皇帝譲位(五)

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盧大統領「長官問責は王朝時代の習慣」

 (前略)

また、その原因を「君王は責任を口にしながらも、実際には臣下を犠牲にし、自分自身は儀式的に責任を負うジェスチャーを見せるのみだった王朝時代の慣習に一部由来しているのではないか」とも述べた。

 (後略)


初めて私と「歴史認識」が一致しましたね。(笑)


では本編。


前回、暴動についての史料を一つ提示したが、もちろんそれだけでは収まらない。
1907年(明治40年)7月20日付、『往電第73号』では大臣危機一髪とされている。(笑)


林大臣より

昨19日午後、韓国々務大臣に対する京城の人心、一層の激動を加へ、特に鎭衛隊(近衛隊)は甚しく激昻し、同日夜半を期して宮中に乱入し、宮中に在る各国務大臣を殺害せんとするの計画を立て、形勢極めて不穏なりき。
軍部・法部両大臣は宮中を脱し、同夜11時頃、辛ふじて統監官邸に至り右の急報を伝え、併せて往電第68号韓帝の御委任により、我兵力を以て前記各大臣の保護を請求せり。
其の結果、長谷川司令官は直に我が駐剳軍に命令するに、王宮の各処所に進み、臨機の行動を取るべき旨を以てせり。
其の後、我軍隊は同11時58分を以て、夫々に配置に就きたり。
右不取敢電報す。



宮中から脱出してきた軍部大臣は李秉武、法部大臣は趙重應である。
そして韓国政府の保護請求に基づき、19日深夜11時58分に韓国駐剳軍が王宮の各所に配置に就いたと。

ますます「日本に強制的に迫られて退位」とは、何の史料に拠っているのか非常に気になりますねぇ。(笑)
もしかして、上の史料と次に紹介する史料の話でしょうか?
ということで、1907年7月20日付『往電第74号』。


林大臣より

昨夜来無事市中静穏。
旧皇帝の譲位式は、今朝8時行はれたり。
新皇帝は、本日午後4時半、我が文武官の重なるもの及領事団に謁見仰付らる旨、公然通知ありたり。



ここでもう一つ、「譲位式」に関係する公文『往電第76号』より。


西園寺総理大臣へ

昨夜宮中より勅使を宗廟に遣はし、譲位の事を奉告し、嗣て今朝7時、宮中中和殿に於て権停礼を施行(権は権利の権停と云ふ。即譲位式)し終へて各大臣を御前に召し、誠実に皇太子を輔弼せんことを依頼する旨の勅語を賜はれり。



確かに「譲位式」は、日本の韓国駐剳軍の警備態勢の中、7月20日午前7~8時に行われた。
しかし、譲位詔勅は7月18日付けで19日には既に出ており、宗廟への奉告も終えている。
そして、高宗が皇太子(純宗)を誠実に補佐しろという勅語を発したのである。


この後、前述の『往電第74号』にあるように新皇帝の謁見が行われる。

謁見についての史料の一つは、総務長官から各理事庁及び支庁、京城を除く各理事官及副理事官への1907年7月21日付の往電(付番無し)である。


昨20日午後5時半、統監閣下は我が官僚を率ひ参内の上、新皇帝陛下に謁見相済みたり。
又同時に、外国領事官(官吏の官)も統監閣下の紹介に依て謁見を遂げたり。

 (以下、謁見者の名簿の為省略)



もう一つが、1907年7月20日付けの『往電第78号』である。


内閣総理大臣へ

前電第74号の通、本日午後5時半、本官始め白、清、英、仏、独、米、伊等の総領事は新帝に拝謁し、孰れも本日譲位式を挙行せられたるに対し祝詞を言上し、又旧帝の御希望に由て一同別室に於て旧帝に拝謁せり。



統監府の官僚のみならず、各国の総領事も純宗に謁見し、且つ各国総領事は高宗にまで謁見したと。
そんな中で、李完用邸が焼き討ちされる。
1907年7月20日付『往電第77号』より。


林大臣より

今20日午後、総理大臣李完用の邸宅は、暴民の為焼払はれたり。
同大臣自身は、当時議政府に在りしを以て安全たるを得たり。
而して其家族は、附近なる「スチーブンス」氏の邸宅に避難せり。
「スチーブンス」氏及其の邸宅も無事なり。
暴民は、我兵の現場に臨むと共に鎮静せり。



「スチーブンス」とは、無論第一次日韓協約によって大韓帝国の外交顧問となった、「ダラム・ホワイト・スチーブンス(漢文上:須集雲)」である。
当然、既に第二次日韓協約に基づいて外部が廃止されたこの時、「スチーブンス」は議政府顧問と統監府事務を兼掌していたようである。(1906年(明治39年)3月24日付『統発第13号』ほか)

実は「スチーブンス」は、1907年7月11日付けの来電で、当時通商局長であった石井菊次郎の訪米に同行するため、7月17日までに東京へ来るよう依頼されてたのだが、これらハーグ密使事件から続く騒動の中、1907年7月14日付『来電63号』の伊藤博文の判断によって、京城に留め置かれていたのである。


 石井菊次郎


石井菊次郎といえば、4月6日のエントリーで記載したとおり、後に林権助、目賀田種太郎と共に、国際連盟総会第一回会議代表となる人物である。
ちなみにこの時渡米した石井菊次郎は、『外交余禄』によればカナダのバンクーバーで反日暴動に遭ったらしい。

この伊藤の判断が無ければ、李完用の家族はどうなっていただろう。
一方で、石井に「スチーブンス」が同行していれば、バンクーバーでの反日暴動は起きたであろうか。
まさか、京城での暴動とバンクーバーでの暴動。
スチーブンスはどちらかの暴動に遭う運命だった、ってことは無いよなぁ・・・。(笑)


ここでお知らせ。
先日、サーバメンテナンスの告知しておきながら、それが延びたわけですが、どうもその延びた分を7月2日から始めるようです。
予定では7月4日まで。
早く終われば3日中だそうで。
この際何日であっても、22時までに復旧していれば更新するし、そうでなければ更新しないってことで。(笑)


今日はここまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)


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皇帝譲位(四)

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日韓歴史研究 難しいからこそ

この社説を書いた記者は、もっと文字なり文章なり本なりを読む訓練をし、報告書をキチンと読んだ上で、ものを書いた方が良い。


忠北市民団体、山梨県に「歪曲歴史教科書採択しないで欲しい」

この市民団体は、もっと文字なり文章なり本なりを読む訓練をし、扶桑社の教科書をキチンと読んだ上で、非難した方が良い。


さて、前回の最後の公文において、他国への譲位の声明を依頼された伊藤博文。
この声明とは別に、7月19日に各国領事館へ照会を出している。
その照会の元となったのが、本日最初に紹介する1907年(明治40年)7月19日付『往電第68号』である。


林大臣より(後に『往電第71号』により、「西園寺総理大臣へ」に変更)

今19日午後7時15分、勅使法部大臣趙重應来って左の勅旨を統監に伝へ、本大臣及び鍋島外務総長も列座。
親しく之を聴取れり。(以下別紙括孤内)

7月19日午後7時15分
法部大臣来って左の勅命を統監に伝ふ。

譲位の事は、朕が衷心に出づ。
敢て他の勧告又は脅迫に出たるものにあらず。

朕は、十年前より皇太子をして政治の事を行はしめんとの意ありしも、時期到逹せざりし為、荏苒今日に及べり。
然るに今日、即ち其時期に逹すと思考せるを以て、朕は任意、位を皇太子に譲れり。
而して朕が此措置は、自然の順序を践み、宗社の為賀すべき事なるに係はらず、却て愚昧の臣民、其主義を誤解し、徒に憤慨し、或は暴動を企つるものなきを保せず。
統監に依頼し、此等のものを制止し、或は事宜に依り鎭圧する事を委任す。

