順調に長期化している今回の連載。
トラバは兎も角、コメントも無くて寂しいんですが・・・。(笑)
いや、エロトラバや勧誘コメントは鬼のように付くんですけどね。
そーじゃなく。(笑)

さて、前回は朝鮮で反日感情が取り除かれつつある理由を、安駉壽が長々と語ってくれましたが、今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』、1896年(明治29年)12月28日付『機密第101号』の続きを見ていきましょう。

英に結び之に頼らば如何

安曰、英総領事ジヨンダン氏は、朝鮮独立問題に関し好意を表し、之に向って大に運動を試みんとするものの如しとは、或る確信すべき人物に拠って伝へられたり。
其意見は果して如何。
若し、各国使臣間に多少吹聴せられたる事なきか、前回米館の使臣会議席に吐露せられたる事なきか、両李一閔は先づ貴官に就き問ひ試みよと云へり。

本官曰、予は同氏に親交あれども、未だ此説ある事を聞かず。
尤も、該総領事新任に当って、一般普通の例として朝鮮の独立を扶くる事を勉むべし云々の訓令を其政府に受たる如きは或は可有之しと雖ども、別段特別なる訓令ありて運動するものとは思はれざるなり。

安曰、倘し果して或る者の伝ふる如く、該総領事にして我国の独立に対して好意あるものとせば、之れと結託し、つまり英の勢力に依頼し、強露の専横を防遏する事とせば利益たるに似たり。
此点に就き、貴意は如何。

本官曰、否な利益なし。
朝鮮に於て、最も多く利害の関係を有する国は何れぞと問はば、何人も必らず先づ指を日清露の三国に属せん。
夫れ三国は朝鮮と境域を連ね、政略上に商業上に直接間接の利害を有するものと云はざるを得ず、其他は此三国の如き深き関係を有するものに非らず。
所謂依頼と云ひ、保護と云ふも、必竟利害の関係上より生じ来る問題にして、申さば縁も縁由(ユカリ)もなき国に向って其保護を依頼するも、之に応ずるの道理なきなり。
英の朝鮮に於ける其関係は以上三国の如く深からざるものとすれば、良し朝鮮より之に依頼せんとせば、当局者は外交的愛嬌として容易に之に応ずるならん。
然れども、之れ恐らく無責任の承諾に過ぎずして、万一之に依頼せば、必ず大なる失敗を招かん。
之に反し日露清の三国は、縦令貴国より依頼なき迄も、其関係上より之れを黙過するものにあらず。
即ち、貴君が先刻吐されたる如く、大事の主人なる貴政府が毫も知らざる間に、何時か日露協商は整ひたるにあらずや。
其協商は果して如何なるものなるやは、拙者今此に説明する能はざるも、兎も角も朝鮮問題の為めに或る協商の成りたるは事実なり。
已に如此し。
是れ皆利害の関係より万已を得ざるに出で、決て一時の出来心に出るにあらざるなり。
彼欧羅巴に於ける白耳義・瑞西の中立の如き、全く之を囲繞せる強大国の利害の関係自ら茲に至らしめたるものなり。
試に、白耳義・瑞西の中立を以て、其利害の関係あらざる露米の間に説かんが、恐らく馬耳東風の感あらんのみ。
由是観之れば貴国の事とて同様、其利害関係深らざる国に依頼せんとするも、曾て何等の効能あらざるべしと思はる。
之れを総ふに、凡貴国に於ける列国の交際は、勉めて信義を守り、甲乙の差別なく、一に平等・均一の法に拠らずんばあるべからず。
之を甲に厚し乙に薄するが如きは、微弱なる朝鮮杯の為すべき道にあらず。
已往貴国の事歴に徴するに、常に感情に駆られて、動もすれば朝親夕疎の歎無き能はず。
惟ふに是れ、貴国の日に益々強大国の間に窘迫せらるる所以にあらざるなきか、貴国の当局者たる者深く反正する所あって、他国に依頼するの念を割断し、自今何れの国に対しても円滑の交際法を執って進まば、寧ろ長久の良策たるべし。

安曰、諾。
然らば英総領事への交際も、先づ停止する事と為すべし云々。
曰く、「凡貴国に於ける列国の交際は、勉めて信義を守り、甲乙の差別なく、一に平等・均一の法に拠らずんばあるべからず。」
曰く、「已往貴国の事歴に徴するに、常に感情に駆られて、動もすれば朝親夕疎の歎無き能はず。」
曰く、「貴国の日に益々強大国の間に窘迫せらるる所以にあらざるなきか、貴国の当局者たる者深く反正する所あって、他国に依頼するの念を割断し、自今何れの国に対しても円滑の交際法を執って進まば、寧ろ長久の良策たるべし。」
朝鮮外交の問題点の実に的確な指摘ですな。

イギリスの総領事ジョーダンが朝鮮独立問題に関して好意的であり、そのために大々的に運動するみたいって聞いたんだけど、各国の使臣会議や何かで聞いた事無い?と聞かれ、加藤はジョーダンとは親交あるけど、聞いたこと無ぇーよ、と。
で、まぁ普通に、朝鮮の独立を助けるように努力しろ程度な訓令なら受けてるかもしれないけど、特にそれに向かって特別な訓令で運動するとは思えないねと分析するわけです。
これを受けて安駉壽は、もしマジにジョーダンが朝鮮独立に好意を示しているなら、イギリスの勢力に頼んでロシアの専横を防ぐってのはどうですか?と加藤の意見をうかがうわけですが・・・。

だから、日本公使に相談する内容じゃねーだろ!(笑)

これを聞いた加藤は、「いや、利益ないだろ」と一刀両断。(笑)
朝鮮と国境を接し、政略上・商業上で直接の利害関係を持っているのは日本・清国・ロシアの3国であり、それ以外の国は3国のように深い関係には無い。
依頼する、或いは保護を求めると言うのも利害関係から出る問題であって、縁もゆかりも無い国に保護依頼してもそれに応じる理由が無く、イギリスに依頼すれば当局者は外交的愛嬌として取りあえず応じるだろうけど、それは恐らく無責任の承諾であり、必ず大きな失敗を招くだろう、と。

実際、朝鮮との係わりにおいて、イギリスであれば商業的なものが殆どになりますが、日本や清国やロシアの場合商業的利益だけでなく、直接的な自国の安全保障の問題にも絡む話になるわけです。
商業的利益だけが目的である場合、自立してようがどこの勢力下になろうが安定的に商売できれば良いわけですが、自国の安全保障に絡むと、自ずから対応が違いますからねぇ。

で、日露清の三国は、もし朝鮮から依頼がなくても、その関係上から黙ってみてないよ、と。
内容は詳しく言えないけど、朝鮮政府が知らない間に、朝鮮問題に関して日露間で協商が成り立ったのが実例。
ベルギーやスイスみたいな中立国は、周囲の強大国の利害関係上成り立ってるんであって、試しにベルギー・スイスの中立をロシアやアメリカに話しても、( ´_ゝ`)フーン で終わるでしょ、と。

そして説教モードに入ります。(笑)
朝鮮の外交はさぁ、一生懸命信義を守って、あっちとこっちで差別しないで平等・均一の法によらなきゃ駄目っしょ?
朝鮮のこれまでを見ると、常に感情に駆られて、朝には親しくても夕方には遠ざけてたりするじゃん。
そういうのが、日々強大国の間で圧迫され苦しくなってる原因ちゃうん?
朝鮮の当局者は、ある特定国への依存心を棄てて、どの国にも円滑な交際法をとって進めばいいんじゃないの?と。

金正日と盧武鉉に聞かせたいわけですが。(笑)

京釜鉄道問題

安曰、日本との感情を回復せんとの意見は、閔泳煥始め李完用兄弟の間に切に主張せられ其他も亦之に傾きつつあるも、未だ適当の機会を見出さざるは遺憾なり云々。

本官曰、機会は隨分多かるべし。
就中、先づ以て目下我国輿論の焦点たる京釜鉄道の契約を訂結するも、感情回復の一機会たらざるはなし。

安曰、然り。
京釜鉄道の一事、実に御説の如しと雖ども、何分目下の形勢より察すれば、直に契約と云ふの運に至らざるべし。
去れば、書柬を交換して許可契約を今より1ケ年後に訂結すべしと予約を結び置かば如何。
是ならば李完用も盡力すべしと思考せらるるを以て、此事を閔泳煥に打合せたるに、泳煥曰く、京釜鉄道暫定合同條款の結果到底許可せざるべからざる所以を奏聞したるも、目下の所にては何分にも急に埒明難し。
就ては、若し左様なる便法にて日本公使が承諾せらるるときは、此上無き好都合なり。
君先づ日使に就き詢る所あれ云々。

本官曰、其には御同意し難し。
何となれば、合同條款に於て既に予約あり。
将た何を苦みて之を再びせしや。
帝国政府は、起工は縦令貴国の都合に由り之を延期するも、契約丈は今日に必要なりと主張する折柄、之と正反対なる契約延期説は到底承諾せらるべき限にあらざるなり。
寧ろ貴政府は今此に契約を結ぶも、起工は1年若くは2年後に於てしたしとの條件を附し相談あらば、予も為之には帝国政府に向って隨分盡力すべし。

安曰、然らば此儀は取消し猶ほ退て再考すべけれども、目下契約の事は、如何しても困難と思はる云々。

此段及報告候。
敬具
で、前回ロシアが頼りにならんから日韓提携したいけど、表だったらロシアの反感買うかもしれないから、裏でパイプを作って色々と日本公使の意見を伺うね、と言ってたわけですが、京釜鉄道問題に関して、自分等に都合の良い事ばかり言って、日本側の条件は全く聞かないんですね。

