一進会(五)

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ようやく一進会の話になってきた今回の連載。(笑)
本日の史料は、『3 明治38年1月10日から明治42年10月19日(韓国ニ於ケル進歩会一進会関係雑纂)(レファレンスコード:B03050325700)』へと変わる。

まずは2画像目から12画像目にまで渡る書簡から見てみよう。
これは、宋秉畯が松石安治大佐へ送ったものを小村大臣が入手。
一進会・進歩会の主義、目的及び設立理由を知る事が出来るだろうとして、林大使に送ったものである。
8月27のエントリーで出てきた書簡同様、何となく嫌らしさを感じるのは、私だけだろうか?(笑)
松石安治は福岡出身であり、同郷の内田良平や玄洋社あたりと繋がっていてもおかしくは無いが・・・。

ま、推測で話をしても仕方がないので、先に進んで書簡を抜粋してみよう。
今日の引用は長いので、多分続く&飽きると思うので、途中で茶々入れながら。(笑)


 (前略)

抑も一進会・進歩会の主張たる曩に発表候四綱領即ち

第一 韓国独立基礎鞏固
第二 皇室尊厳維持
第三 弊政改善
第四 人民生命財産安固

以上の四項に御坐候。
而し第一韓国独立基礎鞏固なるもの、現下世界大勢の趨向上将た東洋多端の現勢に処し、韓国民克く韓国の独立を維持し得る哉。
否。
識者を俟たずして、一進会・進歩会自ら承知する処に御坐候。
一進会・進歩会が靡然として奮起せし所以のものは、

第一 如何にして李朝500年来の暴虐なる政令の下を脱せん歟
第二 如何にして吾人の生命財産の安固を図らん歟
第三 如何にせば他邦の軍事的行動若くは圧迫による併呑を免れ、2,000万衆をして永遠に奴隷的境遇に沈溺せしめざるを得る歟
第四 如何にせば、2,000万衆をして文明に浴せしめ、子々孫々をして永遠無窮福祉を享受せしむるを得る歟

此四大難関は、今哉我韓国民の頭上に落下し、若し其途を誤るあらん歟、其結果は識者を待たずして明なるものに有之候
然るに現時に於ける韓皇陛下及び韓廷を囲繞せる韓官は、恁る理想を以て行動しつつあるものに非ざる事は、世界各国民の認識する処に御坐候。
是れ一進会・進歩会奮起の機運を作り、以て此大任を負荷せざる可からざるに至りたるものに候。



前段の4項目が、一進会・進歩会の主張という事になるわけだが、成る程日本側の考えに似ている。
そして韓国独立は現状無理だ、と。
まぁ、高宗と取り巻きが無能だというのを世界各国民が認識しているというのは、現代韓国人にも通じる韓国人らしい誇大妄想ではあるが。(笑)


而て一進会・進歩会両会員は日本政府及び日本国民に対し、27、8年清国征討に、将た現下露国膺懲の出師に唯々春秋之大義感服に不堪との辞礼にあらず、誠心誠意謝する処にして、韓国に対する日本の最大権域を認むる而已ならず、自ら進で叡聖允武なる日本皇帝陛下の御聖徳に浴し以て東洋平和の保障となり、若し将来東洋平和を破らんとし若くは障害たるものあらん歟、進で君の御馬前に斃れんことを決心致居候。
是れ時局を齊し、韓国民をして永遠に福祉を享受せしむる唯一の経路は、他にあらざるを自覚罷在候結果に御坐候。
故に一進進歩両会に於ける有識者の主張、目的は、

韓国の内治外交を日本政府に一任し、内治の刷新と外交の伸張を図らん韓国民をして日本臣民と等しく待遇せられ、韓国民の子弟をして教育し、以て文明の学術と共に日本語の普及を図られ頼て以て韓国民をして自立の民たらしめられん事を期す。

此主張目的を、韓国民自ら進で日本政府に要請せんと欲するもの是れ一進進歩両会の真髄に御坐候。



日本に最大権域を認め、もし将来東洋平和を破ったり障害になるものがあれば、進んで陛下の前に進んで斃れんねぇ・・・。
って、斃れるのかよ!(笑)

で、一進会の有識者の主張、目的は韓国の内治外交を日本政府に一任し、韓国国民を日本国民と同等に待遇し、子供に教育し、文明の学術と日本語の普及を図って自立。
・・・皇民化政策?


然るに韓廷を圍繞する韓大官は、此主張目的に同意するものにあらず。
之れ参政以下各大臣、各観察使、其他総ての韓官排撃の不得已ものに有之候。
既往に於ける韓国の通弊たる政権争奪の如き、一進々歩両会の関する処にあらず。
吾は別に本領あるに御坐候。

為に30年来政権争奪以外、何等の感忿を有せざる韓官雑輩連と交際せし日本人の眼中に映する、韓民の恁る挙は不可欠と可被考候も、之れ官尊民卑の弊、尚未だ脱せざる日本人の正何品を標準として韓民を視たる罪にして、韓国民は日本人の思惟する如き無気概のものには無御坐候。
其証左は

一.断髪は韓政府の禁止する処、令に背き犯すあらば斬首の刑に処せらるるに、不拘当初一進会員数百人一併断髪したるもの、之れ互に死を決し、目的遂行の誓約を表示したるもの不言の間大に真意あるものに御坐候。
而て今哉此誓約の下に結党せしもの11万余に達し申候。

二.京義鉄道沿線たる黄海、平安両道の進歩会員は、日本に信頼の意思表示を唯々口頭文章を以て画せずとなし、進んで該鉄路に要する労役に対し、無償労役に服せんことを軍司令部及び鉄道監部に要請せり。
而て無償は日本法規の許さざるとの事由の下に相当の労銀を至急せられ、今哉各方面等しく進歩会役員式の下に些の支障なく労役に服し居候。
而て支給せらるる労銀の内、食費に要する残額は総て積立、追て暴露膺懲軍事費として日本政府に献金候事に決議候。
尚、必ず実行可仕候。

三.咸鏡道に於ける進歩会員は、是又日本軍隊浦塩方面進軍に要する輜重の任務を負担仕度旨、当該司令官に要請仕候。
許可の上は必ず遂行可仕。
尚、支給せらるる労銀は、京義沿線と等しく軍事費に献納決議致候。

四.京元鉄路御着手の暁は、京畿、江原、咸鏡三道の進歩会員は之が労役に服し、労銀は是又軍事費に献納可致候。

以上の事実は、従来朝鮮通を以て任ぜられつつある日本人の、殊に意外とせらるる処にして、此朝鮮通より誤伝・誤報せられつつありし日本国民一般の、喫驚せらるる処と存候。



まずは断髪令について。
断髪令は、旧暦1895年11月15日、新暦で1895年12月20日に詔勅が出された。
つまり甲午改革の中で行われた事であり、この時高宗自身が髪を切っている。
それ以降、露館播遷(俄館播遷)中に断髪令は廃止されたらしいが、その日付までは未調査。
いづれにしても、断髪禁止と斬首の話は聞いた事が無い。
恐らくは私の調査不足なのだろう。

そして、ここでようやく8月27日のエントリーで保留していた、京義鉄道と輜重の話が出てきたものの・・・。
京義鉄道において労務に服したものの、献金はまだ。
輜重任務については、まだ行ってすらいない。
京元鉄道はそもそも着手すらしていない、と。

1904年12月2日の日付で書かれたこの書簡以降、どれだけ実施されたのだろうか。
このままであれば、京義鉄道建設の日雇い人夫お疲れ様でした、で終わってしまうのですが・・・。


ちょっと早いけど、今日はここまで。


一進会(一)
一進会(二)
一進会(三)
一進会(四)


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一進会(四)

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前回は、日本が警察権を掌握する切っ掛けとなったらしい事件について取り上げた。
相変わらず連載してると、タイトルと関連が薄い内容に浮気してしまうのだが・・・。(笑)

というわけで、今回も史料は『2 明治37年12月19日から明治38年1月4日(韓国ニ於ケル進歩会一進会関係雑纂)(レファレンスコード:B03050325600)』。
1904年(明治37年)12月30日発『第358号』より。

【1画像目】 【2画像目】 【3画像目】

一進会の成立及性質等に関しては、機密114号を以て御上申の次第あるも、同会勢力の頗る迅速なる波及と規律的且組織的行動に顧みる時は、同会は其表面に顕はるるよりは一層深き招蒂を有するものの如し。
彼等が日韓議定書と略同一の主義を標榜し、一面我軍隊の同情を得るに努めつつあるは、会に其懇引の巧妙なるを見るべく、而して其内実の目的は寧ろ我れを利用し、以て裏面に伏する首領輩の野心を■するに在るも知るべからず。

抑も我対韓政策の大体より見るに、此際韓国一般の民心を可成我れに引付け置くは固より得策なるも、多数の人民党を成すが如きは結局実ありて益あるを見ず、思ふに一進会の如きも若し此侭放棄して其膨張に任す時は遂に節制を失ひ、各地方に於ても続々騒擾を醸すの虞極めて少なからず。
尤も、亦一進会なるものは既に多大の勢力を有し、表面の主義は我れに同情を寄するものなるが故に、旁々過激の手段を以て、今直に此を撲滅するが如き手段を執るは不可なるべきも、相当の取締を設け、将来の禍根を予防するは最も緊要なりと思考す。
就ては軍隊とも熟議の上、相当の取締手段を講ぜらるべく、又同会の行動を一層精確に偵知する為め、各領事へも必要の訓令を下し、或は吏員を出張調査せしめらるべく同会費用の出所等に付きても之を調査し、併せて報告せらるべし。

 (2005.8.31 hitkot氏の指摘により検討の結果一部修正)


・・・穴だらけ・・・。_| ̄|○
能力不足で申し訳ないが、ニュアンスは通じると思う。
機密114号については、8月27日のエントリーで掲載したとおり。
外務大臣小村寿太郎は、一進会を全く信用しておらず必ず裏があると睨んでいる。
例え日本に同調しているとしても、この後勢力の拡大に従って騒擾を起こすだろう、と。
今は撲滅するような手段は採らないが、将来の禍根を予防するために一定の取締が必要だとしている。
流石小村。
正解。(笑)

