前回は、金弘集と鄭秉夏が惨殺された所までを書きました。
今日は、他の内閣員に関して、1896年(明治29年)2月13日付『機密第11号』の続きを見てみましょう。
アジア歴史資料センターの『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/2 明治29年2月12日から明治29年2月22日(レファレンスコード:B03050313500)』、23画像目から。

兪内部は未だ内閣を出でざるに、平常の白衣を着けたるもの1名突然入り来り、内務大臣の捕縛方に向ひたりと云ふや、同氏は起て之を捕へんとして彼者の頭巾を攫して離さず。
然るに彼の力強く、其侭兪氏を室外に拉き出したるを以て、同室に居合わせたる官報局雇員本邦人2名は、兪氏を救はん為め共に室外に至りたるに、其者は早や遁れ去りたるところなれば、之を追跡しながら兪氏は如何やと振返り見たるに、最早巡検の為めに捕はれ正門に向て牽き行かるるところなるを見るや、雇員両氏は又も引返して兪氏を取り戻し、甫めて門を出るや、又々群集せる巡検に捕へられんとして兪氏は遂に地上に仆れたるを、一方には引起し、一方には巡検を防ぎながら、辛ふじて我守備隊営所に遁れ入らしめたり。
其後同氏は服装を変じて、先づ我公使館に遁れ来らしめ、又法部大臣張博、内部衛生局長金仁植、法部刑事局長趙重應の3氏は、今朝の事変を聞知するや直ちに大闕に至りたるも、門衛拒んで入るを容さず、不得已我公使館に遁れ来りたるを以て、夜に入り右4氏をして服装を変じ、本邦人の商店に潜伏せしめたり。

金外部は、最終迄内閣に止りたるに、陛下の命に依り露館に到り伺候したりとの説ありて真偽判然せざりしが、本日に至り同氏は安全帰宅し居れりとの確報あり。

権内閣総書は、始め内閣を出て官報局に至りしに、露館より同氏に来館すべしとの■使来りたるも、同氏は恐懼して此に在らざる旨を答へしめたり。
暫くして自邸より同氏の家人と前の走使同道、再び来りて必ず此処に居らるべきに因り同道すべしと云ひ入れたり。
依て同氏は、已を得ずして露館に赴きたりと云ふ。

魚度支部は、当日所在不明なりし為め種々の説ありしも、同氏は安全自宅に引籠り居るとの報ありたり。
此外、親衛隊第一大隊長李範来、同第二大隊長李軫鎬の両氏は、十数カ所落馬負傷の為め我舎営病院に於て治療中なりしが、事変後逃れて某処に潜伏せり。
つーかねー、この文章起こした人、嫌い。(笑)

兪吉濬は、同室にいた官報局に雇われている日本人2名に助けられ、日本の守備隊営所に逃げ込む。
その後、着替えて日本公使館に入り、この時既に日本公使館に来ていた法部大臣張博等と共に、日本人の商店に身を隠した、と。
金允植は、最後まで内閣に止まり、その後の経緯について色々噂は出たものの、最終的に安全に帰宅。
権任衡は、高宗に呼び出されてロシア公使館へ。
魚允中は所在不明。
この後、郷里に向かう途中、賊に襲われて死亡することになります。
李範来、李軫鎬は、日本の舎営病院で落馬負傷のため治療中だったけど、事変後は某所に潜伏。

んー。
1月22日のエントリーの1896年(明治29年)2月14日付『電受第77号』では、「魚允仲・兪吉濬・趙義淵・張博等は行衛■れず、公使館・領事館には隠慝者1名もなし。」とされてるんだけどなぁ・・・。
ただ、『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の12画像目を見ると、魚允仲は行方知れずで、兪吉濬・趙義淵・張博等が云々とされていたのが訂正されていますね。
今紹介している『機密第11号』が13日付けである事を併せて考えると、14日の朝までとその後で、何か変化があったのかも知れないなぁ。

扠又、大君主并に世子宮露館入御後は、巡検及親衛隊の一部と旧募の工兵隊とを以て同館門外并に附近の通路に配置し、護衛最も厳粛なり。
探偵の報に拠れば、露館の近傍なる明礼宮と称する旧殿を修繕し、大君主は之に移御し玉ふ為め、已に工事に着手せりと。

新内閣は、春川地方の暴民鎮撫の為め別紙第6号の通り当日布告を為し、又別紙7号の通り在監の囚徒赦免の布告を為せり。
又、昨12日を以て別紙第8号、9号、10号の通り、京城内の人心を鎮むる為め、逃亡犯罪人追補に関する件、并に外国人に対し不法の暴挙を為すべからざる旨を以て、内部及警務庁より布告を為せり。
又、本日迄官吏の任免及去年11月28日の事変に関し、流罪に処せられたるもの一同赦免の旨、別紙第11号の通り本日の官報に掲載せり。

総じて、事変後は京城内の人心穏やかならず、日本人を厭悪するの感情も一時に涌出し、巡検は更らなり。
人民一班に罵詈の言を吐き、殊に我公使館を襲ふべしと云ひ、又は居留民の家屋を焼払ふべしなど流言盛んに行はれ、恰も本日は旧暦元旦に当りたる旁旧制挽回の期至れりと想像するもの満城殆んど然らざるはなし。
依て我公使館を始め泥峴なる商民群居の場所は、充分警戒を加へ居り候。

向後の模様は追々可及報道候得共、不取敢今日迄の顛末及具報候也。

敬具
明礼宮とは、徳寿宮(慶運宮)の別称とされます。
1904年に大火にあうあの宮殿のことね。
で、そこに入御する予定で、既に修繕工事に着手している、と。

春川の暴動で捕まっていた者、春生門事件で流罪にされた者は赦免され、京城内の人心を鎮撫等の布告が出される。
これらについては、各別紙の中で見ていくことにします。

で、京城内は不穏な状態であり、特に巡検に至っては、日本公使館を襲えとか日本人の家屋を焼き払え等という有様。
まぁ、親露派の手先状態ですからね。
で、日本はこれまで小村が述べていた方針通り、公使館を始め居留民保護に尽くしている、と。

取りあえず、報告本文は以上。
次回からは、各種「別紙」を見ていこうと思います。


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)
俄館播遷(六)
俄館播遷(七)
俄館播遷(八)
俄館播遷(九)
俄館播遷(十)


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早くも10回目の「俄館播遷」。
話が殆ど進んでいないのは、恐縮の至り。(笑)
ってことで、先に進みましょう。

今日もアジア歴史資料センターの『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/2 明治29年2月12日から明治29年2月22日(レファレンスコード:B03050313500)』からになります。
前回の、1896年(明治29年)2月13日付『機密第11号』の続き、21画像目から。

