前回は、大韓協会による韓国政府への批難までを取り上げた。
今回は、宋秉畯が辞任した後の李完用の対応から取り上げてみよう。
1909年(明治42年)3月5日付『憲機第505号』より。


首相 李完用
右者、2、3日前、侍従某を自宅に招き、今回宋内相免官に伴ひ、宋派の官吏等中其地位に影響の及ばんことを杞憂し居るものあらんと思ふ。
之れが心配なからしむる為め、特に汝を呼び、内閣の方針を漏し置くなり。
決して内閣に於ては、宋の派なりとて免官するが如き方針にあらざれば、安必して居れよ。
且つ、他の者にも其旨伝へ置けよ云々と語りしと。

以上



宋秉畯の一派の地位を安堵すると。
特に強調する必要も無いと思うのだが、勢道政治の名残なり、7月29日のエントリーで取り上げた「当局の使嗾に出づとの怪しき聞」を意識したり、色々と理由はあったのだろう。
いずれにしても、宋派にかなり気を遣っているわけだが、それが通じていなかったりもする。
1909年(明治42年)3月9日付『憲機第526号』。


一.一進会に於ては、目下大韓協会に対し充分対抗手段を執る筈なるも、近々会長李容九帰京するとの報を受けたる為め、夫迄極めて慎重の態度を保持することに決し、一面に於て過般来、李完用一派が大韓協会を煽動して一進会を攻撃せしめたる形跡ありとし、其証拠を蒐集することに目下努め居れりと云ふ。


噂を信じちゃってますな・・・。
いや、やはり噂ではないのだろうか?(笑)
ちなみにこの証拠が見つかったとの報告は、見つけることが出来ていない。

そんな中、一進会は総裁選挙を行う。
1909年(明治42年)3月15日付『憲機第563号』より。


3月13日、一進会本部に於て臨時評員会を開催し
一.前内部大臣宋秉畯を一進会総裁に推薦したりと
二.右直接宋秉畯に通知の為め、一進会総務李熙悳は本日東京宋秉畯の許に向け出発したりと。



この時期に宋秉畯を総裁にするとは、非常に強気に思える。
実はこの理由と思われる話がある。
宋秉畯本人が、辞職したのは今回の魚潭との事件のためでは無いというのである。
1909年(明治42年)2月28日付『宋前内相ニ随行セシ巡査ノ東京ヨリ発シタル内報』より。


一.本日(28日乎)の各新聞紙に内相交迭の報ありしを以て秘書官に就き尋ねたるに、実は昨11時頃に電報にて其の通報ありしと。
併し内相の辞表を提出せられしには26日の午後なりしに、其の辞表の到着せざる前に当りて依願免官を発表するは、如何にも解し難きことなりとの事なり。
一.内相辞表提出の動機は実に近々にして、外国宣教師問題より起りしなりと。
一.内相の意気込は非常のものにて、2、3ケ月の後を見よとの言も口外し、何か画策あるものの如しとの事なり。



本物の辞表が届く前に、電報で辞任が通報され新聞記事になったって・・・。
そりゃあ「如何にも解し難きことなり」と言いたくはなりますわな。
しかし、辞任するのに国外に居っぱなしの内部大臣というのもどうかと思うのだが。

そして、辞任の理由は外国宣教師問題のためであると。
この事件の概要は、2月16日発行の報知新聞に、当時既に渡日していた宋のインタビューが掲載され、その中で「日本の施改を喜ばない韓民も居り、彼等の多くは米国宣教師の煽動によって、米国政府の保護下となる事を希望しているようであり、米国宣教師の背後には米国政府が居るのではないかと疑われる。(意訳)」と述べ、日本の宣教師も在韓宣教師も憤慨し、宋に対して怒りの抗議が噴出したという事件である。
今で言うところの舌禍事件である。

まぁ背後に米国政府云々は兎も角として、米国宣教師の煽動というのはある意味正解だと思うのだが。(笑)

さて、杉本幹夫氏は『「植民地朝鮮」の研究―日本支配36年』において、宋がこの時辞任したのは李完用と宋秉畯の対立の激化が原因としているようだ。

「当局の使嗾に出づとの怪しき聞」を記した史料もあったわけであり、間違いとは言えないのだろうが、辞任の第一の原因は、宮中列車で飲酒の上、それを咎めた魚潭と争いになりかけた事件であり、本人の強がりかも知れない言(笑)によれば、外国宣教師問題による辞任というのがスマートだと思いますが、如何に。


今日はこれまで。
次回、最終回予定。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)
宋秉畯・魚潭争闘事件(三)
宋秉畯・魚潭争闘事件(四)
宋秉畯・魚潭争闘事件(五)


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小さい話のつもりだったのに、何だか長くなってしまったなぁ・・・。
事件後の経緯が、個人的に面白くなってしまったからなのだが。
では本題。

宋秉畯の辞職が正式に発表されたのは、2月27日であった。
1909年(明治42年)3月1日付、『憲機第468号』より。


忠清南道公州郡より入京したる韓人の語る処に依れば、同道一進会員等の多くは現今同会に対し不平を抱懐せり。
会員等の言を聞くに、数年前一進会創起する当時、我々は唯宋秉畯の指揮の許に集まり、会員中には会費供給の為め自己の財産を潰したるものあり。
或は家族を離散せしもの多く、韓国内の官吏は一進会員を任用し、韓国を文明にするとの宋秉畯の言論は、今に至って宋に欺かれたるものなり。
而して彼は大臣の位置に在るも、会員は暴徒に殺され、生命すら保つ能はず。
李会長は如何なる故か渡日後帰韓する模様なく、又宋内相は皇室不敬の罪を負ひて是又渡日し、部下我々が何に因って本会の命脈を保ち得るか。
我々一同は是れより解散し、各々適当なる職業に従事するの外なしと、解散説盛んなるより、他道同会員等にも解散せんとの噂ありと云ふ。



