取極めたる由なれば、本問題は向後有無の間に立消へ可申姿に有之候。
右及具報候。
敬具
で、ついでに亡命者に関する詔勅が出るわけです。

法律というものは、信義を国内に示すためのものであり、罪がある者は刑に就き、罪が無い者は免除されるというのは昔も今も変わらない。
ウリが王位について以来、天帝やご先祖様に従って、罪を犯したかどうか疑わしい者には罪を軽くして刑罰は無いようにした。

最近は綱紀が弛んで、国事犯は亡命すれば良いとして、ウリの徳とか国家の体面を毀す事を顧みないんだけど、ちょっとは考えろや。
国外逃亡犯は、元々の罪の大小や軽重関係なく、また、その犯罪の主犯だろうが従犯だろうが関係なく、彼等が逆賊である事に変わりない。
国家には常に守るべきおきてがあり、永遠に許されないということを、お前等良く分かっとけ。( ´H`)y-~~

ということで、「国外逃亡犯は永遠に許さないからな!」という詔勅なわけです。
更にこれに続いて、万民共同会へも解散の詔勅が下る。
つうか、何回解散の詔勅出てんだよ。(笑)

これらの詔勅を受けて、万民共同会員は時勢に照らして大いに考え、今回の朴泳孝任用問題に関しては当分主張するのを止める事にしたそうなので、この問題はその内立ち消えになるでしょう、と。

そういうわけで、朴泳孝任用問題に関する件については、万民共同会がビビッて止めるという話で決着するかと思いきや・・・。


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九) 帝国の迷走(四十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)



9月4日のエントリーで終わった筈の表題の連載ですが、唐突にちょっと補足しておこうかと。
まぁ、何つーか以前アジ歴を流し見してた時に、たまたま目にとまっただけの史料を、忘れないウチに書いておこうと思っただけの話なんですがね。(笑)

話としては、以前NAVERで「■たまには真面目に韓国人に質問(日本人可)」というスレを建てたり、naver007氏による「■1899年♪逮捕された李承晩の罪状」というスレが建てられた件に関して、主に李承晩の逮捕の遠因となったと思われる、中枢院とか朴泳孝の話について。

時期的には、「帝国の迷走(三十七)」で李承晩が1898年(明治31年)11月28日に中枢院の議官となり、その後加藤増雄が韓国に戻って来た、丁度その頃。

ってことで、、昨年の1月20日のエントリーでやった「その男、李承晩」の続編として取り扱うか、「帝国の迷走」の続きとして取り扱うか、かなり迷ったんですが、取り扱う史料の一つ目に李承晩の記載が全く無いため、こういう形となりました。
話としては、長期に活躍する人物中心の方が後で楽かな、とは思うんですけどね。
致し方なし。

前置きが長くなりましたが、アジア歴史資料センターの『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関スル件ニ付在韓国京城加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049100)』から、1898年(明治31年)12月27日付『発第88号』を見ていきます。
一応、まだ使用できませんが、以前同様に画像リンクも付しておきますね。

朴泳孝召還之建議に関する件

客月29日、万民公同会員及負褓商等より50名を中枢院議官に任命したる以来、同院は殆んど民意の渕叢とも称すべき姿を呈居たるに、去る16日、同院に於て目下時勢の岌■なる宜しく人材を投票して、其推薦を議政府に致すべしとの議成立し、11名を投票したるの結果、朴泳孝・徐載弼も其内に加はり居たり。
議長李鐘健は、朴は法律上の身の上なれば、陛下の聖慮に非ざるよりは、吾々より許す能はざるべしと主張したるも、此反対説は多数を制する能はずして、竟に之れを議政府に推薦することとなり、朴・徐2氏には特に参考意見書を添付回送に及べり。
8月24日のエントリーを見れば、中枢院議官の任命は11月28日になるんですが、高宗実録や官報等を見るに、今回の史料通り11月29日の方が正しいようです。
で、万民共同会と褓負商などから50人が中枢院議官となって以降、民意の中心地となった感がある、と。

そんな12月16日に、中枢院で現在の情勢に対応できる人材を投票して、それを政府に推薦しようという議案が成立するんですね。
「11名を投票したるの結果」というのが、投票の結果11人が選ばれその中に朴泳孝と徐載弼が居た、と。
ちなみに光武2年12月22日の『皇城新聞』なんかによると、選ばれたのは閔泳駿・閔泳煥・李重夏・朴定陽・韓圭卨(咼の上にト)・尹致昊・金宗漢・朴泳孝・徐載弼・崔益鉉・尹容求の11人ってことになってます。

