意味は無いんですが、ちょっと夏っぽく改装。

さて、イマイチ毒茶事件に踏み込んだ史料がまだありませんね。
まぁ、1898年(明治31年)9月12日早朝に事件が発生して、前回は9月15日発の史料まででしたので、当然と言えば当然なんですが。

ってことで、今日もアジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』を見ていきましょう。
今日最初は、1898年(明治31年)9月16日発『電送第182号』から。

韓国皇帝及皇太子御不例に関し、天皇陛下より御慰問の詞、左の通貴官より同政府へ申■せしむべき旨御沙汰ありたり。

「朕は、陛下并に皇太子殿下が卒然健康を害されたるを聞き、痛心に耐へず。
爾後の経過如何。
速に全癒あらんことを祈る。」
前回の1898年(明治31年)9月15日発『電受第243号』を受けての慰問電ですね。

続いては、毒茶事件とは関係なさそうな史料。
1898年(明治31年)9月18日発『電受第251号』。

第91号

露公使マチユニ氏、メルボルン総領事に移動し、在北京代理公使パブロフ当国駐在を命ぜられたる旨内聞せり。
然るに、マチユニ氏は沈着公平の人物にて内外の評判宜しく、本官との関係は殊に親密なり。
同人の留任は、一般の熱望する所なり。
右御参考迄に電報す。
7月24日のエントリーで、「5月からロシア公使がスペールに代わってマチュニンという人になっているようなんですが、ちょっと詳細不明。」と記載したわけですが、やはりこの時のロシア公使で正解らしい。
史料上はマチユニ(マチュニ)となっていますが、ロシア人名として見た場合恐らくマチュニンが正解でしょう。
で、そのマチュニンがメルボルンの総領事になってしまい、パブロフが大韓帝国駐在、と。
このパブロフが、日露戦争前後とか後で色々やってくれちゃうんですよねぇ。(笑)

で、マチュニンは沈着公平の人物で、内外の評判も良く、加藤とも親密、と。
またもや無意味な仮定ながら、ロシア公使がマチュニンのままだったら、どうなってたんでしょうねぇ・・・。

さて、続いては1898年(明治31年)9月19日発『電受第253号』。

第93号

貴電第58号御慰問電信は、早速御訓示の如く取計ひたり。
御回報は、駐日韓公使より■送せし旨、其筋より通知ありたり。
先ほどの1898年(明治31年)9月16日発『電送第182号』の実施報告ですね。
つうか、毒茶事件発生からここまで、ようやく1週間経過か・・・。

昨日からそうでしたが、何か短い電文が続きますねぇ。
突っ込みどころが少なくて、ちょっとつまんない。(笑)
ま、どんどん進めていきましょう。
1898年(明治31年)9月26日発『電受第263号』。

第94号

一昨日、宮内府特進官沈舜澤、議政に任ぜられたり。
んー。
7月29日のエントリーで金炳始を議政にしようとしたように、この時期議政不在だったんですね。
というよりも、議政の就任を金炳始に断り続けられたように、1896年2月の俄館播遷以降約2年半の間で、議政がちゃんと職に就いていた期間って実は10ヶ月くらいだったりするわけで。
何か意味あんのか、この役職、と。(笑)

さて、次は前回のラストで呆れた、外国人巡査の雇入の話。
1898年(明治31年)9月26日発『電受第264号』より。

第95号

第90号電報の外人巡査雇入の件は、独立協会之に反対し、内閣会議亦之を拒み送■に■し、10ヶ月分の俸給及び旅費支給済の上明日出発の筈なり。
第90号は、勿論前回のラストの史料。
まぁ、当然の如く独立協会も内閣も反対するんですね。
で、結局10ヶ月分の給料と旅費を渡して帰ってもらう、と。
無駄遣いしてる場合じゃないだろうにねぇ・・・。┐(´д`)┌

続いては、人事の話。
1898年(明治31年)9月30日発『電受第271号』から。

第101号

農商工部大臣李道宰、度支部大臣兼警務使閔泳綺は懲戒免官となり、参政閔秉奭農商工部大臣署理に、軍部大臣沈相薫兼度支部大臣署理に、参政李鍾健兼警務使に孰れも任ぜらる。
相変わらず、全く安定しませんな・・・。
で、この次の史料で更に訳が分からなくなります。
1898年(明治31年)10月4日発『電受第278号』。

第103号

李道宰は農商工部大臣に、閔泳綺は度支部大臣に、孰れも一昨日復職したり。
但し、警務使は依然李鍾健なり。
一週間も経たずに復職。
マジで、何やってるんだろう・・・?


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)
帝国の迷走(九)
帝国の迷走(十)
帝国の迷走(十一)
帝国の迷走(十二)
帝国の迷走(十三)
帝国の迷走(十四)


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さて、ようやく高宗譲位未遂事件が一段落したと思ったのもつかの間、今度も大事件が発生します。
今回の件は、タイトルを替えて別途お送りするか迷ったんですが、該当する史料も少なく、またほかの史料も混じってきますので、そのまま連載継続という形にしたいと思います。

それでは、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』から、1898年(明治31年)9月13日発『電受第241号』を。

第87号

聞く所に拠れば、昨11日夜2時頃、宮中に於て膳部に毒を仕込み進めたるものありて、陛下、殿下共多少の障りありたり。
陛下は軽き方なれども、殿下の容体は宜しからず。
嫌疑者は、目下其筋に於て厳重に取調中なりと云ふ。
尚ほ、事実取調の上報告すべし。
はい、毒茶事件です。
正確には毒コーヒー事件なんですが、毒茶事件の方が通りが良いんですね。
つうか、譲位騒動があったり毒殺未遂があったり、高宗も大変だよねぇ。(笑)

で、第一報では、どうやら厨房で毒が仕込んで高宗に進めたらしい。
高宗は症状が軽い方だが、純宗の容体は芳しくない、と。
歴史のIFを言うのは無益と知りながら、逆だったらこの後の歴史どうなってたかなぁ等と考えてまうわけで。
先日、譲位未遂事件起きたばっかりだし、譲位とかあったかもねぇ。

続いて、1898年(明治31年)9月15日発『電受第243号』より。

第88号

第86号電報毒薬の件、其後聞き込みたる所に拠るに、当夜供御のコーヒー中に毒のありたることを発見したり。
即ち、当夜元露館のボーイにてウエエバア公使に仕へたるコウと称する者、常ならず宮闕大膳深に入り居り何か仕事せし模様分かり、昨日金鴻陸の宅に於て捕縛。
一応取調の結果、金の妻并に家来とも復た捕縛せられ、金は流刑の途次仁川に於て捕縛せらるる筈。
毒薬は砒石にして、之を湯わかしに投入せしめたるものなりと云ふ。
陛下・殿下共、幸に追々軽快の方にして、其他内官の中には独りも死者なし。
此不慮の変に対し、我聖上より懇ろに電信の御慰問を発せらるる様、至急御取計を乞ふ。
んー、86号ってどれよ・・・?_| ̄|○
まぁ、あったとしても最初期のものだから、あまり役には立たないんでしょうが、抜けがあると気持ち悪い。(笑)

この電文も、ちょっと分かりづらいですね。
まずは、事件当夜出されたコーヒーの中に毒を発見。
で、事件の夜、元ロシア公使館のボーイで、ウェベルに仕えた「コウ」という者が、いつもと違って宮中の大膳の奥に入って何かしてた事が分かり、9月14日に金鴻陸の家でタイ━━━━||Φ|(|゚|∀|゚|)|Φ||━━━━ホ!!!
ついでに、金鴻陸の妻もタイ━━━━||Φ|(|゚|∀|゚|)|Φ||━━━━ホ!!!
おまけで、金鴻陸の家来もタイ━━━━||Φ|(|゚|∀|゚|)|Φ||━━━━ホ!!!
ん、しつこい。(笑)

一方、金鴻陸は流刑の途中で、仁川で逮捕予定。
高宗実録や官報を見るに、1898年(明治31年)8月23日には収賄で流配の詔勅が出され、25日には黒山島への終身流罪となったようです。

で、使用された毒物は砒石。
まぁ、この時代なので天然の砒素化合物くらいの理解で良いのかな?
勿論、人体に非常に有害な毒物である。
しかし、幸いに高宗、純宗、宮内官吏等、一人も死者が出なかったんですね。
で、明治天皇に慰問の電信を発して貰うように取りはからって欲しい、と。

ここまでの電文だと、何やら経緯が怪しいような気もしますが、取りあえず先に進みましょう。
1898年(明治31年)9月15日発『電送第180号』。

韓国皇帝并皇太子に毒を進めたりとのことは、果たして事実なるや。
陛下・殿下の容体及其後の模様等、至急電報せらるべし。
毒殺されそうになったって、マジ?と。

このまま続けて、1898年(明治31年)9月15日発『電受第244号』。

第89号

在英李俊鎔へ、左の通転電方李載冕より依頼ありたり。

「皇帝・太子共膳部の毒に中てられ御不例。
目下取調中。」
李俊鎔は、この頃イギリス留学中。
まぁ、この留学の経緯も色々あるようなんですが、あまり面白くなさそうなので割愛。
で、親父の李載冕から毒茶事件に関するの電報を転電して欲しい、と。