次が、之に対する林公使の返事であって、8月28日のエントリーで保留していた、1904年(明治37年)12月31日発『第793号』である。

【1画像目】 【2画像目】 【3画像目】 【4画像目】

貴電第358号一進会に対する御注意に関し、本官も亦兼て同様の観察と憂慮を抱き、機を見て之が節制を加へんとし居りしが、今回共進会の不法行為より事起り、政府も亦暴力を以て共進会及び一進会に当るに至り、京城内に白昼無秩序状態を演じたるを以て、本官は司令官と協議の上直ちに我憲兵を以て秩序を回復し、引続き各種の集会を制止し居り。
尚、既電の如く一定の規則を設けて今後の節制法を立つることに、目下司令官と協議中なり。
又、一進会の標榜せる主義は啻に我政策に合致するのみならず、各地方人民の同情を得、人民等が該会に賛同するは、即ち中央及地方官の虐政誅求を免れ得る只一の手段と信じ居るが故に、右様節制を加ふると同時に一進会を初め、上下一般に虐政誅求の主動者と目せらるる内部大臣李容泰の罷免を行ふを以て、時宜を得たるものとし、昨日既に同大臣の免官を内奏したり。

地方一進会員の行動を注視し、且つ■■地方人民に政治的会合を為さしめざる様諭示すべき旨、今回更に各領事に訓示する所あるべし。
又、該会の費用の出所に関しては、各地方に於ては前述の如く各地の富豪は同会に賛同するを以て、生命財産を安固にする良方便と信ずるが故に、其地方の運動を助け、且つ中央部に対しても出資する所あり。
而して、中央部に於て其運動を助ける大官の有無は、尚詳細に探究する筈なり。

一進会は、兼て機密114号信所報の如く、我より勧告して一時其集会を中止せしめ居りたるに、政府の大官中殊に李容泰及許蔿等の一派は、該会を根本的に解散せしめて更に陛下の信任を得ん為め、今の共進会を組織して反対行動を採らしめたる為め、再び一進会激昴せしめ、且つ最近各地方に義兵なるものを組織して地方一進会員に当らしめ、近来各地方に多少騒擾の生じたるは全く之が為めなり。
然るに今回の一件の結果、李容泰主義を詳するに至りたるに付、政府側より一進会を激昂することなきに至るべく、随て本件の■■処分は、存外容易なるべし。
又、一進会の重立たる連中は、本邦人望月及び神谷の二人に常に協議する所あり。
両人は主義方針を誤らざる様、同会に説諭し来りたる様子に付き、是亦両人をして全く同会との関係を断たしむることに勧告したり。
又軍司令部通訳韓人(日本名野田)は、同会の重立ちたるものとして行動し、且つ自己の財産を同会の為め投じたり。
此事、実は韓国政府が一進会を以て我軍隊の保護の下にあるやに疑はしめたる、重もなる原因と信ぜらるるに付、同人も亦此際同会の関係を断たしむべし。



中央及地方官の虐政誅求を免れ得る只一の手段と信じ居る。」というのは、キリスト教の時に取り上げた、「従来暴吏の誅求に苦しめられ、生命財産の安固を得ざりし無智の韓民は争て之に赴き、信徒の増加日々に多きに至れり。」と同じ状況だね。

李容泰については、5月10日のエントリー以降調査が進んでいない・・・。
その際に記載した経歴が本当であれば、上下一般に虐政誅求の主動者と目せられるような状況になってもおかしくはないな。
許蔿については、共進会との関係を示すような史料は見つからず、寧ろ、独立協会反対運動の上疏に名を連ねたり、李裕寅等との個人的な紐帯に関する史料が残されており、言わば皇国協会側の人間であろう。
前回の史料同様、共進会と皇国協会の事実誤認があるように思われる。

望月及び神谷とは、佐賀大学の永島広紀氏の報告を見るに望月龍太郎と神谷卓男の事だと思われる。
但し、どういった人物なのか等、詳細については不明である。

一方、軍司令部通訳の野田とは、8月27日のエントリーの「我軍隊の通訳として本邦より軍隊に附随し来りたる宋秉畯」という記述から、宋秉畯を指すのだろう。
宋秉畯=野田。
いや、特に強調する意味は無いんだけど。(笑)

望月も神谷も野田も、日本と一進会との関係を疑われるから一進会との関係を絶たせよう、と。
この辺りで一進会の顧問が替わっていくのだろうか?

そして、1905年(明治38年)1月3日発、『第4号』。


旧臘一進会の解散に関連し、韓兵が我兵士に負傷せしめたる不始末に関し、本官は陛下に対して当局者の引責を求めたる結果、参政には金声根、宮内大臣に李載克(学部大臣兼任)、内部大臣に趙秉式、法部大臣に権重顕任命せられ、尚ほ国葬の後に至り、軍部大臣に更迭を見る筈なり。


この国葬とは、『高宗実録』の1905年(光武9年)1月5日によれば、元賛政の閔致憲のものであるとのこと。
賛政にも議政府の賛政と中枢院の賛政があり、そのどちらかは不明である。
又、賛政の全てが国葬されるのか、閔妃の系譜に連なるが故に国葬なのかは、知識不足によりこれまた不明。

しかし凄い入替えっぷりだなぁ。
宮中の勢力図は、大幅に入替わった事だろう。

因みに、各大臣の入替は12月30日と12月31日に分けて行われている。
30日は内部大臣及び臨時署理宮内大臣の李容泰が、内部大臣に趙秉式、臨時署理宮内大臣李載克へ。
31日には参政大臣申箕善、法部大臣金嘉鎭が、参政大臣金声根、法部大臣権重顕へ。
軍部大臣は、1月5日に李允用から李鍾健へと替わっている。


今日はこれまで。


一進会(一)
一進会(二)
一進会(三)


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一進会(三)

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日韓基本条約の関係諸協定,日韓請求権並びに経済協力協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)」と、「日韓請求権並びに経済協力協定,合意議事録(1)」と、「対日8項目要綱」を百万遍読み返して、出直してこいというニュースが続く中、皆様如何お過ごしでしょうか。

恥ずかしながら構成の間違いで、前回お届けできなかった「ある事件」。
恥ずかしいついでに、間違いやら追記やらもありまして・・・。
スランプ中っつう事で、ご勘弁を。(笑)
ということで、本日こそ事件について。

史料は前回同様、『2 明治37年12月19日から明治38年1月4日(韓国ニ於ケル進歩会一進会関係雑纂)(レファレンスコード:B03050325600)』より。
話は少し戻る。
前回、関谷警部らが全州に出発した前日、1904年(明治37年)12月25日発『第780号』より。

【1画像目】 【2画像目】

負商・褓商の団体にして、急に其方針を変じて政府反対の態度を採る共進会の会員等は、昨日李裕寅、具本淳の二人を引致せり。
之れがため、政府大官連は大に恐惶を来せり。
以て会員の重立たる他の3名を警務庁の取押へ、会員等多少激昂の模様あるも格別のことなくして済む可き見込みあり。
要するに政府の無能と、宮中に雑輩の出入等政務の渋滞と腐敗とを来たして愈甚為がため、会員の激昂を来したるの結果と云ふの外なく、引致せられたる両人は、何れも宮中に易者人相見などの出入せる端緒を開きしものなりとの理由に基くよしなり。

本官は、従前為し来りたる宮中の規律の維持・施設改善の忠告は、只に一再に止まらず、韓帝及政府の大官は何時も之を容るるも、今日に至る迄一として実行せられたるものなく、之れが為め民間の不平は日増に甚為、大官連の失意者も少からざれば、暗に民間の徒と気脈を通ぜるやの■会もありて、到底終騒を免がる可らずと思考すれば、此の際本官は一層進んで施政の改善を計るため、場合によりては内閣改造を促し、同時に一方に於て警察権を我手に収めて、永遠に秩序を維持するの途を講ずるを必要と認む。
但し、共進会が猥りに警察権を自ら行ひ人民を捕縛するは不都合の次第に付き、相当の懲戒を加ふる様措置せしむべし。



んー、最初からいきなり難しい。
まず、共進会という組織は元々尹孝定の作った組織。
尹孝定は、このブログでは、1903年の禹範善殺害計画の首謀者として、及び大韓協会の事実上の統率者として紹介してきた。
1909年(明治42年)の統監府の『韓官人の経歴一般』によれば、1903年に日本に亡命していた理由は、露館播遷で高宗がロシア公使館に逃げ出している際、皇帝の譲位と皇太子代理を画策し、当時の露党政府にばれ、加藤公使の援護で亡命したとされている。
共進会→憲政研究会→大韓自強会→大韓協会を設立していった首謀者とされ、かなり面白そうな人物である。
今度、詳細に調べてみたい。

と、話が逸れた。
褓負商とは、簡単に言えば行商人の事。
1898年に「独立協会」に対抗して政府が組織した、「皇国協会」の中心であったとされる。
この「独立協会」と「皇国協会」の争いも面白そうなんだよねぇ。
嗚呼、どんどん宿題が増えていく・・・。

褓負商、独立協会、皇国協会と、共進会との接点を示すような物は無く、この史料はちょっと判断に迷う。
現段階では判断を保留しておこう。

一方で李裕寅は、皇国協会に名を連ねている。
つまり昔は褓負商側の人間。
基本的に、李朝や大韓帝国時代の政治的組織というものは、その時々の利益や敵対者の行動によって、言動が180度変わったりするので注意が必要である。
易者や人相見が宮中に出入りする切っ掛けを開いたとの事であるが、実際に関連しているか、及び具本淳が何者であるかは不明。
閔妃の行状等を見るに、それ以前から怪しい人物が宮中に入り込むような状態であったのではないかと思うのだが・・・。