で、この時の中枢院議長の李鐘健は、「いや朴泳孝って犯罪者でしょ?高宗がよしって言わなきゃ、僕らが許すって駄目でしょ。」と反対するんですが、結局この反対説は押し切られて、朴泳孝等を議政府に推薦することになるんですね。
そして、朴泳孝と徐載弼については、特に参考意見を添付して推薦するわけです。

タイミング的には、加藤増雄が帰韓し、高宗に謁見した翌日になりますので、もしかしたら9月1日のエントリーで加藤が「民会も亦之を機会として官民軋轢問題の解決を見んとするものの如く」と観察したように、日本の援護を期待していたのかも知れませんねぇ・・・。

即ち、朴氏の分は左の如し。

朴泳孝は開国504年閏5月14日の詔勅中に、「陰に不軌を図り、事已に発覚す。法部に令して厳核罪を正さしむ」とありしも、光武2年6月26日詔勅中、「甲乙の変乱を経てより以来形迹に拘り、良材美器ありと雖も埋没して試みず、以て畢生抱冤して抑欝伸るなきを致す。是れ豈王道蕩平の意ならんや。曖昧或は逐れ或は弾に遭ふ者と並に釋宥を行ひ滌垢蕩新す。疑を懐き、畏縮せしむるなく、各弾竭の誠を盡せ。今日より一賞一罸或は濫施するなく、悉く公議を附す」との特赦ありたるにより、右両度の詔勅を准拠縄照し、合せて光武2年10月30日、官民公同会より上奏して実施の允勅を蒙りたる6條中、第4項「今より始となし、凡そ重大の罪犯を公辨し、被告が到底説明して究竟自服したる後施行すること」なる條件あるにより、之に拠り拿還公辨したる後、罪あれば則ち国法に処し、罪なくんば則ち或は陞用を得ん。
乃ち、罪あれば国法に処すべく、罪なければ重用するも不可なきに付、兎も角朴氏を召還すべしと一決したるものの如し。
ってことで、朴泳孝に関する参考意見に入ります。

冒頭の詔勅は、陰暦記載なのでアレですが、1895年(明治28年)7月6日の朴泳孝が閔妃暗殺を図ったとして逃亡することになる、所謂朴泳孝事件の際の詔勅に当たります。
高宗実録32年閏5月14日の「陰圖不軌 事已發覺 方令法部厳覈正罪」ですね。

で、そういう詔勅が出てるけど、光武2年(1898年)6月26日の詔勅中で、簡単に言えば甲申事変とか乙未事変以来、過去の話に拘って良い人材を登用しなかったから恨まれちゃったりしたけど、曖昧に排斥されたり糾弾されたりした人は、皆容赦してあげるから、疑いを懐くとか萎縮したりしないように、真心をつくしなさい。
今日からは賞罰の濫用しないで、全部公平な議論するからって、特赦あったでしょ?とか言ってるんですが、間の「乱逆之罪関宗社者 在法罔赦 非朕一人所可低昻」は抜けてるし、ウリには朴泳孝がこの特赦に該当するようには見えないnida・・・。( ´H`)y-~~

というか、この1月ほど後に7月24日のエントリーのような、「臣民一般の希望も、此時を失はず広く人才を登庸し、進んで非政の改革を行ひ、大に国力の発達を図らんとするにあれども、兎角陛下は之が為め痛く其権力を剃がれんことを恐れ、却て少壮の有力者を遠ざけ非政■依然益々甚しき」として譲位上疏未遂事件が起きたように、いつもの【言ってみただけ詔勅】でしょうしねぇ。

それは兎も角、この詔勅と光武2年(1898年)10月30日の6条目の第4条に、今後重大な事犯罪は別途公に弁論を行って、被告に説明して納得した後行うことという条件があるため、これによって捕まえて議論した後、罪があれば国法で罰するし、無ければもしかしたら任用されるかも知れないから良いじゃん、って話ですな。
それを特赦って言うなら、さっきの詔勅の話も分からないでもないな。