惟ふに今般の事変は、実に客歳11月28日の事変に起因せるものにして、李範晋・李允用・李完用等当時該事変に関係せる重なる者は、爾来露米両館に潜伏し居り。
又露公使館には常に数十名の護衛兵を置き、大に警戒を加へ居れり。
而して本年に至り、衛兵交代の都度兵員追々増加の模様ありしが、近々の計算にては少くも4、50名ありと云へり。
然るに、去る10日、又仁川港より更に107名の武装兵并に大砲1門を牽き入京の報ありしを以て、此度露館増兵の挙に付ては、必ず深く謀るところあるべしと思料し、当国内閣に於ては同夜より特に巡検70名を増加し(平時は30名)宮中の護衛を厳にし、又我守備隊に於ても窃に警戒を加へ居りたるに■は料らん。
翌11日払暁、大君主は日本党の大臣中、去年10月事変と同様の陰謀を企つるものあれば、急露国公使館に避けらるべしとの偽造密告を得るや否や、恐懼■一方、遂に世子宮と共に女官の乗輿に御し警衛の隙を窺ひ出て露館に入御あらせられたるも、更に之を■阻するものなかりしなり。
扠れども、女官乗輿出入の件に関しては、昨年11月28日事変以後、従来の如く女官の出入に際し乗輿を出て徒歩せしむるは、大に不都合なりとの説起り、国王始め大院君に於ても不同意を唱へられしかば、遂に其後に至り婦人丈は乗輿の侭出入するを許すべき旨、守衛兵に通達しありたるを以て、此日女輿の出るを見るも衛兵は更に之を咎めざりしに因り、適々謀計其機に中りたるものと云ふべき乎。
又此日早朝、大闕門前よりして大街には地方より来りたる負褓商体のもの充満し居りて、殆んど通行する能はざる程なりしと。
因て思ふに、大君主并に世子宮を宮中より誘出するの策にして、萬一齟齬する時は非常手段を以て宮闕を犯すの目的に出でたるものならん。
後探偵の報に拠れば、果して朴定陽・李允用は令を地方の負褓商に伝へ此日を期して入京せしめたるに、京畿道は全体、忠清道は過半、黄海道も過半の負褓商皆当地に来集したるなりと云ふ。
又、該負褓商等は、10日夜を以て我公使館を襲はんとの企てありしも、前内閣の学部大臣にして新内閣の法部大臣たる趙秉稷は、此謀計を聞くや、直ちに其頭領を招き懇々説諭を加へ、暴挙を思止まらしたりと。
前回に続いて、これまで報告されていなかった事項は、まずロシアの動きに呼応して宮中の護衛兵の数が増やされてた事。
一応、警戒はしていたようで。

ところが、俄館播遷は成功。
何故かといえば、高宗と純宗は女官の乗る駕籠に乗って宮中から出たから、と。
韓国歴史マニアには、結構有名な話です。

春生門以降、女官の出入りに関して駕籠から降りて徒歩で宮中に出入りするのは不都合があるという説が起こり、結局駕籠に乗ったままの通過を許可してたんですね。
このために衛兵も誰何せず、そのまま宮中を出る事が可能だったわけです。

また、事件の日の早朝には、地方から負褓商が大量に来て、通行することが出来ないほど充満。
これは、いずれも俄館播遷後に入閣する朴定陽と李允用が集めたものであり、推測ではあるけど、女官の乗る駕籠での逃亡が失敗した時には、負褓商を使って非常手段に出て宮闕を犯す目的だったんだろう、と。

負褓商による日本公使館襲撃計画もあったが、これは趙秉稷が止めさせた、と。
播遷前後の内閣いずれにも入閣しているという点では、趙秉稷って非常に興味深いよなぁ。

此より前内閣員の挙動を記せしに、当日は総理大臣金弘集を始め、金外部、兪内部、李宮内、権総書等の諸氏、早朝より内閣に聚合し此大変報に接するや、大半既に去れり。
宣しく内閣総辞職を願ひ、以て各自処身の道を謀るべしとの兪内部の発議ありたるも金総理は之を斥け、余は先づ陛下に謁見し陛下の回心を促し、事成らずむば一死を以て国に報ふるの外なしと、決意動すべからず。
是に於て金総理は、内閣を出る中(最初金総理は、英公使館に於て通訳に従事し居る親戚あるを以て途中同館に立寄り、其者を同道して露館に至る考へなりしと)、警務庁より派出したる巡検早已に大闕に入り来り、直に総理を押送して警務庁に拘引したり。
又、一方には巡検数十名、鄭農商工部の邸宅に向ひ、之を捕へて警務庁に拘引したり。
此に於て警官等は、金総理を庁の門前に引出したるに、人民蝟集して立錐の地を余さざるを見るや、抜剣を以て人民を追払ひたる後、金総理を蹴倒すや否や、警官数人抜刀一斉胸背を切り下げたり。
尋て又鄭農商工部を引出し、一刀に之を惨殺し、両屍の脚部に粗縄を結付け、之を鐘路(京城中央の大市街)に引来りて暴露し置き、并に大逆無道金弘集・鄭秉夏と大書せる張紙を為したり。
然るに、彼の街上に充満せる負褓商等は、各其屍体に向て大塊石を投じ又は踏轢り、屍体には一も完全なる所なきに至らしめたり。
要するに此度の事変に付、金・鄭の2氏首として虐殺に遇ひたるは、昨年王妃廃位の時に当り、金氏は首唱者として奏疏を起案し、而して鄭氏之を国王に捧呈したるに由るものなりと云ふ。
事件後の金宏集内閣の行動について。

内部大臣の兪吉濬は、内閣総辞職して各自身の処し方を決めようと述べるんですが、金弘集はこの意見を退け、「余は先づ陛下に謁見し陛下の回心を促し、事成らずむば一死を以て国に報ふるの外なし」と。
んー、前回のこの報告の最初の方には、「最早一身を顧みるの時にあらず。吾先づ露公使館に至り、陛下と謁見して忠諫するところあらん」とあったわけですが、どちらが正しいんだろう?
まぁ、どちらも大意は変わりませんがね。

で、金宏集はその途上、巡検により押送されて警務庁に拘引され、農商工部大臣の鄭秉夏は、私邸で捕らえられて、金宏集と同様に警務庁に拘引。
その後、1月22日のエントリーの『電受第77号』にあるように、二人は警務庁の門前で斬殺。
更に死体の足を縄で縛り、ソウル中央部まで引きずって晒し、「大逆無道金弘集・鄭秉夏」と張り紙。

その後、”負褓商が”死体にデカイ石投げつけたり、足蹴にされたりで、まともな部分が一つも無い状態になった、と。
この負褓商は、当然先に朴定陽と李允用が呼び込んだ者なわけで。
巷間、”民衆に”或いは”群衆に”とされている場合が多いんですが、小村の報告からいくと一般ピープルじゃ無い。

で、彼等が惨殺されたのは、金宏集は閔妃の廃位の主唱者として上疏を書いたため。
鄭秉夏は、それを高宗に捧呈したため。
たったそれだけの理由で惨殺されたとすれば、報われませんなぁ・・・。

ってか、閔妃の暗殺関係ないじゃん!(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)
俄館播遷(六)
俄館播遷(七)
俄館播遷(八)
俄館播遷(九)


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前回は、列国の反応のみで終わっちゃいましたね。
ってことで、今日は舞台が京城に戻ります。

アジア歴史資料センターの『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/2 明治29年2月12日から明治29年2月22日(レファレンスコード:B03050313500)』の11画像目。
小村公使からの1896年(明治29年)2月18日付『電受第106号』より。

