2月も今日でおしまい。
このブログの整理も、アジア歴史資料センターで拾った史料の整理も、中々つかないなぁ・・・。
前後とか考えずに片っ端から公開して、ブログだけ整理すれば良いのか?(笑)
などと思ってしまう年度末。

それじゃあ、本編へ。
鶏林奨業団に関するハッキリとした設立に関する史料は、もちろん公的機関では無いため見つからないわけですが、その背景についてはこれまで説明してきました。
で、私が探し出せた史料のうち鶏林奨業団の名が出てくる最初のものは、仁川領事館事務代理の萩原守一から、この時小村の帰京に伴って臨時代理公使となった加藤増雄への、1896年(明治29年)6月24日付『機密第9号』ということになります。
これも、今回は該当部分の提示に止めておきます。

 (前略)

六.忠清江原2道及慶尚道北部を除く外一般に行商の禁を解く
前報既に陳述せる如く、一般に行商を特に領事に於て不穏と信ずる箇所に限り行商を差止むる件は、本月5日附を以て加藤代理公使に及稟議置きたるに、同使盡力の結果として本月17日附忠清江原の全部及慶尚の北部を除く外、稟議の通り行商解禁の通告あり。
早くも当地鶏林奨業団員は旅券の請求書を提出したり。

七.鶏林奨業団員の盛況并に行商取締上の便宜
鶏林奨業団は、創立以来漸次団員を増加し現在員303人に達し、外に京城より入団申込も未だ入団手続を了へざる者数十名あり。
該総員の内訳は、平壌行商中の者63人、開城同15人、釜山現住員5人、当港現住の者220人なり。
又、同団は過日来其主意目的を発表し団資金醵集中の処、当港のみにて集金するもの1,000円に達し、愈規約遂行の運に達せるものの如し。
又、過日軍艦愛宕に便乗して平壌地方へ出張せしめたる当館附巡査の報告に依れば、行商人の取締頗る行届き、公務上便宜少からざる趣なり。
其他行商地方の情況・商況等、同団員の本部に対する通信は、直接に当館の参考となるもの尠からず、当館に於ては大に便宜を得る次第なり。

八.平壌出張巡査の書信摘要
平壌出張のため軍艦愛宕に便乗せる当館巡査3名は、去る7日黄海道安浦に上陸し、同所より水路平壌に着したるは翌8日なりし。
愛宕艦は該地着の前後、乗組軍医長自殺を企てたるを以て予ての希望たりし平壌視察を遂ぐる能はず、直に抜錨。
佐世保に向て回航せり。(本月21日同艦長より無事呉軍港に入り、4、5日間を以て船体修復を終える旨本官へ報知ありたり)
該一行は、入壌の翌日府庁へ到り、土田譲亮加害者捜索の有無を尋ねたるに、20日前該件に関し外部より通牒ありたるに付、直に管轄官庁たる海州府へ移牒したる旨を答へたりと。
然らば、該件は去る4月4日外部大臣より当国政府に於て其捜索方を担任し、相当の命令を当該地方官に通牒す可き旨を承認せる以来、満2ケ月を空過せるものと云はざる可らず。
韓政府が重要事件の処分を遅行する事、驚くに堪へたり。
猶ほ該一行は在留行商者の視察を了へ、越て14日に至り平壌府巡検5名を率ひて海州府へ向て出発すと云ふ。
其後の模様は、後報を待て報告す可し。
又、別報に依れば本月14日夜、平壌廓外牧丹臺に於て、無頼の貧民200余人集合し、相均しく強賊を行はん事を協議せる事を鎮衛隊の偵知する所となり、直に同隊に於て之を追崩し、内60余名を逮捕したりと。

 (後略)
さて、まずは六。
忠清道・江原道の全部と慶尚道の北部を除いて、行商が許可された、と。
これに対して、鶏林奨業団は旅券の申請を行ったとされているわけですが、仁川に既に居るにも係わらず旅券って、何だろう?




続いて七。
前回の文一民の『韓国独立運動史1』で、4月の組織成立時には会員219人とされていましが、6月24日には303人になっていたようで。

で。
「其他行商地方の情況・商況等、同団員の本部に対する通信は、直接に当館の参考となるもの尠からず、当館に於ては大に便宜を得る次第なり。」
これがもしかして韓国人の言うスパイなのだろうか。
韓国に於ける褓負商と同様に、行商人の持つ現地の情報ってのは当然参考になるわけで、所謂諜報員とは違うわけなんですがねぇ・・・。

八は余談。(笑)

さて、続いても萩原在仁川領事館事務代理から、今度は7月7日に赴任した特命全権公使原敬への 1896年(明治29年)8月25日付『京第37号』より、これまた部分抜粋。



 (前略)

二.平壌民情協議
平壌地方韓人の意向一変し、我商民不安の情ある事は前報具申せる所なるが、爾後該地方よりの報告に拠れば、曩に帰京を命ぜられたる鎮衛隊将校は為に来壌を命ぜられたるに、我巡査の通行あるとに依り、民情安静の好結果を得るに至れるものの如し。
本月14日、平壌へ出張したる当館附巡査芝沼一則、天野健蔵の2人は16日着壌。
又京城より出張したる巡査2名は同17日着壌したり。
客月31日、平安道寧辺より雲山に至る途中に於て、我商浦濱安太郎なる者一韓人の暴挙に拠りて負傷したるを以て、■平壌鶏林奨業団支部は朝鮮巡検2名を供ひ、団員1名を雲山郡に出張しめたり。

 (中略)

七.(5行不明)
請求し置きたる件は、予て報ずる所ありたるが、右金昌洙及関係者李化浦は本月13日到仁せり。
監理来往の後日を期して、立会裁判を開始の期約あるを以て、裁判の結果は後日報告すべし。

 (中略)

九.鶏林奨業団の拡張
同団は、当地に創設せられて以来日に盛大に趣き、目下団員600余名に達し、基本金亦漸次増加の好況を呈するに至れり。
過般来、京城、釜山、元山等に於て支部設置の計画をなしつつありしが、京城并に釜山に於ける支部は、既に成立の運に至りたれば、近日更に団員を元山に向け派遣せしにも都合よく、当国内地行商邦民にして愈々3港1市共一致の統轄の下に営業するに至りなば、商況上并に取締上著大の好果ある可きを信ず。

 (後略)
さて、まずは二。
浦濱安太郎が韓国人1名によって負傷させられた事から、平壌の鶏林奨業団支部は朝鮮巡検2名と共に団員1名を派遣、と。

続いて七。
この話が、2月23日のエントリーのように仁川港警務官による取り調べと、日本領事館警部の神谷清の立ち会いに繋がっていくんだろうな、と。
前段が不明なのは少々もったいないけど。

で、八。
4月の組織成立時には会員219人、6月24日には303人で、8月25日には600余人。
順調に増加してますね。

さて、この後も、風説の流布で厳重注意されたりするわけなんだけど、そっちはまだ史料未入手。
じゃあ、結局鶏林奨業団って何なのよ?という史料を次回紹介して、鶏林奨業団に関する連載は一旦終わっておこうと思います。


今日はこれまで。



鶏林奨業団(一)
鶏林奨業団(二)


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孤藍居士氏くらいしか見ないんじゃないかと思う、今回の連載。(笑)
まぁ私個人も、李朝末期の日本人の活動を見る上では中々面白いと思う。
じゃなきゃ書かないし。(笑)

本題に入る前に、前回の文一民の『韓国独立運動史1』によれば、1896年04月に「義兵運動で仁川に撤収した日本人商人、武装行商団体である鶏林奨業団組職(会員219人)」という記述もあるようです。
日付不明なわけですが、恐らく前回の報告のあった4月8日前後に組織され、5月17日に結団式が行われたと考えるのが妥当なのかな?
まぁ、いずれにしても土田譲亮が参加するのは、無理なわけですが。

さて。
前回は鶏林奨業団の結成に至る、時代背景に関して史料を見たわけですが、その続き。
今日も『駐韓日本公使館記録10』より、仁川領事館事務代理の萩原守一から在京城弁理公使小村寿太郎への、1896年4月16日付の電文を見てみましょう。

内地より引揚げたる商人、昨今次第に糊口に窮し、再び内地へ入込むことを願ひ出づる者多し。
右の内、目的地方猶ほ不穏にして、且つ自衛の道に乏しき向は一般に差止め居れども、多数の者共一所に集りて、平穏地方に於て一事業に従事する向、例へば沈没船引上げの如きは、差許し然るべきや差懸りたる事件有之に付、折返し至急御指揮を乞ふ。
まぁ、商売できないわけなんで、食うに困るのは当然。
で、小村の返事。

内地は目下平穏なりと称する地方も危険少からざるにより、今暫く内地入込は許さざる意見なり。
付ては、多人数一所に集りて入込む者も、当分差止められたし。
併し、目的地方毫も危険なしとの目当確なる以上は、御許しありても差支なし。
小村は、在朝鮮の日本人の生命保護を第一に考えてるわけで、当然このような返答になる、と。
ただ、商売できなくなっている現状と比すと、悩み所でしょうね。

で、萩原仁川領事館事務代理からの1896年4月18日付の仁川に関する状況報告の中で、関連する報告がなされます。
アジア歴史資料センターの『密大日記 明治29年/外務省 朝鮮仁川港情況の報告(レファレンスコード:C03023073700)』から、今回は該当部分を見てみましょう。