この時期、一進会の会長である李容九も渡日していたようである。
リーダー不在の状況で、対抗組織から攻撃を受ける。
そりゃあ不満も出たのかもしれない。

一方で、別な見方をする報告もなされている。
1909年(明治42年)3月2日付、『憲機第485号』より。


一進会に於ては近頃大韓協会の、頻りに宋秉畯を大罪人かの如く激烈なる攻撃をなせしに関し、其名誉回復の為め、各道支会員の上京を待ち、西大門外独立館に於て大韓協会攻撃の演説会を開催せん協議中なりと云ふ。


名誉回復の為に、大韓協会攻撃の演説会を開催。
んー、相変わらず「声闘」から抜け出せないようで・・・。
まぁ、現代ですら抜け出せていないので、仕方ありませんね。

この二つの報告、どちらが正しいのか不明であるが、恐らくはどちらも正しいのだろう。


さて、今回の事件に関して、当初は圧倒的に正しい立場だった大韓協会。
宋が辞任してしまうと、今度は徐々にその批判の枠を広げていく。
1909年(明治42年)3月3日付、『憲機第489号』。


大韓協会に於ては、曩日法部大臣が韓皇西巡の際、宋・魚の争闘の現場に於て宋の不法行為を現認しながら、法相の職に在て宋を其儘に棄て置くは、其職責を盡くさざるものとす。
依て其無責任なることを演題として、近日中激烈なる演説会を為さむことを計画中なりと云ふ。



まずは法部大臣であるにも係わらず、宋に処分を下さなかったとして高永喜への批難。
次いで3月5日付『憲機第503号』より。


明6日、大韓協会に於ては評議員会を開催し、総理大臣李完用、宮内大臣閔丙奭、法部大臣高永喜の三大臣を論駁し、以て辞職を勧告し、若し之れに応ぜざる時は、更に他の方法を執る方針なりと。


総理大臣李完用、宮内大臣閔丙奭、法部大臣高永喜の三人に非難が広がった。
この6日の評議員会の結果、政府に対して質問書が提出されることとなったようである。
3月8日付『憲機第521号』より。


大韓協会にては、3月6日重役及評議員会を開催し、左の要領の決議をなし政府に質問書を提出する筈なりと云ふ。

一.前内部大臣宋秉畯が、玉車内に於て抜剣したる事件に就き、当局者は彼を処罰するものと思惟せしに、単に依願免官に止めたり。
右は、其罪軽るからざるものあれば、宜しく法規に照し、懲戒処罰を加ふる所あるべしとの意味にて、飽迄問罪せんとす。

以上



依願免職では足りないので懲戒処罰しろ、と。
大韓帝国の法体系の詳細が不明であるので、この意見が正しいのかどうかは不明である。
しかも、相変わらず「抜剣」した事になってるし。

上記三つの史料を見るに、やはり政争に利用されている感も無くはない。


今日はこれまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)
宋秉畯・魚潭争闘事件(三)
宋秉畯・魚潭争闘事件(四)


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今日は、それほど事件と関係無い事ながら、結構面白い史料から。
1909年(明治42年)2月22日付、『憲機第413号』より。


一.天道教主孫秉煕は、前年一進会の設立と共に教徒を多く同会に奪はれたるを以て、常に一進会に対し不満を懐き居りしが、幸に教徒権東鎭、呉世昌、李秉昊等が大韓協会に入会し専ら同会を援助し居れるより、今回宋秉畯の対魚潭事件を好機逸すべからずとし、一進会を滅亡せしめんとて京城及地方の天道教徒を全部大韓協会に入会せしめ、一進会の侍天教に於ける如く天道教を大韓協会の主教とし、大韓協会の地盤を堅固ならしむることに力め居りしと。

以上



 孫秉熙


天道教と侍天教。
いずれも「東学」が元にする宗教であり、教義はほぼ同じとされ、一般には「抗日」の天道教と「親日」の侍天教としか分けられていないようである。

孫秉熙が「東学」を「天道教」に改称した正確な年月日は不明であるが、恐らく孫秉煕が日本への亡命から帰国した、1906年頃の成立とするのが妥当なのだろう。
一方、李容九が「東学」を「進歩党」としたのも正確な年月日は不明である。
この「進歩党」は、1904年に宋秉畯の「維新会」と合併し「一進会」へと姿を変えるのである。
そんな中、李容九が立ち上げたのが「侍天教」という事になる。

この史料の内容の信憑性は定かではないが、教徒を一進会にとられたのを恨んで、対抗組織に肩入れというのは、いかにもあり得る話である。
その場合、「抗日」と「親日」で分けるのが正しいのかどうか。
一般に言われている、李容九らが天道教から追放されたという話は、何の史料に基づくのか。
非常に面白い史料だと思うのは、私だけ・・・かも知れない・・・。


それほど関係ない史料で長くなってしまった・・・。
気を取り直して、前回の中枢院による建議書の返却の続きから。
曾禰副統監から伊藤博文への1909年(明治42年)2月23日付、『往電第8号』より。