ちなみに、この「6条件」は勿論8月10日のエントリーで万民共同会が高宗等に強要して、結局どれも施行されずに【言ってみただけ詔勅】となって、万民共同会の運動が再発するやつね。(笑)


途中ですが、今日はこれまで。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)



前回終わったはずのスチーブンス暗殺事件の連載ですが、ちょっとおまけ。
いやね、僕とした事が、独立記念館の記述を取り上げるのを忘れてまして。(笑)
ってことで、ちょいと見てみたいな、と。
まずは張仁煥に関する記述を一気に引用。

張仁煥 張仁煥

平安南道平壌出身である。

1905年2月、労動移民としてハワイに行った。
また、1906年8月米国本土のサンフランシスコで組織された米州韓国人の独立運動団体である大同保国会の会員になった。
主に鉄道やアラスカ漁場で働きながら独立運動の道を摸索した。

1908年3月、大韓帝国外交顧問であったスチーブンスは、日本帝国主義(以下、日帝と略す)の大韓帝国外交権強奪で国際与論が悪化すると、日帝の指令で自分の国の米国で大韓帝国の無能力を積極弘報し、日帝の侵略行為を正当化する宣伝活動をしようとサンフランシスコに到着した。
スチーブンスは3月21日サンフランシスコに到着して新聞記者たちに乙巳勒約(第二次日韓協約)を庇護し、韓国を批判する内容の発言をした。
このような内容の演説が米国の各新聞に発表されると、米国の中にも特に、サンフランシスコとその隣近地域に居住していた在米韓国人の独立運動団体である共立協会と大同保国会の会員たちは、1908年3月22日、共立会館に集まり対策を討議した。
まず崔有渉・鄭在寛・文譲穆・李学鉉などをスチーブンスのところに送り新聞に報道された内容について詰問して取消を要求することにした。
しかし、同胞代表たちに会ったスチーブンスは無礼な態度で売国奴李完用を忠臣といったほか、侵略の首魁である伊藤博文がいてこそ韓国と東洋は幸福であるし、韓国人は愚かで独立する資格がないと喋るなどの暴言をした。
このようなスチーブンスの傲慢で傍若無人な言動は同胞代表たちを激憤させ、我慢できなくなった鄭在寛がスチーブンスの顎を強打し、他の代表たちも椅子でスチーブンスを乱打する騒ぎとなった。
同胞たちの欝憤は旅館の他の人たちの制止でこれ以上は晴らせなかった。

会館に戻ってきた代表たちから一部始終を聞き伝えた多くの同胞たちは、日帝の侵略行為を称賛、鼓舞するスチーブンスの行動に激怒して処断方法を論議した。
しかし、この日は討議だけで結論を見い出すことはできなかった。
一方、張仁煥はスチーブンスの妄言と行動について断固たる膺懲をしようと決心した。
彼はすでに日帝の走狗になって嘘の宣伝と祖国実状の歪曲を繰り返すスチーブンスに対し、糾弾と反駁だけでは実效をあげることができないと思った。
張仁煥はスチーブンスの罪悪を膺懲し、韓国国民の自主独立精神を世界万邦に知らせようと決心した。

1908年3月23日朝、スチーブンスがワシントンを出発しようとサンフランシスコのフェリー埠頭に日本領事小池といっしょに到着した。
その時、張仁煥がスチーブンスに銃を構えようとすると、突然一人の男が現れ、拳銃を持ったままスチーブンスに向かって突進し、驚いた日本の走狗との格闘になった。
その男は田明雲であった。
張仁煥と同じく、侵略元兇であるスチーブンスを処断するために待っていたところ、スチーブンスが現れると拳銃を発射したが、不幸にも不発であったためスチーブンスに飛びかかったのである。
しかし、張仁煥は機会を逃すわけにはいかなかった。
彼はスチーブンスに向かい拳銃を3発発射した。
連続3発の弾丸の中、2発がスチーブンスの胸と足に命中し、1発は肩に当たった。
張仁煥とスチーブンスは銃声を聞いて出動した米国の警察によって病院に移送された。