今回の事変の善後始末としては、露国と衝突を避くると同時に、我面目を全ふし、我利益を維持するの手段を執らざるべからず。
就ては、各国共同に朝鮮の独立を担保するか、又は露国と話合を着けるかの一に出ざるべからずと信ず。
右に関する政府の方針は、本官に於て各国使臣との応対上必要あるに付、至急御訓示ありたし。
此際■かに撤兵する事は、我面目と我居留民の保護を全ふする為め、断じてなす可からざる事と信ず。
居留民保護及取締のため巡査不足につき、更に50名至急御派遣ありたし。
本官への電報は、以後領事館を経ず、直送相成たし。
仁川釜山間の伝令船には、今少し快速力を有する船2艘を以て、従来のものに御取換ありたし。
小村の意見では、各国共同で朝鮮の独立を担保するか、ロシアと直接話し合って決着つけるかのどちらかだろう、と。
で、それに関する日本の方針について、訓示を求めたんですね。

さて、俄館播遷前に総理大臣であった金宏集と農商工部大臣の鄭秉夏が斬殺されたのは既述の通りですが、ここでもう一人犠牲者が加わります。
1896年(明治29年)2月22日発『電受第110号』より。

魚允中は、郷里へ■る途中、京城を距る7里許りの龍仁と云ふ処にて、去る18日、賊の為めに殺害せられたり。
右は同氏反対者の使嗾に基づくものと察せらる。
元山へは電信・飛脚とも目下不通にて、同地の模様、当地にては分らざるに付、居留民保護の為め、軍艦1隻派■せられたし。
2月18日、元度支部大臣魚允中死亡。
郷里に帰る途中、賊に襲われた、と。
というか、11日から18日までの間、どこで何をしていたんだろう?

で、ここで小村公使から、再び今回の事件に関する顛末報告が出されます。
19画像目からの、1896年(明治29年)2月13日付『機密第11号』より。
長いので、分割しながら行きます。

朝鮮国大君主并に世子宮露国公使館に入御顛末報告

本月5日、当国京畿道驪州地方に蜂起せる暴徒の為め、京釜間の電線全く不通と為りたる以来、去る10日、仁川港碇泊の露艦「アドミラル・コルニロフ」より士官5名、武装水兵107名を率い、外に大砲1門と糧食隊20名、糧食弾薬を具備して入京すとの報に接し候に付、右は即日仁川港出帆の御用船に託し釜山港より発電致置候得ば、已に御承知の通りに有之候処、翌11日午前10時頃、宮内府官吏某蒼惶来報。
今朝未明之頃、大君主陛下及世子宮殿下には、窃に大闕を出て露国公使館に入御あらせられたり。
又、露兵4名は、元警務官たりし李龍燠と同道。
警務庁に至り警務官安桓を捕へ、露館に拘引せり云々の報知に接し候。
依て景況探聞の為め、直に国分通訳官を内閣に遣はしたる処、此時内閣には総理大臣金弘集、外部大臣金允植、内部大臣兪吉濬、宮内大臣李載冕、内閣総書権任衡等諸氏聚合し居りたるを以て、昨夜来の模様を尋問せるに、曰く今払暁まで李宮内大臣には陛下に侍し居り、更に異状も無かりしと云ふ。
少時にして金総理は、事既に此に至る。
最早一身を顧みるの時にあらず。
吾先づ露公使館に至り、陛下と謁見して忠諫するところあらんと、決然大闕を出でたるも、竟に途に惨虐なる死を遂げたり。

又、露国公使館に於ては、大君主・世子宮来報の後、一方に於ては別紙第1号の通りの詔勅を市街各処に掲示し、又一方には、前記の如く警務庁より警務官安桓を捕へ来り、同人に逆賊捕縛の詔勅を交付し、警官を率ひ各処に分派せしめ、又別紙第2号の通り、現内閣員を斥け、更に金炳始を総理大臣に任じ、以下孰れも従来米国公使館に潜伏し居たる李允用、李完用の輩を以て内閣を組織したり。

同日午前、露公使スペヤー氏より別紙第3号の通り、朝鮮大君主并に世子宮には、避難の為め今朝同館に入御ありたる旨の通知に接したるに付、一応領収の旨を回答し置たるに、尋て米国公使シル氏より別紙第4号の通り露館に於て本日正午12時、朝鮮大君主陛下各国使臣に謁見せしめらるる旨通知に接したるに付同館に赴きたるに、時刻稍後れたる為め、各国公使領事は謁見を済せ既に退去したる後なりしが、本使は単独にて謁見したるに、大君主陛下は、目下闕内に在るも危険なるを以て、一と先づ当館に入りたる旨を述べられたり。
本使は直に御前を退き、更に露公使スペヤー氏に面会し、目下人心物々の際なれば、両国兵士間に衝突を起すことなき様致度と云ひたるに、同氏も同感なる旨を述べたり。
依て直に帰館せり。
以上、大略の事情は仁川領事館を経て同夜出帆の御用船に託し、釜山領事を経て及電禀致候通りに有之候。

午後6時30分頃、新任外部大臣李完用より別紙第5号の通り、就任の通知に接し候得共、回答は一と先見合置き候。
京城と釜山間の電線が不通だったため、仁川から船で釜山に向かい、釜山から発電という形で今までの報告もやり取りされてたんですね。

で、1月24日のエントリーの『電受第87号』等で報告されていない事項としては、まずロシア側は水兵・大砲だけではなく糧食隊20名と糧食弾薬も運び込んだ、と。
やる気満々ですな・・・。

そして、元警務官がロシア兵と共に警務庁に来て、当時の警務官安桓を捕らえてロシア公使館に拘引。
ここで、今までの史料で「金宏集」と表記されていた「金弘集」が、「最早一身を顧みるの時にあらず」として高宗に忠諫しに向かい、殺された、と。
現内閣員は更迭。
金炳始を総理大臣として、従来アメリカ公使館に潜伏していた李允用、李完用兄弟を中心にして、内閣が組織された。

ロシア公使スペールからは、高宗と純宗は避難のためにロシア公使館へ滞留している旨の通知が、アメリカ公使シルからは、正午に高宗がロシア公使館で謁見を行う旨の通知が届き、事件の日の昼頃には高宗に謁見。
高宗は、宮中に居るのも危険なので、ロシア公使館に一時逃げたと述べる。
ついでにロシア公使にも面談し、相互の兵の衝突を起こすことが無いように注意する事で合意。

新任外部大臣となった李完用からは就任の通知が来ますが、1月27日のエントリーの『電受第102号』にもあるとおり、日本から訓令があるまでは新政府を公然と認めるような真似はしないのが小村の方針であり、回答は一旦見合わせた、と。


という所で、今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)
俄館播遷(六)
俄館播遷(七)
俄館播遷(八)


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事件発生以降、特段何も無いままここまで来ている俄館播遷。
日本としても、他国の動向を見ずにロシアに敵対的行動を取るわけにもいかず。
ということで、列強各国公使から少しずつ報告が送られてくるわけです。
まずは、オーストリアに関する高平公使の報告を、アジア歴史資料センターの『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/2 明治29年2月12日から明治29年2月22日(レファレンスコード:B03050313500)』、7画像目。
1896年(明治29年)2月21日『電信訳文』より。

澳国は、東洋に於て利害を有せず且欧州各国の意思に関し報告なきが故に、澳国外務大臣は、朝鮮に於て露国の措置に付き何等の意見をも述ぶること能はず。
併し同大臣は、日本国に於て戦争に因て以て博し得たる東洋平和の要素たるの地位は、慎重・穏当の政畧を以て維持せられんことを希望する旨を述べたり。
当地の世論は、甚だ扣え目なり。
オーストリアの反応は、直接利害関係ないし、よく分かんないけど平和なのが良いよね、と。(笑)
続いて、ドイツの模様を青木公使による1896年(明治29年)2月21日『電信訳文』より。