李首相より閣下に申出たる宮廷列車中の出来事に付、中枢院より建議書を内閣に送付し、内閣側よりは書記官長の気付を以て之を返却せり。
其外に、個人の名義を以て小官に書面を送り、不敬罪を問ふべしと請ふものありて、今後とも仍ほ多少の運動を為すの様子なきに非ず。
而して此運動は、当局の使嗾に出づとの怪しき聞もあり。
元来、当時の実況は呼子警視の報告に依り古谷秘書官より中止たる儀なれば、閣下は既に御熟知のことと考ふるが故に、小官は唯今は沈黙を守り居るのみ。



「当局の使嗾に出づとの怪しき聞」における当局とは、恐らく李完用の事である。
その「怪しき聞」と思われるものが、1909年(明治42年)3月2日付『憲機第473号』に報告されているからである。


一説
大韓協会中有力なる一会員の言に依れば、大韓協会に於て宋秉畯の非行を摘発して、激烈なる攻撃を為せしは、単に大韓協会員のみの発意に非らず。
陰に、李完用が宋を倒さざれば将来其地位に危険の及ばんことを虞れ、之を倒さむ策として、魚潭の争論を好機とし、同会の重なる輩を教唆し、以て同会をして宋に対する皮肉の攻撃を敢てせしめたるものなりと云ふ。



宋秉畯を攻撃しているのは大韓協会だけではなく、政敵を倒す策として李完用が大韓協会員を教唆したというのが「怪しき聞」だと考えられる。
いや、あり得ない話では無いのだが、現実には李完用も大韓協会に攻撃されてるわけで、根も葉もない与太或いは離間策と考える方が妥当であろう。

さて、このような騒ぎの中、一つの暗号電文が伊藤から曾禰へと送られる。
1909年(明治42年)2月24日付、『来電第2号』である。


目下の状勢を観察するに、宋内相の辞職は已むを得ざることと思考するにより、宋内相従来の志願に基き、辞表提出する方然る可き旨諭示し、本人も大に満足して承諾せり。
辞表は郵便にて送る筈なり。
但し其日附は、韓皇京城還御の当日にすることとせり。
此旨、李総理大臣に御密示ありて、後任は朴斉純にて可然き旨をも併せて御示ある可し。



ちなみに宋秉畯はこの時、事件から逃げ出すかのように渡日していた最中である。

宋秉畯が何時辞任を志願したのかは不明であるが、しでかした事が事でありこれは已むを得まい。
弁解の余地は無いだろう。
後任は、6月11日のエントリーで記したとおり朴齊純となった。

さて、こうして内部大臣を辞職することとなった宋秉畯。
しかし、騒動は暫く収まる気配を見せないのである。


今日はここまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)
宋秉畯・魚潭争闘事件(三)


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宋秉畯と魚潭の騒動に始まり、それを切っ掛けとした大韓協会の尤もな批判。
ところが、その箍が次第に外れていく、というのが前回までの流れ。
それでは、早速1909年(明治42年)2月16日付『憲機第358号』より。


2月13日午後8時頃、中部貞慶民団会に於ては会長以下約100名余、大韓協会の事務所に集合し、会務処理に関する協議をなし、同9時より約2時間に亘り、鄭雲復演説を為せし由なるが、大要左記の如し。

左記

「現政府大臣中には、逆賊の行為を敢てする者3名あり。如此輩は、今に於て其位置を去らしめざれば、将来如何なる蛮行を演ずるなきを保せず、故に極力渠等の討滅策を講ぜざるべからず、且つ李址鎔・兪鎮賛の両名は、博徒30余名の首領となり韓国刻下の情勢を不顧、只管賭博にのみ耽り、座ながら他人の財産を取らんとの賊心を抱き居る如きは、之れ豚犬に等しかるべし。斯る輩は、人種として遇するの価値なし云々」と頗悪罵を試みしと云ふ。



しかし、「之れ豚犬に等しかるべし。斯る輩は、人種として遇するの価値なし」ですか・・・。

この演説の行われた1月13日と言えば、私の誕生日・・・ってちがーう!
前回扱った『憲機第333号』において、鍾路青年会館で大韓協会の集会が開かれた日である。
その際も鄭雲復が演説している筈なのだが、同じ集会なのか違う集会なのかはよく分からない。
まぁ時間的に見れば、違う集会ではあるのだろう。
ちなみに鄭雲復は「帝国新聞」の社長である。

ここで述べられている逆賊3名は、宋秉畯・李完用とあと一人は誰であろう?
後に史料で糾弾されているのは、閔丙奭や高永喜、尹徳栄等であるのだが、その内の一人だろうか。

さて、李址鎔がこの頃賭博にはまっていたという噂は、史料で確認が出来る。
1909年(明治42年)1月4日付『憲機第2号』より。


李址鎔
右者、近来殆んど賭博に耽り居る由なるが、集合場所は同人の別邸在龍山江亭にして、敵手は朴義秉・鄭寅國・閔泳采等の輩にて、李は之れが為め、近来少なからぬ失敗を来し、目下金策に窮し居れりとの説あり。
以上。



 李址鎔


この時の李址鎔は内閣に居たわけではないが、中枢院顧問ではあったらしい。
勿論ここで言う中枢院は、朝鮮総督府の諮問機関の中枢院ではなく大韓帝国における中枢院であるのだが、いまいち詳細な権力や活動範囲が不明である。
しかし李址鎔は兎も角、決して中枢院とて遊んでいたわけではないようだ。
1909年(明治42年)2月19日付『憲機第387号』より。