交渉になってねーよ。(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)  俄館播遷のその後(三十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)  俄館播遷のその後(三十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)  俄館播遷のその後(三十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)  俄館播遷のその後(三十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)  俄館播遷のその後(二十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)  俄館播遷のその後(三十) 


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まぁ、ここしばらく安駉壽の談話に関する史料が続いてますが、その話の中身に浮気して、すぐ脇道の方を一生懸命調べてしまいそうなdreamtaleです。
ども。

今日も、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』から、1896年(明治29年)12月28日付『機密第101号』。

日本に対する感情

安曰、2月事変後、日本人に対する当国人の感情は実に殺気稜々。
日本人は目に見るだに厭はんとして、殆んど八道に遺類なからしめんとするの気ありしは当時の実況に徴し明なり。
然るに、今や此悪感情は漸く取除かれ、日韓提携論は徐々唱道せられんとする傾あり。
抑々事此に至りし原因は、稍冗張に渉れども一と通り説明致たし。
予等朝鮮人は以為らく、2月事変即ち国王露館の播遷は著しく日本の輿論を激動し、日露此に反目の因縁を作りたるものなりと。
又た、露は保護の名を以て大に力を朝鮮に致すべし。
日本は其勢力を回復せんと欲して、露に抵抗すべしと。
而して事実は全く予等の想像以外に描出せられたり。
事変後、日本の挙動は至って静粛に沈黙して、為すなきが如し。
果して沈黙して為す無きかと云へば、否然らず。
頃は4月と思はる。
小村公使とウエバー公使との間には、往来頻繁而して此の両者の間に何か議する所あるものの如し。
我当局者は此に不思議の疑念を起し、之れをウエバー公使に就き問ふも実を告げず、復た日本公使を探るも要領を得ず。
加之ならず若し両国にして果して予等想像の如く互に相反目すとせんが、日露代表者が縦令交際場裡に如何に和気を装ふとするも、豈何の点に於てか圭頭を見はさざるの理あらんや。
然るに、其後今日に至る迄で2者の交際は、其宴席に、其公席に、孰の場合に於てするも嘗て此事なかりしのみならず、反て日々益々親密に赴くの観ありしかば疑団彌解くに由なかりし。
又た或一方より観察すれば、日本は露帝戴冠式に山縣大将を臨ましめ、此に又た日露協商の成立すると伝ふるあるに至れり。
而して此2個の協商は果して如何なる者なるや。
第一主人たる朝鮮政府は殆んど夢裡にありしなり。
兎も角も、閔泳煥帰国せば何等好消息を齎すならんと、一般の希望は頷を引ひて泳煥の帰朝を待たり。
而して、此間に於けるウエバーの言動は、常に朝鮮人を慰諭して、日遠からずして貴国は極めて無事安穏の地に立つべし。
故に徐に時機を俟つに如かず云々。
此言語は、絶へず繰返へされたり。
最初の中は形勢に暗き朝鮮人の事とて大に之れを信じ、之れに依頼したるに、事実は多く之に齟齬し、彼は朝鮮の保護と云はんより寧ろ巧に自国の利益を経営するに汲々たるものの如し。
何となれば、彼は第一着手として咸鏡道に鑛山の特許を得、次て月尾島石炭置場の借地となり、又た茂山鬱陵島の伐木と云ひ京義間鉄道と云ふも、是れ皆露の利益たらざるなし。
然り而らば、彼れが云ふ「今に好くなる。暫く時機を俟つべし」との言は、毫も証せられざるのみならず、寧ろ「今に悪しく成り切るを待つべし」と云ふの隠語と解せざるを得ざるものの如し。
一.閔泳煥帰国せば、露国熱は一層高まるべしとは一般人心の傾向なりしに、何ぞ料らん帰国後泳煥の挙動は、大に之に反せり。
即ち泳煥は、帰国劈頭還御説を唱へ、且つ2月事変の主動者を擬するに逆賊を以てするに至りしかば、是れと云ひ彼れと云ひ、露国は頼み難しとの企を起し、此に漸く迷信を開くに至りしものの如し。
特に泳煥は、朝鮮は如何なる場合に於ても日本を離れて国家を維持する能はず。
必らずや日朝両国は相俟って、東洋に保全せざるべからずとの考を抱き、此事を以て已に国王にも内奏したりと云ふ。
然れども彼は曰、日朝の提携を求むる為めには、先づ以て両国間に蟠まる悪感情を融解せざるべからずと雖ども、今日の境遇にあって朝鮮が露国に対する同一の款待を以て靡■日本に向はんが、是れ直に露の歓心を傷け、策の得たるものにあらざるべし。
去れば、今暫く今日の成行に一任し、裏面に通路を開き、大小の事項は内々日使に就き意見を仰ぐ事とせば可ならん。
而して此任務は、君自ら当れと。
斯くて同様の意見は、李允用・李完用及予都合4人の間に協定せられたり。
故に自今予は屡々貴官に就き彼我意見共通機関として往来致すに付、予め此儀を承領せられたし云々。
俄館播遷以降、反日感情が高まった事はこれまでも史料中に散見されました。
実際2月21日のエントリーでの43名の邦人犠牲者を始めとした被害は出ているわけですが、それとこの期間の暴徒を「抗日義兵運動」と称しうるかどうかとは、また別の話。
どちらかといえば、その構造的に東学党の乱の延長に位置づけられるのではないかというのが個人的な考え。

まぁ、それは兎も角、この時期に至って反日感情は取り除かれ日韓提携論が徐々に提唱されつつある、と。
閔妃の事とか、どうなってるんでしょうねぇ・・・。(笑)

で、安駉壽がそういう状態になった原因を説明する、と。
朝鮮人は、俄館播遷によって日露の反目の因縁を作ったと思い、ロシアは保護の名の下に朝鮮に大いに力を注ぎ、日本は勢力を回復しようとしてロシアに抵抗するだろうと考えてたわけです。
三国干渉とかは、すっかり頭には無いようですね。(笑)

しかしながら、予想外にも事変後の日本の挙動は至って静かに見える。
でも、何もしてないかと言えばそうではなく、小村とウェーバーの間で往来が頻繁になり何か協議している模様。
朝鮮当局者は不思議に思って、ウェーバーや小村に何してるか聞いて見たがさっぱり要領を得ない、と。
外交交渉の中身が簡単に洩れるどっかの国とは違うんですよねぇ。(笑)

しかも、朝鮮人の予想通りに反目しているならば、例え表面上友好に装っててもどこかににじみ出るものなのに、それも見えないどころか却って親密になっていくようで、そのような疑いも晴れるのも仕方ないだろう、と。
この辺、純朴っつうか単純っつうか何つうか・・・。(笑)

一方、日本はニコライ二世の戴冠式に山縣有朋を派遣して、そこでまた日露協商が成立したという話も耳にするようになったけど、この小村=ウェーバー協定と山縣=ロバノフ協定って何なのよ?と。
で、ここで言う「朝鮮政府は殆んど夢裡にありしなり」というのは、恐らく朝鮮政府は何が起きているのかさっぱり分からないでいるという意味なんだろうけど、実際に高宗がいつも夢の中の住人なので、自信なし。(笑)

まぁ、その辺も含めてロシアに赴いている閔泳煥が帰ってくれば、何か良い消息をもたらすだろうという事で皆待ってた、と。
その間ウェーバーは、「もう少しで朝鮮は安定する事になるだろうから、それまで待ってた方が良いよ」と言い、この言葉は絶えず繰り返されたわけですね。
最初のうちは形勢が良く分からない朝鮮人の事だから、素直にウェベルを信じウェベルを頼っていたけども、事実はその言葉と大いにかけ離れ、咸鏡道の鉱山特許・月尾島石炭置場の借地・茂山鬱陵島の伐木・京義鉄道などに見られるように、朝鮮の保護というよりロシアの利益を得るのに汲々としているようであり、ウェーバーの言う「今によくなる。もう少し時機を待て」って、「今に最悪になりきるのを待て」ってことかよ!と。
まぁ、当たらずとも遠からず。(笑)

で、先のとおり閔泳煥が帰ってくれば何か良い消息をもたらし、親ロシア熱は更に高まるだろうというのが一般の傾向だったのに、実際帰ってきたら帰国一番還宮説を唱える始末。
おまけに俄館播遷の主導者を逆賊認定。(笑)
まぁ、この辺の事情は5月21日のエントリーのとおりですかね。
これらを聞いた朝鮮人が、ロシアは頼りになんねぇという空気になったことが、反日感情が取り除かれ日韓提携論が徐々に提唱されつつある状態になった理由というのが安駉壽の説明。

え~、ロシアが頼りにならないと、なんで反日感情がなくなるのか不思議ぃ~。(笑)

さらに閔泳煥は高宗に、『大東合邦論』まではいかないながら、日韓提携が不可欠である事を内奏。
で、日韓提携を求めるためにはまず両国間の悪感情を払拭しなければならないが、今日の境遇では朝鮮がロシアと日本を同一に遇すれば、ロシアの反感を買って成功しないかもしれないので、表向きは成り行きにまかせ、裏でパイプを作って色々と日本公使の意見を伺うために安駉壽が往来する事になったので、よろしくね。ニッコリ

多分、彼等に信頼性なり一貫性なりを求めるのが間違ってるんですよね・・・。


今日はこれまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)  俄館播遷のその後(三十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)  俄館播遷のその後(三十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)  俄館播遷のその後(三十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)  俄館播遷のその後(二十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)  俄館播遷のその後(三十) 


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んー。
もうすぐゴールが見えるって時に、何で嵩張る史料ばっかあるんだろう?(笑)
つうか、風邪もひいたし・・・。_| ̄|○