義挙を成功させた張仁煥は拘束された。
彼は審問する米国判事に「スチーブンスが保護条約に賛成したことは二千万同胞を毒殺しようとしたも同然だ。この盗賊を殺さなければ我が同胞が必ず滅亡することになる。だから、私が命をかけてやったのだ。」と堂々と義挙理由を明した。
このような彼の愛国精神は多くの同胞たちの愛国心を高揚した。
それに米国人さえも彼の義挙に感動した。
一方、張仁煥の正義たる銃弾洗礼を受けたスチーブンスは3月25日病院で死亡した。
張仁煥・田明雲の二人は1908年12月米国法廷で、田明雲は保釈、張仁煥は懲役25年の刑を言い渡され投獄された。
その後、張仁煥は1919年1月10日仮釈放され、1924年4月10日には完全に自由の身になった。
彼は1927年4月20日一時帰国したが、日本帝国主義者たちの監視と、服役による健康悪化のため同年10月11日サンフランシスコに帰って生活中、1930年4月24日死亡した。
政府では故人の功労を称えて、1962年、建国勲章大統領章を追叙した。
これはこれで面白い読み物。(笑)
まぁ、当然突っ込みどころも色々あるわけですが、細かいところは連載と見比べながらほくそ笑んであげて下さい。
ここでは、一言だけツッコミを。

「堂々と義挙理由を明した」んなら、収監中から発狂したふりしてんじゃねーよ!(笑)

続いて、田明雲に関する記述。

田明雲 田明雲

平安南道平壌出身である。
ソウル漢城学院で修学中の1905年5月、労働移民としてハワイへ渡った。
1906年6月、米本土に渡って鉄道労動者・アラスカ漁場労動者として働きながら米国独立運動団体である公立協会の会員になり、主に青年会で活躍した。

1908年3月当時、大韓帝国外交顧問米国人スチーブンスが、日本帝国主義(以下、日帝と略す)の走狗として日帝の侵略行為を正当化する宣伝活動をしようと本国に戻って来た。
スチーブンスは到着後の記者会見で、日帝の韓国統治は正当なことで、日帝の統治だけが韓国を発展させるとの妄言を繰り返した。
米国内の独立運動団体である公立協会と大同保国会会員たちは激怒し、代表者を選出してスチーブンスに送り、彼に妄言を取り消すよう要求することにした。
しかし、代表の要求が無視されると、公立協会と大同保国会でスチーブンスの処罰方法を論議したところ、田明雲が志願した。

田明雲は、1908年3月23日午前9時30分頃、スチーブンスがワシントンへ行くために、サンフランシスコ駐在日本領事小池の案内でフェリー船艙に到着するのを見て拳銃の引き金を引いたが、弾丸が発射されなかった。
すると、拳銃を持ったままスチーブンスに突進して拳銃で加撃し、暴れるスチーブンスと格闘になった。
この時、張仁煥が銃弾3発を発射し、2発はスチーブンス胸と足に、1発は肩に命中させた。
田明雲と重傷を負ったStevensは米国警察によって病院に運ばれ、張仁煥は逮捕、拘束された。


田明雲は病院で、スチーブンスを襲撃した理由を聞く米国警察に次のように言った。
「日本がロシアと戦い始めた際、韓国の独立を保障すると宣言したが、今になって我々の国権を奪い、財政と官職を牛耳り、憲兵巡査が全国に溢れている。そのため私は米国に来て学業に専念し国家に献身しようとしたのに、この頃スチーブンスが至る所で「韓国人が日本人を歓迎し日本人に感謝する」と吹聴している。これは韓国をだまし軽蔑しているに違いない。それで私がこの泥棒を殺そうとしたのだ。」
彼のこのような義挙動機は、米国の各新聞に報道され、米国内の同胞たちはもちろん米国人たちまで田明雲の愛国心に感動した。
彼は退院後、米国警察に拘束され審問を受けた。
同年7月、僑胞たちの助けで保釈・釈放された。

以降、9月にロシア沿海州へ渡り、独立運動団体である同義会に加入して活躍した。
また、再びサンフランシスコに帰って来て、義勇軍を組織し、軍資金を募って上海臨時政府に送ったりした。
政府では故人の功労を称え、1962年建国勲章大統領章を追叙した。
こちらも、詳細は連載を見てきた読者諸氏の判断にお任せします。
でね。

田明雲が病院に運ばれた理由が書いてないんですが、何で?
ねぇ、何で?(笑)
ついでに、2発はスチーブンス胸と足に、1発は肩にとわざわざ分けて書いてあるのは、何で?
ねぇ、何で?(笑)



ってことで、おまけ、おしまい。(笑)