勅使
法部大臣 趙重応 花押
勅使法部大臣趙重応所齎勅語対坐筆記為証博文



ここで暴徒鎮圧の委任の勅命を受けたのである。

ちなみに、「10年前より皇太子をして政治の事を行はしめん」はあながち嘘では無いかもしれない。
神戸大学大学院国際協力研究科の木村幹教授のHPには「1895.8.23.王太子上訴譲位」とあり、恐らくこれは高宗実録あたりの記述であろうと考えられる。
純宗が10年(正確には12年)前に譲位の上疏を為していたのであれば、高宗の考えの片隅にそれがあったとしてもおかしくは無いだろう。
まぁ、原文確認はしていないので、覚書というか参考までに記しておく。


(本文とは全く関係無い趙重応から徳富蘇峰に宛てられた封筒。日付は奇しくも7月18日(明治44年))


ここで実際に暴徒に関する史料、1907年7月19日付『往電第69号』を紹介しておこう。


西園寺総理大臣へ

今朝来、市民等店舖を鎖し各所に集合する等、人心稍々不穏の情況ありしを以て、顧問警察は厳に警戒を加へつつありしに、午後4時30分頃、韓兵の一部隊(約一中隊)兵営を脱し、鍾路に現はれ銃を放ち、補助員等(我巡査)を襲撃し、警部1、巡査3即死し、其他負傷者約三十余名を出せり。
負傷者多く、漢城病院收容治療中。



韓国軍の一個中隊程度が反乱を起こし、警部1名、巡査3名を殺害。
この『往電第69号』の報告を受けて、伊藤はようやく決断を下す。
1907年7月19日付『往電第69号』より。


西園寺総理大臣へ

往電第68号及69号に関し、本官は韓帝の御委任に依り、京城内の秩序を維持する為め相当の処置を取るべき旨、正式に長谷川司令官に命令せり。
70号の件は、各国大使、公使に可然御話相成りたし。
又新聞紙に漏さるるも差支なし。



ということで冒頭の、譲位声明とは別の照会についての話に戻る。
この照会原文は英文であり、長くなるため敢えて記載しない。
簡単に言えば、暴動が予想されることから、各領事館へ警備隊を派遣する必要の有無に関する照会である。

これに対してアメリカ・イギリス・ロシア・ドイツからの、そういう場合が来たら送ってくれという意味の回答が残されているのであった。

この他、日本政府の対外的な動きとして、1907年7月21日付『来電第154号』を見てみよう。


林外務大臣へ

在本邦英仏米大使夫々本官を訪ひ、閣下の御渡韓より韓国問題に談及し我が意向を探らんと試みたるが、本件は日々新聞紙に喧伝し、全然無関係なる返答も為し難きに付き、閣下の御旅行は、密使事件と関係なきに非ざることを述べ、韓国皇帝が密使を派遣せられたるは日韓協約の精神に反するものにして、帝国政府は其の名誉と権利に対し、併せて帝国が担任せる国際義務の関係に於て之を黙視するを得ず。
然れども、其の善後の処分は実地の状況にも由ること故、閣下に於て伊藤統監と御協議の上、定めらるべき旨を答へたるに、3大使とも帝国に於て何等処分を執るは不得已の事なるべしと云ひ、英大使の如きは韓国皇帝をして日本へ居を移さしめては如何といへり。
右は、我が意向を探知する為め発したる問ならんも、為念申添ゆ。



ハーグ密使に対する制裁処置はやむを得ないと、三国の大使からのお墨付き。

さて、肝心の他国への譲位の声明について。
1907年7月21日付『来電第158号』より。


林大臣へ

韓帝譲位の件は、韓国の各條約国に其れぞれ我が大使・公使をして公然通告せしめ、露国へは本野公使より「Un Officially アンオフヰシアリー」に通知する様取計ひ置けり。
又、譲位に関する顛末の要領は、貴訓に依り当地駐在各大使公使へ其れぞれ打明け、尚ほ新聞紙へも発表せり。



何故ロシアだけ非公式なのだろうか。
ロシアへ非公式に譲位の通告をすることで釣られるのは・・・やっぱり大韓帝国なのかなぁ・・・。(笑)


ということで、今日はここまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
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皇帝譲位(三)

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1906年(明治39年)12月10日、李完用は自ら高宗の廃立を考え、日本に同意を求めた。
1907年(明治40年)7月16日、李完用が参内し譲位について奏聞。
同年7月17日、丁未七賊と呼ばれる事となる、内閣総理大臣李完用、内部大臣任善準、度支部大臣高永喜、軍部大臣李秉武、法部大臣趙重應、学部大臣李載崑、農商工部大臣宋秉畯が参内し、譲位について奏聞。
7月18日午後5時、高宗が伊藤を呼び出すが、「譲位については関与すべき立場に無い」として断られる。
同日、各大臣再び参内。
話が纏まらず、徐正淳・申箕善・閔泳徽・李容植・李重夏・閔泳韶・南廷哲・李允用金金在豊の九元老を招集。
翌19日午前1時、譲位に高宗が同意。
午前3時、詔勅発布。
朝、官報号外で譲位を発表。
これが、前回までの流れである。

今回は、1907年(明治40年)7月19日付『往電第65号』から行ってみよう。


林大臣より。
譲位詔勅は昨18日付にして、其の譯文は別電第66号の如し。
同詔勅中「軍国の大事を皇太子をして代理せしむ」とありて、一見譲位と認め難き節あるも、当国の古例に由れば、一度王位を踐みたる国王存命中、新王は別に即位式を行はず。
前者は退隠し、後者は単に代理の名に於て国政を行ふものにして、乃ち詔勅中特に「前例を引援し倦勤伝禅」の字句あるに見るも、此回の挙が、其の譲位を意味すること明白なり。
為念電報す。



李氏朝鮮、大韓帝国の古例によれば。
無理矢理譲位させたにしては、随分甘っちょろい処置ですな。(笑)

で、次がこの『往電第65号』にも有るとおり、譲位詔勅の訳文である1907年7月19日付『往電第66号』。


林大臣より。
詔に曰く、鳴呼朕列祖の丕基を嗣守して今四十有四載なり。
屡多乱を経、治志に徯はず、進庸或は其人に非ず。
騷訛日に甚しく施措多く、時宜に乖り艱虞方に急に民命の困瘁と国歩の岌嶪(山の下に業)未だ此時より甚しきものあることなし。
慄慄危懼淵氷を渉るが如し。
幸に元良に頼り、徳器を天成し、令誉を夙彰して問寝視膳の暇裨益弘多し。
施政改善の方は、付托するに人有り。
朕竊に惟ふに勤に倦み伝禅は自ら歴代已行の例有り。
亦奥に我先王朝の盛礼も、正に宜しく紹述すべし。
朕今茲に、軍国の大事は皇太子をして代理せしむ。
儀節は、宮内府掌禮院をして磨錬挙行せしめよ。



訳文とあるように、元の文は漢字ハングル混用文である。
このアメブロでは、UNICODE表示が難しいので原文の詔勅は割愛。

簡単に要約。
高宗が王・皇帝となって統治して44年。
この間しばしば乱が起こり、志に反して統治は上手くいかなかった。
真面目に統治するのに疲れて譲位するのは、歴代既に例がある事でもあり、皇太子は徳が有り、過去にないほど民が苦しんでへばっているこの際譲位する事とする。