さて、この辺の史料はサクサク進めていきます。
続いては、1898年(明治31年)9月15日発『電受第245号』。

第90号

米人グレイトハウスは先般皇帝の密旨を帯び、宮闕護衛の為め、欧米人の巡査30名計り雇入れの為め上海に行きたるやの風説ありたるが、同人は昨日雇入人員を引連れ、仁川に到着したる旨報告に接す。
・・・。
西=ローゼン協定で日本とロシアの不干渉が決まったら、今度はアメリカですか?
馬鹿じゃね?
マジで。


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)
帝国の迷走(九)
帝国の迷走(十)
帝国の迷走(十一)
帝国の迷走(十二)
帝国の迷走(十三)


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ひとりぼっち
(注:高宗ではありません)


さて思ったより、かなり大事だった高宗譲位未遂事件。
所詮党争や、独立協会と皇国協会の反目の一環かなと思っていた私が甘かったです・・・。_| ̄|○

というわけで、前回の『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』中、1898年(明治31年)9月19日付『機密第33号』の続きを見ていきましょう。

趙の参政となるや、此機を以て予て反対派と目せる本件の関係者を一網に打尽せんと企図し、法部大臣を兼任して其衝に当らんと運動せり。
依て、露公使に諂言して、韓国をして露国の保護の下に置くことを要請し、内実露館の後楯を得んとしたりしに、露公使は右の申込に対し、若し此言をして■実に陛下の御諚なりとせば、必ず後証となるべきものを要する旨を答へたりしかば、趙は私に外交文書を製し、陛下を瞞着して玉璽を得んと努めたりしに、反て陛下は窃かに兪外部協弁を露館に遣し、趙の行為皆な越権なる旨を弁疏せられたり。
前回参政となった趙秉式は、この機に乗じて反対派を一網打尽にしようとして、法部大臣になりたがる。
まぁ、この辺はいつものパターンですな。

で、ロシア公使におべっかを使い、韓国をロシアの保護下に置いてくれ、と。
最悪。(笑)

これを受けたロシアは、恐らく西=ローゼン協定の事や高宗の人となりも知っていたでしょうから、マジで高宗の命令なら後で証拠になるものが必要だ、と。
すると趙秉式は、自分で外交文書を作って高宗にハンコ押させようとする。(笑)
しかしながら保護国だけは嫌だったのか、ロシア離れの証なのかは分かりませんが、高宗は寧ろ兪箕煥をロシア公使館に行かせて、趙秉式の行動は全部越権行為だと弁疏させたんですね。

つうか、どんな国やねん。(笑)

然れ共、趙は之れに反省するなく尚政府内に羽翼を張らんと、閔種黙を外部大臣に、鄭洛鎔を農商工部大臣に■し、又其一味并に負褓商等の雑役人を語らひ皇国協会の名の下に団結し、公然本件関係者の必罸すべきを鳴し、又其政敵たる独立協会を瓦解せしめんとて、同協会は本件に多少の関係ありとの■柄を以て、其解散方を内奏するに至りたり。
同時■年■国会の名を以て、本件関係者中の逃亡者の手より本件の精神■■行せざるべからざる理由を艸したる檄文の如きものを発したり。
其大要に曰く、陛下が登極35年の久しきに亘り、独り自ら励精せらるるは反て過度の精神を労せらるるものにして、宜しく玉体の健全を図り聖壽を頌ぜんには、茲に大権を皇太子に譲り、暫時摂養あらせらるるの勝るに如かず。
而皇太子に於て大権を掌握せらるるや、君側の奸小并に台閣の佞臣を鋤き大政を刷新せらるるの必要あるに付、志士憤起せざるべからざる云々。
皇国協会は、之れを以て反側者の手より出たるものとし大に辨駁を与へ、又洪鐘宇一派を使嗾して、本件に関する長■の弾劾奏文を■呈せしめ、一時趙等の気焔をして上下を聳動せしめたり。
何か、肝心な部分が■になってる気もしますが・・・。_| ̄|○

高宗から、ロシア公使館に対する趙秉式の言動は越権行為だと言われても、趙秉式に反省の色無し。
さらに勢力を伸ばそうとして、閔種黙を外部大臣、鄭洛鎔を農商工部大臣にしようとしたり、一味や褓負商等と誘って皇国協会の名の下に団結して、公然と今回の事件関係者の必罰を言い立てた、と。
また、独立協会を瓦解させようとして、独立協会が今回の譲位事件に多少関係していたとして解散を内奏する。
同時に、■年■国会の名で、事件関係者で逃亡中の者が今回の事件は行わざるを得なかったという理由を書した檄文を発した、と。

最終的に、独立協会の解散には王政廃止・共和制樹立の偽文書が関連していると言われていますが、何か似たような話ですね。
まぁ、そっちの偽文書の方も今後出てくる事になるんでしょうが。

で、その檄文中には、高宗が王位について35年間、独りで頑張ってきたのはかえって過度の精神疲労を招いており、高宗の健康のためには、この辺で純宗に譲位して休養した方が良いだろう、と。
しかし、純宗を皇帝としたなれば、奸臣や佞臣を排除し政治を刷新する必要があるから、志ある者は立ち上がれ!ってな感じかな?
で、この檄文が反側者、つまり事件関係者側の人間から出たものとして、大きく弁駁し、また洪鐘宇一派をそそのかして、今回の一件に関する弾劾上疏をさせたりで、趙秉式一派の勢いは上下をたじろがせた、と。
何か、やっぱり党争に落ち着いて、事件が矮小化していく気がするのは、私だけなんでしょうか・・・?

然るに、趙をして勢力を得せしめば、本件を一層重大ならしめ、其結果幾多の連累者を発生するを憂懼したる一派と、其解散を内奏せられたる独立協会は排斥運動を肇め、同協会は金亀鉉、洪正厚、崔錫敏の3名を総代として趙に■職勧告書を致し、又他の有志は鍾路に於て趙の辞職勧告を演説せり。
同協会の勧告書に対しては、趙は官職の進退に至っては唯だ皇上の大権に属し、臣子の私議すべきものにあらざるを以て回答したるに、同協会は右を不信■なる答■となし、更に30名の委員を■み趙の邸に■き詳細なる説明を聞かんことを再び申入れたり。
然るに趙は、期日を約し其翌日を以て面会せんとしたる前夜、独立協会長尹致昊召されて大内に入り、時事に御■問あらせられたる席、趙の在職は国人の不平とする所なる趣奏上したるに依り形勢俄然一変し、協会派の利地に■くの傾向を生じたるより、趙は期に及んで出会せず、協会之れを強ゆる再三、趙竟に身を以て潜匿するに至りたり。
超て2、3日、宮廷より趙に「既に省記なくして擅に禁中に■す。事体を乖■す。責■なかるべからず。姑く先づ免官す。」との詔を下し、趙を免官に処せられたり。
蓋し趙は、独立協会の追究に恐れ、謂れなく4日間宮中に宿泊せしに依ると云ふ。
同時に、宮内府特進官金炳始を起して議政府議政に、同金永壽を参政に、前学部大臣趙秉鎬を再び学部大臣に命ぜられ、両金とも辞表を■て現職に就かざるを以て、賛政徐正淳に孰れも其署理を命ぜられたり。
勢いづいた趙秉式一派に対し、このままだとさらに事件を重大にし、幾多の連累者を生じることを憂慮した一派と独立協会が、趙秉式一派の排斥運動を始めるんですね。
で、本人には辞職勧告書、大通りでは辞職勧告の演説を行って示威。

趙は勧告書に対して、「いや、任免権は高宗にあるんだから、僕の勝手にはできませんよ。」ととぼけた回答。
とてもじゃないけど、自分で韓国を保護国にしてもらう外交文書を作って、高宗にハンコ押させようとした人物の発言とは思えませんな。(笑)

当然独立協会側は、「何じゃそりゃ。ふざけとんのか、ワレ」(笑)ってことで、再度詳細な説明を求めるんですね。
そして、趙秉式が面会の日を決める。
すると丁度その前日に、独立協会会長の尹致昊が召し出され、時事について諮問されるわけです。
そこで、「趙秉式が在職してるの、みんな不満に思ってますぜ。」と述べたところ、忽ち形勢逆転。
実に高宗らしいと言えば高宗らしい。(笑)
まぁ、趙秉式はロシア公使館への保護国依頼の一件がありますからねぇ。
高宗もきっかけが欲しかったのかもしれませんな。