第八.引揚行商者の困難并に救済計画
這般の暴民蜂起の結果として、当地に引上げたる内地行商者は無慮200余名に達し、彼等は商品買入の為めに費したる資力の全部、又は一部の損失に属したると、当地不景気の為め引揚後糊口の業なきと、及び引揚後主食の費用層まるとの原因よりして、日を経て次第に困窮に陥らんとするを以て、或は自身に、或は委員を撰定して本官に面談を乞ひ、頻に損害の賠償急行を促し、甚敷は、粗暴の言行を用ゆるものあり。
本官は繁を厭はずして、公務差支なき限は一々之に面接して陳情を聞き、一面には損害賠償の急行望む可らざるを懇諭し、一面には百折不撓の勇気を以て行商を再行し、商権を回復することの急務を説諭し、猶ほ後来行商の安全策に就ては、可出来丈助力を与ふ可きを約したるを以て、彼等は目下不自由を忍んで平穏に本官の命を待ち居れり。
而して、本官は別に彼等の中に就き慧敏なる4、5輩の委員を選定せしめて、商業会議所並に当地貿易商の主なる者等と協議せしめ、善後策の講究を奨励し居れり。
其善後策の一として目下殆んど完成の域に達せるものは、彼等遭難者が互に一箇団体の下に行商し、傍ら自衛の途を鞏固にして、危急の用に供せんとする方法にあり。
此方法にして、商業会議所等の賛成を得て本官に達するに至らば、本官は更に公使に稟議して其結果更に上申する所あらんとす。


内地行商者が引揚げ後困窮しているのは前述のとおり。
そうした中で、仁川の萩原領事館事務代理は、内地行商者の中で4、5人の委員を選定させ、商業会議所と仁川の貿易商の間で、善後策の研究を奨励。
その中で、「彼等遭難者が互に一箇団体の下に行商し、傍ら自衛の途を鞏固にして、危急の用に供せんとする方法」が、今のところ殆んど完成の域に達している、と。

これが恐らく、鶏林奨業団となるんじゃないかな?
つまり、4月18日現在で、団体として形成途中(ほぼ完成)な状態。

まぁ、具体的な中身や公使との稟議が行われたかどうかすら、まだ史料を見つけられてないんで、分かんないわけですが。
つうか、外務省の史料なのに陸軍から拾ってくるような現状は、何とかして欲しいなぁ。(笑)

さて、翌月に入り再び萩原は電文を小村に送ります。
1896年5月11日付の電文。

去る8日、機密第6号を以て上申し、且つ昨10日附公第10号を以て報告したる如く、平壌地方は実際平穏にして、今後行商人を出発せしむるも危険なきものと信ぜらるるのみならず、支那人20名、西洋人5名は現に同地に滞在し居る趣に付、我行商人の出発は一日も速に差許されたし。
何分の御電訓を乞ふ。
清国人20名と西洋人5名が居るから日本人も安全だと考えるっつうのは、どうなんでしょ?(笑)
で、これに対する小村の答え。

平壌地方へ行商差許の件は目下朝鮮政府と交渉中に付、是を此方より何分の儀申進すべし。
この時期の外部大臣も李完用で良いのかな?

で、流石に小村。
「浪人」、我々の言う「壮士」の取り締まりや無断渡航禁止などで忙しい最中、ちゃんと手は打ってあるわけで。
その結果が、1896年5月14日付の小村から萩原への電文である。

平壌及其附近への我行商者に対し充分の保護を与ふべき旨、平壌観察使へ訓令あり度儀、朝鮮政府に要求し、遂に許諾を得たり。
就ては、先右地方に限り行商認許せられ差支なし。
但し、行商者へは左の件篤と御内諭相成置かれ度し。

一.條約違反の嫌ある事は、一切之を避くる事。
一.自ら朝鮮人に対し事端を啓く如き行為、決して無之事。

右申進す。
平壌観察使に、日本人の行商人に対して充分保護を与えるべき旨の訓令を出す事を朝鮮政府が許諾し、ここでようやく平壌方面での行商が認められたわけです。

その2日後の5月16日。
平壌に続いて、開城での行商も許可されます。

開城及其附近への行商は、平壌と同様の必得を以て許可相成差支なし。
尤も、同府への陸路は聊か危険の虞あるに付、特に注意を加ふる様、御説示相成度し。
こうして、平壌及び開城での行商が許可。
5月17日に鶏林奨業団の結団式が行われたというのは、月日から見て恐らくこの2つの行商が認められた事に伴うものだと考えられますね。


今日はこれまで。



鶏林奨業団(一)


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昨日はパソコンの調子が悪く、記事書いてる最中に3度ほど電源が落ちた挙げ句に、ファイルが無くなったりもう大変。
そんなわけで、更新できなかったり。
つうことで、本題。

土田譲亮に関しては、2月23日のエントリー等で取り上げてきました。
その中で、韓国側から土田は鶏林奨業団という半官半民の組織の一員だという主張があったようで。
尤も、この件に関しては孤藍居士氏が、御自身のブログ、「孤藍居士の中央歴史語言工作室」において既に否定的見解を述べられています。

それによると、元々この話は都珍淳訳の『白凡逸志』のうち、初版(1997年)の98頁の注釈に書かれていたようで。

日本外務省資料によると、土田は長崎件対馬島厳原の商人で、当時鶏林奨業団に属していた。
鶏林奨業団は日本人たちの朝鮮進出を奨励して、朝鮮の農・商・工経済動向と兵力など軍事動向を探知する団体で、日本役人たちの積極的庇護を受けた。

(注:機械語翻訳。誤訳等修正)
しかしこの注釈、2002年の改訂版では変更が加えられていたようです。

日本外務省資料によると、土田は長崎県対馬島厳原の商人で、1895年10月鎮南浦に到着した後、11月4日黄海道黄株(州?)に行って活動したし、1896年3月7日鎮南浦に帰還した道だった。
この改訂版の記述は、2月21日のエントリーの1896年(明治29年)4月6日付『公第68号』の記述中の「商用の為め客年10月より鎮南浦に至り、後11月4日更に転じて黄州に在りしも、3月7日同地を発して帰仁の途次、終に此厄に罹りしものなりと云ふ。」と同じ。

初版の注釈が、何に基づいて書かれたのかは不明なようですが、版の違いに気付くあたり孤藍居士氏もただ者ではないな、と。
流石に、ENJOY Koreaにおいて、danbokk(khdx)を「同胞として責任をもって始末するように( ´H`)y-~~」と言われて、「同胞って言うな!全く。。」と憤るだけの事はある。(笑)

さて、この鶏林奨業団。
実はググッても、当ブログの過去記事でしか引っかからないような、マイナーな団体なわけですが、どのような団体なのか興味があって少々調べてみました。

文一民の『韓国独立運動史1』によれば、1896年05月22日に「日本商人の武装行商団体鶏林奨業団、日本領事の許可を得」とされています。
残念ながら、これが何の史料に依拠しているのか、或いは何に対する許可なのかは不明。
しかしながら、『東京経済雑誌(第854号)』(1896年・明治29年12月5日発兌)によれば、鶏林奨業団について「其結團式を擧げたるは本年五月十七日」とされており、取りあえず活動が表面化したのは1896年5月で間違いでしょう。

まずは背景から。
この時期の半島情勢は、俄館播遷に伴う無政府状態であることは連載中で述べました。
その為、当時の在朝鮮公使の小村寿太郎は、1月26日のエントリー2月11日のエントリーに見られるように、開城や平壌等における引き揚げの上に、日本人の内地旅行も止めるように諭達を出してるわけです。
但し、平壌に関しては引き揚げた旨の報告は見つけ出せていません。

勿論、この時土田譲亮は、「商用の為め客年10月より鎮南浦に至り、後11月4日更に転じて黄州に在りしも、3月7日同地を発して帰仁の途次」ですので、恐らく引き揚げの話や内地旅行差し止めの諭達を知らないか、どこかで聞きつけて戻る途中だったのでしょう。

さて、彼等の多くは商人ですので、当然行商もできずに仁川で保護されっぱなしだと、商売あがったりなわけです。
そのため、4月8日には早くも次のような報告が為される、と。
『駐韓日本公使館記録10』より、仁川領事館事務代理の萩原守一から在京城弁理公使小村寿太郎への、1896年4月8日付『機密第3号』。
長いので、分割しながら。

本年2月11日事変以来、当港商況に関して屡々稟議仕り候得共、猶ほ黙々に附するに不忍もの有之旁、当居留民会より請願の次第も有之候に付、今回更に別紙の通り外務大臣へ稟議仕り候間、閣下の御参考迄に別冊奉呈任り候。
此段申進候。

敬具


当港の商況回復に係はる稟議

暴民の蜂起が、本港の商況に及ぼせる影響竝に、後来我商権の衰微に向ふ可き患に就ては、客月19日附機密10号を以て及具申候処、爾来日を追つて温暖に向ひ、北方沿岸の結氷全く溶解するの時季に向ひ候得共、当港の商況は更に回復の徴を見ず。
然るに、曩に当国北部測量の為め義州地方に出張せる、中川歩兵大尉の談話に由れば、増我商権の前途を憂へざるを得ざるに至候。
則ち本年1月以来、鴨緑江東岸10里内外の朝鮮領土内には、袁世凱の麾下に属する支那騎兵約3,000人、鴨緑江河畔方山鎮を本拠とし、袁某(世凱の縁者)の統轄の下に橫行奪掠して庶民堵に安ぜず、我測量技手中彼等の暴行に遭ひたる者少なからず。
而して支那商民は、彼等の後援を得て金巾其他の貨物を、自国より密輸入の低価を以て売捌くが故に、是等の物品は仁川附近の売価よりも数倍の低価を以て求め得可しと。
又平安道各地の韓民は、斬髪令の強行を受け来て日本人の意見を叩くの際、往々斬髪の厭ふべきよりも、斬髮を行ひたる後、清国政府より厳罰を蒙るの恐る可き旨を告ぐるもの多かりしと。
以上の事実は全く暴民蜂起の結果にあらずして、韓国政府の微弱なる為め王化の彼辺に及ばざると、該地方は清国国境に近接するとに基く現像なれども、暴民の蜂起が増王化の普及を杜絶して、清国の勢力商権を国境に固むるに至る可きは、疑ふ可らざる推定に御座候。