 高宗と純宗


同日付けの電文は、まだ続く。
『往電第67号』。


林大臣より。
韓国政府は、7月19日付公文を以て昨18日皇帝譲位の件を統監府に通牒し、且つ我が政府より本件を各国に声明せんことを照会し来りたるに付、至急其の手続を致されたし。
尚又譲位の事たる、統監より総理大臣宛電報第64号に依りて明なる如く、当方より希望したるものにあらず。
全く韓国政府当局者が、日本の要求の大なるを予期し、幾分か之を柔らげんとするの意に出たるものが故に、此旨、我が大使・公使並に都筑大使の参考の為、并せて電報ありたし。



この7月19日付公文とは、内閣総理大臣李完用から朝鮮統監伊藤博文に宛てられたもので、『照会第76号』にその訳文が載せられている。


以書翰致啓上候。
陳者本月18日、伏して大詔を奉ずるに、
(ここから、『往電第66号』と同じ)と有之候に付、茲に恭録照会致候間、照亮の上、貴国政府に転逹し、各与国に一切を声明相成候様致度此段照会得貴意候

敬具



外交権が日本にあるため、当然他国への声明は、日本政府が行う事となったのである。
これは当然速やかに行われた。
1907年7月23日付『統発第4282号』より。


以書翰致啓上候。
陳者本月19日付第76号を以て、貴国皇帝陛下御譲位に関する詔勅御通牒相成候旨、帝国政府に締盟各国政府に宣明方に就き御照会の趣了承。
右、即日電報を以て帝国政府に布告し、併せて締盟各国政府に宣明方帝国外務省へ転伝し、已に其の手続相済爾来御諒知相成度此段旁得貴意候。

敬具



今日はここまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)


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皇帝譲位(二)

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ハーグ密使事件と皇帝譲位と第三次日韓協約は、関係電文が重複や前後している。
まぁ、時期的に当たり前なんだが。
その辺の纏めや整理も含めての連載。
今回から、いよいよ直接の譲位の話となる。

まずは、伊藤統監から珍田捨巳外務次官に宛てられた1907年(昭和40年)7月19日付の『往電秘第64号』から。
ちなみに、全然本筋と関係ないが、珍田捨巳はサンフランシスコ領事時代に、6月21日のエントリーで少しだけ触れた、第一次学童隔離事件の決議を取り消させた人物である。
外務大臣の林董はこの時大韓帝国に来ていたため、次官である珍田宛なのだろう。


左の通、西園寺総理大臣に伝えられたし。
内閣大臣等は、海牙派遣の密使一件大に日本の与論を激昻せしめ、且林外務大臣渡韓の報を聞き、事頗る重大なるを予想し、此の時に当たりて政府は自ら進て何等かの措置を執らざるべからずと認め、連日内閣会議を開きたる結果、其の宿題たる皇帝の譲位を決行するを以て、最も能く事宜に適するものと為し、且之を行ふに、務めて本官の助力若くは同意を求むるを避け、彼等が自力断行を期し、一昨昨夜、先づ李総理大臣参内の上時局困難を訴へ、讓位の止むを得ざる所以を奏聞したるも採納を得ず。
其の又翌夜、各大臣一同参内し、再び同様の事を伏奏したるも、徒らに陛下の激怒に触れたるの外、得る所なくして退きたり。



成る程。
韓国政府が大事になる事を予想して、内閣会議の結果皇帝の譲位決行を最適な問題解決とした、と。
16日に李完用が高宗に言ったが聞き入れず、17日に大臣一同で参内して激怒された、と。
さて、この後はどうなるのであろうか。


然るに陛下は一昨夜、侍従卿李道宰を本官の許に派し、諮問の要件あるに付、明日午後4時、本官に参内を求めらるる旨を伝え、并に公文を以て同様の通牒に接せり。
本官以謂らく、陛下は例に由て海牙密使問題の弁疏を以てせらるるものなるべしと。
果して然らんには、林外務大臣着の上、帝国政府の意向を充分承知したる上、召見に応ずる方、得策と認めたるに由り、昨日に至り一応之が延期を求めたるも、陛下は再三本官の参内を希望せられたるに付、昨日午後5時参内したるに、陛下は海牙密使の件を一応弁疏し、且内閣大臣等の奏請に由る譲位の件を下問せられたるに付、此の如き貴皇室に関する重大の件に関しては、陛下の臣僚に非ざる本官が是非の奉答を敢てし、或は又之に干与すべき筋合に非ずとて断じて之を辞退し、尚又本件に関し、当局大臣等より何等相談を受けたること更に無之旨を附加へ、奏聞し置きたり。



高宗
ねぇ、伊藤君、来てくれよ。
密使事件は何かの間違いだったんだよ。
それなのにみんなで僕に譲位しろって言うんだよね。
どうすれば良い?

伊藤
僕知らない。

以上、簡略化。(笑)
で、誰に強制的に迫られて退位したって?


而して各大臣等は、又昨夜一同参内し譲位の事を奏するや、陛下は、朕は已に最後の決心を為せり。
卿等も飽迄防禦(我が要求に対して云ふ)の手段を講ずべしとて、頑として之を容るるの色なく、各大臣も亦之に屈せず、手強く諫奏するに及て、陛下は其の処決を明日に延期せんことを求められたるも、各大臣は外務大臣既に着京し、時局頗る切迫せりと主張し、終に元老大臣を召集し、其の意見を徴することとなり。



んー、防禦の手段って何だ?
つうか、この重大な時に決定延期って・・・。(笑)


徐正淳・申箕善・閔泳徽・李容植・李重夏・閔泳韶・南廷哲・李允用金金在豊の九元老之に会し、其の結果今日午前1時に至り、譲位のことに陛下の同意を得て、茲に議論全く一決し、勅裁を経て、同3時、詔勅を発布せり。
其の大意は、在位44年間の経過を略叙し、其の治政宜きを得ざりしこと、并に、今や国歩艱難の秋に当り、忠良を挙げ、施政改善の方法を講ぜしむる必要あり。
依て歴代の已行の慣例に由り、皇太子をして帝位を代理せしめ、其の譲位式は、古例に由り掌禮院をして調査施行せしむと云ふに在り。
右詔勅は、今朝既に官報号外を以て発表せられ、李総理大臣は臨時宮内大臣に兼任せらる。
先づ不取敢経過の大要を電報す。



(譲位を伝える7月19日付大韓毎日申報号外)


へぇ~、九元老って居たんだ。
その上で「譲位のことに陛下の同意を得て」「議論一決し」ですなぁ。
丁未七賊くらいでは足りないようで。(笑)
これが「日帝に強制退位させられた」ねぇ・・・。


今日はここまで。


皇帝譲位(一)


皇帝譲位(一)

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今月中旬から、8回にわたりハーグ密使事件関係史料を連載してきた。
このハーグ密使事件を契機に、高宗は日帝に強制退位させられた。
それが巷に多く流れる俗説である。
果たして本当だろうか、と言うことで本日より『皇帝譲位』として史料を紹介していこう。
まぁ、昨日の史料の段階で、既に怪しいもんだが。(笑)

では早速、1907年(明治40年)7月7日付『来電第57号』より。


西園寺総理大臣へ
(特別機密)

平和会議へ委員派遣の件暴露せしに付、本官は皇帝に対し、其の責任全く陛下一人に帰するものなることを宣言し、併せて其の行為は日本に対し公然敵意を発表し、協約違反たるを兔れず、故に日本は韓国に対し宣戦の権利あるものなることを、総理大臣を以て告げしめたり。



