さて前回は、極東政策についてイギリスの利益が守られていないのではないかという、チャールズ・ジルク卿の質問に対して、カーゾンの貿易上の利益が侵害されるような、朝鮮が領有的・行政的にロシアに併呑されたり、朝鮮の国土や港湾が侵略の根拠地とされて、極東のパワーバランスが乱れたりしないようにする方針だからという答弁までで終わってしまいましたので、今日は早速その続きを見たいと思います。
勿論、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/1 明治30年7月20日から明治30年9月21日(レファレンスコード:B03050002800)』。
1897年(明治30年)7月20日付『機密第61号』の続きから。

之を要するに、右カーゾン氏の答弁は、昨年末ソースベリー侯始め、有力なる現内閣員の対露的東方政策に関する語調とは、実にして多少人意を強むるに足るものあるが如くに相見へ候。
乍去、昨年と本年との間に於て、別に事情の変じたることも無く、其他一般の形勢を察するに、当国の対露策が近来に至りて著しき変化を来したる形跡は、更に相見へ不申候。
就ては、右カーゾン氏の語気よりして、直に英国の東洋に於ける政畧大に面目を改め、往年巨文島占領の当時に於けるが如き活気を回復し来りたりと想像するは、尚太早計に■有之。
尤も、露国に於て此際断然たる手段を■し、侵畧の意思を公然発表するに於ては、英も亦敢て黙止するものにあらざるべしと思考致候。
■■若し露に於て■立ちたる挙動に出でず、暗々の裡其勢力を半島に拡張するの策を取るに於ては、進んで英より其機微を察し、露の侵略を防遏するの手段を執るが如きは、尚甚だ■なきを得ざる義に有之候。
尚、カーゾン氏の答弁を精密に考察する時は、或は政■者の論旨に答へざる処あり。
之に答ふるも、隔靴掻痒の域を免がれざる処あり。
例へば其論旨は、主として将来の方針に係はり、目下の形勢に付いては深く論究せず、北支那若くは朝鮮に於て露国が貿易上、其他現に■占する処の利益に対しては、強て其分配を受くるか若くは■■の利益を他■に求むべきかの意思も十分に之を顕はさず、■■曰く通商上の膨張は何れも之を覚悟し、敢て競争に後れざる工夫をなさざるべからずと。
ソースベリー侯曾て本使の質問に対して曰く、露国が東洋に於て不凍港口を得るも其軍港にあらず、又は之を得たる後砲台等を築迭し侵畧的基礎となすにあらずして、純粋に通商の為めにするものなるに於ては、英は之に対して故障を入るべきの理由を見ずと。
今、カーゾン氏の演説を見るに、諸勢遙に之れよりは強硬なるも、尚両者全く相容れざるにはあらず。
唯夫れ、実際英の意気込如何に拘はらず、朝鮮の独立は其希望する処にして、彼は朝鮮が如何なる方法を以ても露国の支配に帰することを黙視すべきものにあらず。
又、露国が朝鮮の国土及港湾を以て、其侵畧的手段の用に供することをも傍観せざるものなることを明言したるは、外交上十分の価値を置きて見るべきものにして、仮りに露国に於て此際速に際立ちたる処分に出でんことを露に希望したることありとせば、其政略に対する一大故障あることを彼れに■■せしめたること疑なき処に有之。
即ち、少なくとも当分の間、露国をして果断なる政策を執ることを躊躇せしむるの効は有之事と存じ候。
右カルゾン氏演説の大要は、本日別紙の通第59号電信を以て報告致置候得共、尚其説明として茲に詳細の顛末を報じ、併せて御参照の為め、別紙■■■■相添えへ■候。
此段及具報候。
敬具
カーゾンの答弁を見るに、今までベネズエラ国境争議、トランスヴァール問題、トルコとのアルメニア人虐待に関する件なんかで、極東に関しては消極的だったのが、多少は介入していくように変わってきたように見えるが、昨年と今年で状況が大きく変わったわけでもなく、対ロシア政策が変わるようには思えない。
まして、巨文島占拠当時のような積極的介入は更に望みがない、と。
さすがに、半島のように脳天気に楽観視する国は珍しいですからねぇ。(笑)

しかしながら、ロシアが強硬手段に出たときには、イギリスも黙って見ていないだろう、と。
ただ、ロシアが表立った行動をせずに、秘かに朝鮮に勢力を浸透させていった場合、イギリスがそれを察知してロシアの侵略を防ぐ手段をとるような事は期待できない。
まぁ、イギリス、ロシアその他の大国の意向が重要なのは、この時期何も朝鮮ばかりではないわけで。
各列強がどのような政略・行動をとるかというのは、日本にとっても非常に重要。
そんな中で、大枠の方針は述べられたものの、現状については深く語らずに、朝鮮について具体的にどのような態度をとっていくのかについても全く不明なわけですね。

で、ソースベリー侯が昔、ロシアが東洋で不凍港を得ても、それが軍港や砲台等を設置した侵略的基礎となるものでなく、単に通商上のものなら構わないと言っていたのよりは強硬だけど、英露が全く相容れないものではない。
ただ、イギリスが朝鮮の独立を希望しているのは事実であり、朝鮮がロシアの支配下に置かれる事を黙って見ているような事はなく、またロシアが朝鮮の国土や港湾を侵略的手段のために獲得した場合、傍観しないと明言した事には外交上十分な価値があり、これによってロシアも拙速果断な政策を執るのに躊躇させる効果があるだろう、と。
まぁ、わずかな言質は得たとはいってもねぇ・・・。

さて、次はこれを受けてのロシアの様子。
1897年(明治30年)7月22日付『送第76号』より。

英国外務次官演説の件

英国下院に於て、外務省経費予算案付議之際、外務次官「カルゾン」氏が陳述したる外■諸問題に関する説明中、「英国は貿易上朝鮮と至大の関係を有せずと雖ども、同国に於て最も緊要なる英国の利益は朝鮮の独立を支持するに在るが故、朝鮮の港湾をして極東の均勢を破るべき他国の運動の■黙たらしむることを許さず、若し如此き企図を為すものあらんが、英国は其固有の利益を保護するに躊躇せざるべし云々」と公言したりとの電報当地に達するや、「ノウオエ・ウレミヤ」新聞は7月21日の社説で之を批評して曰く、「此説明は、■■に失し明晰ならず、土耳古問題に関する説明に比し、更に一層不完全にして且つ巧妙を欠くものと云はざるを得ず、露国政府は常に日本の侵害替地■に対し朝鮮を防禦し、之を以て露国の極東領土と接壌する一独立国と見倣し居ることは、「カルゾン」氏が夙とに了得するところならん。
朝鮮は、独り此強大なる隣外と親睦なる関係を有するに由り利益を■め得べく、露国も亦た如此き好関係を利用せんと思料したることなれば、最早同氏の諷言は其■■を及ぼすこと能はざるなく、露国が一般人類社会の公益を謀り企画したる西伯利鉄道の宏業をして、世界的意味を有せしめ得べき地位を極東に占有せんと勉むるは、全く正当之■■に出づるものなれば、将来英国は之に対し、如何に抗議を試むと雖ども最早其効力なかるべし。
既に英国政府は、欧州に於て孤独の地位に立ち、且つ北米合衆国と釁を生じ居る際、「カルゾン」氏が朝鮮問題に関し到底英国の実行し得べからざる霊名的約諾を与ふるは、決して■智なる処為に非らざるべし。
極東に於ける英国の利益は如何に大なりと雖ども、之を以て朝鮮の将来を支配する能はず。
■国の独立を保持する者は、英国に非らずして露国なり。
若し■保護を為すに■り、我艦船を同国の港湾に定繋するの必要を見るに至らば、露国は英国外務大臣及自艦の思料する如く、英国に■■するの義務を有せざるを以て、前記「カルゾン」氏の宣言は、最早極東に於て最後の地位を鞏固ならしめんとする露国政府の意見を変更すること能はざるなり」と論述致候。
右御参考迄、■■■■■■■■。
んー。
先ほど「わずかな言質は得たとはいってもねぇ」と疑問視したものの、結構ボディーブローが効いてるようで。(笑)
まぁ、イギリスにどれだけ大きい利益があったとしても、それで朝鮮を支配できるわけではなく、朝鮮の独立を保持するのはイギリスではなくロシアだ、と。
で、カーゾンの宣言はロシアの意向を変更することはできないよと、牽制するわけですね。
まぁ、牽制とは言っても新聞の社説ですが。

ということで、どちらも朝鮮を表向き独立国とはしているわけですが、現状保護が必要だっていうのはどちらも変わらないようで。(笑)


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
帝国への道(五)
帝国への道(六)
帝国への道(七)


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最近、(文字的に)読みづらい史料にあうと、へこたれそうになるdreamtaleです。
ども。

ってことで今日お送りするのは、へこたれそうな上に長い史料。
6月25日のエントリーで紹介したイギリスの動きについての詳報。
アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/1 明治30年7月20日から明治30年9月21日(レファレンスコード:B03050002800)』から、1897年(明治30年)7月20日付『機密第61号』。