以上、辺境に於ける支那勢力の再萌と共に、内地各処に於て日本行商人引揚の虚を窺ひ、支那商人の内地に出発するもの夥し。
現に平壌に引揚の際、巡査等の目撃したる処に拠れば、支那商人6、7名許多の商品を携へて、帆船に乗じて大同江を遡れりと。
其他当港に在留せる支那商人の、頃日内地に旅行するもの多しとの風聞あり旁、支那商人が此時機に乗じ、衰勢を挽回せん事に汲々たるは疑ふ可らざる事実なるのみならず、現時の状態永続するときは、彼等の企図が実地に成功す可きは疑ふ可らざる次第に御座候。
結局、暴徒のみならず、清国の騎兵も北方から押し寄せ、朝鮮領内で掠奪したりしているわけで。
おまけに、断髪に関しても断髪そのものを嫌がるというか、断髪したら清国政府から厳罰を受けるのが恐ろしいと言うものも多いとされている。
で、俄館播遷で無政府状態というのもあるのでしょうが、朝鮮政府は中央集権というよりも中央にしか王権が及ばない状態のため、国境付近では清国の勢力が浸透し、日本商人が引き揚げた隙に内地にまで影響力を拡大しようとしている、と。

まぁ、鵜呑みにするわけではありませんが、混沌としている事及び清国商人が浸透してきている事は事実でしょうなぁ・・・。

他方に於て、今回の暴民が主意とする所は、前回の機密信中既に略述致候如く、日本人は国母の讐にして斬髮令の煽動者なるが故に、日本人は手に応じて之を誅戮し、及び日本人と交際し、日本風を倣ひ、日本人と取引する者は、韓人と雖ども首足を分つにあるが故に、全然日本排斥の運動と称せざるを得ず、本報告に附する所の檄文は北部暴徒の巨魁の手に成るものにして、尊中華の一句は此檄文の特色なれども、国母の讐勒剃の張本者を以て日本人を目するに於て、他一般と異なる所なし。
而して是等暴民の巨魁たり従唱者たるものは、各地に於ける先覚者にして普通民の牛耳を執るものなる故に、国民を煽動するに於て最も容易にして彼等の主唱する所は、至大の勢力を以て伝播し、排日本の主義は各道至る所に根帯を培義致候。
是を以て、刻下の急務たる我商権の回復に関しては、只に暴徒の鎮定を以て十分なりとす可らず、進で直接間接に韓国民一般に対し日本国の勢力を張る事を要すと信候。
イルパ(親日派)が弾圧されるのは、今に始まった話じゃないってことで。(笑)

で、この前段でもそうですし、東学党の乱の時にも居るわけですが、「尊中華」と。
同じ事をしても、中国人はオッケーで日本人は駄目というのは、儘見られる現象。
恐らくは儒生なんでしょうが。

今回の暴徒は、前顕の如く誇大なる檄文を頒布し、烏合の大衆を以て排日本の主義を揚言すると雖ども、一昨年日清戦争以来、韓民一体に日本人の強勇を知るが故に、日本人10人以上整然進退をなすときは、容易に近き能はざるの風あり。
故に、内地行商者の如き各箇単独に内地に散在する者は、速に引上げの方針を取るを宜しとすれども、多数の日本人団結して内地の良市に在留し、其勢充分暴民に当るに足るもの、例ば平壌在留地の如きに於ては可成引上の方針に出でず、警察官或は兵士の保護を加ヘテ出来可くは永く在留続けて、一方には我国民の優勢を実顕し、他方には我商既得の利益を保全する事最良の策と存候。
蓋し、居留地10韓里以外に在住営業する事は條約の認許せざる処なるが故に、是等の日本人を保護する為め警官兵士を派遣する聊か僭越の嫌なきにあらずと雖ども、抑も我商民が平壌其他内地の首府に在住営業する事は、日清戦争以来今日に至る迄、韓政府地方官衙之を拒絶せざるのみならず、地方庁軍営等は日本商人を用達として其需用を供給せしむる有様なれば、未だ韓政府より彼等の在住を拒むの通牒に接せず、且暴民の襲撃旦夕に迫るにあらざるに当り、一朝巨大の財物を放擲して引上を急行するは、甚だ遺憾なしと云ふ可らず。
而して平壌引揚の結果は、今日に於て之を実験すれば只に当港商況の衰運に加効するのみならず、朝鮮人一般をして日本人軽侮の念を増益せしむるに至れり。
此の他、在留民直接に受けたる損害も亦巨大なるものなる可し。

以上、内地に於ける日本人の被害の外に、沿海に於ける漁業者の蒙る可き損害は事未顕に属するを以て、殊に後来の注意を惹くものあり。
で、日清戦争の結果として、日本人が10人くらいで整然としていれば、あまり暴徒も近寄ってこない、と。
恐らくは、この考え方から鶏林奨業団に発展していくものと推測。

つうか、居住地なり商行為なり、日本とは関係ない話ですけど宣教なりは、条約上はどうなってんだろ?
官憲が何も言ってこないってことは、どっかで合意されてんのかな?

抑も当国全羅・慶尚・咸鏡・江原4道の沿海漁業は、日本人の従来専有する所にして、依て得たる収益は年々巨大の額に上れり。
而して毎年4月中旬或は5月上旬よりは、本邦人の当国に出漁するの好期なれども、暴徒蜂起の結果は沿海各地の民心を一変したるが故に、刻下の有様にては本邦の漁民は、仮令勇を鼓して冒険出漁するも、沿海各地に顧客なく、毎獲之を本邦に輸送して販路を求め、薪水の欠乏ある毎に必ず之を内地又は遠隔の開港場に需めざる可らず、是れ実際至大の不便なる故に、是の有様継続する限は、沿海漁業は一般に沮却せらるるものと予想せざる可らず。

以上、要するに暴徒の蜂起は海陸に於ける我商権の大障害にして、其目的たる日本人排斥運動は鞏固なる根帯を形成しつつある故に、今後此の暴徒に対する処分は、単に暴民慰撫の消極的行為に止まらず、追て日本人に対する妄誕虚構を滌雪する等、積極的の運動を採らざる可らずと信じ候。
今誠に実際の事跡より考察したる卑見を陳ぶれば、

第一.暴徒に対する韓政府の処置を厳重ならしめ、速に鎮定の効績を挙げ、巨魁者を厳刑に処す可し。
第二.暴民襲撃の際、日本行商者に対し可出来保護を与へず、或は日本人の遭灘者あるときは、速に報告をなす事を怠る地方官を厳罰する事。
第三.宣諭使宣諭の條項として、日本人は国母弑殺の張本人にあらず、又断髮令の煽動者にあらざる事、及び日本人敵視の所策を厳禁する旨ヲを諭せしめ、且之を各地の要処に貼示して、僻遠の人民に至る迄徹底せしむ可し。
第四.日本人の蒙れる損害は、速に賠償せしめ、猶ほ人民暴挙の結果至大なる事を各道人民に示すべし。
第五.軍艦数艘を派遣して遽次に沿海通航をなし、沿海漁業者を保護し、且我国力を示され度し。
で、漁業に関しては暴徒の影響で、これまた立ちゆかなくなりつつある、と。

こうした背景が、鶏林奨業団の結成過程として重要だと思われます。


とりあえず、今日はここまで。



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宗主権


Σ (゚Д゚;)

いつの間にか、DjVuのバージョンが上がって6.0.1になってる!
つうか、俺のバージョン4.5.0だったよ・・・。_| ̄|○
最近、アジ歴見てると固まったり、やたら遅かったりしたのは、このせいかと思って早速バージョンアップ。

・・・。
新しいGUI、使いづれぇ~。(笑)
まぁ、使いづらくても新しくしたい人は、こちらから。 → 【DjVu ブラウザプラグイン】

さて本題。
宗主権。
「他国の内政・外交などを支配・管理する権能。植民地などが独立する過程で、本国がその植民地に対してもつ例が多い。」(大辞泉より)。

で、今日取り上げるのは何よ?と言えば、日清戦争の話。

日清戦争の宗主権云々と言えば、1895年の下関条約第一条「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし」を以て、日本は朝鮮に対する清国の宗主権を排除して植民地的支配をもくろんだとか、朝鮮は清国の属国だったとか言われるわけです。
で、実はこの下関条約の第一条ってのは、もっと直接的な話なのよってのが今回の話。

東学党の乱を1885年の甲申事変を切っ掛けとして結ばれた天津条約第三款、「将来朝鮮国若し変乱重大事件ありて日中両国或は一国兵を派するを要する時は応に先つ互に行文知照すべし。其事定まるに及ては仍即ち撤回し再び留防せず」、つまり、半島に出兵するときには互いに通知するという項目に従い、日清両国が通知を行うわけですが、その清国側の文章が問題とされたわけです。
まぁ、見た方が早いね。

通告1
通告2
(クリックで拡大)

大清欽差出使日本國大臣汪

  照會事項准我
  北洋大臣李 電開■(木の下に旦)光緒十一年中日議定專
  條内云將來朝鮮若有變亂事件中國要派兵應
  先行文知照事定仍即撤回不再留防等語本大
  臣今接朝鮮政府文開全羅道所轄民習凶悍附
  串東學教匪聚衆攻陷縣邑又北竄陷全州前遣
  練軍往剿失利■(イ+尚)滋蔓日久胎憂於上國者尤多
  ■(木の下に旦)壬午甲申敝邦両次内亂咸賴
 中朝兵士代為勘定茲援案懇請酌遣數速來代
  剿俟悍匪挫殄即請撤回不敢續請留防致天兵
  久勞於外等語本大臣覽其情詞迫切且派兵援
  助乃我
 朝保護屬邦舊例用是奏奉
諭旨派令直隸提督葉選帶勁旅星馳往朝鮮全羅忠
  清一帶相機堵剿剋期撲滅務使屬境乂安各國
  在韓境通商者皆得各安生業一俟事竣仍即撤
  回不再留防合亟照約行文知照為此電請貴大
  臣速即備文照會
  日本外務省■(木の下に旦)照等■到本大臣准此相應備文
  照會
  貴大臣■(木の下に旦)照可也須至照會者
  右   照   會