先般韓皇帝陛下北巡の時、内部大臣宋秉畯及待従武官魚潭が口論せしとの件に関し、元主事李愚烈なる者、2月17日、中枢院に献議したる要領、左の如しと。

名分を正しくし、紀綱を立つるは万古に亘り天下を通じ家国の典経なり。
故に子にして其父を知らざるものは、大不順大不孝なり。
人臣にして其君を知らざる者は、大不敬大不忠なり。
不孝不忠者は、法を以て律に照らすは、斉家治国の順序なり。
曩に大駕西巡あらせらる時に、玉車に至近の所に於て、所謂内部大臣宋秉畯の行悖は犯分蔑綱に関係あり。
白昼抜刀酔酒乱嚷は、巷閭の不学輩も之を行せば法懲を免がれず。
況んや玉車陪従の側に在て行ふ。
彼は、人類に足らざるは全国人民の知る処なり。
大駕還郷の日、直ちに政府より如何なる処分あるかを思ひ居りしが、何等の沙汰なく国朝五百年崇礼尚義の紀綱が今一朝にして無くなりしが、当局諸公を以て談ずれば、親日党の罪悪を掩護し、勢力に阿附せんとす。
斯の如くは皇室尊厳の意味、何処にかある貴院の職務は言議の枢要に在り。
此の無君無臣の大変を見て一言せざるの、何事を待って斯く出ずるが、名分の掃地と君権の頓墮哉。
此を思へば自ら心寒に堪へず、敢て愚見を陳ふ。
閣下は院寮を同会し、内閣に建議し、天陛に奏聞して宋秉畯を懲戒し、我皇室を尊崇するを希望す云々。

以上



まぁ、長々と書いてるわけだが、要約すれば君臣の分をわきまえずに不敬を行ったのだから、宋秉畯の懲戒処分を内閣に建議しよう、という話。
ところが、この建議は棄却されてしまう。
1909年(明治42年)2月20日付『憲機第405号』より。


宋内相、魚侍従武官口論の件に付、李愚烈外1名より中枢院へ建議したるが、同院にては特別会議に附したる上、一昨18日内閣に廻送せし由なるが、内閣よりは該建議書を同院に返却せしと云ふ。


建議書は、こうして内閣から返却された。
前回の大韓協会の建議に続いて二度目である。
次回は、この続きから。


今日はここまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)



前回は、事件の前提となる状況説明まで行った。
今回はいよいよ事件そのものについて。
1909年(明治42年)2月5日付、『憲機第255号』より。


一.北韓行幸第1日、1月27日、列車京城より平壌に向ふの途中、平壌の手前に於て列車進行中、供奉の一員たる内部大臣宋秉畯は、親任官室より酒気を帯びたる上、自ら「ウヰスキー」と酒盃を手にして御召車の次室なる侍従及侍従武官并女官詰室に入り来り、誼に対するをもなく雑談を仕向け且酒を女官等に迄勧めたるより、侍従武官(砲兵大佐)魚潭は、夫れとなく退室を促がせしに、宋は怱ち魚の態度を傲慢なりとし、立腹して魚の胸部を掴尚手を挙げて殴打せんとしたるより、側に在りし侍従等は之を鎭め、魚を避けしめたるより何事も無くして済み、宋は其儘退室したりと尤も、宋は魚の胸部を掴みし折、魚の三等勳章にて自ら掌に微傷したりと。


えーっと・・・。
まぁ、綺麗なおねいちゃんの居る所で飲んで騒ぎたい気持ちは分かる。
私とて、おねいちゃんとスケベな話をしながら酒を飲んでた方が楽しい。(笑)
しかしだな、TPOをわきまえろ、と。
つうか、仕事中に酒飲んでんじゃねーよ。(笑)

おまけに胸ぐら掴んで殴ろうとしたところを止められ、胸ぐら掴んだ際に勲章で掌に怪我。
暴れん坊を通り越して、ただの阿呆ですな。


 宋秉畯


二.事実は右の如くにして、然も一瞬間の出来事に属し、固とより両者共抜刀抔のことなかりしと。

本件は如斯にして何人も他に知る者無く、当時同列車に陪乗し居りし山形憲兵中佐等の如きも、翌日新聞記事を見て始めて右事実の在りしことを知りたる位なりしと云ふ。
盖し、本件を斯く誇大に各新聞上に喧伝するに至りしは、事の宮廷列車中なりしと、且は政争に胚胎したる出来事と一般に曲解する処ありしに由るものならんか。



抜刀しあった訳ではないとか、そんな問題じゃない気もするが・・・。

知ってる人間が少ないのに翌日の新聞に載り、例え新聞記者が同乗していたとしても、侍従や女官の居る部屋まで入れたとは考えづらいとすれば、やはり誰かがリークしたと考えるのが妥当なのだろうか。

こうして、「且は政争に胚胎したる出来事(一方では政争に起因する出来事)」ではなかったにしても、この「政治家としてどうなのよ?」という事件は誰も擁護できないわけで、当然政争には利用されていくのである。
1909年(明治42年)2月9日付『憲機第291号』より。


韓皇陛下西幸(dreamtale注:北幸の誤り)の途次、宮廷列車内に於て内部大臣宋秉畯及侍従武官魚潭が争闘せし事件に関し、大韓協会に於ては、宋内部の行為を以て尊厳を冒涜したる不敬の失態なりとし、統監に建議書を提出して宋内部の処分を仰がんと、昨8日内議する所ありたりと云ふ。