そのため趙は、面会もせずに逃げ回る、と。
その2、3日後、独立協会の追究を恐れて理由もなく宮中に3泊4日宿泊したため、免官の詔をだされてしまう、と。
これが、7月23日のエントリーでの1898年(明治31年)7月23日発『電受第160号』の辞職の顛末ということになります。

で、相変わらず金炳始は議政大臣にならない、と。

此の如く、本件関係者に反対なる趙一派若くは其他の失敗に帰したるより、本件は大事に至らずして落着に至るべしとは、誰人も予想し居たる処なるが、果せる哉先頃高等裁判所に於て各被告審問の上、閔泳駿、朴定陽、金在殷は無関係なりとて、李南凞は罪を■成せずとて、孰れも無罪放免となり、金在豊、李龍漢、李忠求、李鍾林は、大典会通推断條乱言者若干犯於上情■切害律、大明律名例共犯罪并に法律第3号刑律名例第10條、第18條に依り各笞100、流終身に、金箕璜、李祖鉉、李用漢は、同條例に依り各杖100、流3,000里に処せられたり。

本件暴露の発端を聞くに、或日大尉禹南圭なるもの安駉壽を訪問したるに、安は自己の腹心なりと信じ本件の■畧を語り、且つ帝は再び露館に潜幸するの恐あるは、李等宮闕護衛に任じ能く注意すべき旨、宮城の図面を出し指示したるに、禹は怱ち反覆して侍衛大隊長李学均に密告し、両人并に金元植等3人均しく其筋に密告したるに出づるものなりと云ふ。

右にて本件の落着を告げたる次第に有之候。
右及具報候。
敬具
趙一派の工作が失敗に終わり、7月27日のエントリーでも見られたように、関係者は各々無罪になったり流罪になったりしたわけです。
で、元々この計画がばれた原因は、安駉壽が腹心だと思って計画を話した禹南圭が密告したらしい、と。

こうして、高宗譲位未遂事件は、ひとまず落着したのである。


次回からは・・・・・・ムフフ
今日は、これまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)
帝国の迷走(九)
帝国の迷走(十)
帝国の迷走(十一)
帝国の迷走(十二)


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日本側にとってはあまり大した意味は無くても、大韓帝国側にとってはロシアの干渉の最たるものとして取り上げられ、これを独立協会が挫折させたとして、教科書にも取り上げられているらしい絶影島の一件が解決しました。
今日からは、安心して大韓帝国のグダグダぶりを。(笑)

今日最初は、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』から、1898年(明治31年)8月27日付『電受第225号』。

第81号

去る24日、兪外部協弁、軍部協弁に転任。
朴サイジュン(嘗て天津に領政府たりし人)其後任に任ぜられ、又趙秉稷外部大臣に任ぜられ李道宰の署理を解したるも、趙は病気にて出仕せざるに付、朴協弁大臣署理を命ぜられたり。
朴サイジュンは、勿論あの朴齊純ですね。
ここで初めて大臣級の役職についた事になります。

さて、続いては前回の裁判宣告により、一応の終息した高宗譲位上疏未遂事件に関する報告。
1898年(明治31年)9月19日付『機密第33号』より。
これまたかなり長いので、分割しながら見ていきます。

譲位事件に関する疑獄結了の件

客月5日■宮中に於て突然戒厳行はれ、民心騒然たり。
越て7日に至り、李鍾健は申奭凞に代り警務使に任ぜられ、翌8日に至り前警務使金在豊、同李忠求、中枢院議官李鍾林、李南凞、同金在殷、前正尉李龍漢、副尉金箕璜、参領李用漢等続々逮捕せられ、翌9日に至り前光州観察使尹雄烈警務使に任ぜられ、翌10日内部大臣朴定陽、宮内府特進官閔泳駿も亦召喚を受け、獄に投ぜられたり。
安駉壽は独り逃れて、日本居留地に潜伏したり。

事の源因を原ずるに、全く譲位を遂行せんとするに■なり。
何故に此時に当って斯る大事を企てたるかを考ふるに、今上の過去30年間に於ける治績は補■鮮く、改善事業をして漸に志士に絶望せしめたるより、■に廃帝の希望を久しき以前より冥々中胚胎せしめ居たるに、露館播遷の一事は倍此気勢を刺激するに至りたり。
■而、這回日露両国が互に無干渉を約して手を引きたる以来、今上が一層欲情を恣にし、稍もすれば国家の大計に意を留められざるものあり。
更に、奸小輩の宮廷に往来して兎角に弊竇を重ぬるの姿あって、此儘にして推し行けば安危測るべからず。
此時に当って百年の長計を定め自主独立の基礎を樹立せずば、何の時を待って成すべきかと、誰に言ふとなく志士間に黙契して竟に此れを実行せんとしたり。
9月の史料で客月とありますが、実際に李鍾健が申奭凞の代わりに警務使になったのは7月7日ですので、一連の事件は7月に起きたんでしょうな。
で、7月5日に宮中で戒厳体制となり、民衆騒然。
8日以降、7月24日のエントリーの1898年(明治31年)7月10日発『電受第139号』でも一部見られたとおり、金在豊、李忠求、李鍾林、李南凞、金在殷、李龍漢、金箕璜、李用漢、朴定陽、閔泳駿等が逮捕。
それらの原因は、譲位計画にある、と。

で、何でこの時期に譲位を計画したのかと考えると、高宗の過去30年間の政治成績は不足であり、改善事業では少しずつ有志者を絶望させていったため、かなり以前から高宗を廃する兆しがあり、露館播遷はさらにその考えを刺激した、と。
まぁ、自分の王が他国の公使館に引き篭もりっぱなしで、利権を売り渡したり、側近に人事を良いようにされてたら、誰でもそう思いますわな。

そして、今回日露間で西=ローゼン協定が結ばれ、大韓帝国はかなりなフリーハンドを得るわけです。
ところが、高宗には一向に国家の大事も気にせずに、感情のおもむくまま政治してるようにしか見えない。
しかも、よこしまな小人が宮中に出入りしてその弊害を重ね、このまま行けば国が安全であるか危険であるかすら分からない。
今、国家百年の計を定めて独立の基礎を確立しなければ、何時するんだよ!と、有志者の間で暗黙のうちに合意がなされ、今回の実行に至ったのではないか、と。

んー、やっぱりこれだけアレな指導者なので、このままじゃ駄目だと危機感を募らせる人達もいたんでしょうねぇ・・・。
もっと駄目駄目かと思ってたのに。(笑)

然るに、東宮其人は、今上に優る有望たる主権者の資格を有する歟と云へば、東宮は却て尋常人の感能をも具備せざる程なりとのことなれば、畢竟彼等の譲位の企望は、重きを東宮其人に置くにあらずして、寧ろ彼■の意見を実行せんとの行掛りの韜畧に過ぎざるべく、而して東宮を陽に推立たる所以のものは、一に承継の順序を追ふのみ。
故に、若し太子其位に当りたるの後彼等に於て見込なしとすれば、之れを左右して結局義和宮なり李埈鎔なりを擁立する迄に進行するやも不■斗べしと■考たり。
何となれば、本件に関係するもの、前顕の如く露国派と称せらるる李忠求、金在豊、又日本党と称せらるる安駉壽、其他守旧派の最も愛国心に冨めると称せられ、且つ俊厳なる金炳始、閔泳駿、小心勤勉の朴定陽等の如き、党派若くは主義を棄てて一団に和合したる形跡を以て知るべきなり。
聞か如くんば、東宮も内々賛成し居られ、閔泳綺、兪箕煥其他の当路者も多少関係したる形跡あり。
閔泳綺が、遽に軍部■転じて度支部となりたるもの之れが為めなりと云ふ。
高宗に譲位させたとしても、じゃあ純宗が高宗より有望かといえば、純宗は却って普通の人の感情や能力も備えていないとのことであり、結果として彼等の譲位計画は純宗そのものを重視するのではなく、寧ろ彼等の計画実行の戦略に過ぎず、純宗を立てるのは皇帝位継承順に従っただけだ、と。
つうか、この事件起きたときはまだ毒茶事件前なのに、純宗も酷い言われようだな。(笑)

で、もし純宗に見込みが無ければ、その後義和宮(純宗の弟)や李埈鎔(大院君の孫、李載冕の息子)を擁立すれば良いと考えてるんですね。
まぁ、この二人は譲位の噂が出る度に名前が出るんですよねぇ。
去年の6月1日のエントリーを見ても、高宗自身がその事を恐れていたと述べてる程で。
そっちの方が、大韓帝国のためだったという気はしないでもないわけですが。(笑)

で、親露派も親日派も守旧派もその他皆党派や主義を棄てて団結する程だったわけですね。
7月24日のエントリーで「金在豊を始めとする名前が列挙されている人って、全部独立協会なのかな?」と疑問を呈したわけですが、そういうわけでも無く、それこそ有志連合といった雰囲気。
ちなみに純宗も内々に賛成の意を表し、閔泳綺や兪箕煥といった現政権にある者も関係していた形跡がある、と。
結構、大がかりな譲位事件だったんだなぁ・・・。