英現内閣の東洋政畧に関し、当国下院にて討議の要約報告

昨19日、当国下院に於て外務省経費の討議中、サー・チャールズ・ジルクは現内閣の外交政畧常に因循姑息に失するを痛駁して、其間朝鮮等のことに論及して曰く、眼を■して極東の形勢を見よ。
現内閣の清国並に朝鮮に対する政畧は、其暹羅に於けると同じく相も変はらず不実にして不運なり。
某議員は曾てソースベリー侯を賞揚して、侯の強硬なる意思は英国外交上に偉大なる効果を与へたりと云へり。
然れども、余は極東に於ても又近東に於ても、所謂ソ侯の強硬意思なるものは那辺に存するや、之を発見するに苦しむなり。
大■尚書バルフォア氏は、昨年2月に於て意外にも露国を促し、彼をして北太平洋に出口を有せしめ、之が為め■■を中断し太平洋に出づるの道■を有せしむるも、英に於ては故障なきのみならず、却て貿易上の利益なりと迄言ひ放てり。
然れども、余は実に其論理の正当なるを疑ふものなり。
否な、余は極東に於て、殊に北支那に於て露国をして其領土若くは勢力を拡張せしむることの、英国貿易の為めに利益なることを信ずる能はず。
露は曾て、其歩兵を朝鮮に上陸せしめたり。
我も亦、同時に同一の手段を執れり。
之れ、該半島に於ける我の利益は、依然として尚存続せることを示したるなり。
然るに、其後英政府の政畧は一変し、外務次官が極東問題なる有名なる■著書に於て論究したる東洋政畧は、今や架上に置かれて、朝鮮は其運命に放任せられ、露国の勢力は日一日に加はり、且北支那の全部に向って拡張されたり。
抑も朝鮮の将来に対する露の質言は、■乎として載せて青■に在り。
露国は之によりて、実際上朝鮮の属土を占領せず、其国土の完全に干渉することなかるべきを公約せるものなり。
然るに、現状を顧みよ。
露国は多数の士官をして朝鮮兵と其士官・守護兵を訓練せしめつつあり。
彼は、山林採伐、礦山採掘の特権を得、且仏国某会社をして鉄道布設の権を得せしめたり。
殊に甚だしきに至りては、其境界に於ける関税を特約し、而して英国及其他の諸外国は、此利益に均霑するを得ず。
是等を以て見るも、所謂侯の強硬意思は果たして何処にあるや云々と。
チャールズ・ジルク卿の極東情勢に関する質疑から、今回の件が話し合われたわけですな。
曰く、清国や朝鮮に対する政略とか、ソースベリーの強硬なる意思とか言っちゃってるけど、どの辺が強硬意思?と。
バルフォアなんか、1896年の2月にロシアを促して北太平洋に出口を持たせてるのに、イギリスにとっては差し障りないだけでなく、貿易上の利益とか言っちゃってるしと言うわけですが、1896年2月に北太平洋の出口って何?
旅順や大連の租借はこの後の1898年だし、1896年2月っていうと俄館播遷くらいしか思い当たらない。
俄館播遷をイギリスが促してたら、あん時のイギリスの冷たい態度も理解できますが、さて・・・。

で、極東、特に北支那での領土や勢力の拡張って、イギリスの利益になるとは思えんね、と。
昔、ロシアが永興湾の使用許可とったときに、巨文島占領したりとかしたじゃん。
利益確保のためにはこういうのが大事だと思うんだが、今のイギリスの極東政策は一変して、朝鮮なんか為すがまま状態でロシアの勢力は拡大し、北支那に向かっても広がってきてるっしょ。
ロシアは、朝鮮領土を占領したり、完全に干渉する事は無いって約束したけど、現状、韓国軍の訓練はロシア専任で、山林の伐採や、鉱山の採掘や、鉄道布設とか関税の特約とかロシアが好き勝手やってて、イギリスや他の国は何も利益無いんだけど、どこが強硬意思なのよ?と。

之に対し、外務次官カーゾン氏は、現内閣の政策を弁護且説明して曰く、ジルク氏は、東洋に於ける現内閣の政畧に論及されたり。
余は、■に之を非難せざるのみならず、斯る問題に付何人にても熱心に其意を注ぐものあるは、余の最も喜ぶ処なり。
余が曾て■東問題に付吐露したる私見は、現内閣の抱持し且実行しつつある処の意見と、基本体に於て甚しき相違ありとは思はず。
ジルク氏は、朝鮮に於ける英の利益は如何にとの問を設けられたり。
余は云はん。
朝鮮の独立は、各国の利益なりと。
然れども、■東の歴史に詳かなる氏は、朝鮮の弱国にして曾て一度も自立せしことなきは、必ず之を諒せらるべし。
彼は、数百年の間清国の保護に頼り居たり。
而して、日清戦争後は日露両国の協商とも云はるるものに基き、該両名の保護に倚れり。
氏は、朝鮮を以て其運命に放任されたり。
又、今後と雖も北支那と同一の運命に放任さるるならんと思考さるるが如し。
然れども余は、之に付きて氏と其意見を同ふする能はず。
該半島に於ける英国の利益は、無論前に陳べたる■国と其性質上、又軽重の度合上、相同じきものにあらず。
我邦は、彼れと土壌を接する露清の如くならず。
将た又一葦水を隔てて相対する日本の如くならず。
我は、固より朝鮮に対して貿易上の利益を有せり。
但し、此利益は余に於て、素より之を軽視することを■ぜざれども、諸君■く記憶さるべし。
此利益なるものは、金額に於て甚だ大なりと云ふを得ず。
従て今日迄未だ一軒の英国■■をも、其地に開かしむるに足らざることを。
余は再言す。
英国の朝鮮に於ける利益は、通商上の利益なりと。
而して、■我利益を保護する為めに我の執るべき方針は、第一、朝鮮の独立を維持し、領有的に若しくは行政的に露西亜帝国に併呑されざる様注意すること。
第二、朝鮮国土若くは港湾が、侵畧的画策の根拠地に供せられ、之によりて極東に於ける権力の平衡を攪乱し、且東洋に於ける■■■等権を、一国に占領さるるが如きことなき様勤むべきこと之れなり。
若し夫れ、他国の平和的手段に属する通商上の膨張は、吾人の固より予期すべき処にして、吾人も同く平和の手段を以て之に当ることを勤むべきも、唯、前述の如き侵畧的手段を一国が執るに於ては、彼れは吾人が吾人の利益を保護する為め、常に之に対する相当の覚悟を為し居ることを発見するなるべし云々と。
チャールズ・ジルク卿に対して、外務次官のカーゾン氏が現内閣の政略を弁護&説明。
自分が昔極東問題について述べた意見は、今の内閣が行ってる政略とあんまり変わらん、と。
カーゾンは、ジルクが朝鮮におけるイギリスの利益って何って聞いたけど、朝鮮の独立が各国の利益だと述べるんですね。
で、朝鮮の独立は各国の利益になるんだけども、朝鮮って弱国で、今まで一度も自立したことが無いってのは分かれよ、と。
直球ですなぁ。(笑)

朝鮮は数百年間清の保護に頼っており、日清戦争後は日露の協商に基づいて両者の保護に依っている、と。
んー、イギリスから見ればこう見えるのか。

で、チャールズ・ジルク卿は朝鮮や北支那は、運命に任せて放任してるって言うけど、そんな事ないよ、と。
朝鮮でのイギリスの利益って、領土を接してる清やロシア、わずかな海峡を挟んで相対する日本なんかと違って、やっぱ貿易上の利益であり、しかも貿易額は大きいとは言えないわけで。
まぁ、貿易上の利益が侵害されるような、朝鮮が領有的・行政的にロシアに併呑されたり、朝鮮の国土や港湾が侵略の根拠地とされて、極東のパワーバランスが乱れたりしないようにする方針だから、と。

でもなぁ・・・。
半島って、今も昔も外圧に依らずに、内部分裂で外のパワーバランスまで崩す達人だからなぁ。(笑)


途中だけど、今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
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帝国への道(六)


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今日も、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/1 明治30年7月20日から明治30年9月21日(レファレンスコード:B03050002800)』を見ていきます。
まずは、1897年(明治30年)8月15日付『電受第323号』から。

第102号

領議政沈舜澤一昨日より出仕し、金熙圭、李純ヨク2名新たに賛政に任ぜられたり。
又、昨夜内閣会議にて決議し、光武と改元せり。
人事関係の話はあまり重要ではないですが、ここで光武と元号が変わったんですね。
高宗実録によると、議定されたのは「光武慶徳」で、実際に用いるのを「光武」の2字としたようです。

さて、続いては重要な方の人事の話。
1897年(明治30年)8月9日付『機密第51号』から。

閔泳煥免官の件

英国特派大使兼六国特命全権公使閔泳煥は、露公使ウヘバー夫人と同行し、露国汽舩に乗じて「ヲデッサ」に到り、赴英前先づ露都に赴き国書を捧呈し、嗣て英国に入り女皇即位60年の祝典に参列したることは事実に有之候処、此程別紙官報抄録の如く、命令違反の廉を以て突然免官相成候に付、篤と其理由を探聞するに、韓人の云ふ所大畧左の如し。

閔泳煥英国着の電報其筋に達したる以来、祝典当日を経過するも更に何等の消息無之。
果して、御親柬并に国書を捧呈したるや否も詳ならざれば、宮廷に於ては電報にて之を問合せたるに、爾来数日を経たるも返答無之。
国王始め大臣等大に焦慮し、重ねて電報を発し、又一面には度支部顧問「ブラオン」に計り同人の在郷知人にして某官署に奉職するものに電問せしめたるに、是れ亦返答無之。
而て此噂、何時しか世間に伝播し、閔泳煥は英政府に拒絶せられたり。
親柬・国書とも捧呈に至らずして、其儘持ち帰り中にありと諸説紛々申唱へ乙伝ふるに至れり。
宮廷は疑慮益加はり、終に又「ブラオン」をして再度の発電を為さしむるに及んで、其返電に接せり。
其概要は、閔泳煥は英皇即位60年の祝典に参列する為め、特派大使として差遣はされたるにも拘はらず、先づ露都に入り此に国書を捧呈したるを見れば、特派大使は畢竟其名のみにして、其実露国派遣の序たるに過ぎずとの感触を英廷に与へ、随て其対遇も冷淡なりしとの事を報じ越せり。
其他尚ほ附加へたる電文の意味は憚かる所ありとて、殊更「ブラオン」は宮廷に披露せざりしとの事に有之候処、折柄閔泳煥より宮廷に別紙の如き電報の達するあり。
其意味明了ならざるも、兎角6国歴訪の任務を止め帰国すべしとの事に有之。
左すれば、英国に於て必定使命を辱めたるならんと、国王は痛く震襟を悩せらるる際、泳煥は米国に渡り同所より李範晋を露国駐箚公使に任ぜられ、自身は其後任として米国に駐箚を命ぜられたしとの事を電報せり。
此電報の宮廷に達するや国王の逆鱗益甚しく、直に免官の処分を行ひ、次て至急帰国を命ぜられたるなりと云ふ。