ってことで、今日からはアジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』より。
内容は、三回目の安駉壽の談話について。
1896年(明治29年)12月28日付『機密第101号』。

安駉壽談話第三次

本月22日安駉壽来館。
談話の要領は如左。

京仁鉄道

安曰、是は全く私事なれども、予は京仁鉄道事業に関する材料受負会社を起し、李采淵等の勧に依り枕木等を調達せんとの目論見を為せり。
然るに風説に拠れば、米人モースは京仁鉄道株を其本国に募集したるも容易に応募者なき為め、日本人に株主たらんことを求むるとか、若くは全く該事業を日本人に譲渡さんとすとか伝ふ。
孰れにせよ、予は此事業さへ成立ば其裏面は如何なるも頓着するに非ざるも、京仁鉄道は起工期限を一年と定めあれば、若し此間に着せざれば條約は自ら無効に帰すべし。
而て、最早纔に4、5ケ月を余せる今日尚ほ株主募集に汲々たる有様にては、期限内果して成立得べきやは頗る疑はしく、左すれば予の受負事業とても10万円位の資本を要するを以て、如此前途無■策事業に多分の資本を卸し難き場合なれば、先以てモース運動の結果を確め置くの必要ありて、李完用・李采淵等に糺すも事実明瞭ならず。
故に貴官に就て問はば、或は事情を知ることを得べきかと存じ斯く推察せり云々。

本官曰、予も未だ之に就き委細事実を承知せざれども、新聞紙の伝ふる所に拠れば貴説の如き事情あるが如し。
予が推測に拠れば、モース自身資本を投じて此事業に従事する決心ならばいざ知らず、苟も其本国に於て株主を募り以て起業せんとせば頗る困難なるべし。
否米国人の気質として潔しとせざる所ならん。
何となれば、彼等は各国間に於て持て余す如き事業もあらば、己れ一番之を成効せしめんとして何れの辺境に赴きて其の手腕を振ふことあるべきも、此の些々たる事業の為め故らに貴国に来り之に齷齪するは彼等の本旨にあらざればなり。
現に、当地にある米人すら、其一部の人は京仁鉄道を米人が引受けたるは恥辱なりとして、排斥する論者あるは予が直接見聞する所なり。

安曰、予も甚だ疑はしく感じたる事あり。
其は、グレ―トハウスの言動是なり。
彼は切に予に向って馬車会社の創立を勧誘しつつあり。
其方法は如何と云ふに、馬車会社を京城に設立し、第一は京仁間の運輸を便し、第二は京城内の交通に便すべし。
其法、先づ城内の溝渠を浚渫したる土砂の、各所に堆積したるものあり。
此頃城内道路修理を為すの際なれば、土砂の運搬を受負ひ之れを城外四方に配敷せば、其利益たるべきや疑を容れず。
彼れは、予を以て商売気あり、射利的事業には赴き安きものとせり。
故に屡々此計画を予に勧む。
然るに予が疑点は、倘し京仁鉄道果して成効せらるるものとせば、京仁間の馬車は何の必要かある。
惟ふに、彼れは京仁鉄道を以て不成効に了るものなりとなして疑はざるが如きものの如し。
是れ、予が京仁鉄道事業の成立を疑はざるを得ざる一原因なり云々。
んー。
京仁鉄道に関して日本公使に聞ける、その神経がうらやましい。(笑)

文中の「京仁鉄道事業に関する材料受負会社」というのは、安駉壽の名前は出ていないものの5月7日のエントリーでの「京仁間鉄道材料を供給せん為め、朝鮮紳商の■に鉄道用■会社なるものを設置せり。」と同じでしょうね。

で、モールスは京仁鉄道株をアメリカ本国で募集したが応募者が無く、日本人に株主になってもらうよう求めるとか、事業自体を日本人に譲渡する等、もう工事着手前から資金が無いんですね。(笑)
まぁ昨年3月12日のエントリーで見たとおり、最終的に資金調達に失敗して日本から貸し付けを受け、且つ譲渡する事になるわけで。

兎も角、安は裏面がどうであろうと京仁鉄道の起工期限は1年間であり、しかも残り期間4~5ヶ月であるのに未だに株主募集に汲々としているようでは期限内に着手できるか疑わしく、条約は自然と無効になってしまう、と。
もしそうなれば僕も材料請負会社に資本注入できないから、進捗状況を李完用や李采淵に問いただしたがハッキリしない。
加藤公使なら何か事情を知ってるかも知れないので、聞いてみた、と。
極めて利己的な理由。(笑)

加藤はこれに、良く知らんけど新聞みればそうみたいだね、と。
まぁ、アメリカ人はフロンティアスピリットは旺盛だけど、この小さい事業のためにわざわざ朝鮮に来てあくせくするのはアメリカ人の本旨ではない、と。
当たってるような、当たってないような、加藤のアメリカ人観。(笑)

で、現に朝鮮在住のアメリカ人のですら、一部の人は京仁鉄道をアメリカ人が引き受けたのは恥辱だとして排斥する論者もいるらしい。

ここで安も、グレートハウスの言動から疑わしく感じたことがある、と。
グレートハウスは安駉壽に商売気があると見て、京仁間の運輸と京城内の交通を行う馬車会社の設立を勧誘してきてるんだけど、京仁鉄道が出来れば京仁間の運輸を行う馬車会社って意味なくね?と、もっともな疑問を抱くわけです。(笑)
そうであるならば、グレートハウス自体不成功に終わるを考えてるわけで、京仁鉄道事業って上手く行かないんじゃね?と思う一原因だ、と。
この後、安駉壽が材料受負会社に出資したのかは不明。

つうか、何で日本との条約破った挙げ句、こんな有様になってんのよ、と。(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)  俄館播遷のその後(三十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)  俄館播遷のその後(三十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)  俄館播遷のその後(二十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)  俄館播遷のその後(三十) 


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すっかり長くなっちゃってますが、今日も安駉壽の談話の続きから。
前回は、連合奏請に関して李完用のじゃあ君まず閔泳煥を説得してみてよという話を受けて、閔泳煥と会談したところ無理でしょ、と断られた処までやりました。
それでは今日も、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』、1896年(明治29年)12月22日付『機密第100号』より。

安、切に連合奏請は止むべからざるを説き、且つ閔の迷信を破ぶるに及んで、閔も亦た竟に連合奏請に加担するに至れり。
而して、閔の同盟に入るべしと信ぜらるる大臣等に就き指を屈すれば、韓圭卨(咼の上にト)・李允用・李完用・閔種默(中立)等は同意すべし。
而して、李載純・朴定陽も終に同意せん。
度支大臣は不在に付、之れが代任には其一族閔丙鎬を用ひたしとの希望に付き、安曰、丙鎬をして一躍大臣たらしむるは秩序に協はざれば、先づ協辨に任じ、嗣て大臣に陞叙する方然らんと論じ、閔之に同意し、右にて連合奏請の議は略決したるも、閔は故閔后の墓所実地見分の為め城外に往復せざるを得ざるに拠って、追て実行は帰京の上に於てすべしとの事に内決せり云々。

安は、於是本官に向って、殊更貴官の配慮を煩はし度きは、即ち米国人を顧問官として多く聘用し、以て露国の潜勢力の増長を防遏せんとするにあることなれば、此意を貴政府に致し、其幇助を得て吾々の企望を達する様盡力せられたし。
此儀は頗る今日に切迫せり。
何となれば、国王明礼宮に移御せらるるの日に当っては、当国人の常として権力の争奪・王寵の競合に一方ならず紛雜を来し、竟に又た収拾すべからざるに至らん。
去れば、明礼宮移御の後は速に顧問官の到着を見る如くんば上首尾なり云々と申出候に付、本官は米傭聘の策は不可なきが如しと雖ども、目下予は其必要あるを見ずと答へ置けり。
断られた安駉壽は、閔泳煥に対しても李完用同様の説得を行い、遂に閔泳煥は同意し、実行は閔丙鎬が帰京してからと決まった、と。
で、前回の厚かましい考えを加藤にお願いするわけです。
しかし「当国人の常として権力の争奪・王寵の競合に一方ならず紛雜を来し、竟に又た収拾すべからざるに至らん」って、分かりきってる事とはいえ朝鮮人自身が言うな、と。(笑)

これに対して加藤は、アメリカ人を雇うのはいいだろうと思うけど、今のところその必要があるようには見えないね、と返事するわけですね。
つうか、自分等の都合だけ話して、日本の事情なり協力の条件なりを全く考えないのは、デフォルトなんでしょうねぇ・・・。