事情右の如くにして、疑獄の発生するや、政府部内の人には其何処に波及するやも知れずとて、頗る恟々措く処を知らざる有様に至れり。
学部大臣趙秉鎬は閔泳駿一派の人物なるを以て、辞表を呈して聞届けられ、兪箕煥、閔泳綺は曖昧なる名の下に辞表を呈し、小瓦解の兆あり。
野心勃々の趙秉式は、鄭洛鎔、閔種黙の輩と結び、■案ずべしとて連りに疑獄処分の厳重ならざるべからざる旨を奏請せり。
然るに本件は、直接に今上に関係せしを以て其逆鱗を招きたるのみならず、予て皇后冊立の希望を抱ける厳尚宮にも、一大■敵と目せられたるを以て、■に趙等一派の勢焔を富むるに至り、一時政府部内或一派の大恐慌を来すに至りたり。
依て、沈相薫等は例の慣手■を以て、先づ趙を議政府参政に持ち上げ、其鋒鋭を避けんと努めたり。
罪は一族に及ぶのが李朝・大韓帝国の常ですから、当然政府部内でもどこまで波及するか戦々恐々とする状態に。
趙秉鎬の辞職は、7月23日のエントリーの1898年(明治31年)7月16日発『電受第149号』に見られるとおり。

で、趙秉式は皇国協会初代会長の鄭洛鎔や閔種黙なんかと手を結んで、疑獄事件の処分を厳しくしなければならないと奏請し、高宗も自分に関係しているので激怒し、丁度皇后になりたがっていた厳尚宮にも疑獄参加者一派は敵と見なされ、政府部内のある一派は大恐慌。
ってことで、沈相薫等は趙秉式を参政にして、鉾先を逸らす手段に出た、と。
これも7月23日のエントリーの1898年(明治31年)7月16日発『電受第149号』にあるとおりですね。
まぁ、その次の1898年(明治31年)7月23日発『電受第160号』で、簡単に辞職に追い込まれてるわけですが。(笑)


1898年(明治31年)9月19日付『機密第33号』の途中ですが、今日はここまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)
帝国の迷走(九)
帝国の迷走(十)
帝国の迷走(十一)



もう少しで、絶影島の一件については終了ですので、今日でやってしまいたいと思います。
では早速、前回に引き続き伊集院からのものとなる、1898年(明治31年)8月13日付『機密第20号』から。

本月11日附機密第19号を以て、絶影島の件に関し及具申候処、該島の一部を各国居留地として開放のことは已に当国政府に於て発表し、其敷地凡そ25万坪を測量候為め、当国雇外国技師出張致し来り。
昨日、同人来館致候に付、絶影島内何れの部分を測量する積りなるやを尋ねたるに、我炭庫敷地の左より西方に選定する積りなりとの事に有之候。
各国居留地として他に適当の場所なきを以て、早晩右地所を開放■致。
果して然らば、該地域全体を我所有に帰せしめ候儀は、到底事情の許さざるものと存候処、愈開放競売の時に際し、価格を問はず買収する覚悟なれば大部分を買収し得るは当然なるも、商業上に余り必要の場所にあらざるを以て、我商民中には高価を投じて買収を望むものは多分■は有之間敷と存候。
右の事情に付き、自然他外国人も右地域内に土地を所有するに至るは免れざる処なれば、其筋の意見にて、該地附近に或る目的のため必要欠くべからざるもの有之候へば、之に対して買収の手段を施し候方有効と被存候に付、為御参考此段追掛申進候。
敬具
状況一変。
当該予定地が各国居留地になる模様。
7月7日のエントリーを始めとして、確かに居留地の話は前々から出ていたわけですが、前回の「露国が絶影島に於て炭庫敷地を得ることに付ては、已に韓国政府の承諾を得たる後の今日に有之候」の話もあり、どの話が本当なのかサッパリ分かりません。(笑)
素直に受け取れば、先ほどの承諾は場所を特定しない単なる石炭庫設置の許可であって、今回の場所は7月9日のエントリーでのジョルダンと閔種默の間で確認された、各国居留地にする方が優先されたという事なんでしょうけどね。
で、競売になるだろうから必要なら買っておくけど、どうよ、と。

で、このとき内閣総理大臣兼外務大臣であった大隈重信から、回答が来ます。
1898年(明治31年)8月20日発『電送第161号』。

(第15号)

8月11日附機密第19号を以て稟請相成たる、絶影島炭庫附近地に関する件に付ては、陸軍に於て金力に依りて迄妨害を加ふるの必要なしとの意見に付、右様御承知相成たし。
金かかるなら(゚⊿゚)イラネ

まぁ、使い道無いですし。(笑)
増して、ロシア軍の石炭庫ではなく、各国居留地になるというのであれば邪魔する必要性が皆無ですし。
梁田の土地は海岸に接してないそうですし。
当たり前の話ですわな。

さて、次の史料はかなり日数が空いてますが、これで絶影島の話は終了となりますので、ここで取り上げてしまいます。
1898年(明治31年)12月2日付『機密第31号』。

絶影島内に於ける邦人梁田所有の地所を、在長崎独乙商人「ギンスブルグ」へ売却予約一件に付き、本年8月8日付機密第18号及10月27日附機密第28号追て書きを以て及報告置候処、今般右「ギンスブルグ」より当港税関雇独人「アーノー」なる者に対し、「土地不要」と電報有之、「アーノー」より其旨梁田へ通告し及び候趣に付、是にて本件の地所は幸に外国人の関係を絶つに至り。
尚ほ、将来右土地は、梁田に於て予め本官「相談なくして外国人へ売渡す等の事無之様申聞け置候。
就ては、其筋の意見に拠り右土地を必要と認められ候はば、客月24日附機密第30号を以て申進置候通り、一坪凡そ壱円以内にて買収の見込有之候。
右報告旁此段申進候。
敬具
「10月27日附機密第28号追て書き」は、恐らく別な関係の文書の追伸に載っていると思われますので、この史料の綴りには出てこないんでしょうが、客月24日附機密第30号って何よ・・・。_| ̄|○

兎も角、話題になってた梁田の土地は、「ギンスブルグ」も (゚⊿゚)イラネ 、と。(笑)
海岸無いんだったら売っちゃっても良かっただろうに、梁田、怒られた上に転売も出来ないでカワイソス。www

で、伊集院も可哀想に思ったのか、頻りに土地の買収を斡旋。
いや、陸軍も (゚⊿゚)イラネ って言ってたじゃん。(笑)

つうか、7月18日のエントリーで伊集院釜山領事辞任して、本国に帰るはずじゃなかったっけ?
その辺はどうなってるんだろう・・・。

さて。
これで絶影島の話は終了。
次からは、安心して高宗譲位上疏未遂事件を始めとする、朝鮮政府の内情に移ることができます。
ということで、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』から、1898年(明治31年)8月15日発『電受第205号』。

第76号

昨夜、疑獄事件に関する裁判宣告あり。
朴定陽、閔泳駿、金在殷、李南凞の4名放免せられ、本日午前2時、各自帰宅せり。
李用漢、李■漢、金在豊、李忠求、李祖鉉、李鍾林の6名は流罪(年数不明)の宣告ありたり。
7月24日のエントリーで逮捕された者の裁判宣告ですね。

で、この電報では年数不明とされていた流罪者に対する追加情報があります。
1898年(明治31年)8月15日発『電受第221号』。

第77号

第76号電報を以て申進したる疑獄有罪者は、何れも流終身なり。
終身流刑。
とはいっても、何かある毎に朝鮮ではいつも特赦があるので、実は大した刑じゃないんじゃないかと思ったり。(笑)


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)
帝国の迷走(九)
帝国の迷走(十)



今日は、早速本題に入っていきます。
次に取り扱う史料で、絶影島の件と高宗譲位上疏未遂事件の件の両方がほぼ同じ頃なんで、どっちから取り上げようか迷ったんですが、先にあんまり重要じゃなくなりつつある絶影島の方からやっておきます。
『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/3.絶影島/3 明治31年3月17日から明治31年12月23日レファレンスコード:B03041171900』から、1898年(明治31年)8月8日付『機密第18号』。
かなり長いんですが、内容的に大した話じゃないので、一気に引用します。