大日本國外務大臣陸奥
この「保護属邦」ですね。
属国かよ、と。

つまり、下関条約の第一条や昨年の5月18日に取り上げた日朝盟約の第一条「此盟約は、清兵を朝鮮國の境外に撤退せしめ、朝鮮國の独立自主を鞏固にし、日朝両國の利益を増進するを以て目的とす。」というのは、伊達ではないんですね。

まぁ、これが発端となって、「商民水陸貿易章程」の破棄等の交渉に話が進み、日清戦争へと突入していくわけですが、それはまた別の機会に。


頭イタイので、今日はこの辺で。



金九は誰を殺したか(三)

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孤藍居士氏からコメントをいただいたので、何となくエントリー。
彼が提示してくれたのは、『独立運動史資料集11/義烈闘争史資料集』(らしい)。
国家報勲処かよ!というツッコミは置いておいて、内容を少し見てみましょう。

但し、申し訳ないですが機械語翻訳(句読点・誤訳等若干修正)。

http://e-gonghun.mpva.go.kr/portal/html/book/book_xml_view.jsp?lm_sHisCode=PV_DJ&lm_sBookCode=A011&lm_sItemCode=2.1.0.0&rid=ID2.1.0.0

義挙顛末

[故経文で] この資料は、1896年(建陽元年)9月から1942年に至るまでの抗日義挙闘士たちを、日帝が検挙した後取調した記録たちだ。
その中に’土田譲亮撃殺でもツィゾムン’万敵方記録ではないのだ。
敵方記録ではないと夏期よりも、敵方圧力に押された旧韓国末法院の記録であることだ。
この資料に出る金九・安重根・姜宇奎・郭在驥・朴治毅・朴載赫・金祉燮などの名前はあまりにもよく知られていて、その外の医者さんたちが行った義挙も当時の世の中を大きく驚かした事実たちだ。
国を奪われたが息をつく間もなしに、こちらあちらで噴き出した医者さんたちの義挙が今日に来て新しく私たちの胸を響いてくれている。(編集者注)
んー、俄館播遷中でも韓末の法院は、日本の圧力を受けていたらしい。(笑)
まぁ、よし。

土田譲亮撃殺でもツィゾムン

ヘズゴ金昌洙 当年21歳

初招

[門]
君の行った事は、もう李化甫が明白に告げた事があるから、ありのまま言いなさい。
[答]
私が今年正月24日、竜崗から安岳に行った途中に、平壌人鄭一明と咸境道定平人金長孫と金致亨に会って、同じ船に乗って鴟河浦に来て店主李化甫を尋ねて夕飯を食べてその所に泊まった。
明くる日、明るい夜明けに朝飯を終えて旅に出ようと思ったが、店幕の法道が旅人に食膳を与える時、老少を分別してその回を当然に守らなければならないのに、お客さんの中におかっぱをして刀をさした受賞した人が食膳を先に要求すると、女店員がその人に先に食膳を与えるので心で甚だしく憤慨した。
それでその人の根本を調べると日本人なので、不共戴天之讎と考えになると胸の血が走った。
そういう時、その日本人がわき目をふっているすきに乗じて足で車倒して、手でぶっ殺して氷が凍った川に捨てた。
そうしてお供した三人の人は、少しの現金を持って来て店主に8百金を任せて、その外のお金は〔小判に推測される-訳者株〕三人の人の老子に使う事にした。
そして本人は、日本人の環刀を奪取して、ろ馬一匹を七十ダソッニャングで四書単騎で載寧で向かってから、同年3月に家に帰って来てから海州巡使に逮捕してここに至るようになったのだ。

建陽元年8月31日
仁川港警務官 金順根
罪人 金昌洙
この金昌洙が、金九の別名というか旧名とされてます。
「その人の根本を調べると日本人なので」って、どうやって調べたんだろう?
つうか、その前に土田の配膳の順番が先になったくらいで、甚だしく憤慨しなくても・・・。(笑)

で、「小判に推測される-訳者株」ということは、当然原文は漢文であったものを、ハングルに直しているためと考えられます。

再招

[問]
君は、同当たり何人と李化甫の家で一緒に留接している途中、日本人を殺したのか?
[答]
初めて平壌南門の外で初面人常民三人の人に会って、お供して李化甫の家で一緒に夜が明けている途中、日本人を殺す時彼ら三人の人は逃げた。
[問]
君は、同行三人の人と李化甫の家に到着して、君が言った言葉の中同当たり何百人がすぐ後に従って到着するはずだから、草履などの物品をあらかじめ準備しなさいと言ったと言うのに、これは同当たりがあることを意図しないか?
[答]
当時は、各所に盗賊たちが一揆することにそんな虚勢を張ることで、店主を眩するようにしようとしていたのだ。
[問]
君は日本人を殺した後、義兵と自称して日本人が梨に持っていた金品を奪取したから、それは彼が船の中にお金を持っていることをあらかじめ分かって、財物を貪って日本人を殺したのではないか?
住み次第にところで言いなさい。
[答]
日本人を殺した後、彼の舟にお金があるというのを初めて分かって、同行三人の人と一緒に舟の中に入って行って現金を持って来た。
[問]
持って来たお金が何両もなって、何に使おうと思ったことか?
[答]
金額量はよく分からなく、同行人の老子でオルマンがを酒庫、ろ馬一匹を小判七十ダソッニャングに四書乗って来たので、おおよそ全額は小判バックニャングほどで分かる。
[問]
君は初めて公述で、8バックニャングを李化甫の家に任せたと言ったが、今来ては小判バックニャングだけだと言ったら一体どうなったわけなのか住み次第にところで言いなさい。
[答]
初めて公述は急に思い出さなくて過ち言ったが、もう詳らかに考えて見たら8バックニャングを任せた事実はなくて、同行三人の人のNozawaろ馬一匹値段イルフンダソッニャングだけだった。
[問]
日本人をぶっ殺す時に使った凶器は何であり、同行三人の人も一緒に協力したのか?
[答]
初めは石で殴って、また木に殴ると彼が倒れてからまた起きて逃げだすのに、川辺まで追って付いて行って棒で重ねて殴ぐって殺した後、死骸をひいて来て氷版に捨てたし、同行三人の人はこの事に関係したところがない。
[問]
李化甫の公述の中、君は同行三人の人と一緒に力を合わせて犯行をやらかしたと言うのに、君は単独で行ったと言ったら一体どうなった事か?
実はあったそのまま言うようにしなさい。
[答]
日本人を殺す時近所人々も驚いて逃走したのに、店主李化甫が敢えてどんなに参観することができたのか?
これは李化甫自分が作り上げた言葉や信じられないのだ。
[問]
舟の中のお金を持って来る時、近くの部落民たちももしか参加した事はないか?
そして事件がある前に、君はどこから来たのか?
[答]
あの時洞民たちは皆逃げて参加したところないし、同行三人の人と船員何人はお金を持って来る時参加したところはある。
そして本人はおかっぱを避けて、安州に行って滞留している途中、断髪令が止められたという消息を聞いて帰って来る途中に、鴟河浦にある李化甫の家に止宿している途中、この事を敢行こんにちはだった。
[問]
君は、自称中国で出帖一左統領といったと言うのに、真実で中国でツルチォブしたことか、そのようにしなければ自ら自称したのか?
[答]
それは仮称ではなく、中原(中原=中国大陸)人徐敬章の下帖を受けたし、これしかに言うものがない。

建陽元年9月5日
起草 西紀本当陣(秦貞鎭)
警務官 金順根
罪人 金昌洙
「初めて公述は急に思い出さなくて過ち言った」ねぇ・・・。
まぁ、そういうことにしておきますか。(笑)
でもねぇ、「これは李化甫自分が作り上げた言葉や信じられないのだ。」って、お前の言ってる事の方が信じられねぇよ、と。
つうか、警務官も強盗殺人を疑ってますな。

金昌洙 三招

[問]
君は本来海州人か?
[答]
海州で生長こんにちはだった。
[問]
君の両親は生存しているか?
[答]
生存している。
[問]
何人兄弟か?
[答]
兄弟はいなくて、7代読者だ。
[問]
君の行為はもう憔憔と再初で把握するけれども、何の不協一心があってこのように人命をいたんだのか?
[答]
国民された身として、国母の仕返ししようと恨みを抱いたのでこの巨事を行ったのだ。
[問]
君は臣民された者として痛憤したシムゾングイあったと一つ、地方官は法を掌握しているのに、君任意に日本人を殺すことはバングザスロウン仕打ちではないか?
[答]
自分が思うに、たとえ地方官に告げると言っても実施しないだろうのでこの巨事を取り掛かった。
[問]
君の1、2回公述で、石と棒で日本人を殺したと言ったが、あの時日本人も佩刀あったくせにどうして対敵しなかったのか?
[答]
日本人を足で蹴って倒れるようにしようあの時彼が刀を抜こうと思うので、石で殴って地面に倒れるようにして、直ちに刀を奪ってしまった後同行 三人と方案にあった多くの行人たちが、皆半期を帯びて力を合わせて殺した。
そんな後、多くの人々が死後に起こる事に対してその取り計いを心配するので、私が彼らに死骸は埋葬せずに氷が凍った川に捨てなさいと言ったらそうするのだ。
[問]
君とお供した三人の人の名前は何か?
[答]
もう先立って一調書で皆明らかにした。
[問]
君は1、2回取調の時には単独に犯行したと言っておいて、今は多くの人々と力を合わせて射殺したと言ったら、先後ではなくようではないことはどうする事か?
[答]
私が先に仕事をやらかしてから、後で多くの人々が力を合わせたことなので、自分自身が多くの人々を引き入れた結果になった。
だから他の人々が仕事をはかったことではないのでそのように公述したのだ。
[問]
君は李化甫と前からお互いに分かっていたのか?
[答]
その商店へ行ったことはあの時が初めなのにどうして前から分かっていたのか。
[問]
李化甫は店主として君が事件を起こすことを木刀したのか?
[答]
李化甫は、怖気ついて身を避けてなくてサラムウルボネ呼んで来た。
[問]
君がこの事件を起こしたことは、財物を貪って韓仕事ではないと言いながらも、どうして財物を奪取したのか?
[答]
お供した三人の人が故郷に帰る老子をくれと哀願するので、彼らが要求し次第にお金をくれて送ってから、後残りお金8百両は店主に任せた。
[問]
君が初めて事件を起こした後、多くの人々が力を合わせて殺したという話は理に適わないのに、それは仕事を起こした責任を兔れようとこんなに公述しているのなのかを明らかに答えなさい。
[答]
私はもう血忿として手を洗った。
すなわちどうして敢えて他の人々に締める着せて自分自身が兔れようとするのか。
今すぐすべての人々を指揮して日本人を殺して、何の別のまねがあるか。

罪人 金昌洙
建陽元年9月10日
仁川港裁判所 判事 李在正
日本領事館警部 神谷清
仁川港裁判所注射 金昌鍵
・・・。
良くみんな信じるよね・・・。
まぁ、確認のしようも無いのでしょうがないんだけど。

っていうか、普通の取り調べって住んでる所とか家族とか、こっから始まるんじゃないのか?