因みに李裕寅は、『高宗実録』によれば1904年(光武8年)12月22日に宮内府特進官に任命されている。
この関係で権力闘争が起きたのかも知れない。

それは兎も角として共進会、強引すぎ。(笑)
共進会で拘束された3人は、『皇城新聞』によれば尹孝定・羅裕錫・そしてハーグ密使の一人で、顔の腫物を切って円毒に罹って死亡した李儁とされている。

そして「場合によりては内閣改造を促し、同時に一方に於て警察権を我手に収めて、永遠に秩序を維持するの途を講ずるを必要と認む。
この部分だけを引用して、日本の侵略云々言い出しそうな人が居そうで、恐いわけですが。(笑)
全文を読めば分かるとおり、高宗や政府は施政の改善をしようとせず、民衆の不満や反対派の画策で騒動が収まりそうにないから、収める為に場合によっては内閣を改造させて、警察権を得て、永遠に秩序を維持できる道筋作りが必要だという話ですね。
永遠にするのは、警察権ではなく秩序だ、と。
尤も、その辺りを整理すれば、韓国人の起こす騒動が収まると思っている辺りが、日本人のスイートな所ですが。(笑)

この話の続きが、1904年(明治37年)12月29日発『第787号』となる。

【1画像目】 【2画像目】 【3画像目】

共進会員が李裕寅以下を引致し暴行を逞しくしたる結果、政府は此に対し会の重立たるもの3名を捕縛せるの外、尚進んで共進会・一進会を強力を以て解散せんとし、一昨日以来、引続き韓国巡検又は兵丁と会員との間に、白画街道に於て闘争を生じたり。
昨日午後に至り警衛院は、一進会の重なるもの3名を召喚し解散を命ぜんとするに際し、巡検及兵丁は該2名を手荒く取扱ひ、一進会員の激昂を促し、昨夜に至り同会員数百名警衛院に押寄せ、該2名の会員を奪ひ去りたり。

初め、既電の如く共進会員が■に他人を捕縛せるに当り、陛下よりは本官に対し此に関する意見を求められたるに付き、本官は共進会の行動全然非なる次第を奏上し、又長谷川司令官は去る25日謁見の際、陛下の下問に対し同様の奏答をなしたることあり。
陛下及之に関連して権勢を得んとする大官等は、本官并に長谷川司令官の奏言に自分勝手の解釈を加へ、非常の強圧手段を以て集会を此の際解散せんとし、之れが為め如上の激昂重るに至れり。

本件は只■■の■韓国側のみに限り、本邦側とは何等関係を有せずと雖ども、前述の如く政府并に民会共に暴行を逞ふし、京城をして無秩序の状態に至らしめ、我が威厳に関すること大なるを以て、本官は軍司令官と協議し我が手を以て京城内の秩序維持に任じ、各種の集会に対し一定の制限を設け、且つ韓国官吏が例外の暴行をなすことをも禁止することに取及ぶべし。
尚、本官が午後謁見の際此の趣意を奏上する筈なり。



何か知りませんが、一進会が巻き添えになってますな・・・。

共進会のこの時の行動の是非を問われれば、李裕寅、具本淳の二人を拉致するなど当然非である。
それを自分勝手に解釈して強圧手段。
前回の『第774号』による日本側の忠告は、全く無視されていますな。(苦笑)

続きが、午後の謁見を終了した林公使による、同日1904年(明治37年)12月29日発『第788号』。


本日午後、韓国政府は一進会を解散せしむる為め兵丁を派し為の混雑後、会員数名に負傷せしめたり。
此騒擾を視察せるため出張したる我憲兵は、兵丁の為め飛礫を投ぜられ、該憲兵は幸に負傷せざりしも、■て出張したる我が士官1名は、同じく兵丁の投じたる石にて頭部に負傷したるを以て、我軍隊は兵丁を指揮し居りたる韓国士官3名を引致し取調中なり。
右の事態は、本官の■く京城内の秩序取締を全く我手にするの必要を■■確したるに付、本官は軍司令官に協議上、韓国人民の集会に関する一定の取締法を設け、我憲兵をして之を■■せしむることに直に取及ぶべし。
又本官は、本日謁見の際右の次第を奏上し、且陛下をして右様我軍隊の措置に付陛下に疑念なき様説明し、陛下の同意を得たり。

過日来一進会及共進会と当国政府との■に生じたる騒擾は、其■■■重大なる者にあらず。
随て京城内の秩序を乱すの■■には至らざるも、本官は予め相当の措置を採りて事態を重大ならしめず、且此時機を利用して警察権を我手に収むるを必要とし、右様の措置を採りたり。



達筆な人、嫌い。(笑)

韓国政府が出動させた兵丁が投石ということは、銃等による取締を行っていなかったのか、銃を持っていなかったのか、どっちなのでしょう?

兎も角、兵丁の投じた石が、日本軍の士官に当たり怪我を負わせた、と。
そしてこの事件を元にして、日本側が治安維持に介入することになった、と。
韓国人なら、日帝の陰謀などと言い出しそうな事態ですなぁ・・・。
まぁ、李朝及び大韓帝国政府って、いつもこの調子なわけですが。


今日はここまで。


一進会(一)
一進会(二)


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一進会(二)

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前回は、ある事件が起きるとして終了した。

史料は『2 明治37年12月19日から明治38年1月4日(韓国ニ於ケル進歩会一進会関係雑纂)(レファレンスコード:B03050325600)』に移る。
まずは1画像目、1904年(明治37年)12月24日『第774号』から。

【1画像目】 【2画像目】

群山■館主任の報告によれば、一進会・進歩会員は、多数全羅道全州附近に集会するがため、全州観察使は之れが鎮圧のため一進会等に圧力を加へんとする説ありて、該会員等ために激昂を来しつつありとのことに付き、本官は、地方官が理由なく且つ無謀の該会に圧力を加ふるは、反って地方の安寧を害するの途たる可きに付き、尤も慎重の態度に出、彼等をして激昂せしむるが如きことなからんを希望する旨、参政申箕善に申入れたるに、申参政は全州観察使は昨日発電を以て該会員と称するもの4、500名、銃剣を携へ、観察使に迫りて電報署内に事務所を設けんことを請ひたるも、之を拒みたるが為め引取りたり。
是が為め、民情不穏の状ありとの報告に接し居れりとの事に付、本官は、従来観察使若くは地方官の報告、兎角に針小棒大の観あるが為め事実を正確に取調しむるの要あると同時に、若し彼等にして銃剣を処持するに於ては、成るべく説諭の上之を引上げ、彼等に圧力を加ふる等之を激発せしむる事なき様電訓を発す可旨を申込ましめたるに、申参政は直に其旨を該観察使に電訓せり。
本官は尚ほ進て、従来地方官虐政の為め、兎角地方の人心を失いつつある結果、斯る場合に地方官は多くは事件を重大視するに失し、徒に■外の圧力を人民に加ふることありて、遂に一層地方の紛擾を来す事あり。
斯る弊害を避くるには日本人を警察官に採用し、是をして考査せしめ鎮圧せしむるを時局に適したるものとす。
就ては、韓廷に於て右希望あるに於ては、本官は何時にても之に応じて適当なる警察官の傭聘を斡旋すべき旨を申述たるに、申参政も之を首肯せり。
右の次第なるに付、追て警察官招聘の義起るべきかとも認めらるれば、此義附加へ予め具申す。



観察使や地方官って、治安悪化させてるだけだから、日本人の警官を雇って鎮圧させれば?と。
もしかしてこれが、後に日本人警察官が大韓帝国に傭聘される事となる発端なのかな?である。
正確には、1904年(明治37年)12月20日に中央警務庁に日本人警視1名及び若干の補助員を、13道観察府に各1名を招聘する様に述べたようである。
之を受けた参政大臣申箕善と内部大臣李容泰は、警視・巡査4名を警務庁に傭聘することとし、宮内協弁朴鏞和からも高宗の命として同様の事を述べ、日本に対して韓国警察を総轄できる人物を選択し、急派するよう日本に対して請訓したとされる。
 (2005.8.29 訂正及び補記)

ということで、同日付の『第776号』。


本日発第774号電報に関し、唯今申参政より全州へ警察官派遣に付き、不取敢日本警察官の同行出張を請ひたき旨申出でたり。
右の申出に応ずるは、我警察官を雇入れしむるの階梯ともなるべきに付、差当り当領事館附きの警部1名、巡査2名を出張せしめたし。
御異存なくば、直に領事へ電訓せられたし。



この電訓は、京城の三増領事に伝えられ、選抜を受けた警部1名と巡査2名は1904年(明治37年)12月26日朝に全州へと出発した。
この時点では、まだ韓国に傭聘された訳ではなく、正式に関谷警部(傭聘時には警視)の傭聘が決定されたのは、『警視関谷勇韓国政府ノ聘用ニ応シ俸給ヲ受クルノ件(レファレンスコード:A04010088800)』によれば、1905年(明治38年)7月5日であったようである。
 (2005.8.29 追記)

次が1904年(明治37年)12月26日付『第791号』。


全州に出張せる関谷警部より。

本日着す。
巡検等未だ来らず。
観察使及郡守に会見す。
一進会員一時数千人ありしも既に立去り、今200名程ありと云ふ。
別に不穏のことありしと認められず。
今や全く無事。

と、昨■電報ありたり。



行ったらもう終わっていた、と。
関谷警部の次の報告が載せられたものが、1904年(明治37年)12月31日付『第794号』となる。

【1画像目】 【2画像目】 【3画像目】

全州出張中の関谷警部よりの電報、左の如し。

会員219名ありしを、京城総巡之れに退去を命じたるに平穏に直に退去し、13名は京城より会長の来る迄猶予を請ひたるに、観察使許さず、総巡は残る13名も尚ほ退去を要するやに付き、警務使に打電、指揮を待つと云へり。
会員は至極平穏に又た銃器など携帯する事実なしと認めらる。
但し日本人数名、猟銃刀剣を携へ会員と同行し来れる事実あり、之を見誤りたるものの如し。
其同行し来れる理由は、同地に事ありと■き日本人保護のためなりとのことなりしも、在群山巡査は直に退去せしめたりと云ふ。