絶影島内我炭庫附近に於ける邦人梁田周吉所有の地所に関する件

絶影島我炭庫敷地の左右に接して、当港税関雇邦人梁田周吉なる者、予て3ヶ所4,000坪の土地を韓人より買受け、名義は依然韓人となし置きたる処、客月26日入港の相模丸に乗込み居たる独乙商人と称する「ビルユコック」なる者、在長崎同国商人「ギンスブルク」なる者の代理者として、当港税関雇独乙人を以て右地所買入の事を申込み置き、即日同人は同舩にて浦汐港まで行き、一昨6日再び同舩にて寄港し、右梁田と其所有地の内我炭庫の左方に在る地所1,000坪余を6,500円にて売買の予約をなし、其條件は、絶影島解放の後地券交付の運びになりたる時代価の全額を払渡し、夫れまでは400円を手付として已に梁田に渡し、決して他に売渡さずとのものに有之候趣。
尚ほ、残りの地所も買受くる積りなりしも、価格のことにて少しく相談纏り兼ね、本人長崎着の上右「ギンスブルク」と協議の後、電報を以て取極むるとのことにて相分かれ、又附近韓人地所も買入れたしとて、其周旋方を梁田等に依頼し置きたる趣、同日右買受外人が相模丸にて出発後、梁田より初めて本官に其始末を告げたるに付、全体の様子を聞くに、右独乙人とは偽にして、露国人なるやの疑あり。
右相模丸には、肝付海軍少将乗込居られたるを以て、本官は同少将見送のため該舩に至りたるに、其時同少将の談話に、客月21日、独乙人と称して仁川より少将と同時に相模丸に乗込、浦汐まで至り直ちに帰り来りたる者同舩せるが、彼は独乙人にあらずして京城辺に在る露国人ならずやとの事なりしが、後ちにて梁田の話に符合せると。
又、絶影島に於て僅かに数千坪の地所を、商人として6,000円余の大金を出して買入候事は決して有之間敷候へば、右商人とは偽りにて、全く他の目的にするものと推測被致候。
尚、梁田なる者は、曾て領事館書記生として当館に在勤したることあるを以て、今日まで間接に当館に便利を与へたることもあり、且絶影島の事は先般来当港邦人の一般に注意し居る所なれば、右等の事情に心付かざりしにもあらざるべきも、大金の為め一時全く眩惑され、本官は勿論其他に秘して密かに相談し、今日に至り、後日の非難を恐れて本官に申出たるものと被存候に付、相談を受けたる当初に於て何か本官に告げざりしか、甚其不心得たるを充分詰責したるに、同人も初めて悟る所あり、真実後悔の模様相見え、直ちに長崎に電報して契約を取消す様取計ふため、不取敢右契約の確定を延引すべき旨を先方に通ずるとの事故、日本国民として後日悔ゆる所なき様可致旨申聞け置きたるも、已に一応の予約は成立致居候へば、之を無効に帰せしむるは先方にて容易に承諾致間敷と存候。
右に付、即日京城加藤弁理公使へ、電報を以て右様の露国人京城辺の心当りの有無を問合度と存候処、当国一般降雨のため当時電信不通と相成居候に付、其儀不相叶、昨7日舩便にて問合せ置き候。
尚ほ、本官に於て出来得る限りは妨げ候積りなるも、陸海軍両省の意見も可有之旁御訓示を仰ぎ所置致度と存、一昨6日、不取敢電報を以て請訓致候次第に有之候。
尚又、梁田なる者は、其後前顕税関雇独乙人まで契約確定の延期を申込みたるに、已に一応の取極をなしたることなれば其所置甚だ困難なるも、去る6日に買受人が右地所を見たるとき、梁田の地所は海岸に接せず、其間日本人の所有に属するものあるを発見し、是等を併せざれば甚だ不便なるを以て、是非之等を買収することを梁田に依頼し、梁田も其旨を諾して、右地所の持主等に相談したる趣。
然るに該地所の一部は、昨年露国が炭庫敷地を借入るるのこと加藤弁理公使より内報ありたるにより、本官我炭庫敷地の附近を検査したるとき、海岸に必要と認むる土地100余坪ありたるを以て、直ちに日本人をして之を買収せしめ、固く転売を禁じ置きしにより、今般該地所持主が梁田の相談に応ぜざりしより仲立独乙人も大に困却したる折柄、梁田より契約取極の延期を申込みたるに付、同人も海岸の買収出来ざれば、梁田のもののみにては買受人も全部の買収を欲せざるべきやも難計とて不取敢右の趣電報せしに、梁田のもの一ヶ所は已に買受くることになり居るを以て、海岸の地所は出来得る部分に対し周旋を頼むとの返電ありしに付、更に梁田より海岸の地所は之を買収する能はず。
詳細は書信を以てする旨電報せし趣にて、此上とも本官の指示により、梁田に於ては如何様共可致との事に有之候。
右の事情に付、若し其筋の意見にて我石炭庫に接したる土地にして、何等の目的を持ってするに係らず、外国人の所有に帰するも差支なしとの事に有之候へば、商業上には格別必要の土地にあらざるを以て、梁田の希望に任せ度候條、何分の御訓示相成候様致度、此段事情を具し及請訓候。
敬具


追て、梁田をして独乙人と称する「ビルユコツク」の身分を取調べしめしに、京城にて露語学校にて語学の教授をなし居り、目下夏期休暇を以て浦汐及日本漫遊の途次、遇々長崎に在る独商人「ギンスボルク」なる者の依頼を受けたりと申居り候趣、本文電報等は右「ギンスボルク」と往復致居候。
此段申添候也。
これまでにあった話の、かなり詳細な報告ですね。
つうか、金に目がくらんで買収に応じてしまった梁田の土地が、海岸に接してないって・・・。_| ̄|○
ロシア人が絶影島の土地買収に来たということは、当然石炭庫の関連だと思ってるのに、海岸に接してなきゃ石炭庫も糞もねーだろ。
話が全然違ってくるじゃん。(笑)

で、更に海岸までの間に日本人の所有している土地があるのを発見。
梁田が交渉してみたが、1897年に加藤からロシアが石炭庫用地買収する話を聞いて、日本人に買収させた100坪程度の土地であり、勿論売る気配なし。(笑)
つうかその日本人に買収させた話、今までの報告書には無かったような・・・。

さて、続いての史料も絶影島の話。
1898年(明治31年)8月11日付『機密第19号』より。

絶影島我炭庫附近の地所に関し稟請の件

絶影島我炭庫敷地附近に於て、当港税関雇邦人梁田周吉所有の地所を、同税関雇独乙人の仲介を以て独乙商人と称する「ビルコツク」なる者に売渡しの予約をなしたる件に関し、本月8日附機密第18号を以て及報告置候処、一昨9日に至り、当国電信も■く開通致候に付、直ちに加藤弁理公使へ右の事情を報告し併せし「ビルコック」なる者に関する探偵方を依頼したるに、同公使より昨10日を以て左の返電に接し候。

「ビルコック」は当地在留露国人にして、露語学校教師なり。
同人の名を以て買入れの約定したる地所は、露国石炭庫の敷地に当つるものと察せらる。
然るに、露国が遂に絶影島の何れかの部分に於て、相当の地所を買入し炭庫を建築することは、到底防止し切れずと考ふ。
尤も今日の場合、我人民が露国へ炭庫敷地を売渡し、又露国が我炭庫に接近して炭庫を所有することに付ては自から事情もあり、又実際の利害関係■あることと考ふるに付き、貴官に於て篤と御取調べの上、時宜に拠り直ちに大臣へ経伺の上、然るべく御錯置相成りたし。

即ち、露国が絶影島に於て炭庫敷地を得ることに付ては、已に韓国政府の承諾を得たる後の今日に有之候へば、其何れかの部分に於て相当の地所を買入れ、炭庫を建築することは如何にも防止し切れざる儀と存候。
然るに、是迄露国が選定せし地所内には偶々邦人の所有地ありしを以て、妨害■漸く其効を奏し候儀に有之候処、絶影島我炭庫附近に於て邦人の土地を所有するは、僅かに其一部にして、他は何れも韓人の所有に属するものなれば、若し右等韓人の所有地を買収するの手段を施し置かざれば、到底妨害の目的を達する能はず。
今回の事件の如きも、昨10日附第13号御来示の次第も有之候に付、本官に於て出来得る限り尽力は致すべく候へ共、已に当事者間に予約成立し、又其仲介者たる者は外国人にして、先方より相当の報酬を受け周旋致居候ものなれば、可成本件約定の成立を希望し居るは当然なれば、一通りの手段にては■かも其効有之間敷、已に先便にて申進候通り商業上には必要の場所にあらざるも、若し其筋の意見にて、本件の場所を他外国人の所有に帰せしむるは断然不可なりとの事なれば、到底金力に依るの外無之と存候。
就ては、邦人の地所に対しては今春の前例も有之候へ共、此予約を円滑に取消さしめんとするには、仲介者たる独乙人に対しても相当の報酬を与へ、是を味方として尽力■致候の手順を試みなば成功致候はんかと■存候に付、更に陸軍省と御協議の上何分の御訓示相成度候。
尚又、前述の通り我炭庫敷地附近に於ては、梁田所有地の外韓人の所有に係る分も不少候処、是等に対する一定御方針無之候に付、併せて何分の御訓示相成度、此段及稟請候。
敬具