これが、韓国や北朝鮮、或いは良心的日本人の言うところの「脅迫」なのだろうか。
ここでは協約違反により、宣戦布告の「権利」があることを告げただけなのだが。
この他に『韓国併合 (著:海野福寿)』には、「斯くの如き陰険なる手段を以て日本の保護権を拒否せんとするは、寧ろ日本に対して堂々宣戦を布告せらるるの捷径なるに若かず」という記述があるそうだが、出典は何なのだろうか。
ちょっと手持ちの史料には見当たらない。
持っている方がいれば、出典史料が何なのか教えて頂きたいと思う。

尚、この総理大臣とは、ハーグ密使事件の直前の5月22日に首相となった李完用である。

 李完用


皇帝は急に、右は朕が与り知る所に非ずとの弁明せらるるも、本官は今日の事、最早虚言を弄して解決すべきに非ず。海牙に於て、陛下の派遣委員は委任状を所持することを公言し、且新聞に依り日本の韓国に対する行動を悪意的に非難したる以上は、彼等が陛下より派遣せられたることは、世界の熟知する所なりとの事を明白に申込みたり。


これが噂の高宗の言い訳。(笑)
6月17日のエントリーにおいてこの皇帝委任状の疑わしさに触れたが、その真偽ではなく、本物として公言され新聞で非難された事が問題とされている。


目下宮中は、之が為に煩悶極りなき状態なり。
昨日、総理大臣本官を訪ひ諮るに、善後策を如何に盡すべきやを以てせり。
韓国政府に於ても事態の重大なることは具さに諒し居り、内密に本官に告ぐる所によれば、事此処に至りては国家と国民とを保持せば足れり。
皇帝身上の事に至りては顧るに暇なしと、蓋し譲位(位を譲る)を意味するものに似たり。
之に対し本官は、尚熟慮すべしと答へ置けり。



高宗、見捨てられました。(゚∀゚)

しかし、ニュアンスも巷で広がっている話とは随分違いますな。
国家と国民を保持すれば良く、皇帝の身上なんか気にしてる暇なんか無いと。
さすが半年前に「此の上の手段は、当国の歴史に其実例を見る所の廃立の挙に出づる外なしと信ず。」と言ってのけた男。
伊藤もそれに対して「更に熟慮しなさい。」か・・・。


此の際、我が政府に於て取るべき手段方法(例へば此の上一歩を進むる條約を締結し、吾れに内政上の或権利を譲与せしむる如き)は、廟議を盡され訓示あらんことを望む。
譲位の事の如きは本官深く注意し、韓人をして軽挙事を誤り、其の責を日本に帰せしむる如きは固より許さざる所なり。
此の点に就ては御安心ありたし。
乍併本官思ふに、此の儘に推移せば、到底皇帝の陰謀詐略を杜絶する由なしと信ず。

本問題は、事重大に属す。
元老各大臣熟議を遂げられ、我陛下の宸庁にも逹せられんことを望む。
尚又本件に関しては、宮中苦悶の余り、密偵を日本に派し、各方面を探聞するの計画あるが故に、政府は勿論、宮内省、元老其の他各方面共に充分注意せられたし。



或権利とは、税権・兵権又は裁判権の話であろう。
その次が面白い。
「譲位のようなものは深く注意し、韓国人が軽挙に出て間違いを犯し、それを日本のせいにするような事態は許されない。」
軽挙に出て失敗するのは、金玉均の甲申政変を始めとして枚挙に暇がない。
自分に都合の悪い事を全て日本のせいにしたがるのも、現代に始まった話ではないのである。

しかしこのまま推移すれば、皇帝の陰謀詐略を杜絶する方法が無い。
意外と、伊藤もどうすれば良いか、困っているのかも知れないなぁ。(笑)

さて、この伊藤の電文を受けて日本政府は、廟議を行う。
それについての報告が、1907年7月12日付『来電第141号』である。


西園寺総理大臣より。

外務大臣宛第57号貴電の件に関しては、元老諸公及閣僚とも愼重熟議の末、左の方針を決定し、本日御裁可を受けたり。
即ち帝国政府は現下の機会を逸せず、韓国内政に関する全権を掌握せんことを希望す。
其の実行に就きては、実地の状況を参酌するの必要あるに依り、之を統監に一任すること。

若、前記の希望を完全に逹すること能はざる事情あるに於ては、少くとも内閣大臣以下重要官憲の任命は、統監の同意を以て之を行ひ、且統監の推薦に懸う本邦人を内閣大臣以下重要官憲に任命すべきこと。

前記の趣旨に基き、我が地位を確立するの方法は韓国皇帝の勅諚に依らず、両国政府間の協約を以てすること。

本件は、極めて重要なる問題なるが故に、外務大臣韓国に赴き親しく統監に説明すること。

本件に就きては、陛下より閣下に対し特に優渥なる御言葉あり。
委細外務大臣より御伝逹致すべく、同大臣は来る15日出発。
貴地へ直行の筈。



むー。
譲位については何も書いてませんな・・・。
但し、韓国内政に関する全権を掌握せんことを希望す、と。
ハーグ密使事件関係史料」か、この次連載予定の「韓国軍解散」で扱えば良かったかな?


ということで、今日はこれまで。


伊藤の憂鬱と高宗の憂鬱

テーマ:

いや、タイトルに深い意味は無い。(笑)
昨日は、『1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)』から閔妃殺害事件に関する部分までを取り上げた。
本日はその続き。


陛下
我政府臣僚、学識経験に乏しく、統監が斯迄我国の為に盡瘁したるに拘はらず、我臣僚の能く之に応じて其実績を挙ぐること能はざりしは、嘸そ統監の遺憾且不満足とする所となりしならん。
朕も亦、深く悔とする所なり。

統監代理
否。
統監の不満足とする所は、決して只今陛下仰の如き、政府大臣の学識経験等の不充分なるに原因するものとは認め不申。
何となれば、貴政府大臣が政治上経験に乏しきが如きは、素より承知覚悟のことなれば、敢て之に対して不満足を抱くには無之して、要は宮中府中の別、明ならず。
従って陛下は、些末の事項、即ち各部判任官の任免若くは一兵卒歩哨の位置にまで干渉せらるる如きことあり。
是れ決して施政改善の実を挙げ、国運の発逹を図らるる途にあらずして、即ち統監が斯くては到底其忠言勧告の克効く実を奏すべき所にあらずと為す所以なりと信ず。

外臣は、是れ一介の武辧。
未だ曾て行政上何等実歴なしと雖、此際陛下は宮中府中の別を昭にし、府中の事、専ら之を参政大臣に委し、参政大臣は其意気相投合する所の閣員を統率して行政の責に任じ、各部に於ても亦、其の主務大臣其部僚に才能を挙げ、之を率ひて以て各其主管事務を遂行せしめ、又宮中の事の如きは、宮内大臣をして之を専管せしめらるる等、陛下は一に其大綱を総攬し、且其の御名に於て発布する法律勅令を、御親裁せらるるこそ治国の要義と認むるなり。



何度同じ高宗への忠告を目にしただろうか。
但し、伊藤の5月1日のエントリー、そして6月23日のエントリーに見られる忠告よりも、長谷川のこの時の発言はさらに分かりやすい。
「明治憲法」下における明治天皇と同様の役割、即ち立憲君主と成ることを期待されていたのであろう。
しかし、現代における韓国や北朝鮮のトップですらあの状態であり、土台無理な相談である。(笑)