おっしゃる通り。(笑)
しかしこの建議書は、提出後に李完用に返戻されるのである。
1909年2月15日付『憲機第333号』。


大韓協会に於ては、13日午前11時より会長以下数十名、鍾路青年会館に集合し、首相李完用より宋、魚争闘事件に関し事実相違の点ありとの理由の下に、同会より提出せし建議書返戻せりとて、之れが再建議に関する協議を為し、了て午後1時より約4時間に亘り左記の4名演説をなせしと。
要は内閣の施政方針、主として暴徒鎭撫の成策なきを批難し、且つ争闘事件を不問に付し置くの不当なること、及び宋秉畯に対する人身攻撃を為せりと。
傍聴者約千名。
各種の団体員、商人、学生等諸種の階級者にして、聴衆には頗る感動を与へたるものの如しと。

左記

一.僭邪と正論 弁士 尹孝定
一.政府の責任 同 権東鎮
一.団体的行動 同 金光済
一.輿論の価値 同 鄭雲復
安昌浩は、当日身体不快の為め出演せざりしと。



当初の目的は「おっしゃる通り」であったのに、いつの間にか内閣の政策批判もプラス。
人身攻撃の内容は不明であるが、多分今回の事件に限らず、昔の事から現在の政策等まで非難したのだろう。
こうして少しずつ大韓協会の非難は、宋秉畯への非難だけに止まらなくなっていく。


今日はこれまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)



密使-譲位-軍隊解散で32エントリーと言うことは、1ヶ月以上を費やしたのだなぁ。
どうりで長編になりそうなものに食指が動かないはずだ。(笑)
暫くの間は、小さい話で凌ごう。

ということで、6月11日のエントリーで「宋秉畯が純宗の地方巡幸随従時に宮廷列車内で酔っぱらい、侍従武官魚潭と衝突した事件」と紹介した事件の詳細についてを取り扱ってみよう。
って、誰が読むんだろう?(笑)


まずは宋秉畯。
親日派集団とされる一進会の幹部であり、韓国に於いては李完用と並ぶ売国奴とされている。
東学党の出身であり、金玉均を暗殺に来て感化されて転じたというような話もあるが、これについては未確認である。

一方の魚潭。
秦郁彦氏の『日本陸海軍総合事典』によれば陸士11期とされているが、出典確認はできていない。
また、7月4日のエントリーで取り上げた、「朴泳孝、李道宰其他2、3の軍人は、免官の上逮捕せられ」た軍人の一人である。
但し、流罪となった朴泳孝とは違い、彼の場合は無罪放免され懲戒処分も免じられている。
1907年(明治40年)8月29日付の往電より。


前武官李基東、魚潭、李甲の3名は、陸軍法院に於て無罪放免せられたる。
懲戒処分を免ぜられたり。



李基東は武官では無いため、恐らくこれは李熙斗の誤りであろう。
と、いきなり話が横道のさらに横道に逸れてしまった・・・。_| ̄|○
この皇帝の譲位騒動の際に二人の面識があれば、確執はその時に始まったのかもしれないが、これは不明である。

ということで、宋秉畯と魚潭の確執について最初に報告された公文は、今回取り上げる事件が起きた2日後、1909年(明治42年)1月29日付の『憲機第199号』という事になるだろう。


一.過般韓皇南韓御巡幸の際、釜山に於て軍艦に臨幸ありし節、礼式官高義誠が、陛下の外套を艦内御室に遺忘したる事ありしと。
当時、宋秉畯は此過失の責を侍従武官魚潭(砲兵大佐)に仮し、同人を面責罵倒したることありしと。
現軍部兵器課長砲兵少佐朴斗栄は、会て宋秉畯と格闘したることあり。
最も宋と不和の間柄なりと。
而して、朴は鹵簿附将校として、今回の北韓行幸に魚潭と共に随従し居れり。

二.韓国将校の多くは、韓国軍隊の解散を以て、宋秉畯の建策に出づるものと思考し居れりと。
此故に、特に魚・朴の輩に限らず、武官の多くは宋秉畯に対し快感を有せざる如しと。

三.魚潭が客年11月、現今の侍従武官となるに就て、軍部大臣よりも寧ろ総理李完用の斡旋多きに居るとの説あり。
仮りに、現今の文武官中に李完用・宋秉畯の二派ありとすれば、魚は李派中のものたるべしと。

以上



釜山における軍艦への臨幸とは、純宗の南方巡幸途中の1909年(明治42年)1月9日、日本の装甲巡洋艦「吾妻」へ臨御した事であろう。


 装甲巡洋艦「吾妻」


魚潭との確執の発端は、この際に礼式官が外套を置き忘れた事を、宋秉畯が魚潭の責任として面責罵倒した事であった、と。
そして、魚潭とやる前に朴斗栄と既に喧嘩・・・。
軍人との不和という状態があったにしても、宋秉畯、かなり暴れん坊のようですな。
道理で李完用や金玉均等と違って、宋秉畯個人を擁護する人が少ないと思った。