スチーブンス暗殺事件(一)
スチーブンス暗殺事件(二)
スチーブンス暗殺事件(三)
スチーブンス暗殺事件(四)
スチーブンス暗殺事件(五)
スチーブンス暗殺事件(六)
スチーブンス暗殺事件(七)
スチーブンス暗殺事件(八)
スチーブンス暗殺事件(九)
スチーブンス暗殺事件(十)
スチーブンス暗殺事件(十一)
スチーブンス暗殺事件(十二)
スチーブンス暗殺事件(十三)
スチーブンス暗殺事件(十四)
スチーブンス暗殺事件(十五)
スチーブンス暗殺事件(十六)
スチーブンス暗殺事件(十七)
スチーブンス暗殺事件(十八)



何だかんだで連載18回目。
1回のエントリーの記述を短めにしたら、読むのは比較的楽になったと思うんだけど、さすがに回数は伸びるね。
ま、書いてる方もこっちのが楽だから良っか。(笑)

っていうことで、取りあえずの最終回。
前回までで1909年(明治42年)1月29日付『機密送第6号』と、それに付属の裁判状況を記した『別紙甲号』を見てきました。
今度は、刑期宣告の話に当たる『別紙乙号』に入っていきます。
では早速。

故「スチーブンス」氏暗殺者韓人張仁煥に対し、本月2日を以て判決言渡ありたる趣は、不取敢電報致置候次第の処、尚御参考迄当日弁論の模様左に報告申進候。

当日開廷するや、先づ被告側弁護士は、本件審査中被告は同国人田明雲の危難を救ふため「ス」氏を射撃したるものにて、所謂正当殺人「Justicial Homicide」を以て弁護の主脳となしたるに、判事が陪審官に与へたる論告中「Court Instruction」、右被告側の申立に係る條項を包含せざりしは違法なるに拠り、本件の再審を請求する趣旨を以て請願書を提出したるも、判事は右に対し、被告弁護人等は正当殺人を主張すと雖も、本件審理中被告は曾て之に言及したること無之。
且つ、此際被告の口供を徴するとするも、被告は一方既に狂者なるの理由を以て弁護せらるる以上は、本人の口供は何等の価値なく、従て右弁護方法に関し論告の必要なかりしものと認むるを以て、再審の請求を容れざる旨を宣したるに、被告弁護人「Farrell」は陳述して曰く、本件連日の審理にて判事の熟知せらるる通り、本人の行為は愛国の至情に出でたるものにて、其情況尤も愿諒すべきものあり。
已に陪審官の決定も2等殺人犯となせり。
されば、仮令法律の規定する刑の範囲は、加へて終身禁錮に及ぶを得るも、此際同人を殆んど極度に処罰するは陪審官決定書の趣旨に違反するものなれば、賢明なる判事に於て情状酌量の上、軽きに従ひ処罰せられんことを希望する旨を述べたり。
1909年(明治41年)1月2日、判決言い渡しの日。
開廷するや、被告弁護人がスチーブンス暗殺事件について、田明雲の危険を救うためにスチーブンスを撃ったもので、所謂正当殺人であるという旨の弁護の主軸として、判事が陪審員に与えた論告中、弁護側の申し立てに係る条項を含んでいなかったとして、再審請求。

すると判事は、弁護人は正当殺人と主張するけど、今回の審理中張仁煥は一度もその話をした事がなく、またその時に張仁煥の証言を得たとしても、もう張仁煥は狂人だったという理由で弁護しているんだから、その証言に全く価値無いでしょ?と。
法廷戦術、失敗。(笑)

で、正当殺人については論告の必要は無いものと認めたため、再審請求は受け付けないよ、と。
更に弁護側は、張仁煥の行為は愛国心から出たものであり、情状酌量すべきであり、現に陪審員も2等殺人犯とした。
そうであるなら、例え法律の規定する刑の範囲は終身刑まであるけれども、張仁煥に重い刑を科す事は、陪審員の決定書に違反するものであり、賢明なる判事は情状酌量して軽い刑を希望した、と。