陛下
然り。
我国古来因襲の久しき動もすれば宮中府中を混合し、今卿の奏言の如き弊なきに非ず。
然るに昨年来、一に此弊を矯めんと欲し、注意を払はざるにあらずと雖、時に未だ旧習を蝉脱せざるものあるを悔ゆ。
此後は、一層之を励行し、遺憾なきを期せんとす。
卿其れ之を諒せよ。

統監代理
斯く陛下が外臣の蕪言を御嘉納相成るに於ては、実に貴国の為め慶賀に堪へざると同時に、正任統監も此事を聞かば、定めて満足し、喜んで再帰任することに躊躇せざるべしと確信するなり。



ぬか喜びだよ、長谷川。(笑)

この後、高宗と長谷川の間で二、三の問答があったようであるが、重要ではないとしてこの報告書でも省略されている。
また報告には会食についての記載があるが、席順などの話であるため省略する。
こうして謁見は終わるのだが、この報告には附言が付いている。


附言
翌10日、李学相は統監代理を訪問し、先づ政海の現状を述べたる上、伊藤統監再度来韓何れかして陛下の性格を矯め、国政改善の事をして奏効せしめんと熱心に盡力せられたるも、終に最後に陛下の性格を充分了解せられ、終局救済すべからざるものと認められたるに相違なしと信ず。
予等も、多年君臣の情誼として種々其手段を執り、聖意を飜すに努めたりと雖、到底無益なることを曉れり。
就ては、此の上の手段は、当国の歴史に其実例を見る所の廃立の挙に出づる外なしと信ず。
乍去、此事たる表面日本側に相談し其同意を得たりとせば、事態甚だ面到なるに付、予等三、四同志の間に断行し、累を日本に及ぼさざること肝要なり。
乍去、少なくとも裏面には、日本側の同情を求め置く必要ありと述べ、統監代理の意見を求めたるに対し、



勿論、李学相とは当時学部大臣であった李完用である。
彼の言によれば、高宗の性格を充分了解すれば、救済すべきでないという結論に至るらしい。(笑)
また、君臣の情誼で色々やってみたが無益だった、と。
挙げ句に、韓国の歴史にその実例を見る事のできる、廃立という手段以外に無いそうで。
しかも、「日本側の同情を求め置く必要あり」である。

「日帝は高宗皇帝を強制的に退位させた」と良く言われる1907年7月19日まで、まだ半年以上もある1906年12月10日に、李完用は既に廃立を考え、日本側の同意を求めていたようですな。
さて、長谷川はこれにどう答えたのか、続きを見てみよう。


統監代理
御意見は一応御尤なるも、其の事たる事態頗る重大にして、貴国に己往斯る歴史ありとするも、今日に在っては、世界一般の情況に鑑みざるべからず。
近世に於て列国中未だ如此き事例を見ざるのみならず、縦ひ貴国人のみにして之を実行せらるるにせよ、世間の視線は、矢張背後に日本ありて之を為さしめたるものと認むるは必然なり。
尤も斯く認めたりとて敢て恐るるには非ざるも、其は予め覚悟せざるを得ず。
然るに予は、事の此に至らざる前、今一事為すべきことありと信ず。
他にあらず昨日謁見の際、陛下との問答(此時前記謁見の始末を詳述せらる)の結果、宮中府中の別を明かにすることに付、陛下は一々之を嘉納し、且つ之を励行せんことを仰せありたるに依り、其質言を空ふせざらんが為、予は一つの詔勅を参政大臣に対し煥発せらるる様致さん考なり。
幸に参政大臣も昨日其席に参列し、新しく傍聴せられたることなれば、よもや異存あるべしとは思はれず。
先づ、右の詔勅を発布せられ、且つ之を実行せられんことに努め、而して猶ほ毫も其効果なきに於ては、貴大臣の抱かるる意見を実行せらるるも万止むを得ざるべし。
併し其は将来機会に譲り、先づ以て前述の手段に出づること穏当にして、宜しく試むべき一つの順序なりと思考するなり。



高宗を信じても一つも得るところはないぞ、長谷川。(笑)
というわけで、廃立を主張する李完用は、9日の謁見に関連した詔勅を発布するから様子見ろやと長谷川に諭されたのである。

つまり、李完用は謁見の中身を知らないまま、廃立について考慮していたという事である。

まぁ、結果として「猶ほ毫も其効果なきに於ては、貴大臣の抱かるる意見を実行せらるるも万止むを得ざる」事態となり、「将来機会」は半年後に訪れるのだが。


李学相は大に之を賛同し、左すれば先以て詔勅のことに就き、朴参政と協議の上、速に其運に相成らんことを希望する旨を申出たり。

越へて翌11日、統監代理は朴参政大臣と会見し、詔勅のことを提議せらるや、朴参政は直に之に同意したるも同官は、其地位の上より自ら権力集中を図るものと、他をして誤解せしむること無きを保せざれば、各大臣列席の上にて相談を受けたき希望を述べ、且つ詔勅文の大要を起草し示されんことを求めたるに付、統監代理は之を諒とし、更に翌12日午後3時(水曜日各大臣参内日)を卜とし、各大臣と会合の結果、各大臣孰れも皆賛成の意を表し、別紙甲号詔勅案に対し多少の修正を加へ、之を携へ宮中に進み御前会議を開き、右詔勅案に対する陛下の御裁可を経て、乙号の詔勅を本月15日の官報に其発表を見たる次第なり。

詔勅(日本語訳)
朕惟ふに、宮中府中の別を昭にし、行政の機能をして其運用を愆らしむること莫く、大小官吏は各其職務権限を明にし、之をして責成せしむるを治国の要義とし、夙に洪範第十四條中第四、第五両項を宣明し、朕が祖宗列聖の霊に誓告し、嗣又之を有司に申複する所あり。
今や施政改善の事、漸く其緖に就かんとするに当り、益之を現実ならしむるの要を認め矢って、之を励行せんとす。
而して、府中の事に至っては卿現に其首班に在り。
宜しく克く朕が意を体し、官規の定むる所に従い、在廷臣僚を率いて行政各班の責に任し、同心協力其実績を修擧せよ。
宮中の事に至っては、朕又別に其の材を揀ひ、専ら之に任じ、益肅淸の実を挙げしめんとす。
卿其れ之を諒し・(日+助)よ哉。



Σ (゚Д゚;)
洪範14条は、まだ生きてる法律だったの???
どれ一つとして守られていないから、廃案になったかと思ってましたよ。(笑)
この時期まで洪範14条が生きていたなら、あれやこれやかなり面白いなぁ・・・。


ということで、閔妃殺害事件と皇帝廃位の二つが楽しめる、まさに一粒で二度美味しい史料でした。
そして、この李完用の1906年12月10日の発言を前提として、次回からの連載『皇帝譲位』に繋げられると。
うーん、我ながら華麗な連携。(笑)



韓国と北朝鮮、第2次日韓協約の「無効性」確認

クスクス。
昨日の記事は、天啓かな?(笑)


今回は、あまり放っておくと忘れてしまいそうなので、この際書いておこうと思う話。
そのネタは、再び閔妃殺害事件に関係する史料。
もちろん、以前4回にわたって紹介した史料とは、全く別の史料である。