観察使、初め■一進会は日本の保護の下にあるものと信じ居るものの如し。
当方793号電報に関連し、本官は各領事に対し
「韓国中央及地方政府の改善は、帝国政府が日韓議定書によりて漸次に実行すべき重要なる事項にして、帝国政府は今現に之れが着手中なり。
之と同時に韓国内の秩序維持も亦帝国政府の負う所なるが故に、韓国人民をして地方及中央政府の虐政誅求に基き何等訴ふ可き事情あるときは、穏便なる手段を以て貴官に又は貴官を経て本官に其次第を申告すべく、之れが為め集会を催し、又は中央都府に代表者を派出せしむる如きは軍の実行を見ざるのみならず、貴重の時日と財産を無用に費消し、結局国内の静謐を乱る愚挙大に付き、■■地方良民は、決して其事なき様■す可し。」
との意味の訓諭を韓国人に対し適当の方法を以て告示する様訓令したり。

右は各地方に於ける一進会其他の集会を阻止し、且つ地方官民をして、一進会は帝国政府の保護の下に在りとの■を散ぜしむるに功力ありと信ず。



一進会に同行してきた猟銃刀剣を携えた日本人とは、恐らく黒龍会かそれに類する連中ではないかと思うのだが、もしそうなら、壮士気取りもいい加減にして欲しいものである。
普通に近代国家の形成に邪魔。(笑)

文中の電報793号については、残念だが見つけられていない。後日とりあげる事とする。
 (2005.8.29 訂正)

一進会との関係の否定の話については、実際に関係がある事を隠すためなのか、実際に関係が無い為に噂を否定しようとしているかは、意見の分かれる所でしょうな。
私は情報不足により、まだ判断しませんが。

そして1905年(明治38年)1月1日付『第1号』。


全州出張中の関谷警部よりの電報。

一旦退去したる会員皆窃かに立戻り、更に退去を促しつつあるも、事に托し容易に退去せず。
巡検等殆んど倦み居れり。
但し、会員の動静平穏。



まぁ、なんつうか年末年始にご苦労様って感じなわけですが・・・。
当時の韓国人は、陰暦で行事を行っているから問題ないのかな?
というわけで、今日最後の史料は1905年(明治38年)1月1日発の『第6号』。


全州出張関や警部より、■の報告あり。

既に本日、会長をして会員を招集せしめ退去方を勧告したるに、■■そ了し、退去の途に就くと云へり。
尚、訓電により厳に■■を加へ、穏やかに目的を達する見込みなり。



というわけで、何も起きずに解散と相成りました。

あれ?
前回の末及び本日冒頭の事件はどこに?

ということで、そうです。
構成を間違えたのです。(笑)
事件は次回に・・・。


ごめんなさいと謝りつつ、今日はこれまで。


一進会(一)


一進会(一)

テーマ:

ハッキリ言って相当スランプ。
合邦問題関係の史料って複雑に利害関係が入り組んでいて、非常に纏め難いですね、と愚痴ってみるdreamtaleです。(笑)
どこから手を付けて良いのやらと考えた末に、まずは基本に立ち返って一進会からやってみようかと。

史料は、アジア歴史資料センターの『1 明治37年10月15日から明治37年12月5日(韓国ニ於ケル進歩会一進会関係雑纂)(レファレンスコード:B03050325500)』。
最初から見てもらっても良いのですが、まずは14画像目左側からいきましょうか。

【14画像目】 【15画像目】

 (前略)

今回の東学党起ることは、手には寸鉄も持つこと禁じ、只だ無刃血の為国心を以て京城に集会して、政府と談判して政治改革及び民権を自由に伸し、亦た、京城に政社と云ふもの(貴国には衆議院のことの如)を設立し、外国人には妨害すること厳禁との目的に御坐候へ共、小生の愚意にはとても此事は成功すること出来ぬと信じ候。

 (後略)



まぁ、設立目的としては政治改革であったと。
次に、少し遡って12画像目から見てみると、日露戦争への係わりが書いてあるものの、軍資金1万円と赤十字への3千円の寄付の話だけ。
田村やら宇佐川やら(田村怡与造、宇佐川一正だろうか?)の名が見える。
杉村は誰の事だろうか?

いづれにしても、よく大東国男の「李容九の生涯」等を引用して言われる、日露戦争における一進会の対日協力に関しては、この書翰においては書かれていない。
勿論、9画像目を見れば、亡命韓人から全州在留の日本人への私信を、古川巡査が得たというものであって、中々入手経路の怪しい書翰ではある。
まぁ、黒龍会系の資料も検証したわけでは無いので、現在のところ判断保留。
いずれ、初瀬龍平の「伝統的右翼内田良平の研究」辺りも考慮に入れながら、調査する必要はあるのだろう。

さて、続いて34画像目から続く特命全権公使林権助の1904年(明治37年)11月26日付『機密第114号』から、一進会に関する部分を見てみよう。

【35画像目】 【36画像目】【37画像目】 【38画像目】【39画像目】

一進会の成立に関しては、本使は当初より重きを之に措かず、亦我軍の行動若くは我政策に妨害ありとも認めず。
唯彼等は、我公使館若くは軍の後援を有し居る歟の疑いを韓廷に抱かしむるは面白からずと認めたり。
当初よりの状況を概略開陳せんに、一説には、過般神鞭知常氏滞京交りし朝野の士と計する際に於て、当時失意の地位に在りし李址鎔、閔泳煥、閔丙奭の徒は、此際政治的意味に於て一団体の組織を企望したるやに有之候も、本使は彼等三名は斯の如き胆気を有するものとは認め居らず。
蓋し、我軍隊の通訳として本邦より軍隊に附随し来りたる宋秉畯なるものは、元来閔泳煥、閔丙奭一味のものなりし故、此者の企画に成りしを以て、前記三名が本会に関係したるやの説をなしたるものと思考せらる。
而して宋秉畯の計画は独立協会の残党其他の歓迎する所となりて、宋は其身司令部に出入し居るの便宜あるが為め、暗に結社のことを以て当館及司令部間に遊説を試み、而して其標榜は、日韓議定書の意義に基き日韓の結合、韓国の施政改善に在りしかば、司令部に於ても別に之に重きを措かず。
随て、其結社を否認するの挙に出でざりしかば、彼等は之を以て恰も後援の極て有力なるを得たるか如く思意し、茲に其組織を了せるものと判断致候。

然るに、一進会が結社の綱領を印刷せる主意書の中外に領布せらるるや、従来の虐政に悩苦せる人民は大に之に賛同し、同時に右主意書は飛檄の如き誤解を地方人民に与へたるが為め、茲に各地に散在せる儒生の輩若くは東学党の響応する所となり、在京会員は之に景気を得て、該会の状況漸く旺盛を呈するに至り。
而して韓廷は、其標榜せる主意書に対し非難の余地なきと東学党員の続々上京入会との風声に喫驚せるも、彼等が当館若くは司令部の間に何等かの默契あるか如き疑念を抱きたるが為め、敢て何等の着手をも為さず束手只恐慌せるのみ。
此間本官は、事体漸く穏かならざるが如き状況ありと認め、1、2司令部幕僚を招きて事態の意外の辺に奔逸せん掛念ある所以及帝国官憲之が後援たるかの如き誤解を一般に与ふるは、極めて不得策なる所以等に付深く考究する所ありて、其結果此際絶体に之を打破するの要を認めざるも、少しにても治安を妨害するの恐あるに於ては、猶予なく之を打破して毫も仮借する所なきことに決し、差当り其集会を差止め茲に一段落を告けることと相成りたるに、次て進歩会なる異名同体の結社を見るに至りしも、之とて軍事警察の取締の下に極めて秩序的に敢て埓外の奔逸をなす恐れなく、尚ほ地方に於て響応せる輩の如きも一時不穏の状況ある歟の如く、狼狽せる地方官に依りて報告せられしも、爾来当地に於ける其物の如く、至て平穏に帰しつつ有之。

或は京城に於ける一進進歩両会の重立ちたる輩は、日本の默契の下に会の勢力を利用し、機あらば猟官の下地を造らん希図なきを保せざるも、現下の処斯る希望を表はさず、又我取締の下に紛雑を起す程の状況も無之、外面に於ては多少宮中及政府の施政を牽制するの効果を収めつつあり。
且つ地方にありて其影響は、全く地方官の悪政に反抗するの機関たらしめんとの主意に外ならざるか如く、而して実際に於て著しく地方官の悪政を抑制するを得たるが如く、彼等が敢て不穏の行動をなさざる者職として之に因ると認めらる。
現に平安道の如きは、輓近最も暴政に苦みたる地方なれは該会に入るもの著しく多く、彼等は誠意我軍の行動を助けんとし、無賃にて人夫を供給せんと申出て、聴しざる場合には其賃金を寄付せりと云ひ、又咸鏡道に在りても該会員は醵金して我軍に献金をなさんと申出たりと云ふ。

右の如く該会は、我行動に便宜を与ふるの場合も有之候に付、治安を撹乱する恐れなき限りは之を打破するの要を認めざるのみならず、取締の如何によりては官吏の暴政を牽制するに於て、帝国の威信を層進するの途とも相成可申。
尤も少しにても為めに当地は勿論、地方の安寧を妨害するに至るべき模様有之候半には、本使は駐剳軍と協議の上猶予なく鎮圧の方法を取るべく、右に関して駐剳軍の方針は既に一定し、且つ其筋へ報告済に有之候。
尚ほ一進会処分に関し、当初本使と我軍憲との間に意見の扞格を生し居る歟の如き憶測をなし、此説の流布をなせし者も有之。
当時本使も之を耳にしたるも、畢竟事情を詳にせざるの推測とし、敢て歯牙に掛けざりし次第に有之候へば、此辺及一進進歩会等に関しては御放念相成候様致度と存候。

 (後略)