之に対し原告側「Knight」は、被告が最も公平なる審理を受けたるは何人も首肯する処にして、本件が最も凶悪なる殺人犯なるに拘らず、2等殺人犯の宣告を受けたるに止まるは、主として賢明なる被告弁護士諸君の技倆に依るものにして、決して事件の性質上酌量すべき処あるが故にあらず。
被告弁護士諸君は、事情の憐むべきを云為せらると雖も、本件に何等酌量の余地なきは疑なき処にして、凶行前日及当日朝当地在留韓人代表者等が、「フエアモントホテル」に「ス」氏訪問の事実等は、当法廷に証拠として提供するを拒絶せられたるが如きは、寧ろ被告に有利なる審理を受けたるものと云ふべし。
されば、此際必ず重きに従ひ終身に処罰せられんことを希望する旨を述べたり。
一方検察側は、張仁煥が公平な裁判を受けてるだろ?
今回の事件が凶悪犯罪であるにも拘わらず、2等殺人犯の宣告に止まったのは、主に被告弁護士の技量によるものであって、事件の性質によって酌量されたわけじゃないでしょ?と。
つうか、テロ推奨状態になっちゃいますからねぇ。(笑)

で、弁護側は事情が憐れむべきだと言うけど、今回の事件に関して情状酌量の余地が無いのは疑いなく、事件前日に韓国人の一団がフェアモントホテルにスチーブンスを訪問した事実とか、今回の裁判に証拠提出を拒否されてるでしょ?と。
まぁ、前日のフェアモントホテルの一件の話があれば、在米韓国人団体の繋がりによる計画的殺人の疑いが濃厚になるってことでしょうね。
証拠云々よりも、特に陪審員の心証的に。

ってことで、裁判は寧ろ張仁煥に有利なものだっただろ?と。
そして、検察側は終身刑を希望するわけですね。

判事は、本件は陪審官に於て2等殺人犯に決したる以上は、之に対して終身刑を加ふるは本官の意にあらず、従前の例に徴するに、2等殺人犯に対しては10年・15年・17年及20年にして、重きも之に過ぐるは稀なるも、本件は寧ろ極端のものと認むるを以て、被告張仁煥の25年間の禁錮に処すべしと宣し、茲に本件は一段落を告げたる次第に有之候。
被告は右に対し、控訴の模様無之候。
右及報告候
敬具
判事は、今回の事件を陪審官が2等殺人犯に決めた以上は、張仁煥に終身刑を加えるのはおかしい、と。
前例からすれば、2等殺人犯は10年・15年・17年及20年の禁固刑であり、これ以上重い刑は稀ではあるけども、今回の事件は極端なものであると認め、張仁煥に25年の禁固刑が宣告されるわけです。

陪審官は比較的軽めの2等殺人犯とし、裁判官はその2等殺人犯の中でもかなり重い刑罰を科したという形になりますね。

さて、11月19日のエントリーで統監府に届いた裁判資料ですが、どうもそのまま統監府にあったわけでは無いようです。
京城地方裁判所検事正中川一介から統監府外務部長の小松緑への、1909年(明治42年)2月1日付『発第7号』より。
「スチーブンス」殺害事件に関する、田明雲・張仁煥に対する米国に於て為されたる判決書寫送致方、予て関東都督府法院検察官より嘱託相成居候に付、右判決書寫御接受の上は、直接都督府へ御送致相成候様致度、此段及照会候也。
関東都督府法院からお願いされてたので、判決書等の寫を直接関東都督府へ送ってくれ、と。
これを受けて、曾禰統監から関東都督への、1909年(明治42年)2月2日付『機密統発第190号』。

「スチーブンス」殺害事件に付き、田明雲・張仁煥に対し米国に於て為されたる判決書寫送附方、予て貴府法院検察官より京城地方裁判所検事正中川一介に嘱託相成居候処、今般外務省より右判決書寫送附し来り候に付、右書類一括小包を以て本日郵送候條、御査収相成度。
尚、該申渡書及判決録等入手の為米貨50ドルを要したる旨、別紙客月14日附機密送第4号の通り外務省より申越候に付、右金員貴府より同省へ御直送方可然御取計相成度、此段申進候也。
ということで、先の11月19日のエントリーでの裁判資料は関東都督府に。
ついでに、その際の料金50ドルも関東都督府に。(笑)

あー、詳細調べるんなら、まずは関東都督府にあった資料が何処に行ったかから始めないと駄目なのね・・・。
つうか、無理。(笑)