閔泳駿と宋秉畯

安曰、泳駿は今尚ほ隠然勢力ありて、之れをして内閣に列せしめば或は日韓両国間に蟠る悪感情を除却するの方便たるべしとは、小村次官に拠って日本政府に紹介せられたりと宋秉畯より其親友の許に報じ越せり。
并に書中泳駿の股肱を日本に送るか、将た日本より相当の人物を送りて泳駿と面議せしめたしとあり。
然れども予は(安)、此の事を以て李完用と相談したる結果、恪別利益なきを認めたりと。
何となれば、第一遣すに人なく、第二来らるるとも一泳駿を目的として泳駿若し応ぜざれば、夫れ切の事にして到底他に策の出づべきなし。
殊に尤も注意を要するは、泳煥に一癖あり。
其は、彼れは政府部内に反対者あるに拘はらず卒先して乱麻を理裁するの勇気なく、唯だ他の膳立を待って始めて之れに箸を下さんとするが如き気風あること是れなり。
去れば、彼れは日本人より如何に有益なる勧告を受け刺撃せられたればとて、直に奮起して難局に当るべしとは思はれざるなり。
寧ろ、今日の形勢よりすれば泳煥を推し、彼れをして操縦せしむる方得策ならんかと思はる。
而して、宋秉畯の眼中には殆んど泳煥なし。
彼れは、泳煥を以て共に為すに足らずと軽視し、独り泳駿にあらざれば今日救済者なきが如く、其閔泳駿を信ずること深きと同時に、彼れは泳駿を信ぜざるなり。
之に反して泳煥は秉畯を信用し、曾て赴露の日に於て其同行を求めたるも、秉畯深く侮って応ぜざりしと云ふ。
泳煥、秉畯の間柄已に如此なる以上は、今仮りに秉畯に説くに泳煥を推す事の得策なる所以を以てするも、彼は断然擯斥し去らんのみ。
故に秉畯の計画する所は、暫く要領なる返答を与へず、当分之れを中止に附し置くに如かずと為せり。
尤も此事は秉畯には明示し難しと雖ども、秉畯と共に斡旋せらるる所の人へは(其何人なるやは措て問はず)、此実情を通じ置くの心要ありと認むるを以て、已むを得ず貴公使を煩すことに完用とも協議一決せり云々。
右及報告候。
敬具
んー、これ1月12日のエントリーの話の続きなのかな?
つうか、こん時は「此事に就き内々閔泳駿に計りたるに泳駿も大に賛成し、相当の人物を撰び、之れを表面には宮中よりの派遣探偵者と吹聴し当国を抜出し、其実秉畯への報告を齎しめば妙計なるべしとの事に談合し、目下相当の人物撰定中」だった筈なのに、いつのまに「第一遣すに人なく、第二来らるるとも一泳駿を目的として泳駿若し応ぜざれば、夫れ切の事にして到底他に策の出づべきなし。」になっちゃったんでしょうねぇ。(笑)
たった1ヶ月の間に何が起きたのか、さっぱり分からんわけですが。

まぁ、それは兎も角、閔泳駿は一癖あるやつで、反対者がある中を率先して行う勇気など無く、ただ他でお膳立てが揃ったら美味しく頂くようなヤツだよ、と。
ひでぇ。(笑)
で、閔泳駿に日本人がいくら有益な忠告しても、発破かけても、奮起して難局に当たるとは思えないから、寧ろ閔泳煥を操った方が良いんじゃね?と。

しかしここで大きな問題が。
何で間に挟まってるのか良く分からん宋秉畯が、閔泳駿は信じてても閔泳煥を全く信じてない。
折角閔泳煥の方は宋秉畯を信じてるのに、これじゃ片思いですね。(笑)
従って、宋秉畯の計画は当分中止、と。
で、当然その内実は宋秉畯には教えないけど、日本には教えておく必要があると思い、加藤の手を煩わせる事に李完用と協議して決定した、と。

んー、この宋秉畯絡みの外務次官小村寿太郎の話って、1月12日のエントリーの外務大臣大隈重信の話と併せて、どこまで本当なんだろうねぇ。


今日はこれまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)  俄館播遷のその後(三十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)  俄館播遷のその後(二十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)  俄館播遷のその後(三十) 



前回は、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』、1896年(明治29年)12月22日付『機密第100号』における安駉壽の談話のうち、安駉壽と李完用の会見内容から、朝鮮独自では立て直し不可であり、消去法の結果アメリカに頼るしか無ぇんじゃね?という処までやりました。
今日はその続きから。
では早速。

安曰く、米人聘傭の策甚だ良きに似たり。
然れども、之に先きて為さざるを得ざるは国王還御の事是れなり。
現今の如く国王露館にありて、朝夕露使と国政を詢議するの日に当り、縦令如何なる大家の顧問来るとするも、到底策の出づべきにあらず。
故に須く、先づ明礼宮に迄国王を移御せしめざるべからず。
之れを為すに、唯だ一策ありと存ず。
大臣・協辨等都合18名のもの同盟一致し、各自辞表を懐にして御前に伏し還宮の事奏請すべし。
若し諫聞かれざるに当っては、各自辞表を懐に執り其決心を示すべし。
事此に至らば、如何に国王還御に意なきにもせよ、此に18人の進退を堵して猶之を拒否せらるに至らざるまじ。
アメリカ人を雇うのは良い考えだけど、まずは高宗が還宮しないと何も始まらんべ、と。
まぁ、還宮論者の中にはアメリカや日本や自立してやっていけると思っている等、還宮後について様々な思惑があるにせよ、取りあえず還宮しなきゃ始まらないってのはロシア派以外の共通認識なわけで。

その還宮を成功させる唯一の方法は、大臣・協辨等が一致協力して、辞表を胸に高宗に還宮を奏請し、聞き入れられなければ辞表を出してその決心を示す事、と。
そうすれば、高宗にどれほど還宮する気が無くても、18人が辞めてさえ還宮を拒否するような事は無いだろうって話ですな。
んー、どうだろう? (´ー` ) (笑)

李曰、然リ。
唯だ恐る。
連合の成立ざらんことを。

安曰、君は之に同意ならん。
君既に之に同意せば、令兄允用氏も同意するならん。
(李曰、然り。家兄も同意するは必然)
韓圭卨(咼の上にト)は無論同意すべし。
閔泳煥も同様ならん。
閔種默は、孰れとも多数の加はる中立の位地にあり。
果して然らば、最早此に5人の同意者を見るべし。
朴定陽・李載純の意、果して同意なるや否やは予期し難きも、已に多数の同意者ある上は無理に加盟せしむるに足らん(外に度支は不在)。
斯かる以上、最早大多数の連合は立に便すべし。

李曰、然らば之れを以て君先づ閔泳煥を遊説せよ。
尤も、予と已に協議したりと告ぐる事勿れと。
まぁ、このような方法を採る場合、最もガンになるのが李載純でしょうな。
大院君の面会阻止や最初の逮捕事件等、色々とイタイ事してますからねぇ。
ロシアの後ろ盾が無くなったらどうなるか位は考えるでしょ。
と言った具合に、政府内部でも立場や意見は様々あるわけで、安駉壽の言う程容易くは無いでしょうね。

李完用もそう思ったのか、じゃあ君まず閔泳煥を説得してみてよ、と。
ただ、僕と既に協議した話はしないでね、と逃げを打ちながら説得させようとするわけですな。

ちなみに、この安駉壽が日本公使館に来た日に「韓圭卨(咼の上にト)は無論同意すべし。」と言われている韓圭卨(咼の上にト)は、既に辞職しております。

安之を諾し、去って閔泳煥を軍部に訪ひ、説に連合奏請の事を以てす。

閔曰、不可なり。
其連合の行はれ難きを如何良し連合者表面同意を示すも、裏面は飜って国王に密奏する等の弊を出すは已往屡例証を見る所。
若し事前に暴露せんが害あって益なきなり。
否らざるも、国王還御の事は近日行はるべきに似たり。
暫く時機を見る方然らん。

安曰、近日還御すべしとの説、已往幾回なるを知らず。
最早常套の言として、何人も之れを信ぜざるべし。

閔曰、否。
陰暦本月15日頃には多分明礼宮に移御せらることとならん。
何となれば、国王の性情として他より余り多く干渉を為すが如き事あらば、親疎忽ち処を変じて、昨日親密なりし者今日疎外せらるるに至る。
現今露使との関係は、漸く此域に達せんとす。
是れ、明礼宮移御の近日にあることをとせらるる所以なりと。
閔泳煥に連合奏請の事を図ると、駄目、と。(笑)
その理由が、もし表面上連合に同意を示しても、裏面で裏切って高宗にチクるような事って今まで何度もあったろというわけですが、まぁ、その通りですわなぁ。
もう、閣僚自身が互いの事を信用できないような状態。
まぁトップが高宗なので、しょうがないっちゃしょうがないんですよねぇ・・・。

つうか、閔泳煥の「国王の性情として他より余り多く干渉を為すが如き事あらば、親疎忽ち処を変じて、昨日親密なりし者今日疎外せらるるに至る。」って、朝鮮最大の問題点である場当たり主義が、高宗に起因すると言ってるようなもんなわけですが。(笑)

で、ロシア公使ウェベルも干渉が過ぎて疎んじられる域に達してきた、と。
デフォルトですね。(笑)


今日も途中ながらここまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)  俄館播遷のその後(二十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)  俄館播遷のその後(三十) 



約半年間の秘密を前回暴露したわけですが、無論この連載は、高宗の還宮までは続けます。
もう還宮まで史料中で3ヶ月程なので、よろしくお付き合いの程を。
ってなわけで、今日はアジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』より、1896年(明治29年)12月13日付『電受第714号』から見ていきましょう。

法部大臣韓圭卨(咼の上にト)の辞職聞届けられ、後任には掌礼院卿趙秉式任ぜらる。
どうということは無い史料なんですが、他のと違ってここでやっとかないと一生出てきそうも無いので。(笑)
この韓圭卨(咼の上にト)は、還宮したい一心で様々な事件を引き起こしたり、噂が流れたり、原公使と内通までしようとしてた人物。
辞職理由が具体的に書かれていないわけですが、恐らくは5月23日のエントリーでやった「逮捕事件」で、辞めざるを得ない空気になったんでしょうねぇ・・・。

さて、続いては再び安駉壽の談話。
1896年(明治29年)12月22日付『機密第100号』より、これまた長いので分割しながら。

安駉壽の談話

本月13日安駉壽来館。
前回に引続き談話の要領左に摘録致候。

安曰、予は此頃外部大臣李完用と会見したる結果に付、貴聞に達し置度事あり。
予が李外部に向って、今や時事日に否運に傾き、復た如何ともする能はざるに至らん。
然るに一国の大臣たるもの此国家存亡の秋に当って一事の救済策を講ずるものなく、坐して亡を待つは豈に是れ面目とす可けんや。