ここまで書いておいてどこかで見たことのある文だと思っていたら、若干異なる部分もありますが、北の狼氏が紹介されてた公文だった・・・。

という事で、一進会に対する日本の評価は、この時点で全く高くはない。
ウリナラ解釈で勝手に盛り上がった組織で、治安を乱せば叩きつぶすけど、とりあえず放置推奨程度の認識。
この態度は、先程も述べたとおり母体が東学党である事に起因していると思われる。
しかし、その次に記載されている高宗等大韓帝国政府の認識も、なんだかなぁ。。。

さて、この史料においてはその後、若干の小競り合いと解散命令の話が報告されている。
そんな中、ある事件が起きる。


と引っ張って、今日はこれまで。


統監への道


今日は「金・大平メモ」の話と、韓国政府が、慰安婦問題など日本の反人道的行為の責任を追及するというネタなどが有ったのだが、私的には「阿呆か。」の一言で済んでしまうので割愛。(笑)


ここ数日、微妙にアクセスが伸びていると思ったら、どうやら2ちゃんねるの電話突撃隊休憩所スレッドにURLが貼られていたようで。
電突諸氏の行動力及びその成果については、本当に頭の下がる思いです。
これからのご活躍も期待しております。

さて、当該スレッドにて引用された話の一つが、伊藤博文の統監就任の話でした。
引用されたのが6月23日のエントリー
結論から言うと、ほぼ当該引用をして下さった方の言うとおりで、統監の任命が1905年12月、赴任が1906年3月という事になります。
と言うことで、その経緯について少々纏めておこうかと。

1905年(明治38年)11月17日に第二次日韓協約が調印された際、伊藤博文は特派大使として大韓帝国に赴いていた。
この調印後、アジア歴史資料センターの『帝国ニ於テ韓国ニ統監府並ニ理事庁設置一件 1 明治38年11月19日から明治38年12月19日(レファレンスコード:B03030226100)』によれば、当時臨時兼任外務大臣(1905年7月~1906年1月まで)であった桂太郎総理大臣は、伊藤宛に電文『第282号』を送り、統監府及び理事庁設置の勅令発布に関して伊藤の意見を確認している。

これに対して伊藤は、『第460号』において概略案を提示。

桂は『第289号』に見られるとおり、この意見に基づき11月22日に『韓国ニ統監府及理事庁ヲ置ク(レファレンスコード:A01200223900)』にて閣議決定、『韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件(レファレンスコード:A03020645800)』で裁可され、勅令240号として公布されたのである。

【閣議決定1】 【閣議決定2】 【裁可】 【勅令240号 1】 【勅令240号 2】 【おまけの勅令240号原案】


ちょいと『勅令240号 韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件』を引用してみよう。


明治38年11月17日、帝国政府と韓国政府との間に締結したる協約第3条に基き、統監府を京城に、理事庁を京城、仁川、釜山、元山、鎮南浦、木浦、馬山其の他須要の地に置き、該協約に依る諸般の事務を掌らしむ。

附則
本令に依る統監府の職務は従来の帝国公使館、理事庁の職務は従来の帝国領事館をして当分の内之を執行せしむ。



当然、官制等の法的整備がなされなければ、組織として発足出来ない。
そこで、それまでは公使館及び領事館に職務を代行させる、と。

この後伊藤が韓国から帰って来るのは、『伊藤特派大使帰朝入京ノ節儀仗隊トシテ騎兵一小隊ヲ付セラルヽノ件(レファレンスコード:A04010090900)』の付日(12月5日)からすれば12月初旬であり、統監に就任することが内定したのは、『第137号』を見るに12月13日頃であったようである。

この後、統監府及び理事庁に関する各種法案は、枢密院の諮詢等を経て、1905年12月20日付で翌21日の官報号外に掲載された。
成立した関連法案は「統監府及理事庁官制」を始め14本にも及んでいる。
また、肝心の伊藤の統監任命についても上奏され、12月21日付けで同官報に掲載されるのである。

【官報号外1】 【官報号外2】 【官報号外3】 【官報号外4】 【官報号外 統監叙任】


この後伊藤は、1906年(明治39年)1月7日付で枢密院顧問を兼任。

そして1906年(明治39年)1月23日付、伊藤から寺内陸軍大臣宛の『機密号外』より。


本官赴任前に於ける本官の職務は、韓国駐箚軍司令官男爵長谷川好道を以て臨時代理せしめ候条、此段及通牒候也。


叙任から一ヶ月も経って代理を立てるのには理由がある。
1906年(明治39年)2月1日。
勅令240号附則の「当分の内」が終わり、大韓帝国の公使館・領事館は閉鎖され、統監府及び理事庁が開庁されたのである。

【画像】


恐らく、この開庁に間に合わなかったのは、この頃に第一次桂内閣が解散した為であろう。
尤も、史料には何等あたっていないので、これは単なる予測。

そして統監府開庁に遅れること1ヶ月。
6月23日のエントリーで述べたとおり、『帝国ニ於テ韓国ニ統監府並ニ理事庁設置一件 6 明治39年2月26日から明治43年5月31日(レファレンスコード:B03030226600)』の【3画像目】で、1906年(明治39年)3月2日に京城へ到着。
3月9日に高宗に謁見するのである。


んー、私も調べて初めて流れが分かった。(笑)
さて、これまでの流れを見た上で、冒頭において紹介したスレッドでの話を引用。


256 名前:【情報】 投稿日:2005/08/22(月) 19:22:58 ID:8dsRgnk5
歴史学研究会なるものが編集した
「『新しい歴史教科書』の問題点」なるものを入手しました。

この冊子は市区町村教育委員会あてに寄贈しているらしい。
A4版24ページ、7月4日発行。定価300円とあるので頒布しているようです。
一応、ページ数を指定してどの部分がどう問題なのかをコメントしています。

うpしたいけどマズいだろうから、戦争美化の例として上げている部分を要約。

歴史教科書205ページ「暗転する政局」:
(略)…日本の将兵は敢闘精神を発揮してよく戦った。

歴史教科書208-209ページ「国民の動員」:
(略)…しかし、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。

上記について“よく戦った”という表現によって「戦争の評価を個々人の精神に集約している」 のを問題としているようです。


261 名前:256 投稿日:2005/08/22(月) 20:54:28 ID:8dsRgnk5
ほとんどがこんな感じで、どう書いてもケチを付ける気満々です。
これが他の歴史教科書でも、同じように問題点なんていくらでも作れます。

唯一納得したのが、伊藤博文韓国統監就任が1905年だという指摘
(教科書では1906年になっているとのこと。市販本でもそのままかは不明)

以下、研究会の意見(一部)
「マッカーサー回想録(回想記)」は真実を伝えていないとする評価が通説となっている
関東大震災で「殺された」朝鮮人は6000人と見積もられている、
大東亜会議の出席者は「アジアの各傀儡政権」である、等々…


264 名前:マンセー名無しさん 投稿日:2005/08/22(月) 21:34:00 ID:u4b7HBjs
>>261
>唯一納得したのが、伊藤博文韓国統監就任が1905年だという指摘
>(教科書では1906年になっているとのこと。市販本でもそのままかは不明)

市販本見たら、P170
(写真があって)「韓国服の伊藤博文」
伊藤博文は1906年に初代韓国統監として赴任したが、1909年ハルピンであんさつされた。

とあるな。


275 名前:マンセー名無しさん 投稿日:2005/08/22(月) 22:53:56 ID:8dsRgnk5
>264
冊子には
>170ページ 写真 韓国服の伊藤博文
>「伊藤博文は1906年に初代韓国統監となったが、1909年ハルピンで暗殺された。」
>コメント:伊藤博文の韓国統監就任は1905年12月21日であり、1906年とするのは
>誤りである。

とある。帝国の教科書だと
「1905年、日本は韓国を保護国としたうえで、伊藤博文を韓国統監として派遣」だそうだが。
就任は1905年だけど、赴任は1906年なんじゃないの?↓
ttp://dreamtale.ameblo.jp/entry-e842000c1baba2c7c9176ef5b8b3e6fa.html
この項目すら怪しくなってきた。



はい。
冒頭申しましたとおり、275氏正解。
実際に扶桑社の『[改訂版]新しい歴史教科書(平成18~21年度使用版)』の170ページ(PDFファイル)には、「伊藤博文は1906年に初代韓国統監として赴任したが、1909年ハルピンで暗殺された。」とあります。

どうやらしんぶん赤旗の記事によれば、『「新しい歴史教科書」の問題点』というパンフレットは、山田邦明愛知大学文学部人文社会学科教授が所属する歴史学研究会が編集し、配付しているようです。
多分、ココかな?

まさか発売前の白本を見ただけで、その後確認してないのですか?
それとも、都合の良いように歪曲してるのですか?
若しくは、本当に馬鹿なのですか?
いや、きっと何かの間違いですよね。
回収して、修正再配布する羽目に陥らない事を、祈ってますよ(笑)


ということで、電突諸氏の支援なんだか、電突諸氏に支援されてるんだかの話はこの辺で。



この連載も今日が最後。
昨日の史料の段階あたりから、韓国内も日本政府も合邦問題に関する事がメインになってしまい、謝罪委員に関する報告は減少してくる。
そんな合邦問題の中、「悪魔」あるいは「第二の安重根」呼ばわりされ、ビビって帰郷した二人が、京城に戻ってくる。
1909年(明治42年・隆熙3年)12月15日付『警秘第369号』より。


国民大演説会の攻撃に恐れ、当時怱々にして帰郷したる渡日謝罪団の発起者尹大燮、金榮斗は頃日再び入京し、今15日、内閣総理大臣に宛て、如何なる支障あるも是非渡日謝罪の事を決行すべきとの意味の上書を提出したりと云ふ。


この行動は、何としても実現させるという、気概の現れであろうか。
それともENJOY Koreaの韓国人に良く見られるとおり、ほとぼりが冷めてからの勝利宣言のようなものなのかも知れない。(笑)
我ながら、毒されてるなぁ。(笑)

さて、肝心の謝罪委員については、残った10数名から再び選出されたようである。
同日1909年(明治42年)12月15日付『機密統発第2081号』中の別紙『憲機第2459号』より。