かくして、1909年(明治42年)1月27日の事件へと繋がっていったのであった。


今日はこれまで。



たまにアジア歴史資料センターで、特に目的も無く、キーワード検索に「韓」や「朝」或いは「鮮」の一文字と年代域だけを入力し、ぼけーっと史料を見ていく事がある。
所謂ネタ探し。
そういう中で、新しく面白い史料が見つかったり、今までに調べた事に関連するものや、知識の中にはあっても史料を見たことが無かったものが見つかったりするのである。
このような時に、最終的な調査終了を待たずに、見つけた端から好き勝手に書き散らかしているブログってのは、実に便利なものである。(笑)
まぁ、逆に言えばそれだけ主張が纏まっていないわけで、NAVERのスレッドにするのは難しいのかな。
誰か、纏めてくれないものだろうか&上手いスレッドが出来たら、教えてください。(笑)


さて、今回見つけたのは6月14日のエントリーで取り上げた許蔿に関するもの。
『韓国賊魁ノ復権運動ニ関スル件(レファレンスコード:A04010180700)』である。


警秘第189号

隆煕2年5月19日
警視総監丸山重俊
副統監子爵曾彌荒助殿

賊魁の復権運動

一.許蔿の代理として朴魯天なるもの、左の三十ヶ条を以て統監府に交渉せんとて、安洞居李基学等に其意を通じ、京城市内に声言しつつあり。

一.太皇帝復位
二.外交権還帰
三.統監府撤去
四.衣冠復古
五.日人叙任勿施
六.刑罰権自由
七.通信権自由
八.警察権自由
九.政府組織自由
十.軍隊施設自由
十一.乙未、乙己、丁未の国賊自由処斬
十二.内地山林川沢金銀銅礦勿侵
十三.内地不動産売買勿施
十四.航海権還帰
十五.漁採利勿侵
十六.教育権自由
十七.出版権自由
十八.軍用地還皈
十九.日本人居留地還皈
二十.鉄道還退
廿一.学会以外自由解散
廿二.海関税法自由
廿三.日本人商業制限
廿四.日本人商業物品制限
廿五.日本人上陸制限
廿六.国債勿施
廿七.人民損害賠償
廿八.銀行券勿施
廿九.地方兵站撤去
三十.日本に現在する亡命客等速に捕来する事

右及通報候也。



んー、心情的に理解できる部分と電波が入り混じってますな。
まぁ、4の衣冠復古あたりは儒者の面目躍如。
13・20・26・28辺りは、最早何がやりたいのかすら分からない。(笑)
題目だけ見れば立派に思える内容でも、総てを総合して勘案すれば、恐らく李朝末期~大韓帝国初期に戻せという話なんだろうなぁ。
というか、これで交渉と考えてる当たり・・・。

こういう時、zeong氏の「恨のシステム」の話は秀逸だなぁと思うのである。



「アリラン」は大韓帝国期の抵抗歌?

7月11日のエントリーで述べたとおり、アリランには無数に替え歌が存在するのだが・・・。

仁川・済物浦(ジェムルポ)の暮らし向きは良いが、倭人にしつこくたかられて、やってられない。
嗚呼、しつこくてたまらない。
お前と2人きりで暮らすなんて、嫌だ 嫌だ。
アララン アララン アラリーヨ、アララン アオールソン


前後の歌詞、全然意味通じてないなぁ。(笑)
ま、その新聞記事を確認する必要はあるだろうね。


さて、それでは本題。
李氏朝鮮、或いは大韓帝国、そして日本統治下の歴史を研究する際、避けて通れないのがキリスト教である。
半島に初めてキリスト教宣教師が足を踏み入れたのは、朝鮮出兵の際小西行長の元に赴いた、イエズス会のスペイン人神父グレゴリオ・デ・ゼスペデス(Gregorio de Cespedes)であると言われている。
その後カトリックの宣教と丙寅教獄に代表される数度の弾圧を経て、開国後には、特に長老派(プレスビテリアン)とメソジスト派を中心としたプロテスタント諸派の宣教師達が送り込まれてくるのである。

「宗教」自体については疎いため、あまり深く突っ込まず、又朝鮮におけるキリスト教史を書くつもりは無いので、この程度の紹介に留めておこう。
まして今回紹介する史料は、「宗教」的な話はほとんど関係ないし。(笑)

ということで、丸山警務顧問から伊藤博文への1906年(明治39年)5月9日付『顧秘第350号』より。


耶蘇教布教弊害に関し、公州支部より報告せし要領、左の如し。

路傍又は山上峠にある樹木の下に石を積み之を崇拜するは、韓人の迷信と称すべきも、一面に於て樹木の保存に関し、或は夏期旅行者の慰藉となり、或は道路上の風致を為す等の利益あるに拘らず、昨年来往々之を伐採する者あり。
耶蘇教徒の所為なることを聞知し、教徒一名を警務署に召喚し取調の結果、教師の教へなりとの証言に依り、教師たる韓人申明均を召喚し取調ぶるに、斯る教唆を為したる事なしと断言し、且つ教師たる身分上、官庁に召喚せらるる義務なしとて不服を盟へ、恰も教師たる身分は不可侵権を有するものの如く思惟し居るを以て、懇々説諭を加へ放還し置きたり。
然るに、巷間の風説及教徒の証言に依り伐木の事実に徴すれば、彼れの教唆に出たる事疑なきが如し。
又独り耶蘇教に限らざるも、元来彼等輩が教徒を勧誘する手段を見るに、教徒たれば生命財産の保護を与ふべし(逮捕免れしめ、訴訟に勝たしむる等の類多し)と唱へ、官憲を無視したる言動を以て愚民を誘惑し、其罪悪を隠蔽せんとするもの、若くは遂行せんとする徒輩を集めて教徒たらしむ。
而して、之れが直接の教師は到底教誨の任に堪へざる如上輩の韓人なるを以て、却て民を不順に馴致しつつあるが如し。
之等は、施政上の妨害甚だしきものと認めらる。