追て本件に就ては、至急其処置をなさざれば、機を失するの掛念有之候に付、陸軍省との御協議纏り次第、直ちに御電示相成候様致度、此段申添候也。
前回疑われた通り、やはりビルコックはロシア語学校教師のロシア人だった、と。
で、加藤はもうロシアがどこかの土地を買い入れる事は阻止しきれないだろうと予想してるんですね。
ただ、日本人所有地は自ずと事情もあるので、大臣と連絡とって、然るべく処置しろ、と。

次の「露国が絶影島に於て炭庫敷地を得ることに付ては、已に韓国政府の承諾を得たる後の今日に有之候」ですが、確かに絶影島に石炭庫を設置する許可は出してるわけですが、それに基づいたロシアの選定地に関しては拒否していました。
この単に石炭庫設置の許可を示すなのか、当初の選定地に対して承諾を与えたという話なのか、それ以外の場所について承諾したのか、ちょっと不明。
まぁ、どっちにしろ今回の土地は海岸に接してないわけですが・・・。(笑)

兎も角、その選定地には日本人所有地があったため、これまで妨害が効を奏していたけども、日本人の所有地は僅かであって、その周辺は当然韓国人の土地。
今回の日本人所有地の売渡についても予約は既に成立し、仲介人である外国人もかなりな報酬を受けるもので、彼等韓国人の土地も買収しなければ、もう妨害無理、と。

ということで、今回の場所は商業上必要な場所ではないが、軍の方でこの場所を外国人に渡すのは絶対駄目だってんなら、金出せよ、と。
多分陸軍は思ってるよね。
またかよ、って。(笑)


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)
帝国の迷走(九)



ようやく、タイトル通りの迷走が見られるようになってきた大韓帝国。(笑)
ここに来て、高宗譲位上疏未遂事件が起きております。
恐らくはその影響だと思いますが、再び人事に関する史料が見られます。
『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』から、1898年(明治31年)7月30日発『電受第30号』。

第66号

法部大臣趙秉稷、竟に辞職し、申箕善其後任に任ぜらる。
「竟に」という事は、辞職要求の圧力がどこかからあったんでしょうね。
これ以上は次の史料を見てから。
次も、人事の話が続きます。
1898年(明治31年)8月1日発『電受第183号』。

第69号

兪外部署理は任を解かれ、李道宰臨時外部大臣署理事務を命ぜらる。
兪外部署理は、7月22日のエントリーで署理になった兪箕煥でしょうね。
最近、マイナーな人名が出てくると「dreamtale日記 ○○○」で手前味噌でググるんですが、6月24日のエントリーで加藤と高宗の連絡役になった人ですな。
で、まだ詳細調べてないので暫定ですが、どうやら独立協会の委員だった模様。

先の趙秉稷は、6月24日のエントリーでは兪箕煥に推薦されたという伝聞情報がありますので、それが正しいとするなら独立協会側の人物。
7月22日のエントリーで外部大臣になったり、その前は学部大臣であり、その後法部大臣となっている処から見れば、独立協会or民衆が言う所の「少壮の有力者」ではない人物という事になり、判断が難しいですね。
この二つの人事を関連性があるものとすれば、恐らく前者の見方で正しいのでしょう。

一方で、李道宰は地味に頻出の人物。
2月18日のエントリーでは断髪令を批判する上疏を出してますので、これは守旧派というか「少壮の有力者」ではない人物だと考えるのが妥当なのでしょう。

ということで、今回の2件の人事は、独立協会及び高宗譲位上疏未遂事件絡みと推測。

続いては話が飛ぶようで恐縮なんですが、絶影島の話。
7月22日のエントリーで、日本人所有地の献納を延期した話の続きですね。
『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/3.絶影島/3 明治31年3月17日から明治31年12月23日レファレンスコード:B03041171900』から、1898年(明治31年)8月6日発『電受第190号』。

第1号

絶影島我炭庫の左右に在る、当港税関雇日本人所有地1,200坪■を、一時寄港の独逸人と称すビユルニツクなる者、当港税関吏独逸人を以て右土地を2,000余円にて買受けんことを予約し既に手附金を渡し、尚ほ其附近の韓人地所も買入の希望ある由にて、右独逸人は本日直に相模丸にて長崎に赴き、該地よりの委細の■を為すとの約束なるよし、後ちにて右日本人申出でたり。
本人は、一時全く金銭に迷ひて右約束を為したるものにて、又、右独逸人は全く偽りにて、京城に在る露国人なる疑ひあり。
京城へ問合たきも、当時電信不通にて其事叶はず。
又、日本人へは其不心得を責め、成るべく其約束を取消すべき様忠告し、其旨承諾せるを以て本官の出来得る限りは妨ぐるも、右事情に付陸海軍両省の意見もあらば、併せて何分の御訓示を請ふ。
・・・。
「買入れを了し」たんじゃなかったのか?
使えない土地に4,000円も出した陸軍省の立場は?(笑)
まぁ、1,200坪ということなんで、以前の話にあった6,000坪とは別な土地か、その内の一部ってことでしょうね。

兎も角、自称ドイツ人のビユルニツクが、その1,200坪を2,000余円で買収を申し出、日本人は金に迷って手付け貰っちゃうんですね。
で、このドイツ人ってのは嘘で、どうもロシア人らしい、と。
京城に確認しようとしたけど、電信が不通で出来なかったようで。
独立国扱いして、電信を韓国にまかせちゃうから・・・。(笑)

で、この電文に従って、陸軍海軍両省に照会文が送られます。
1898年(明治31年)8月8日発『機密送第79号』及び『機密送第30号』。

釜山絶影島に在る我炭庫附近之本邦人所有地所、独逸国人に於て買受予約之儀に関し、別紙之通在同港伊集院領事より電稟有之候に付ては、之に対する貴省の御意見承知致度、■■至急何分の御回報相成度、此段及御照会候也。

(別紙は、在釜山伊集院領事来電受第190号寫)
これに対する、まずは陸軍省の回答。
1898年(明治31年)8月9日受『機密受第1253号』。

機密第30号を以て、釜山絶影島に在る我炭庫附近之本邦人所有地所、独逸国人に於て買受予約之儀に関し、伊集院領事之電稟を添へ御照会之趣了承。
右は、領事之意見■■適当と存候■、此段及御回答候也。
んー、ここまで崩れてると、何が適当なのかさっぱり分からん。(笑)
ってことで、伊集院への回答の方を見てみます。
1898年(明治31年)8月10日発『電送第147号』。

(第13号)

絶影島炭庫附近の土地の件は、陸軍省に於ても貴官の御意見に同意なるに付、出来得る限り喰ひ止め方に尽力せられたし。
ということで、伊集院の意見通りに出来るだけ邪魔しろ、と。
くどいようですが、陸軍省は役立たずの土地に4,000円も使ってますからねぇ。(笑)
阻止して貰わないと、マジで無駄遣いですし。

一方、金は使ってないものの、海軍も同意します。(笑)
1898年(明治31年)8月13日受『機密受第1264号』。

絶影島に在る我炭庫附近之本邦人所有地所、独逸国人に於て買受の予約云々の件に付、機密送第79号を以て御照会の趣了承。
当省に於ては、右地所売却せざる様致度希望に有之候條、右様御了知相成度、此段及御答候也。
まぁ、海軍としては、自分の石炭庫の近くにロシアの石炭庫が出来るわけで、当然と言えば当然ですかねぇ。


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)
帝国の迷走(八)



えー。
実は、帝国の迷走(六)をすっかり抜かしてしまってまして・・・。_| ̄|○
慌てて差し替えております。
7月22日のエントリーを帝国の迷走(六)、7月23日のエントリーを帝国の迷走(七)として、今日は一回23日に上げたものの再掲になっております。
しっかり抜かした帝国の迷走(六)は、結構重要な史料がありますので、何卒ご一読の程を。
失敗・・・。

さて、前回は良いところで終わっちゃいましたので、今日はその続きに入りたいと思います。

今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』から、前回の1898年(明治31年)7月23日発『電送第131号』への返電となる、1898年(明治31年)7月24日発『電受第162号』より。