安岳郡鴟河浦店主李化甫 年48 初招

[問]
日本人土田譲亮被告件に、店主は金昌洙の行動を間違うことなしに詳らかに見たはずだから、少しも隠さずにありのまま告白するようにしなさい。
[答]
私が本土の店主なのに、本年正月24日夜に名前分からない日本人一人が通訳する子供一人と来て、夕飯を買って食った後休息を取っている頃に、非道金昌洙が一党を従えて竜崗から渡り場を渡ったが、あの時行人13人も、彼らが今年の頃に到着して夕飯を請ずるので、飯を炊いてくれたら日本人は船員たちとともに止宿しようと船舶先で進んで、通訳する子供一人と船員一人だけ当宿屋に泊まるようになりました。
ところで金昌洙の仲間も泊まりをして、日が明けると朝飯を急き立てて彼らが食べようと思う頃に、日本人もまた帰って来て朝御飯を食べた後そのまま座っていました。
ところで少し後通訳する子供が急に駆けて来て、けんかが起ったが非常に危急だから速く来て救援してくれと言ってしました。
それで大変驚いて駆け付けて見ると、金昌洙が日本人をつかんででたらめに殴っているのに、引き止めようと思ったがもう日本人を殺してクルオだ川辺に捨てて、環刀一袋を奪取しては自分がガレージろ馬一匹を買って乗って去りました。
だから彼の行った所は分かることができないが、日本人を殺害したことは金昌洙が明らかです。

建陽元年8月31日
仁川港警務官 金順根
罪人金昌洙
成る程。
土田が刀を所持していたのは事実のようですな。

で、林学吉20歳は通訳だ、と。
白凡逸志では「朝鮮語が随分上手だった」筈ですがねぇ。

李化甫 再招

[問]
最初金昌洙が、仲間誰誰とあなた家に泊まっている途中日本人を殺したし、そしてあなたは前から金昌洙と分かっていたのか?
[答]
鴟河浦津を渡って来る時、彼の同行が17人だったのに、渡り場を渡った後13人は他の所に行って、金昌洙と三人の人が一緒に私の家に到着して泊まっている途中日本人を殺したし、本人は金昌洙と分かることができません。
[問]
金昌洙が巨事をする時、同行三人の人も力を合わせたし、あの時犯行に使った這っては何か?
[答]
金昌洙が犯行をやらかす時、同行三人の人も一緒に飛びかかるのに、乾かそうとすると金昌洙が駆けて来て殴って、彼ら三人の人の中に一人があいつもぶっ殺しなさいと叫びを打つので恐ろしくて逃げました。
その頃は真暗夜中だから指尺を分別しにくかったので、犯行に使った品物がムオッインジルン見分けることは難しかったです。
[問]
金昌洙が自称義兵だと言ったことは、日本人を殺しの前か殺してナソか?
[答]
日本人を殺害した後左統領金昌洙という名刺を取り出して見せました。

建陽元年9月5日
基礎西紀 朴永来

仁監電報
凡夫金昌洙、玉顔李化甫を速く判決してすぐ釈放して帰るようになさることを期待します。

建陽元年10月2日上午10時
仁監 李 答電
金昌洙中
李化甫の公述によって無罪方面する。
10月2日法部
んー、質問者が「金昌洙が巨事をする時」で、李化甫が「金昌洙が犯行をやらかす時」ねぇ・・・。(笑)
ハングル翻訳版じゃなくて原文見たいな、やっぱ。


さて、以上が孤藍居士氏の提示してくれた資料です。
朝鮮側の供述調書でも、やはり「陸軍中尉」は見られないね。

ということで、さらに孤藍居士氏から「鶏林奨業団」という団体についてコメントが為されました。
土田が鶏林奨業団の核心団員であり、それは半官半民の団体である(だから彼はただの民間人じゃない)。
という意見があると言うものです。
ま、この件に関しては大体の設立経緯は想像が付くんですが、史料的裏付けを取ったら公開したいと思います。



金九は誰を殺したか(一)
金九は誰を殺したか(二)


竹島の日

テーマ:

今日はウチの結婚記念日。
でエントリ書くわけじゃなく、竹島の日です。

取りあえず、「♪すいか泥棒 日曜版」さんの処でやってるキャンペーンにも参加してみるtakeshima dokdo dokto tokdo tokto
おまけで、「かえれ!竹島」フォトしまね山陰中央新報の竹島特集にもリンクを張ってみたりする。

で。
折角なんで関連して何か書こうとも思ったんですが、ハッキリ言ってENJOY Koreaの竹島人文兵器、oppekepe7氏の歴史・伝統文化紹介板伝統文化・工芸板の過去スレ見てね。ウフ♪で、全部終わっちゃうんですよねぇ・・・。(笑)

というわけで、ちょっと考えました。
こんなのどうよ?

SCAPIN677

1946年1月29日付連合軍総司令部覚書SCAPIN第667号(SCAPIN677)全文画像。
まぁ、複写か何かではあるんでしょうが、竹島関連では有名な田中邦貴氏のHP「竹島問題」でも4項までの画像しかないんで(勿論わざとカットしてるかもしれませんが)、載せてみました。
出所は、アジア歴史資料センターの『警保局長決裁書類・昭和22年(下)/領土外に対する行政権停止に関する件(レファレンスコード:A05032385700)』の12画像目。

これで終わるのもアレなんで、ちょいと付け足し。
このSCAPIN677の6項。

6. Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.
つまり、SCAPIN677はポツダム宣言(Potsdam Declaration)8項の小島に関する連合国側の施策でない、と。
じゃあ、ポツダム宣言8項って何よっつうと。

(8) The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu,Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
カイロ宣言を受けて、日本の主権の及ぶ範囲が本州、北海道、九州、四国と私たちの決定する小島に制限されるとされていますね。

先ほどのSCAPIN677には、ポツダム宣言8項の小島つまり「私たちの決定する小島」とは関係無いよ、と。
従って、当然日本の主権範囲の決定にSCAPIN677は無関係なんですね。
勿論、この範囲は俗に言うサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約:Treaty of Peace with Japan)で決定されるわけで。

韓国の愼鏞廈氏は読解力が無いんでしょうなぁ。

 愼鏞廈氏

ということで、悩んだ末に画像掲示して誤魔化してみました。
おしまい。



金九は誰を殺したか(二)

テーマ:

さて、前回は『駐韓日本公使館記録9』によって言及したわけですが、小村から李完用ってことで、対外的な嘘ではないかと思う方も居るかもしれません。

しかし、勿論アジ歴にも記録は存在します。
まぁ、他にも『駐韓日本公使館記録』などで、史料有るのが分かってるのに出揃って無い処が、「相変わらず仕事おせ~なぁ~」と愚痴をこぼしたくなる所以なわけですが。(笑)
まぁ、アジ歴のせいじゃなくて、外交史料館の文書管理がなっちゃいないという噂もあるんですがね。

とりあえずそのアジ歴の史料を見てみましょう。
史料は、『公文雑纂・明治二十九年・第十一巻・外務省三・外務省三/在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件(レファレンスコード:A04010024500)』。
1896年(明治29年)4月6日付『公第68号』から、該当部分を抜粋。

二.平壌附近に於て日本人の被害

3月9日、黄州治下浦に於て長崎縣平民土田譲亮が韓人の為めに殺害せられたる顛末は、当時平壌出張中の京城領事館警部平原篤武に於て詳細調査の上、当館附警部新納英彦に該件を引渡せり。
今其顛末を、現場より逃れ来りたる同人雇韓人より、口頭を以て在平壌平原警部に届出でたるを以て、事実取調の為め、同警部は巡査田中仲之助、税所珪介及朝鮮巡検5名を引率し、翌13日和船に乗じて平壌を発し、15日治下浦着。
同村民及土田が宿泊せし旅店主に就て尋問するに、土田は同月8日、黄州十二峯より韓人1名と共に韓銭6俵其他の貨物を小舟に搭載し鎮南浦へ赴く途次、同夜治下浦に着し、翌9日午前3時上陸して、同所旅人宿李化甫の家に到り、朝飯を喫し、将に乗船せんとして前庭に出しに、同宿の韓人4、5名、突然鉄棍を以て其背部を打ち、終に之れを撲殺して死骸を江中に投じ、直ちに船に至りて其所持せる韓銭其他を奪ひ、韓銭は之を宿主に預け、其の携帯品を奪て海州方向に遁走したりとの事にて、当時血痕尚ほ土に印せりと。
依て嫌疑者宿主の妻(当時宿主は遁走して家に在らず)、村民其他を引致し、発見したる韓銭其他を携へて、16日平壌に帰り種々詰問したる末、右は全く同宿旅人の所為なること判然として、各地方官に加害者の逮捕方を依頼し置たりとの事なり。
右土田譲亮は、長崎縣対馬国下郡厳原のものにして当港貿易商大久保機一の雇人なるが、商用の為め客年10月より鎮南浦に至り、後11月4日更に転じて黄州に在りしも、3月7日同地を発して帰仁の途次、終に此厄に罹りしものなりと云ふ。
依りて、遺留財産は右雇主に引渡し、其他同人死亡に関はり親族への通牒方等は、右雇主に命じ置けり。
ええ。
彼、今で言う長崎県対馬市厳原町出身の商人とされてるわけです。
仁川の貿易商、大久保機一に雇われて、商用で鎮南浦から黄州を回って仁川へ帰る途中に殺されたんですね。
しかも、韓国人4、5人に鉄棍で撲殺。
で、金は宿主に預け、所持品を奪って逃亡、と。
義挙?