独国政府に於て、朝鮮事件に関し其の執るべき位置を未だ決定せず。
依て、曾て「キムバレー」(英国前外務大臣)の述べたる「朝鮮の独立のみならず、其の領土の完全も亦た保全せられざるべからず」との語に注意を促し、独国外務大臣に向ひ、独逸は朝鮮の一條約国なれば、少なくも慥に英国位の希望を有せざるべからずと告げたるに、同大臣は本使に同意を表せり。
本使の説にては、独逸政府は三国干渉に付政治上の失策をなしたれば、軽々しく事を処せざるべし。
夫れは兎も角、日本に対する独国政府の意嚮は都合善き方なり。
政府党機関新聞の或る者は全く黙して意見を述べず、又或る者は三国干渉より生じたる出来事の自然の結果は、今日の事態を惹起したりと云ふ。
又、今日尚ほ未だ日本に対し、友情を懐き居る自由党の機関新聞は、朝鮮に於て日本の勢力首位を占むるは、取りも直さず秩序・権力の平衡を維持の謂なれば、日本国は戦後直ちに■陸軍の準備を完全するの時機を失し、且つ政治上孤立の地位に立つたるを遺憾とせり。
ドイツの三国干渉での政治上の失敗とは、三国干渉によってロシアが東清鉄道、フランスがインドシナ鉄道の敷設権を得たのに比して、何等得る所が無かった事を指していると思われます。
最も、この後膠州湾を占領し租借地にするわけですが、兎も角、そういった経緯もあり、ドイツは朝鮮半島には介入しない、と。
まぁ、三国干渉を考えれば、ロシアに与しなければ良しだよなぁ。

次は、三国干渉のもう一つの当事国、フランスに関する報告。
1896年(明治29年)2月21日『電信訳文』より。

仏国公衆は、議院問題に汲々として是日足らず、其結果遂に内閣更迭を見るに至るべき姿なれば、未だ朝鮮公使に■し、其の意見を表するに至らず。
併し、或る仏国新聞紙は、英国より出でたる風説なりとて左の如く記載せり。
曰く、露国は来春を待て其の計画を実施すべし。
語を換へて之を言へば、朝鮮に於て保護権を確立し、而して後に国王及王妃に関し処置を執るべしと。

仏国外務大臣は、在朝鮮仏国公使より未だ公報に接せざれば、未だ詳細に朝鮮公使を取調ぶるに至らずと言■せり。
んー。
イギリスもそうだったけど、フランスもごたごたの最中らしい。
内閣更迭まで話が大きくなるっつうのは、ちょっと時期的に早い気もするが、ドレフュス事件関係かな?

ただ、ある新聞は、イギリスから出た風説だとして、ロシアが来春に朝鮮の保護権を確立するだろうという記事を掲載。
まぁ、他国の公使館に国王が逃げ込むって時点で、普通はそう思うよなぁ。(笑)

続いてアメリカ。
1896年(明治29年)2月21日『電信訳文』。

国務大臣は、未だ露国の真実の目的を確め得ずと云ふ。
併し、合衆国は朝鮮に於て何等特別の政畧を及せざるゆへ、何の意見もなし。
又、何等の処置を執らざるべし。
一己人として、同大臣は余り高手的なりと思考す。
且つ曰く、本件は一国を捕へたるに異ならざるが如しと。
同大臣は■く日本を警戒するに■■衝突を避くることに尽力すべきを以てせり。
今回の朝鮮事件の新報は殆ど各新聞紙に掲載しあれども、何れの新聞紙に於ても、敢て之を批評するものなし。
貞洞派を公使館に匿っていただけあって、アメリカも冷たい反応。

まぁ大臣個人は「本件は一国を捕へたるに異ならざるが如し」と述べてはいるものの、先のイギリスからフランスまで流れてきたロシアによる朝鮮の保護権確立の風説を見るまでもなく、誰でもそう思いますわな。

今日最後は、イタリアの反応について1896年(明治29年)2月21日『電信訳文』。

今回の朝鮮事件に関し伊国外務次官述べて曰く、伊国極東に於て余り直接の利害を有せずと雖も、伊国政府は常に有用ならんとの意嚮なり。
何となれば、該方面は欧州各国、殊に同盟国と利害を同じふするが故なり。
輿論は無関係の方なり。
当地の或る新聞紙論じて曰く、■日バルフオルの演説ありたる末なれば、英国が露国に対し■強き処置を執ることは、到底望むべからず。
左すれば、多分日本国唯だ一国にて之に抵抗せざるを得ざるべしと。
この時期、イタリアの同盟と言えばドイツ・オーストリアとの三国同盟なわけですが、どちらも冒頭の通り朝鮮自体に興味があまりないわけで。
日本も孤立無援。


という所で、今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)
俄館播遷(六)
俄館播遷(七)



良い前書きも思いつかないので、早速史料から。
アジア歴史資料センター『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の44画像目から。
1896年(明治29年)2月18日付『電受第102号』。

15日発の貴電接手。
御注意の廉々は、重々注意を加へ居れり。
目下の処、別に懸念すべきものなし。
各国使臣は、前電にも申進■める通り何等の手段を執らず、新政府を認むるや否やの論の如きは彼等の間に起らず。
唯本官は、御訓令の有る迄は公然之を認むるの処置を執らず。
「15日発の貴電」とは、1月22日のエントリーで取り上げた『電送第58号』かな?
兎も角、これまで見られてきた通り、外国の使臣は俄館播遷についてはフツーに受け入れたわけで。
小村は、当然日本の方針決定がなされるまでは、新政府を公然と認めるような真似はしない、と。

続いて、1月21日のエントリーの詔勅で、高宗の前に首持ってこいと名指しされた趙義淵等について。
1896年(明治29年)2月20日釜山発『電受第104号』より。

軍部大臣趙義淵・大隊長李範来・同李軫鎬以下2人、難を・(官+しんにょう)れて当地に来り。
御用船小樽丸に搭じて、昨18日宇品へ向け出発せり。

2月19日、宗谷丸便にて釜山より発電せしむ。
こうして、仁川経由で5名が日本へ逃亡。
以前記載したとおり、約11年半後にその殆どが特赦される事となります。

さて、次から史料は『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/2 明治29年2月12日から明治29年2月22日(レファレンスコード:B03050313500)』に変わります。
1896年(明治29年)2月19日発『第11号』より。

本月19日、本使は露国外務大臣に面会し、若し目下朝鮮に於ける■■の状態をして尚ほ■■継続せしめなば、容易ならざる結果を虞るる旨本使の意見を述べたる上、何時頃朝鮮国王王宮に帰り、朝鮮政府其常状に復せらるべきやと露国外務大臣の意見を尋ね、且つ露国外務大臣をして、前記の意味を以て在韓露公使■訓令を発せしむる様尽力せしに、同大臣答へて曰く、英国其他■国にても水兵を上陸せしめたりとのことなれば、余も亦た何か葛藤の起らんことを恐る。
併し、目下電線普通の為め、余の手許に■したる朝鮮実況に関する報告甚だ少なきゆへ、差向き国王は何時迄露国公使館に駐留せらるる積なるや■言し難く、又た、在韓露国公使へ訓令することも■■難しと。
露国外務大臣に於て詳細の事実を知らざることは、在韓露国公使が然と■■不充分の報告を送りたるに■由するか、若くは露国外務大臣に於て殊更らに、在韓露国公使に向て広大なる措置の自由を与へたるものなるや、本使は孰れとも慥に■難し。
当地新聞■は総て黙然たる姿にて、今回の事件に付ては殆ど何等の報告をも掲載せず。
而して、一般の感情は10月8日の事件の為め、寧ろ朝鮮人の豪胆なる処置に■し、同情を表するものの如し。
んー、久しぶりに穴が多い。(笑)