国民謝罪団にては、愈々明16日、左記の者等を渡日せしむる筈なりと云ふ。

左記
京畿 趙達允
慶北 黄應斗
全北 鄭寅昌
慶南 崔海圭
全南 張俊相
黄海 鄭廷朝
平北 金台煥
慶北 郭太仁
咸北 崔在康
平北 宋鶴昇
平南 方康周
全南 金明鉉
平北 許日化

以上

明治42年12月15日

追て謝罪使等は渡日の上、日本天皇陛下及内閣へ上奏書を提出する筈なりと。



ここでようやく、実際に渡日する鄭寅昌と宋鶴昇の名前が出てきた。
13名の名前が並んでいるが、実際には十三道の代表ではなく、忠清北道・忠清南道・江原道・咸鏡南道が抜けている。
この内、前回からずっと委員を出していないのは、咸鏡南道だけである。
前回委員を出さなかった平安南道・咸鏡北道は今回委員を出し、前回委員を出していた忠清北道・忠清南道・江原道は、今回は出ていない。
また、全羅南道・慶尚南道については、委員が変更されている。
まぁ、色々とあったのだろう。

さて、これで十三道代表渡日謝罪委員も決定し、後は日本へ向かい陛下及内閣へ上奏書を提出するだけの状態となったわけであるが、ここで待ったがかかる。
まずは1909年(明治42年)12月18日付『機密統発第2095号』中、別紙5の12月17日付『警秘第376号の1 渡日謝罪団に関する件』より。


昨報明18日渡日の予定なりし十三道代表渡日謝罪委員一同を、今17日当庁に召喚。
左の如く加諭したり。

一.上奏文を宮内省に捧呈することは、絶対に停止すること。
二.一行の帰韓まで事務所を置くときは、徒らに費用を要し無益の事なるを以て、当地出発と同時に之を廃すること。

右説諭に対し、一同之を諒し、受書を提出したり。
而て一行着京の上は、伊藤公の墓前に至り、韓国産菓物類の供物并に祭文を朗読礼拝すること。 場合に依り出発前、統監府に対し謝罪文を提出することを認められ度情願したるを以て、以上は差支無之と認むる旨、答示し置けり。
又一行は、準備の都合にて当地出発を来19日に変更する旨、申述したり。
右及報告候也。



このまま続けて1909年(明治42年)12月18日付『往電第43号』より。


機密統発第2081号中憲機第2459号を以て御閲覧に供し置候国民謝罪団渡日に付、警視庁に命じ、委員一同を召集し、説諭を加へしめたる結果、上奏文を宮内府に捧呈することを止め、一行着京の上は単に伊藤公墓前に祭文を朗読し、供物を為すことのみの條件にて、一行は明19日当地出発の筈。
右為念。



警視庁に、呼び出しくらいました。(゚∀゚)

言うまでもなく、日本においては基本的に上奏は政府や議院の為す事。
上奏や上疏といった直訴が気軽に出来た大韓帝国の制度とは、根本的に違うのである。
しかも外国人の民間人である。
騒動になることは容易に予想され、故に事前に止めとけと諭されたのであろう。

また、出発と同時に事務所を閉鎖するようにという助言は、やはり政治勢力化するのが嫌だったのだろうか。
集合の時点でお金がない事に配慮して、ってのはないだろうなぁ・・・。(笑)

斯くして謝罪委員は、京城を旅立つ事になる。
これ以降、それこそzeong氏の調査による新聞史料まで、彼等の足取りが分かる史料は無い、というか見つかっていない。

以上で韓国謝罪委員に関するお話はお終い。


最後に、墓参の史料に記された、大垣丈夫について少し記しておこう。
先に述べた通り、この時期合邦問題で非常にゴタゴタしている時期である。
その中心人物は、一進会顧問の内田良平と大韓協会顧問の大垣丈夫であるのは間違いない。
ということで、1909年(明治42年)12月21日付『憲機第2535号』より。


(12月21日憲機第2513号参照)

大垣丈夫に対し、退韓せしめる事に統監府に於て決せしことは既報の如くなりしが、本日午前、大垣は石塚総務長官より出頭を促され、今明日中に帰国を命ぜられたりと。
若し今明日中に出発せざるときは、公然退韓処分を為すと附言せられたりと。
以上

明治42年12月21日

追て内田良平も大垣より稍々遅れ、出頭を命ぜられたりと。
尚其結果は内偵中。



12月21日憲機第2513号が見つからない・・・。_| ̄|○
大体の経緯は何となく分かるのだけれど、その辺りは合邦運動に関しての連載で分かる・・・かなぁ・・・?
まだ、きちんとした調査を済ませていないので、自信は無い。(笑)
いづれにしても、内田も大垣も大韓帝国から帰国するよう命じられるのである。
そして、1909年(明治42年・隆熙3年)12月22日付『警秘第4513号の1』。


内田良平は、今23日午前9時、南大門発列車にて帰国の途に就けり。
大垣丈夫も同時に出発すべき筈なりしも、本人は経済上頗る窮し居れるより、三等に乗車せんとしたるに、鄭雲復は内田が一等に乗車するに三等に乗車すと、甚だ不権式なりと忠告し、漸く二等に乗車することになりたるも、内田と同時に出発するは途中不経済なりとの理由にて、俄かに今夜行列車にて出発することとし、停車場より引返したりと。
又大垣の帰国期限は、約2ヶ月間なりと云ふ。
右及報告候也。



というわけで、墓参の史料に大垣丈夫が出てくる事が出来るのである。
そして、これまでの経緯を勘案するに、謝罪使は大韓協会の支援は受けていないと考えられる。

それにしても、大垣と内田。
差があるなぁ・・・。

大垣が何故そこに居たのか。
謝罪使が如何なる方法を以って日本側人士との要路を得たのか。
zeong氏の疑問に答えるにはまだまだ不足であるが、今回の一件に関しては、この辺りで一度筆を置こう。
では。


「韓国謝罪委員」に関する件(一)
「韓国謝罪委員」に関する件(二)
「韓国謝罪委員」に関する件(三)



もうグダグダな雰囲気満載の韓国謝罪委員。
しかしながら、それなりに組織を立ち上げるのである。
1909年(明治42年)11月26日付『憲機第2280号』より。


(11月24日憲機第2269号参照)

大邱人尹大燮外数名組織の国民謝罪団、其の後の状況を内査するに、同人等の通文(告急書)に依り、去る24日迄に上京せしものは慶尚・全羅・忠清・京畿・江原・黄海・平安各道の紳士、地方委員、郷校員等60余名なる由にて、昨日午前11時頃中部大寺洞十九統九戸清人同順泰の家屋を借受け、上京者等の寄宿舍兼事務所と定め、午後3時頃より尹大燮以下48名(19名は事故不参)同家に集合し、尹大燮を臨時会長とし、同団組織に関する協議会を開き、会則及役員の選定に就き討議する処あり。
大要左の如く決議し、同6時頃閉会せり。

会則及役員の組織
一.本会は大韓全国民団会と称す
二.本会々員は、各道郡民衆委托代表者を以て組織す
三.目的は、伊藤公の遭難事件に関し大日本天皇陛下に伏奏し、日韓両国を永久に親睦ならしむるを目的とす
四.任員を左の如く置き、事務を処理す
 臨時総務長 1 総務 3 議長 1 議員 13 幹事長 1 会計 2 書記 3
五.総務長は、本会を代表し一切の事務を統理す
六.総務員は、総務長の指揮を受け事務を処理す
七.議長は会議事項を提出し、会務を拡充す
八.議員は議長の諮問に応じ、会務に参与す
九.幹事は庶務を担任す
十.会計員は、金銭の出納文簿の備置を総理し、且つ幹事長の命を受けて名簿を整理す
十一.書記は日記帳簿を備置し、総務の指揮に依りて一切の事務を處理す

役員
総務長 黄應斗 慶上新寧郡人
会計長 金台煥 平北義州郡人
書記長 梁貞煥 江原道楊口郡人

其他の役員は当日未定。
本日より毎日午前10時より同11時迄会議を開き、漸次其の組織を完全することに決し居れりと。
以上。



んー、謝罪するだけにしては随分大がかりな組織だなぁ。
やはり、目的中の「日韓両国を永久に親睦ならしむる」がポイントなのかな。
これは飽くまで私の推測でしか無いが、謝罪後も組織として存続させる心づもりがあったのではないだろうか。

次の史料で、謝罪団は他の政治団体から攻撃されている。
1909年(明治42年)12月1日付『憲機第2310号』より。


昨今、西北学会員金鎭國・一進会員李敏鄕等数名会同し、協議しつつありとの事項を聞くに、京城中部寺洞に設立したる謝罪団は、十三道の不良なる輩等が金銭を偸食するの計画にして、実際日本国民の感情を融和せんとするの誠意にあらず、速かに破団せしめざれば、被害の人民に及ぶ処なる可しとなし、不遠内中樞院に建議し、又警視庁に交渉して謝罪団の破壊を決議し居れりと云ふ。


これは、私の推測と同様のものを、西北学会員金鎭國・一進会員李敏鄕等も嗅ぎ取ったからではないかと思うのだが、判断は読者諸氏に任せる。
当然、彼等の言うとおり、本当に金銭を募って飲み食いするような動きがあったのかもしれず、或いはさらに単純に、嫉妬からくる攻撃かもしれないのだから。

そんな中、謝罪委員の選考が終わる。
1909年(明治42年・隆熙3年)12月3日付『警秘第4095号の1』より。


昨2日午前10時、中部大寺洞渡日謝罪事務所に於て、出京中の各道代表者40余名集合し、渡日謝罪委員を左の如く選定せり。

京畿道 趙達允
忠清南道 李相喆
忠清北道 張思國
全羅南道 尹升赫
全羅北道 鄭寅昌
慶尚南道 鄭秉湜
慶尚北道 黄應斗
黄海道 鄭廷朝
江原道 黄鍾南
平南北道 金台煥
(平安南道、咸鏡南北道代表者不参にて未決)