それが、『1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)』。
それでは早速。


陛下は、再三長谷川統監代理召見の思召ある趣、宮中より内報ありたるも、統監代理は病気と称し、姑く其の謁見の機会を遅緩ならしめ居らるる際、幹部将校会議に列する為め、来京中の各方面の幹部主任将校も其の任務を了し、不日帰途に就かんとするに当り、拜謁を希望せる折柄恰も好し、本月九日午後三時半、陛下の思召に由り統監代理を召見せらるる旨、宮内大臣の通知に接し、当日統監代理は、前顯将校井口砲兵中佐以下十一名を帯同し、参内式の如く統監代理は井口中佐以下将校を一々陛下に御紹介し終って、陛下と統監代理との御談話の大要如左。



陛下
顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。
然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。
夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。
最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。

今日、東洋の形勢に鑑みるに、日韓両国は将来益々交誼を敦睦ならしめ、其提携の実を明にし、他をして間隙を窺はしむることなきを要す。
故に、朕と卿との間に於ても努めて誤解を避け、情意を疏通するにあり。
就ては、朕に於て疑はしきことあらば、直接之を卿に確めん。
卿も亦、之と同一の方法に出んことを、切に望むなり。



王妃殂落(死亡)事件は、高宗の臣僚中の不逞の徒が行ったと、自ら述べていますな。

まぁ、岡本柳之助や杉村濬が積極関与し、この事件自体にも多数の日本人が係わったのは、当然否定するものではない。
しかし、朝鮮人自身のこの事件への関与は、従来あまりにも軽視されて来たと思うのである。


統監代理
王妃殿下の事変に関しては、今日にして三回陛下より拜聞せり。
其都度奉答したる如く、外臣頗る此事変の弁解に苦しむ者なり。
乍去、是れ全く我政府若くは国民の意思に非ざることは、茲に断言するを憚らざる所なり。
又陛下の聴明、夙に御認識相成る所にして、従って為之国際上甚しく感情の衝突を見るに至らざりしは、全く陛下御宏量の然らしむる所にして、両国の幸福不遇之なり。
今外臣の上言せんとする所のものは、今回統監は、大に満足を齎らして帰国せるものと御信用相成居れるやに洩れ聞く統監の意、盖し然るやも知れず。
然るに外臣の察する所にては、統監は決して満足帰したるものに非ず。
何となれば、其出発前、外臣が親しく統監に承はる所に拠れば、今春来任以来、予は韓国施政改善の衝に当り、内閣大臣等を指導し、誠意赤心を注ぎて陛下に忠諌する所あり。
且又全力を盡して之が実行に従事したりと雖、更に其効を奏する能はず。
斯る状態にあっては、到底予の力の及ぶ所に非ざれば、陛下の御隨意に放任する外なし。
乍去、今日に於ける日韓の関係は、日本の責任上、無為にして終る能はざるが故に、予は帰朝の上猶ほ熟慮を加へ重ねて、来るの日は何等かの手段を執るやも測られず云々由之観是統監の意中察するに余あり。
陛下に於られて宜く、深思御熟慮あらんことを要す。
外臣任に闕下に駐すること、茲に二年有余。
日常に陛下の殊遇を荷ひ衷心感謝に堪へず、故に敢て聖意の程をも憚からず、此言を奏して以て陛下の御考慮を促す次第なり。



この謁見は、ハーグ密使事件の前年、1906年(明治39年)12月9日に行われた。
就任から半年で「このような状態では、到底私の力が及ぶところではない」と言わせるとは、一体大韓帝国で何があったのだろうか。
いや、見当はついてるけどね。(笑)

この史料はこれ以降も続いており、それがまたなかなか面白いので、明日改めて続きをエントリーしようと思う。
但し、本日記載した部分以外は閔妃殺害事件に関連する記述ではないので、別なタイトルを付けることになるだろう。


さて、閔妃(明成皇后)殺害事件について。
李泰鎮教授の重視する『機密第36号』と『機密第51号』及び『附属地図』を基本とし、そして以前取り上げた『往電第31号』と『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』を見ていくと、単純に一つの説が出来上がる。

附属地図』から、閔妃は「図中に示せる(1)の所より(2)の所に引出され、此処にて殺害に遭われた」。
図中の(1)とは長安堂であり、高宗の居間である。

『機密第36号』には、「然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き、処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の脚座に進み御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い、大手を張って大字形をなし「此処は国王陛下の宸殿なり。立ち入るべからず」と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より「国王及世子丈けは、必ず助命し呉るべし」との依頼ありたるとかにして、一仝異議なく、其場を立退きたりしかば、国王及世子は、身を振はして荻原の両腕に取りすがりつつ、頻りに保護を頼み給いたり。」とある。
つまり、壮士輩は(1)の場所に入っておらず、且つ高宗と純宗は現場に居た。

在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』において禹範善は、「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白

純宗は『往電第31号』で「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」と述べる。

そして高宗は、今回の史料における「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」。


即ち、閔妃は高宗と純宗の目の前で朝鮮人によって高宗の居室から引出され、禹範善の命令或いは禹範善本人により殺害された事件であり、それは純宗も目撃していた、と。

李泰鎮のように、『機密第51号』及び『附属地図』を重視すると、こういう結果になりますがどうしましょう?(笑)


「次のような解釈も可能」「推論も可能」「余地がある」「思っています」。

韓国国史学の権威である李泰鎮の学問基準から言えば、史料記述のみからなる私の説は、李泰鎮の珍妙な盲説以上にマスコミで発表するに足りますね。

勿論私は、先行研究の調査・検討については不充分であり、さらに「恥」を知っていますので、「新発見」などとは口が裂けても言いませんよ。(笑)


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)
閔妃殺害事件史料(三)
閔妃殺害事件史料(四)



笑えるネタ史料を探したのだが、そう簡単に見つかる筈も無く・・・。(笑)
まぁ、真面目に書いておきましょう。
という事で、本日のネタは第二次日韓協約(乙巳条約)についての関連史料。

1905年(明治38年)11月27日、第二次日韓協約(乙巳条約)が締結されたのは、当ブログの読者には説明するまでも無いと思う。
そして、この第二次日韓協約を違法あるいは無効としているのが、李泰鎮を始めとする韓国側の見方である。
きちんとした反論は、原田環教授を始めとして既に為されているため、今回は状況証拠的な史料について紹介しよう。

まずは、1906年(明治39年)1月27日付『韓国報聘大使参内謁見并御会食次第』より。


 (本文は儀礼式典に関する事のため省略)

○ 別紙一
韓国皇帝御親書譯文
大韓国皇帝、敬て大日本帝国皇帝陛下に復す。
朕惟るに陛下大局を睠顧し、平和を懋昭し、曩きに樞密院議長正二位大勳位侯爵伊藤博文を簡選して大使と為し、前来并寵翰を賚到せしめらる殷勤摯肫欣荷良に深し。
朕仰て厚意を礼し久きを歴て已まず。
茲に朕の篤く信ずる所の懿親の臣、正一品完順君大勳位李載完を特派して報聘大使と為し、朕が誠を代達せしむ。
竊かに冀くは、陛下特に延接を賜ひ、礼遇を優加し、朕に代て衷款を輸瀉する有る所を、陛下深信傾納し、益友睦の誼を敦ふし、共に昇平の福を享けんことを、陛下福祉時若を順頌す。

光武十年一月十四日
右 漢城 慶運宮



○ 別紙二
韓國報聘大使言上振
使臣 本国大皇帝陛下の欽命を奉じ、大使の任に充当して貴國に前来し、報聘を獲修す。
敢て耿光に近づき、藉て邦交を敦ふし、与りて栄幸を有す。
伏て陛下福禄旡疆永く昇平を享け給はんことを祝す。

 (以下報聘大使随員名簿のため略)