ロシア公使の西徳二郎がロシア外務大臣に面会。
ロシアの外務大臣に対して、いつまでこの状態続けんのよ?と尋ねると、本当か嘘かは不明ですが、在朝鮮公使のウェベルからの報告が少なくて、よく分かんねーよ、と。

外務大臣が詳細を知らないのは、ウェベルが不充分な報告を送ってるか、外務大臣がウェベルにかなりなフリーハンドを与えているのかは判断が難しいと西は述べているわけですが、単にとぼけてるという可能性は無いもんだろうか?(笑)

で、新聞は俄館播遷を殆ど伝えていないけど、ロシアの一般民は閔妃暗殺事件のせいで朝鮮に同情的、と。

今日最後の史料は、西園寺から小村への1896年(明治29年)2月21日発『電送第64号』。

昨日横文電信を以て申進したる件に関し、露国公使より何等の回答なきも、何れ不日閣下将来の措置に付、更に訓令する所あるべし。
(但し、2月17日発長文2通の貴電中にある閣下の措置は、本大臣に於て適当を認む。尚ほ、此上とも諸事御注意あることを希望す。)
うーん。
横文電信が何を指しているのか分からないなぁ・・・。
恐らく、前回の「朝鮮独立の共同担保と朝鮮内政の共同監督」に関する話だと思うんですが。

また、長文2通から考えると、17日発とあるのは17日付のことであり、1月25日のエントリーの『電受第93号』と前回の『電受第96号』を指しているんじゃないかな?

その、小村の措置を適当である、と。
というか、それ以外に手のうちようも無い気がしますが。(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)
俄館播遷(六)



最近、エロトラバが増えてますな。
トラックバックのほとんど無いブログなので、やたら目立つ。(笑)
せっせと削除はしてるんですが、そのうち面倒くさくなって放置するかも。

ってことで、本題。
前回の最後に、小村の基本方針についての報告があったわけですが、今回は、これに関して実際どのような措置をとっているかの報告から行きます。
アジア歴史資料センター『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の39画像目。
1896年(明治29年)2月17日付『電受第96号』より。

今回の事変に際し、本官は左の措置を施したり。

一.我守備隊は、公館及び居留民保護と、露兵と衝突を避くることに特に注意を為さしめたり。
二.領事は、居留民の恐慌と激動を防ぎ、朝鮮人の挙動に警戒を加へ、当地附近にある我人民を保護することに注意せしめたり。
三.内地に入り込み居る我人民には、出来得る限り今回の事変を通告して、成るべく其最寄りの我居留地■くは我人民多数の居留し居る場所に会合して、引上げの準備を為すべきことを諭達せり。
四.開城不穏の報ありたるを以て、巡査を派走して、同地居住の人民を仁川又は当地に引上げしめたり。
五.平壌不穏の恐れありたるに付、該地方の人民は一先づ同地に集合せしめ、必要の場合には汽船を大同江口に向ける積りなり。
六.朝鮮政府日本人は、危険なき限り従前の通り■動すべきことを諭示したり。

事変後に於ける城内一般の形勢は、先づ静穏なれども、第二の事変と日露葛藤の生ぜんことを恐れて、内外の人心頗る恟々たり。
国王及び内閣は依然露館に在りて、内閣員は危害を恐れて一歩も館外に蹈み出す者なし。
又、閣員互に政権を争ひ政令帰着する所なくして、今日は殆ど無政府の姿なり。
一般人民は国王の所在を失して茫然たるものの如し。

春川の暴徒は、去る8日親衛隊の為め其根拠を■かれたれども、残徒尚ほ諸方に散在す。
然るに、新政府は出征軍隊を召還せり。
今回事変の結果により、右暴徒の一部は却て不平を■すに至る恐れあり。
■等の暴徒は、何れも京城に押し寄するやの風説あり。
朝鮮人民一般の意向は事変以来頓に変じて、総て日本排斥の傾向を呈せり。
今回の詔勅に、明治27年7月及28年10月の変に関したるものは其罪を赦さず、又27年7月以来開化と称し変革を行ひたるも其実なしとの文句あるが如き、其一班を表するものなり。
小村の措置は、当然居留民保護が第一。
場所によっては引き上げの準備までさせる念の入れよう。

一方、内閣はこの期に及んで政権争いしていて無政府状態。(笑)
春川の暴徒は、1月22日のエントリーで詔勅が出され親衛隊は引き上げたわけですが、播遷の件で暴走する恐れあり、と。

そして、1894年(明治27年)7月23日の王宮占拠と大院君擁立及び、1895年(明治28年)10月8日の閔妃暗殺事件に関与した者はその罪を赦さず、甲午改革で変革を行っても、その実効性がないという意味の詔勅が出たようです。
で、朝鮮の一般人は、例の如く手のひらを返すわけで。(笑)

続いては、前回も述べたイギリスの反応に関して。
1896年(明治29年)2月19日発『第13号』より。

ソースベリイ侯は、朝鮮の事変に関し何も意見なしと云ふ。
又、該出来事は今日迄の成行にては、英国をして正当に露国に対し外交問題を起こさしむる丈け、充分緊要とは思考せずと云ふ。
同侯に於ては、日本国は最も利害痛痒を感ずる国柄なれば、却て日本国の意見を知らんことを欲せり。

本使より、東洋に於て露国の南下に対する英国政府の大体意嚮を尋ねたるに、ソースベリー侯之に答へて、若し露国が購買等の平和的手段を以て純然たる通商港を入手することなれば、英国は之に対し異議なかるべし。
併し、若し露国が軍港を有せんとせば、夫れは全く別問題なり。
イギリスの態度は前回と変わらないようで。
やはり今回の事変についてさほど緊要な案件とは考えられず、寧ろ日本の意見を知りたい、と。
且つ、ロシアの南下政策へのイギリスの意向を聞いた所、ロシアが購買等の平和的手段によって利権を得るなら異議は無い。
但し、軍港を獲得しようとしたならそれはまた別の話、と。

続いて、この後調印される事となる「小村-ウェーバー協定」の元となる小村の構想が記された史料について。
1896年(明治29年)2月18日発『電受第100号』より。