本官は、右の事実を英総領事に就て質すに、閔氏が祝典に参列せしは「ブラオン」の知友の電信に由るも明にして、何等事情の存するを聞かずと。
又、之を李善得(リゼンドル)に質すに、同氏は最初より赴英前露都に行くの不可なるを陳弁せしも容られざりしと。
而て閔泳煥の電報に依れば、内に仏・独等の保護を依頼するの親書を発せられたるが如きを以て、右等の事をも聞繕ひたるに、或は之れあらんと思惟すれども、何人も之を知るなしと云ふ。

又た、閔泳煥は曩に当地出発に当り悉く家財を売払ひ、縦令使節の任務を了ゆるも、今後4、5年間は海外にあって生活に無差支丈の準備を為し去れり。
或は同人は、最初より這回の使命の成就すべからざるを予知し、時宜に由りては帰国せずして、多分香港・上海間に彷徨し、閔泳翌同様の生活に倣ふならんとの風説専ら有之候。
但、後任公使には閔泳翌を推すものあり。
目下、内々其諾否問合中なり。
此段及具申候。
敬具
別紙については省略しますので、各自ご確認下さい。

さて、6月2日のエントリーではウェベルと意見が合わずに6カ国公使となったとされており、その対立の根本的原因は6月4日のエントリーにより寵臣派の画策とされ、6月10日のエントリーではこれ幸いと出立を急ぐ姿が見られた閔泳煥。
まずは、ウェベル夫人と共にロシア汽船でオデッサに向かい、そこからモスクワへ行って国書を捧呈、と。
これだと、結構辻褄が合わない気がしますが、後半でこの件に関する話も記載されてますので、取りあえず先に進みます。

で、その次にイギリス入りしてヴィクトリア女王の即位60年の祝典に参列したのは事実。
しかし、命令違反で免官になったようであり、その理由を探ってみると韓国人の言うには、祝典当日を過ぎても閔泳煥から何の報告も無い。
そこで、宮廷が電報で親柬とか国書とかどうなったのよ?と電報で問い合わせたが、その後数日経ってもウンともスンとも言わない。
これに高宗も大臣等も激しく焦って、さらに電報を発すると共に、ブラオンのツテを頼ってみたがこれも返事が無い。
そして、いつも通り何故か世間に漏れ、さらに閔泳煥が英政府に拒絶され、親柬や国書を捧呈できずにそのまま持ち帰り中だという噂が伝播するんですね。

宮廷は益々疑って、またブラオンから再度電報をうたせて、ようやく返電を得た、と。
それによると、ヴィクトリア女王即位60年の祝典出席のための特派大使なのに、先にモスクワ入りして国書を捧呈したのを見れば、特派大使は名前だけで、本当はロシア派遣の方が大事なんだろという感触をイギリスに与えたため、その処遇が冷淡になった、と。
で、他の電文の意味は、憚る所があってブラオンは宮廷に披露しないわけです。
何があったんだろう?(笑)

その時、閔泳煥からも電報があり、6国歴訪の任務を止めて帰国する、と。
これを見て高宗は、イギリスで任務に失敗したのかなぁと悩んでたら、さらに閔泳煥は、李範晋をロシア公使にして自分をその後任としてアメリカ公使にして下さいという電報を寄越す。
つうか、李範晋にしても閔泳煥にしても、アメリカ公使って左遷先や逃亡先かよ。(笑)

当然高宗は、何勝手な事言っちゃってんの?と激怒。
免官の上、すぐ帰ってこい!ということになったそうだ、と。

この件についてリゼンドルに聞いてみると、閔泳煥は最初からイギリスに行く前にロシアに行くのってダメだろと主張したのに、受け入れられなかった。
最初の辻褄が合わない理由ですね。

で、閔泳煥の電報によれば、内々フランスやドイツにも保護を依頼する親書を出したようであり、事情を勘案するにあり得ない話では無いと思うけど、誰も知ってる人がいない、と。

また、閔泳煥は出発前に家財を全て売り払い、使節に任務を終えても4~5年は海外で生活する準備をしており、或いは最初から任務が失敗するのを見越して、場合によっては帰国しないで上海や香港で生活するつもりだったんだろうという噂もある始末。

既に何が本当で、何が嘘なのかさっぱり分からん状態。(笑)
確かに、6月25日のエントリーなんかを見ても、イギリスは対ロシアを念頭に置いた極東戦略を下院で話してますが、それだけで先にロシア入りした使者を軽視するってのは、どうかなぁ・・・。
やっぱり、ブラオンが言うのを憚った、重要な話があるんじゃないかなぁ。
晩餐で、キムチ出したとかさぁ。(笑)

一方で、ウェベルや親露派寵臣と対立していた閔泳煥が、最初にロシア入りするのに反対し、失敗を見越して家財を全部売り払って逃亡準備ってのは、充分有り得る話ではあります。

じゃあ、誰がロシア入りさせたのよといえば、裏に誰かが居るにせよ、やはり前回大院君に「ロシアは僕に親切だし、後ろ盾もしてくれるし、他のどんな強い国が来ても、ロシアが朝鮮を保護してくれるんだから安心でしょ?」と言ってのけた、高宗なんでしょうねぇ・・・。


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)
帝国への道(五)


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今日は前置き無しで。
前回に引き続いて、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/1 明治30年7月20日から明治30年9月21日(レファレンスコード:B03050002800)』から。
今度は、6月25日のエントリーで触れた、大院君が突然警務庁に訪れた件について。
1897年(明治30年)7月29日付『機密第49号』を分けながら。

大院君突然警務庁に往き、次て入闕せられたるに関する件

一昨27日、大院君は単身警務庁に出頭し、踵て王宮に入り対談を遂げられたる次第は、昨28日其大略及御電知置候が、右件の真相を茲に詳述すれば、一■現内閣は兎角に大院君を嫌悪し、折に触れては同君の意に忤るの所為を演ずるも敢て憚らざる程に相成居、■頃■李埈鎔が、李健璜(或は鄭雲鵬とも云ふ)とか同君の執事同様なるものを同人手許に招来致度旨、同君の■願ありたる処、如何してか其事の漏れて警務庁の知る所となり、該庁は直■同人を引致せんとして人を差向けたるに、同人■早く悟る所あってか躱避けしたりければ、該庁は必然雲峴宮内に潜伏せるものならんと想像し、去る24日■■別巡検(刑事巡査)30人斗を派し、同宮直傍に散布して其出入の人を視察し、間に訊問する所さへありたるが、27日に至り右別巡検の3名は潜かに同宮の裏門より進入、探偵する所ありたるより、■なくも同君憤慨の端緒となり、同時に同君は附属護衛巡検(雲峴宮附属の護衛巡査は従来設置有之)を招き、右別巡検を捕縛すべき旨を命じ、内庭に引据へ鞭杖を加へつつ責むるに、其何故に進入せし歟を以てしたるに、彼等吐くに■実を以てし、警務使の下命に依ることを白状したるに依り、一面には右3人を宮内に留置し、一面には人を警務庁に■せ右■■の為め其■員警務官魏弘奭を差回され度旨申入れられたるに、警務使閔泳綺は冷淡にも之に答へて、同官は其班奏任官にあるを以て、承■致難き旨回答に及びたるに、同君は、勃然色を起して之れ乃公の命なり。
奏任官、夫れ何かあらん。
若し奏任官にして不可ならば、又警務使自ら来ば■好けれと。
復た警務使の出張を促したるに、事に托して来らざりければ、自ら警務庁に出で其庁首に問ふ所あるべしとて、宮眷一族の引留むるにも拘らず、嬌子を命じ独り駕して宮門を出でられたるは時正に3時なり。
一■同君の一居一動一聲一■は、従来庶民一般の耳目する所なるを以て、既に大院君と標識せる■傘(嬌子の蓋ひ)の宮門に出るや、■は大事起れり■と途上人堵をなし、随て種々の風説を播伝せり。
警務庁に入らるるや庁内皆度を失ひ、其主たる閔警務使は闕下に参内せりと称して出でず、兎角する内斯る場合には外国人こそ其応接に宜しからんとて、同庁は雇英人「ストリプリング」氏を■して迎へ、且つ言はしめて曰く、国太公(大院君の尊称)の御来駕は果して何事にあるか。
若し公(以下国太公を略して単に公と書す)の下人3名(一昨年以来逮捕せられ居るもの)の逮捕一件ならば、我れ宜しく処する所あるべし。
必ず顧慮せらるる勿れ云々と、他に托する温言を以て種々之を慰安したるに、同君は乃公の来る之が為めにあらず。
■■右に付一言せん。
凡そ罪あるものを刑に問ふは国法なり。
我が下人なりと雖も、公平一律に処断せらるるに於ては、固より遺憾あるべきなし。
只■む所は、彼等を逮捕せし以来、3■の■中を経て処決する処なきは果■如何と且つ詰り且つ迫て■■■警務 使に面会を要すとて名刺を出し、再び■促せられたり。
んー、久しぶりに穴だらけ。
「現内閣は兎角に大院君を嫌悪し」とありますが、多分、大院君がまた専制するのではないかと恐れているの方が正しいのではないでしょうか。
この懸念は元閔妃派に限らず、多寡の差こそあれ大院君派以外には共通しているわけで。

で、大院君の孫の李埈鎔が、自分とこに李健璜か誰かおくってくれよ、と。
つうか、この頃李埈鎔って、日本に居ると思ってたんですが、「同人」が指してるのは李埈鎔なのかなぁ?
ちなみに李埈鎔、閔妃殺害事件の前に一度、高宗等を廃位して王にするという陰謀事件で逮捕され、高宗に目の敵にされてます。