右及報告候也



あれ?
NAVER総督府日報で紹介されていた二人の委員のうち、鄭寅昌は居るけど宋鶴昇が居ないなぁ・・・。
実はこの後、ゴタゴタが起きて謝罪委員が変更されるわけです。
というわけで、1909年(明治42年・隆熙3年)12月10日付『警秘第4231号の1』。


渡日謝罪団の発起者尹大燮・金榮斗の両名は、去5日円覚社に於て国民大演説会の演説に、該団の行為は第二の安重根なりと攻撃せられたるに驚き、匈々にして帰郷したりと云ふ。
然るに発起人の一員たる黄應斗は、去7日残党10数名を事務所に召集し協議する処あり。
直に本団の目的を遂行する為め渡日すべしと云ひ、又国民大演説会弁士の失言を質問し、徐ろに事を決行すべしとの2説ありたるも、結局要領を得ず散会せり。
同団は、既に主たる発起者を失ひ、今は殆んど立消の姿となりたると云ふ。
右及報告候也。



「該団の行為は第二の安重根なり」。
この報告だけ読むと、全く意味不明ですな。(笑)
しかし、それにビビって尹大燮と金榮斗は帰郷してしまうわけで。

実はこの国民大演説会、直前のある大きな動きを糾弾する為に開催されている。
1909年12月4日。
この日付でピンと来た方は、立派な半島マニア。(笑)
そう、一進会による合邦の声明の付日である。

とりあえずこの国民大演説会での報告を、1909年(明治42年)12月5日付『憲機第2340号』から抜粋してみよう。
全文については、この辺りかなり複雑であり誤解を招く恐れがあるので、近く合邦運動に関しての連載の中で取り上げたい。


弁士鄭應卨(咼の上にト)の如きは、追て伊藤公の遭難に対し国民謝罪団員及鄭雲復の行動に就て見るも悪魔の一にして、我国民の分子として遇するの価値なきものなりと皮肉の悪評を与へたり。


『警秘第4231号の1』の「該団の行為は第二の安重根なり」は意味不明だったが、こちらの報告の方が意味は通る。
しかし、どちらが正しいのかは断言を避けておく。
いずれにしても、一進会員であった尹大燮と金榮斗が発起人ということで、謝罪団が一進会の合邦運動の一環と見られたか、前述の12月1日付『憲機第2310号』の流れで非難されたのであろう。

一方、鄭雲復については何度か当ブログで扱っている。
多少補足して書くと、西北学会会長をこの年(1909年)初めに辞め、その後副会長となっている人物。
大韓協会の会員でもあり、この当時は「帝国新聞」の社長であった。
彼が非難される事となった理由は、詳細不明ながら、一進会の肩を持つような部分があったらしい。
これも、合邦運動に関しての連載で触れたいと思う。

さて、このようにして非難された挙げ句、発起人を失ってしまった韓国謝罪委員。
いったい、どうなってしまうのか!(古)


今日はこれまで。
次回最終回。


「韓国謝罪委員」に関する件(一)
「韓国謝罪委員」に関する件(二)



安重根の連載終わって一休みしたかったのに、何故かまた連載になってるし。(笑)
自分でもよく分からないが、自分で面白いから良しとする。

さて、前回のスタート時点から、既に前途多難を思わせる「韓国謝罪委員」。
今日は、1909年(明治42年)11月24日付『憲機第2269号』から。


伊藤公の遭難に対しては、国民謝罪の要ありとて、大邱人尹大燮・金榮斗等発起となり、10数日来南部典橋咸召史の家を仮事務所とし、各道各郡に通文を発し、各郡2、3名宛の代表者上京を促がしたりしが、其上京せし者は未だ20名を満たざる由にて、昨日午後1時頃、発起人等事務所に参集し協議の上、更に別紙訳文の如き通文を印刷。
昨日各道に発送し、来る12月1日迄に上京す可きを促がしたり。


○ 別紙

至急公函

敬啓
伊藤太師の遭難に対しては、我十三道民衆は、代表員を選定して渡日謝罪せしむるの要あるを以て、本月17日迄に代表者を上京せしむることを通知したりしも、其期日迄に来京せしもの僅かに8、9人に過ぎず。
而して今日迄陸続来到するは、平北・慶北・江原道の数十郡に不過。
是れ国家の禍福関係の如何を、未だ能く揣量せざるに因るか、或は已発の告急書到着せざるを以て然るや。
今回の事、国民の義務として、抛置し顧みざる可きに非らず。
若し夫不応者あらんが内、外国の公眼に、安重根に同情を寄するを以てならんと認定せらる可し。
此豈に竦然とする処に非らざらんや。
故に到京諸員と更に協議し、茲に函佈(イ+布)するを以て照亮し、各郡紳士領袖・郷校直員・及人民の首任・地方委員両座下は合席会議し、該郡代表員1名宛速かに選定し、委任状を繕給し、来12月1日(陰10月19日)迄に上京せしめ会同議決し不日渡海せしむるを、時機危急なるを以て、遅疑致悔するなきを切に望む。

隆熙3年11月21日

京城会議所南部曲橋十三統五戸 咸召史 方 告急書発起人 尹大燮
同 金榮斗
再次発起 新寧地方委員 黄應斗
道 郡 郷校直員
地方委員 座下



前回の史料で集合期日とされた11月17日には、旅費の調達が危ぶまれていた発起人等は、無事に京城に到着したが、結局8人か9人しか集まらなかった、と・・・。
三百余郡に布告したるに各地方何れも賛成」という、1910年(明治43年)1月6日付東京朝日新聞に載せられた、記事中の謝罪使の言は嘘或いは虚栄だということで。
公函中の「是れ国家の禍福関係の如何を、未だ能く揣量せざるに因る」という文言は、現代韓国ですら充分通用しますからねぇ。(笑)

ところで、前回の告急書から、発起人が一人増えております。
新寧地方委員黄應斗。
彼も慶尚北道の人であり、尹大燮の告急書を受けて11月3日に同様の文書を出している。
1909年(明治42年・隆熙3年)11月27日付『黄警高発第2号』より。


今回の伊藤公遭難事件に関し、慶尚北道新寧郡地方委員黄應斗、同郡農会長朴祥琦の2名が発起人となり、地方各郡の地方委員及有士家へ別書写の通り主旨書配付し、該事件に対し日本政府へ謝罪の意を表する為め、東京に趣経せんと企て居ることに付内偵するに、当地方員は本月13日当郡衙へ会合して協議したるも、干今議決せず。
追て該旅費は、郡内各坊長に承諾を求めて出給せしむる予算なりと云ふも、決定せずと云ふ。
尚引続内偵中。
右報告候也。



「別書写」は、漢字ハングル混用で訳文も付いていないため省略。

こちらも旅費でお困りですか。
そうですか。


続いては、最初の史料と同日、ほぼ同じ内容の警察の史料を見てみよう。
1909年(明治42年)11月24日付『警秘第3940号の1』より。


慶尚北道大邱郡尹大燮外2名の発起にて、伊藤公の凶変に対し十三道より代表者を出し、日本政府に謝罪せんとて、南部曲橋に事務所を設け、客月29日、別紙の如く告急書なるものを各道郡に発送し、本月17日迄に京城に会同すべき旨を促したり。
然るに、当日までに集来したるもの僅かに10名内外に過ぎざるを以て、更に同23日を期し上京すべしと通知し、同日西大門外独立館に於て演説会を開き終り本件に関する決議を為す筈なりしも、尚又当日迄に上京せるもの50名内外の少数にして開会すること能はず。
依て更に明25日開会することとし、来集者は目下各所に滞宿せり。
右及報告候也



文中の別紙は、前回の告急書の事である。
集合した人数が上記の『憲機第2269号』と多少違う。
前述の「別紙至急公函」によれば、当初集会予定であった11月17日に集まったのは10名前後、その後23日迄に集まったのが50名前後ということだろうか。

但し、23日に上京するべしという通知及び更に25日に開会延期という話は、前述「別紙至急公函」を見ても恐らく誤りだとは思うのだが、詳細不明である。

次に、1909年(明治42年)11月25日付『高秘発第407号』から。


一.伊藤公の遭難に対する謝罪委員を日本に派遣せん為め、京城に会同の計画あることは既報の如し。
其代表者として既に着京せる者は、慶尚北道より6名、慶尚南道より1名、全羅北道より6名、京畿道より4名、江原道より3名なり。
平安南北道に於ては委員決定せる処あるも、未だ出発せず。
之れ等代表者出京意向は、或は郡守の勧誘に従い、或は輿論に適合せん為め決定せるものにして、要は誠意に出たりと認むることを得ざるは各道の状況なり。
現に永興地方にありては斯る謝罪を為すべき責任なしと称し、出京委員選定の勧誘に応ぜざるものの如し。

一.謝罪委員派遣の主唱者大邱居尹大燮・金榮斗・姜永周は、日本人三浦庄三郎の指導により、黄應斗・朴祥琦は、漢城府民会長兪吉濬の首唱により通告文を各道に発したるものの如しと。

一.平安北道寧邊郡公立普通学校は、学部の訓令に基き、天長節に際し公爵の経歴人物及日本の恩沢に関し生徒に諭告したるに、同校長李箕鎭は、日本の佳節に際し休校するは全然政を日本に移したるものなりと攻撃せられ、為めに困難せりと吹聴し居れりと。

一.春城学校教師南性裕は、10月31日咸鏡南道元山里青年夜学会に於て談偶々兇変の事に及ぶや、今回の兇行者は平安南道の出身者なりと。
由来平安道は憂国の志士に富む。
我元山に、斯る快男子の顕はれざるは遺憾なりと、兇行を賞揚したり。

右及報告候也。



この時点で集まったのは、合計20名と。
永興地方の言っている事は正論ですね。
しかし、責任の無い関係者からでも謝罪され、情に訴えられると弱いのが日本人なわけで。
勿論、テレビを初めとする全国的な媒体が無い時代に、どれだけの効果があるかについては疑問符が付くわけですが。