段々探索する所によれば、露公使は差当り露兵を以て王宮を護衛さる事を、敢てせざるものの如し。
抑も今回の事変は、露国に於て予め開戦の決心なくてはなす能はざりしことと信ずれども、今露公使が王宮護衛のことを躊躇するを以て見れば、同公使は昨年10月8日以前の政府を回復するには、何等の手段を用ゆるも差支なしとの訓令の範囲内にて今回の陰謀を計画したるものならんかと察せらる。
果して、右本官の推測の如くなりせば、今後更に訓令を得ば兎も角、差当り開戦に至るべき行為は、先方に於ても成るべく避くることなるべく、随て、我政府が露国に対し朝鮮問題を決するに尚ほ一時の猶予あることと信ず。
本官の考にては、朝鮮独立の共同担保と朝鮮内政の共同監督と云ふ2個の基礎に依り、露国と協議する事最も捷径ならん。
右、御参考迄に具申す。
最も恐れていた、ロシアとの開戦に陥る事態はどうやらなさそうであり、その若干の猶予期間がある内に、朝鮮独立の担保と、朝鮮の内政の共同監督を基礎としてロシアと協議するのが、朝鮮問題解決の近道だろう、と。
朝鮮の独立。
朝鮮の内政改革。
日清戦争でも謳われた文句だね。(・∀・)ニヤニヤ


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)
俄館播遷(五)



韓国大統領、靖国参拝中止「放棄しない」

「韓国民が受ける気持ちを考慮しなければならない」>的はずれ。靖国は韓国人に関係無い。
一方で、経済・文化分野での日韓交流は政治と分離して考えると述べた。>政冷経熱でも何の問題も無いってことで。

韓国大統領、日韓シャトル会談再開に否定的・新年会見

「要求するものは要求し、抗議するものは抗議、拒否するものは拒否する外交が必要だ」>相変わらず一方的主張します宣言ですか?
「意見が違うときは普遍的原則に従うべきだ」>韓国でしか通用しない普遍的原則。


靖国参拝で首相「中韓両国以外から批判ない」

そして瞬殺。(笑)
いつまでも日本が優しいと思ったら、大間違いですな。


さて、今日はイギリスの反応から。
1月23日のエントリーで若干触れたものの、どうもイギリスにもイギリスの事情があるらしく。
アジア歴史資料センター『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の31画像目、1896年(明治29年)2月17日発『第12号』より。

第11号貴電に関し、来る水曜日迄はソースベリー侯に面会出来ざる■、本使は外務次官に面会せり。
同■は、総ての事実を知り居れり。
同■の言ふ所にては、英国政府は本件に関し、他に告ぐる様なる何等の意見をも定めずと。
本使は、ソースベリー侯に面会の後、更に電報すべし。
本使の考えにては、英国はベネズエラ、トランスヴァール及米国事件の結果として、目下孤立の地位に立ち居り、且つ近頃世論の趨勢は、太平洋に於ける露国の大望を破るべからずと云ふにあるを以て、英国政府は此際、露国に対し何等の処置を執らざるべし。
第11号とは、恐らく23画像目と24画像目の文書と思われ。
今までに出てきた史料と大幅にダブるため省略したものです。
崩し字はあまり酷くないので、見たい方は各自。

ソースベリー侯というのは、第11号の電信を見る限りだとイギリス外務大臣なんでしょうが、ソールズベリーならば首相かな?
ちょっと正確には追えてない。
で、ソースベリー侯に会う事はまだ出来ず、取りあえず外務次官に面会したところ、事情は総てしっているが、現在の所イギリスとしては何の意見も無い、と。

この時在英公使だった加藤高明の考えによると、当時イギリスがベネズエラ、トランスヴァール及米国事件の結果として孤立状態にある、と。

これについてベネズエラの問題とは、恐らく1895年の英領ギアナとベネズエラとの国境紛争。
トランスヴァールは、同じく1895年、トランスヴァール共和国でのセシル・ローズの反乱失敗&ジェームソン率いる南アフリカ会社の軍隊が越境し、ボーア人に反撃包囲され、全軍が捕虜になった事件。
米国事件はイマイチ不明なんですが、恐らくベネズエラとの国境紛争におけるアメリカの仲裁にかかるいざこざの件だと思われます。

で、おまけに世論はロシアの大望(恐らくは南下政策を指していると思われる)を破ってはならないという方向に傾いており、結果ロシアに対して何の処置にも出られないのだろうと推測したんですね。
これらの英国の孤立に関しては、別途報告があるようなので後日そちらを見てみることにします。

さて、前回外部大臣李完用の名前で新内閣の設置・開化を勧める事・日本と益々親密に付き合いたい旨が日本に通知されました。
今まで取り上げてきた『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の中でも、それに対する上奏案等の記録が残っているが、ここでは案ではなく実際に上奏された方を見てみます。

『公文雑纂・明治二十九年・第九巻・外務省一・外務省一/朝鮮新内閣組織セラレタルニ際シ我国ト益々親密ニナシ度旨同国大君主陛下ヨリ詔勅アリタル趣同国代理公使ヨリ申出ノ件(レファレンスコード:A04010021100)』より。

外務大臣上奏本月11日朝鮮新内閣組織せられたるに際し、我国と益々親密になし度旨、同国大君主陛下より詔勅ありたる赴、同国代理公使より申出の件。
右、謹て御覧に供す。

本月11日、朝鮮国大君主陛下に於ては新内閣を組織せられ可相成、開進の方針を執らるるに付、最も日本と親密にせられ度旨詔勅有之候に付、日本政府へ伝達すべき旨、本国外部大臣より本月15日電訓ありたる趣、昨日本邦駐箚朝鮮国臨時代理公使李台稙より申出候に付、此段謹で奏す。
まぁ、あまり意味のある史料では無いんですが。(笑)

続いて、再び『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』に戻って37画像目。
小村公使からの状況報告。
1896年(明治29年)2月17日付『電受第93号』より。

今回の事変に対する本官の措置としては、先づ使臣会議を開きて、事変の顛末と各国使臣の新政府に対する地位とを明かにし置くの必要ありと認めたれども、此際は、極めて慎重の挙動を要する時と考へたるに付き、充分各国使臣の意向を確めたる上にて着手することに決し、事変の翌日本官は、米英独等使臣を歴訪して意見を叩きたるに、何れも目下の地位を以て頗る危急と認め、唯々事変の結果を本国政府に電報するの外、何等の手段を採るを得ず。
今縦令ひ使臣会議を開くとするも、露公使は11日の朝公文を以て通知したる通り、国王難を避けて同館に投じたりと云ふ外、他言なかるべし。
又、使臣会議の招集あらば何れも出席すべきも、別に意見を述ぶるを得ずと云へり。
実に今回の事は、内部の魂胆は暫く措き、外部に於ては露公使の処置に責むべきものなきが如くなるを以て、使臣会議を開くも切なき事と信ず。
此上は朝鮮政府に迫り、国王の宮闕に還御を要求する事至当と考ふれども、目下の事情より察すれば、新政府の地位猶ほ頗る危険なるを以て、露兵の掩護あるに非れば到底還御の事行はれざるべし。
然るに露公使は、今回の計画図に当り表面上他の非難を受けずして国王を擒にしたる事なれば、■めて其兵を以て王宮を護衛することは、出来得る限り避くるならん。
万一還御の止むを得ざるの場合ともならば、露公使は更らに多数の兵を京城に入れて王宮の護衛に充つる事、自然の勢ひなり。
事情右の如くなれば、本官に於て強ひて国王の還御を主張する時は、露国との関係を切迫ならしむるの畏れありと信ずるに付、何分の御訓令有る迄は、本官の措置は唯我が人民の安全を保持し、露国との衝突を避くるの手段を執るに止まるべし。
他国の公使も動かず、ロシアは先の播遷理由を繰り返せば、表面的にはロシアの処置を責めるべき余地が無い。
これ以上王宮に戻るように強いれば、ロシアは王宮護衛の為に兵力を増大させると考えられる。
要するに、大義名分がロシアにある以上、打つ手が無いんですね。