んー、「教師たる身分は不可侵権を有するものの如く思惟し居る」か・・・。
新興宗教の教祖じゃあるまいし、馬鹿丸出しですな。
つうか、しょっ引いちゃえよ。(笑)
まぁ、本当に逮捕すれば恐らく「不当な逮捕だ!」と騒ぐわけで、本当に度し難いですな。

5月12日のエントリーで取り上げた二重国籍の話と、根底に通じるものがあるかも知れない。
それとも真剣に、教師は神聖不可侵だとでも思っていたのかも知れない。

どちらにしろ、この史料の一件を「耶蘇教布教弊害」と報告した公州支部には一言言いたい。

キリスト教の布教、全然関係ありませんから!(笑)



高宗と純宗、それぞれの証言が食い違う皇帝所有馬蹄銀処分事件。
本日で連載も終了。

それでは、最終的な調査報告である1908年(明治41年)2月22日付け、『憲機第91号』を見てみよう。


軍務教育課長
現役陸軍騎兵副領(中佐)正三品 尹致晟 31年

右者、明治41年2月6日、警視庁より京城憲兵分隊長へ身柄と共に事件移牒に依り、之を受け取調を為しつつあり。
其嫌疑の点は、明治40年7月中、致晟が侍従武官たりし当時、恰も海牙密使事件に伴ひ、林外務大臣渡韓問題に付、当時の皇帝(現太皇帝)に該問題解決の為めなりと密奏して馬蹄銀400個を詐取し、之を其兄尹致昭に交付し、致昭は之を3万400余円にて売却し、両人の私用に費消したりと云ふに在り。
其取調進行の状況、如左。

一.昨年陽暦7月中、致晟が太皇帝より馬蹄銀400個下賜を受けたるは事実なり。
 然して其下賜を受けたる月日は、致晟の供述に依れば、7月3、4日頃なり。

二.下賜を受くるに至りたるは、致晟が当時牙山に在る家族の窮状を数回奏上の結果、京城に家宅を購買するに充らしめられんとしたるものなる事は、本人及証人等の主張なり。

三.馬蹄銀400個は、厳妃の兄厳俊源が宮中より預り保管し居たるものを、太皇帝より致晟に与ひられたるものなり。

四.馬蹄銀の売却代金3万466円を以て、兄致昭の名義にて李根澤外5名より家屋8棟を買求む。
 此額3万1,300円。
(以降の金額との合計が売却代金を超えてしまうため、恐らく2万1,300円の誤り)
 又、天一銀行の負債、致晟及長兄致旿の分共合計6,000円を償却し、尚ほ残金3,000余円は、致昭及致晟に於て全く費消したり。
 而して長谷川大将に贈賄したる形跡を毫も認めず、又本人は、同大将に対する贈賄を全然否認せり。



さすがは最終報告。
今まで事件に関して知らなかった事が続々と・・・。

まずは、厳俊源が厳妃の兄である事。
厳妃は高宗の側室であり、英親王李垠の母である。


 李垠


次に、家屋を8棟も購入していた事。
生活困窮を理由にしていたのに、そりゃあ怪しまれますね。(笑)

では続き。


今日迄取調の結果は上記の如くにして、要するに皇帝より馬蹄銀400個下賜を受けたるは事実なり。
本件中に於て殊に取調の要目たるは、此金員取出の為め、長谷川大将の栄誉に関すべき言辞を弄し、密奏詐取したるが如きに在るも、其事実は、取調の結果之を認むるの証憑充分ならず。
警視庁に於ける本事件の基因は、侍従院副卿李会九が、太皇帝及現皇帝より致晟が当時上奏の内容を、近頃両陛下より聞知したりと謂ふに出でたることなるも、李会九其他関係者に調査を進行したる結果、右政事的運動奏聞の事実は、証憑上認むるを得ざる実況なり。
審理進行の結果は、以上の如し。
而して、韓国側の軍事警察に属する事件として、現役軍人の身分を有する本件を警視庁より交附を受くるに先だち、本職は、軍司令官長谷川大将并に副統監に対し、将来韓国側の軍事警察を取扱ふことに就き一応意見を確め置くの必要を認め、同官等の意見を伺ひたるに、軍司令官に於ては、昨年韓国憲兵隊の解散当時軍部大臣李秉武と軍司令官の間に、将来韓国側の軍事警察は、日本の憲兵にて取扱ふことに口約ありし趣にて、此事を本職と軍司令官と面談の際、幸ひ李軍部大臣も同席せしが、同大臣も之を言明せり。
尚、副統監に於ても右等の理由に依り、憲兵に於て韓国側の軍事警察を取扱ふことに何等の異議なき旨を以てせられたり。
如上、歴史的因由あるのみならず、昨年11月、韓国政府より統監に対し韓国警察権の執行に対する我憲兵の援助依頼の公文も有之。
況んや本件の内容中、長谷川大将に関する件あるを以て、韓国警視庁の本件移牒交付に応じ、之を受理するに至れり。

右本事件審理の今日迄の結果を一と先報告するに当り、併せて本事件を警視庁より引受けたる事由をも及報告候。



という事で、結果的には証拠不充分とされたのであった。
渦中の尹致晟も、翌年大韓工業会社の会長として収まっていることを見ると、恐らくは釈放されたものと考えられる。

さて、この事件。
純宗に嘘をつく理由が薄い事を考えると、本当のところはどうだったのだろうねぇ。(・∀・)ニヤニヤ


(完)