へぇ。
報聘大使ねぇ。(・∀・)ニヤニヤ
もしかして、この親書も偽造ですか?(笑)


そして、第二次日韓協約に基づき初代統監となったのが伊藤博文である。
伊藤は1906年(明治39年)3月2日に京城へ到着した。(『6 明治39年2月26日から明治43年5月31日(帝国ニ於テ韓国ニ統監府並ニ理事庁設置一件)(レファレンスコード:B03030226600)』より)

3月9日。
伊藤博文は、韓国統監として初めて謁見する。
1906年(明治39年)3月10日付『統監謁見の状況』より。


昨九日、統監謁見の状況として左の如く聞知す。
一.当日韓皇陛下は、統監入闕に先ち参政大臣・宮内大臣・礼式院卿・侍従武官長・皇太子附伴従武官長等を召され、陛下の左右に侍らしめ、統監に謁見を賜はりたり。

一.統監は、国分書記官を従へ謁見せられ、新條約締結以来の挨拶あり。

続て統監は語を改め、今回博文が日本天皇陛下の命を奉じ、貴国に統監として赴任したるは、他意あるにあらず。
則ち日韓両国間の国交をして、益々親密融和せしめんが為めにして、之を大局より申せば、東洋永遠の平和を維持せんことを目的とす。
故に博文は、今後陛下に直奏し、或は当局大臣等と協議し、貴国今日の衰運を挽回し、独立自営の域に達せしめんことを期すべし云々。

而して、再び統監は語を継ぎ、左の数項を奏上せられたり。

一.博文が、統監として貴国に対し指導経営すべき事項に就ては、決して世界の批難を招くが如きことを為さず、列国賛同の裡に貴国の進運に努力すべければ、陛下必ず御安慮を仰ぐ云々。

一.貴国に於て改良発達を図るべき事項は多々あるべしと雖も、政治上の改革は、其の最も急務とする処にして、且之を実行せんには今日を以て最適当の時機たるを信ず。

一.政務一般の改善に伴ひ必要なるは、官吏其者の人物如何に在り。
故に陛下は特に官吏を任命せらるるに当り、人物を選択することに一層軫念あらせられ、之と同時に、官吏をして充分の責任を負はしめ、以て政務を革新せしめられんことを冀望す云々。

陛下は、統監の奏上に対し一々首肯せられ、且我国の現在は適良の人物を有せざれば、将来教育に盛ならしめ、人物養成の途を講ぜんことを希望す云々。



官吏を任命するに当たっては、人物選択に心を砕き、同時に官吏自身に充分責任を負わせ、政務改革をしよう。
この時の伊藤の基本理念であった事は、5月1日のエントリーにおける、伊藤の「政府当局者に任して、其の責任を取らしめらるる様ありたき旨」等を見ても明らかである。
要するにこれは、当時の日本と同じ「立憲君主国家」の成立を見据えた忠告ではないだろうか。
まぁ高宗は、伊藤の小言とでも思っていたんだろうが・・・。

これらが、韓国が言う処の強制によって結ばれたから無効と言う協約後の、報聘大使の謁見と統監の謁見なのである。



さて、今回でハーグ密使事件関連史料も最終回。
事件とその後について、最後の史料をお送りしたい。
それでは早速、1907年(明治40年)7月4日『来電第125号』より。


都筑来電第30号左の通

往電第33号に関し、三名の韓人は、其後引続き当国外務大臣各国委員を歴訪したり。
然れども誰も取合ふものなし。

昨日、其の居処を突留めたるに付、早速人を派し内偵せしめたる所、右は前議政府参賛李相卨(咼の上にト)、前判事李俊、前公使館書記官李瑋鍾の三名にて、同人等の謂ふ所に依れば、李相卨(咼の上にト)は韓帝に謁見を遂げたる後、4月20日頃李儁 (俊) と共に韓国を出発し、浦塩に出て病気に罹りたる為、暫く同地に滞在し、其れより西比利亜鉄道に依り西行。
露境にて李瑋鍾と落合ひ、三人同道6月25日当地に着したるが如し。
尚、同人等は韓帝の全権委任状を有すと謂ひ居れり。
引続き内偵中なり。



誰も取り合うものなし。

ところで、6月17日のエントリーでの日を追った報告と、密使の言葉。
どちらが正しいんですかねぇ。(・∀・)ニヤニヤ

次に紹介するのが、上記『来電第125号』と同日約一時間後の『来電第127号』。


佐藤公使来電第34号

当地に於ける韓人三名の件に関し、蘭国外務大臣は数日前、同大臣に書面を送りて会見を求めたるも、同大臣は彼等に対し、本官(佐藤公使)の紹介に依るに非ざれば之を引接することを得ざる旨、回答すべしと語れり。



佐藤公使とは、恐らく在和蘭特命全権公使佐藤愛麿であろう。
ここでも相手にされてませんね。


ハーグでの一件の後、三人の密使とハルバートはどうしたのか、軽く触れておこう。
密使事件の最中の7月4日、ハルバートがパリで対日非難を行っている旨の報告が、『都筑大使来電第34号』により寄せられている。

この後、6月16日のエントリーの『来電第149号』のとおり、7月15日に李儁は病死。

1907年7月18日付『来電第151号』では、ハルバートと李瑋鐘等のその後の行動について記載されている。


「ハルバート」は、倫敦に赴くと称して出発せり。
李瑋鍾は、其の妻(露国人)病気重態の報に接し露都に赴ける由。
両人共、近日米国に渡航し、日本反抗運動を続くる予定なるが如し。



李瑋鍾自体を知らない方が多いと思われるので、当然さらに知っている方は少ないだろうが、李瑋鍾は、春生門事件及び露館播遷の首謀者であり、代表的な親露派の李範晋の息子である。
李範晋は駐露韓国公使であったが、その息子が公使館書記官ねぇ・・・。
現代の盧武鉉政権のコード人事など、足下にも及ばないな。(笑)

そして1907年7月22日付『来電第157号』。


都筑大使来電に依れば、過般露都に赴きたる韓人李瑋鐘は、(イムジンタイ)と称する韓人と共に海牙に帰来し、同地に滞在せる韓人と共に、総て三名7月19日海牙出発倫敦に向ひ、三日間滞在の上紐育に赴き、同地にて二週間滞在の予定なりと云ふ。


と言うことで、アメリカへ行き、反日活動を継続したのである。

その後李瑋鐘は、1908年(明治41年)11月25日付『高秘発第17号』に姿を現す。


 (前略)

一.海牙平和会議に現はれたる李瑋鐘は、父李範晋より暴動資金一万円を得て、本年3月頃浦塩港に来りしが、其中約金二千五百円を酒食の費に使用し、為めに声望を失墮し、月を越へて露都に去れり。

 (後略)



・・・。
暴動資金使い込み・・・。
どうりで若手の李瑋鐘が、この後全く名前が出てこないと思った。
まぁ、いつもの話だね。

えーっと、李相卨(咼の上にト)の方は、1909年(明治42年)8月26日付『憲機第1673号』。


 (前略)

七.排日党の李相卨(咼の上にト)(海牙密使の一人?)、鄭在寛は陰暦6月3日、米国より浦塩に帰来せりと。
其目的は秘して語らず、単に学校設立の目的を有し来りたる者なりと云へりと。
右両名は、是迄浦塩に帰来せんことを希望しつつありしも、旅費に窮し、其意を果さざる者なりしが、今回は米国在留の労働者より旅費の補助を受け、帰来したる者なりと云ふ。

 (後略)