結局小村は、何か訓令のあるまでは邦人の安全保持と、ロシアとの衝突を避ける事に専念する事を決定。
放置プレイを決め込むわけです。


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)
俄館播遷(四)



前回までで出てきた史料中、播遷についてロシアからの公文が出た事が述べられていました。
今日はその中身についてから。
アジア歴史資料センター『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の18画像目。
1896年(明治29年)2月16日発『電信訳文』より。

本月11日、露国公使より公然通知して曰く、朝鮮国王陛下は、目下当国政治上の形勢実に容易ならざることを察せられ、且此未尚王宮に駐まりたまはば、玉体の安全に対し甚しき危険あるを以て、皇太子殿下と共に当公使館に潜居せられたりと。
本使は本月14日、右書簡落手の旨回答し置けり。
まぁ、この次の史料にもでてきますが、高宗が身の危険を感じたのは本当。
ってことで、事件経緯のまとめの形となる電文を見てみましょう。
1896年(明治29年)2月15日付『電受第87号』より。

国王・世子は、当分露館より還御する模様なし。
内閣は露館内に設けられ、各部は同館付近に仮事務所を置けり。
現任各大臣等は、露館より出る事なし。

(以下暗号)

国王・世子を王宮より誘出するの計画に与り、周旋したるは女官金・元の2人(元は王の愛妃)。
就中ゲンは、是迄露館と密通し、其贈物を受け、奉露主義の婦人なりと云ふ。
一昨日、国王の側近李サイクワン露館に至り国王に謁見したるに、王は侍臣を却づけ一封の書牘をサイクワンに示さる。
其大意は、各大臣等日本兵と共謀し密かに不軌を謀り、将に闕に入り国王を廃せんとす。
時機切迫、甚だ危険なり。
速かに露館に播遷あって加害を免かれ玉ふに如かず云々。
而して此書牘は金明載なる者携へて宮に入り、宮女ゲン氏に交附し王覧に供したるに、国王は大に驚き、11日払暁、宮内官吏の隙を窺ひ、露館に潜行せらるるに至れり。
右書牘中に云ふ、各大臣日本兵と共謀不軌を謀ると云ふは全く捏造説にして、之れ則ち国王を誘出する計策と知られたり。
可興ボウコイン間の電信線を切断したるは、露館の指揮に因りたるものなりとは、李範晋が宮内官吏に向て事変后直話せし所なり。
李範晋等が、春川の暴徒に気脈を通じ居りたるは事実なり。
事変前、国王が内閣員に向て直話中、李セウヲウが暴徒の巨魁たる以上は李範晋等の関係は掩ふべからず。
範晋は、昨年10月8日事変前に於て、李セウヲウを切に推薦し、或る大官を授くべしと迫りたること再三なりしと。
要するに今回の事変は、昨年10月8日事変の復讐に出たるものにして、国王は李範晋等に向て一度復讐の念を晴らすを■ば、縦令へ国家滅亡するも、敢て厭ふ所にあらずと明言せられたりと云ふ。
史料中、王の愛妃であるとされる宮女「ゲン」に、「元」があてられていますが、播遷中に厳妃が英親王李垠を身ごもる事を考えると、「厳」が正解かもしれません。

で、高宗がロシア公使館に逃げた理由は、金明載→宮女ゲン→高宗という経路を辿って届いた、「各大臣が日本兵と共謀して反逆し、国王を退位させようとしている。大変危険な状態だから、直ぐにロシア公使館に逃げて加害を免れた方が良い。」という書状。
当然捏造。(笑)

これに関して、巷間閔妃暗殺事件に絡めて身の危険を感じたとする記載が多いですが、実は壬午軍乱の頃から臣下による身の危険はずっと感じてるわけで。
まぁ、この報告があるんだけど、別の機会に取り上げる事にします。

電信線を切断させたのはロシアの指示だと、李範晋が事件後に直接話した、と。
李範晋自身は、春川で起きた暴徒の首魁について、以前猟官活動してたほどツーカーの仲。

結局、露館播遷が行われたのは閔妃暗殺事件の復讐から始まったもので、高宗も李範晋に向かって、一度復讐の念を晴らすことが出来れば、国が滅んでも良いと明言した、と。
つうか、復讐って、事件後の勅令を見る限り、「禍乱の張本人たる禹範善、李斗鎬、李範来、リシンコウ、趙義淵、権濚鎭等を斬首して露館に来り、朕の観覧に供せよ」じゃんよ。(笑)

しかも、日本に対しては1896年(明治29年)2月15日京城発の次のような書簡が届く。

2月11日、大君主陛下新内閣を施設せられ可相成、開化に御用意せられたるに付、最も日本と親密にせられ度旨、詔勅を以て日本政府に伝達せよ。

外部大臣 李完用
外交辞令というにもあまりにヌケヌケとした詔勅だなぁ・・・。
つうか、額面通り受け取れば、先の史料の「閔妃暗殺事件の復讐」なるものには、日本は係わって無いってことで良いですか?(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)
俄館播遷(三)



先日、昨年の10月7日のエントリーに関して、早稲田の論客 ◆3zWaseda2A 氏から補強史料を教えていただきました。
現物確認は後ほど行うとして、まずは御礼申し上げたいと思います。
やっぱり、「競技人口」って大事。

さて、前回迄で俄館播遷発生の取りあえずの経緯が分かりました。
その後小村は、『電送第58号』を受けてか、各国の公使への訪問の様子を報告します。
アジア歴史資料センター『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の16画像目。
1896年(明治29年)2月14日付『電受第78号』より。

昨日米公使を訪問し、目下の形勢に関する意見を叩きたるに、去る11日の事変の結果として憂慮に堪へざるもの3あり。
一.日本壮士輩、激昂して復讐的挙動に出づること
二.朝鮮人が日本人に対し、暴行を加ふること
三.日露間の葛藤なり。
併し、何等手の附け様もなく当惑せり。
又、今回の事変は、露国(公)使が已に公文を以て通知せられたる通り、国王が露公使館に難を避けたりと云ふの外なしと申居れり。

次て英独領事等を訪問したれども、別段意見を述べず、一般に目下の地位を以て頗る切迫し居るものと認むるが如し。

本官は、我が人民の挙動を制し、軍隊の衝突を避けん為め、充分の注意を加へ居れり。
去りながら、朝鮮人の挙動は、已に11日の夜我が公使館を焼払ふの計画ありたりと云ふが如く、到底予想し難きものあるに付、我が居留民の生命財産を安全に保護するの見込立つ迄は、是非共我が守備隊を当地に留め置く必要ありと認む。
尤、王城前なる現今の兵衛は、此際之を居留地近傍に引揚の計画中なり。
当地の形勢と、当国北方よりの来報により考ふるときは、日露の関係は目下極めて切迫し居るものと認む。
就ては、我政府は朝鮮を各国保護の下に置くや或は露国と協議を遂ぐるか、兎に角露国に対し朝鮮問題を決定することは、寸刻も猶予すべからざる緊要事件と考ふ。
まぁ、国王自身が身が危険だからロシア公使館に逃げたと言っている以上、誰もどうしようも無いわけです。
で、小村はこれまで通り、第一にロシアとの衝突を避ける事、第二に日本居留民を守る事を目途として行動。