前回も出てきた、大邱新聞主筆とされる三浦庄三郎なる人物については、どのような人物であったのかさっぱり不明である。
一方で、兪吉濬については当ブログにおいても1、2度出演していただいている。
閔妃暗殺事件後に内部大臣となり、露館播遷(俄館播遷)の際、金弘集、鄭秉夏と共に逆賊認定を受けて日本へ亡命した人物である。
他には、慶應義塾に入学して日本最初の外国人留学生となっており、ハングルの話になると良く出てくる、井上角五郎が刊行に深く係わったとされる「漢城旬報」にも係わっていたとされる。
まぁ、謝罪使の当初の主張者は、日本人や開化派、一進会員であったと。

「学部の訓令」が、日本人側から出た話なのか韓国政府側から出た話なのかは不明。

そして、安重根が平安南道の出身者という事にされているが、自伝でも日本の調書でも黄海道海州出身なわけですが・・・。
「由来平安道は憂国の志士に富む」とは全く関係ありませんな。


今日はこれまで。


「韓国謝罪委員」に関する件(一)



安重根の連載は、昨日目出度く終了したわけだが、今日のエントリーも安重根と関連する話である。
そもそもこのエントリーの表題である『「韓国謝罪委員」に関する件』については、zeong氏が新聞史料を元に面白い連載をしていたわけだが、それに勝手に乗っかってみようという話である。(笑)

「韓国謝罪委員」に関する件(1)
「韓国謝罪委員」に関する件(2)
「韓国謝罪委員」に関する件(3)
「韓国謝罪委員」に関する件(4)
「韓国謝罪委員」に関する件(5)
「韓国謝罪委員」に関する件(6)
「韓国謝罪委員」に関する件(7)


この謝罪委員。
総督府日報にあるとおり、1909年(明治42年)10月26日、ハルピンにおける安重根による伊藤博文暗殺に対する謝罪使である。
名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実現在日韓共鳴二千年史として復刊)』から少し引用。


一ヵ月後の十一月二十六日には漢城府民会、その翌日は大韓商務局総会、十二月十三日には永道寺がそれぞれ主催して、追悼式が持たれました。
当時、旅順監獄に繋がれていた安重根の所に面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等の賛辞が続きました。
そればかりではありません。朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国十三道に呼びかけ、「渡日謝罪十三道人民代表臨時会議所」を設ける団体も現れました。
また一方では、伊藤公を閔帝廟のように、神として祀る運動やら銅像や頌徳碑を建立する運動も起こりました。



この中の「渡日謝罪十三道人民代表臨時会議所」というのが、件の謝罪使の話である。
前置きはこの程度にしておいて、史料をば。
まずは、1909年(明治42年・隆熙3年)11月2日付『高秘収第646号の1 兇変に対する地方民心に関する電報(一)』より。


 (前略)

一.慶尚北道
伊藤公爵遭難に対し韓人は概して驚駭し、将来を懸念する者多し。
其心中遭難を喜ぶ者も口外を憚り、殊に近時新聞記事により大に将来を考慮したる末、日本に服従するを得策とし、実業奨励会・一進会各会員等集合して日本に謝罪使を派遣せんとの通告文を配布せんとせり。
最も其中には、誠意に出たるものと政略に出たるものとあるは元よりなり。
而して多数の韓人は、日本人の催す追悼会に加入せんとするの模様あり。
外国宣教師は、衷心より哀悼の意を表せり。
日本人は大に哀悼憤慨せり。
有志追悼演説会を開き、民会は吊使渡航料を贈り、吊旗を掲げ歌舞音曲を休止することに決せり。

 (後略)



この史料には他地方の民心についても記載されているが、この一件が慶尚北道から始まるため、敢えて抜粋した。
他の地方についても、驚愕と前途への悲観と喝采の3種類であるのは、それほど変わりはない。

この史料における「謝罪使を派遣せんとの通告文」が、今回の一件の始まりとなるのである。

続いて、1909年(明治42年・隆熙3年)11月9日付『高秘収第6377号の1』より。


本月3日高秘発第349号、慶尚北道大邱にて尹大燮・姜永周・金榮斗の3名発起となり謝罪使を日本に派遣協議の件は、漸次集合者減少し決定するに至らず、為めに発起者は意を決し、来る13日、京城独立館に会合し、謝罪使派遣の協議会を開く為めに上京することを議したる如し。


11月3日付『高秘発第349号』は見つける事が出来ていないが、なんだか初っ端から行く先が思いやられる展開だな・・・。

次ぎに、先の「謝罪使を派遣せんとの通告文」が出ている、1909年(明治42年)11月16日付『憲機第2216号』。


(11月13日 大邱分隊長報)

伊藤公爵の兇変に関し、大邱居住尹大燮外2名が発起となり、全国十三道の各郡に別紙急告書を送りて、謝罪の為め国民を代表し日本に謝罪委員を派遣せんと、之れが勧誘に奔走せる状況あるに付内偵したる処

一.発起人尹大燮は一進会慶北支部総務員にして、金榮斗は同評議員、姜永周は同会員なり。
3名共先覚者を以て自任し、稍事理を解する人物なるに、一進会支部の勢力は頗る微弱なり。

二.今回の此挙に就ても、誠心誠意真に国家の前途を憂ひ、又伊藤公を敬慕するの念より出でたるかは頗る疑はしく、畢竟此挙にして現実に行はれんが、日本人側の歓心を得、亦た謝罪委員に選ばれんが、其名望を全国に博するを得べしとの、謀計に出でたる策略ならんかと思料せらる。
尹大燮は、大邱新聞主筆三浦庄三郎と昵近の間柄にして、今回此挙を為すに方りても、三浦は其謀議に干与したりとの風説あり。

三.該急告書に対し、新寧郡李鍾國(同人も三浦庄三郎と極めて親密の間柄にして、又親日主義者なり)は、郡内有志者を勧誘し、尹等の企図に賛助を与えつつありと聞く外、一般冷淡に看過し、未だ何処よりも賛否の回答に接せざる模様なり。

四.該急告書中に記載せる11月17日京城独立館に於ける会合に出席する為め、発起人の出京に要する旅費に窮し、今尚ほ出発し得ざる模様なり。

以上。


○ 別紙

告急書

嗚呼、我国は今将に盡亡せんとす。
我臣は今盡滅せんとす。
国の失亡の猶ほ復興すべきも、民の死滅は復活すべからず。
今日伊藤大師の遭難は、即ち我が国亡民滅の機なり。
彼の頑迷無智なる者、固より論ずるに足らざるも、凡そ稍や時局を知る者は、豈に愕然として震驚し、竦然として恐懼せざらんや。
夫れ我が韓国の称帝独立は、此れ誰れの力に依るや。
我民の開明進歩は、是を誰れにか模倣せんとするや。
痛惜憤恨、此より甚だしきはなし。
今我が韓史を見るに、閉鎖自恣して壬午の乱を惹起し、守旧排外竟に甲申の憂を招く。
清に倚り、自ら誇りて甲午の戦を啓く。
俄に依り、日を斥けて乙巳の役を致す。
陽に親み、陰に踈んじ、秘密運動をなして七條約を成立する有り。
海牙問題に至て、又た五條約を成す。
自ら招くにあらざるなし。
夫れ、誰をか怨まんや。
或は頑愚にして国を誤り、或は奸細にして国を誤り、或は個人の名を挙げんが為め国を誤る。
今日の事や、又た是れ幾個狂夫の危憤怪挙にして、其国を誤る甚だし。
嗚呼、伊藤大師の我国に賢労なるは枚挙に遑あらず。
我が秕政を除去し、新法令を改定し、我が迷夢を警醒し、新学問を教導し、模範場を起し、農林業を勧め、伝習所を設けて工藝を発展し。
凡そ利国便民に係る事業は、起さざるなし。
寔に我韓中興の元勳にして、日本倚■の柱石なり。
嗚呼、夫れ豈に此に止まらんや、東洋の平和を維持し、黄色人種を保護するの大責任、公の一身に在り。
我民たる者義として家頌戸祝し其康寿を冀ふべきを、変此に至りて忿寃極りなし。
噫彼れ梟膓狼肚の幾個狂徒よ、彼れ我が民の代表者に非ずと雖も既に韓人なれば、我国遂に其責を免れ難し。
我が民、亦其罪を負担せざるべからず。
国際問題は論ずること無しとするも、我民族生活の権は将に保有せらるるや否や。
嗚呼、殆い哉、岌々たる哉。
今日の計は我が2千万体齊しく起て狂逆の罪を声討し、又た我が2千万民齊しく東京に赴き、罪を日本天皇陛下に待ち、垂恩赦宥を倘蒙し、後我が民生活の権を下賜せらるれば幸なり。
然らざれば甘んじて誅に伏せざるべからず。
是れ我が国民、今日の義務なり。
鄙等此の急迫の時機に当り、不材を顧ず十三道の代表に隨ひ、直に東京に赴き恭しく天誅を竣つの計料なれば、茲に普く君子に急告す。
幸に照亮の後各郡紳士貴道首府に会同し、渡日代表員一、二員を公議選定し、来る11月17日(陰10月5日)京城独立館に齊到、決議せしめられんことを乞ふ。

隆熙3年10月29日

発起人 慶北大邱郡 尹大燮
金榮斗
姜永周

各道各郡僉君子座下

再伸 東京往復の旅費は、各自其道会中より支弁し来会せしむる事。



発起人の3人は一進会関係者でした。
おまけに日本憲兵隊からは、国家の前途を憂い、伊藤博文を敬慕しての行為かどうか疑われ、日本人側には歓心を得て国内では売名する策略ではないかと思われている。
告急書において、再伸として東京までの旅費について触れているが、自分たちの京城への旅費すら無い有様。
哀れだ・・・。
恐らく、この金銭的な話が最後まで響いて、実際に日本に渡る謝罪使が2人となるのであろう。

しかしこの告急書の文面、今ならば「植民地史観」とか「皇国史観」とか言われるのだろうか。
ああ、親日派なのはハッキリしてるから、内容検討すらされずにゴミ箱行きかもね。(笑)


今日はこれまで。