そういうこともあってか、この情報をキャッチした警務庁は「同人」が大院君の私邸に潜伏しているとにらみ、私邸のまわりを巡検等30人がうろつく有様になったんですね。
で、その内3人が無茶して大院君激怒、と。
これが、大院君が警務庁に行くことになった端緒ですね。

で、行ってみると警務使の閔泳綺は居留守。(笑)
代わりに警務庁雇のイギリス人「ストリプリング」が応対して、もし来た理由が一昨年の逮捕者の話なら、悪いようにはしないから、と。
ん、やはり4月27日のエントリーで捕まった、還宮運動した者でしょうね。

これに対して大院君は、そないな理由で来たんやないねんけど、ほんなら、その前に一言言わしてもらうわ。
罪人は法律で裁かれるんが筋や。
せやから、ワシの部下やろうと公平に処断されたら、それで文句はないわ。
でもな、逮捕してからどんだけ経ってんねん。
ワレ、ケツの穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタ言わしたるぞ(笑)として、警務使への面会を要請をしたわけです。

かなり要約しつつ、続きを。

此時閔警務使は、闕より帰りたりと称し出会したりければ、同君は同氏に向ひ朝鮮国法に於て大臣の部内は勿論、部外たりとも■■内に捕丁其職務を行ふ能はず■すや、先づ大臣の認諾を経て、然る後施行するの規定にあらずや。
然るに、今何の故に■か、宮を囲むに数十の巡検を以てし、且つ我が下人を謂はれなく訊問するに及びしや、■も乃公を以て逆賊視するにあらざるあらば、■が斯る非礼を加ふるの理あらん。
万一にも乃公に罪ありとせば、刑の重き死■■る所なし。
乃公の聞んと欲する所のもの是なり云々を以て詰問せられたるに、同氏は之に答へて、別巡検派遣のことは、本職の命ずる所にあらずと■解し、且つ言を続けて「ストリプリング」の前言を反覆陳疏し、公の下人の逮捕は前警務使の時にあり、本職の与る所に非ず。
且つ、今や審問して其無罪の実を得たり。
必や即時放免すべきに付、公少しく慰解する所あれと慰■したる。
敢て之れを肯かずして、同く別巡検派遣のこと足下の干り知る所にあらずとする歟、是れ果て偽言なく乃公其実を以て示す所あるべしとて、前に同君の宮内に留置しある3名を召■し、同氏に対質せしめたるに、忽ち事実表向したるを以て同氏は止むなく言を変へて、実は国王の命黙止し難きに依て云々なりと訴へければ、同君大に怒て曰く、過失ある尚可なり。
臣子として其過失を国王に帰す。
之れ怒■べからず。
先きには偽言を以て乃公を■り、後には過失を以て国王に帰す。
此れ、■■何事ぞと大に詰責せられ居内、国王は事体の穏ならざることを■■あってが、先づ秘書丞を遣し、次に中使を遣し同君に勧めらるるに、陋■(警務庁を云ふ)には久しく居らるるを好しとせず、須らく速かに還宮相成■然旨を以てせられたりしかば、同君は之に答へて、我が宮の周囲も皆別巡検の環■するあり。
警務庁と其陋何ぞ■んと放言しつつ閔警務使を顧みて、然らば乃公は之れより闕に赴くべきを以て、宜しく案内すべき云々を命じ、且つ■案の■■せざるべからざるものあり。
明日又来庁するやも測り難しとて、同日携帯せられたる鋪蓋一切(■物一切)を此処に留置き、其侭同氏を案内に立て急ぎ慶運宮に赴かれたり。
■に闕に入らるるや、先づ洪大妃の椒房に入り安否を伺侯し、其後国王に対面相成。
同君は談を時事に向け、朝鮮の国事日に非なり。
夫れ如此んば、国家の存亡知るべきのみ。
豈察せざるべけんや。
而匡済策の腹案あるやを問ひたるに、国王には日本否倭奴の何か事場を醸すの処あっての事なるやと反問せられたるを以て、同君は、否な。
必ずしも日本と云はず、我を環視する列国中、猶ほ恐るべきものありと答へられければ、国王は■を揚げて曰く、其は決して憂ふるに足らず。
露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。
他■国の如何なる強大を以てするも、露国は■に朝鮮の為めに保護の任に当る以上は、枕を高ふするも不可なるなしと憚る色なく述べられければ、是に於て同君は、惘然として嗟嘆し、嗚呼■意のある所を諒せり。
既に如此なる以上は、朝鮮の存亡最早測るべからず。
尚何ぞ■々語るに忍びんや。
乃公何にをか再び言じ、只生きて復た対面の期なきを知るのみ。
今日此時真に生離死別なりとて、■■しつつ袂を分って其侭退宮せられたるは、午後7時過ぎ■。
而右の結果、前■の曾て故なく警務庁に囚れ居たる同君の家従僕卞錫鳳、安奎大、朴俊相の3人は、即日放免の事と相成たり。
而本日迄は何れも未だ帰宅せず。
因に記す。
同君は、近来露国の干渉を憤慨し、何とかして救済の道を講ぜんと焦慮せられ居たるに、端なく此対談と相成たるを以て、恰も好しとて其事に及ばれたるに、意外にも国王の全く反対なる意想の発表に依り、最早国王に坐して断れたるものの如く、而国王と同君との意志は、全く反比例に進行しつつあることは、此一般に依って将来をも卜し得らるべきことに有之候。
右具報候。
敬具
ここで、居留守使ってた閔泳綺が、王宮から帰ってきたと言って出てくる。
大院君は、今回の巡検派遣は法的根拠があらへんし、ワシの下人をいわれなく訊問したり、ワシを逆賊視してるんやなかったらそないなこと出来ませんでっしゃろと詰め寄ると、閔泳綺は巡検を派遣したのは私ではないし、大院君の下人の逮捕は、前任警務使がやったことであり私は関知してないし、訊問の結果無罪と分かったから即時釈放するからと言い訳して逃げようとするんですね。
ここで、大院君に3人の巡検を捕まえて訊問する権限はあるの?とか聞いちゃいけません。(笑)

で大院君は、ほんまに巡検派遣したの知らんとぬかしよるんやったらしゃあないわとして、捕まえてあった3人の巡検を連れてきて対質させると、閔泳綺が命じた事が明白にされる。
すると今度は、いや高宗の命令を無視できなかったんですと、再び言い訳して誤魔化そうとするんですね。
これに大院君激怒。

過失がある言うんやったらまだ良い。
それを国王のせいにするってなんやねん。
最初はワシに嘘吐いて、それがばれたら国王のせいにするって、お前、最悪やで、と。
で、高宗がこの騒ぎを聞きつけて人を派遣し、警務庁は狭苦しいから王宮にいらして下さいと勧めると、大院君はワシの家の周りにはようけ巡検おるし、警務庁と狭苦しいのに変わりないでぇ、と嫌味を言いながら閔泳綺に案内を命じて王宮へ向かった、と。

王宮に行って高宗と対談。

朝鮮の政治は日ごとに悪くなってんけど、どないするつもりやと大院君が聞く。
高宗は、「日本」をわざわざ「倭奴」と言い直す。(笑)
で、日本が何かしたのと質問返し。

大院君はこれに対して、いや、日本だけやなくて、他にもおっとろしい国があるでと言うと、高宗は心配する必要は無いよぉ。
ロシアは僕に親切だし、後ろ盾もしてくれるし、他のどんな強い国が来ても、ロシアが朝鮮を保護してくれるんだから安心でしょ?と。
6月24日のエントリーで、「この頃から、ロシアの干渉にも嫌気が差してきたのかな?」なんて書いたわけですが、どうやらまだまだ依存心しているようで。(笑)

これを聞いた大院君は、オワタ、朝鮮オワタ、と。(笑)
もう生きてまた対面することもないやろ。
今日この時がまさに生離死別の時や・・・として、そのまま王宮から退き、結果として逮捕されていた下人3人が即日放免となったが、今のところまだ誰も帰宅してない、と。
何だか、馬鹿息子を持った親父が可哀想になってくるなぁ・・・。(笑)
尤も、親父も親父だしという話は当然あるんですがね。


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)
帝国への道(四)



あまり関係無い話とか削ると、50画像分くらいの史料なら結構サクッと進みますねぇ。
ってことで、今日からは第二巻へと簿冊が進みます。
アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/1 明治30年7月20日から明治30年9月21日(レファレンスコード:B03050002800)』から、またもやきな臭い動きについて。
1897年(明治30年)7月21日付『機密第45号』。

沈軍部人を在東京露公使に送る

先頃より、李世植(李逸植の事)、洪鍾宇、権東壽等密に軍部大臣沈相薫と相往来し、何事か暗に計画致居候哉に探聞致候に付、猶ほ充分其根底を探聞致度専ら注意致居候際、昨今或る筋よりの内報に拠るに、右は不日来任すべき露国代理公使スペナー氏と相提携して国王を抑制し政府を操縦せんとの目的に出で、同氏が未だ当国に来らざるに当り、先づ之と■を通じ提携に必要なる手段を講究致置かんとする目論見にて、露語に通ずる一韓人に相当の人物を附随せしめ、已に日本に派遣致たるやに相聞へ候。
右の事実は、未だ必ずしも確実なりとは難認候得共、兎も角も本月5日、仁川出帆肥後丸に便乗したる6名の韓人中には、右の同類あるべしとの疑を抱くものすら有之旁為念此段及申報候。
敬具
洪鐘宇(金偏に童)と洪鍾宇(金偏に重)と、どっちが正しいんでしょうねぇ・・・。
という素朴な疑問は置いておいて、朴泳孝を暗殺しようとした李逸植やら、金玉均を暗殺した洪鍾宇やら、物騒な名前が並んでますねぇ。

で、李逸植・洪鍾宇・権東壽等が軍部大臣の沈相薫と何か企んでるようなので注視していた所、ロシア代理公使スペールと結託して高宗を抑え、政府を操縦しようとして、まずは当時在日ロシア公使館書記であったスペールに人を派遣したようだから、念のために報告しておくね、と。
この頃、在朝鮮ロシア公使は、ウェベル(ウェーバー)からスペールに交代したんですね。
どういう目的でこの交代が行われたのかは未調査ですが、結構面白そうですよねぇ。>交代理由