そんな中で、アメリカ公使の憂慮していた事が起きます。
1896年(明治29年)2月13日付『電受第79号』より。

去る11日の事変に当り、市街に曝されたる金宏集・鄭秉夏の死骸を見物に行きたるる長崎県人田中秀一なる者、同所に群集せる韓人の為めに殺害せらる。
目下犯罪人の逮捕方に付、厳重に掛合中なり。
其後、別■不穏の模様なし。
此際、我国人と露国兵との衝突を避くることに付ては、充分注意し居れり。
田中・・・
野次馬根性出してんじゃねーよ・・・。

ここで記されている「我国人」とは、恐らく米公使も懸念を懐いている「壮士輩」の事でしょう。
あいつら、朝鮮人並みに「軽挙」に出るからなぁ・・・。

続いて仁川の様子について、1896年(明治29年)2月16日発『電受第85号』より。

当地居留民は、目下留意■業し居れり。
京仁間の交通危険あるに付、郵便は護衛兵卒2名を附する筈。
当地英領事の■■大要御参考の為め左に報告す。
露国今回の挙動に対しては、英国は絶対に反対を表す。
然れども、此際尤も利害を感ずるは日本なるが故に、日本の意向明かなるを待ち、事を処する考なり。
在京城英公使は、釜山及び芝罘電信により在東京英公使并に本国政府の訓令を■き居れり。
我英国は、日本■露国を排却するに意思なければ、朝鮮を以て局外中立国とすることに対しては、十分の賛同を表すべしと。
又、露■「ボウブル」は、昨正午芝罘に向け出帆したり。
「コルニロフ」のみ本港に在り。
イギリスはロシアの今回の行動については絶対反対。
しかし、最も利害関係があるのは日本であるから、日本の意向が明らかになってから対処する方針、と。

で、ここで唐突に「我英国は、日本■露国を排却するに意思なければ、朝鮮を以て局外中立国とすることに対しては、十分の賛同を表すべし」と出てきます。
イギリスが、朝鮮を局外中立国とすることに賛同を表す。
この中立化構想も、追っていけば面白いかもね。


今日はこれまで。



俄館播遷(一)
俄館播遷(二)



一日で30cmも40cmも降ってんじゃねーよ・・・。_| ̄|○
雪かきに合計4時間もかかってたりするわけで。
これで良くブログなんて書いてるな、と。(笑)

さて、前回迄の史料では、暴動という陽動作戦と、播遷に伴うロシア公使館の守備兵強化という経緯を辿っているようにしか見えなかった俄館播遷。
今日はその続き。
アジア歴史資料センター『韓国王露公使館ヘ播遷関係一件/1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(レファレンスコード:B03050313400)』の9画像目、1896年(明治29年)2月11日付『電受第75号』から。

今朝、国王世子共に王宮を逃出て、露西亜公使館に潜行せり。
国王の詔勅と称し、市街各所に掲示せる文面には、逆賊趙義淵外数名を斬殺すべし云々とあり、并に総理大臣には金炳始、内部大臣には朴定陽、外部兼農工商大臣、宮内大臣には李載純、「ハワグワヨウレウブ」には趙秉稷、軍部兼警務使には李允用命ぜられたり。
前総理金宏集、前農工商大臣鄭秉夏は殺されたり。

右は小村公使の委託に依り御報に及ぶ。
小村→三宅陸軍大尉→西園寺という流れを辿った電文。
何故ワンクッションおいたのかは不明。
電信線を切られた関係からかな?

新内閣の顔ぶれについて、前回の『電受第69号』とは若干異なりますね。
で、前総理の金宏集と前農工商大臣の鄭秉夏は已に殺された、と。

これらの電文を受け取った西園寺は、次のような返電を出します。
1896年(明治29年)2月(日付読み取れず)発『電送第58号』。

今回の事変に関し、加藤領事及び三宅大尉を経て送られたる貴電2通受け取りたり。
露兵と衝突を予防する為め閣下の執られたる処置は、本大臣の是認するところなり。
閣下より伺出の事については、追て何分の訓令を送るべし。
去れども、兎に角我が軍は露兵との間に衝突を起こさざる様、且つ我が居留民に於て不穏の挙動無之様、充分に注意せらるべし。
各国の挙動、なるべく詳細に報告之ありたし。
前回の小村寿太郎の「衝突を起すは、目下時機に非ずと信ずるを以て、貴大臣より何等の訓令ある迄は、飽く迄穏和手段に出る」という方針が是認されたわけです。

ロシア公使館への事実確認と意向確認を基調とした部分がカットされた理由は、分かり切った事であるからか、取りあえず様子を見る事にしたのか、他の国の出方を窺う事にしたのか、様々考えられるものの現時点では不明。
というか、恐らくこの時点では、まさか他国の公使館で一年間も政務と執るとは、思ってなかったんだろうなぁ・・・。(笑)

続いて、1896年(明治29年)2月14日付『電受第77号』。

11日事変後、引続き国王世子は露館に駐留し、親衛隊、工部隊の一部及び巡検は該館の周囲を警戒し、露兵は館内にありて守衛し居れり。

春川暴徒鎮圧の為め派■の軍隊は、去る11日詔勅を下し、総て引上ぐべしと達せらる。
其詔勅の趣意は、該暴徒は断髪令の為めにあらず、即ち10月8日事変を憤りて起りたるものなれば、今や当時の国賊既に法に服し、余党も漸次法を正すべければ各々其堵に安じ、暴徒の巨魁以下悉く罪を問はず、出征軍隊は即日引上ぐべし云々。

前総理金宏集、前農工商鄭秉夏は警務庁に捕はれ、11日午后3時、同庁の門前大路に引き出して2人を斬殺し、死屍を引て小■に曝し、夜に至て之を焼棄てたり。

安駉寿は警務使に任ぜらる。

大院君・李載冕・金允植共に■■自邸に在り、魚允仲・兪吉濬・趙義淵・張博等は行衛■れず、公使館・領事館には隠慝者1名もなし。
目下、人心先づ平穏の模様なり。
んー。
良くネットでも引用される、F.A.マッケンジー(フレデリック・アーサー・マッケンジー)の『朝鮮に悲劇』では、この金宏集らの斬殺の件について、

第二の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。
この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。
大群衆が前閤僚たちを殺害しようと捜し求めた。
二人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の二人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。
その内一人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。
群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、また或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。
一人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。
と記載しているようですが、どこまで本当なんでしょうねぇ。

それは兎も角として、金宏集と鄭秉夏斬り殺されて曝され、夜になって遺体は焼却処分、と。
他の閣員等は、大院君・李載冕・金允植以外は行方知れず。

春川の暴徒に関しては、討伐隊引き上げの詔勅が出され、暴徒の巨魁もお咎め無し。
この暴徒も、激しくやらせなんでしょうけどね。

というか、冒頭で、「該暴徒は断髪令の為めにあらず、即ち10月8日事変を憤りて起りたるもの」とわざわざ断らなきゃ駄目な時点で、露館播遷前に起きていた暴徒(義兵)は、断髪令に反発して起きてるのが基本だと分かっちゃうわけですが。(笑)


今日はこれまで。



俄館播遷(一)