旅費は米国在住の労働者から補助を受けましたが、学校を建てに浦塩に戻って来ました、と。(笑)
まあ、李相卨(咼の上にト)は1916年まで反日活動をするのだが、何とも哀愁漂うエピソードではある。


さて、今回を以て連載『ハーグ密使事件関連史料』を終了する。
次の連載は密使事件に続く事件であり、巷ではそれを契機に日本が高宗に迫って行ったとされる、『皇帝譲位』の予定である。
史料纏める為に何度かネタ話(笑)を挟んだ後にお届けしたい。

では、また。


ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)
ハーグ密使事件関連史料(四)
ハーグ密使事件関連史料(五)
ハーグ密使事件関連史料(六)
ハーグ密使事件関連史料(七)



韓国大統領 到底理解できない

日本の教科書検定制度について、ノ・ムヒョン大統領は、「歴史教育は国が価値観を教えるものではないか。これは、どの国にも共通したものだ」と述べ、日本政府の対応に不満を示しました。
そのうえで、ノ・ムヒョン大統領は、国定教科書の韓国と状況が違うとする日本側の説明に対し、「日本政府は介入できない、著者の自由だというが、わが国の国民には到底理解できない」と批判しました。



いや、お前等とは理解しあえなくても良いから。
全く期待してないから。
勝手に思想教育でも言論統制でもやってて下さい。
教科書検定制度ですら批判していた謀新聞某政党は、これに対して激しく反発すべきだろう。
まぁ、扶桑社の教科書の一件を見ても、もう馬鹿を晒しており、今更恥を恥と思わないだろうがね。(笑)


隣国の阿呆な指導者の阿呆な発言に呆れつつ、ハーグ密使事件については、『日本外交史人物叢書 第14巻 都築馨六伝』でも見てみると面白いのかなぁと思い、手に入らない悲しさを嘆く今日この頃。(笑)
目賀田種太郎の時も、似たような愚痴を言っていたなぁ・・・。
ま、自分に出来る範囲で出来ることをしよう。
ということで、第七弾をお送りします。

 第二回万国平和会議


まずは、伊藤から林外務大臣に宛てられた、1907年(明治34年)7月3日付、『往電第55号』より。


貴電第109号に関し、海牙に於て運動中なる韓人三名の姓名は、何と云ふや。


『貴電第109号』とは、昨日紹介した史料である。
この『往電第55号』は、それに対する照会という事になるだろう。


彼等の背後には、米人「ハルバート」なるものありて指揮するものと信ず。
果して然るや否や。



伊藤が、「ハルバート」を疑わしく思っていたのは、「ハーグ密使事件関連史料(四)」で紹介した1907年5月19日付『往電第31号』から読み取れる。


又右の韓人は、韓国皇帝陛下の勅命に依り、平和会議委員たるの待遇を享けんとして盡力するや否やを確むる様、都筑大使へ電訓ありたし。
韓人の姓名は、都筑より「ネリドフ」に尋ぬるも可なるべく。
姓名判然したる上は、時宜に依り都筑に於て、右三人に面談して直接勅命に基くや否やを聞糺すも差支なかるべし。



「ネリドフ」は、ハーグに派遣されていたロシアの首席委員である。
そして、次の記述が問題とされるのである。


右の運動、果して勅命に基くものなれば、我が政府に於ても此の際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時機なりと信ず。
即ち、前記の陰謀確実なるに於ては、税権・兵権又は裁判権を吾れに収むるの好機会を与ふるものと認む。
之に関する愚見は、時局の発展に依りて提議すべし。

尚又貴電第118号所載、露国外務大臣より、「プランソン」に対する訓令は、果して之を発し居るや否や、其れとなく同人に聞糺す積なり。



曰く、韓国に対する局面を一変させる行動をとる、絶好のチャンス。
曰く、税権・兵権又は裁判権を、われに収めるチャンス。
何も考えていない人がこの文章だけを読めば、朝鮮の独立を奪う為に内政権を掌握するチャンスとしたと思ってしまうであろう。
しかしそれでは、「第二次日韓協約に違反して、チャンスを与えた馬鹿は誰よ?」と簡単に切り替えされてしまう。

さらに細かく言えば、税権については、従前の大韓帝国の方式では、私腹を肥やす者が多数居り、まして日本に多額の借款がある状況では、税制あるいは徴収方法の改革については急務である。
兵権については、軍隊解散として後日詳細を記すが、これは単純に人件費ばかりかかる旧式軍隊を解散し、当時の日本同様の徴兵制による軍隊の確立を目指す改革。
裁判権についてが、一番分かりやすい。
元々日本人については治外法権だからである。
当然これも従前の大韓帝国の出鱈目な、前近代的裁判或いは監獄制度の改革が目的と解するのが、最も妥当であろう。
という反論も容易に出来るのである。

そこで韓国などが、第二次日韓協約自体が無効であるという、馬鹿な話を妄想するのである。


一方、当ブログの読者諸氏には、5月1日のエントリーにおける、伊藤の「陛下が総ての政事に干渉せらるるの不可なる所以」という忠告を思い出してもらいたい。
この時の密使については見逃してやった。
総ての政事に干渉せず、政府当局者に任せて、彼等に其の責任を取らせる様に忠告もした。
密計陰謀も止めるように言った。
あれから丁度一年なのである。

たまに問題視される史料なので、力が入ってしまった。
次が、上記『往電第55号』に対する回答である、1907年7月3日付、『来電第123号』となる。

都筑大使来電第33号

往電第26号に関し、本官は「ネリドフ」氏と会見せり。
氏の談に依れば、曩に「イズウオルスキイ」外務大臣より氏に予告するに、韓人二名韓国皇帝の書翰を米国大統領に手交せんが為と称して、米国に旅行の途次、海牙に赴くの風聞あるを以てし、且是等韓人と何等の関係を有すべからざる旨を訓令せる由にて、隨て昨日、本人等が氏を訪問せるに際し、氏は面会を謝絶し、苟くも当平和会議委員として和蘭政府よりの照会あるものに非ざれば、何人をも委員として待遇することを得ざる旨を通じ置けりと言へり。
右韓人中の一名、昨日米国委員「ポウタアー」将軍に会見を求めたるに、同将軍も亦之を謝絶せり。
目下当地に滞在中なる「ウヰリアム・ステツド」氏は、本官に語るに、彼等韓人は、桑港問題の為日米両国の関係切迫せるものと信じ、十分に此の機会を利用するの意思なりと公言し居る旨を以てせり。
是れ蓋し、前述韓人が昨日「ポウター」将軍を訪問せる所以なるべし。
三名の中一名は、以前在露韓国公使館書記官たりしものと思はる。
其の他の二名は、何地より来れるや「ネリドフ」氏も之を知らずと謂ひ想ふに、彼等は露境を通過し来るものに非ざるべしと語れり。
「ハルバート」が韓人一行中かあるや否やは、未だ本官に於て確むることを得ず。



前段部は、以前の電文報告と変わらない。

ウイリアム・ステッドの語った桑港問題とは、恐らく1906年の第二次学童隔離事件と、それに伴う1907年3月のハワイ・メキシコ・カナダからの日本人の転航移民を禁止する大統領令の一件であろう。
これについては、1908年2月までの日米紳士協約によって一応の解決を見る。
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shinshi.html


この対立を、大韓帝国が利用できると思っているところが既に愚かなのだが、それは今更言及しても仕方あるまい。
というか、言及するまでもない、か?(笑)


今日はここまで。


ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)
ハーグ密使事件関連史料(四)
ハーグ密使事件関連史料(五)
ハーグ密使事件関連史料(六)