単なる複数犯による強盗殺人じゃね?

続いて、再び『駐韓日本公使館記録9』の史料を見てみましょう。
本文はあまり重要ではない(笑)、1896年(明治29年)5月30日付『機密第41号』。

去2月11日の事変の前後に当り、当国各地に於て我人民に危害を加へたる朝鮮人の処分に関し、朝鮮政府と談判の模様并に右に関する卑見、去4月6日付機密第23号信を以て委■具報及置候処、其後引続き各領事の報告に依り本官より朝鮮政府に処分を要求致居候。
今日に至り、右被殺害者数43名、負傷被虐待者数19名相達候。
而して朝鮮政府に於ては、我要求に対し速に処断すべき旨、毎次回答し来り候。
我第1回の要求を提示して以来2ケ月余を経過し、数回厳重なる督責を受たる今日に於て、尚ほ未だ井出常太郎に関する1件を除く外、未だ何等の結局を見ざるは誠に不都合の至に存候(井出常太郎処分1件は京城領事より報告済に付略す)。
■又我被害者に関し朝鮮政府へ要求すべき件に付ては、去3月11日電報並に前号機密第23号信を以て具申致置候次第有之候処、4月10日附を以て「本邦人被害事件に関しては、3月16日付電信を以て御訓示の次第も有之候得共、3月11日附を以て本官より申出候通り、此際更に朝鮮政府に向て要求すべし」と御電訓相成候。
依て、時機を見計らひ早速右の要求方提出致す積りの処、当時は露公使との協議1件未だ結着不致、王妃殺害事件審問、政府部内の動搖等内外人民の注意を惹く事件迭出して、今日に至る迄適当の時期を認めず候処、這回本官帰朝を命ぜられ候に付ては、出発前に当り之を提出し置くこと必要と存候に付、本日を以て別紙乙号の通り照会致置候。
今日新に提出したる要求の中、生命及身体上の損害を償金額14万6,000円と算出致候は、被殺害者に関しては兼て電稟致候通り1名に付5,000円、負傷者及被虐待者に関しては各自申出の金額、若くは本官の評定したる額(別紙丙号)を以定めたる総計にて、更に之を類別すれば、被殺害者20名に対する金額14万円、負傷者及被虐待者14名に対する分6,000円に有之候。
将又被殺害者43名の中、29名を限り損害を要償致候義は、右29名は純然たる行商者若くは旅行者にして、其被れる損害に付朝鮮政府に要償するの理由充分ありと認むる者なれども、其他は電信工夫、軍夫、若くは測量班員等にして、即ち朝鮮政府にのみ責を帰すること能はざる者に有之候。
即ち、電信工夫の如きは元より電線守備隊に於て之を保護すべき者なるのみならず、其筋の命に依り危険を犯して行動する者なれば、万一の場合之を救済するの責を其筋に存すと云はざる可らざる義有之候。
測量班員に至ては、表面旅行者として内地に立入し者に候はば、朝鮮政府に其責を負はしむること能はずと云ふにあらざれども、是等の人達も亦た其筋の命に依り進退致候者に候はば、万一の場合に於て之を救済するの責罰、命令の出処の其所にありと云はざる可らずと相考候に付、是等の人員の被害に対して、朝鮮政府に要償致す事穏かならずと認め候に付、前條通り取計たる義に有之候。
負傷者、被虐待者に関しても、右同様の理由に依り19名の中5名を省き候。
尤も、右は本官限りの内定にして、朝鮮政府に対しては無論被害者総数に対する賠償として前記の金額要求したる義は御承知相成度候。
尚又、財産上の損害に付いては、調査上困難の次第有之。
別信を以て請訓致置候に付、追て御指揮を得て相当の手続を盡したる上、要求可致と存候。
右、本件今日迄の成行別紙相添及具報候也。
ざっくばらんに言えば、損害賠償請求ですね。
日本人の被害者数、この時点で62名。
そのうち、殺害された者43名、負傷及び虐待を受けた者14名。
死者43名のうち、29名は純然たる行商者或いは旅行者で、残りの14名は電信工夫、軍夫、若くは測量班員。
負傷者も、計19人のうち5名は電信工夫、軍夫、若くは測量班員である、と。

ただ、被害額の算定の被殺者1名に付き5,000円で20名で14万円というのが、全く意味不明。(笑)
つうか、1人5,000円で14万円なら28名だなぁ・・・。
まぁ、取りあえず置いておいて、これに附属する被害者リストを見てみましょう。

帝国民庶遭害に関し朝鮮政府と交渉月日表

遭害区別 照会月日 回答月日 身分 姓名
殺害 三月十八日 三月二十六日 売薬行商 井上誠之助
電信工夫 池畑兼太郎
電信工夫 三橋藤次郎
陸軍雇△旅行 米田豊吉
  〃 △ 〃 近藤卓爾
電信工夫 新井林吉
役夫 船越福松
電信工夫 立石参次郎
囑託 中田保吉
雑貨行商 吉岡藤十
陸軍雇△旅行 橋本留三
電信工夫 辻繁吉
  〃 田中彌市
  〃 井出常太郎
売薬及雑貨行商 遠藤松五郎
  〃 同人妻リヨ
行商 近藤栄藏
売薬商 吉崎祐太郎
三月三十一日 四月四日 売薬商 土田讓亮
四月四日 四月七日 漁業者 土橋佐久馬
  〃 村上多市
  〃 村上多作
  〃 田中貞吉
  〃 山崎金次郎
  〃 田中伊三郎
  〃 田川仁右衛門
  〃 大藏
  〃 平仁右衛門
  〃 小川平吉
  〃 尾崎徳二郎
  〃 尾崎庄太郎
  〃 角岡米市
  〃 山池甚太郎
  〃 宮田初太郎
四月九日 四月十日   〃 今弘重吉
  〃 川添秀明
  〃 中村熊市
  〃 木曾與右衛門
医師 山野好敏
四月二十八日 四月二十九日 電信工夫 山田友吉
  〃 下村藤吉
陸軍測量手 植田鹿太郎
  〃 小川茂幾
負傷 電信工夫△軍役夫 新井房吉
△陸軍雇旅行 東儀文美
△陸軍雇旅行 泥堂谷之助
△  〃 美田萬壽之助
△車夫 瀧野與三郎
売薬 吉富幸三郎
大工職 岡田直吉
林田貞十
  〃 酒見敬吉
漁業 桑岡竹次
  〃 山村善太郎
  〃 橋浦寅太郎
  〃 鷹野一次郎
雑貨及売薬行商 太田良三郎
  〃 白石亀三郎
受害者 五月二十八日 五月三十日 雑貨行商 山口久治郎
  〃 大国保国太郎
  〃 平田兼作
  〃 坂口己一郎

注意:身分上に△印を附したるは、朝鮮政府に対する照会に用いたる名称なり。


被殺害者43名、負傷者等19名。
被殺害者のうち、電信工夫、軍夫、若くは測量班員は、上から順に池畑兼太郎、三橋藤次郎、米田豊吉、近藤卓爾、新井林吉、船越福松、立石参次郎、中田保吉、橋本留三、辻繁吉、田中彌市、井出常太郎、山田友吉、下村藤吉の14名ということになります。

というわけで、土田譲亮は薬売りでした。

続いて、文中の『別紙乙号』は飛ばして、『別紙丙号』を見てみましょう。

職業 姓名 就業 1日間 就業費全額 休業日數 一日間休業損害 休業損害総額 合計
売業行商 吉富幸三郎 14日 2円 28円 31日 3円 93円 121円
大工職 岡山直吉 20日 1円75銭 34円94銭 34日 1円20銭 40円80銭 75円74銭
林田貞十 27日 2円9銭 56円48銭 27日 2円 54円 110円48銭
酒見敬吉 56円48銭 27日 2円 54円 110円48銭
漁業 桑岡竹次     10銭 3日 2円 6円 6円10銭
山村善太郎     10銭 3日 2円 6円 6円10銭
橋浦寅太郎     10銭 3日 2円 6円 6円10銭
鷹野一次郎     3円 7日 2円 14円 17円
行商 太田良三郎 7日 2円 14円 33日 3円 99円 113円
白石亀三郎 7日 2円 14円 33日 3円 99円 113円
山口久次郎       27日 3円 81円 81円
大久保国太郎       27日 3円 81円 81円
平田兼作       27日 3円 81円 81円
坂口已一郎       26日 3円 78円 78円
合計 1,000 円



ということで、負傷者及被虐待者14名に対する分6,000円ではなく、負傷者及被虐待者14名に対する分が1,000円、被殺者1名に付き5,000円で29名分で14万5,000円。
合計額は変わらず、14万6,000円というのが正解。

ちなみにこの損害賠償、約9年後の1905年(明治37年)になって、4分の3に減額されてようやく支払いが行われます。
理由。
日本側が大韓帝国の財政難を理解していたから。
昔から変わらず、半島には大甘ですな。

ということで、土田譲亮は、仁川の貿易商大久保機一に雇われた、長崎県対馬市厳原町出身の薬売りであり、韓国人4、5名によって鉄棍で撲殺され、電信工夫、軍夫、測量班員等が算定基礎から除外された損害賠償についても、彼は算定基礎の対象とされました。

で、金九が殺した土田譲亮って、誰?