皇室所有馬蹄銀処分事件(一)
皇室所有馬蹄銀処分事件(二)
皇室所有馬蹄銀処分事件(三)



生活苦の為に尹致晟に下賜されたと言われていた、馬蹄銀の売却益。
ところが純宗は、その金はハーグ密使事件後の工作費であったと証言。
一方で高宗の証言は尹致晟と一致していたのであった、というのが前回までの流れ。

今回は、丸山警視総監から伊藤統監への、1908年(明治41年・隆熙2年)2月10日付『警秘第78号』から見ていこう。


尹致晟被告事件に関し、去8日、憲兵隊は侍従院副卿李会九に対し、該事件に就き皇帝及太皇帝より聞知したる事項を、始末書として回付すべき旨通知を発せり。
李副卿は、事皇室に関係を有するを以て後難を顧慮し、総理大臣及法部大臣を訪ひ、始末書作製に付熟議する処あり。
昨夜同副卿は、該始末書の草稿と憲兵隊の照会書とを携へ、皇帝陛下に謁見し同事件の成行を奏し、且同書類を上覧に供したり。
陛下は逐一閲覧あり、斯の通り事実相違なしとて、確乎たる御意思を表示せられたり。
李副卿は玉座を辞して立去らんとするや、陛下は、尹致晟が詐欺したる事実疑ひなし。
左れば、3万余円の金員は、回収することを得べきやとの下問あり。
副卿は突然の御下問に遭ひ其答奏に窮したるも、不取敢尹致晟の罪状確定の上は、無論回収せらるべきを信ずと奉答し、陛下は御満足の御模様ありしと。
而して李副卿は、其始末書を便宜同隊へ回付し呉るべくと依頼し来れり。
依て之を検するに、曩きに聞取りたる要領に比すれば些少の差異あるも、大体に於て其趣旨を同ふせり。
而して本副卿は、此始末書を認むるに当り、宮廷内の秘密を発くの嫌ひありと恐怖し、努めて要領を単簡に止めんとし、如此為したるものの如し。
本人より送附せし始末書は、即ち別紙の如し。
右及報告候也



恐らく、今更高宗の陰謀が明るみに出たところで、日本側が何らかの行動に出ることはなかったであろう。
こういった例は、条約書類発見と玉璽偽造事件を始めとして、枚挙に暇がないからである。
しかしながら、韓国側が恐れたのは当然ではある。


○ 別紙

尹致晟被告事件に対する始末書

本月5日午後8時頃、昌徳宮休憩所に於て警視呼子友一郎が懇嘱する所あり。
尹致晟が、太皇帝陛下より馬蹄銀400個を領受せし事に付取調ぶべく、同10時頃、太皇帝陛下に奏禀したる要領、左の如し。

臣今聞く所に依れば、昨年6月の交、日本外務大臣林董が渡韓したる当時、前侍従武官尹致晟が太皇帝陛下より馬蹄銀400個を領受したりとのことなるが、尹致晟の言ふ処に依れば、其時李根澤の所有たる校洞の家屋を買収すべく、特に下賜されたるものなりと云ふ。
果して此事ありや。
此事発覚して、今や取調中なり。
其顛末を下教せられんことを伏して奏す。
皇帝陛下勅教の要領、左の如し。
巨額の金を家屋買収費として下賜すべき理なし。
尹致晟は、其事(林外務大臣渡韓の件)を無事に済まさんとて領受し去りたるものなり。
該金を長谷川に給したらんには、尹致晟は無事なりしならんと宣へり。
其翌日午前11時頃、徳寿宮に謁見。
右の件に付禀達したるに、太皇帝陛下勅教の概要、左の如し。
昨年6月か何月か、尹致晟は彼の鄕家匪擾の為め全家挙て上京したるも、居るべき家屋なき旨、三次入禀し、李根澤所有の家舍3万円なりとの事なりしを以て、厳俊源に任置しありたる馬蹄銀300個か400個かを賜給したるも、尹致晟は太皇帝には運動費として欺奏せしやも知れずと宣へり。



前回の報告のまとめと言える内容である。
純宗と高宗、どちらの言い分が正しいのであろうか・・・。

さて、これらの話の渦中にあって単純に馬蹄銀を保管し、用途は兎も角として、高宗の指示通りに尹致昭に引き渡した厳俊源。
そうした経緯であるにも係わらず、彼は2月15日の段階で未だ拘留されていた模様である。
統監伊藤博文から副統監曽禰荒助への1908年(明治41年)2月15日付『来電第57号』より。


 曾禰荒助


第13号丸山総監の報告に依れば、厳俊源は目下拘留せられ居る由。
察するに、右の拘留は同人の保管せる馬蹄銀を、嘗て太皇帝より尹兄第に付与せられたる件に関し、取調の必要に基きたるものなる可きも、今日に至り、斯かる事件を深く捜索追究するも、左したる利益も無きことと信ずるを以て、重要なる関係なき限りは、寛大なる処置に出て厳俊源を放免する様、其筋へ訓諭あらん事を望む。



正にとばっちり。(笑)
というか、深く突っ込んでもしょうがないしと、曾禰は既にどうでも良くなっているな。(笑)


今日はこれまで。
次回完結。


皇室所有馬蹄銀処分事件(一)
皇室所有馬蹄銀処分事件(二)