ってことで、スチーブンス暗殺事件でした。
おしまい。



スチーブンス暗殺事件(一)
スチーブンス暗殺事件(二)
スチーブンス暗殺事件(三)
スチーブンス暗殺事件(四)
スチーブンス暗殺事件(五)
スチーブンス暗殺事件(六)
スチーブンス暗殺事件(七)
スチーブンス暗殺事件(八)
スチーブンス暗殺事件(九)
スチーブンス暗殺事件(十)
スチーブンス暗殺事件(十一)
スチーブンス暗殺事件(十二)
スチーブンス暗殺事件(十三)
スチーブンス暗殺事件(十四)
スチーブンス暗殺事件(十五)
スチーブンス暗殺事件(十六)
スチーブンス暗殺事件(十七)



張仁煥の裁判に模様について。
前回は、検事側による医師や事件目撃者等の証言に引き続き、弁護側は張仁煥は事件当時発狂していたと主張し、その後検事側の論告が終わった処までを見ました。
今日はその続きですので、弁護側の論告という事になります。
それでは、1909年(明治42年)1月29日付『機密送第6号』に付属の『別紙甲号』の続きを。

其云ふ処は、張が凶行の当時是非の認識なき境遇にあり、其行為に対して法律の制裁を免がるべきものなるは、当然法律の規定する処。
且つ「ス」氏が田雲明を追跡するを見て、田の危急を救はんが為め発砲したるものにて正当殺人なるのみならず、「ス」氏の死亡は主として医師の不注意によるものにて、現に田明雲は同時に肺貫通傷を受けたるも、医師の手当宜しきを得たるため既に全快に到りたるにあらずや。
殊に張が喪心の悲境に陥りたるは、故国を愛するの熱誠に出でたるものにして、目下韓半島に於ける彼の同胞が、日政府圧迫の下に悲惨の境遇に沈淪しつつあるを聞き、仰で天に訴へ俯して地に哭し、憂愁綿々遂に其恒を失ふに至る。
其心事を顧みれば、実に同情に堪へざるものあり。
而して、韓国の此の窮状に陥るは一に「ス」氏の奸策によるものにして、証人の言に徴するに、彼等は日韓條約訂結に際し国璽を横奪して擅に之を約書に鈴し、韓国千載の耻を貽す。
彼は名を韓国顧問に借り、陰に陽に日本を佐けて盡さざる処なく、韓国独立の滅亡は実に彼の手によりて画せらる。
今回の凶変、真に適好の報償を得たるもののみと、巧に証人の言を利用して日本の圧迫と韓民の窮状を訴へ、以て陪審官の同情を得んと試み、最後に市副検事「Hanley」氏は、前記被告3弁護士の所論を痛駁し、本件は共謀者を有する残悪なる殺人なれば、充分重きに従ひ処断せんことを乞ふ旨、此又1時間半に亘る論告をなし、同日午後5時半全く論告を了へたり。
弁護側は相変わらず責任能力の有無から入るわけです。
さらに、スチーブンスが田明雲を追跡するのを見て、田明雲の危機を救うために発砲した事から正当殺人に当たるだけでなく、スチーブンスの死亡は医者の不注意によるもので、現に田明雲は肺に貫通傷を負ったのに、医者の手当てが適切だったために全快したじゃないか、と。

惜しいなぁ。
田明雲が誰に撃たれたか知りたかったのに。(笑)
まぁ、スチーブンスの死亡が医師の不手際によるものという主張は、11月6日のエントリーで開腹したら貫通創が6ヶ所あった話等、あり得ない主張ではないんでしょうけど。
まぁ、早期に見つけていたら治癒していたかという話とは、別な問題でしょうしね。

で、特に張仁煥が心神喪失状態になったのは、故国を愛する熱い思いから来ており、今の韓半島に於ける彼の同胞が、日本の圧迫の下で悲惨な境遇に落ちぶれている事を聞いたからだ、と。
いや、悲惨な状況に落ちぶれたんじゃなくて、ずっと沈みっぱなしだから。( ´H`)y-~~

それを、スチーブンスに責任転嫁。
日本は日韓条約の締結に際して国璽を奪ってこれを条約書に押し、スチーブンスは名を韓国顧問に借りて表に裏に日本を助けまくり、韓国独立が失われたのはスチーブンスの手で企てられたものだ、と。
基本、1905年(明治38年)11月23日の『チャイナガゼット』夕刊辺りの情報を、反日新聞が拾ってたかどうかして知った話だと思うわけですが、そもそも『チャイナガゼット』自体上海でのロシアの機関新聞とされてるわけで。( ´H`)y-~~