第65号

今回の事変は、表面は陛下に御静養を勧め、皇太子に大権の御委任を請はんとの上疏を為すにあれども、其実は詰り体能く廃立を謀りたるものなり。
上下一般、陛下の統治に対する不満の聲は、露館遷幸以来殊に甚しきを加へたるものの如しと雖も、今回の挙を挑発せし直接の原因は、日露新協約の結果、韓国は始めて自主独立の行動を為すべき好運に際したるを以て、臣民一般の希望おも、此時を失はず広く人才を登庸し、進んで非政の改革を行ひ、大に国力の発達を図らんとするにあれども、兎角陛下は之が為め痛く其権力を剃がれんことを恐れ、却て少壮の有力者を遠ざけ非政■依然益々甚しきより、「アンチダイナスチツク」の気焔をして益々盛ならしめ、竟に廃立の端緒を開きたるものと信ず。
本邦人中、一人も関係者なし。
御安心あれ。
只、安駉壽の日本党たり、李忠求の露党たると、又連累者の一人法廷に於て日露公使も曾て本件を知れりと聞くと申述べたるやにて、日露公使とも多少■はれ居るものの如しと雖も、是は毫も意に介するに足らず。
事件の落着と共に、自ら釈然たるべしと信ず。
韓国の常■として、事あれば必ず党派の争を生ず。
即ち、今回は趙秉式・鄭洛容等の守旧連忽ち其隙に乗じて起り、皇国協会を利用して先づ独立協会を破壊し、陰謀■■者を悉く厳刑に処せんとて激烈なる運動を始めたれども、皇国協会は中途にて離反し、独立協会の勢には敵し難く、趙は免官となりて此企は終に失敗に帰したり。
露公使とは常に能く気脈を通じ、本件に関しても互に屡々監察を交換せり。
同人は、未だ土地の事情に馴れざるを以て、兎角出来事を過大視するの傾きあり。
又、時宜に依り、日露両国兵力を以て公然の干渉を試みんとするが如き私見を抱持するを以て、本官は努めて其誤解たるを説き、何処迄も無干渉にて成行に任かすべしとの意見を■へ居れり。
本官と陛下の情誼は、依然諭ことなし。
■■を大にするは、益々陛下の不徳を公表するなり。
党派の争ひ激烈にして、国政治まらざれば、公然外国の干渉を来すべし。
穏かに本件を処理して、先づ国政の改良を図るに如かずとの意を、秘密に勧告し置けり。
俄然局面の変更せしは、多くは之が為めなり。
安氏は、日本商民の家に潜伏せり。
自首を勧告すれども応ぜず。
やはり、第56号を見たいよなぁ・・・。
まぁ、見つからないもので愚痴ってもしょうがないので、この報告から事件を見ると、まず前提として露館播遷以降の政治への不満がある、と。
で、この年4月の西=ローゼン協定で、韓国独自行動をとれるチャンスが来たため、民衆はこの時を失わずに広い人材登用と弊政改革に期待してたんですな。
つうか、「韓国は始めて自主独立の行動を為すべき好運」って・・・。(笑)

それなのに高宗は、このような運動によって自分の権力が削がれるんではないかと恐れて、却って改革できる人材を遠ざけて悪政の改革も行わない、と。
そのために反王権の気運がさらに高まり、この時独立協会議長である安駉壽が主導して高宗の廃立を謀るに至ったというのが、加藤の事件の真相と原因予測になるわけですね。

つうか、「光武改革」っていつ始まるんでしょうねぇ。(笑)
大体、みんな東学党の乱が何故起こったのか、すっかり忘れてるようで。
何で今更高宗の無能さを怒ってるのか、と。
昨今、直接選挙で盧武鉉を選び出したにも係わらず、その無能さを怒る韓国人が多いようですが、それに比べれば元から王様だった高宗に対して怒る方が、まだマシなのかも知れませんが。(笑)

で、日本人は関係してないが、安駉壽が日本党であり李忠求が露党であること、及び連累者の一人が、法廷で日本とロシアの公使も今回の事件を知っていたと聞くと述べたので、関与を疑われたけど当然そんな事は無く、事件が終われば自然に疑いも晴れるだろう、と。
相変わらず、「知っていたと聞く」とか、噂で世の中動くの辞めて欲しいよね。
直接聞いてすら、「基地攻撃」が「先制攻撃」になったりするわけで。(笑)

そしていつも通り党争。(笑)
「事あれば必ず」なんて言われちゃってますし。(笑)
今回は、趙秉式を始めとする守旧派が、皇国協会を利用して独立協会を破壊し、陰謀の関係者を悉く厳刑にしようと激しく運動したのに、途中で皇国協会が離反。 そして、前回趙秉式は賛政を1週間で免官になったわけですな。

この時、5月からロシア公使がスペールに代わってマチュニンという人になっているようなんですが、ちょっと詳細不明。
兎も角、新任公使はまだ韓国に馴れてないんで、「大変な事が起きてる!」と感じて「場合によっては日露両国の兵力で、これに干渉しなきゃ駄目なんじゃね?」と思ったようなんですが、馴れてる人にとっては「ああ、また始まったよ。」なわけで。(笑)
加藤は「いや、それ誤解だから。干渉しないで、生暖かく見守りましょう。」と。

一方、恐らくは6月24日のエントリーの話から続いていると思われる高宗とのパイプは、未だに有効なようで。
「今処罰対象を拡大すれば、陛下の不徳を公表するのと同じであり、党派の争いが激しくなって国政が治まらなければ外国も公然と干渉するだろうから、穏便に処理した方が良いよ。」と韓国。
まぁ、高宗譲位上疏未遂事件に多数係わってたなんて話になれば、高宗の権威はそれだけ低下している事を表してるようなものですし。
大げさにすればするだけ、今回の高宗譲位上疏未遂事件が知れ渡りますからねぇ。
で、安駉壽は日本人の家に匿われており、自首を勧告しても応じない、と。

ということで、7月22日のエントリーで、「事件の香り」なんて生ぬるい事言ってる場合じゃない、譲位を画策するというかなりな大事件だったんですねぇ・・・。


さて、前々から第56号を見たいと言っていたわけですが、上記史料の次にありました。
って、何でやねん。(笑)
1898年(明治31年)7月10日発『電受第139号』。

第56号

此頃、李学均等の告発に依り、韓帝の大権を皇太子に委任せられたしとの上疏を為さんとするの企てあること露顕し、去る8日前軍部大臣李鍾健警務使に任ぜられ、昨8日以来、金在豊、李忠求、李南凞、金在殷、李容■等捕縛せられ、安駉壽、李允用等は何れへか潜伏せり。
捕縛は尚ほ之に止まらざる見込なり。

(7月10日記す)
最初からここにあるって分かってれば、話の展開も楽だったのに。(笑)

李学均と言えば、昨年5月23日のエントリーでの詐欺容疑事件や、俄館播遷等、地味にこのブログにちょくちょく顔を出す人物である。
先に、コメント欄で「登場してくる人物リストからエントリーを読みにいけるように出来ると便利だと思います。」と言われたわけですが、自分でもそれあると便利なんですよねぇ・・・。(笑)
まぁ、そのためには暫くブログお休みして作業しなきゃ駄目なんで、今のところ着手できてないんですが。

で、この名前が列挙されている人のうち、李允用については7月22日のエントリーで誤聞のため取り消されているわけです。
そして、今日の1898年(明治31年)7月24日発『電受第162号』によれば、安駉壽は親日派、李忠求は親露派、と。
つうか、金在豊を始めとする名前が列挙されている人って、全部独立協会なのかな?


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)
帝国の迷走(七)



実は今回の連載、どこで終わりにするか決めてません。(笑)
多分、独立協会弾圧くらいで区切る事になると思うんですがね。

さて。
実は7月18日のエントリー前回と少しだけ触れた、1898年(明治31年)4月25日締結の西=ローゼン協定について、連載の合間に条文とその過程をさらっと取り上げようかと思ってたんです。
しかし、史料があまりに長いので別の機会を設ける事に・・・。
連載6回まで来てるのをほっぽり出して、一週間連載とかってちょっとアレかなぁと思ったもんで。
いや、実際に3回も別な事やってんじゃんとか言われてしまいそうですが。(笑)

今日最初は、今までの人事関係や絶影島なんかとは、少し毛色の違う史料。
『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/2 明治30年9月27日から明治31年7月23日(レファレンスコード:B03050002900)』の、1898年(明治31年)7月4日発『機密第25号』から。

京城木浦間鉄道布設に関する件

今回農商工部の提議に依り、京城・木浦間に鉄道布設の件議政府会議決を経て、去る19日に裁可相成たるに付其真相を窺ふに、元来該線路は■きに仏国が京義線路の承諾を得るや、引続き該線路を申込み、■近に至っては英国が復た同様の申込をなし■に付、韓国政府が予め彼等の請求を杜絶する唯一の目的を以て、之が口実を造出したる迄に有之。
勿論、韓国政府自身が進んで之れを布設するの意志も之無、又其資力も無之。
単に態度を粧ふに不過次第に有之候。
右及具申候。
敬具
そういえば、まだブログには書いてないけど、前に京義鉄道を調べてた時に、フランスが京城・木浦間の敷設の件も要求してたのは、確かに見たなぁ。
で、最近に至ってイギリスも同様に要求。
その要求を拒否する口実として、京城・木浦間鉄道は大韓帝国政府で布設すると議決、裁可された、と。
勿論、韓国政府が自分で引く意志も無いし、だいたい金無ぇーし。(笑)