続いては、6月23日のエントリーで暗殺計画及び景福宮への還御を企てたとされる、陰謀事件に関する話。
1897年(明治30年)7月22日付『機密第46号』より。

陰謀事件に対する裁判確定の件

去月16日機密第37号を以て及具申置候陰謀事件は、其後高等裁判所に於て審理中の処、此程愈々確定致し、本月16日を以て被告宋鎮用、洪顕哲、黄鶴性、金聲振及張志永の5名に対し、所長韓圭卨(咼の上にト)氏は大要左の通り宣告致候。

宋鎮用は、本年陰暦正月中疏庁に往来し居る折柄、洪顕哲と面識と成り、後4月、両人相会して時事を非議し、宋は洪の紹介を以て5月2日宮内大臣李載純に面謁す。
此時宋は李大臣に語るに、君側の奸を除き、朝廷を清めんとするの意を以てし、翌日自ら該方畧を認めたる一書を送呈したり。
之が辞意を案ずるに、一は日本の隙を伺ひ発作するを防がんが為め、英・米・独に約束し已に其承諾を得たりと云ひ、一は露国が奸計を聴聞し、如何の言端を搆ふることあるも、是亦英・米・独に於て担当すべしとの承諾を受けたりと云ひ、一は何れの夜と雖ども期を刻し、将官を厳飾し、兵丁を装束し、以て外辺の砲響を聞くと同時に大駕を環衛し、4門を閉鎖し大小臣僚をして併せて擅入するを得ざらしめ云々と云ひ、特に其下に自駐して曰く、此は是れ大関鍵と一は密符の軍号を預持し、機に乗じ直入して以て聖旨を奉ずと云ひ、一は即ち大小の臣僚は勿論、外国に依頼するものは并に其官位を削奪すべしと云ひ、一は大小官任は朝野の重望者を忠義用ゆべきものを抜擢し、尚ほ当夜入直受勅することとなすべしと云ひ、一は政府の整頓するを、以前には各国公領事と雖ども一人も進見を許さずと云ひ、一は各国公使を齊請し、我国の確立自主を会辨成の約すべしと云ひ、仍ほ退ては被告黄鶴性に対し商務会社社員を糾聚加盟せしむべしと称したり。
李宮内大臣は、尚ほ其行為の情形を確採せんと欲し、中隊長某々を洪の家に送り、故意を以て密謀に加盟せしめ、又宋鎮用の首謀者たることをも確めたり。
尓来同志を集めて、屡々各大臣殺戮の件を言論し、又独逸公館書記金演昶に対し独逸使臣に渠等自らの密謀を説及せよと云へり。
被告洪顕哲は、宋を宮内大臣に紹介し、人衆募集と銃丸買入とに盡力し、且つ其同謀者の聲勢を誇張するが為め、毎に仮迭宣言して我れ侍読を以て入侍するが為め、大君主陛下は限なき寵愛を垂れ、下教して曰く、此挙の成否は都て汝に倚頼するを以て、慎で疎忽なる勿れと仰出されたり云々。
其他類似の詑言をなせり。
被告黄鶴性は宋の言に依り、金演昶に往来伝言し、被告金聲振は諸人の陰謀言論を参聞し、被告張志永は又所謀を知了して謀議に参与せり。
此他謀議に干与したる金演昶、李潤慶、張達遠、趙秉璿、朴逸鉉は逃亡して未だ縛に就かず。
右所犯此を法に照すに、被告宋鎮用は賊盗編謀叛條に正犯を以て論じ絞に処し、洪顕哲は賊盗編謀叛條及び大典会通推断條に依て2罪倶発を以て論じ絞に処し、黄鶴性、金聲振は、賊盗編謀叛條従犯を以て論じ笞一百流終身に処し、張志永は賊盗編謀叛條により笞一百流3年に処す。

右宣告に基き、勅裁を■て翌17日午後■4時を以て宋・洪の両名に対し右監獄に於て死刑を執行し、黄・金の両名に対しては特旨減刑の御沙汰を以て本刑に2等を減じ、流10年に処せられたり。
右陰謀事件に就ては、其実宮内大臣李載純は勿論、国王も多少関知せられたる形跡あるやの趣にて、宣告文も専ら外面を修飾し、事実を陰蔽したるものなりと云ふ。
故に、裁判申渡の際、被告等は頗る不平に堪へず絶叫するに至りたるものも有之候趣に相聞へ候。
右及報告候。
敬具
高宗・・・。_| ̄|○

ま、長々と書いたものの、前段の判決内容に関しては文末にあるとおり、真偽定かでないのであまり触れないでおきます。

文章自体も恐らく漢文の邦訳なのか、理解するのも中々大変。
一言で言えばクーデターを目論んだんですね。
っていうか、外国に依頼する者の官位を剥奪しろとか言ってるわりに、イギリス・アメリカ・ドイツの話が出てるわけで。(笑)
勿論イギリス・アメリカ・ドイツの話は嘘なんでしょうが、例え本当だとしても、それだけ力を借りておいて、元々外国使臣ってのは高宗に謁見できなかったし、各国に朝鮮の独立を認める事を成約させるって、ねぇ?
そういった後ろ盾が無い限り、誰も協力してくれないってのは分かりますが、自分勝手で、しかも夢みたいな事ばっかり言ってるから、見放されてくんじゃないのかなぁ・・・。(笑)

で、犯人等は各々裁かれるわけですが、6月23日のエントリーで名前のあった李容九と権在斗の姿が見えません。
誤報だったのか、逃亡した方に入ってるのか、今の所不明。

そして、この事件については、宮内大臣の李載純は判決内容にもあるとおり、明白に関与しているわけで。
尤も、判決内容中では紹介されただけ&陰謀がある事を確認しただけとされてます。
で、高宗も実はこの陰謀を知ってた疑いがある、と。
知ってたとしたら、ロシアの圧力から逃げるために黙認したのか、内閣及び金鴻陸等の暗殺の方を黙認することにしたのか、ちょっと興味深いですね。

李宮内大臣及び高宗が関与してた疑いがあるため、宣告文は外面を飾って事実を隠蔽したという話が出て、犯人も判決を申し渡された時に不平のあまり絶叫した者もいるようだ、と。
んー、どこまで事実を反映してるのか、サッパリ分かりませんなぁ。(笑)


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)
帝国への道(三)



さて、俄館播遷後から大韓帝国と名乗るまでのお話の第3回目。
今日最初は、李完用の話。
アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/10 明治30年3月30日から明治30年3月30日(レファレンスコード:B03050002500)』から。
1897年(明治30年)6月26日付『電受第269号』。

第184号

李外部大臣病気療養中、議政府参政趙秉稷、臨時外部大臣署理を命ぜられたり。
前回、「外部大臣代理として賛政趙秉稷の臨時任命を見たるも、是亦兪箕煥の推薦に出でたるもの」と報告された件ですね。
まぁ、果たして本当に病気だったのかは甚だ疑問なわけですが。(笑)

次に、これまで2月12日のエントリー等に見られたとおり、ベネズエラ国境争議、トランスヴァール問題、トルコとのアルメニア人虐待に関する件で、俄館播遷前後の極東政策についてかなり消極的だったイギリスの動向について。
1897年(明治30年)6月26日付『機密送第65号』。

英国下院に於て、議員「チャーレス・ヂルク」が朝鮮に於ける英国政策の軟弱なるを攻撃したるに対し、同国外務次官は之に答へ、英国の利益は専ら通商に在りて、第一.朝鮮の独立維持せられ、露国の為め其の版図若くは政権を併呑せられざること。
第二.朝鮮の国土港湾が他国の版図拡張策之根拠地となり、為めに極東に於ける国力の平均を変動し、遂に或る一国をして東洋に於ける海上の主権を掌握せしむるに至らざらんことを企図するに在り。
若し何れの一国にても如斯行為に出るときは、英国は何時にても朝鮮に於ける其の利益を保護するの決心なる旨を陳述せりとの趣、昨25日在英加藤公使より電報在之候間、右為御心得申進置候。
敬具
この辺の認識の変化ってのは、小村=ウェーバー協定山縣=ロバノフ協定等での日露の接近にも関係してるんだろうなぁ。
勿論、半島における利権はロシアがひそかに容喙してくるわけですし、内地には清国や日本商人が進出してきてますし。
事情はあるにせよ、この時機の朝鮮半島におけるイギリスの影響力が大きく減退している事は確かなわけで。

さて、続いては5月16日のエントリーで高宗への謁見を李載純や金鴻陸に邪魔されて以来、あまり表に出てきていなかった大院君の話。
1897年(明治30年)7月28日発『電受第309号』より。

第97号

大院君、本日午后3時突然輿に乗じ単独にて警務庁に赴かれ、今に還宮せられず、右は表面は同君を逆賊同様の取扱を為すに依り、親から顕はれて縛に就くと云ふにあれども、内実は国政の紊乱を憤ほり、已むを得ずここに出でられたるものならん。
「俺を逆賊扱いしてるんなら、逮捕しろや(゚Д゚)ゴルァ!」と警務庁に現れたって事かな?(笑)
まぁ、内実は国政があまりに乱れているので、やむを得ず出てきたって事らしいですが。
つうか、国政が乱れるのはしょっちゅうで、大院君出動もしょっちゅうで、そのたびに更に大混乱してるわけで、お前、もうちょっとおとなしくしとけと思うのは私だけなんでしょうか。(笑)

続いて、この続報。
1897年(明治30年)7月29日発『電受第310号』より。

第98号

大院君警務庁に入り警務使を詰責し、次て景福宮に赴き国王に対面し政治上の問答に及びたるも、国王の答へ冷淡にして要領を得ず、午后7時■一先自邸に帰られたり。
右の結果、同君の家■僕にして、曾て警務庁に囚禁せられたる者3人は、直ちに放免せられたり。
んー。
やりたい放題だ・・・。(笑)
つうか、大院君の話を高宗が聞き流し状態なのは当然として、俄館播遷かその後の4月27日のエントリーあたりでの還宮運動で捕まったものか、それ以外の者なのかは不明だけど、既につかまってる者を直ぐに放免しちゃうってどうなんだろう?
まぁ、捕まった理由も理由だろうから、どっちが悪いって事では無いんだろうけどね。(笑)