李答曰、予とても之を想はざるにあらず。
然れども、術策の施すべきなきを如何せん。
今や予等兄弟の地位は王寵衰へ無勢力なるのみならず、或一派の深く嫌厭する所となれり。
故に予等は辞職の決心なきにあらざるも、如何せん米公使シルの中間に居って、切に予等兄弟の留任を欲し、露使ウヘバーを介して国王に奏し引留め策を施しつつあるありて、不本意ながらも虚位を擁して今日ある所以なり。
而して、予が朝夕危懼に堪へざるもの露国の動作是れなり。
聞く露国人中議論2派に岐れ、甲派は朝鮮の内政に干渉し独専主義を執るは、露政府の本旨にあらずと。
又た之に反する乙派は、此最好時機に遭遇し、能ふ丈手を延ばし、兵制・経済は勿論其他苟も政略上に利益ありと思惟せらるるものは、悉く之れを一手に収め、大に露国の勢力を鞏固ならしめざるべからずと云ふにありて、此2派の議論中、最も勢力ありて着々実行せられつつあるは、即ち乙派の議論なるが如し(露使ウヘバー、実際乙派の主張者なり)。
我国人たるもの、今にして警醒一番速に之れが防遏を計らざれば、他日噬臍及ぶなきの悔あらん。
今度は安駉壽が日本公使館に来て語った内容。

安駉壽と李完用は、共に独立協会の議長と委員長の間柄であるが、この時の会見がどのような状況・立場で行われたのかは不明。
兎も角、安駉壽は李完用に向かって国家存亡の秋に、一つの救済策も講じないで滅亡を座して待つってどうなのよ?と聞くと、すると李完用は、いやもう李允用兄ちゃんも俺も、高宗の寵愛は衰えて勢力無いだけじゃなく、ある一派に深く嫌われててどうしようもできねー、と。

この頃の政治状況は、これまで見たとおり混乱の極地であり単純に敵味方に分けられないため、簡単には「或一派」を特定出来ないのだが、5月16日のエントリーやその他これまでの経緯を勘案するに、恐らくは宮内大臣李載純と金鴻陸の一派の可能性が高いと思わます。
で、こういう状況だし辞めたいんだけど、アメリカ公使のシルが引き留め工作してるから、不本意ながら今の地位に居るんだよね・・・。と

次からが中々面白いですね。
李完用が危懼に堪えないのは、ロシアの動向である、と。
ロシアの対朝鮮政策には2派あり、一方は朝鮮への内政干渉も独占主義もロシア政府の本旨ではないとする派。
5月3日のエントリーでも紹介した、日韓歴史共同研究事業における佐々木揚論文(PDF)の18ページ目に記載のある、1888年4月26日(西暦5月8日)のロシア政府特別会議議事録のような方針を踏襲する派なんでしょう。

一方で、現況を好機と捉え、兵制・経済・その他の利益に繋がると考えられるものは悉くロシアの手に収め、ロシアの勢力を確固たるものにすべきだとする派。
5月3日のエントリーの段階では、「個人的な交友関係のあったウェベルを除くロシア側が、この時期の朝鮮政策に関して、概ね淡泊であった理由の根拠であるかもしれないですね。」と述べたわけですが、実はそうではなく、勿論ウェベルも含まれる厳然とした強硬派が居り、この時最も勢力があるのはその強硬派だと李完用は考えてるわけですね。

安曰、将た之れを如何せば可ならん。

李曰、我国の微力なる独力之れが救済の策なきのみならず、況んや国王は露使箝制の下にあるの日に於てをや。
果て然らば、之れを如何すべきやと云ふに、唯だ今日の要は或る強国に依頼し、其力を借りて以て露国の専横を防遏するにあるのみ。
之れを英に計らんか。
否、不可なり。
去らば日本は如何との問題は起らん。
夫れ日本は戦勝の威勢を以て尚すら露国の専横を傍観し、恰も眠むるが如く闃として声なきは甚だ不可思議にあらずや。
盖し彼亦久しく黙するものに非らず。
時機一たび到らば、蹶然として起たん。
其起つの日は、我国は日露強国の間に挟り、其困難知るべきなり。
若し、今にして日本を引き来って共に排露策を講ぜんが、是れ取も直さず日露の衝突をして早からしむる道理なれば、是れ亦た不可なり。
去れば其他は如何と云ふに、唯だ米の一国あるのみ。
此に米国人の多を聘用して国政を詢議し委するに内地の整理を以てせば、其国柄として彼等は禍心を包藏せず、公平無私局に当り、之を利用して露国の専横を防止するの方便たるべし。
■て之れ迚て現今の情勢より察するに、我国人の力にては決行し得べきにあらざれば、即ち日本政府を介し、其斡旋に拠るの外なきに似たり。
事甚だ焦眉に属せり。
請ふ君先づ日使加藤氏を訪ひ、事情を打明け計るに此事を以てし、同氏を経て吾等切迫の意を日本政府に致さんんことを請はば如何んと。
日本→ロシア→アメリカ。
アメリカの干渉が強くなったら、次はどこに頼る事になるんですかぁ?(笑)

まぁ、日本を引き立てて共に排露策を講じれば、日露の衝突を早めるからこれは不可というのはその通り。
次の依頼先をアメリカとするのも妥当な判断に見えなくもないけど、もう考え方が最初から他国頼みなんですよねぇ・・・。
で、都合が悪くなると他国のせいにして、別な外国引き込むわけで。
この辺、現代にも通じる悪癖ですな。

おまけに、日本との条約を破りまくってるくせに、アメリカとの斡旋を日本に頼もうなんて厚かましく考えてるわけで。(笑)
日本の常任理事国入りに反対しておきながら、国連事務総長には賛成してくれるだろうと思ってる馬鹿顔が、今の隣の国にも居ますわな。

つうか、日本が干渉強めれば反発するし、放置プレーすれば露国の専横を傍観とか言われるし、面倒くせぇ国だよなぁ・・・。(笑)


かなり途中ですが、今日はこれまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)  俄館播遷のその後(二十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)



kimuraお兄さんに、自分でも気にしてる点を指摘されて、凹んでいるdreamtaleです。(笑)
ども。
悔しいので、一言だけ反論しておきます。
「忙しいので短い手紙は書けない」 (パスカルだったかな?)

それでは前回の安駉壽の談話の続き。
アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』から、1896年(明治29年)11月26日付『機密第93号』。

朝鮮銀行創立の原因

本行の創立説は、度支大臣沈相薰より誘導せられしなり。
沈は最初、熱心に銀行の国家経済に必要なるを説き、且つ自家の職責上欠くべからざる機関として主張せり。
而て、八道の租税は此の銀行をして取扱はしむべしとの事は、確も其一条件たりし。
或るときは沈は予に向って、一たび仏公使と会見せば銀行創立に多く便宜を与ふべしと告げ、其後も屡々之れを促せり。
予は於是仏館を訪ひ、代理公使プランシー氏と面会したるに、プ氏は目下朝鮮の経済に関して銀行機関の必要を説き、且つ清国人又は日本人と合資創立の得策たるべしとの事を述ぶるに付、予は之に対して清国本国すら未だ銀行の成立するものあらざるに、如何して之れと合資協同するを得べきや。
又た、日本人と合同するは可なり。
唯だ、目下行はれず、寧ろ欧米の銀行者を協同せよと云はば一理なきに非らざるも、全く不熟の清国人と協同するに於ては毫も其利益あるを見出さざるなりと答へたるに、プ氏は「フイブリル」会社々員グリイルを紹介し、且つ之れと計らば銀行設立に付き有益なる談話を聞くべしとの事なりし。
而して「グリイル」の希望は、今此に金300万円を朝鮮政府に貸与し、之れを以て朝鮮銀行の資本に充てしめ、朝鮮政府は向ふ50年を期し年6万円づつの利子を「フイブリル」会社に支払ふときは、50年に至って元金は返却消滅せしむと云ふにあり。
予之を聞き、倩々以為らく、此相談は一見甘味あるが如しと雖ども、能々味ふときは徒に「フイブリル」会社を肥すに過ぎず、加之のみならず朝鮮政府は八道の租税を取扱ふものとすれば、斯る約束の成立する暁には、其條件の下に朝鮮の財政は該会社の為めに左右せらるるが如き不幸に甘ずべし。
果して然らば、是れ国家長久の計にあらずと。
故に程能く挨拶を為し、努めて其の相談に応ぜざるの策を執れり。
先是沈相薰は、仏公使より右同様の相談を受け、300万円の国債を起すは銀行創立には頗ぶる意ありと認めたるも、彼れ度支大臣たるの日に於て斯かる大事に参与し之を取極めたるとせば、他日如何なる災難の到来するやも測るべからずとの恐懼心を起しては、此の間に予を引き入れ正面の相談に当らしめ、自身は巧に其責を免れ、因て以て他日の非難を予防せんと企てたる形跡あることを看破したるを以て、予は此に全く右の相談を拒絶する事と為したり。
去れば、朝鮮銀行の財源は之れを如何せば可なるやとの問題は起るべし。
有志者の合資に拠らんが、今日の形勢に於て国家安全なるべし、銀行の業務が進捗すべしとは何人も保証する能はざる所、此時に当て誰か能く私財を投下すべき国庫の補助を受けんが全く我国財政の許さざる所、以上述ぶる如くなれば、其何れの点よりするも朝鮮銀行の成立は今日に望むべからざるは見易き道理なり。
於是予は、唯だ予が処世の一方便として其創立に従事するかの如く疑ふ人あり。
安は何を為しつつあるかと云へば、朝鮮銀行に従事しつつありと答ふるのみ呵々。
だからさ、日本から借りた300万円は何に使ったのよ?(笑)