(了)



金九は誰を殺したか(一)


金九は誰を殺したか(一)

テーマ:

金九。
日韓翻訳掲示板に入り浸る廃人には、今更説明の必要もない人物でしょう。(笑)

 金九


一言で言えば、後期の上海臨時政府を主導した、テロリストの親玉。
ここでは真偽は触れないが、取りあえずの詳細はWikipedia及び独立記念館でも確認出来ます。

さて、本日問題を提起するのは、韓国に於いて「鴟河浦義挙」と呼ばれる事件。
上記Wikipediaでは、「1896年 閔妃殺害事件(1895年10月8日)に憤り、閔妃殺害に何の関係もない日本陸軍の土田譲亮中尉を殺害して投獄される。」と書かれている件。
独立記念館では、「1895年、明成皇后弑害事件が起こり、翌年2月、安岳郡治河浦で偶然、日本軍一人に会った時、彼の名は土田譲亮であった。白凡は彼を見て激奮を抑えきれず、その場で刀で彼を殺し、「国母の敵をうつため、この日本人を殺した」という文を塀に貼って自分の名前と住所まで書いた後、その場を去った。」と記載されている件ですね。
要するに、閔妃暗殺を憤慨して「日本陸軍中尉の土田譲亮を殺害した事件」を以て、「鴟河浦義挙」と呼んでいるわけです。

この「日本陸軍中尉の土田譲亮を殺害」という話は、金九自身の自伝であり、1928年から書き始めたとされる『白凡逸志』の記述によるものでしょう。

この部分の記述に関して、少し抜粋してみます。

 (前略)

まん中の部屋に、一人断髪した人がいるのが目についた。
その人が、誰か他の旅行者と挨拶を交わしているのを聞いていると、彼は姓は鄭氏で長淵に住んでいるという。
たしかに、長淵では、早くから断髪令が実施され、民間人でも髪を切った人が多かった。
しかし、その言葉遣いは長淵の方言ではなく、ソウルの言葉だった。
朝鮮語が随分上手だったが、わたしの見るところでは、彼は明かに倭奴だった。
よく観察してみると、彼の白い周衣(トゥルマギ)の下には、軍刀の鞘が見えた。
「どこへ行くのか」と声をかけられると、彼は「鎮南浦へ行くところだ」と答えた。
普通の商売人や工業家の日本人ならば、このように変装、変名するわけがないのだから、これはきっと国母を殺した三浦梧楼のやつかそうでなければその一味の者に違いない。もしいずれでもないとしても、わが国家と民族に害毒を流す者であることは明かなのだから、あいつを殺して少しでも国の恥をそそごう」とわたしは決心した。

 (中略)

わたしは主人に、「あの倭は誰か」と尋ねた。
その答えによれば、あの倭は黄州で朝鮮舟を1隻借り、それに乗って鎮南浦へ行くところだったということだった。
わたしは主人に命じて、その舟の船員を呼ばせ、舟にあったその倭の所持品を取り揃えて持って来るようにさせた。
やがて船員たちがその倭の持ち物を持ってきて、「手前どもは、ただ船賃を貰ってあの倭を乗せた罪だけしかありませんから、許してください」と懇願した。
所持品によって調査したところ、その倭は陸軍中尉土田譲亮という者で、葉銭800両がその荷の中に入っていた。

 (後略)
さて、この土田譲亮。
どのサイトを見ても、無条件に陸軍中尉とされていますが、本当に軍籍があるのを確認した人は居るんでしょうか?

この疑問は、ずっと私の中にあり、もしかして金九はこの時期反日活動などしておらず、単なる箔付けのための嘘ではないかと思っていたんですね。
そして、昨日までの俄館播遷について調べる中で、該当する史料を発見したので報告しておこう、と。
調子に乗って、ENJOY Koreaに予告スレ立てちゃったわけですが。(笑)

ということで、予告もしていますし、結論から述べましょう。
土田譲亮は史料中に実在し、丁度俄館播遷の頃に殺害されているのも事実です。
しかし・・・。

史料は、『駐韓日本公使館記録9』より。
小村寿太郎から李完用外務大臣への、1896年(明治29年)3月31日付『公文第20号』。

以書翰致啓上候。
陳者我仁川領事之稟■に拠るに、長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
只旅宿の庭前血痕■■たるを認めたるのみ。
而して警部一行は郡吏等へ厳談の結果、加害の嫌疑者7名を伴ひ帰りて取調べたるに、何れも加害本人にあらずして只前顕事体を聞得たるのみ。
被害者土田譲亮の遺留財産は、韓銭10俵、行李1個にして、中韓銭2俵は何者か之奪取し、残余は無事仁川領事館に引取りたる趣に有之候。
査するに、本件被害の顛末は前顕我領事の稟報に拠つて事実明了なるのみならず、其加害者の如きも容易に捜索せられ得べく儀と存じ候に付、貴政府に於て時日を移さず直に平壌観察使並に当該郡守に厳重なる訓令を下し、日を期して加害者を拿捕したる上、相当の御処分有之度候。
此段照会旁得貴意候。

敬具
へー。
他の点ではそれなりに自伝と整合してますが、長崎縣平民土田譲亮ですなぁ。
(・∀・)ニヤニヤ


今日はこれまで。




俄館播遷の連載も、今日で一旦終了。
まぁ、新しい史料が見つかれば、そのうちまたやる事もあるかもしれませんが。
ってことで、今日最初の史料は、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/7 明治29年2月24日から明治29年3月24日(レファレンスコード:B03050002200)』より、日付も文書番号も不明な史料から。

新内閣大臣の位置及権力

法部大臣李範晋は、新内閣員中最も威権嚇灼たる者なり。
彼れ、自ら国家第一流の忠臣なりと自称して揚々得■あり折。
這回国王を露館に誘出せる密計首謀者は即李範晋にして、其幕下に李学均、崔英夏、金■陸あれども、本と是れ微官に過ぎざれば、結局其成功の手柄は範晋一人に帰するに至れり。
之に次ぐは李載純にして、載純は王妃在世の日に於て、専ら露公使の間に立つて連絡を為したるものなり。
然れども為人凡庸、事理に暗くして、国王の鼻息を窺ひ之に加ふるに阿諛是れ事とし、権力を得るに汲々たるが如し。
以上、武人は純然たる奉露党と見て不可なし。
外部大臣李完用、軍部大臣李允用の2人は、前者に反して英■派若くは米国派と評して適当なるならん。
此2人は、10月事変以来米館に潜伏せるものにして、去月11日の事変の計画には、寧ろ予め■らざりしものの如し。
何んとなれば、先是11月28日に於て小変動(失敗)の結果は、痛く米公使の為め警められ、現に同公使の目前に於て誓約を為し、露館潜匿者間の密通を遮断したり。
此際李範晋より屡々密会を申入れたるも、一切是を謝絶したるより、範晋思らく彼■は彼挙同志間(米館隠匿者一同を云ふ)に、何か隠謀を企つつありとの邪推を起さしめたる形跡ありしと云ふ。

而して11日、範晋は国王を誘出したるも、自己一人の力能く内閣を組織する能はざるより、李兄弟の寝込を襲ひ之を連れ来りて新内閣を組織するに至れり。
李兄弟も、固より野心勃々たるの際なれば、直に李允用が曾て警務使たりしとき股肱たりし警務官、安桓等に勅諭を下し、前内閣大臣を殺害すべきの意を伝へしめたるものなり。
故に前者2李、後者2李共に前内閣を殪すには、恰も意気投合したるの結果と云はざるを得ず。
併し是れ、■に一時の合同にして、新内閣の組織已に為るや、忽ち両者の間に相軋轢するを致せり。
是れ、必竟権力の■排に外ならざるなり。
然れども、到底允用、完用の力、能く範晋に抵抗する能はずして、中原の鹿竟に範晋の手に帰すべき必然なり。
何となれば、範晋、載純の後には、大々的露国の勢力あつて存すればなり。
去れば、允用、完用は内閣を退くべきか、否、彼れは前内閣を殪したる連累なり。
随て、其反対者を有する極めて多し。
故に其一身の危険を免がるるには、好し範晋の下に屈従するも、新内閣勢力の下に棲息するの外、身を客るるに余地なければなり。
総理大臣朴定陽、農商工部大臣趙秉稷、同協弁高永喜、度支部大臣尹用求、学部協弁尹致昊等は、所謂中立派との云ふべき地位に立ち、只だ歓望して其地位を危し■会もあらば、内閣を去らんとするものの如し。
何となれば、現内閣の到底■すに足らずとの批評は■口均しく唱ふる所なればなり。
又た其人物の上より云ふも、此等該人は優柔不断にして、若し新内閣を退かんとせば却て嫌疑を招く種となり、其身命を危くするなきかを恐るるものの如し。

法部協弁権在衡、軍部協弁白性基、警務使金在豊(11月28日事件の隠謀■にして、一旦流刑に処せられたる者)、刑務使安桓の如きは、範晋等の最好幕僚として目下其顧使の下に躍起となりて■動せり。
就中、権・白の2人の如きは、前政府より継続せしものにして、曾て首■両端との批評を受け居る人物なり。
誘拐で組閣キタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━!!!!!!!!!!(笑)

まぁ、この史料がどういう目的で、誰の手によって書かれたか不明なので、鵜呑みにするのは危険だけどね。
それでも、「李兄弟の寝込を襲ひ之を連れ来りて新内閣を組織するに至れり」は結構インパクトあるよなぁ。(笑)

さて、史料的には在ロシア公使館朝鮮政府の有力者に関する報告になっています。
要は親露派の李範晋、李載純と親米派の李允用、李完用という4人が最も有力という事になろうかと。
まぁ、最初から権力争いになる要素は揃ってたわけで。
まぁ、要素なんて揃ってなくても、それこそ「当国人の癖として」権力争いが始まっちゃうんでしょうが。(笑)

総理大臣署理朴定陽、農商工部大臣趙秉稷、同協弁高永喜、度支部大臣尹用求、学部協弁尹致昊等は中立派。
いつでも辞めそうな雰囲気、と。(笑)
総理大臣の予定だった金炳始は最初から断るは、もうバラバラですな。