さて、今日最後の史料は、本日冒頭の李完用について再び。
1897年(明治30年)7月30日発『電受第312号』から。

第99号
外部大臣李完用、昨日出仕したるに、同夜直ちに学部大臣に任命せられ、学部大臣閔種黙外部大臣に任ぜらる■、■り■は、再び露国士官傭入に反対し、條約調印を拒まんとするに依るものと察せらる。
本当かどうか不明ながら、病気療養から復帰して出仕した李完用は、その夜学部大臣に任命され、学部大臣閔種黙が外部大臣に任命された、と。
その理由は、ロシア士官傭入に反対して条約調印を拒もうとするためと考えられるってことで、時期的に見ても、病気療養ってのはやはり口実で、ロシア士官傭入に反対しての仮病だった可能性が高いですね。
つうか、条約まだ結ばれてなかったんだ・・・。_| ̄|○


今日はこれまで。



帝国への道(一)
帝国への道(二)



さて、今日も俄館播遷後から大韓帝国と名乗るまでのお話を、ちゃっちゃと進めたいと思います。
史料はタイトル間違えてる、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/10 明治30年3月30日から明治30年3月30日(レファレンスコード:B03050002500)』から。
1897年(明治30年)6月23日付『機密第39号』。

本官と国王の連絡并に兪箕煥特命全権公使に任ぜられたる件

曩に露国士官聘用問題に関し、本官大君主陛下へ初度の内謁見を為したる節、陛下の気受け妙に宜しかりしを見て、本官と国王の間に一條の通路を開き置くは此機に在りと存じ、「尚ほ微意のある所を十分開陳致度に付、何人か信用ある人を遣はされたしと内奏せしに」、陛下は自今兪箕燠を秘に本官の許に派し、熟議せしむる所あるべしとの御沙汰ありて、爾来同氏は屡々来館。
本官と大君主との間に立ち、相互の意志を通連し、特に傭兵問題に関しては不少便宜を与へたる次第に有之候処、抑も陛下に於て右兪箕煥をして当館へ通路を開かしめたる第1の眼目は亡命者処分にありて、之に次ぐは皇帝称号の一事に有之ものと■く推測せられ候に付、去月7日第62号を以て電稟に及候処、同7日第44号貴電に接候間、本官は大体御来電の趣旨を骨子とし常に程能く応対し置たるに、皇帝称号の事の如きは本官の勧告を容れ、陛下より内々人を以て英仏独等の公使・領事の意向を探聞せられたる結果、孰れも容易に同意せざる気色に見受らるるを以て、目下殆ど立消の姿と相成居候。
猶、亡命者処分1件に就ても本官は、直に先方の希望通り行はるべからざる旨を説明し、断然其意趣を翻さしめんかと存候得共、斯ては忽ち陛下の意志を沮喪せしむるのみならず、昨今漸く回復の運に向ひたる感情に、些少にても冷却の因を与ふるは得策にあらざれば、寧ろ醇々乎として説き、漸を遂げ其妄想を反省せしむる方可ならんと存じ、此言路は、成る可く永久に利用して双方の意見を交換する方便と致置候。
然る処、兪氏は陛下の内旨を受け、毎々深夜密に本官を訪ひ、種々宮廷内の内話を打明け、相談すること往々有之候得共、斯ては迅速を要する場合に事機を失するの憂あるのみならず、兪氏は現任法部刑事局長の職にありて、其職務外の事に関し夜中当館へ出入するとの風説、一たび世間に伝播する様の事ありては、忽ち反対派の物議を来し、却て事に妨ありとの陛下の御思召に出で、寧ろ無任所外交官に転じ、公然各館に出入し得べき資格を与ゆる方便宜なるべしとて、此回の任命を見るに至りしものなり。
爾後兪氏は、公然本官を訪ひ任命の挨拶旁爾今出入自由なる旨を披露致候に付、本官は目下交渉中にある木浦・鎮南浦開港談に関し、露公使が隠然故障を挟みつつあるとの事を探知致たるを以て、之を排斥する為め内々本官の意見を密奏せしむる所ありたるに、同氏本日来館の上、陛下より左の御伝言ありたりと吹聴致候。

開港の事は(平壌開市は閣議中異論ありて通過せず)露公使の故障あるは事実なるも、之に拘はらず朕が意断然開港に決せり。
然るに、目下学部大臣閔種黙に代理を命じ、之に特旨に降し、開港一件を貴公使に交渉せしむる事としべし云々(本信記草後、外部大臣代理として賛政趙秉稷の臨時任命を見たるも、是亦兪箕煥の推薦に出でたるものに有之由探聞致候)。
将又、最初陛下の希望せられたる亡命者処分熱は、即今に至って漸く冷却し、稍々彼我提携論に傾きたるものの如く推測せられ候。
此段及具申候。
敬具
文中の7日第62号と第44号については後述。

ロシア士官を傭う話は、6月6日のエントリー等これまでに何度も見られ、前回は金炳始の辞職理由としても挙げられていました。
で、その問題をきっかけとして兪箕煥ルートが出来た、と。
兪箕煥って、一般に親露派として知られているんだけど、実際どうだったのかは現時点では不明ですねぇ。

で、高宗側でこのパイプを持ちたがった原因は、第一に亡命者問題。
趙羲淵、兪吉濬、禹範善等、これに引っかかりそうな亡命者は多数居り、李埈鎔のように亡命者とは言えないまでも、かなり重要な人物が日本に来てるわけで、具体的に不明とはいえこれらの者を指しているのでしょう。
これに対して加藤は、すぐには希望通りにはいかないよと説明して、その恨みを翻させようと思ったが、これは折角回復しつつある日韓関係に水を差す事になるかも知れないので、むしろ純粋に説得して少しづつ妄想を反省させ、なるべくパイプを存続させる方便にした方が良いだろうとしていたところ、そのうち高宗の亡命者処分熱もさめて、日韓提携論に傾いてきたようだ、と。
まぁ、高宗に定見があれば日本も苦労しないので、日韓提携論に傾いてきたって話は、半分以下にして聞いておきましょう。
高宗がマジでそう思ってたとしても、どうせ何かの拍子にすぐ裏切りますし。(笑)

で、もう一点が皇帝の称号問題。
今回の連載では、素直に本題が出てきてくれて助かります。(笑)
尤も、この時点では加藤に言われて、イギリス・フランス・ドイツの公使や領事の意見を内々に探らせた所、そう簡単には同意してくれないようで、今のところその話も立ち消え状態、と。
つい先日まで他国の公使館に王様が居たわけで、そりゃそうだろうなぁ・・・。

一方でパイプの方は、兪箕煥が本務ではない話で日本公使館に夜中に度々行ってる事を、反日派に知られたらマズイっしょという高宗の意向により、兪箕煥を無任所外交官として、堂々と日本公使館に出入りできるようにした、と。
で、現在交渉中である木浦と鎮南浦の開港の話も、ロシア公使が陰で邪魔してるのを止めさせてよと秘かに奏上したところ、高宗はロシア公使が邪魔しているのを認めた上で、開港を決心したので、外部大臣代理に交渉させるよ~んと述べたわけです。
この頃から、ロシアの干渉にも嫌気が差してきたのかな?

さて、冒頭に述べた第62号と第44号ですが、残念ながらアジ歴ではそれを見る事が出来ません。
しかし、大隈重信外務大臣から在ロシア特命全権公使である林権助へ、今回の電文内容が転送されているんですが、その中に概要が書かれているので、そちらを見てみましょう。

茲に亡命者処分及皇帝称号の一事とあるは、曩きに本大臣と同公使との間に電報を以て往復したる事件にして、即ち左の如くに有之候。

加藤公使来電第62号「朝鮮国王の内旨を探るに、2ヶの希望を有せらるる。
一は皇帝の尊号を用ひたきこと。
二は、日本にある亡命者の始末を付けたき事なり。
思ふに、第一は、従来我より外国の帝王を指して一般に皇帝の称号を用ひ居ることなれば、他に率先して承認する方然るべし。
又第二は国王の最も苦慮せられ、奸臣の常に口実として利用する処なり。
就ては、我に取りては敢て難事と云ふにあらざるべきを以て、其内の重なる者数名を角立てずして、■回にも之を分ち外国に移すが如きことは、御工夫■■難きや、一応の御意見承はりたし。」
皇帝の尊称については、従来から日本は外国の帝王を指して皇帝と呼んでいるので、他国に率先して承認した方が良いんじゃね?と。
まぁ、皇帝どころか帝王ですらあるのだろうかと、甚だ疑問なわけですが。(笑)

一方で日本の亡命者については、日本にとってはさほど難しい事でもないので、主だった者を外国に移すくらいはしても良いと思うけど、どうよ?と。
で、これに対する返事がその次になります。

右に対し本大臣は、第44号電報を以て左の如く回答し置けり。
貴電第62号朝鮮国王の希望、第一は日本語にて大君主を皇帝と改むるは差支なしと思考すれども、英語にて「エムペロル」と称ふるは穏かならざるに付、承認せざる方然るべし。
第二、亡命者は現今列国交際上の慣例に依るも、政治上の犯罪者を本国へ引渡し、若くは他国へ追放するが如きは為し能はざること勿論なれども、時様を見計ひ、他国へ旅行する様取計ふことあるべし。
尤、平素■分取締を加へ、決して本国へ危害を謀る等のこと無様注意するを以て安心せらるる様、貴官一己の考へとして同国王へ対し保証せらるべし。
日本に限って呼称を皇帝とするなら良いけど、英語で”Emperor”はマズイから承認しない方が良いでしょ、と。
まぁ、甘いと言えば甘いんですが、「皇帝」だと国際的な呼称でも無いでしょうし、その辺の使い分けの認識はちゃんとしてたって事なのかなぁ?