ということで、朝鮮銀行の設立については度支大臣沈相薰の発案、と。
度支部という事で、ブラウンあたりの進言かと思ったらそうでもないらしい。
取りあえず、国家経済に銀行が必要であり、度支部として必要不可欠な機関であり、朝鮮の租税も銀行で取り扱わせるという沈相薰の考えは正しい。
ただ、この時の朝鮮の租税って、確かまだ金銭ではなく物納だった気がするんですが・・・。

で、ある時沈相薰は安駉壽に向かって、フランス代理公使のプランシーに会って見ろよと勧め、これを受けて安はプランシーと会談。
プランシーは朝鮮銀行の必要を説き、それには清国人又は日本人との合資で作るのが良いんじゃね?と言うので、安は、日本は兎も角、清国は本国ですらまだ銀行無いし、欧米人なら兎も角不慣れな清国人と協同しても利益になりそうもねーよ、と。(笑)

じゃあという事で、プランシーは「フイブリル」会社会員のグリイルを紹介して、彼から300万を借りて朝鮮銀行の資本に充て、朝鮮政府は年6万円づつの50年払えば元金返済終わるじゃんと勧めるんですね。
この辺の話、4月29日のエントリーによれば既に7月初頭には内定しているかのような史料がありましたが、その時はこの300万円は日本から借りた300万の返済に充てる筈だったんですがねぇ・・・。
ちなみに、この直後の12月に、露清銀行から300万を借りて日本から借りた金を返す話が出てきますが、これは別途取り扱った方が良いのかな?

さて、安はこの話を聞いて、猜疑心で結局ほどよく挨拶する位に留めて応じない策に出た、と。
実際プランシーやらグリイルやらが何を企図していたか、現時点では不明なわけですが、この朝鮮人の無分別な猜疑心ってのには、これまでも史料に散見されてたように日本も相当苦労してます。(笑)

で安駉壽は、沈相薰はフランス公使から同様の相談を受けて、300万円の国債を起せば銀行創立は出来るだろうけど、何かあったときに責任取りたく無いから俺に交渉させるつもりだと看破して、この相談を全く拒絶した、と。

じゃあ朝鮮銀行の財源はどうすれば良いと言えば、朝鮮が今のような状態じゃ有志者の合資をお願いしても、国家が安全で銀行の業務が進捗するとは誰も保証できないし、国庫の補助なんかは朝鮮の財政上無理だし、結局銀行設立って無理じゃね?なんて言っちゃうわけですな。
だから、朝鮮銀行を成立させようとか思ってないけど、取りあえずその仕事やることで蜚語作説で酷い目には遭わなくて済むって事なんだろうなぁ。

金炳始と閔泳煥の確執

金炳始は、閔泳煥の軍部大臣に任ぜらるるや直に之を自邸に招き、貴下は曾て某の大将として威名上下を震したる地位に立ちたる身をも顧みず、今日副将に任ぜられ(中将)甘んじて軍部大臣の職に就きたるは、平仄に合はざるにあらずや。
予は、足下の名誉の為め其職を辞せんことを勧告するものなりと。
而して炳始の意は、表面今縦令へ軍部大臣の職に就くも、何事も出来べきにあらずして徒に世間の非評に上るに過ぎざれば、今暫く時機を俟つべしとの注意に出で、其実泳駿を推し度き意気なるを以て、泳煥は直に之を以て自身を疏外し、他をして之に代らしめんとの魂胆なるべしと速了し、大に憤懣の色を作して去りたつ後は、兎角両人の間確執を致せるは気毒の事共なり。
表面上の理由にも一理あるわけで。
実際問題として、ロシアから陸軍士官を連れてきたから軍部大臣になったと見られてもしょうがない状況。
それでいて公然に出来ていませんしね。

ところが、その実前回のように閔泳駿を軍部大臣にしたいのが見え見えなので、閔泳煥は自分を疎外して他と代えるつもりかと即断して激怒。
で、確執が生まれる、と。
つうか、そういう理由で仲間割れしてるような状況じゃねーだろ。>朝鮮政府

以下略
何故省略するかと言えば、1月12日のエントリーで既にやってるから。(笑)

そう。
このためにその後の1月13日からずっと、春生門事件の話からこっちをやってたりするわけで。(笑)
ま、あんまり俄館播遷後の詳しい話、見たこと無かったってのも当然ありますがね。
で、今気付いたんですが、どうやら5月2日のエントリーの宋秉畯は別人だったようですねぇ・・・。


ってことでようやく繋がったので、今日はこれまで。(笑)



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)  俄館播遷のその後(二十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)



実は、今年の1月13日から春生門事件の話を始め、これまでずっと俄館播遷に関係した話をしてきた訳ですが、実は今日取り上げる史料のバックボーンを調べたかっただけなんですよねぇ・・・。(笑)
しかも、そんな大したことない史料なんです。
半年もかけて、何やってんだか。(笑)

ってことで、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』から、1896年(明治29年)11月26日付『機密第93号』。
これも、分割しながら見ていきます。

本官、去る19日安駉壽と日語学校に会合したる節談話の概要左に摘録し、御参考に資し候。

閔泳駿の動静

安曰、泳駿は一たび出て国家を料理し、昔年の汚名を雪がんとの野心勃々たるものの如し。
予は彼に向って切に現今の情勢を説き、敢て出身の時機にあらざるを以て強ひて之れが念を停めしめんと努めたり。
何となれば、朝鮮の末路を綱紀紊乱の域に置きたるは閔泳駿なりとは、八道の児童走卒も今猶ほ口にする所。
然るに、今の時に当って泳駿出づるとするも、到底独力以て国家を醫正する能はざるもののみならず、寧ろ益々国家をして否運に向かしむるに至るも知るべからず。
果して然らば、閔泳駿一世の歴史は国人に亡国の臣として了らんのみ。
豈之れ愚の極ならずやと。
泳駿も予が言に鑑みる所ありてか、昨今に至っては外専ら静養を粧ひ徐に時機の到るを待つものの如し。
安駉壽は、前回のとおり独立協会議長であり、還宮派。
その安駉壽と加藤増雄臨時代理公使が、日本語学校で会談した際の概要である。

まずは閔泳駿について。
この頃、5月15日のエントリー5月21日のエントリーで還宮に向けて様々に動いている閔泳駿。
勿論その行動の裏には、もう一度表舞台に立って昔の汚名を雪ごうとする野心があるようだ、と。
つうか、5月15日のエントリーで既に中枢院議長になってるわけですが、中枢院議長って閑職なのかしら?(笑)

しかし安駉壽は、まだ表舞台に立つ時機じゃないとして説得し、閔泳駿もその意見に思うところがあったのか、現在は静養を装って時機が来るのを待ってるようだ、と。
つうか、朝鮮を現在のような綱紀紊乱の状態にしたのは閔泳駿だと朝鮮全土の子供も今でも口にするほどって、現代でも「当代最高の貪官汚吏」とか言われるらしいけど、具体的に何の話だろう?

議政金炳始の進退

金議政は、御承知の如く頑固を以て有名なる老骨なり。
乍去、彼れは不思議にも上下一般に名望あり。
而して、其人物は時事に通ぜず恰も本偶の如きも、之れをして内閣の首席に置くに於ては、国王も勝手我儘の挙動を憚り閣僚も何となく薄君悪く感じて行為を慎む等、一種特有の妙味を覚ゆるなり。
而して彼れは自家の説を貫くの勇気に富み、一たび其説を出すや必らず之れが結果を期するものの如し(彼れが這回10回の辞表を固執するも、畢竟之れが為め)。
又た彼れは泳駿を深く信じ、之れと袖を連ねて内閣に立たんことを欲し如是泳駿に勧めつつあるも、泳駿の出でざるは尚ほ自家の所説の行はれざると同一原因たるを思へば、彼れも之れを強ゆる能はざるものの如し。
彼は、今日までの有様にては、泳駿と同じく日本の感情を恢復するを主とする方なり。
「不思議にも」なんだ。(笑)
つうか、「国王も勝手我儘の挙動を憚り閣僚も何となく薄君悪く感じて行為を慎む」ような人物を、内閣総理大臣にしようとして断られ、議政府議政にして10回も辞表を出されてそれを許さないって、高宗や朝鮮政府が何をしたいのか、さっぱり分からんわけですが。(笑)

彼は、これまでも書いてきましたが先の閔泳駿を深く信じて、彼を内閣に入れたいと思って誘っても断られる、と。
彼自身が5月22日のエントリーでの5条件を始め、自分の意見が聞き届けられない事を思えば強いることもできないわけで。
で、彼も閔泳駿と同様に日本の感情を回復する事を主とする方だ、と。

しかし、そもそもこの時、彼が議政府議政の職務に就いてるのか疑問だったり。(笑)

安自身の地位

予は目下、朝鮮銀行の創立に従事しつつあり。
想ふに此の銀行の成立すべしとは、予が当初より期せざる所雖然予は之れに従事するを以て、一身上の好方便とするの得策なるを知ればなり。
何となれば、若し予にして安閑一事の業務なくして過さんが、一般の疑心は忽ち予ニ向って注ぎ、之れと同時に蜚語作説は行はれん。
果して然らば、又如何なる苦楚辛酸の厄運に遭遇するも未だ知るべからず。
何と危険なる世中ならずや。
まぁ、イザベラおばさんにも「朝鮮は流言蜚語の国なのである。」なんて言われるわけで。
増してこの時期だけでも5月13日のエントリー前回のような「逮捕事件」なんかも起きてるわけで。
何もしないでブラブラしてれば、何か怪しい事でもやってんじゃねーと蜚語作説され、あとでどんな災厄に遭うかもしれんから、朝鮮銀行を成立させようとか思ってなかったけど、取りあえずその仕事やることでそういう目には遭わなくて済むしね、と。
んー、大変ですなぁ・・・。(笑)