多分この辺が「自主近代化」。(笑)

列強の進出を阻止したニダ!ってオナニーするのは勝手だけどねぇ・・・。
なんか、最近の韓国の「自主防衛」と同じニオイがするんですが。(笑)

続いては、また人事の話を二つ続けて。
まずは1898年(明治31年)7月16日発『電受第149号』。

第62号

賛政尹容善辞職し趙秉式後任となり、学部大臣趙秉鎬辞職し協弁高永喜臨時署理となれり。
次に1898年(明治31年)7月23日発『電受第160号』。

昨夜趙秉式本官を免ぜらる。
是は表面の理由は、順番に従はず猥りに宮中に宿したりと云ふにあれども、其実は昨日独立協会より従来の虐政悪事を諮問せられ、一も答弁する能はざるの醜態を表したるに因ると云ふ。
又、金炳始は議政に。
金栄壽は賛政に任ぜられ、趙秉鎬学部大臣に再任せらる。
1週間で趙秉式は賛政を免官。
理由は、独立協会から過去の悪行を諮問されて、一つも答弁できなかったから、と。
どんだけ酷いことやったのさ。(笑)

もう一つ、趙秉鎬が学部大臣を辞職して一週間で復帰。
もう何が何だか・・・。(笑)

こんだけ頻繁に大臣が代わっていて、政策が一定してるのかどうか、非常に気になる処ですね。
その辺を評して「自主近代化」と言っていると思われるわけですが、そのうちその辺の化けの皮も剥いでおきたいですな。(笑)

さて、前回の終わりほどに「事件の香り」と述べた史料が二つありましたが、次はそれに関する史料。
区分けが『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/3 明治31年7月10日から明治31年10月4日(レファレンスコード:B03050003000)』に代わって、1898年(明治31年)7月23日発『電送第131号』より。

貴電第56号以下を以て御報告相成りたる事変の真相、其原因并に本邦人関係の有無等、折返し詳細返電ありたし。
前回「事件なら事件でさっさと報告して欲しいものです」と言っておいたわけですが、どうやら報告されるようです。(笑)
ただ、その史料が少し長いので、今回は多少短めになりますが終わりにして、続きは次回にお送りしたいと思います。


ってことで、今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)
帝国の迷走(六)



何か、かなり久しぶりな気もする「帝国の迷走」。
書いてる方は飽きが解消できて良かったりするんですが、読者の方には混乱を招きそうで、一言お詫びを。

さて今日は、前回決定された、絶影島内の日本人所有地買収に関する話から。
アジア歴史資料センター『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/3.絶影島/3 明治31年3月17日から明治31年12月23日レファレンスコード:B03041171900』より、西外務大臣から伊集院釜山領事への1898年(明治31年)4月2日発『機密送第7号』。

絶影島に於ける露国石炭庫用撰定地の内、本邦人所有地買収方の義に関し、昨年12月7日付機密第36号を以て御請訓の■第■之。
其■■又中村領事館事務代理よりも申出■義有之候に付、今般の■■貴官御意見の通買収することに決定し、其為め金4,000円を陸軍省より支出することと相成■に、右金額に対する■多寡■■及送附候■可然御措置相成■。
尤、買収後は表面上従来所有者の名義とし、貴官に於て監督相成置き、他日韓国と露国間に於ける貸借事件落着の上、右所有者より同省へ献納のことに御取斗相成候様陸軍大臣の希望に付、右様御承知御取斗相成度。
尚又本件の措置に付ては十分慎重の手段を施され、可成露国の感情を害せざる様深く御注意相成度、此段及内訓候也。

追て本文の土地買収済の上は、其面積等を詳記したる図面并関係書類、陸軍省に於て入用の趣に付、御取揃御送付相成度候也。
買収の費用ですが、何故か陸軍省の予算から出ることに。
使い道なんて殆ど無い土地を、外務省に押しつけられる陸軍省可哀想ス。(笑)
しかも、監督は外務省。
存外、どこから支出するかで揉めて、これまで決定先延ばしになってたのかも知れませんねぇ。

で、当然在朝鮮加藤弁理公使へも同様の文は送られるわけで。
1898年(明治31年)4月7日発『機密送第16号』。

露国政府が、石炭庫用敷地として絶影島内の地所借入の義に関しては、昨年来電信并書信を以て御報告相成、又其際前任大隈外務大臣より貴官へ訓令相成居候義も有之候処、御承知の通、右借区撰定地内の6,000坪は本邦人の所有に属し居候ものに有之。
露国に於ては、是非共之を買収せんことを欲し、種々の手段を以て運動致居候由にて、自然右所有者に於て其買収に応ずるやも難斗に付、此際帝国政府に於て之を買上げ候こと必要と存候旨、在釜山伊集院領事より稟請有之。
其後も、在同地中村領事館事務代理より屡次報告の次第も有之候に付、愈々該地所を買収することに決定し、其為め金4,000円を陸軍省より支出することに相成、已に同領事へ送金致候。
尤、買収後は表面上従来所有者の名義とし、同領事に於て監督致置き、他日露韓間に於ける貸借事件落着の上、右所有者より同省へ献納のことに取斗しめ候様相成候間、為御心得右及御通報置候也。
買収用の4,000円は已に送付済み、と。
後は先ほどの、1898年(明治31年)4月2日発『機密送第7号』と殆ど同じですね。

続いては、再び人事の話。
『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/2 明治30年9月27日から明治31年7月23日(レファレンスコード:B03050002900)』から、1898年(明治31年)4月16日発『電受第74号』。

趙秉鎬学部大臣に、沈相薫度支大臣に任ぜられ、趙秉稷外部大臣専任となれり。
ここでは外部大臣署理が専任となっただけですが、何か、安定しませんねぇ・・・。

ってことで、さらに人事の話。
1898年(明治31年)5月31日発『電受第109号』。

第49号

外部大臣趙秉稷辞職聞届られ、協弁兪箕煥大臣署理を命ぜらる。
また辞職。(笑)
これで、1897年(明治30年)7月の李完用の免官以降、僅か1年に満たない間に6回目の外部大臣免官。
平均2ヶ月弱に1回、外部大臣が交替してる計算ですな・・・。

さて、話が入り組んでる感もありますが、続いては再び絶影島に話が戻ります。
1898年(明治31年)6月6日付『機密第11号』。

当港絶影島に於ける露国石炭庫用撰定地の内本邦人所有の土地、今般陸軍省に於て買収することに相成候に付其手続相運ぶべき旨、金4,000円添付相成、4月2日付機密第7号を以て御訓示の趣了承致候。
依て、右土地の■数■地■査の上買入れを了し、其始末別紙に認め差進候条御査閲相成処、将又該土地を追て所有者より陸軍大臣へ献納の手続に可取計旨御来示■■処、我官憲に於て居留地外に公然土地所有の義は、目下の■情甚だ穏当ならざるやに被存候に付、当分其侭に致置度。
尤も、■■■旨よく別紙■■之通証文を徴し置きたるを以て、時機により如何様■取計ひ可■候。
右、陸軍省へ御通知相成度。
此段及具申候。
敬具
ってことで、買い入れは終了したけど、献納は今官憲が居留地外に土地を所有するのはマズイかもって・・・。
元々「韓国と露国間に於ける貸借事件落着の上」で献納することになってたんだから、当たり前じゃん。(笑)
と笑ってはみたものの、もしかして買収決定からこの史料までの間に結ばれた西=ローゼン協定が、何等かの影響を与えている可能性は考慮したいところ。

続いてはまたもや人事系の話。
1898年(明治31年)7月11日発『電受第143号』。

第58号

昨日、李警務辞職して尹勇烈其後任に命ぜられ、閔軍部は度支大臣に、沈度支は軍部大臣に転任せり。
又、内部大臣朴定陽、宮内府特進官閔泳駿、昨日警務庁へ召喚せられたり。
尹勇烈は尹雄烈の誤り。
電報だと仮名文になるので、固有名詞の漢字の宛て方の間違いは、結構生じてます。

で、軍部大臣と度支大臣の交換って、何か意味あんのだろうか。
っていうか、警務とか軍部とか警務庁へ召喚とか、何か事件の香り・・・。

続いて、1898年(明治31年)7月11日発『電受第147号』より。

第61号

一昨日李載純宮内大臣に任ぜられ、沈軍部は内部大臣署理兼任を命ぜられたり。
又、昨日前議政金炳始、左議政趙秉奭召喚せられたり。
前電第56号中、李允用潜伏のことは誤聞に付取消す。
ん。
「前電第56号」が見つからないですが、確実に何か起こってますね。
今度こそ万民共同会絡みかな?
つうか、事件なら事件でさっさと報告して欲しいものです。(笑)


今日はこれまで。



帝国の迷走(一)
帝国の迷走(二)
帝国の迷走(三)
帝国の迷走(四)
帝国の迷走(五)