兎も角、今回の事件はその報いを受けただけだと、巧みに証人の話を利用して日本の圧迫と韓国人の窮状を訴え、陪審官の同情を得ようとする。

最後にサンフランシスコ市の副検事が、その弁護士等の弁論に痛駁して、今回の事件は共謀者もある残悪な殺人であり、充分に重い処断をという論告をし論告終了。

なんか、淡々と記載してあって、ツマンネ。( ´H`)y-~~ (笑)

同夜8時、再び開廷。
陪審官に対し判事の論告常例の如く、同9時15分、陪審官は評議の為め別室に退き茲に密議を凝らし、11時35分出廷。
被告の2等殺人犯と判定したる旨を報告し、判事は来る26日午前10時、刑期の宣告を与ふる旨を宣し閉廷したり。

以上の通り、張仁煥に対する裁判は、今後単に判事の刑期宣告により一段落を告ぐる事と相成り、其刑期としては2等殺人犯は10年以上終身懲役に有之候得共、此際終身懲役は殆んど望みなきものと認められ候。
本件の如き、事実尤も明白なるものにして、単に2等殺人犯の判決を受くるは聊か遺憾の感なき克はず候得共、目下一般に死刑反対の傾あるの際、殊に当地の如き対日本の悪感情を抱き居る処に於て、一般公衆より成立する陪審官の判決を受くるものに候へば、前記の判決も寧ろ成功と称すべきものと被存候。

被告側に於て、今後再審又は控訴をなすや否やに就ては未だ何等知るを得ず、26日刑期の宣告は、被告側に於て再審するや否やに関し考慮を要する旨を以て延期を請求し、本月30日宣告のことと相成候。
兎に角、被告側弁護人等は2等殺人犯の宣告は、寧ろ彼等の成功となし、控訴は却て加重の虞あるやに考へ居る趣に有之候処、其後被告張は、長期の牢居よりは寧ろ死刑を望む旨を主張し居る由にて、或は捨鉢的に控訴を試むるやも不計、目下の処にては未だ何等決する処無之様子に有之候。
何れ、近日決定の上は又々可及御報告候。
尚、本件に関しては、韓人等は弁護人等に多額の金員を支払ひ居るを確め候。
是等の金額は、到底当地在留韓人の寄附のみにて支弁し得べきものに無之。
此が出所探聞方、目下苦心中に有之候。
右裁判状況に関し、当地2、3新聞切抜相添へ、及御報告候。
敬具

追て、本日の宣告も又々延期。
来年1月2日宣告の事と相成候間、御承知置相成度候。
ということで、クリスマスイブに陪審官の審議。
結果、陪審官等は張仁煥を2等殺人犯として判定したと報告し、判事は26日に刑期宣告する旨を述べて閉廷。

当時のアメリカの1等殺人犯と2等殺人犯の差異が良く分からないんですが、勿論1等殺人犯の方が重いのでしょう。
そして、それは日本の希望通りではなかったものの、死刑反対の風潮やそもそもスチーブンスが渡米する切っ掛けになったサンフランシスコの反日感情などがあるわけで、陪審員による判決という事を考えれば、寧ろ成功だろうと。
陪審員制度の欠点の一つでしょうね。
まぁ、世論を取り入れるという観点からすれば、背中合わせの事ではあるんですが。

再審請求や控訴するかどうかは、この段階で未定であり、それを考慮する時間を取るため、26日の刑期宣告は30日に延期。
兎に角、弁護人達は、2等殺人犯の宣告は勝利とみなして、控訴しない方針らしいけど、張仁煥は長期間牢屋に入れられるよりはいっそ殺せと言っているようで、捨て鉢になって控訴するかも、と。

ちなみに、今回の件に関して韓国人等は弁護士などに多額の費用を支払い、その金額は到底在米韓国人の寄付で賄えるものではない。
そこで、その金の出所を探しているけども苦心中。

最後に、追伸として刑期宣告は更に1月2日に延びたよ、と。

ふう。
やっと裁判経緯終わった。


今度は、刑期宣告に当たる『別紙乙号』となるわけですが、今日はここまで。
次回で一区切り。



スチーブンス暗殺事件(一)
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