続いて、1896年(明治29年)3月23日接受『機密第19号』より。

漢城観察使李夏栄氏、日本駐箚特命全権公使に任ぜらるる事に内定致したる旨、過日及電報置致候処、愈昨日官報号外を以て其任命を発表し、同時に李外部大臣より通知有之候。
先頃同氏が本官を訪問致たる節の内話并に国分通訳官が両三回会合致たるときの語気に拠れば、今回同氏が日本公使たらんとして運動したるは、左の如き事情あるに出たるものと推測被致候。

第一.李範晋独歩の現内閣は、運命久しからざる事。
第二.一般の人心は、昨今現内閣の人を得ざるを非難すると同時に、前内閣を恋ふの念、漸く切ならんとする事。
第三.現内閣に替つて新内閣を組織するには、少くも2、3の前内閣員を要すべき事。

抑今回の事変は、李範晋等即露館に潜匿せるものの計画に成り、米館潜匿者と与め謀議せざりし為め、李範晋独り権力を専にして他を圧到するの勢なり。
李允用、李完用、尹致昊、李夏栄の一派は、已に現政府の久く保たざるを看破すと雖ども、容易に之を去ることを為さず。
何んとなれば、若し一旦現内閣を去るときは範晋等の一派より敵視せられ、頗る危険の位置に立たざるを得ざるなり。
故に無余儀範晋の勢力下に黙従して、一時其身上の安全を計ることを努むるものの如し。
就中李夏栄の如きは、事変当時通津にありて、変後3、4日を経て帰京致たるを以て、全く事変に与からざりし事実あると、前内閣大臣鄭秉夏と事変前屡々往復したる廉を以て、特に李範晋と相好からざれば、何時範晋の為め陥擠せらるるやも難計。
去れば夏栄は、彼一身の上より見るも、京城を去つて範晋との衝突を避くるは得策なるのみならず、其日本駐箚公使たる以上は充分日本政府の歓心を買ひ、且つ暗に日本に潜匿せる前内閣員と気脉を通じ、李範晋内閣殪るの日に於て米国派(曩に米館に潜匿し居りし者)若干人の為め、立脚の余地を存し置くの好方便たればなり。
於是李夏栄は、李兄弟(允用、完用)と相結托し、又た李兄弟に拠り己を国王に推薦せしむるに至れり。
然るに其第一次に於ては、忽ち範晋并に露公使の知る所となりて故障を生じ、容易に実行せられざらんとするを見て、李允用等は更に熟慮する所あり。
即、露帝戴冠式に参列する為め、相当の人物を撰び特派すべしとの議を先以て提出し、之に次に日本駐箚公使派遣の事亦た等閑に附すべからずと論じ、其結果去る11日、閔泳煥を以て露国特派公使に任命し、同13日李夏栄を以て日本駐箚公使に任命したる始末なり。
要するに李允用、李完用は、李夏栄と気脉相通じ、又李夏栄は前内閣員と(日本にある者)声息相通じて、以て陰に範晋等に反対し、他日現内閣顛倒の場合に臨まば、共に相提携せんとする魂胆に外ならざるものの如し。
右及具報候。

敬具
んー、李範晋、みんなから嫌われてるなぁ・・・。
で、所謂親米派李允用、李完用、尹致昊、李夏栄などは、もう既にこの内閣が倒れた後の事を考えて、日本と気脈を通じておこう、と。
そこで、在日本朝鮮公使に李夏栄がなるように工作したわけです。

さて、これまでの史料を俄館播遷として扱ってきました。
これ以降、ロシアを始めとする諸外国に朝鮮の利権が売り渡され、小村=ウエーバー協定やら山縣=ロバノフ協定が結ばれ、王宮還宮運動という高宗を王宮に還す運動が行われていくわけですが、それはまた別の連載にしたいと思います。


という事で、今回の連載はこれでお終い。
じゃ。



俄館播遷(一)  俄館播遷(十一)  俄館播遷(二十一)
俄館播遷(二)  俄館播遷(十二)  俄館播遷(二十二)
俄館播遷(三)  俄館播遷(十三)  俄館播遷(二十三)
俄館播遷(四)  俄館播遷(十四)  俄館播遷(二十四)
俄館播遷(五)  俄館播遷(十五)  俄館播遷(二十五)
俄館播遷(六)  俄館播遷(十六)  俄館播遷(二十六)
俄館播遷(七)  俄館播遷(十七)  俄館播遷(二十七)
俄館播遷(八)  俄館播遷(十八)  俄館播遷(二十八)
俄館播遷(九)  俄館播遷(十九)  俄館播遷(二十九)
俄館播遷(十)  俄館播遷(二十)



少し古いんですが。

青森舞台にキム・スンウ主演映画

嗚呼。
青森オワタ・・・。_| ̄|○
つうか、始まってもいないとか、そういうツッコミは不要で。(笑)


さて、本題。
今日も前回に引き続き、1896年(明治29年)3月16日接受『機密第18号』を見ていこう。

一.江原道鉄原は、賊の占るところと為ること既に2旬余なりしが、曩に此方面に派■せられたる親衛隊は、過日該処の賊を攻撃し、一挙之を掃攘したり。
故に、賊の為め捕はれて牢獄に繋がれ居りたる、当館■■の韓人飛脚(前回報告に記載す)并に本邦人売薬商吉冨幸三郎は、辛くも一命を助かり、官兵4名に護送せられ去月29日無事当地に帰着せり。
2月4日のエントリーの1896年(明治29年)2月22日発『電受第116号』で見られるとおり、鐵原の郡守は追放されているわけで、恐らくはそれ以降占拠状態なんでしょうね。

で、具体的な占拠日は不明ですが、今紹介している『機密第18号』が3月4日付けである事を併せて考えると、文中の「2旬」は20日程度を差しているんでしょう。
つまり、鉄原占拠は2月12日前後と推測されます。

そして親衛隊が派遣され、暴徒を追い払う。
すると、2月16日のエントリーで見た「多分殺害に遇ふべしとの確報」があった飛脚は、捕らえられていただけで実は生きていた、と。
ついでに、日本人薬売りの吉冨幸三郎も救助されている。
んー、良く生きてたねぇ。

一.乱民鎮撫に関する勅諭頒示の為め、内部参書官徐相集及申大均2氏は去月21日出発。
騷優地方坡州、開城、驪州、利川等に向へり。
又、同日宣諭大員に任ぜられたる従二品崔益鉉は、意見を述て任命を辞したるも、「此時急務莫先於安民、卿於此任、義不介辞、即往宣諭」との勅答ありたり。
又別紙第2号の通り、地方乱民鎮撫に関する詔勅を発し、且つ従一品申箕善(去6月朴定陽内閣のとき軍部大臣たりし人)、従二品李道宰(前内閣の時、趙羲淵に代て軍部大臣と為り、尋■学部大臣に転じ、断髪令に反対して■職せる人)の両氏は、去月27日宣諭使に任ぜられ、申は南路、李は東路に派遣するの命ありしが、聞く所に拠れば李道宰は結髮網巾(断髪の周圍を束するもの)及衣服を旧式に復し、然る上にあらざれば宣諭の功なしとの意を以て、上疏を為したり。
依て近日中、結髮復旧の命を発すべしとの説あり。
而して申箕善は昨3日南路へ向け出発し、李道宰は明日東路に向け出発の筈なり。
んー、崔益鉉にもフラれたのか・・・。
それなのに、すがりつくかの如き勅答。
で、その他にも勅諭を広め暴民を収めるために、徐相集、申大均、申箕善、李道宰等が選ばれた、と。

一.内部土木局長南宮臆は、曩に宣諭使として春川に派遣せられたる後、洪川に於て乱民に遇ひ懇々説諭を加へたるも、乱民は更に聞入れざるのみならず、却て捕縛せられんとするの有様なりしかば、山中に遁れ入り■かに身を以て免がれたり。
然れども、隨行の巡検■他輿夫は皆■殺害するところと為れり。
洪川の暴徒は、宣諭使により説得されても、聞き入れないどころか捕まえようとする。
その為に、宣諭使南宮臆は這々の体で逃げ、随行者は皆殺された、と。

一.各道暴徒蜂起の模様は前回来追々及報告至候処、近頃に至り又々慶尚道晋州、全羅道光州、黄海道海州等地方にも暴民蜂起し、観察使、郡守及以下の官吏も殺害せられたるもの少なからず。
だからな、乙未義兵のどの辺が抗日義兵なんだ、と。(笑)

一.当政府税関雇総税務司英国人マクレウイ・ブラウン氏は、現職の外今般更に司部全体に於ける出納事務を委任せられたる旨、別紙第3号の通り同部大臣勅命を■して諭達せられたり。
尚同人の外に英人「ラウダー」なる者も、同部顧問として雇入れられたりと云ふ。

右及具報候也。

敬具
ブラウンは、1893年から1904年に目賀田種太郎に変わるまで総税務司を続けています。

附随する別紙については画像だけでテキスト起こし省略。
尹孝定等による還御の請願書、『別紙第1号』が、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/7 明治29年2月24日から明治29年3月24日(レファレンスコード:B03050002200)』の9~10画像目。
何度目になるのか最早分からない、暴徒鎮撫に関する詔勅、『別紙第2号』が11画像目。
総税務司ブラウンが度支部全体の出納も委任された大臣勅令、『別紙第3号』が12画像目ということになりますので、各自ご確認ください。


さて、今日はこれでお終い。
次回でこの連載は、一旦終了予定。
では。



俄館播遷(一)  俄館播遷(十一)  俄館播遷(二十一)
俄館播遷(二)  俄館播遷(十二)  俄館播遷(二十二)
俄館播遷(三)  俄館播遷(十三)  俄館播遷(二十三)
俄館播遷(四)  俄館播遷(十四)  俄館播遷(二十四)
俄館播遷(五)  俄館播遷(十五)  俄館播遷(二十五)
俄館播遷(六)  俄館播遷(十六)  俄館播遷(二十六)
俄館播遷(七)  俄館播遷(十七)  俄館播遷(二十七)
俄館播遷(八)  俄館播遷(十八)  俄館播遷(二十八)
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