途中ながら、今日はここまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)  俄館播遷のその後(二十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)



今回の連載の場合、終期が高宗の還宮と決まってますので、終わりの見えない話よりは気分的にかなり楽。
それでも俄館播遷中の一年間に、結構様々な事件が起こってるのねぇと少しビックリ。
ってなわけで、今日最初の史料は、珍しく日本側の史料ではなく『高宗実録』の記事から。
高宗実録建陽元年11月21日。

二十一日 独立協会創建独立門於前迎恩門傍 是日行起工式
独立門
<丶`∀´> < 誇らしい独立門

独立協会は、この年(1896年)の7月に創立され、安駉壽・李完用・金嘉鎭・李允用・金宗漢・權在衡・高永喜・閔商鎬・李采淵・李商在・玄興澤・南宮億等が参加。
協会議長兼会計長に安駉壽、委員長に李完用、委員が金嘉鎮・金宗漢・閔商鎬・李采淵・権在衡・玄興沢・李商在・李根澔だったとされている。
で、この日独立門の起工式が行われた、と。
当ブログを見ている方なら、誰でも迎恩門と独立門に関してはご存じと思われるので、ここでは割愛。

さて、それでは次からは、いつも通りアジア歴史資料センターの史料に移りましょう。
まずは、『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/6 明治29年8月24日から明治30年2月21日(レファレンスコード:B03050313900)』から、1896年(明治29年)11月22日発『電受第701号』。

親衛第3大隊長李根鎔、同第4大隊長徐廷圭、同隊附正尉鄭昌錫外2名、昨夜突然警務庁に捕はる。
右は、国王を明礼宮に擁し、更らに王宮に還御せしめんとの企露顕せしに依るとのこと。
之には、現職及休職武官も多数加はり居る由にて、非職警務官安桓(ビンエイカンハ)出でて警務庁総務局長となり、専ら嫌疑者逮捕に着手中なり。
これが、5月13日のエントリーで「実は、この後11月にも「逮捕事件」と呼ばれる事件がありまして」と述べた逮捕事件。
まぁ、5月20日のエントリーで「右新近衛隊の編制は一に国王の内命に出で、其発表に至る迄で軍部大臣すら之を知らず、余りに唐突専擅の処置なるを以て、軍部内に於ては大臣首の外国顧問官、并に撰抜に洩れたる隊附士官及び兵卒に至る迄一般に不満を抱き、一時は不穏の風評さへ相立候程に有之候。」と報告されていたような事が原因だったりするのかな?

ということで、先にこれに関する詳報を見てみましょう。
1896年(明治29年)11月30日付『機密第95号』を分割しながら。

本月21日逮捕事件に関する報告

本月21日突然起りたる逮捕事件に関する主たる原因は還宮強行にありて、之れには暗殺をも加味したるものの如し。
今当館の探知したる所に拠れば、当日第1着に警務庁に引致せられたる親衛第3大隊長李根鎔(韓圭卨(咼の上にト)従兄弟)、同第4大隊長徐廷圭(韓圭卨(咼の上にト)女壻なりとも云ふ)等2人は、目下京城にある親衛兵の隊長として交々行在所守衛の任務を執り居たるものなり。
此外親衛第1、第2の2大隊は、昨年10月事変の主動者と目せられ、2月11日事変後は兎角内閣の嫌忌する所となり、地方暴徒鎮圧を名とし各所に分遣し、今は殆んど京城に其跡を見ざるに至れり。
去れば第3、第4大隊は、2月11日事変後の編制に成りて、其向きの信用も唯一に此2大隊に存したるや知るべし。
而して、国王は播遷久しきを経るも更に還御の模様なき為め、国民一般の感情は昨今頓に還御熱を高め、之れを促がして止まざる折柄(昨今当国人2、3相会すれば、談必ず還宮問題に渉らざるたしと云ふ)、本月初旬より露国式訓練の王命ありと伝へ、露国士官は右2大隊中より800人を撰抜し、之れが訓練に従事しつつあり。
然るに、此撰に洩れたる数多の兵士等は、当撰者の意気揚々たるに反し頗る失意の境遇に立ち、漸く不平の声を洩すものさへ出て来れり。
今回の逮捕事件、還宮だけではなく暗殺も狙ってたらしい。
まず捕まったのは、親衛隊第3大隊長李根鎔と第4大隊徐廷圭で、いずれも法部大臣韓圭卨(咼の上にト)と関係ある人物、と。

第1大隊と第2大隊は、閔妃殺害事件の主動者と目されて在ロシア公使館朝鮮政府に嫌われ暴徒の鎮圧に使い倒されてる中、俄館播遷後に第3大隊と第4大隊が出来、一応信用されていたようです。
しかし、還宮熱の高まっている最中、第3大隊と第4大隊から近衛兵が選抜された事から、予想通り5月13日のエントリーで見たとおり、選ばれなかった兵士は落胆&不平な状態。
まぁ、朝鮮政府にとっては「じゃあ、どうしろと?」という状態だとは思うけどね。(笑)

於是2大隊長は、之を利用して以て国王を景福宮に還御せしめんと企て、之には多数の休職武官なども暗に気脈を通じたるが如し。
而て事を挙ぐるは、国王明礼宮に出で故王妃の祭典を施行するの日に於てするにありて、即ち本月17日は故王妃の喪を発したる一周年忌に相当するを以て、此日国王明礼宮に出で親祭を執行せらるる時機に於てせんとせしも、何か舛錯する事ありて果さず、次て本月21日国王再び明礼宮に出御する機会を期したるものなりと云ふ。
先是文官中の還御派なるものありて、其主領には議政金炳始を始め、政府内一部の官吏中に計画せられつつありしも、此派は寧ろ穏便なる手段を執らんとするにあるも、之に付隨する所謂躍起連は、意外と激烈手段を執らんとするかの如き形跡を顕はしたるものの如し。
其一例は、去る21日独立公園に於ける独立門定礎式当日、各大臣の式場に臨むの途中、之を要し朴定陽を暗殺(李載純、閔泳煥も亦被殺人に数へられたりとも云ふ)せんと企てたりとか。
而して、予め此隠謀を知りたるは安桓にして、21日朝、書翰を閔泳煥に贈り独立公園に臨むの危険ある所以を述べ勧告する所あり。
之に次ぎて、文官還御派の一人と聞へたる金宗漢の密謀を密告するあり。
尤も宗漢は、其部下なる同派の金在鵬、尹鎮九(密謀共謀者)より事の由を聞き、自家の地位も亦た還御説に因縁あるを以て他日の牽連を恐れ、斯くは逸早く告発に及びたりとも云ふ。
去れば、還宮は文武官の中に互に計画せられたるも、つまり武官派は兵力に拠り目的を貫かんとし、文官派は穏便手段を執り、優柔不断決せざるを以て、末派の徒憤慨に堪へず、武官派に一致し事を挙げんと企てたるものの如く観察せられ候。
そこで李根鎔と徐廷圭は、選抜されずに落胆&不平状態な親衛隊を利用して還宮を果たそうと計画し、これに休職中の武官も乗っかった、と。
この休職中の武官ってのは、2月4日のエントリーで「親衛隊は多く新内閣を信任せず、又た新内閣も之を信ぜざるものの如し。兵卒中、脱退を申込み帰宅するもの多しとの事。」と書かれた、脱退した兵なのかなぁ?
それとも別に居るのかどうか、その辺は多分一生不明なままだと思うけど。(笑)

で、高宗が明礼宮に行ったときに、無理矢理還宮を挙行する計画だったようだ、と。
この強硬策は、文官の間でも5月21日のエントリーで見られたように、一度は俎上に挙がるもののやはり不穏当だということで、閣員一致して還宮を奏請しようという事になったわけです。

しかし、「躍起連」は激烈な手段を執ろうとし、冒頭で述べた独立門の定礎式に出席しようとする途中で、朴定陽と一説では李載純や閔泳煥も暗殺しようと企て、これを知った安桓が閔泳煥にちくった。
或いは、文官還御派とされる金宗漢がこの計画を聞き、保身優先で告発したという説もある、と。

まぁ、強硬策の武官派と穏便策の文官派で還宮方法についての折り合いがつかず、結局末端は「何やってんだよ!」と武官派と一緒に事件を起こしちゃったってとこだろうね、というのが加藤の見解。