で、先の『機密第39号』では、イギリス・フランス・ドイツに”Emperor”の話して、難色を示されたようですな。

亡命者問題については、国外追放等の手段は国際慣習等からいっても不可能だけど、その内他国に旅行させるくらいの事はできるだろう、と。
まぁ、普段から取締りして、朝鮮に危害を加えるような事が無いように注意するから、安心してよねって加藤君から個人の考えとして言っておいてよ、という回答だったようですね。

さて、このような状況から、どのようにして高宗が大韓帝国皇帝を名乗ることになるんでしょうねぇ♪


今日はこれまで。



帝国への道(一)



ちょいと前に、hash0153氏から万宝山事件についてリクエストがあって、ざらっと史料見てみたんですが、アジ歴で”万宝山”で検索かけただけで200件以上hitするわけで・・・。
しかも、100件近くは事件の経過報告なわけで・・・。
相当気力充実してる時でないと無理です。
勘弁して下さい。_| ̄|○  (笑)

で、何をやるか色々考えた結果、東学党の乱とか日清戦争とかは、実はきままに歴史資料集さんのとこで色々とやってくれるのではないかという勝手な期待を胸に、俄館播遷後から大韓帝国の成立までを、かいつまんでやってみようかなという結論に落ち着きまして。
ハイ。

というわけで、史料はアジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/10 明治30年3月30日から明治30年3月30日(レファレンスコード:B03050002500)』から。

つうか、アジ歴さん。
「明治30年3月30日から明治30年7月30日」が「明治30年3月30日から明治30年3月30日」になってるわけで、タイトルの期間が間違ってるのって、どうかと思いますよ?
と、チクッと刺したところで1897年(明治30年)4月21日発『電受第162号』より。

第46号
議政金炳始辞職聞届けられ、後任は沈舜澤任ぜらるべし。
金炳始辞職の原因は、此頃軍隊士官の採用其当を得ざるを以て諫諍したる結果、逆鱗に触れたるに依る。
6月10日のエントリーで、還宮後すぐに辞職の希望を述べていた金炳始。
高宗に「ロシア公使が留任させなきゃダメだって言うから、残ってよ。」と言われた金炳始。
公務を一回でもこなしたのか、甚だ疑問な金炳始。
その彼も、ようやく辞職が認められた、と。

理由は、軍隊士官の採用について高宗に意見したら、逆鱗に触れたから。
さすが、「到底何人か国王の信用ある閣僚の之と相提携し、両者の間を調停するにあらずんば、直に衝突を来し永く其地位を保つ能はざるべし」と言われた男だけはあります。(笑)

続いても人事関係の話題。
1897年(明治30年)5月9日発『電受第202号』より。

第65号
韓圭卨(咼の上にト)法部大臣となれり。
これも6月10日のエントリーで見たように、病気療養を名目に自分を弾劾した者の裁判が落着するまでお休みしてたわけですが、ここで法部大臣に復帰、と。
「法部大臣となれり」とありますが、高宗実録を見ても辞職の記事は見えないんで、多分単なる「復帰」だと思います。

さて。
6月9日のエントリーで「或る一部の徒は、此時機に乗じて尚進んで景福宮に還御を奏請すべしと云ひ、或は露国派を宮廷より駆逐すべしと云ひ」なんて報告がありましたが、それに類似した事件が起きてしまいます。
1897年(明治30年)6月12日発『電受第261号』より。

第80号
侍読洪賢哲、宮内参書インダイキン、前承旨リヨウキウ等国王の密旨を奉じたりと称し、沈相薫外3大臣を暗殺し、国王を景福宮に還宮せしめんとの隠謀事件、其同類の告発に依り露顕に及び、昨日警務庁の手に捕はれたる者、コウ、イン、リ外20余人ありと。
んー、次から次へと良くもまぁ・・・。
つうか、景福宮ってまだ修繕されてないんじゃないんだろうか?

ということで、この事件のより詳しい報告がありますので、そちらを見てみましょう。
1897年(明治30年)6月16日付『機密第37号』より。

陰謀事件暴露に関する報告

去る11日第80号を以て及電稟候如く、本月10日陰謀暴露し、侍読洪顕哲等警務庁の手に捕縛せられたる件に付、猶又探聞の侭左に申進候。
就縛員中陰謀の張本人とも称せらるるは、洪顕哲、宋鎮用、李容九、権在斗の4人にして、就中洪は宮内大臣李載純と親交の間柄なるより、李宮内を介して国王に説くに、其平素厭忌せらるる某■大臣外幾人(米国派・日本派若くは金鴻陸の輩)を暗殺若くは逐斥すべしとの事を以て巧に国王の意志に投じ、寵眷を求め、竟に朝夕国王に昵近することを得て、「恪勤盡忠」の4字を書し御璽を鈐したる敕書を乞ひ、之を利用して党類を募集するに当っては、曰厳尚宮始め軍部大臣沈相薫、内部大臣南廷哲、農商工部大臣李允用、外部大臣李完用、法部大臣韓圭卨(咼の上にト)、侍従金鴻陸を暗殺し、君側の奸を除き、国王を景福宮に還御せしめ国政を改革すべしと吹聴したるものの如し。
而して右陰謀者の同類中には、宮廷内に内応を為すものあると、宋鎮用、李秉■(元義兵の巨魁)の部下に属する■義兵なるもの80人の加担する(内宋の部下60人、李の部下20人)ありて、内外相応じて本月15日、即故王妃の例祭日に事変に及ばんとしたるに、其同類中親衛隊中隊長趙復凞、同洪■吉、同李秀冕等の■って変を警務庁に密告する所となり、其首領と目指るる洪顕哲、宋鎮用、李容九、権在斗(第80号電報中、尹大均とあるは誤聞)を始め、共謀人金聲鎮、黄鶴■、朴遇復、金俊秀、朴■鉉、金当鎮、尹命学、李世鎮、張志承、尹昌成、孫道植等は孰れも警務庁の手に捕縛せられたり。
先是、洪顕哲の侍読に任ぜらるるや、同類宋鎮用を警務庁■巡に推薦し、亦宋の推薦に由り部下4名のものを巡検に採用せしめ、洪自身は三品警務官と成り、大に警務庁部内を操縦し、陰謀を容易ならしめんとせしものの如し。
然るに、洪・宋の間議論の衝突するあり。
洪は、王命と唱へ本月15日各大臣王宮に参集の折■事を挙ぐるの好時機なりと主張し、宋は之に反し時日を遷延ならしむるときは終に陰謀暴露の虞あるに付、11日に於てすべしと主張したるも洪終に肯ぜざるに由り、両者の間為に確執を生じたる結果、此の破綻を来すに至りしものなりと云ふ。
而して以上就縛者は、一応警務庁に於て訊問の末、一昨14日午後4時、孰れも高等裁判所に移されたり。
右及報申候。
敬具
李容九が、後の一進会の李容九だったら面白いんだけどなぁ。(笑)
まぁ『電受第261号』を見るに、承旨という官職に以前ついてたようなので、同名の別人だとは思うけど。
つうか、こんだけややこしいんだから、創氏改名しろと思うのも無理からぬ話な気もしますなぁ。(笑)

で、彼等の狙いは親米派、親日派、親露派。
対象とかやり方を見るに、儒生とかに近い守旧派なのかな?
まぁ、仲間の密告で事が露顕して捕まったり、決行日をめぐって仲間割れしたりという、いつもの話で失敗に終わったわけですが。


今日はこれまで。



高元勲

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先日zero氏から、創氏改名について半島での朝鮮名の使用例を聞かれました。
まぁ、殆どお役に立てませんでしたが。(笑)
それを調べる中で、結構面白い話を見つけたので、ちょっとやってみようかな、と。
それが今回のタイトルの高元勲について。

彼、日本風の創氏改名していない在朝鮮の有名人なわけですが、日本統治時代に道知事となったりで、勿論現代においては親日派認定されております。
ちょっと過去のニュースを見てみましょう。

教え子が師を告発する大学の親日清算

高麗(コリョ)大学総学生会が28日に行った内部調査の結果をもとに“親日教授”10人の名簿を発表した。

この名簿にはこの大学の設立者である金性洙(キム・ソンス)氏をはじめ、兪鎭午(ユ・ジノ)氏、申奭鎬(シン・ソクホ)氏、高元勲(コ・ウォンフン)氏、張徳秀(チャン・ドクス)氏、趙容萬(チョ・ヨンマン)氏、崔載瑞(チェ・ジェソ)氏など、同大学の総長や教授をしていた7人と、李丙燾(イ・ビョンド)氏、イ・カクジョン氏、ソン・ウスン氏など、同大学の卒業生3人が含まれていた。
総学生会は「(今後)生存している前・現職教授の名簿を追加で発表するかについては話し合ってみなければならない」とした。

高麗大学総学生会が“親日教授”と発表した人々の日本植民地時代の行跡と功過に対する評価は見方によって違う。
ひとつふたつの側面から判断し、このような人々が親日だ、そうではないという二分法で分けるのは難しい。

このため、“親日教授”らに対する評価は、今後、政権レベルで展開された親日行跡調査でも論争になる可能性が大きい。
このような中、高麗大学総学生会が先に率先し、自分たちの先輩であり師であった人々を“親日”と規定し、銅像撤去などの作業を繰り広げると誓うのは性急過ぎる。

高麗大学・総学生会は、韓昇助(ハン・スンジョ)氏の「日本の雑誌への寄稿事件」を機に、「日帝残滓清算委員会」を構成し、「高麗大学内の“親日人物”の告発受付」を開始してから半月目に最初の結果を発表した。

いくら反日と親日の清算が重要であっても、先輩であり師である人々の一生を評価する作業であれば、慎重に慎重を重ねてもまだ足りないと考えるのが道理だ。

父親、祖父の日本植民地時代の行跡を独立運動家に仕立て上げたり、自分を産んだ両親を自分の手で審判する政治家たちのあきれた形態が、今度は大学街で教え子が師を告発する姿につながったようで苦々しい。