目下警務庁に囚禁せらるるもの凡そ8名。
而して之れが鞫審を掌るは安桓にして、右は閔泳煥に手柬を贈りたる結果、必らず本案の顛末に詳なるべしとて泳煥の推撰に出で、国王親しく手書を安桓に下し「汝を復して警務官に任じ、総務局長たらしむと」、安桓旨を奉じ、警務使李鍾健に就き職務執行上に関する打合せを為さんとしたるに、李警務は寝耳に水の感ありて取合はざりしを、桓国王の手書を示すに及んで始めて其請を容れたりと云ふ。
又た、此回疑獄に関しては、韓圭卨(咼の上にト)の一族多く之に関与したる形跡より、韓法部は正しく其首謀者たるべしと推測を下すもの多く、政府部内に於ても多少疑を韓法部の身上に抱くものありて、氏が辞職すべきは当然の勢なるべしと雖ども(已に2回辞表を呈す)、李警務使も亦た韓法部の姻戚(李の娘を韓嫡男に娶はす)柄なるより、李亦た之に干連せざるやの疑は起れり。
為之乎、李は中枢院議官に転ぜられ、度支協辨金在豊は更に警務使に任ぜらる。
抑金の警務使に任ぜられたるは、其実兄金在鵬告発の功に基くものにして、始め国王は在鵬を挙げて警務使たらしめんと御沙汰ありたるも、曾て官辺に経歴なきものをして一躍警務使たらしむるは、序を得たるものにあらずと朴定陽の諫に出て、然らば其実弟なる金在豊こそ曾て警務使として経験あり、適任たるべしとの事に決し、斯く任命せらるるに至りしものなりと云ふ。
被逮捕人は、警務庁の審問に附せられたるより已に10日に垂れんとするも、未だ裁判所に移すの運に至らず。
右は何故如此遷延するやと云ふに、何分罪跡を証すべき証拠備はらずして、動すれば前回の疑獄事件と一般告発人の反坐に帰せざるかの恐れありて、稍躊躇し居るものなりと云ふ。
尤も、被逮捕者の1人なる李根鎔は、偽造詔勅3通(或は2通とも云ふ)を携へ居りて、其中1通は露公使への挨拶、1通は国民に還御を告げ、1通は日本公使に致して保護を依頼する為めのものなりしと伝ふるものあるも、未だ真偽の程詳ならず。
此回逮捕事件の還宮に原因せりと伝ふるや、一般の人気は朝鮮国民の分義として当然なりと称賛し、之に同感を表するが如き傾ありて、当局者も本案の処置には頗る当惑の色ありと云ふ。
右及報告候。
敬具
結局およそ8人が逮捕され、その取調にはちくったとされる安桓があたることになった、と。
無茶だなぁ。(笑)

で、今回の疑獄に関しては韓圭卨(咼の上にト)の一族が多く見られ、韓圭卨(咼の上にト)が首謀者だろうと推測する者も多く、政府部内ですら怪しいと思う者もあって、辞職するのが当然だという空気になってくる、と。
警務使の李鍾健も韓圭卨(咼の上にト)の姻戚であり、疑われて転任させられるなど、人事面でもゴタゴタ。

そんな中、被疑者が逮捕されてから10日たっても裁判に付されないんですね。
何故かと言えば、充分な証拠が揃わず、且つ前回の疑獄事件と一般告発人が偽証・誣告で罰せられる恐れがあって、やや躊躇中。

この辺、良く分からないんですが、前回の逮捕事件の首謀者の1人が李鍾健なのと何か関係あるのかな?
李根鎔は詔勅偽造等の明白な犯罪を犯したとする者も居るが、未だ真偽不明。

一般市民に至っては、今回の事件が還宮を目的としたものだと知ると、「当然だろ」とこの計画を賞讃するような有様で、当局者も今回の事件の処置には非常に困っている、と。
つうか、こんだけ期待を裏切っても高宗を見捨てず、還宮を希望してるんですねぇ・・・。
まぁ、その辺が朝鮮近代史上最大の誤りだと思うわけですが。(笑)


長くなりましたが、今日はこれまで。



俄館播遷のその後(一)  俄館播遷のその後(十一)  俄館播遷のその後(二十一)
俄館播遷のその後(二)  俄館播遷のその後(十二)  俄館播遷のその後(二十二)
俄館播遷のその後(三)  俄館播遷のその後(十三)  俄館播遷のその後(二十三)
俄館播遷のその後(四)  俄館播遷のその後(十四)  俄館播遷のその後(二十四)
俄館播遷のその後(五)  俄館播遷のその後(十五)  俄館播遷のその後(二十五)
俄館播遷のその後(六)  俄館播遷のその後(十六)  俄館播遷のその後(二十六)
俄館播遷のその後(七)  俄館播遷のその後(十七)
俄館播遷のその後(八)  俄館播遷のその後(十八)
俄館播遷のその後(九)  俄館播遷のその後(十九)
俄館播遷のその後(十)  俄館播遷のその後(二十)



電信守備兵の死闘
電信守備兵の死闘(上) ハードカバー版 2,520円
大絶賛発売中ってか?(笑)

さて、そろそろ次の切り分けにうつりそうな、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/8 明治29年3月25日から明治29年11月13日(レファレンスコード:B03050002300)』から、まずは1896年(明治29年)11月6日発『電送第381号』より。

議政府議政金炳始は、再三辞表を呈したる由なれども、実際其職務を執行し居るや、折返し返電ありたし。
前回、高宗の懇請に負けて議政大臣への就任を承諾した筈の金炳始。
2月15日のエントリー等では俄館播遷内閣の総理大臣就任を拒否してるわけですが、今回は一旦議政大臣就任を承諾したため、辞表提出なわけですね。
しかし、朝鮮政府内部的にはどうか知らんが、状況は全く変わってないわけで・・・。(笑)
まぁ、取りあえずこの史料は、再三辞表を提出しているようだけど、実際執務してんの?という大隈重信から加藤増雄への照会。

これに対する返信が、1896年(明治29年)11月6日発『電受第686号』になります。

金議政は、今日迄に2度辞表を呈したるに聞届けられず、此の如く其去就未定なるを以て、実際其職務を執行し居らず。
いや、仕事しとらんよ、と。

まぁ、「またか」なわけで今度は朝鮮政府の対応も早い。(笑)
1896年(明治29年)11月13日発『電送第691号』より。

昨12日、賛政尹容善、議政代理を命ぜ■、李允用農商工部大臣に転じ、閔泳煥軍部大臣に、趙秉稷議政府賛政に任ぜらる。
そういえば、金炳始に俄館播遷内閣の総理大臣就任を蹴られた後、代打で総理大臣になったのも尹容善でしたな。
代打人生か・・・。
なんだか可哀想。(笑)

さて、次の史料からは、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/9 明治29年11月14日から明治30年3月12日(レファレンスコード:B03050002400)』に移って行きます。
まずは、前回の『機密第89号』と一部混じる後日談。
1896年(明治29年)11月14日発『機密第91号』より。

議政金炳始は元老中清廉硬直を以て聞へ、当国人中名望あり。
故に2月事変後の内閣は主として氏を推して総理に任じ、因て以て輿望を繋がんと企たるも、氏は堅く露館の播遷を不可とし其入閣を拒みたるにより、勢止むを得ず尹容善を其後任に推すこととはなれるなり。
嗣て本年9月、内閣官制の改革と共に議政府を復活するに及んで、内閣員は復び氏を議政の任に就かしめんと欲し、国王は特使を派し行在所に召し、優渥なる叡旨を降し其就任を懇諭せられたる結果、氏は恩命止み難く終に一旦議政の任を受くる事とは成りたるも、氏が宿論たる播遷不可説も亦折止する能はず、就任早々左の5條件を提出し強ひて之れが採納を乞ひ、之に依りて進退を決せんとして大に諫争する所ありたり。

一曰従速還御以解衆惑事。
二曰大行王后目封不可遅滞事。
三曰維新後新章程不可■改事。
四曰人材採用事。
五曰親賢臣斥邪人事。

国王は、当今の情勢俄に右5條件を採用し難き事情に就て親しく諭す所ありたるも、氏は自説を固執して頑然動かず、前後9回の疏辞を呈し辞任を乞ふて止まざれば、国王も第9回の批旨に於て無余儀表面病気療養を許し、一時次席者をして議政事務を代理せしむべしと御沙汰ありて、昨12日賛政尹容善は議政事務を署理することとはなれり。
惟ふに金議政は好し国王の優批屡々降るにせよ、到底自説の行はれざれば勿論、又縦令枉げて其職にあるも今日の情勢其職権の行はれざるは勢の免るべからざる所なるを知り、断然辞職の決心を為すものの如し。
内々聞く所によれば、氏は前陳5件の採納を主張するの外、日本との交際も亦此際益親密を旨とし、殊に京釜鉄道事件の如き当国に於て條約上当然許可すべき義務に属するものは速に之を許可する等、昨今彼我両国間に蟠る所の悪感情は、努めて之を除却するの方法を講ぜざるべからずとの意見を抱き、屡々御前に諫争したるやに相聞へ候。
金議政疏■相添へ、此段及報告候。
敬具
別添とされている金炳始の5条件については省略。

ってことで、単純に高宗の懇請に負けたってわけじゃないのね。
還宮を初めとする5つの条件を出して、これが受け入れられるかどうかで進退を決める、と。
まぁ、この金炳始の一貫した姿勢ってのは嫌いじゃありませんが、一つ突っ込むとすれば就任前にやっとけよ。(笑)

高宗はこの5条件に対して、今の状勢では採用するの難しいんだよぉと諭してみますが金炳始は聞きいれず。
『電受第686号』では2回と書かれていた辞表提出も実は前後9回にも及び、9回目の辞表提出を受けて、高宗は表向き病気療養を許すという事にして、ピンチヒッター尹容善に議政事務を代理させる事にしたわけですね。

で、加藤が見るところでは、金炳始は自説が行われない場合は勿論、例え自説を曲げて議政職に就いても、今日の状勢では議政の職権を行使できないだろうと、断然辞職を決心しているようだ、と。
そして、前回の『機密第89号』でも話があったとおり、京釜鉄道問題を初めとして日本との交際も親密を以て是としているようで、高宗に度々諫争しているようだって事ですな。

まぁ、この機密電の直後の11月17日、朝鮮政府の財政に余裕が無く用地買収ができないので、今後1年間はどの国の者にも鉄道敷設の特許を与えないという詔勅が出るわけで。(笑)
金炳始の見込み、正解。


今日はこれまで。



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