高麗大学を皮切りに、各大学では「日帝残滓清算運動」に火が付いた状況だ。
大学間で連帯の動きも見えている。
大学が歴史と現実の問題に関心を持つのは当然のことだ。
しかしこの運動が学問的レベルではなく、もうひとつの社会変革運動のように繰り広げられるとすればそれは危険なことだ。

学生たちに“親日派教授”という烙印を押されれば、それを乗り越えることができる教授はいないだろう。
特に、日本植民地時代について研究する教授らは、研究と教育でも学生たちの監視の視線を意識せざるを得ないだろう。
そんな大学は結局、文化大革命時代の中国の大学に似ていくだろう。
まぁ、いつも通り馬鹿だなぁとしか感想も無い記事なわけですが、この中に今回取り上げる高元勲(コ・ウォンフン)氏が入ってますね。

で、アジア歴史資料センター『公文雑纂・昭和十八年・第十五巻・内閣十五・特殊会社役員任命協議/朝鮮証券取引所理事並監事任命ノ件(レファレンスコード:A04018705700)』に、彼の履歴書が残ってます。
3ページ目くらいまでテキスト起こし頑張ったんですが、経歴があまりに長くてそこで飽きてしまったので(笑)、職歴に絞ってさらに抜粋して書いてみますのでヨロシク。

履歴書

原籍地 慶尚北道聞慶郡山南面薪田里
現住所 京城府新橋町6番地

高元勳
明治14年 2月29日生

明治43年 7月13日明治大学法科卒業
明治44年 5月 5日私立普成専門学校講師
明治44年 8月12日朝鮮総督府警部(警務統監部庶務課勤務)
明治45年 1月10日私立養正義塾講師
明治45年 1月15日私立普成専門学校講師
大正 2年 4月 9日私立普成専門学校教授
大正 5年 9月 1日私立普成専門学校教監
大正 6年 1月 9日私立徽文高等普通学校講師
大正 9年 2月21日私立普成法律商業学校長
大正10年 7月23日朝鮮体育会理事長
大正11年 1月10日財団法人普成専門学校理事
大正11年 4月 1日普成専門学校長
大正12年 7月28日京畿道教育会評議員
大正12年 8月 4日朝鮮教育会評議員
大正13年 4月27日朝鮮総督府中枢院参議
大正13年12月 1日朝鮮総督府全羅南道参与官
大正13年12月 6日日本赤十字社朝鮮本部光州支部副長
大正15年 9月 6日朝鮮総督府慶尚北道参与官敍高等官4等
昭和 3年 4月 2日敍従五位
昭和 7年 5月25日全羅北道知事
かなり抜粋。(笑)
っていうか、多すぎだし。
まぁ、取りあえず警務統監部庶務課を出発点として、その後は主に教育畑を歩いて偉くなってった人ですね。

さて、この履歴書のどこが面白いか。

まずは、初っぱなの明治大学法科卒業にあります。
明治大学に居た慶尚北道聞慶郡山南面の高元勳。
実は、もうこのブログに登場したことがありまして。
そう、昨年の11月26日のエントリーを始めとして紹介した、在日韓国留学生を代表して一進会の合邦問題に反対の布告文と内閣に提出する建議書を持って、ソウル入りしたうちの一人です。
時局問題に関する集会、布告文の配布が禁じられている事を知って、(´・ω・`)となって帰ってった人ですね。(笑)

もう一つ面白い部分がありまして。
それが、大正5年9月1日に就任した私立普成専門学校教監。
このHPによれば、3・1独立運動に参加した学生に情状酌量を嘆願する内容の請願書が出されているわけですが、その請願者の署名の中に私立普成法律商業学校教監高元勲が居るわけで。
画像中にもしっかりと見る事が出来ますね。

その上で、今回紹介した史料。
昭和18年7月に朝鮮証券取引所の理事と監事を任命する話でして、ここではしっかり元の漢字のまま高元勳、と。
日本風の氏を創氏してないんですね。

一進会の日韓合邦に反対し、3.1運動の参加学生の情状酌量を嘆願し、創氏改名では日本風の氏に改めない。
それでも親日派として糺弾されるような状況なわけで。

まぁ、過去を全否定して生きていくのは半島の歴史の常態ですから、今更どうこう言う話ではないんですが、つくづく韓国人として生きて死ぬって、大変な事なんだなぁ、と。(笑)

っていうか、ほぼ無名の人物の履歴書一枚で、こんなエントリー書いて、私以外に誰か楽しいんだろうか?(笑)


ってことで、今日は与太話でした。



朝鮮民事令と第11条の第1回改正
朝鮮民事令第11条の第2回改正
朝鮮民事令第11条の第3回改正(一)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(二)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(三)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(四)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(五)
朝鮮総督府編『朝鮮の姓』より
朝鮮人の氏名に関する件


朝鮮人の氏名に関する件

テーマ:

6月14日のエントリーから続けてきた『公文類聚・第六十三編・昭和十四年・第百巻・司法一・裁判所・公証人・民事(民法・商法)/朝鮮民事令中ヲ改正ス・(壻養子制度創設及之ト関係スル氏ニ関スル規定)(レファレンスコード:A02030160700)』の解説も一段落したわけですが、もう一点創氏改名において大事な制令があります。
制令第20号です。

今日はそちらの方を見て、創氏改名について一段落付けたいと思います。
勿論、当初言ったとおり、思いついたときに続編を書くつもりではありますが。

ってことで、今日の史料は『公文類聚・第六十三編・昭和十四年・第百一巻・司法二・非訟事件手続法・抵当・破産・登記~陸海軍刑法/朝鮮人ノ氏名ニ関スル件ヲ定ム(レファレンスコード:A02030161100)』。
では、早速。

第1條 御歴代御諱又は御名は、之を氏又は名に用ふることを得ず。
2 自己の姓以外の姓は、氏として之を用ふることを得ず。
但し、一家創立の場合に於ては此の限に在らず。

第2條 氏名は之を変更することを得ず。
2 但し、正当の事由ある場合に於て、朝鮮総督の定むる所に依り許可を受けたるときは此の限に在らず。

附則
本令施行の期日は、朝鮮総督之を定む。
さて、これについても理由と説明が付いていますので、先にそっちを見ていきましょう。

理由
朝鮮人の氏設定に付制限を設け、且濫に之を変更することを禁ずる為、本令を制定するの必要あるに依る。


説明
朝鮮民事令の改正に依り、朝鮮人たる戸主又は其の法定代理人は氏を定むることを要する所、御歴代御諱又は御名を熟字の儘、氏として用ふることを禁ずるの必要あることは謂ふを俟たず。
而して、名を定め又は氏名を変更する場合に於ても、前示の制限を設くるの必要あるは同様なり。
是、第1条第1項を設けし所以なり。

氏の設定に付他人の姓を用ふるが如きは、各家を区別すべき標示として適切ならず。
是同第2項を必要とする所以なり。

氏名は、相合して個人を表彰するものなるを以て、濫に之が変更を認めざるべからず。
是、第2条第1項を設けし所以にして、右変更手続は、其の性質上朝鮮総督府令に依るを以て相当するが故に、同第2項を設けたり。
さて、まずは第1条第1項。
氏を定めるときは当然、天皇陛下の諱や名を熟字のまま使うのは駄目よ、と。
ちなみに、日本においては1876年(明治8年)に平民苗字必称義務令が出され、名字が義務化されたわけですが、それ以前の1870年(明治3年)の平民苗字許可令との間で、やはり同様の太政官布告が出されています。

御諱御名の文字使用方の件 (6年3月太政官布告第118号)

御歴代御諱竝御名の文字、自今人民一般相名乗候儀不及憚事。
但、熟字の儘相用候儀は不相成候事。
やっぱそういう人も居たんでしょうなぁ・・・。(笑)
ってことで、既に経験済みの制限事項だったりするわけです。

続いてが、第1条第2項。
自分の姓以外の姓は、一家創立の時以外は、氏として使っちゃ駄目よ、と。
この「自己の姓」は、氏の設定が戸主権に含まれ、それに基づいて戸主が一家の分を届け出るわけですから、戸主の姓でしょうね。
で、何度も言うとおり、姓は残るんですね。
その場合、他人の姓を氏とする事の弊害もあるでしょうし、みんなが名家の姓にしちゃう恐れすらあるわけで。(笑)

第2条の第1項は、氏名を簡単に変えられたら、行政面や司法面、商取引や保険や登記等々、個々人の同一性の確認が困難になるわけで。
現代日本でも氏名の変更ってかなり難しいですしね。
ま、当然の話。

で、第2條第2項は、良く歪曲されてこの制令全文にかかっているように解釈する向きもありますが、見てのとおり第2条に関する話です。
氏名は変えられないけど、特に朝鮮総督が定めた場合に許可受けたら、変えても良いよ、と。
日本でも「ダメ、絶対!」ではなくて、要件は面倒臭いですが変更可能なわけです。

さて、ここまで朝鮮民事令及びその改正過程と、「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件ヲ定ム」を見てきました。
創氏改名に関する話は、また気が向いたときに続きを書こうと思うわけですが、一つ疑問があります。
これまで見てきた中で、設定創氏については所謂日本風の氏でなければならないとは、法律上どこにも書いていません。
期限までの最終的な設定創氏率は約8割と言われますが、その全てが日本風の姓だったのでしょうか?
何の法的根拠に基づいて、必ず日本風の氏にしなければならないとされているのか、何故か親日派とされてしまっている日本風の氏を創氏しなかった人々が、総て法定創氏だったのか、かなりぎもーん。


ってことで、今回はここまで。



朝鮮民事令と第11条の第1回改正
朝鮮民事令第11条の第2回改正
朝鮮民事令第11条の第3回改正(一)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(二)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(三)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(四)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(五)
朝鮮総督府編『朝鮮の姓』より